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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2017年バックナンバー


「良い真珠を探している」2917.8.20
「育つままにしておきなさい」2017.8.13
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」2017.8.6
「疲れた者、重荷を負う者は」2017.7.30
「剣をもたらすために」2017.7.25
「蛇のように賢く、鳩のように素直に」2017.7.16
「町や村を残らず回って」2017.7.9
「罪びとを招くためである」2017.7.2
「権威ある者として、お教えになった」2017.6.25
「その日の苦労は、その日だけで十分である。」2017.6.18

「いつもあなたがたと共にいる」2017.6.11
「イエスは大声で言われた」2017.6.4
主は羊飼い」2017.5.28
「聖霊が思い起こさせてくださる」2017.5.21
「 わたしは道であり、真理であり、命である。」2017.5.14
「 わたしは良い羊飼いである。」2017.5.7
「わが主よ、わが神よ」2017.4.30

 良い真珠を探している。
 
2017.8.20 神ア 伸 牧師
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
( マタイによる福音書第13章45-46節 )
主イエスによる今日のたとえ(第13章44−50節)では、だれかが隠された宝を手に入れるため、奔走している。よい真珠を見つけるために、走り回っている。魚を集めるために一所懸命網を打っている――。

そういうことを、神が私たちに向かってしてくださるのです。動き・働いておられるのは神ご自身。神が私たちに対して、このように今、行動を起こしてくださっている…!

ここで言われている、宝、真珠、魚――。そう、それは、天の国を指すよりはむしろ、私たちのことなのです! 神の目には、私たちが宝であり、真珠にほかなりません。けれどもその宝が、この世で、罪にまみれて隠れているのです。さまざまな営みの中で破れ、罪の力に抑え込まれて隠れている宝を、神はこの世でひたすらお探しになる。

私たちは、"はたして自分は良い真珠だろうか"と思うかもしれない。しかし神は、創造のときに、"これは極めてよい"とおっしゃったその想いで、私たち一人ひとりを"良い真珠はどこか…!?"と一所懸命探してくださるのです。

そして三つめの譬えでも、"神が網を打って私たちを手に入れ、座ってじっくり吟味なさったら、いったいどうなるだろうか…"と思うかもしれない。自分は捨てられてしまう魚ではないか――と。

しかし私たちは、主イエスの歩みを最期まで見届けたときはじめて、この譬えの真意がわかる。神は主イエスを通して、何をしてくださったか。――私たちを良い器に入れて、主イエスの命を、棄てられたのです。

そうです。ここでも神は、私たち一人ひとりをご覧になったうえで、"ああ…これは良い魚だ。器に入れよう"と、私どもを迎え入れてくださる。主イエスの十字架を仰ぐときに、そのことを、身に沁みて感じさせられます。神が私たち一人ひとりを愛し、救うために、果たされた犠牲――。それがこのたとえの中にも、はっきりと語られている!

神は、すべてを売り払ってでも、"良い宝だ"、"良い真珠だ"、"良い魚だ…!"と言って、ご自身の独り子の身を棄てながら、働き、歩き回り、あなたを救いのもとへと、取り戻してくださる。そこに神のご決断があり、歩みがあるのだと、主イエスは伝えてくださっているのです。

神にとっての、この私の価の高さ、かけがえのなさ。そのことを信じるところから、今週も歩み出したい。

  育つままにしておきなさい
2017.8.13 神ア 伸 牧師
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』
( マタイによる福音書第13章29−30節 )
日課の第13章の24−30節には、「毒麦のたとえ」という小見出しがついていることもあり、私たちは「毒麦」という言葉に敏感に反応し、ここから連想される"負の力"に心が傾いてしまうのではないでしょうか。弟子たちもそうだったようで、「畑の毒麦の譬えを説明してください」と主イエスに願いました(36節)。

けれども主イエスは、「さあ、今から毒麦の譬え話をしよう」などとは、おっしゃいませんでした。そうではなかったのです。

天の国は次のようなものだ…!

ここで、天の国の譬えをなさっている。そして、天の国・神が治めておられるこの世界のことを、

ある人が――つまり神が――よい種を確かに蒔かれた…! そのことに譬えられる。

そうおっしゃった。これが前提なのです。まず善い力がそこに及んでいて、畑を覆っている、全体を覆っている。それが前提、揺らぐことのない土台なのです。しかしそこに、ふと気づくと悪い力が、敵の力・神に逆らう力が入ってくることもある、と。

けれども、この〈わたし〉という畑を見、自分の中の欠けや、破れや、過ちを見るにつけ、それがもう自分のいのち全体を、覆っているかのように思ってしまうことがあるのです。そして時に自分の存在そのものを、否定してしまったり、自分を追い詰めるように考えてしまうことがあるのです。毒麦の力が強く感じられれば感じられるほど、それをさっさと引っこ抜いてしまいたくなる。

そういう私たちに向かって、主イエスはおっしゃる。

あなたは「わたしが行って抜き集めておきましょうか」と言う。しかし、それはわたしの仕事だ。手を出さず、そのままにしておきなさい。なぜなら、あなたの中の良い麦も、毒麦も共に、主であるこのわたしの愛の支配のもとにあるのだから…! そのあなたのために、わたしは十字架を担ったのだから――。

そして、私たちが破れれば破れるほどに、十字架の主は深く、深く、私たちに根をおろされる! それが、主イエス・キリストのなさった最も大きな仕事です。私たちの清さの中ではない、弱さの中、罪のただ中にこそ十字架は立った…!

