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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2018年バックナンバー(1)


「聖霊に満たされ」2018.5.20
「祝福しながら」2018.5.13
「友と呼ぶ」2018.5.6
「つながっていなさい」2018.4.29
「あなたはなにもかもご存知です」2018.4.22
「岸に立っておられた」2018.4.15
「このことを知らせた」2018.4.8
「復活なさって」2018.4.1
「裸で逃げてしまった」2018.3.25
「光のあるうちに」2018.3.18
「世を愛された」2018.3.11
「イエスの言われる神殿とは」2018.3.4
「身代金として」2018.2.25
「イエスを荒れ野に」2018.2.18
「彼らと一緒におられた」2018.2.11
「祈っておられた」2018.2.4
「権威ある者として」2018.1.28
「わたしについて来なさい」2018.1.21
「あなたはわたしの愛する子」2018.1.14
「贈り物として献げた」2018.1.7
「光の子として」2018.1.1

*2017年10月〜12月の「今週の聖句」はこちらへ。

 聖霊に満たされ
2018.5.21  
神ア 伸 牧師
一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録 第2章4節)
復活祭から五十日目(ペンテコステ)のきょう、私どもはひとつのことを心に覚え、想いを集めたいと願います。〈ペンテコステは祈りの出来事なのだ〉という、ただその一点に――。

そうです、皆さん! 神の聖霊の注ぎは、いきなり、何もないところに起こったのではありませんでした。復活の主イエスが祝福のみ手を高く上げたまま天へと昇って行かれたのち〈祈っていた〉ひとたちの姿を使徒言行録は伝えます(第1章13-14節)。十一人に加え、そこには女性たち、主イエスの母マリア、主のきょうだいたちがおり、熱心に〈祈っていた〉。ひたすら心を合わせ、百二十を超える者たちが使徒として一つになっていた、と言うのです。

そうです、皆さん! ペンテコステは、何よりもまず祈りの出来事なのです! そしてその祈りに神がお応えくださった明確なしるしとして〈一同が聖霊に満たされる〉という、驚くべき出来事が起こったのでした。

そこでは皆が「ほかの国々(この出来事を見に集まって来たあらゆる国の人たち)の故郷の言葉で話していた」とは、何度聴いても不思議なことで、わたしも、聖霊に満たされると二か国語が話せるようになるのか、などとイメージしたものです。けれども今、改めて「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」(11節)との一節に、ふかく心を打たれます。

わたしは信じます。聖霊に満たされたとき、そこで語られるのは、自分だけの、自分一人が納得し満足できる言葉ではないのだと。わたしと違ってはいけない、同じようになれと、上から押しつけ、無理やり説得するような言葉では決してないのだと。

相手の言葉を尊び、相手に伝わる言葉で、その人をも生かし、救う「神の偉大な業」を語るのです。ただひとつの福音をまっすぐに伝え、分かち合うのです。「神から遣わされたナザレの人イエス」のことを。人びとにはげしく嘲られながら、私たちを罪から救うため十字架で殺されておしまいになったが、神によって復活させられた主、イエス・キリストのことを――。

小さな声だっていい。ゆっくりでもいい。うまく言おうと考えなくていい。語るべきことは、聖霊が教えてくださるのですから。あの日、聖霊によって動かされ語り始めたペトロ。かれの言葉をなぞるようにしながら、相手を生かす第一声を、このわたしから始めたい。

皆さん、どうか知っていただきたいことがあります…!


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 祝福しながら
2018.5.13
 神ア 伸 牧師
イエスは………祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
(ルカによる福音書 第24章50-51節)
復活なさった主イエス・キリストの〈昇天〉の出来事を覚え、想い起こすきょうの主日。何と言ってもまっすぐこころに響いてくるのは、次の一節です。

主イエスは………祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

主は、祝福のみ手を下ろすことなく、そのお姿のままで天へと上げられました。そうです、皆さん! およみがえりの主イエス・キリストは今も、弟子たちに、そしてその弟子たちに連なるこの私ども一人ひとりに向かって、今このときも、大きく広げた祝福のみ手を下ろしてはおられません! 何とありがたいことでしょう。

ここで「祝福する」と訳されているもとの文字には、「よい言葉を語る」という意味があります。神が主イエス・キリストを通して、私どもによい言葉を語ってくださる。神が私どもを肯定してくださる、と言い換えてもよいと私は思います。

あなたはよい…。あなたはかけがえのない神の作品なのだ…!

創世記第1章の最後にある「見よ、それは極めて良かった」という神の祝福を、どうか想い起こしていただきたいのです。神は、お造りになったすべてのものを改めてご覧になり、こうおっしゃいました。

ああ、実にすばらしく、美しい――。これを造ってよかった。この人を造ってよかった…!

この神の祝福のまなざしのなかで、わたしたちはこの世界を見、この神の祝福のまなざしのなかで、自分自身を肯定することができるのです。

この決して揺らぐことのない事実が、主イエスとの別れにもかかわらず、あの日の弟子たちの顔を輝かせました。「大喜びで」神を讃美するこころを、かれらの内に起こしたのです(52、53節)。私どももまた、驚きつつ感謝し、神へ賛美をささげたい。

神よ、わたしの存在を肯定してくださってありがとうございます。わたしも、わたし自身の存在を喜んで受け入れます。そして受け入れます。わたしと共に生きる、神よあなたが愛しておられる隣りびとを――。

弟子たちを祝福するため高く上げたその両手には、いまだ十字架のみ傷が残っていたことでしょう。 そのみ傷によって、私どもは癒されました。このお方にきょうも祝福され、支えられている私の存在、あなたの存在こそが、何にもまさる、主の祝福の証しであるのです。


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 友と呼ぶ
2018.5.6
 神ア 伸 牧師
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
(ヨハネによる福音書第15章15節)
あなたはわたしの友だ――。

きょう、福音書の真ん中から響き、あふれ、立ちあがって迫ってくる主のお言葉に、わたしはこころ震えます。こんなにありがたい、幸いなことがあろうか、と。

そうです。わたしたちは「わたしは主イエスの友だ」と言って、近しい者や愛する者に、日々出会う人たちに自己紹介することができる! そうすることを、主イエスご自身がこころから望んでおられるのです。

これまでも主イエスは、ご自身とわたしたちとの関係について「わたしは良い羊飼い…あなたがたはわたしの声を聴き分ける羊だ」(第10章)とおっしゃいました。そして先週聴いたところでは、「わたしはまことのぶどうの木…あなたがたはその枝」(第15章1〜10節)だと言われたのです。その言葉に続く「わが友よ!」との呼びかけです。

