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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2018年バックナンバー(2)


「イエスに触れていただくために」2018.10.14
「やめさせてはならない」2018.10.7
「いちばん先になりたい者は」2018.9.30
「それではあなたがたは」2018.9.23
「すべて、すばらしい」2018.9.16
「パン屑(くず)はいただきます」2018.9.9
「人の中から出て来るものが」2018.9.2
「漕ぎ悩んでいるのを見て」2018.8.26
「深く憐れみ」2018.8.19
「十二人を呼び寄せ」2018.8.12
「驚いて言った」2018.8.6
「わたしの服に触れたのはだれか」2018.7.29
「静まれ」2018.7.22
「夜昼、寝起きしているうちに」2018.7.15
「イエスが家に帰られると」2018.7.8
「手を伸ばしなさい」2018.7.1

*2018年1月〜6月の「今週の聖句」はこちらへ。

イエスに触れていただくために
2018.10.14 神ア 伸 牧師
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。
(マルコによる福音書 第10章13節)
ある信仰の作家が、子どもであるということは手を差し出すことだ――。そう言っています。わたしは、「人びと」(おそらくおとな)に手をひかれて主のもとにやって来た子どもたちの姿を思い浮かべながら、目の前に情景が広がったのです。ああ…ここでの子どもたちは、まさしくそのような一人、ひとりなのだ…!と。

見なさい…! 神の国はまさにこのような者たちのものなのだ。そう主イエスはおっしゃる。

ただ一途に、信頼するお方に向かって手を差し出せばいい――。そのとき、私たちもまた「子どもである」のです。共に生き、わたしを受けとめてくださる方を求めて、手を、主イエスに向かって差し出す。それは、苦しい時の神頼みなどでは決してありません。わたしたちの生きる力そのものです。

ここで主イエスは、ハッキリとおっしゃいます。「神が、くびきにつないでくださったものを、人が離してはならない」(9節/直訳)。

農耕で働く牛やろばなどを互いにつなぐ「くびき」。この言葉からわたしたちは、どこか束縛された、不自由な生活を思い浮かべて、自由とはこのくびきをなくすことなんだ。そんなふうに考えるかもしれません。
しかし、主イエスが言われる自由とは、むしろ、わたしの人生のくびきを喜んで負えることにある! そうです、人間は、たとえどのような立場にあろうと、おとなであろうと子どもであろうと、結婚していようとしまいと、この地上で生きている限り、わたしたちは皆、くびきを負っているのです。

そして、くびきとは、自分以外の誰かと共に負うもの、共に生きる相手に、「手を差し出す」ことです。
もう一度申します。くびきとは、自分と誰かをつなぐもの、つながるものです。このわたしが「手を差し出すこと」です。誰かが共に負ってくれているから、つながっているから、そして、わたしのためにくびきを負ってくれる人がいるから、わたしはわたしでいられる! もしも、そのくびきを苦しみとするものがあるとすれば、それはくびき(重荷)そのものではなく、あなたの「心の頑なさなのだ」と主はおっしゃいます。

これらの言葉を語っているお方の、真のおこころに触れて、わたしたちは今日も平安のうちに休みたい。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ第11章28−30節)

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 やめさせてはならない
2018.10.7
神ア 伸 牧師
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」
(マルコによる福音書 第9章39節)
わたしたちの中で、いちばん偉いのは誰か――。主イエスの背中で議論していた弟子たちが、主イエスにこう報告したところから、今日の出来事は始まります。

先生、お名前を使って悪霊を追い出している(まだあなたを信じていない)者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。(38節)

ヨハネが言います。「わたしたちに従わないので」と。そこには、自分たちはすでにこのお方に従っているんだという優越感、したがって、そうではない者がイエスさまの名を勝手に使うなどけしからん、というような――自分たちと異なる存在・相手をのけ者にする思いが働いていたと、わたしは受けとめます。ほんとうに悲しく、愚かなことですが、わたしたちにも、このようなこころが働くときがあるのです。

主イエスはおっしゃいます。

やめさせてはならない。するままにさせておきなさい。かれらの人生を祝福し、救いへと導くのはあなたがたではない。このわたし、〈主イエス〉なのだから! あなたがたがやめさせることではないのだ――。
いったい、弟子たちは、主イエスの「どうかいちばん低いところで、小さくされた相手に仕える者として生きてほしい」という願いを、また、子どもをみ腕に抱き上げ、「わたしの名のためにこのような幼子のひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。」「あなたが出会う小さな一人、ひとりの顔の中に、わたしが映っていることを受け入れてほしい…!」と言われた主イエスの祈りを、どのように聴き、受けとめていたのでしょうか。

主は、ここで〈わたしの名〉と言われます。そうです!このお方のみ名は、いつも、いつでも、小さくされた者と結びついている! そして、わたしたちが「主イエス・キリストのみ名によって」と祈るとき――そのとき、わたしたち自身がまさに小さい者、このお方の助けがなければ一時も生きてはいけない幼子のような者とされるのだと、わたしは信じます。

わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は……。(37節)

わたしの懐に、いま抱かれている子どもは、あなたたちだ。まさしくあなたなのだ――。そのように、わたしに抱かれ、導かれている一人、ひとりとして、今日も祈ってほしい。ただ、「主イエス・キリストのみ名によって」と…!