このキリストに支えられ、ゆるされ、育まれて、私たちは今日も生き、生かされてゆくのです。

なんと幸いなことでしょう。

種を蒔く人が種蒔きに出て行った
2017.8.6 神ア 伸 牧師
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
( マタイによる福音書第13章3節 )
この譬え話の中心は、どこまでも〈種を蒔く人〉にあります! この、種を蒔く人から目が逸れてしまって、こころの中を覗いて、自分がよい土地なのか悪い土地なのか、道端なのか石地なのか茨の地なのか――そんなことを考え、4節から9節を〈種を蒔かれた土地の譬え〉として聴き始めたら、たちまち、私たちはわからなくなってしまう。

主イエスが、"どうか見てほしい"と私たちに願っておられるのは、効率が良いか悪いか、などということはちっとも考えないで、大胆に、〈種をまき続ける人〉です。道端であろうが、石地であろうが茨であろうがそんなことはお構いなし。ただただ蒔き続けるのです。

種袋の種が、どんどんどんどん減ってゆく。しかしこれは不思議な種袋のようです。蒔けば蒔くほどまた一杯になる。それでも蒔き続けるのです。どんどんどんどん蒔き続ける。必ず、必ずよい土地に落ちるということを、信じているからです。

この種蒔く人は諦めません。主イエスはお諦めにならないのです。ずっとずっと、繰り返し繰り返し、そして、まるで私たちが礼拝に初めて来たかのように主イエスは喜んでお迎えになりながら、種を蒔いてくださる。大胆に…!

そう、大切なのは、種蒔く主イエスを見ることです!その主イエスが私どもに今日も、種を蒔き続けてくださる――。

第1の日課、イザヤ書で聴きました。

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
(第55章 10−11節)

雨も雪も、天から降るときに必ずその役割を果たすのです。神の言葉もそうです。神の言葉は虚しく、神のもとへは戻らない。必ず私どもの中で何かを始めます。何かをし続けてくださる。そのために、神も、主イエスも労を惜しみません。

主よ、どうか私たちの目を、耳を開いてください。あなたのみ言葉を、愛のご支配を悟らせてください。主よ、あなたは生きておられます。その祝福の中で、私どもが、いのちを全うすることができますように。

疲れた者、重荷を負う者は
2017.7.30
神ア 伸 牧師
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
( マタイによる福音書第11章28節 )
主イエスは、私どもに、何としても真実の安らぎを与えたいと、願っておられるお方です。そのお方が続けてこうも言われます。

わたしのもとに来て、わたしのやさしさを学びなさい。わたしの柔和を、あなたも真似してごらんなさい…!
そうすればあなたは安らぎを得られる。

では、そうおっしゃった主イエスはご自身の柔和をどのように貫かれたのか――。特にお伝えしたいのは、十字架につけられるため都エルサレムへとお入りになった主イエスのお姿をこの福音書は描きながら、

この方こそ、柔和な方だ、柔和な王だ…!

と、そのように宣言してやまなかったことです(第21章5節)。

当時の軍事力の象徴である馬に乗るのではなく、ろば、しかも「子ろば」に乗り、徹底的に柔和になっておられる――。そう、柔和を貫かれたお方が、たったひとりだけ、この地上に存在したのです!
けれどもそのお方、徹底的にやさしさを貫かれた主イエスが、ついに殺されてしまったということは、私どもにとってたいへん厳しいことです。私どもに対する、挑戦的と言ってもよい問いがここにあると私は思います。信仰の決断が、迫られていると私は受けとめます。

なぜなら、いまだこの世界は、力ずくの生き方がまかり通っているからです。やさしさだけでは生きていけない、それこそが現実であるかのように思えるからです。

力を持っている者が、力ずくで支配しているこの地上のありさまは、ごく一部の僅かな者が、ごく地上の富を独占しているのは、神のみ心に沿うことではないのです。力に対して力が、暴力に対して暴力が、憎しみに対して憎しみが向かい合う、この世界の姿は、必ず改められなければならないのです。

神のやさしさが支配するこの地上にならないといけない――。しかし神はそのためにほかの何をなさったのでもない。ご自分の独り子を十字架につけ、それを、よみがえらせられたのです。そこに、そこにこそ神の愛のご支配が確かにうち立てられたのだということを信じて、私どもは今ここに生かされている。