わたしには、ぐいぐい迫ってくるのです。主イエスはきょう、ここで、わたしたちと更に親しい、ますます緊密な関係を求めて踏み入って来ようとされているのだと――。ぶどうの木(幹)とその枝。これは何と言っても同じ一つのもの。どちらの一方を欠いても存在することができない、一体化されていると言ってよいものです。既に、キリストというまことのぶどうの木の枝であるわたしたちです。このわたしたちなしにキリストは存在しようとされません。そしてわたしたちもまた、このお方なしに存在することはできないのです。

いいえ、このわたしだけではない。一人ひとり、わたしたちの目にはもしかするとバラバラに見えるかもしれない一人ひとりが、もうすでにキリストという同じ幹からいのちをいただいて生きている、豊かな実を結ぶようにと支えられている枝、友であるのです。「だから」と主は言われます。

片時も離れず、このわたしの愛にとどまっていなさい! ただそれだけでいい。

あなたの苦しみ、悲しみ、悩み、声にならず、もはや自分ではどうすることもできない痛み――それは、決してあなたひとり、その枝だけの痛みではない。一つの枝の痛みは、その木全体の苦しみ。このわたしの苦しみなのだ。恐れるな。友よ、わたしにつながっていなさい! 最後の敵である死でさえも、わたしから、あなたを引き離すことはできないのだから――。

この主がきょうもあなたを支え、いつくしみ、養ってくださっています。あなたは独りではないのです。

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 つながっていなさい
2018.4.29
神ア 伸 牧師
わたしにつながっていなさい。
(ヨハネによる福音書第15章4節)
わたしにつながっていなさい! まことのぶどうの木であるわたしに――。これは、主のご命令です。単に現状のつながりだけを言われているのではなく、〈片時も離れずしっかりとつながり続けていなさい!〉という命令、はげしい訴えであるのです。

わたしにつながっていなさい! まことのぶどうの木であるわたしイエスに――。このわたしにあなたがたがつながっていられるのは、どこまでも子であるわたしを愛おしみ、丹精こめて、確かな手応えをもって育んでくださるまことの農夫としての神がおられるからこそなのだ――。主はそう言われます。

今日ほど、人と人とが深いところでの〈つながり〉を求めている時代もないと感じます。そして実にさまざまな方法で、いともたやすく、たとえ顔と顔を会わせずとも、少し環境が整いその気にさえなれば、わたしたちは今すぐにでもつながりを実感できるでしょう。わたし自身も、その恩恵を受けているひとりです。

そのような中で、私どもはきょうの主イエスのお言葉を、どう受けとめるでしょうか。このお方はハッキリと、たいへん強い言葉で迫って来られます。

わたしを離れてはあなたがたは何もできない。そう、何も――。だから、わたしにつながっていなさい! 今、あなたがたはもうすでにわたしにつながっている。けれどあえて言おう。どうか片時も離れず、このわたしにしっかりとつながり続けていてほしい…!

どうか、あなたたちの目に見えること、耳に聞こえてくる言葉だけがすべてだと思わないでほしい。体が弱り、心もふさぎ込んでしまい、闇の力が襲い来て、光のまるで見えない漆黒の中を歩んでいるようだと思うそのときにも、どうか自らを見限らないでほしい。

大丈夫だ。わたしがあなたとつながっている。わたしは十字架にかけられたが、今や復活してここにいる。農夫が自分のためでなく、そのぶどうの木を養い生かすためにあるように、今、まことのぶどうの木であるわたしは、その枝であるあなたがたのためにこそある。わたしが復活であり、命である。わたしはよみがえった! あなたが生きるために――。

他の木の枝ではなく、十字架の木を負いつつも生き、よみがえったわたしの枝となれ…! と主は呼びかけます。実りは幹ではなく、その枝にこそもたらされます。キリストによるゆるし、救い、信仰、愛は、その枝であるあなたに今、実るのです。

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 あなたは何もかもご存知です
2018.4.22
 神ア 伸 牧師
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。……「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
(ヨハネによる福音書 第21章17節)
キリスト教会の伝統では、〈喜びの主日〉と呼ばれるこの日曜日。けれど、きょう私たちと共に立つのは、復活の主を前に、喜んでいるどころか、目に涙をため、悲しみで目を真っ赤にしている、ペトロの姿です。

「あなたはわたしを愛しているか」との問いかけに、たとえ悲しくても、「はい、主よ」と三たび応えることができたペトロ――。もしかしたらこのとき「そんな人は知らない」とキリストを重ねて否んだ、自らの姿を想い起こしていたかもしれません。「あなたのためなら命を捨てます…!」というこころからの激しい告白が、脆くも崩れ去ってしまったあの夜のことを。

けれど、皆さん! 今、ここでのかれの悲しみはもう、いつまでも癒えず、拭われないものではないのです。今、かれを揺り動かしているのは、復活のキリストの前での涙であり「わたしを愛しているね…!?」と問われるお方との出会いの中で、愛によって引き起こされた悲しみであるのですから!

もう、ペトロはかつてのように「知らない」とは応えません。ただ、「あなたはご存じです」と応えるのです。たとえ悲しくても、いいえ、悲しいからこそ何度でも「はい、主よ、あなたがご存じです」と!

はい、主よ。今、わたしにはハッキリとわかります。わたしがここにあるのは、わたしがあなたを愛したからではない。あなたがわたしを最初に、そして今も愛し続けていてくださるからだということが! 主よ、あなたがこのわたしを知ってくださっている、信じてくださっている。それだけで十分です!

先週もお伝えしたことを、重ねて申します。このペトロと同じく、主は、あなたのすべてをご存知です。すべてを知っておられる主は、決してあなたを見捨てず、あなたから離れず、あなたに向き合っていてくださるお方。十字架の死に打ち勝ち、復活なさった神のみ子は、今、まるであなたがいなければ一時たりとも生きてはいけないかのように、わたしを、あなたの愛を、全霊で求めてくださっています。

あなたは、わたしを愛しているね…!?

あなたがどんなにこのお方を愛しているかは、主がご存知です。だから、たとえ悲しくとも、喜びのただ中へと、涙を拭ってくださる復活の主の愛に捉えられて、私たちは歩み出して行けるのです!