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 いちばん先になりたい者は
2018.9.30  
神ア 伸 牧師
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
(マルコによる福音書第9章35節)
私どもはしばしば、人の前では一番前に立つことを嫌がります。しかしいったん人から離れると、こころの中では実は自分が一番になりたいと思っている。それなのに、人の前に行くと妙に遠慮してみせたりする。そういう私どもに、主イエスはおっしゃる。

あなたはそのように、こころの中であれこれ取引をするな…! わたしは、「誰も先頭に立つな」と言っているんじゃない。やはり誰かが先になり、責任を引き受けなければならないのだ――。

私どものなかにはさまざまな意味で、力を持っているひと、財産を持っているひとがいるでしょう。しかし、そういう一人ひとりはやはり大切なのです。一番前に立たなければならない。と同時に、財産や、ずば抜けた力など無くても、私ども一人、ひとりに神から与えられているタラント(賜物)が必ずあるのです! それをもって人の前に立つ、人をリードしていく――。そういうよさを皆、誰もが持っているのです。

けれどもしかし、その責任を持ちながらなお、〈仕える〉。ただひたすら目の前の相手に仕える。最も低いところに立つことが求められるのだ…! どうか、よぅく聞き、このとおりに生きていてほしい…!
主は、ご自身の背中で議論していた弟子たちを呼び寄せ、今、私ども一人ひとりへとお語りになる。

そして、カファルナウム(ペトロ)の家で――主はそこにいたひとりの子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げ、言われました。

あなたの周にいる一人ひとり、その一人ひとりの横に、わたしの顔がのぞいているのを見つけて欲しい…!

私どもの周りにも、小さな、自分に厄介をかける子どもたちがたくさんいます。年齢や立場にかかわらず、面倒なことばかり言う、子どもです。イヤなことばかりを言う、また自分の考えを邪魔するご近所の、それこそエプロンをつけた子どもたち。いつでもがみがみ自分を叱りつける、ひげを生やした子どもたち――。いくらでも、私たちの偉さを、私どもの行く道を阻むかのような一人ひとりが登場します。

その一人ひとりに仕えるために、その一人ひとりを解き放つために、十字架へと向かわれた主、イエス・キリストの祈りが、鼓動が、あなたに聞こえますか。

どうか、その一人ひとりを受け入れて欲しい。それがわたしを受け入れることなのだ…! どうか、わたしの顔を、町行く人びと、家のなかにいる一人ひとりの横に見出してほしい――。

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 それではあなたがたは
2018.9.23
神ア 伸 牧師
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
(マルコによる福音書 第8章29節)
主は、問うておられます。

ほかの誰かではない。あなたがたはわたしを何者だと言うのか。どうか、わたしをキリストと呼んでほしい、あなたこそ救い主だと呼んで欲しい。そこにこそ、ほんとうにあなたが解き放たれる場所がある。この、異なる教え、このまったく異なる価値観の世界にあっても、はっきり目を覚まして生きて欲しい…!

今日のすぐ前(22-26節)には、主イエスがひとりの目の不自由であった人を癒された出来事が伝えられています。その人に主イエスは、一度だけではない。二度! み手を触れて、何でもはっきり見えるようにしてくださいました。それに続く今日の出来事です。

そうです、主イエスはここで、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねながら、私どもの目を開けてくださるのです! 見るべきものを見ることができるようにしてくださる。そして、このお方がほんとうの救い主であるということが「分かる」。それが、"はっきりと見えるようになる"ということです。

私たちが生きるこの時代は、信じること、望みを抱くこと、愛すること。そんなことは何の意味もない――。そうささやく声に満ちています。きょうの舞台のフィリポ・カイサリア地方の中心であった皇帝の神殿、パーンの神の神殿が、今もなお私たちを騙します。

そこに主イエスは一喝をなさる。

サタン、引き下がれ! あなたは神のことを思わず、人間のことばかりにこころが向いている。この世の声に、惑わされて、この世の声を、自分の声として幾度も繰り返すな。今の自分を見つめ、周りと比べて、自分は駄目な人間だ、自分は役に立たない、必要とされていない人間だ、自分は愚かな人間だ――。そんなふうにつぶやきながら、わたしを見失わないでほしい。

主が向き合ってくださり、ペトロの目、私たちの目を幾度も幾度も触りながら――告げてくださる。あなたはもう自分を、わたしイエス以外の何ものの秤によっても量らなくてよいのだ、と…!