この週、共に、次の祈りを新しくさせられたいと願います。
マラナタ、マラナタ――。主イエスよ、どうか来てください…! この地上は、あなたによって新しくされなければなりません。

剣をもたらすために
2017.7.25 神ア 伸 牧師
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
( マタイによる福音書第10章34節 )
まさに主イエスのお言葉そのものが剣(つるぎ)となって、私どもの生活のただ中に切り込んでくるようです。続けてこう言われます。

家族の間に敵対関係が生じる…そして、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

耳を塞ぎたくなるような言葉を語られる主イエスですが、このマタイによる福音書はすでに第10章の5節以下で、主イエスが弟子たちを宣教へと派遣するにあたり、おっしゃったそのお言葉を、明確に伝えています。それは、平和です。

どこかの家に入ったら、まず、「平和があるように…!」とあいさつをしなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和は必ずそのひとに留まる。けれども、その平和が拒絶されたら、けれども心配するな…! その平和は必ずあなたがたのところに戻ってくる…!

私どもも、この主イエスが与えてくださる、平安を告げるために、家族のもとへと遣わされてゆきます。このお方に従って生きること、主イエスだけが与えてくださる、確かな平和を告げ続けるために――。

けれどもその言葉が、時に、通じないことが起こります。拒絶されることが起こります。そのことについてもう私がくどくどとお話する必要もないほどに、皆さんがよく承知しておいでのことだと思います。

その痛み、生身を引き裂かれるようなきしみを抱え、悲しみながらも、なお私たちは、それぞれの家族を神へとお委ねする、託してゆくのです! なぜか。この私は神のものだから。そして、この私の家族は、神のものだから――。そのことに慰められながら、私どもは、今日も生かされ続けます。

ここにしか平安はない…!

改革された教会が大切にしている『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答は、生きる時にも死ぬときにも決して変わることのない慰めとはなにか、と問われて、

生きるときも死ぬときも、私の身も魂も、私は私のものではない。主イエス・キリストの所有である。

ここに唯一の慰めがある、と答えました。
この、主の慰めの中に、私どもの家族をも、委ねきるために――そこに私どもが、今すでにキリスト者として生かされている意味もあると思います。そこに与えられている務めも、明確であると信じます。

どうぞ今、改めて主の確かな平和がありますように。そして皆さんの、家族のうえにも、生きる時にも死ぬときにも変わらない、ただ一つの慰めが、ありますように。

  蛇のように賢く、鳩のように素直に
2017.7.16 神ア 伸 牧師
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
( マタイによる福音書第10章16節 )
まさに12弟子の覚悟を鋭く問う、言葉です。けれど12弟子だけではありません。私は、自分自身への問いかけとして、この主イエスの言葉を受けとめるのです。

今日「キリスト者がこの世で生きる」ということは、何十頭、何百頭もいる狼のただ中にたった独りで放り出されるようなものだ。暴力が待ち受けているこの世界に対して、しかしあなたは「世が用いる暴力に拠らず戦う」。これに徹することができるか――と。

何より、わたしたちに先立ち、主イエスご自身が、この世に対して実に独特な戦いをなさったことを想い起こします。

悔い改めよ。天の国は近づいた。(第4章12節)

悔い改めよ――。「帰って来い」という言葉です。あなたは、ほんとうの居場所に帰って来い…!」。

そして主イエスはこの伝道の第一声を、ご自分に洗礼を授けたヨハネのところにまで暴力の力が近づいたことを知って、発せられた(同12節)。

そうです、わたしたちもまたこのお方に倣い〈神の言葉をもって〉戦う。武器を持つ者に対して、自分を傷つけようとする者に対して、「帰って来い…!」。「あなたのほんとうの居場所はそこには無いはずだ。」。「神の国はもうすぐ近くにある」。「神が呼んでおられる…帰って来い!」。

蛇のように賢く、それをなすのです。キリスト者がまだ1パーセントに満たないこの社会で、どのように生きて行くか――これをよく考え、証ししたうえで、しかし、時には逃げていいのです(23節)。なすべきことを成したら、すべてを自分で背負い込まず、あとは神に託して、賢くその場を離れる。

そしてまた、鳩のように素直に、それをなすのです。この世の生き方に流され、ただ相手にされるがままでいるということではない。神に対して、神の言葉に対して素直さを失わないのです。

さあ、新しい一週間が始まります! 皆さん、どうか鳩のような素直さを失わないでください。けれども同時に、この世の戦いはまだまだ続きます。蛇のように賢く生きてください。私どもの言葉を、待っている者がいます。大丈夫、どうか安心して語るべきことを語り、伝えるべきことを伝えてください。  

町や村を残らず回って
 2017.7.9 神ア 伸 牧師
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
( マタイによる福音書第9章35節 )
今週の聖句は、主イエスのお働きの核心を伝える言葉です。

