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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2018年バックナンバー(2)


「十二人を呼び寄せ」2018.8.12
「驚いて言った」2018.8.6
「わたしの服に触れたのはだれか」2018.7.29
「静まれ」2018.7.22
「夜昼、寝起きしているうちに」2018.7.15
「イエスが家に帰られると」2018.7.8
「手を伸ばしなさい」2018.7.1

*2018年1月〜6月の「今週の聖句」はこちらへ。

 十二人を呼び寄せ
2018.8.12 
神ア 伸 牧師
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
(マルコによる福音書 第6章6−7節)
旧約の時代、ヤコブの息子たち十二人をリーダーとするイスラエル十二部族から、神の民の働きが始まりました(創世記)。

そして、いま、主イエスは、わずか十二人から、新しい神の民をもう一度つくろうとしておられるのです! いま、私どもに、主は語り出される。

これは昔話じゃない。あなたの物語だ…! あなたたちもこの十二人と同じように、わたしによってこの世へと遣わされているのだ――。

この直前に、主イエスご自身は、故郷のナザレで受け入れられないという挫折を味わわれたばかりでした。しかし、ナザレがダメなら、主は、付近の村を巡り歩く。それだけじゃない。何とか神の喜び、よき知らせを伝えようと、小さなキリストとして、十二人を、この付近の村々に遣わすのです。たとえ、どれほど主の言葉に耳を傾けない人びとがあっても、あきらめない。この村々を愛しておられるからです。そして、この日本に対しても、主は決してあきらめない。

帰って来い…!まことの喜びのもとに帰って来い!
主は、私どもを遣わして呼びかけ続けられる。

しかも、このとき主に選ばれたひとたちは、信仰者として、何も立派な人間ではありませんでした。ペトロなどは、実に厳しく叱られています(第8章33節)。十二人だれ一人として主イエスのことをほんとうには理解していない。主イエスに遣わされながらなお、自分の中に不信仰を抱えているのです。

しかしそれでも、語り続けるのです。主イエスの言葉をそのまま真似してみる。主イエスがお語りになった言葉をそのまま、自分の口に繰り返してみるのです。

自分もまた、ほんとうには信じ切れていないかもしれないと、不安を持ちながら語る言葉をも、神が裏打ちしてくださる! 神ご自身がその言葉は、真実だと裏打ちしてくださるのです。十二人は語りながら、「ああ、主イエスの言葉はほんとうだった…!」そのことを幾度も経験しながら旅を続けたに違いない。

私どもも、信仰の旅人として年を重ね、悲しみを味わうにつれ、苦しみを味わうにつれ、人生の課題を与えられるにつれ、「ああ…ほんとうだった」と言えるようになるのです。み言葉のほうが、それがどれほど真実なものであるかを証ししてくださる。

そして、いつの日か、天に召されて主のみ前に立つときに、私どもは報告するのです。
ああ…わたしの主、わたしの神よ、あなたのおっしゃったお言葉は、すべてほんとうでした…!

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驚いて言った
2018.8.5 
神ア 伸 牧師
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
(マルコによる福音書第6章2節)
今日の決して長くない箇所には、大きな驚きが満ちています。人びとの驚きと、それだけではない。主イエスご自身も「人々の不信仰に驚かれた」と。(6節a)

この人は、幼いころから我々がよく知っている、あの大工ではないか。我々は、そのきょうだいと姉妹、父や母のこともよぅく知っているのだ。いったい、このイエスは何を言っているのか…!?

そう言って、誰もこのお方を信じようとしない――。けれど、村人たちは最初から主イエスにつまずいたのではありません。安息日の会堂で、ほんとうにこころ打つ説教がなされたのです。驚くような奇跡が行われたのです。

ああ…! この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何なのだろう!?