あなたの声を、主は聞きたがっておられます。

わたしをキリストと呼んで欲しい。あなたこそ救い主と呼んで欲しい。あなたのために、いのちを棄てたわたしの姿を、あなたと出会うために、死と墓を踏み砕き よみがえったわたしの姿を、決して見失うな! 見える者となってほしい…!

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 すべて、すばらしい
2018.9.16
 神ア 伸 牧師
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
(マルコによる福音書 第7章37節)
わたしは、すばらしいと思います。主イエスのなさる奇跡はいつ も、人びとの賛美を呼び起こさずにはおかないのですから! しかも、この歌を歌っているのは、神に最初に選ばれたユダヤの、信仰の人びとではありません。ユダヤの人びとが神への賛美、主イエスへの賛美を歌う前に、かれらから見れば外国の、異なる神々を信じていた人びとが、ここではみんな声をあわせ、高らかに歌っている。神の子をたたえる歌を――。

そして、その舞台の真ん中にひとり連れ出された、「耳が閉じられ舌のもつれている人」(直訳)。私どもも、時に、言いたいこと、伝えたいことがじょうずに出てこないで、舌がもつれてしまうことがあります。ましてや"この方のなさったことはすべて、すばらしい"とは歌えないときがある。

あるいは、愛すべき隣りびととして与えられているもっとも身近な者がおり、学び舎や職場の仲間、同僚たちがいる。けれど、その一人ひとりに愛の言葉を語りたいと思っても、どうもうまくいかない。その人の言葉をちゃんと聞きたい。その人のほんとうに語ろうとしていることを聞きたいと思っても、耳が閉じられ聴くことができなくなるのです。そして、こころまで深く閉ざされてゆく――。

けれど、そのようにこころ閉ざされてしまっているわたしを、主イエスは放っておかれない! そして、このわたしよりもまず先に、あなたよりもまず先に、周りの者に歌を歌わせてくださるのです。

この方のなさったことはすべて、すばらしい…!

主イエスは歩くお方です。ただ、ひたすらに――(31節)。私どもは何か乗り物を使うとき、どこでもそれが通過点になり、しばしば目的地だけが目的になってしまう。しかし、主イエスは歩かれました。ひとりの人をも、見逃さないようにするためです。こころ冷たくなって、舌ももつれ、耳も閉じられてしまっている、そのひとりを見逃さないためです。そして、ご自身の息吹を感じられるほどすぐ前に立ち、祈ってくださる。

「エッファタ…!」あなたよ、開け――。そして、歌うことができるようにしてくださいます。

この方のなさったことはすべて、すばらしい…!

あなたの前に、主イエスがおられる。あなたを通り過ぎないように、きょうも、主イエスは歩いてあなたを訪ねて来られます。


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パン屑はいただきます
2018.9.9
神ア 伸 牧師
主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。
(マルコによる福音書 第7章28節)
今日の出来事の真ん中にいるひとりの女性――主イエスとお会いするのは初めてでしたが、「食卓からこぼれ落ちたパンくず」を、このお方の前にひれ伏す前から、かの女はすでに拾い、いただいていたのだ…! そうわたしは信じます。

かの女が拾ったのは、あの五千人以上の人びとを満たし、なお十二のかごにあふれた、「残りのパンくず」でした! そのような食べ残しのパンが(第6章43節)この女性を立ち上がらせたのです。

一見するとくずのような、しかも、弟子たちには理解できなかった福音、恵みのかけらが(52節)、このひとを立ち上がらせた! そうです、ほんとうに小さな、かけらのようなみ言葉が私たちのこころをとらえ、動かし、立ち上がらせる。くずもまたパン、まったく同じ福音、恵みであるからです!

主は、このとき「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられ」ました(24節)。自分には刻一刻と、時が迫っている。今は喧騒を避け、静かに父なる神と祈りをもって語り、対話したい――。だから主は、かの女だけではない、ここですべての人を退け、関わりを拒もうとされたのだと、わたしは思います。
そして、神のみ子であるイエスは、十字架を目前にして独り、切にこう祈られました。

アッバ、父よ…あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、みこころに適うことが行われますように――。(第14章36節)

そうなのです! このとき、ここでは、まさに主イエスご自身がこの女性なのです!「父よ、どうかこの苦しみを取りのけてください…! どうか…」と祈り続けながらしかし、現実には神の「否!」である十字架の死への道を、進まれることとなった主――。だから、このお方だけが、ただこのお方だけが、真実にこの女性の立場に立つことがおできになる! わたしには、そのように福音がぐいぐいと迫ってきます。

私たちとほんとうに真剣に、火花散るような激しさをもって向き合ってくださるのは、私たちを一人も置き去りにすることなく、すべてのいのちを救うために、ご自身のいのちを尽くして「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしたちをお見捨てになったのですか。どうか、お見捨てにならないでください…!」と叫ばれたお方です。

