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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2017年バックナンバー(2)


「この最後の者にも」2017.10.15
「七の七十倍までも赦しなさい」2017.10.8
「わたしもその中に」2017.10.1
*2017年4月〜9月の「今週の聖句」はこちらへ。

   この最後の者にも
2017.10.15
神ア 伸 牧師
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(マタイによる福音書 第20章14節)
まるで、もっとも少なく働いた者たちが報われ、もっとも長く熱心に働いた者たちが列のいちばん後ろに送られる、と語るかのような今日のたとえ話。しかも、最後尾にいる者たちは、最前列にいる者たちと同額の賃金を支払われるだけでなく、かれらははじめに賃金を受け取るのです。普段のものの順序や前提をかき回してしまうかのような、実に不公平な話です。

ぶどう園の所有者である主人。かれがしたいこととは、後にいる者を先にし、先にいる者を後にすることなのです。全員が支払いを受け、だれ一人として空の手で帰る者はいません。ただ、順番をひっくり返し、すべての労働者に同じだけを――どれだけ長く炎天下に立っていたかに関係なく――支払ってやりたいだけなのです。「気前よくしたかった」。それだけがこの主人の根拠です。

最初に雇われた人たちの気持ちはおわかりになるでしょう。そこで主人は、自分は交わした契約を守り、かれらが同意した正当な1日分の賃金をきっちり支払ったことを指摘します。

あなたはわたしと1日1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。わたしのぶどう園、自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか――。

神は、私たちの列のいちばん最後から、最後に並ぶもっとも小さな者たちから始めることにより、ご自身のやり方は私たちのやり方とは違うことを伝えてくださるのです。――それは、私たちがどのような人間であるからではなく、「神が」そういうお方であるからです! そして、もしも、このやり方をとおして物事を理解しようとするなら、私たちは、自分が思い描いている公平の概念について、また、自分たちの列が順序通りにいかないと、なぜこんなにまで怒らなければならないかを、問い直してみるべきかもしれません。

私たちは今、自分が〈どこに立っているか〉を忘れてしまうことのないようにしたい。人生のある日、太陽が沈み、涼風が黄昏に吹きわたるとき、仕事が終わって、監督が支払いのために列の最後に向かったそのとき、彼に浴びせられる喝采と歓喜、笑いと感謝の声は、実は、私たち自身のものであった、ということは大いに、大いにありうることなのです。神は言われます。

わたしはこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ…!
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 七の七十倍までも赦しなさい
2017.10.8 神ア 伸 牧師
あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マタイによる福音書 第18章22節)
今日、ここで主イエスが何よりもこころをこめてお語りになったこと、それは、ゆるされた私たちが、幾度も幾度も、ゆるしながら生きることでありました。「その数を数えるのはもうやめよう…!」と。

正しいか、正しくないか。どちらが先に手を出したか、ということではない。正しいことよりも、もっと大切なことがあるのです。それは、一緒にいることです。一緒に生きることです。共に歩むことです。

〈ゆるし〉。それは、共に歩む道です。

ある説教者がこの箇所を説き、正直に言うのです。「もしもあなたがこれを真剣に受けとめるなら、きっと疲れ果ててしまうことでしょう」。

そう――。私たちはこの主イエスのお言葉を、どこか真剣に受けとめたくないところがあります。疲れ果ててしまうからです。主は、そのように揺れ動く私たちに、ひとつの物語をお語りになりました(23〜34節)。

呼び出された家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懸命に訴えます。が、何ということでしょう! 聖書に付されている表を用いて計算してみたところ、4800億円、休みなしに1年間働き続けて全額返済するのに11万年かかる、ということがわかりました。ひとつの仮定ですが、具体的な数字ではあるでしょう。

けれども、驚くべきことに――ほんとうに驚くべきことに――王は、この家来がしきりに願う姿をあわれに思って、彼をゆるし、その借金をすべて帳消しにしてやったという!

正しさを求めたのではないからです。正しいことをするならば、ちゃんとお金を返す。あるいは、過ちを犯したならば牢に入る、それが正しいことでしょう。けれどもこの王は、自分の帳簿を破ってでもこの家来と〈一緒に生きていく〉ことを選び取ったのです。あなたと一緒に歩んでいきたい…! と願ったのです。

神は、私たちの罪に対して正義を立てることよりも、私たちと〈共に生きること〉を幾度でも幾度でも選び直してくださる方なのです! そのために神の子、主イエス・キリストをくださった――。途方もないこと、もう11万年どころの労働賃金ではありません。ご自分の方が、傷を負うことをいとわなかったのですから。そして、繰り返し繰り返し、私どもを迎え直していてくださる――。

教会は、そのゆるしの世界を映し出しながら、生き、歩んで行くのです。

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   わたしもその中に
2017.10.1 神ア 伸 牧師
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。
(マタイによる福音書第18章20節)
〈教会の憲法文章〉と呼ばれるこの第18章で、主イエスは、教会がどういう場所であるかを、まことに鮮やかにお示しくださっています。

「こどものようになりなさい」とまずおっしゃいました。これが、第一条です。そう、あなたはいつでもここに来て、こどものような新しいこころになって生きることができる…!

続く第二条は、「小さな者を一人でも軽んじないようにしなさい」。教会は、小さなこども、年を重ねた者、社会の中で弱くされている者、体が弱っている者、深くこころが傷ついている者、その者たちを決して軽んじることをしない。小さな者たちを大切にすることこそ、教会が教会であることのしるしだからです。

第三条は、「兄弟が罪を犯したなら、二人だけのところに行って忠告する」。仲間が過ちをしてしまったそのときに、まず二人きりになって忠告するのです。そうしながら、共にいる努力を積み重ねてゆく。

そして、この言葉です。「二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしもその中にいる」。

ここは、「わたしもその真ん中にいる」とも訳せるところです。真ん中――。私は、ほんとうに、何とありがたいことかと思う。主が、私たちの集いの真ん中にいてくださるのですから!

私たちのために、死んでくださったお方。そして、私たちのために復活してくださったお方。その手と足、わき腹には傷がなお残っておられるお方が、教会のいつでも真ん中におられる。そのことを忘れないでほしい…! と主イエスは私たちに願っておられます。

そして私たちは、真ん中にいてくださる主イエスのお姿を仰ぎながら、こころをひとつにする。二人、三人が集い、互いに違う中で、共に響き合う。ゆっくりでもいい。時間がかかったってかまわない。お互いにゆるしを告げ、相手を罪の鎖から解き放ちながら、ひとつの交響曲、シンフォニーを奏でてゆくのです!

主イエス・キリストは、どんなに深い罪をも救い、ゆるしてくださったお方として、一人、ひとりの真ん中にいてくださる。そして、私たちはそのことを共に告げ合いながら生きるのです。主の約束の言葉を告げ合いながら――。主は言われます。

二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしも必ず、その真ん中にいる。

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