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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2017年バックナンバー(2)


「隣人を自分のように愛しなさい」2017.11.12
「心の貧しい人々は幸い」2017.11.5
「さあ、婚宴においでください」2017.10.29
「私の息子なら」2017.10.22
「この最後の者にも」2017.10.15
「七の七十倍までも赦しなさい」2017.10.8
「わたしもその中に」2017.10.1
*2017年4月〜9月の「今週の聖句」はこちらへ。

  隣人を自分のように愛しなさい
2017.11.12 神ア 伸 牧師
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
(マタイによる福音書 第22章37-39節)
主イエスは今朝、ただひたすらに、神への愛の掟、隣人への愛の掟をお語りになる。神の言葉である聖書は、このふたつにかかっているのだ…! と。

全身全霊で神を愛しなさい。自分のように隣り人を愛しなさい。あなたは、愛することへと集中しなさい!

律法の専門家は、当時、自分たちがしなければならないと定めた六百あまりの戒め、掟の中で「どれが最も重要でしょうか」と訊ねました。明らかに議論をふっかけた。主イエスを試そうとしてのことです。

けれどもここで、第一、第二と、主イエスはふたつお応えになった――。どちらがより重要かと優劣をつけておっしゃっているのではありません。

神を愛する者は、隣り人を愛している。隣り人を愛する者は、神を愛している。これらはひとつのことだ。

そして今日、改めて私のこころに響いてきたのは、主イエスがただ「隣り人を愛せよ」言われたのではなくて、「自分のように」と言われたことでした。もちろん、聖書にある通り口になさったのでしょう(レビ記第19章18節)。まるで「自分を愛する」ことが当然であるかのようにおっしゃっている。

私自身のこととして率直に申します。私どもは、日々の営みの中で、〈愛する戦い〉をしているのだと。朝、目を覚ましてから夜、休むまで、神を愛すること、出会う相手を愛すること、自分を愛することの狭間で、ほんとうに葛藤し、戦いながら歩んでいるのだと。私は先の一週間、レビ記第19章を改めて開き、聴くことを通して、ほんとうに主が、目の前に身を乗り出して来てくださっているような思いになった――。

まず、あなた自身を愛してほしい。いや、〈愛されている〉ことに気づいてほしい。何度でも繰り返そう。わたしはあなたの主である…!
あなたは愛されている。自分自身を愛することに苦しみ、痛み、挫折し、破れているあなたにこそ、わたしの言葉を聴いてほしい。そこでこそ、自分を愛することと、相手を愛することと、神を愛することとが、ばらばらではなくひとつに重なる。いのちがかかっているのだ…!

この、神の愛のなかに集中して生きる――。そこにほんとうに私どもが、自分を取り戻す道があるのです。

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  心の貧しい人々は幸い
2017.11.5 神ア 伸 牧師
心の貧しい人々は、幸いである。
(マタイによる福音書 第5章3節)
主イエスの今日の言葉は、私どもの常識に、真っ向から立ち向かってきます。とりわけ教会に連なり、聖書に聴き信仰を求め、また深めている私たちに、大事なのはこころの豊かさだとどこかで思ってはいないか、と鋭く迫って来られる。

そうじゃない…! こころが豊かなひとが幸せだなんてことをわたしは言わない。ほんとうに幸せなのは、こころの貧しい人たちなんだ。天の国は、まさに、そういうあなたがたのものなんだ。

あなたはこころを貧しくしなきゃだめだ、と言われているのではない。あるいは、ただ単に謙遜、へりくだる心を教えておられるのでもない。そうではなくて、ここで主イエスが言われている貧しさとは、〈霊において〉貧しい!(3節直訳)

神との関わりにおいて貧しいひとです。神から離れてしまっているひとです。そのひとこそ幸せだと言うのです。その神から離れてしまっていた一人ひとりをこそ「あなたは幸いだ…!」と、何の分け隔ても、何の差別もなく、ほんとうに無条件に、主イエスは愛してくださっている! 今日の祝福の言葉は、その主イエスの愛の広さ、深さ、高さ、長さを、余すところなく伝えている、神ご自身の決意宣言にほかなりません。
もし、主イエスが、人のこころが豊かか貧しいか、きれいか汚いかと厳しく精査なさるような方であったとしたら、いったい誰が耐えられるでしょう。"どういう条件を満たせば、祝福されるのだろうか"などということは、まったく問題になりません。今の私どもが、現に、ありのままで、そのまま主イエスに愛されている。