私たちに、わたしに、あなたに、今日も恵みのかけら、福音のパンくずを確かに手渡してくださるのは、およみがえりになった主、イエス・キリストであるのです。

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 人の中から出て来るものが
2018.9.2
神ア 伸 牧師
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
(マルコによる福音書 第7章15節)
今日、主イエス・キリストのほんとうに厳しい、しかし愛に満ちたお言葉を前にして――わたしには次の詩編詩人の祈りが、まさに自分のこととして、圧倒的な迫力をもって迫ってきます。

神よ、わたしはあなたに向かってよい言葉、明るい言葉を語り、何よりも神よ、あなたを賛美したいのです。だから、そういう清いこころを、あなたがわたしの内につくり出してください。そして、あなたがわたしのこの唇を開いてください…!
(詩編第51編12、17節)

そして、この詩人は、かたく信じているのです。

もし、わたしが自分の中に明るいこころが見出せなくなるときがあり、また、どうも自分の遠くで物事が語られ、関係ないところで多くの出来事が起こっているように思えて苦しむときがあったとしても、神が、必ずこのわたしに清いこころを造ってくださる、と――。

そうです、皆さん! 今日、このわたしにも、あなたにも、神は必ず賛美するこころをくださり、明るい言葉を語れるようにしてくださいます。

私たちは時に、「こころにもないことを言ってしまった…」と後悔し、あるいは決して本意ではないのだけれども、結果として相手を傷つけてしまい「あれは本心ではなかった」と謝ることがあります。けれども、主イエスの眼差しから見れば、私たちはこころに無いことを語るのではない。こころにあることが溢れ出てそれが外に出てくるのだ、とおっしゃるのです。

言葉というのは、ほんとうに重いものです。私たちは、言葉ひとつで相手を悲しませ、傷つけてしまうこともあれば、同じ言葉で相手を生かし、励ます、いのちのことばを口にすることができるのです!

主イエスは、私たちのことを、ほんとうに心配していてくださいます。時に、あまり考えずにいろんなことを語ってしまう私たちを、ほんとうに心配していてくださる。そして私たちに、ことばの重さを教えてくださるのです。私たちを深く深く、心配しながら――。

だから私たちは祈るのです。

主よ、どうかよい言葉を語り、人にいのちを与え、あなたをほめ歌う唇を開いてください。口癖になった暗い言葉を、脱ぎ捨てさせてください。人を喜ばせることがなく、自分さえも悲しませる言葉があるとすれば、あなたが滅ぼしてください。いのちの言葉を運ぶ者とさせてください。あなたを仰ぎ、あなたによって変えられて、歩み続けて行くことができますように。

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 漕ぎ悩んでいるのを見て
2018.8.26
 神ア 伸 牧師
(イエスは)逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
(マルコによる福音書 第6章48節)
パンと魚の奇跡ののち、刻一刻と闇が深まり濃くなってゆく中、主イエスはひとり山の上からまた陸地から、逆風のために漕ぎ悩み、進みあぐねる弟子たちを見つめておられました(48節)。ただ漠然とご覧になっていたのではありません。そうではなく、ご自身の祈りの中で、弟子たちを見ておられたのです! そうです、主は、ずっと祈っておられた。かれら一人ひとりのために――。

私どもの人生、現実の生身の生活には、時に向かい風が吹き、一所懸命やっているのにすべてが裏目に出るようなこと、うまく行かないと感じて悩み、苦しむことがあります。そのとき、今日の弟子たちのようにすぐそばで頼るべき主イエスがおられないなら、また「強いて」このお方と引き離さてしまったように感じているなら、ほんとうに心細いことでしょう。目に映るのは、ただただ漆黒の闇しかない。そんなただ中ですから、自分たちの方へと向かって来る主イエスを見て、「幽霊だ…!」と叫んでしまった弟子たちの思いも、わたしにはうなずけるような気がするのです。

けれど、み言葉は今日、声高らかにわたしたちに告げます。
安心しなさい…! 主イエスはあなたを見ておられる。このお方の祈りのまなざしの中に、あなたは確かに置かれ、包まれてあるのだ。それが、私たちの主、イエス・キリストの祈りなのだ――。

そうです、皆さん! いつも、いつでも、どんなときも、私ども一人ひとりは、この主イエスの祈りの中にあるのです。

いつまで経っても明けることのない夜だと感じ、闇の中で、こころは萎えきり、恐怖に駆られることがあります。けれど、どうか信じていただきたい。もし、そのときわたしの目には主イエスのお姿が見えなくても、主イエスのまなざしの中にはしっかりとあなたがいることを! たとえ、そのときには主イエスが自分のそばを通り過ぎて行かれるように思えたとしても、あなたは、このわたしは絶えず主イエスの祈りのまなざしの中にあり、祝福され、愛され、守られていることを――