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 岸に立っておられた
2018.4.15 
神ア 伸 牧師
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。(ヨハネによる福音書第21章4節)
ガリラヤ湖畔、夜明けの岸辺に、およみがえりの主イエスが立っておられた…! このとき弟子たちは、それがすぐに主イエスだとはわかりませんでした。距離もあり、ようやく白み始めた景色の中で、まだ互いも薄ぼんやりとしか見えなかったのかもしれない。

しかし、主イエスだけは、確かなまなざしをもって、ずっとかれらを見つめておられたと信じます。愛する弟子たちが、なお不確かなこころを掻き消すかのように夜を徹して苦闘する姿を、このお方だけは、深い愛をもって見ていてさったのだ、と。

わたしは重ねて信じます。ここで主は、夜が明けたから岸におられたのではない。復活のキリストが岸に立たれたからこそ〈夜が明けた〉ことを!

そうです。復活の主イエス・キリストの顕現、これこそ闇の夜にまことの光をもたらす夜明けなのです。「しかし、その夜は何もとれなかった」(3節)。弟子たちは地上にあってはなお古いいのち、過去を生きていると思っていたけれども、今、復活のキリストが岸辺に立たれたことによって、すでに〈夜は明けた〉。新たないのち、新しい時が始まっているのです。

わが子たちよ、何か食べられるものを得たか(5節)。
この主の問いに対して、ペトロたちは「何もありません」と答えることができました。何と幸いな応答でしょう! かれらはもう、持たないのに持つ者のようにふるまう必要はなく、ないことを隠し、取り繕う必要もなかったのですから。

皆さん、たとえ自分の無力、貧しさ、弱さに打ちひしがれることがあっても、どうか自らを見限らないでいただきたい。それは、このわたしに「愛するわが子よ…!」と訪れてくださるおよみがえりの主のもとにある無力であり、貧しさであり、欠けであるのです。

私たちはそれぞれ、この主のみ前に一対一で、まさに裸で、何もないままに立つのです。そして、できないことに思いつめてではなく、またできることに思い込んででもなく、何もないわたし自身のままに、空の手を差し出せばよい! 主が、必ず満たしてくださる。

主は、すべてをご存知です。決してあなたを見棄てず、離れず、向き合うお方――。私たちの恐れと、弱さと罪のゆえに十字架にかけられたこの方は、今、あなたがいなければまるで生きてはいけないかのように、あなたの愛をひたすらに求めておられます。

もう、私たちは「あなたはどなたですか」と尋ねる必要はない(12節)。あなたがこのお方を愛していることを、主はご存知です。いいえ、キリストがわたしを愛してやまない。それだけで十分なのです!


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このことを知らせた
2018.4.8 神ア 伸 牧師
マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
( マルコによる福音書第16章10節 )
キリストはよみがえられた!

わたしは毎年、主イエス・キリストのご復活を祝うこの季節を迎えるたびに、伝道者パウロの次の言葉がふかくこころに沁み入ります。

良い知らせを伝える(=説教する)者の足は、何と美しいことか。(ローマの信徒への手紙第10章15節)

けれど、驚くべき喜びの知らせを伝えるため、急ぎ走ったマグダラのマリアも、二人の弟子たちも、ほんとうにもどかしく、悔しかったに違いありません。「わたしたちは主イエスにお目にかかったのよ…!」。そう一所懸命に、重ねて訴えても同じ仲間が耳を傾けず、信じず、受け入れてくれないのですから(11、13節)。自分の言葉の無力を痛感しただろうとわたしは思う。

そこに、主ご自身がお姿を現された。主は、私どもに"あなたの不信仰はよくわかるよ"とはおっしゃらない。お叱りになるのです(14、16節)。けれども、それは見限ったからではありません。「愛ゆえに」叱咤なさる。ただ、あなたへの愛ゆえに――。ご自身の子である私どもが不信仰を乗り越えてゆくために、このお方はあなたに向き合ってくださる。真剣に、熱情をもって!

わたしは、重ねてほんとうに胸を打たれます。主のおよみがえりを伝えるために選ばれ、急ぎ走るその足の何と美しいことか…!と言われているのが、マグダラのマリア、そして名も記されていない二人の弟子たちであったということに!

常日頃から主イエスのお傍にいた弟子たちではなく、この三人に、およみがえりのキリストは現れてくださった…! 他の誰よりも、この三人の口を通してこそ、まず復活のメッセージは伝えられた! 自らの罪と弱さを抱えつつ、それでも懸命に主にお仕えしようとする者、周囲からの心ない偏見と差別によって、罪びとのレッテルを貼られていた者――。主はそのような人びとを真っ先に訪ね、共にいてくださった。

キリストはよみがえられた…!

私どもは、この知らせを一刻も早く届けようと走り出した、この弟子たちに連なる一人、ひとりです。世の終わりを超えて続いてゆく、主イエス・キリストの言葉を語り継ぐ者たちです。

どうか、喜びのメッセンジャーである皆さん、こころの重い日に、小さな声で、しかしきっぱりと、まずあなた自身に向かって口にしてみてください。「キリストはよみがえられた!」重い雲が垂れ込める日に、先行きが見えない日に、自分に語ってください。

あの方はほんとうによみがえられた!

そのとき、必ず新しい光が差し込みます。

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 復活なさって
2018.4.2
神ア 伸 牧師
あの方は復活なさって、ここにはおられない。
(マルコによる福音書 第16章6節)
キリストはよみがえられた!

み使いからの知らせを聞いたとき、居合わせた女性たちは皆、一目散に逃げ出し、震え上がり、それを誰かに告げることさえ、できなかったと言います(8節)。

「あのお方は、ほんとうに死なれたのだ。」目を背けたくなるような事実のただ中にあっても主イエスへの愛を貫き、十字架上での死を見届けた女性たち。そして三日の後、冷たくなった主のお体にせめて香油を…と急ぎ訪ねた早朝の墓で与えられたのは、もぬけとなった空の場所に響く、神の言葉であったのです。

キリストはよみがえられた!

主は、死に打ち勝たれた。人の手ではもはやどうすることもできない最後の敵である死と戦ってくださり、神の力によって、闇深き死そのものを、もろとも吹き飛ばしておしまいになった。人の力では決して吹き飛ばすことのできない死を、神が吹き飛ばしておしまいになったのだ、神は、生きておられるのだ…!