もう一度申します。ただ、単純に、神は、私どものことが好きだった。私どものことを、愛してくださったのです。

こころの貧しい人は、幸いだ。あなたのことだよ…!
わたしは、何としてもあなたを幸せにしたいんだ。あなたを幸せにするのは、このわたしなんだ…!

ここに、主の与えてくださる真実の幸いがあります。

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 さあ、婚宴においでください
2017.10.29  
神ア 伸 牧師
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
(マタイによる福音書第22章4節)
主イエスがたとえの中で繰り返し用いられている「招く」という言葉は、もとの意味に遡れば、「呼ぶ・呼ばれた」と訳し直すことができます。

そう――神を信じ、洗礼を受けてキリスト者になるとは、"私は神に呼ばれた。神の招きを受けているのだ…!"と、そのことを受け入れて生きるということです。このお方を無視しない。もっと言えば、私の人生の中に無視できないお方が立ち現われてきた、ということにほかなりません。

ところが、"ああよかった"と、みんなが神の主催する盛大な婚宴・祝宴への招待に応えるかというと、そうではない。断りもせず無視をし、ある人びとは使いの家来を乱暴して殺してしまった、という。

これに対するたとえの中の王の行動は、まことに厳しく、恐ろしささえ感じるものです(7節)。

私たちはここで、この家来が、いったい何をするために遣わされて行ったかのかということにこそ、注目したい。人びとを招くためです。恵みのもとへと招くためです。だから、その家来を殺してしまうというのは、王、つまり神が人を招かれる道を、断ち切ってしまう、そういう行いです。救いへの招きの道を、塞いでしまう。それに対して、この王は烈火のごとく怒る。いいえ、ここには神ご自身の、深い悲しみと、嘆きがあるのです。

救いへの招きの道が閉ざされることだけは、絶対に見過ごすことができない…!

この王は何としても、"この祝宴を成功させたい! "と願っているのです。だから、人びとが無視し、拒否しても、絶対にあきらめない。ついには、無理やりにでもみんなを引っ張って来てこの場をいっぱいにしてくれ、と――。そして実際に家来たちは、善人も悪人もみんな、連れてきたというのです。

この王は、その人がどんな人であろうと、「あなたがいなければ祝宴は始まらない」と招いておられる――。その恵みの場に引きずり込んでくださるのは、ほかならぬ神です。ただ、神のご意思、招きによるのです。「あなたもこの祝宴、この喜びの一員なのだ…!」。

当時の招待の慣習で、宴の場には必ず礼服が用意されていたと言われます。神があなたに用意くださっている、それぞれにふさわしい礼服を身にまとい、思いを尽くし、こころを注いで、神の喜びに与らせて頂きたい。
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  わたしの息子なら
2017.10.22 神ア 伸 牧師
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
(マタイによる福音書 第21章37節)
今日の主イエスによる物語の中の主人は、ぶどう園が完成すると、これを農夫たちの手に、完全に委ねて旅立ちました。農夫たちは嬉しくて、力を合わせ、汗を流して一所命働いたに違いない。だんだんとぶどう園も見違えるようになってくる――。

ところがある日、収穫を求めて来た主人の使いを散々な目に遭わせ、ある者は打ち殺し、次々と送られてくる者たちへもまた同様にした、という。

そして、最後に遣わされた主人の息子を見たときに、こいつを殺してしまえばすべては自分たちのものだと考え、外に放り出して殺してしまった、と言うのです(39節)。まるでむちゃくちゃな話です。

それにしてもぶどう園の主人は、何かがおかしいと思わなかったのでしょうか。よりによって最後には、"自分の息子を送ってみよう"なんて……辛抱強いのを通り越して、少々この主人はどうかしてしまったのではないか、ということさえ、率直に言うひとがいます。