主イエスは私どもの、あなたの怖れを決して放ってはおかれません。怖れる者の舟へと乗り込まれます。主が私たちの、あなたの人生へと乗り込まれるとき、波は必ず静まります。

安心しなさい。わたしだ…! 恐れることはない――。


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 深く憐
このページの先頭へれみ

2018.8.19 
神ア 伸 牧師
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
(マルコによる福音書 第6章34節)
「深く憐れみ」。この小さな文字は、福音書において、主イエスのおこころを表すときにだけ用いられる、特別な文字なのです。

私どもも、ほんとうに辛いとき、心臓の鼓動が速まったり、消化器の弱い方はそれこそ胃がキューっと絞られるようになったりと、さまざまな痛みが、弱い部分に出てくることがあるかもしれない。あるいは、そういう辛さの中にある友を前にして、何とか寄り添いたい、少しでも共感したい、と願います。

わたしは今日、ここで、ルカによる福音書が伝える「善いサマリア人」の物語を鮮やかに想い起こします。追はぎに襲われ、息も絶え絶えになっている人の傍らへ駆け寄り、抱き寄せ「憐れに思った」あのサマリア人の姿を…! そしてキリストの教会が、このサマリア人こそ主イエスご自身である、と聴き取り告白し続けてきた歴史を――。打ちひしがれて倒れ、自分の居場所を求めて迷い出ている者の痛みをほんとうにお感じになることができるのは主イエスのほかにないのだ…! と。

私どもは、どれほど懸命に努めても、目の前にある相手の痛みをそのままに、充分に受けとめきることができません。やがて疲れ切ってきょうの弟子たちのように「群衆を解散させてください」「もう帰ってもらって、自分たちのことは自分たちでやらせればよいでしょう」「主よ、何を言われるのですか。わたしたちがかれらを養うのですか!? この大群衆をいったいどうやって…」と言いたくなる。

しかし私どもの主は、深く、限りなく深く――憐れんでくださった…。この日、主イエスが奇跡をもって用意くださったこの糧(かて)を頂いても、人びとはまたすぐにお腹が空くでしょう。一食でなくなってしまう。けれどもこのお方は、その小さな一食のために、大きな愛の奇跡を起こしてくださった。

私どもの毎日というのは、小さなことの繰り返しや積み重ねによって、過ぎて行きます。そうそう大きなことが起こるわけではない。けれども、そのような小さな、ほんとうに小さな生活の断片を、主は、ご自分のまなざしに収めていてくださる。私どもの、平凡で淡々とした毎日を、主は、大きな奇跡をもって支えようとしていてくださる。

私どもを養うために来てくださった、主イエスを仰ぎます。主のいのちを頂きながら、歩んで行くことができますように。今日の終わりに、私どもが眠るときも、どうかあなたが私どもを養ってください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。

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 十二人を呼び寄せ
2018.8.12 
神ア 伸 牧師
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
(マルコによる福音書 第6章6−7節)
旧約の時代、ヤコブの息子たち十二人をリーダーとするイスラエル十二部族から、神の民の働きが始まりました(創世記)。

そして、いま、主イエスは、わずか十二人から、新しい神の民をもう一度つくろうとしておられるのです! いま、私どもに、主は語り出される。

これは昔話じゃない。あなたの物語だ…! あなたたちもこの十二人と同じように、わたしによってこの世へと遣わされているのだ――。

この直前に、主イエスご自身は、故郷のナザレで受け入れられないという挫折を味わわれたばかりでした。しかし、ナザレがダメなら、主は、付近の村を巡り歩く。それだけじゃない。何とか神の喜び、よき知らせを伝えようと、小さなキリストとして、十二人を、この付近の村々に遣わすのです。たとえ、どれほど主の言葉に耳を傾けない人びとがあっても、あきらめない。この村々を愛しておられるからです。そして、この日本に対しても、主は決してあきらめない。

帰って来い…!まことの喜びのもとに帰って来い!
主は、私どもを遣わして呼びかけ続けられる。

しかも、このとき主に選ばれたひとたちは、信仰者として、何も立派な人間ではありませんでした。ペトロなどは、実に厳しく叱られています(第8章33節)。十二人だれ一人として主イエスのことをほんとうには理解していない。主イエスに遣わされながらなお、自分の中に不信仰を抱えているのです。

しかしそれでも、語り続けるのです。主イエスの言葉をそのまま真似してみる。主イエスがお語りになった言葉をそのまま、自分の口に繰り返してみるのです。

自分もまた、ほんとうには信じ切れていないかもしれないと、不安を持ちながら語る言葉をも、神が裏打ちしてくださる! 神ご自身がその言葉は、真実だと裏打ちしてくださるのです。十二人は語りながら、「ああ、主イエスの言葉はほんとうだった…!」そのことを幾度も経験しながら旅を続けたに違いない。

私どもも、信仰の旅人として年を重ね、悲しみを味わうにつれ、苦しみを味わうにつれ、人生の課題を与えられるにつれ、「ああ…ほんとうだった」と言えるようになるのです。み言葉のほうが、それがどれほど真実なものであるかを証ししてくださる。

そして、いつの日か、天に召されて主のみ前に立つときに、私どもは報告するのです。
ああ…わたしの主、わたしの神よ、あなたのおっしゃったお言葉は、すべてほんとうでした…!