それに驚き、感動するこころは皆、持っていた。けれども「それが信仰にはなっていない」と主イエスはおっしゃる。

ナザレの村の人びとがどうして、不信仰しかなかったのか。説教を聴いて感動します。奇跡を見て驚きます。しかしこのお方に向かって、「あの大工」とか「マリアの息子」と呼ぶことはできても、「神の子イエス」と、信仰を告白することができなかった――。

この出来事を通して、わたしは、自分自身が主から厳しく問われている、と受けとめます。

あなたはいつも、わたしの言葉に聴いているね。そこで、あるときは感動して涙を流し、あるときはわたしが行うさまざまなみ業に、驚き喜んでいることを、わたしはよく知っているよ。けれども、その先で、あなたは、ほんとうにわたしの前にひざまずいているか? わたしの十字架の前で、告白しているか? あの百人隊長のように――。

ほんとうにこのひとは神の子だった。(第15章39節)

主イエス・キリストの十字架の前で、ぬかずいて、跪いて、ただ、胸打たれながら、

ほんとうにこのお方は神の子だった――。

そう告白した百人隊長に、私どもが続くことを、主イエスは望み、求めておられるのだと信じます。「ここにこそ信仰の姿があるのだ…!」と。

主よ、どうか、あなたの前にひざまずかせてください。自分が知っていることに留まることなく、今、目の前にいてくださるあなたを、あるがままに見ることができますように。それゆえにまた、あなたが愛し、生かしておられる一人、ひとりを真実に敬うことができるよう、助けてください。どうか、私どもを清め、あなたを受け入れる器としてください。

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 わたしの服に触れたのはだれか
2018.7.29 
神ア 伸 牧師
イエスは………群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
(マルコによる福音書第5章30節)
「あなたが触れてくださったなら娘は生きるでしょう」と懇願し、主と共に愛娘のもとへ向かう会堂長ヤイロ。「この方の衣にでも触れられれば癒される」と群衆の中から求める、長く病にあった女性。主イエスの周りでさまざまに交差する人間の姿が、あるがままに伝えられています。

皆さん、主イエスは、ご自身を求めてすがる一人ひとりを、つまり私どもを、決しておろそかにはなさいません! どうか娘に手当てを…とひれ伏すヤイロ。治癒を望んで全財産を使い果たし、もはや空の手で群衆に紛れる女性――。主は、"あなたはちょっと待っていなさい。今はこちらの番だ"などと言われることは決してないのです。このお方は、一人ひとりのもとに足を止め、まなざしを注ぎ、ゆっくりゆっくりと歩んでくださる。私ども一人ひとりを、同じひとつの仕方で、大きないのちへと包み込んでくださる。

この女性もそうです。主イエスがどのようなお方であるのかも、癒しの確信もまだハッキリしないままだったでしょうけれど"せめて、少しでもみ衣に触ることができれば…"と、群衆の中からそっと手だけを伸ばすのです。すると、

いったいだれがわたしに触ったのか。わたしから癒しの力を、受け取った者は誰か――。

主イエスは急にぱったり足を止め、周りを忙しなく見回し出す。弟子たちの言葉もよそに、だれだ、あなたか。いや、あなたか? それともあなたなのか…!?

そうです! 主イエスが、この女性を、そして、今、私どもを捜してくださるのです! 私どもは、時に主イエスがどこにおられるのか、わからなくなることがあるかもしれない。主イエスのお姿を見失ってしまうことがあるかもしれない。だから、だからこそ! 触れるか触れないかわからない中であっても、ただ懸命に、手を伸ばすのです。主イエスの後ろから――

その私どもの精いっぱいの想い、願い、生々しいうめきを捕まえて、主は、"あなたの信仰"と呼んでくださる…! 何とありがたいことでしょう。

あなたの信仰があなたを救った。平和の中を、歩みなさい。悲しみの中、苦しみの中ではない。わたしがあなたを捜している。そこにまことの平和がある。安心して、生きなさい――。

主よ、私どもが、あなたを探すより前に、あなたが、私どもを捜していてくださいますことを、感謝を致します。どうか、あなたに捜し求められながら生きる人生の喜びを味わいながら、日々を過ごしていくことができますように。

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 静まれ
2018.7.22 
神ア 伸 牧師
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコによる福音書第4章39節)
さあ、向こう岸に渡ろう――(35節)

主イエスは今朝、弟子たち、そして私たちを、新しい冒険の旅へと誘われます。旅を続けよう。さあ、わたしと一緒に新しい場所へ行こう…!

その主のみ声をこころに置いて私どもは、このお方と共に奉仕の旅、愛の旅へと舟出をするのです。

弟子たちにとっては、漁師という熟練の舟乗りとしての、いつもの舟出だったでしょう。しかし、激しい突風と波をかぶるほどの事態に、眠っておられる主イエスを起こしてまでも窮状を訴えます。

先生、私たちが溺れても構わないのですか…!?