その事実に触れたとき、どんなに深いおそれが生まれたことでしょう! 女性たちを絶望の底に叩き落とすための恐怖では決してありません。生きておられる神が、この女性たちを確かに捕えてくださったからこそ起こった〈聖なるおそれ〉です。

さらにみ使いは告げます。

あなたがたの行くべきところはほかにある。主があなたがたに先立ち、あなたがたの先頭に立って、ガリラヤへと導いて行かれる…! このお方のあとを、きちんと、ついて行きなさい。

わたしたちの主は、十字架によってその歩みを絶たれるお方ではありませんでした。神は今、生きておられます。そしてその歩みをさらに先へ、もっと先へもっと先へと、進めて行こうとされる。私どもの、わたしの、あなたの日々の生活の中、あなたのガリラヤへと働きかけることを通して! およみがえりの主は死を超えて、私どもを導いておられるのです。

たとえ私どもの目に、耳に、こころに、どんなに醜く恐ろしい知らせが入ってきたとしても、神は生きておられます! この世界に、神は確かな、導きのみ手を伸ばしてくださっているんだ――。

主よ、どうか、あなたがなさった、その驚くべきみわざの前に、深いおそれを知ることができますように。そのおそれの中で、なお、深い喜びを、知ることができますように。私どもに先立って歩んでくださる、主のみ名によって祈り、願います。

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裸で逃げてしまった
2018.3.25 神ア 伸 牧師
一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
(マルコによる福音書第14章51-52節)
主イエスが十字架へと向かわれる一連の出来事の中で登場するひとりの若者、それは福音書を記したマルコ自身であり、後の教会のひとたちがかれの姿を匿名で福音書に編み直したのだ、と受けとめられてきました。マルコはこのときの出来事を、繰り返し、幾度も物語ったのです。

主イエスが逮捕された夜、弟子たちはみな逃げてしまった。そのときにこのわたしもいた…!

きっと、マルコはあの夜、寝巻き(亜麻布)のまま、ゲッセマネで祈られる主イエスのお姿を遠くから、じっと見ていたに違いありません。その後の逮捕劇の中で主を見捨て、一目散に逃げてしまった弟子たちの姿も――。

そんな自分めがけて人びとがやって来た。慌てて走ると、寝巻きに誰かの手がかかった。だから思わず脱ぎ捨て、なりふり構わず素っ裸で逃げた――。恰好のいい姿じゃありません。けれども、走り、逃げ回ったかれは繰り返し、人びとの前で伝え続けたのです。

わたしを、主イエスが捕えてくださった! わたしを捕まえたのは群衆ではなかった。おくびょうで、裸で逃げたわたしをも、主イエスはよみがえって捕えてくださった。そしてわたしは今、このようにしてあなたがたに、主イエスの訪れを、語るようになった――。

このマルコによる福音書は、紀元70年頃、キリスト者への迫害厳しいローマで記されたと伝えられます。みんな、カタコンベと呼ばれる地下墓所に息を潜めて集まり、主イエスの言葉に耳を傾け続けたのです。それだけに、ここに出てくる群衆、ユダ、弟子たち、ひとりの若者――それぞれに自分の姿を、深く重ね合わせて聴いたに違いないと思う。

若者であったマルコは、やがて復活の主にお会いして伝道者となり、ひたすらに語り続けたのだと信じます。

わたしは、恐れのゆえに、主イエスを愛していたのに捨ててしまった――。しかし、それよりもなお深い、ゆるしをもって、それよりもなお強い、愛をもって、主イエスはわたしを捕えてくださった…! だからわたしは今、ここに、あなたの前に立っている。

皆さんも、必ず立ちあがることができる。あなたのもとにも、明るい光が注がれているから――。それは、たとえ、どれほど夜の闇が深くとも、時代の闇が色濃くとも、私どもの罪が深くても、どのような深みにも届く光です。復活の光に照らされた主の十字架が、あなたをこの日も立ちあがらせ、生かします。

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光のあるうちに
2018.3.18
神ア 伸 牧師
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。    
(ヨハネによる福音書第12章36節)
ああ、今、わたしは心騒ぐ…! 父よ、どうか、わたしをこの時から救ってください。しかし、わたしはまさにこの時のために遣わされたのです。父よ、御名の栄光を現してください。(27-28節)

マタイ、マルコ、ルカ福音書が伝えるゲッセマネの祈りと並ぶ、ヨハネ福音書による、十字架を前にした主イエスの祈りです。まるで叫ぶような主イエスの祈りに、ご一緒にこころを傾けたい。

光と闇とがせめぎ合い、そして多くの者たちが闇の方を好み、引きずり込まれてゆく――。このただ中で、わたしはあなたがたを裁くために来たのではない。あなたを救うため、闇の中から光の中へと引き上げるため、光の子として生かすためにこそ来たのだ…!

光は、主イエスが十字架にかけられ、殺されておしまいになるわずかの間にだけ輝いていたのではありません。もうすぐ消えてしまう、闇が光に追いついてしまうから、そうなってしまわないうちに急ぎなさい、と主は催促なさっているのではありません。

今、光があるのです。私たちは目の前に、光を仰いでいるのです。私たちの主、光の主イエスご自身を!
この世の支配者は、闇こそ現実であって、光など幻想ではないかと思い込ませるように巧妙に私たちを誘うのです。そのようにしていつも主イエスに、そして、このお方に従う者たちに戦いを挑んでくるのです。

その闇の現実にむかって、十字架の主イエスが、宣戦布告をなさる。私たちのために、私たちと共に、戦っていてくださるのです。

光を信じて、光の子として歩み、生きなさい…!

私たちは、この主のお言葉を、すでに主イエスの十字架とおよみがえりによって救われた「光であるわたし」として、今、共に聴き取りたい。エフェソの信徒への手紙はハッキリとこう告げます(第5章8節)。

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

光の子として歩むのです。礼拝に急ぐ歩みだけではありません。朝目覚める、食事をする、身の回りのことをする。片づけをする、務めに勤しむ、友と、愛する者と語り合う、祈り、眠る――。私たちは、ひと足ひと足、歩いているように日々の生活を創っています。その私たちの一歩一歩の歩みに、キリストの光が見えている! 私たちの日々の歩みそのものが、すでに光であるのです!