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驚いて言った
2018.8.5 
神ア 伸 牧師
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
(マルコによる福音書第6章2節)
今日の決して長くない箇所には、大きな驚きが満ちています。人びとの驚きと、それだけではない。主イエスご自身も「人々の不信仰に驚かれた」と。(6節a)

この人は、幼いころから我々がよく知っている、あの大工ではないか。我々は、そのきょうだいと姉妹、父や母のこともよぅく知っているのだ。いったい、このイエスは何を言っているのか…!?

そう言って、誰もこのお方を信じようとしない――。けれど、村人たちは最初から主イエスにつまずいたのではありません。安息日の会堂で、ほんとうにこころ打つ説教がなされたのです。驚くような奇跡が行われたのです。

ああ…! この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何なのだろう!?

それに驚き、感動するこころは皆、持っていた。けれども「それが信仰にはなっていない」と主イエスはおっしゃる。

ナザレの村の人びとがどうして、不信仰しかなかったのか。説教を聴いて感動します。奇跡を見て驚きます。しかしこのお方に向かって、「あの大工」とか「マリアの息子」と呼ぶことはできても、「神の子イエス」と、信仰を告白することができなかった――。

この出来事を通して、わたしは、自分自身が主から厳しく問われている、と受けとめます。

あなたはいつも、わたしの言葉に聴いているね。そこで、あるときは感動して涙を流し、あるときはわたしが行うさまざまなみ業に、驚き喜んでいることを、わたしはよく知っているよ。けれども、その先で、あなたは、ほんとうにわたしの前にひざまずいているか? わたしの十字架の前で、告白しているか? あの百人隊長のように――。

ほんとうにこのひとは神の子だった。(第15章39節)

主イエス・キリストの十字架の前で、ぬかずいて、跪いて、ただ、胸打たれながら、

ほんとうにこのお方は神の子だった――。

そう告白した百人隊長に、私どもが続くことを、主イエスは望み、求めておられるのだと信じます。「ここにこそ信仰の姿があるのだ…!」と。

主よ、どうか、あなたの前にひざまずかせてください。自分が知っていることに留まることなく、今、目の前にいてくださるあなたを、あるがままに見ることができますように。それゆえにまた、あなたが愛し、生かしておられる一人、ひとりを真実に敬うことができるよう、助けてください。どうか、私どもを清め、あなたを受け入れる器としてください。

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 わたしの服に触れたのはだれか
2018.7.29 
神ア 伸 牧師
イエスは………群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
(マルコによる福音書第5章30節)
「あなたが触れてくださったなら娘は生きるでしょう」と懇願し、主と共に愛娘のもとへ向かう会堂長ヤイロ。「この方の衣にでも触れられれば癒される」と群衆の中から求める、長く病にあった女性。主イエスの周りでさまざまに交差する人間の姿が、あるがままに伝えられています。

皆さん、主イエスは、ご自身を求めてすがる一人ひとりを、つまり私どもを、決しておろそかにはなさいません! どうか娘に手当てを…とひれ伏すヤイロ。治癒を望んで全財産を使い果たし、もはや空の手で群衆に紛れる女性――。主は、"あなたはちょっと待っていなさい。今はこちらの番だ"などと言われることは決してないのです。このお方は、一人ひとりのもとに足を止め、まなざしを注ぎ、ゆっくりゆっくりと歩んでくださる。私ども一人ひとりを、同じひとつの仕方で、大きないのちへと包み込んでくださる。

この女性もそうです。主イエスがどのようなお方であるのかも、癒しの確信もまだハッキリしないままだったでしょうけれど"せめて、少しでもみ衣に触ることができれば…"と、群衆の中からそっと手だけを伸ばすのです。すると、

いったいだれがわたしに触ったのか。わたしから癒しの力を、受け取った者は誰か――。

主イエスは急にぱったり足を止め、周りを忙しなく見回し出す。弟子たちの言葉もよそに、だれだ、あなたか。いや、あなたか? それともあなたなのか…!?