すでに第4章の23節でも同じことが語られていましたが、そこでは「ガリラヤ中を回って」とあった。わたしたち賀茂川教会で言えば、北区中を、いえ京都市内中を回って、ということですが――主イエスは、ひとところに定住なさらない。あちらこちらを巡り歩き、たくさんの人にお会いになるのです。そして、福音を〈教え〉〈宣べ伝え〉福音によって〈癒す〉。

主イエスはここで、そのご自身の日常のお働きを、まずは12人の者たちに託される。第10章の7節以下にこうありました。

あなたがたは、行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

これまでは主イエスが、お一人ですべてをなさっていました。けれどもこれからは違う。わたし一人だけではもう無理だ…。あなたたちの働きがどうしても必要なのだ…!

そしてこうおっしゃる。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(37、38節)

「あなたたちに祈ってほしい…!」とおっしゃるのです。あなたたち一人ひとりの祈りがどうしても必要なのだ。どうかその祈りの静かな灯を絶やさないでほしい…! すべての人に、神のあわれみ、神の愛を届けるために――。

「もう、働き手は一杯だ」。主イエスは決してそのようにおっしゃいません。どんな者も、いつでも、最後まで、主イエスのために、主イエスと共に働き続けることができる。祈り続けることができる。

年を重ねて、多くの家を訪問できず、会う人が限られているかもしれません。もしかしたら、礼拝に来ることが難しくなってきているかもしれません。けれど、キリストの教会には、あなたの祈りが欠かせないのです、どうしても。主イエスがそう願っていてくださる。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、"霊"が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。
(ローマの信徒への手紙第15章30節)   

 罪人を招くためである。
2017.7.2 
神ア 伸 牧師
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
  ( マタイによる福音書第9章12、13節 )
丈夫なひとに医者はいらない。いるのは病人である。

わたしは、このマタイの病を癒すために来たのだ。罪という病を癒すために――。

いつものように人びとから税金を集める仕事をしていたマタイは、主イエスにまなざしを注がれ、こう語りかけられたとき、

こんなことを真正面から向き合って、自分に言ってくれるお方に出会ったのは初めてだ…!

と、感謝しながらその言葉を聴いたと、私は信じます。

わたしはどうしても、あなたをいやさないといけない。わたしがあなたを癒すんだ…!

主は、ひたすらにマタイの癒しを願ってそう言われたのです。

その主イエスのおこころを13節の前半では、"神のあわれみ"という言葉で言い表しています。マタイはふかく感謝しながら、この言葉を聴いたに違いない。

わたしは神のあわれみを受けたのだ…!

その神のあわれみをいただいたひとが、「立ち上がって」(9節)福音書記者となったのです。この神のあわれみを、広く、深く伝えるために――。

私どもも、同じところに、招かれています。

ペトロの手紙一 第2章の9節以下に、こういう言葉があります。

それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」


わたしは暗闇の中から、光の中へと招かれた…! ペトロの手紙が告げるこの恵みの出来事を、まさに今日、体験したのがマタイではなかったでしょうか。

そのマタイが、この神の力ある業を、広く伝える者とされたのです。2000年の時を超え、自分の名前を冠する福音書が読まれ続けるという光栄にさえ、あずかったのです。この私を、驚くべき光の中へと招いてくださったお方の、あわれみを伝えるために――。

そのために私ども一人ひとりも、呼ばれています。「立ちあがれ…!」と、主イエスに声をかけていただいています。

主イエスに呼ばれ、立ち上がった者たちの集まり――。それがキリストの教会なのです。

権威ある者として、お教えになった  
2017.6.25 
神ア 伸 牧師
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者として、お教えになったからである。
  (マタイによる福音書第7章28−29節)
第5章から続いてきた、主イエスの〈山上の説教〉が今日のところでひとまず終わりを迎えます。そして、そのとき、

これまで語られてきた主イエスの言葉のひとつ、ひとつが、"人びとに驚きを呼び起こした"と言うのです。みんながびっくりした…!

それともうひとつ。福音書記者マタイはここで、"このお方は律法学者とは違って権威があったのだ"と加えます。思えば、後に主イエスご自身が、この律法学者と呼ばれる人たちを批判してこうおっしゃったことがありました。

彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。(第23章4節)

ある神学者は、このことを「み言葉を人に与えて、与えるだけで、そのままその人を独りぼっちにしておくことだ」と説きました。
み言葉を与えて、しかし与えるだけで、その相手を独りぼっちにしておく――。

けれども主イエスというお方は、これらの言葉をお語りになったときに、そのような在り方とは違う、権威があった。だからこそ、その言葉を聴いた群衆はほんとうに驚いた。こころをふかく揺さぶられ、動かされたのです!