ようやく起きあがった主イエスは、一喝をなさる。

黙れ! 静まれ…!

風に向かって、また湖を叱ったとあります。けれども弟子たちにとっては、自分たちが叱られたように感じたに違いないとわたしは思う。主は、ここで私どもの、ご自身に対する信頼を問うておられます。
なぜ怖がるのか――。わたしが今、ここで一緒にいるではないか。あなたのすぐ傍らで眠っているではないか。まだ信じないのか。わたしが、あなたを贖ったことを。そして、わたしがあなたに信頼し、安心して事を委ね、あなたを今、用いていることを。わたしがあなたを誰よりも愛していることを、まだ信じられないのか――。

主イエスは、舟の中におられます。あなたの舟の中、わたしの舟の中で寝ておられる。だから、わたしはわたしで、ほかの何とも、誰とも比べることなく、なすべきわざを、コツコツとなしてゆけばよい。今しばらく、悲しみが続くかもしれません。苦しみも続くかもしれない。しかし、眠っておられる主イエスのすぐ傍らで、私どもはそれぞれ、自らの舟を、きょうも漕ぎ続けるのです。

主なる神よ、私どもの日々に、あなたが、み子イエス・キリストをお与えくださっていることを、感謝を致します。どうぞ、み子がいてくださるのですから、わたしはどのような波にも溺れることがないと、信頼させてください。主イエスが眠って、すぐ傍にいてくださることに、私どもが目覚めて、気づき続けてゆくことができますように。

主よ、あなたがお望みならば、今しばらく私どもの傍らでお休みください。しかしどうか主よ、私どもに耐えきれない試練を、お与えにならないでください。

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 夜昼、寝起きしているうちに
2018.7.15
神ア 伸 牧師
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
(マルコによる福音書第4章26、27節)
夜昼、寝起きしているうちに――。これは当時の、そして今でも、ユダヤの人びとの一日は日没・夜から始まるのです。日が沈むと新しい日が始まる――。不思議な気がします。私どもの感覚では、一日は朝に始まり、そして夜、終わると思っている。けれどもユダヤの人びとは夜、眠るときに、

"さあ、これから一日が始まる…寝るぞ!"と言って眠るという。

私どもはなかなかそうはいきません。今日も一日何もできなかったと思いながら、寝つけないことが時にあるでしょう。あるいは、あれこれと気になること、やり残したことがあるような気がして、落ち着かない。また、眠っている時間というのは非生産的で、無意味な時だと感じてしまうことがあるかもしれない。

けれども、主イエスがきょう、おっしゃっているのは違う。夜昼、寝起き――。まず眠るのです。そして、眠っている間に、種が芽を出す。眠っている間に、根は茎となり、穂となり、そして豊かな実ができる――。安心して眠ったらいいのです。私どもが眠っている間に、必ず!種は芽を出すのです。私どもは、100パーセント自分で働き続ける必要はありません。ことをなしてくださるのは、神だからです! その神に身をゆだねて、ゆっくり眠ったらいい。

預言者イザヤは、その神のみこころを、こう伝えました。(第55章10、11節)

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

雨も雪も、天から降るときに必ずその役割を果たすのです。神の言葉もそう。神の言葉は虚しくご自身のもとへと戻ることはない。必ず私どもの中で、あなたの内で出来事を起こし、何かを始めてくださいます。何ごとかをし続けていてくださる。

主よ、どうか私どもの内に、あなたに信頼するこころを育み続けてください。しばしばかたくなになり、やわらかさを失ってしまう私どものこころの中から、主よ、あなたに信頼するこころを、呼び覚ましてください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。

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イエスが家に帰られると
2018.7.8
神ア 伸 牧師 
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
(マルコによる福音書第3章20節)
主イエスは、私たちに"家"についてお語りになります。きょうのところには"家"という言葉がたくさん出てくる。

神の国、神の愛によるご支配が近づいた…! さあ、わたしのもとへ帰っていらっしゃい――。

そうです。初めに、こう私たちを招かれた主イエスが(第1章15節)今、私たちになさろうとしていることがある。それは、愛そのものである神が中心におられる家、神の恵みに満ちた新しい家を、私たちの中に、ご自身とともに築こうとしておられるのです!