私たちは、日々、光を仰いでいます。よみがえられた主のいのちの光です。その光がすでに、私どもを包み、私どもの存在の中に沁みとおって来ています。

光の主よ、闇の色なお濃い、この世界の中に、私たちが光の子として生かさていることの尊さを、改めて受けとめ直すことができますように。私たちの生きるいかなる場所にあっても、光であり続けさせてください。

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 世を愛された 
2018.3.11
神ア 伸 牧師
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書 第3章16節)
きょうの聖句は「聖書の中の聖書」。そう呼ばれてきたところです。語られているメッセージをひと言に凝縮して「神は、愛なり」と言うこともできるでしょう。聖書66巻のすべてのメッセージは、山の頂であるこの聖句を目指して積み上がっている。こう言っても、決して言い過ぎではないと信じます。

神は、この世を、愛された。今も愛しておられる。あなたの歩む道、あなたが生きているこの世界は、神の愛の御手のなかにある。この神の愛は、決して変わることはないし、裏切ることはない…! その独り子をお与えになった愛であるからだ――。

神は、ご自身にとってかけがえのない、ご自身そのものにほかならない独り子をお与えくださいました。もっと言えば、この世に属するものとして、私どもの仲間としてくださったのです。

神の御子が来てくださった! そしてこのお方は、とても手の届かない、高く遠いどこかにおられるのではなく、誰しもが手の届くように、誰もが出会うことができるように、貧しい家畜小屋の飼い葉おけにお生まれになりました。この世と、世に生きるすべての人びとを救うために――。

しかし、驚くべきことに、神がお渡しくださったその独り子を、この世は殺してしまった…。この世にとっていらないものして、十字架に滅ぼしてしまった! それだけの意味が、この聖句には込められています。

わたしにとっても、数えきれないほど聴き、読み、祈るようにして暗唱してきたみ言葉です。ほんとうに何度向き合っても、まるで初めて知らされた福音であるかのように、激しくこころ揺さぶられるのです。

ああ…神はその独り子を犠牲してまでこの世を愛されたのだ。この世はその愛に報いることがなかったのに、それでも神はしぶとく、その愛を貫いてくださった。枯れて、滅びてゆくほかないような世を、その愛をもって耕してくださり、この世に生きる者の中に、独り子が死んで、およみがえりになったことを信じる者たちを、一人またひとりと、つくり出し続けてくださっているのだ――。

もう、滅びの世ではないのです。この世は変わった! そしてわたしも、あなたも、わたしたちの隣り人も、神に愛されています。主イエス・キリストを通してわたしたちに顕された神の愛が、滅びることは決してありません。


信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一 第13章13節)

主よ、あなたの愛を、どのように語り伝えたらよいでしょうか。あなたがこの世を愛し、このわたしを、わたしたちを愛していてくださることを、どのように感謝し、生きることができるでしょうか。あなたが私どもを支え、生かしてくださる喜びのなかに、どうか、今日も生かしてください。

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 イエスの言われる神殿とは
2018.3.4
 神ア 伸 牧師
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
(ヨハネによる福音書第2章21節) 
わたしは、今日「主イエスのお体が神殿である」という聖句を前にして、この福音書の初めにある言葉、証言を想い起こします。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(第1章14節)。

この「宿られた」という文字は、「テントを張る」という意味を持ちます。福音書記者ヨハネは、およみがえりの主イエスがおいでになったのは、私たちの間にテントを張ってくださったということなのだ、と短い言葉で、驚きと感謝を高らかに歌うのです。

主イエス・キリストが私たちのところに来てくださった! すぐ耳もとで声が聞こえるほどに、触れることができるほどに、主が私の近くへと来てくださったのだ――。何と幸いなことだろう…!

長い間、遊牧民としての生活を営んだ聖書の人びとは、テントを担いで移動をしました。ある場所にテントを張って家畜を離し、辺りの草を食べ尽くすと次の場所に移動する。その繰り返しです。ある場所に大きな丸太をどっかりと定め、一つ、またひとつとテントが町のように、あちらこちらの草原にできあがっていく。そしてその中のひとつに、主イエス・キリストがお出でになった! しかもそのテントが、光り輝いている――。

私たちの毎日は、決して明るいばかりではありません。また私たちの毎日は、家のなかからこそ、暗いことが起こることも多いのです。家族との間に、いさかいが起こることがありますし、独りであったらあったで、また、つらい思いをするのも家の中です。

私たちは、家の中で、学校で、病院で、職場で、いろんなことがおありでしょう。しかしそういうとき、"スッ"と外を見てみる。こころのカーテンをほんの少し開けて、教会のある方を見てみるのです。するとそこに、およみがえりになった光り輝く主イエスが、町の真ん中に座っていてくださる。〈生きた神殿〉として!

主イエス・キリストは、それほどに私どもの近くへと来てくださったのです。この街の真ん中に来てくださったのです。新しい、生きた神殿として。それだけではない。今、あなたを訪ねてくださる。今、あなたのもとへと急いで向かっておられます!

不安と恐れのただ中にあって、うずくまっていた弟子たちをご自分のほうから訪ねてくださった、手もわき腹にも傷跡を残す甦りの主よ。今、あなたを求めるあなたの友を、どうか速やかに訪ね、祝福をお与えください。慰めを、励ましを注いでください。

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 身代金として
 2018.2.25 神ア 伸 牧師
人の子は………多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
(マルコによる福音書第10章45節) 
主イエス・キリストは、今日、はっきりと約束してくださいます。

わたしはあなたたちを、あなたを救うために来た。自らの命を身代金のように支払って、一人ひとりを、そのひとを縛りつけている罪の縄目から解き放ち、救い出す…! そのためにこそわたしは来たのだ――。

主は、これほどまでに、私どもを尊い者として見ていてくださるのです。主は、決して私どもをお棄てになることがない!

日々の生活において私どもは、必ずしも、自分の命を高く見積もられているわけではありません。私どもをさまざまに評価するひとがいます。能力がある、能力がない。健康だ、健康でない。幸せだ、不幸だ――しばしばそのようにして、さまざまな秤に私どもをかけ、評価し値段をつける。

そうしていつの間にか、私どもは自分の命を小さなものとして見積もってしまう。ことによると、自分などほんとうは生きていてもしようがないのではないか…などと、とんでもない過ちでありながらしかし、そのように思い込まされてしまうことがあるのです。
けれども主イエスははっきりとおっしゃる。

あなたを救い出すために、わたしはこの命を献げる。あなたはあなたを、あなた自身を、そんなに小さく見積もっちゃいけない。わたしは何としても、あなたが生きているその価値を、知ってほしい。わかって欲しいのだ…!