そうです! 主イエスが、この女性を、そして、今、私どもを捜してくださるのです! 私どもは、時に主イエスがどこにおられるのか、わからなくなることがあるかもしれない。主イエスのお姿を見失ってしまうことがあるかもしれない。だから、だからこそ! 触れるか触れないかわからない中であっても、ただ懸命に、手を伸ばすのです。主イエスの後ろから――

その私どもの精いっぱいの想い、願い、生々しいうめきを捕まえて、主は、"あなたの信仰"と呼んでくださる…! 何とありがたいことでしょう。

あなたの信仰があなたを救った。平和の中を、歩みなさい。悲しみの中、苦しみの中ではない。わたしがあなたを捜している。そこにまことの平和がある。安心して、生きなさい――。

主よ、私どもが、あなたを探すより前に、あなたが、私どもを捜していてくださいますことを、感謝を致します。どうか、あなたに捜し求められながら生きる人生の喜びを味わいながら、日々を過ごしていくことができますように。

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 静まれ
2018.7.22 
神ア 伸 牧師
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコによる福音書第4章39節)
さあ、向こう岸に渡ろう――(35節)

主イエスは今朝、弟子たち、そして私たちを、新しい冒険の旅へと誘われます。旅を続けよう。さあ、わたしと一緒に新しい場所へ行こう…!

その主のみ声をこころに置いて私どもは、このお方と共に奉仕の旅、愛の旅へと舟出をするのです。

弟子たちにとっては、漁師という熟練の舟乗りとしての、いつもの舟出だったでしょう。しかし、激しい突風と波をかぶるほどの事態に、眠っておられる主イエスを起こしてまでも窮状を訴えます。

先生、私たちが溺れても構わないのですか…!?

ようやく起きあがった主イエスは、一喝をなさる。

黙れ! 静まれ…!

風に向かって、また湖を叱ったとあります。けれども弟子たちにとっては、自分たちが叱られたように感じたに違いないとわたしは思う。主は、ここで私どもの、ご自身に対する信頼を問うておられます。
なぜ怖がるのか――。わたしが今、ここで一緒にいるではないか。あなたのすぐ傍らで眠っているではないか。まだ信じないのか。わたしが、あなたを贖ったことを。そして、わたしがあなたに信頼し、安心して事を委ね、あなたを今、用いていることを。わたしがあなたを誰よりも愛していることを、まだ信じられないのか――。

主イエスは、舟の中におられます。あなたの舟の中、わたしの舟の中で寝ておられる。だから、わたしはわたしで、ほかの何とも、誰とも比べることなく、なすべきわざを、コツコツとなしてゆけばよい。今しばらく、悲しみが続くかもしれません。苦しみも続くかもしれない。しかし、眠っておられる主イエスのすぐ傍らで、私どもはそれぞれ、自らの舟を、きょうも漕ぎ続けるのです。

主なる神よ、私どもの日々に、あなたが、み子イエス・キリストをお与えくださっていることを、感謝を致します。どうぞ、み子がいてくださるのですから、わたしはどのような波にも溺れることがないと、信頼させてください。主イエスが眠って、すぐ傍にいてくださることに、私どもが目覚めて、気づき続けてゆくことができますように。

主よ、あなたがお望みならば、今しばらく私どもの傍らでお休みください。しかしどうか主よ、私どもに耐えきれない試練を、お与えにならないでください。

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 夜昼、寝起きしているうちに
2018.7.15
神ア 伸 牧師
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
(マルコによる福音書第4章26、27節)
夜昼、寝起きしているうちに――。これは当時の、そして今でも、ユダヤの人びとの一日は日没・夜から始まるのです。日が沈むと新しい日が始まる――。不思議な気がします。私どもの感覚では、一日は朝に始まり、そして夜、終わると思っている。けれどもユダヤの人びとは夜、眠るときに、

"さあ、これから一日が始まる…寝るぞ!"と言って眠るという。

私どもはなかなかそうはいきません。今日も一日何もできなかったと思いながら、寝つけないことが時にあるでしょう。あるいは、あれこれと気になること、やり残したことがあるような気がして、落ち着かない。また、眠っている時間というのは非生産的で、無意味な時だと感じてしまうことがあるかもしれない。

けれども、主イエスがきょう、おっしゃっているのは違う。夜昼、寝起き――。まず眠るのです。そして、眠っている間に、種が芽を出す。眠っている間に、根は茎となり、穂となり、そして豊かな実ができる――。安心して眠ったらいいのです。私どもが眠っている間に、必ず!種は芽を出すのです。私どもは、100パーセント自分で働き続ける必要はありません。ことをなしてくださるのは、神だからです! その神に身をゆだねて、ゆっくり眠ったらいい。

預言者イザヤは、その神のみこころを、こう伝えました。(第55章10、11節)

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

雨も雪も、天から降るときに必ずその役割を果たすのです。神の言葉もそう。神の言葉は虚しくご自身のもとへと戻ることはない。必ず私どもの中で、あなたの内で出来事を起こし、何かを始めてくださいます。何ごとかをし続けていてくださる。

主よ、どうか私どもの内に、あなたに信頼するこころを育み続けてください。しばしばかたくなになり、やわらかさを失ってしまう私どものこころの中から、主よ、あなたに信頼するこころを、呼び覚ましてください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。

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イエスが家に帰られると
2018.7.8
神ア 伸 牧師 
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
(マルコによる福音書第3章20節)
主イエスは、私たちに"家"についてお語りになります。きょうのところには"家"という言葉がたくさん出てくる。

神の国、神の愛によるご支配が近づいた…! さあ、わたしのもとへ帰っていらっしゃい――。

そうです。初めに、こう私たちを招かれた主イエスが(第1章15節)今、私たちになさろうとしていることがある。それは、愛そのものである神が中心におられる家、神の恵みに満ちた新しい家を、私たちの中に、ご自身とともに築こうとしておられるのです!