けれども私は思います。それならばなぜこの主人は、ほとんど考えられないような、まったく愚かで、非常識とも言えるようなことを続けたのだろうか――。
明らかにこの主人は この農夫たちを、それでも〈信じていた〉のです。この農夫たちのことを、この主人はそれでも大事にしたかった! のです。

だからまた、ある説教者はこういうことを言います。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」。おや…!? いつの間にか、主人の目的が変わっているようではないか、と――。もはや、収穫を手にしたいとかそんなことではない。

この子なら敬ってくれるだろう…。わたしはもう一度この農夫たちと、正しい関係を結びたい。美しい関係に戻りたい。戻れるはずだ…! そのために今、わたしの愛する息子を送ろう! 必ず農夫たちと、仲直りできるはずだ、仲直りしたい…!

この神の愛の深さ、この神の真実の確かさ、ここに主の十字架が立ちました! そしてこの、信じがたいほどの神の愛の前で、私どもの悔い改めもまた起こるのです。今日の物語で言えば、この農夫たちが主人と、まっとうな関係を回復すること、そして、返すべきものを神へ返すことです。ぶどう園もその収穫も、何よりも、自分自身を神へと返す――。

いま、こころから立ち帰って、返すべきものを、神へとお返ししたい。ここに、私ども人間の、ほんとうの幸せが、あるのです。
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   この最後の者にも
2017.10.15
神ア 伸 牧師
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(マタイによる福音書 第20章14節)
まるで、もっとも少なく働いた者たちが報われ、もっとも長く熱心に働いた者たちが列のいちばん後ろに送られる、と語るかのような今日のたとえ話。しかも、最後尾にいる者たちは、最前列にいる者たちと同額の賃金を支払われるだけでなく、かれらははじめに賃金を受け取るのです。普段のものの順序や前提をかき回してしまうかのような、実に不公平な話です。

ぶどう園の所有者である主人。かれがしたいこととは、後にいる者を先にし、先にいる者を後にすることなのです。全員が支払いを受け、だれ一人として空の手で帰る者はいません。ただ、順番をひっくり返し、すべての労働者に同じだけを――どれだけ長く炎天下に立っていたかに関係なく――支払ってやりたいだけなのです。「気前よくしたかった」。それだけがこの主人の根拠です。

最初に雇われた人たちの気持ちはおわかりになるでしょう。そこで主人は、自分は交わした契約を守り、かれらが同意した正当な1日分の賃金をきっちり支払ったことを指摘します。

あなたはわたしと1日1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。わたしのぶどう園、自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか――。

神は、私たちの列のいちばん最後から、最後に並ぶもっとも小さな者たちから始めることにより、ご自身のやり方は私たちのやり方とは違うことを伝えてくださるのです。――それは、私たちがどのような人間であるからではなく、「神が」そういうお方であるからです! そして、もしも、このやり方をとおして物事を理解しようとするなら、私たちは、自分が思い描いている公平の概念について、また、自分たちの列が順序通りにいかないと、なぜこんなにまで怒らなければならないかを、問い直してみるべきかもしれません。

私たちは今、自分が〈どこに立っているか〉を忘れてしまうことのないようにしたい。人生のある日、太陽が沈み、涼風が黄昏に吹きわたるとき、仕事が終わって、監督が支払いのために列の最後に向かったそのとき、彼に浴びせられる喝采と歓喜、笑いと感謝の声は、実は、私たち自身のものであった、ということは大いに、大いにありうることなのです。神は言われます。

わたしはこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ…!
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 七の七十倍までも赦しなさい
2017.10.8 神ア 伸 牧師
あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マタイによる福音書 第18章22節)
今日、ここで主イエスが何よりもこころをこめてお語りになったこと、それは、ゆるされた私たちが、幾度も幾度も、ゆるしながら生きることでありました。「その数を数えるのはもうやめよう…!」と。

正しいか、正しくないか。どちらが先に手を出したか、ということではない。正しいことよりも、もっと大切なことがあるのです。それは、一緒にいることです。一緒に生きることです。共に歩むことです。