きょうの聖句は、主イエスがいよいよ都エルサレムを目前にして、ご自分の十字架での出来事を、弟子たちに伝える中で語られた言葉です。ご自身が受けることになる苦しみについても、はっきりと予見なさった(32−34節、38節)。

そんな中でなされた、二人の弟子のいささか呑気ともとれる、まるで甘えたような願いをも(35,37節)、ほんとうに驚くべきことに――主イエスは退けておられません! わたしはここに、まことの慰めがあると思います。主は、このヤコブとヨハネに対して、一度たりとも眉を顰めておられない。わたしはそう信じているのです。

あなたを救い出すために来た、このわたしに信頼して欲しい…! もっとわたしに甘えて、すがって欲しい、もっとわたしに、あなたの願いを言って欲しい…! そして、たとえ、負わなければならない苦しみがあるとしても、わたしが共に歩もうではないか――。

どうか、この主イエスの御声の中で、私どもが解き放たれ、この大きな光の中で、喜ぶべきを喜び、悲しむべきを悲しむことができますように。そして、主イエスと共に、負うべき荷を、負って行く勇気を、私どもに与えてください。

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 イエスを荒れ野に
2018.2.18  神ア 伸 牧師
それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。
(マルコによる福音書第1章12節) 
きょうの聖句を前に、わたしは驚き、とても不思議に思った。主イエスの洗礼にあたり「わたしはあなたのことが嬉しい…!」(11節直訳)とおっしゃった神は、ご自分の懐にその独り子を抱かれたのではない。すぐに、強いて荒れ野へと送り込んだ。いいえ、元の文字の意味を強調して訳し出すと「放り捨てた」のです!

荒れ野には、ヨルダン川が流れています(5節)。岩や石とともに、緑はある。木だって生えていたでしょう。けれども、その土地を、人は捨てたのです。あまりに荒れ果て住み続けられないからと。そして、そのように人に捨てられた場所に、主イエスは捨てられた。神から投げ捨てられた…!

ガラテヤの信徒への手紙は、そのように一人取り残され、誰からも顧みられない者のことを、「荒れ野のような人」(第4章27節/原文であり、翻訳は違う)と言っています。ほんとうに切なく、悲しく、胸が締めつけられる言葉です。

私どもにもっとも耐え難いこと、それは"人に捨てられる"ことに違いないとわたしは思う。重い病に襲われます。さまざまなアクシデントで、幸福に見える世間から外れてしまう。そのとき私どもは思う。"ああ…社会から落ちた。人に捨てられた――"。これもまた、ひとつの荒れ野でしょう。そのとき、まことしやかにサタンが囁くのです。

神は、いくら祈っても荒れ野の中にあなたを放り出したままじゃないか。神なんか信じて生きることに意味などないんじゃないか…。

しかし、その荒れ野に、神はまず、主イエスを投げ捨てられたのです。どうか忘れないでほしい。そこに立ち、私のために、私ども一人ひとりのために〈祈って〉おられる主イエスのお姿を!(第1章35節)。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所(荒れ野)へ出て行き、そこで祈っておられた。

祈っておられた――。私どものためにです。私どもが荒れ野を独りで生きなくてもよいためにです。疲れ果て"神など信じて生きることに意味はない"。そのようなサタンのセリフを吐かなくてすむように、です。

たとえ、人が私どもを捨てたとしても、神は私どもを、決して捨てることはなさいません。そのことを明らかにするために、神が、まず主イエス・キリストを捨ててくださったのです。私どもの傍らに…!

どうか主よ、あなたの祈りの中を、あなたと共に生きさせてください。どうか、私どもが、決してあなたを見失うことがないように、助けてください。

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 彼らと一緒におられた
2018.2.11 神ア 伸 牧師
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた
(マルコによる福音書 第9章8節)
「山上の変容」と呼ばれる出来事です。聖書は、人の子であった主イエスが、ここでこのとき急に神の子になられたと語っているのではありません。

神の子として天に属する存在であり、これまでも絶えず天の父なる神と、祈りをもって独り深い交わりをしてこられた方――。と同時に、弟子たちと日々、眠る暇もないほど埃にまみれて宣教と愛の奉仕に勤しむ方――。どちらも主イエスのまことのお姿であり、このお方がわたしたちの主なのです。

それにしても、エリヤとモーセという聖書の代表者と親しげに語りあう主を見て「どう言えばよいのか分からない」ながらも、思わず「何とすばらしいことでしょう…!」とペトロは口にしました(5、6節)。夢か現か幻か。それほどに驚くべき光景であったのです。

やがて、主イエスの衣の輝きが失せ、エリヤとモーセの姿も消えたとき、ペトロ、そして二人の弟子たちにハッキリ見えたものがあると、聖書は語ります。この短い聖句こそ、きょうの福音だとわたしは信じます。

弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
主イエスが彼らと「一緒におられた」。ただそこにおられたのではない。ただ弟子たちの前や後ろにおられたのでもない。弟子たちは、自分たちと一緒にいてくださる主イエスを見た。その主イエスと一緒にいる自分たちをハッキリと、改めて見つけたと言ってもいい。
そしてこの主イエスの背後から、神の声が響いている。

あなたがたは、わたしが愛するこのイエスに聴け…!

この主イエスに従っていてよいのです。イエスの後に従うことには間違いがないのです。この方についていくときにのみ、与えられる喜びがある。

そうです! 私どもは、時々、こころ痛んで、苦しんで、悲しみが深くなって主イエスのお姿がまるで見えないと思えるような、遠く、暗い淵をくぐらなければならないときがあります。けれどもそのとき、遠くを見る必要はない。ふと傍らを見たらよいのです。そこに、必ずあなたと共にいてくださる主イエスのお姿がある!

わたしは、礼拝に立つごとに、会衆席に座る皆さんお一人おひとりを見ながら思います。"ああ…! 何とこのみなさんお一人おひとりの中に、よみがえりの光が、すでに射し込んでいることだろう…!"