都エルサレムから下って来た律法学者たちは、その主イエスをけなし、悪しき噂をしました。「あの男は家を支配する者。人のこころの家、こころの平和を乱し、支配してしまう者(ベルゼブル)だ」と――。

それに応えて、主イエスはユーモアあるたとえをお語りになった。ここで主はご自分を強盗にたとえておられる(23-27節)。

どうかよく聞いてほしい。たとえ、どんなにあなたのこころの平和を乱す者であっても、その者たちですら身内で争うことなどしない。一致団結してやって来るだろう。その者たちを神のみ手によって追い出しているわたしが、どうしてベルゼブルなどであるだろうか。まず、家の真ん中にいる、あなたのこころの平和を力で乱すものを働けなくするために、外からまことの、真実の支配者がやって来なければならない。そしてその家を、真実の家として、愛によって取り戻す者がやって来なければならない。それがわたしなんだ…!

そのようにして、あなたの家に、こころに、主イエスが入って来られます。愛の強盗として――。主イエスはまず、食卓に我がもの顔で座っているあなたの不安を、迷いを、痛み苦しみを捕まえ、動けなくする。そしてもう一度、あなたを愛のご支配のもとに、神の許へ取り戻しに来てくださった。

そのためにこそわたしは来た…!

まことの安らぎを、休息を、赦しを、家の中に、私たちの生活の真ん中にもたらすために、主イエスご自身が、食卓の真ん中に主人として、愛の主として座るために来てくださった――。

たとえ私どもがどんな罪を犯しても、何をしても、もしかしたら自分の良心さえもゆるすことができないとしても、主イエスは赦してくださる。くつろぎの家に迎えてくださいます。

どうか主よ、私たちのこころの家に来てください。どうか主よ、私たちの家を愛によって満たしてください。私たちの教会を、赦しの家とし続けてくださいますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。

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 手を伸ばしなさい
2018.7.1
 神ア 伸 牧師
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
(マルコによる福音書第3章5節)
神は、いのちをお望みになるお方です。その神のみこころを、主イエスはもちろん、聖書の専門家・リーダーであるファリサイ派もよく弁えていました。神はあなたが生きることを欲したもうお方である!と。

ただし、今いのちが脅かされているのでないなら、安息日の明けるのを待ってから癒したらよい。それが律法の定めでした。

これはわたし自身のこととして申しますが、ある身体的ハンディ、多少の不便があっても、それを補うことを経験的に覚えます。このひとも、そうであったかもしれません。生活に不便はあっても、それをひっくるめて神がお創りくださった作品として、日々を歩むのです。まして緊急なことでなければ主イエスもまた、

よく来たね…。けれど、日が暮れたらもう一度わたしのところへいらっしゃい。礼拝が終わり、安息日が明けたらわたしが癒してあげよう。――そうおっしゃることもできた。しかし、主イエスはここで、

真ん中に立ちなさい…! 手を伸ばしなさい――。

このひとは、礼拝堂の後ろの方に座っていたのでしょうか。ともかく、人びとからいちばん見えるところに引きずり出しておしまいになるのです。

そうして癒されると、皆で喜び祝宴が開かれた…のではなく、民のリーダーたちは、主イエスを殺そうとすぐさま相談を始める。何ということでしょう!(6節)

安息日に癒すことが善いか、悪いか――。そのことを自分の正しさを物差しとして問うているとき、身体に痛みを負って、そのためにこころまでもしかしたら傷んでいるかもしれない相手が、すぐそばいることに気づかなくなるのです。安息の礼拝に集っている者たち自身が、すでにこころを失っている。頑なになり、裁きのこころを抱え続けている。

その私どもを、主はじぃと見回し、おっしゃいます。

真ん中に立ちなさい…! わたしの前に来なさい。手を伸ばしてごらんなさい。あなたが、手を伸ばすことができるように、わたしは、あなたのかたくななこころを解きほぐし、覆う。冷たくなってしまっているこころに、わたしのいのちを注ぎ込もう…!

主よ、あなたのお顔さえも、私どもの好みに変えてしまおうとする、私どもの罪を、どうか赦してください。今、愛ゆえに怒り、ふかく悲しんでおられるあなたの前に、跪きます。主よ、どうか、私どもをあわれんでください。こころを伸びやかにし、解き放ってください。

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