都エルサレムから下って来た律法学者たちは、その主イエスをけなし、悪しき噂をしました。「あの男は家を支配する者。人のこころの家、こころの平和を乱し、支配してしまう者(ベルゼブル)だ」と――。

それに応えて、主イエスはユーモアあるたとえをお語りになった。ここで主はご自分を強盗にたとえておられる(23-27節)。

どうかよく聞いてほしい。たとえ、どんなにあなたのこころの平和を乱す者であっても、その者たちですら身内で争うことなどしない。一致団結してやって来るだろう。その者たちを神のみ手によって追い出しているわたしが、どうしてベルゼブルなどであるだろうか。まず、家の真ん中にいる、あなたのこころの平和を力で乱すものを働けなくするために、外からまことの、真実の支配者がやって来なければならない。そしてその家を、真実の家として、愛によって取り戻す者がやって来なければならない。それがわたしなんだ…!

そのようにして、あなたの家に、こころに、主イエスが入って来られます。愛の強盗として――。主イエスはまず、食卓に我がもの顔で座っているあなたの不安を、迷いを、痛み苦しみを捕まえ、動けなくする。そしてもう一度、あなたを愛のご支配のもとに、神の許へ取り戻しに来てくださった。

そのためにこそわたしは来た…!

まことの安らぎを、休息を、赦しを、家の中に、私たちの生活の真ん中にもたらすために、主イエスご自身が、食卓の真ん中に主人として、愛の主として座るために来てくださった――。

たとえ私どもがどんな罪を犯しても、何をしても、もしかしたら自分の良心さえもゆるすことができないとしても、主イエスは赦してくださる。くつろぎの家に迎えてくださいます。

どうか主よ、私たちのこころの家に来てください。どうか主よ、私たちの家を愛によって満たしてください。私たちの教会を、赦しの家とし続けてくださいますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。

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 手を伸ばしなさい
2018.7.1
 神ア 伸 牧師
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
(マルコによる福音書第3章5節)
神は、いのちをお望みになるお方です。その神のみこころを、主イエスはもちろん、聖書の専門家・リーダーであるファリサイ派もよく弁えていました。神はあなたが生きることを欲したもうお方である!と。

ただし、今いのちが脅かされているのでないなら、安息日の明けるのを待ってから癒したらよい。それが律法の定めでした。

これはわたし自身のこととして申しますが、ある身体的ハンディ、多少の不便があっても、それを補うことを経験的に覚えます。このひとも、そうであったかもしれません。生活に不便はあっても、それをひっくるめて神がお創りくださった作品として、日々を歩むのです。まして緊急なことでなければ主イエスもまた、

よく来たね…。けれど、日が暮れたらもう一度わたしのところへいらっしゃい。礼拝が終わり、安息日が明けたらわたしが癒してあげよう。――そうおっしゃることもできた。しかし、主イエスはここで、

真ん中に立ちなさい…! 手を伸ばしなさい――。

このひとは、礼拝堂の後ろの方に座っていたのでしょうか。ともかく、人びとからいちばん見えるところに引きずり出しておしまいになるのです。

そうして癒されると、皆で喜び祝宴が開かれた…のではなく、民のリーダーたちは、主イエスを殺そうとすぐさま相談を始める。何ということでしょう!(6節)

安息日に癒すことが善いか、悪いか――。そのことを自分の正しさを物差しとして問うているとき、身体に痛みを負って、そのためにこころまでもしかしたら傷んでいるかもしれない相手が、すぐそばいることに気づかなくなるのです。安息の礼拝に集っている者たち自身が、すでにこころを失っている。頑なになり、裁きのこころを抱え続けている。

その私どもを、主はじぃと見回し、おっしゃいます。

真ん中に立ちなさい…! わたしの前に来なさい。手を伸ばしてごらんなさい。あなたが、手を伸ばすことができるように、わたしは、あなたのかたくななこころを解きほぐし、覆う。冷たくなってしまっているこころに、わたしのいのちを注ぎ込もう…!

主よ、あなたのお顔さえも、私どもの好みに変えてしまおうとする、私どもの罪を、どうか赦してください。今、愛ゆえに怒り、ふかく悲しんでおられるあなたの前に、跪きます。主よ、どうか、私どもをあわれんでください。こころを伸びやかにし、解き放ってください。

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