なぜ私たちは、このお方の言葉を聴くのでしょう。なぜ私たちは、このお方の言葉に、従うのでしょう。このお方が、私たちを、この私を、愛してくださったからです。この言葉が、十字架につけられ、およみがえりになった方の言葉だからです。端的に言ってそうとしか、言いようがありません。そしてそのように、このお方の愛を信じて、このお方のおっしゃることなら、間違いない…!

この〈山上の説教〉と呼ばれる主イエスの言葉は、このように始まっていました。

こころの貧しい人びとは幸いである。
悲しむ人びとは幸いである。


貧しいひとよ。必ずわたしがあなたを幸せにしてみせる…!
泣いている者よ、あなたを慰めるのは、ただ一人、このわたしなんだ…!
今、あなたにも、主イエスは語りかけてくださいます。

わたしを信じてほしい。あなたを祝福するのは、このわたしなんだ…!

私たちの貧しさ、弱さ、悲しみを抱えたままで、主イエスのみ前に近づき、ひれ伏したいと、こころから願います。

           (バックナンバーはこちらへ。)

  その日の苦労は、その日だけで十分である
2017.6.18
 神ア 伸 牧師
その日の苦労は、その日だけで十分である。
  (マタイによる福音書第6章34節)
たいへん不思議な魅力をもった、何度でも繰り返して読み、聴きたくなる主イエスのお言葉であると思います。一度聴いたら忘れることができない、そういう力をもったお言葉だと思います。

あなたにはその日の苦労があるね…。その日の分だけで十分ではないか…!

ある聖書が、このように訳していました。

労苦は、その日、その日に、十分あります。

生きるということは、その日、その日の労苦を背負いながら生きることです。誠実に人生を歩もうと思えば、十分にその日の労苦がある。

その私の労苦 その皆さんの労苦を、ここで主イエスは、見つめておられます。

あなたの今日一日の労苦を、わたしは知っているよ。今日の分だけで、十分あるね。それで十分じゃないか…! だから、明日のことまで思い煩うな…!

今日、今ここで私に語りかけてくださる主イエスという方は、生活の苦労なんかしなくていい、というような、そんな浅はかなことは決しておっしゃらない。労苦はその日、その日に、十分あるのです。

新約聖書の終わりの方、『ペトロの手紙一』の中に、やはり次のように語る言葉があります。

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(第5章7節)

この手紙を書いた、主イエスの一番弟子ぺトロもまた、"嫌なことは忘れて生きよう"などと言っているのではない。「思い煩いは、神にお任せしなさい」。

この「お任せしなさい」という言葉は、たいへん興味深い言葉で、「神に投げつけなさい」と、そう訳してもよかったかもしれません。

思い煩いは、神に投げつけなさい…!

それはなぜかと言えば、神があなたがたのことを心配していてくださるからだ…! というのです。

思い煩わずにおれないことは、厳然と存在するのです。あなたの今日の労苦は、今日の分だけでもう十分あるじゃないか――。
だから、主イエスはおっしゃる。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(33節)

神は生きておられるのだ…! あなたのために。

心配ごとは、尽きないかもしれません。日ごとの労苦は、その日だけで十分、あるのです。けれどもその労苦を知っていてくださる神は、生きておられます。皆さんのために――。

その神のみ手のうちに、もう一度、私どものいのちを置かせて頂きたい。

 いつもあなたがたと共にいる
2017.6.11
 神ア 伸 牧師
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
(マタイによる福音書第28章19−20節)
およみがえりになった主イエスは、弟子たちを宣教に派遣するにあたり、約束してくださいました。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる…!

福音書記者マタイは、山の上での、この復活なさった主イエスのお言葉をもって福音書を閉じるのですが、その初めには旧約の預言者イザヤの言葉を引用しつつ、このように伝えていました。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。(第1章23節)

その名はインマヌエル――。神は、わたしたちと、わたしと共にいてくださるのだ…!

マタイは、まさにこの〈インマヌエル・神が共にいてくださる〉という恵みの確かさを福音書の初めで明らかにし、そして最後に筆を擱くにあたっても、主イエスご自身の言葉を通して明らかにしているのです! 聖書を閉じてもなお、主イエスのお声が、お言葉が、こだまを続けるために――。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる…!

しかも「世の終わりまで」です。"私の地上の生涯が終わった時まで"ということでは決してありません。"私どもの死を超えて"確かに主は共にいてくださる!