私どもの目の前に、私どもの傍らに、今、その光があるのです。

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 祈っておられた
2018.2.4
神ア 伸 牧師
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
(マルコによる福音書第1章35節)
安息日の終わりを告げる夕暮れ、主イエスのもとには、癒しを求める人びとの長い列ができあがりました。
主は、一人ひとりを深くあわれみ、み手を触れ、夜を徹して癒してくださった(第1章32−34節)。

しかし、主は、このカファルナウムの町にいるすべての人を癒されたのではありません。たとえば、100番までの整理券を持った者までは癒されたけれども、101番からの整理券を持ったひとにはついに順番が回ってこなかったのです。主は、朝早く「ほかの町や村へ行こう」と出て行かれた。私は「主よ、どうしてですか。シモン・ペトロのしゅうとめを癒し、起きあがらせてくださったように、時々お休みになってでも、なぜみんなを癒してくださらなかったのですか…!?」と問いたくなる。

と同時に、私は、この癒しを求める101番からのひとたちを後にしたとき、主は、ご自分の内側にふかい痛みを覚えながら、ご自身がほんとうに苦しみながら、その一歩を踏み出されたに違いないと信じます。それでもこの方には、どうしても歩まなければならない道があったのです――。そう、十字架への道です。

私は、きょうの日課の真ん中にある、祈っておられる主イエスの姿に、ほんとうにこころ打たれます。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた(35節)。

ここでの主イエスの祈りの内容は伝えられていません。しかし私は信じます。ここで主イエスは、ご自分の耳に届いてくる声を、叫びを一身に受けながら、ほんとうに内臓が引き裂かれるようにして祈っておられたのだと…! あのゲッセマネの園での祈り、そして、十字架上での祈りをここでもなさっていたのだと。

神よ、この杯をわたしから取り除いてください。この一人ひとりの叫びを、わたしはとても負い切れない。しかしわたしの願いではなく、あなたがもしもそれをみこころとなさるのなら、わたしは十字架へと向かいます。あなたが愛する、この一人ひとりのために――。

主は、わたしと、あなたの、我らの叫びを耳に、こころにしっかりと留めながら祈っていてくださる。

わが神、わが神、なぜ私どもをお見捨てになったのですか…! どうか、お見捨てにならないでください。

ここに私どもの幸いがあります。キリストの祈りに支えられ、生かされて、私どもは、わたしは今日も友のために祈りたい。あなたは恵みのなかにあるのです、と――。

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権威ある者として
 2018.1.28  神ア 伸 牧師
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
(マルコによる福音書第1章22節)
今日のところには、人びとの驚きの息遣いが満ちています(22節、27節)。そうです、「わたしの後ろについて来なさい」と呼びかけられ、主に従った弟子たちを待っていたのは、安息日の会堂における、驚きの礼拝だった…!

そこで、主イエスは何度でも、繰り返しこのメッセージを語られたと、私は信じます。

わたしと共に新しい時が巡って来た――。もうすでに、新しい神の愛によるご支配が始まっている。神の許へ帰っていらっしゃい。あなたは、喜びの中を生きてごらんなさい…!(第1章15節)

これは、神について解釈した言葉ではありません。神ご自身の言葉です。その言葉そのものの中に、いのちの手触りがある。だからこそ、その主イエスの言葉、お姿に、人びとは驚きこころを打たれた――。

主イエスは、ほんとうにご自身の言葉と存在が一致している方でした。語りっぱなしのままには決してなさらない。また、性急に行動へと走られるのでもない。人を救い、真に癒し、生かすため、ご自身の言葉と存在のすべてをかけて向き合ってくださる。
そのことの証しとして、主イエスはここで、悪しき霊に苦しめられながら会堂でご自分の説教に耳を傾けていた、ひとりの男性を解き放ってくださいました。

黙れ…! この人から出て行け――。

私どものこころの中には、時に、さまざまな声が鳴り響いていています。自分だけではない、あの人の声、この人の声も、大きくこころの中に渦巻いていることがあります。褒められればうれしい。けれど、けなされた言葉はなかなか忘れることができず、苦しい。こころの中がいつまでもざわめいている。主イエスはその私どもの間近で、大声で叫んでくださる。力ある、しかしやわらかなみ声に違いないと、私は信じます。

黙れ…! この人から出て行け――

ペトロをはじめ弟子たちが目の当たりにした、このまったく新しい言葉の力を、主は今、ここで私どもの礼拝にも響かせてくださる。

私どもが、主イエスに愛されているからです。私どもが自分で自分を見ているよりもずっと遥かに、確かな力で、私どもは愛されているのです。これほどの驚きがほかにあるでしょうか。

私どもは共に祈ります。どうか、私ども捕えていてくださる主のみ声の中に、今日も生きさせてください。

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わたしについて来なさい
2018.1.21
神ア 伸 牧師
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
(マルコによる福音書第1章17節)
ガリラヤ湖のほとりで、このように呼びかけられた四人の漁師が、主イエスに従う弟子とされました。

〈従う〉とは、単純に、このお方に〈ついて行く〉ということです。もう少し丁寧に言うと、主イエスの〈後ろから〉ついて行くということです。「わたしの後ろに来なさい…!」と主はおっしゃった。

そして、この四人の漁師たちにとっては、それはたいへん、具体的なことでありました。仕事を捨て、家族を手放し、主イエスの後ろについて行く。それではいったい、どこへ行ったのだろうか。

読み進めていきますと、何とも思いがけないことに、安息日の礼拝のあと、主イエスは、すぐにペトロとアンデレの家へと向かわれました(第1章29節以下)。

シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので……イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

このことは、ペトロにとって強烈な、ほんとうにかけがえのない体験であったに違いないと思います。主イエスの呼びかけに応えたときには、もう二度と戻ることはないだろうとさえ、思ったかもしれない家です。かれはびっくりしてお尋ねしたでしょう。「主よ、なぜわたしの家などに行かれるのですか!?」。

けれどひとつ確かなことは、ペトロはここでも、主イエスの〈後ろに〉立ち続けたのです! そしてこのときの主イエスのみわざ、その背中を、いったいペトロは、どんな思いで見つめていたのでしょう――。

そう、主に従うとは、このお方の後ろに立つということです。いつも主イエスの背中が見えている…!

そのことが、私どもの生活において決定的な意味を持ちます。ひとりの父として、母として、夫として妻として子として、共に生きるというとき、さまざまな人間関係の中で生きるというときに、どんなときにもしかし、私は主イエスの後ろに立ちながらこの人と一緒に、あの人と共に生きているのだということが、ほんとうに決定的な意味をもつと信じます。

相手と共に生きるとき、わたしがこの人と、あの人と向かい合うとき、あるいはわたしの支えを必要とする、愛する者のところへ帰って行くとき……しかしもう皆さんは独りではありません。主が共にいてくださる。私どもの前を、歩いていてくださるのです。

その主イエスの背中を、いつもしっかり見つめていたい――。こころからそう願います。

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あなたはわたしの愛する子
 
神ア 伸 牧師 2018.1.14
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
(マルコによる福音書第1章10−11節)
教会の暦で今日は「主の洗礼日」。主イエスが、ここにいる私どもに先立ち、私どもすべての先頭に立って、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けてくださった。そのことを想い起こす礼拝です。

主イエスの洗礼を通して、福音書記者マルコは、「天が裂けた…!」と伝えます。同じ場面を伝えるマタイやルカは「天が開いた」という(マタイ第3章16、ルカ第3章21)。まさに天が裂けるほどの想い、神から人に対する想いが溢れています。

さらにそこから神の霊が鳩のように、まっすぐ主イエスに向かって降った――。そのとき以来、この地は新しくなりました。神はこの世界を愛し、決して放ったままにはなさらないのだという、みこころが溢れてやまない地となったのです! そして、声が響きました。

わたしは、あなたのことが嬉しい…!(11節/直訳)

この言葉を、自分自身への語りかけとして受けとめ戴いたときに、私は、それこそとても嬉しい思いになりました。
ああ、神さまは喜んでおられるんだ。このわたしのことを…!