〈ゆるし〉。それは、共に歩む道です。

ある説教者がこの箇所を説き、正直に言うのです。「もしもあなたがこれを真剣に受けとめるなら、きっと疲れ果ててしまうことでしょう」。

そう――。私たちはこの主イエスのお言葉を、どこか真剣に受けとめたくないところがあります。疲れ果ててしまうからです。主は、そのように揺れ動く私たちに、ひとつの物語をお語りになりました(23〜34節)。

呼び出された家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懸命に訴えます。が、何ということでしょう! 聖書に付されている表を用いて計算してみたところ、4800億円、休みなしに1年間働き続けて全額返済するのに11万年かかる、ということがわかりました。ひとつの仮定ですが、具体的な数字ではあるでしょう。

けれども、驚くべきことに――ほんとうに驚くべきことに――王は、この家来がしきりに願う姿をあわれに思って、彼をゆるし、その借金をすべて帳消しにしてやったという!

正しさを求めたのではないからです。正しいことをするならば、ちゃんとお金を返す。あるいは、過ちを犯したならば牢に入る、それが正しいことでしょう。けれどもこの王は、自分の帳簿を破ってでもこの家来と〈一緒に生きていく〉ことを選び取ったのです。あなたと一緒に歩んでいきたい…! と願ったのです。

神は、私たちの罪に対して正義を立てることよりも、私たちと〈共に生きること〉を幾度でも幾度でも選び直してくださる方なのです! そのために神の子、主イエス・キリストをくださった――。途方もないこと、もう11万年どころの労働賃金ではありません。ご自分の方が、傷を負うことをいとわなかったのですから。そして、繰り返し繰り返し、私どもを迎え直していてくださる――。

教会は、そのゆるしの世界を映し出しながら、生き、歩んで行くのです。

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   わたしもその中に
2017.10.1 神ア 伸 牧師
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。
(マタイによる福音書第18章20節)
〈教会の憲法文章〉と呼ばれるこの第18章で、主イエスは、教会がどういう場所であるかを、まことに鮮やかにお示しくださっています。

「こどものようになりなさい」とまずおっしゃいました。これが、第一条です。そう、あなたはいつでもここに来て、こどものような新しいこころになって生きることができる…!

続く第二条は、「小さな者を一人でも軽んじないようにしなさい」。教会は、小さなこども、年を重ねた者、社会の中で弱くされている者、体が弱っている者、深くこころが傷ついている者、その者たちを決して軽んじることをしない。小さな者たちを大切にすることこそ、教会が教会であることのしるしだからです。

第三条は、「兄弟が罪を犯したなら、二人だけのところに行って忠告する」。仲間が過ちをしてしまったそのときに、まず二人きりになって忠告するのです。そうしながら、共にいる努力を積み重ねてゆく。

そして、この言葉です。「二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしもその中にいる」。

ここは、「わたしもその真ん中にいる」とも訳せるところです。真ん中――。私は、ほんとうに、何とありがたいことかと思う。主が、私たちの集いの真ん中にいてくださるのですから!

私たちのために、死んでくださったお方。そして、私たちのために復活してくださったお方。その手と足、わき腹には傷がなお残っておられるお方が、教会のいつでも真ん中におられる。そのことを忘れないでほしい…! と主イエスは私たちに願っておられます。

そして私たちは、真ん中にいてくださる主イエスのお姿を仰ぎながら、こころをひとつにする。二人、三人が集い、互いに違う中で、共に響き合う。ゆっくりでもいい。時間がかかったってかまわない。お互いにゆるしを告げ、相手を罪の鎖から解き放ちながら、ひとつの交響曲、シンフォニーを奏でてゆくのです!

主イエス・キリストは、どんなに深い罪をも救い、ゆるしてくださったお方として、一人、ひとりの真ん中にいてくださる。そして、私たちはそのことを共に告げ合いながら生きるのです。主の約束の言葉を告げ合いながら――。主は言われます。

二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしも必ず、その真ん中にいる。

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