しかし、そうお約束くださる主のご復活を、未だ疑う者もいたようです(17節)。ある人はもっとはっきりと「皆が疑っていた」と言いますが、そうかもしれません。むしろ11人全員が疑っているようなそのただ中に、主イエスの方から近づいて行かれ、まるで弟子たちのこころに生まれた疑いを覆い隠してしまうように、いいえ、吹き飛ばしてしまうかのようにしておっしゃる。

行け…! あなたがたはここから、行きなさい。

わたしの言葉、わたしの約束を携えて、あなたは出て行く。遣わされるのだ。どの国の者も、どんな境遇の人も、すべてのひとが、わたしの弟子、兄弟、姉妹とされるために――。そして、やがてそれらの人たちがさらに地の果てにまで行き、わたしの約束の言葉、愛の言葉、赦しの言葉を宣べ伝えることができるようになる――。わたしの祝福の届かないところはないのだから。

恐れるな、見よ、わたしはいつも、遣わされてゆくあなたと共にいる――。

この新たな週もまた、主イエスが祝福をもって、皆さんを、あなたを、それぞれの場所へと送り出しておられます。

  「イエスは大声で言われた」
2017.6.4 
神ア 伸 牧師
イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
(ヨハネによる福音書第7章37、38節)
この短い聖句の中で、きっと皆さんがこころ惹かれるのではないかと思うひとつの表現は、

主イエスは大声で言われた。

という、この一節ではないでしょうか。〈主イエスの大声〉。皆さんもそうかもしれませんが、わたしは幼い頃から、"主イエスのお声を聴きたいな"とよく思いました。今も、そう願っています。いったい、どんなお声だったのだろう――。

福音書記者ヨハネは、大声で叫ばれる主イエスのお姿を、あとふたつの場面で伝えています。

ひとつは、死の力に飲み込まれていたラザロという男性を、よみがえらされた時。ご自身が「わたしの友」とまで呼ばれた若者を、救いの見えない闇の中から、悲しみの渦から、嘆きの極みから、ひきずり出しておしまいになる!

ラザロよ…出てこい…! あなたは、死の中に閉じ込められたままでいるな!(第11章43節)

もうひとつは、今日の直前、第7章の28節です。〈仮庵祭〉という水を巡る大きな祭りの最中、しかも神殿の境内で教えておられたとき、大声でこうおっしゃいました。

あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実である。

これは、主イエスの真理宣言です。「わたしは、父なる神から遣わされて、あなたを救うためにここに来ている。どうかわたしの声に聴いてほしい。あなたはわたしの声を知っている筈だ…。そのわたしの声をしっかり聴きとってほしい…!」

そして、今日、冒頭に挙げた聖句です。

主イエスはここでも、大声で言われました。それどころではない。ヨハネ福音書は「立ちあがって言われた」と伝えました――。主イエスは、立ちあがって呼びかけていてくださる。立ちあがって約束していてくださる。

わたしのところに来て、わたしから汲んで飲む者は、必ず! 主イエスご自身のいのちの水に潤う泉として生かされ始める。この泉は、決して涸れることがない。

どうか、わたしたちが、この主のお声を、はっきりと聴き取ることができますように。共に、主のところへと赴くことができますように。いいえ、主イエスが、既にわたしたちのところに来てくださっていることを、気づくことができますように。この一週間、いつも主に向かい続け、主のもとに立ち帰り続けることができますように。

  主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」 2017.5.28  キャロル=サック宣教師
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
     (詩編第23章1節)
旧約の詩編第23編(1-6節)は、聖書全体の中で、最もよく知られたひとつであるでしょう。少なくとも私の母国であるアメリカ、特に北米では、教会に行ったことのない多くの人びとであっても、この詩編のはじめの節を、そらんじることができるほどです。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない…!

この詩編は、冒頭で、"憩いと安らぎ"の美しい情景を、想い起こさせてくれます。そして続いて、人生には私どもの安らぎと幸いを脅かす多くのものがあるのだ、という事実を、明らかにしてゆくのです。

私どもは一人ひとり、この私だけの、私に固有の谷を歩んでいます。そしてまた、私どもの誰もが、人間の持つ"限界"というものを免れずに、人生を歩むことはできないのです。

そんな中、この詩編は、ひとつの事実を示してくれています。それは、"私どもの恐れ"や"人間の限界"という事実よりも、ずっと大きくて、はるかに重大な事実なのです。それは――

「私どもにはまことの神がおられる…!」、「この神が、私ども一人ひとりと一緒に谷を歩いてくださる!」。

これが、何があっても揺らぐことのない事実です。

詩人はうたいます。「死の陰の谷を行くときも、わたしは決して恐れない。主よ、あなたがわたしと共にいてくださるから…!」と――。

私は信じています。私どもが誰かにあげることのできる最高の贈り物。それは、ただ、その人たちと"共にいることである"と。

皆さん…! 私どもが必要としているのは、「プレゼンス(存在すること、共にいること)」です。「プレゼント(物の贈り物)」では決してありません。

新約の福音書記者マタイは、こう伝えます。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神はわたしたちと共におられる』という意味である」。(第1章23節)

そして、このマタイが福音書を閉じようとするとき、最後に伝えた主イエス・キリストのお言葉は、まさにこのようなものでした。

見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる!(第28章20節)

神は、羊と共にいてくださる、愛に満ちた羊飼いであり、怯え、こわがっている私どもの手を握ってくださる、愛に満ちた親であり、

たとえ誰一人私どもと共に旅をすることができないときにも、私どもの傍らにとどまり続けていてくださる方です。

だから、今日、あるいは明日、どのような暗闇を私どもが経験するとしても、私どもは詩編詩人と共に、こう告白することができます。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない…!
           