私たちが、主イエスに続き、このお方に従って洗礼を受けるとはどういうことか。洗礼を受けると、天から声が聞こえるのです。「あなたのことが嬉しい」と呼びかけてくださる、神の声です。神が定めてくださったあの日、あのときに洗礼を受けたあなたは、その天の声を聴き取ったでしょうか――。聞こえたに違いないと、私は信じます。そして、今はまだ洗礼を受けておられないあなたにも、神はこの声を届けたい。そのために、一人ひとりにふさわしい時と場が、必ず与えられると信じます。

今、恐れている方はいらっしゃるでしょうか。今、疲れて重荷を負っている方はいらっしゃるでしょうか。私は、そのような方々に牧師としてほんとうに無力で、ほとんど何もすることができません。けれども、たったひとつだけできることがある。天から聞こえてくる、この神の声を伝えることです。

あなたは神に愛されている。喜ばれている。神の子として、大切にされている…!

どんなことがあっても、この天からの声が揺らぐことありません。つらいとき、恐れに縛られて自由になれないと苦しむときに、この言葉を想い起こし、この神の愛によって、どうか、今日も立ち続けていただきたい。こころからそう願います。

私どもは神に愛され、喜ばれている、神の子なのです。

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 贈り物として献げた
2018.1.7  神ア 伸 牧師
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
( マタイによる福音書第2章11節 )
星に導かれ、お会いした救い主に自らの宝を〈献げるために来た〉東の国の博士たちの物語。ルーテル教会の暦では、新年最初の主日に読まれるこの物語をもって、クリスマス期間が閉じられます。

一度読んだら忘れることができない、たいへん美しい物語です。いったい、素朴に言ってなぜ私たちはこの博士たちの姿に、魅力を覚えるのでしょう。

かれらが献げ物をしたからだと、私は思います。そして、かれらの献げものを、受けてくださる神が確かに生きておられるということに、慰めを見出しているからだと信じます。この博士たちの献げものは、決して空振りに終わることはない!

これらの献げものは、博士たちの仕事道具でもあっただろうと言われています。今の聖書では「占星術の学者たち」と、訳し変えられたこのひとたちは、星の研究をし、その動きを読みながら、ときに魔術的なことも取り入れ、その星の動きによって運命が定められているということを教えたのです。

そして、その星の動きを丹念に調べていたかれらだからこそ、神に教えて頂くことができました。
我々は星の動きになど左右されてはいない…! そうではなくて、星をつくり、星を、動かしておられる神が生きておられるんだ…!

その大きな喜びに立ったときに、自分たちの持っていたものを見つめながら、"もうこれは要らない"と悟ることができました。

そこで彼らがしたことはまさに、自分自身を神の御手の中に投げ出してしまう、ということであったと思います。自分の人生も、将来も、ある意味では運勢も、全部まるごと神さまの御手の中に置いてしまった!そこに、何にも代えがたい喜びが生まれました。喜びに包まれたまま、この学者たちは、自分たちの国へ帰って行った――。

しかし、来たときと帰るときと、どんなに違って見えたことであろうかと思います。

この世界は、星が支配しているんじゃない。冷たい運命が支配しているのでもない。神の愛が支配している、この世界なんだ! この私も、神のご支配の中に生かされているんだ…! その喜びの中に、今はもう不安ではなく、確かな平安の中にある。

皆さんもまた、自分の家に帰ることが、おできになります。皆さま一人おひとりのうえに、クリスマスの祝福を祈ります。
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  光の子として
 2018.1.1 神ア 伸 牧師
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
(エフェソの信徒への手紙第5章8節)
聖書はあなたに伝えたい。私どもが光そのものであることを。光と「なる」のではない。暗闇を飛ぶ蛍が点滅するように、私どもがこの世界に散らされて行くとき、すでに一人、ひとりが、光の源となってこの世に輝いていることを。

そうです。主なる神は、天地創造のとき、混沌と闇が支配するただ中で、「光あれ」とおっしゃった口を、今もなお閉じてはおられません。私たち一人ひとりに向かって、今、ここで語りかけておられます!
 
光あれ…! あなたは光の子だ。
 
その光が具体的に現れるのは、私どもの言葉であるとこの手紙は語ります(第4章25節、29節、第5章6節、19節)。

私どもは、言葉のもつ怖さをよく知っています。私自身のこととして正直に申しますが、時に、相手に対して思わず滑ってしまう言葉があります。そして言ったそばから、なぜこんなことが心にうかんできて、それを言ってしまったのだろう、どれほど相手を悲しませ、傷つけていることだろう、と悔やんでばかり。ほんとうは、ひとを造りあげ、慰める言葉をこそ語りたいのに――。いったい自分のこころはどれほど疲れ果ててしまっているのだろう、と。

けれど、もしそうであったとしても、その私を自分で諦めたり、見限ったりすることなく歩んでゆきたい。私はそう祈り続けます。

私たちには、ゆるしがあります。眠れぬ夜に、自分や相手の声が、たとえ幾万回自分を責めようとも、キリストはおゆるしくださっているのです。あなたを、愛しておられるのです。

私どもの行く先には、希望があります。私どもが眠れぬ夜に希望を見失おうとも、たとえどれほど私の明日を、行く先を、人間関係のこじれを危ぶもうとも、キリストが私たちに希望を見出されないときはありません。

私たちは、およみがえりの主イエスによって、すでに「光である」のです! それが、私たちのほんとうの姿。もし、私たちがその姿を忘れてしまったとしても、主がお忘れになることは決してありません。

どうか、主イエスが見ていてくださるように、私たちが自分を見ることができますように。主イエスが見ておられるように、私たちが隣り人を見ることができますように。

私を光としてくださった主イエスに応えて、少しずつでもいい。時間がかかってもいい。私たちが、小さな光を、あなたのゆるしを、希望を、愛を、語り運ぶ者として生きることができますように――。

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