 「聖霊が、思い起こさせてくださる」
 2017.5.21  牧師 神ア 伸
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
          (ヨハネによる福音書第14章26節)
 思い起こしてごらん。わたしがいなくなっても、わたしがあなたがたに話したすべてのことを…!

十字架への道行きを前に、主イエスは、集中し、こころを込めて語ってくださいました。聖霊の働きは、ご自分の語られたことを〈思い起こさせる〉。このことにあるのだ、と。

憎しみに燃えてしまった時に、「敵を愛しなさい」とおっしゃった主イエスの言葉を思い起こす。ほんとうに疲れ果ててしまった時に、「誰でも重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの言葉を思い起こすことができるのです。

悲しみがこころを去らない時、「悲しんでいる者は幸いである」という慰めの言葉を、この世にある不正や暴力に対して臆病になり始めている時に、「平和を実現する者は幸いである」という主イエスのお言葉を思い起こすことができるのです。

こころが怯えている時に、「勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」という主イエスの言葉を、
死の前にも、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる。あなたはこれを信じるか…!」。という希望の言葉を思い起こすことができるのです。

そう、わたしたちは、いつでも、どんなときも、主イエスのお言葉を思い起こしながら歩み、生きてゆくことができる!

また、主イエスは、その聖霊のことを〈弁護者〉と呼ばれました。私はこれは、ほんとうに味わい深く、恵みにあふれた別名だと思う。

裁判で、それこそ告発されて、自分が無罪だと確信している時に、自分独りで戦うこと、こんなに心細いことはない。"助けてください…!"と言うと、弁護者が飛んで来てくれる。また、そのとき、聖霊があなたの傍らに立って、抱き抱えてくれる――。そのように助け、慰め、励ます方。それが聖霊です。

この聖霊が、今日もわたしたちを、あなたを生かします。主イエスはお約束くださいました。

然り、わたしはすぐに来る。
(ヨハネの黙示録第22章20節)


わたしたちは応えます。「アーメン、主イエスよ、来てください…!」
         

  「わたしは道であり、真理であり、命である。」 2017.5.14  牧師 神ア 伸
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
          (ヨハネによる福音書第14章6節)
 わたしが道である…!

十字架を前に、ご自身がその極みまで愛し抜かれた弟子たちとの別離(わかれ)が近づき、戦いの予感が皆を包む中、「主よ、あなたの行かれる道が分からない、どこにその道を知ることができましょう」と問う、弟子たちにむかって主イエスはこうおっしゃった。

主イエスは、道の話をなさったのではありません。道に"ついて"教えたり、説いたりしておられるのではない。

ここで、主イエスは、

このわたしが、わたしこそが道だ…!

と、宣言なさっているのです。

道というのは、変わりません。400年余りを経た今日、東海道の道は、残っています。京にも街道筋に古道が残っていますが、周りの建物が変わり、住まう人びとが移り変わって行こうとも、道自体は変わらない。

主イエスは変わらないのです。変わることのない、救いの道です。ヘブライ人への手紙は語ります。

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です(第13章8節)

そして、道は、歩くことでわかります。地図の上で道を辿って、わかったつもりで歩き始めて、わからなくなることがしばしばあります。道は、歩く中で、その道の現実を、味わい知ってゆく――。

この主イエス・キリストに信じて踏み出す中で、道を知る。たとえおぼつかない歩みであっても、目的地に少しずつ近づきながら、主イエスが真実・真理であり、死を超える命であることを知っていくことができる。

踏み出しなさい。道を歩いてご覧…。このわたしを、通って行けばよい。わたしを通れば、父のもとに行くことができる。神のもとに行くことが出来る。わたしを通る以外に、父へと至る道はない…!

今のあなたから始めよう。欠けを欠けのまま、苦しみを苦しみのまま、悲しみを悲しみのままで抱えたそのあなたを、わたしが丸ごと引き受けよう。わたしはこの道にあなたを招く。命を賭して招いているのだ。救いはここにある…!

どうか、今週もこの道をともに歩みたい。
       

  「 わたしは良い羊飼いである。」
2017.5.7
 牧師 神ア 伸
「 わたしは良い羊飼いである。」 
         ( ヨハネによる福音書第10章11節、14節 )
 主イエスは、二度も仰っています。ここは、「わたしは良い羊飼い」という日本語にしてもよいのですけれども、もうひとつの翻訳は、「わたしがよい羊飼いである」ということです。良い羊飼い――。

旧約のエゼキエルも預言したし、私どもになじみ深い、あの詩篇第23編もうたっているし、皆、羊飼いに養われる羊になりたい、真実の羊飼い、良き羊飼いに養われる羊になりたい――そう思う。そこに主イエスが、名乗りをあげてくださる。「わたしが良い羊飼い」。悪い羊飼いもあるので、悪い羊飼いは羊をちゃんと守らない。良い羊飼いだっていうことは、羊を必ず守る…!

9節の「わたしは(が)門である」というのも、この「わたしこそがよい羊飼い!」というのと、同じことをお語りになっていると、言うことができる。

500年前のドイツで、教会の改革運動を始めたルターは、自身の訴える新しい福音理解を巡って、大学神学部の教授や修道院の者たちと、神学的な討論をしました。いわゆる「ハイデルベルク討論」と呼ばれるものですが、そのとき、ルターが大切な言葉として引用したのが、

わたしは門である…!

という、このことばでした。もともとこの「ハイデルベルク討論」というのは、詰まるところ〈聖書をどう読むか〉という議論であるのですが、そこで、

わたしは門である…! 主イエス・キリストこそ門である。わたしを通って入る者は救われる!

これをどう理解するかということに尽きる――。わたしは羊の門…! ここを通る以外に救いはない…!

ルターも、この門を通ろう! と繰り返し訴え続けた――。

そっちに行ってはいけない、あっちへ行ってもいけない。この、"わたしが門だ"とおっしゃった主イエス・キリストのお言葉を、正確に忠実に聴こう!

私のために、命を棄ててくださった、まことの良き羊飼い、主イエス・キリストの声を聴こう! その声を聴き分けよう! あなたがたは、主イエスの、まことの羊飼いとしての声を、聴き損なわないように、聴き間違わないようにしよう、よぅく聴き分けようではないか――と。

どうか、皆さんも、まことの羊飼いの声をよぅく聴き分けて、"わたしがまことの羊飼いだ"、"わたしが門だ…!"とおっしゃった主イエスを通り抜けて、いのちへの道へと、歩んでいただきたい。こころから、そう願います。

  「 わが主よ、わが神よ」
2017.4.30
 牧師 神ア 伸
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。  
          ( ヨハネによる福音書 第20章27-28節 )
 主イエス・キリストの教会は、2千年を超える永きに亘って、いつもこの信仰に生き続けてきました。いつも主キリストを指差して、「わたしの主、わたしの神よ! わたしたちの主、わたしたちの神よ…!」と、教会の信仰を、言い表し続けて来ました。そのことによって、死の力に勝ち続けて来ました。そのことによって、不安に勝ち続けてきた――。その信仰に生きているところで、この福音書が、生まれたのです。

顔を上げたらいい。疑うならば指をここに当てたらいい。それで信じられるなら、わたしのからだにふれてご覧、手を伸ばしてわたしのわき腹にふれてみるといい。あなたのしたいようにしてご覧…!

主イエスからそう促されたトマスは、いったいどうしたか。福音書記者ヨハネは「トマスは喜んで手を伸ばして主イエスのお体に触った」とは、書いていないのです。触ったか触らなかったかということが一番大切な事柄であるなら、この直ぐあとの29節で、"トマスはそこですぐに、主イエスのお体に手をふれた。主イエスのわきに指を差し入れた。そしてその釘あとにふれた"と書いてあっても、よいはずです。

しかしまた実は"触らなかった"とも書かない。触らないでそう申し上げた、とも書かないで、そんなものはどこかへ吹き飛んでしまった! すっ飛んでしまった――。

信じない者ではなく、信じる者になりなさい――。

目の前に、今、立ち、そう呼びかけたもう主がおられるのですから!

扉にかたく鍵をかけ、怖れ、疑い、戸惑い――自分でもどうしてよいかわからない思いのなかに閉じこもっているその場所に、並々ならぬ決意をもって、われわれの隔ての壁を突き破り、主が、キリストが入って来てくださった!

ある説教者は言います。「(およみがえりの)主イエスが、いま、ここにおいでになった、このことにぶつかりまして、このトマスは、もはや、自分の目のたしかさや、自分の手のたしかさを信じることができなくて、それよりも、主イエス・キリストを信じることの方が、どれだけたしかか、ということを知ったのだ」と。

「信じる」。それは、もちろん、自分を信じるのではありません。また、キリストのおよみがえりを信じられるかどうか、という自らの決断や確信に立つのでも決してない。「信じる」。それは、主が、どんなときも信じ抜いてくださっているわたしを知ること。このわたしを絶えず信じ、わたしのために祈り、愛し抜いてくださっているキリストのお姿にこころ打たれること――。

わが主、わが神…!

もう、わたしはわたしの主人ではない。あなたがわたしの主。わたしは神ではない。あなたがわたしの神、わたしのまことの支配者であられる――。
 
この告白、信仰を呼び覚まされる者を、主イエスご自身が、「幸いな者よ…!」と語りかけてくださるのです。



 






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