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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

今週の聖句バックナンバーweekly message

2018年バックナンバー(2)


「夜昼、寝起きしているうちに」2018.7.15
「イエスが家に帰られると」2018.7.8
「手を伸ばしなさい」2018.7.1

*2018年1月〜6月の「今週の聖句」はこちらへ。

 夜昼、寝起きしているうちに
2018.7.15
神ア 伸 牧師
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
(マルコによる福音書第4章26、27節)
夜昼、寝起きしているうちに――。これは当時の、そして今でも、ユダヤの人びとの一日は日没・夜から始まるのです。日が沈むと新しい日が始まる――。不思議な気がします。私どもの感覚では、一日は朝に始まり、そして夜、終わると思っている。けれどもユダヤの人びとは夜、眠るときに、

"さあ、これから一日が始まる…寝るぞ!"と言って眠るという。

私どもはなかなかそうはいきません。今日も一日何もできなかったと思いながら、寝つけないことが時にあるでしょう。あるいは、あれこれと気になること、やり残したことがあるような気がして、落ち着かない。また、眠っている時間というのは非生産的で、無意味な時だと感じてしまうことがあるかもしれない。

けれども、主イエスがきょう、おっしゃっているのは違う。夜昼、寝起き――。まず眠るのです。そして、眠っている間に、種が芽を出す。眠っている間に、根は茎となり、穂となり、そして豊かな実ができる――。安心して眠ったらいいのです。私どもが眠っている間に、必ず!種は芽を出すのです。私どもは、100パーセント自分で働き続ける必要はありません。ことをなしてくださるのは、神だからです! その神に身をゆだねて、ゆっくり眠ったらいい。

預言者イザヤは、その神のみこころを、こう伝えました。(第55章10、11節)

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

雨も雪も、天から降るときに必ずその役割を果たすのです。神の言葉もそう。神の言葉は虚しくご自身のもとへと戻ることはない。必ず私どもの中で、あなたの内で出来事を起こし、何かを始めてくださいます。何ごとかをし続けていてくださる。

主よ、どうか私どもの内に、あなたに信頼するこころを育み続けてください。しばしばかたくなになり、やわらかさを失ってしまう私どものこころの中から、主よ、あなたに信頼するこころを、呼び覚ましてください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。

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イエスが家に帰られると
2018.7.8
神ア 伸 牧師 
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
(マルコによる福音書第3章20節)
主イエスは、私たちに"家"についてお語りになります。きょうのところには"家"という言葉がたくさん出てくる。

神の国、神の愛によるご支配が近づいた…! さあ、わたしのもとへ帰っていらっしゃい――。

そうです。初めに、こう私たちを招かれた主イエスが(第1章15節)今、私たちになさろうとしていることがある。それは、愛そのものである神が中心におられる家、神の恵みに満ちた新しい家を、私たちの中に、ご自身とともに築こうとしておられるのです!

都エルサレムから下って来た律法学者たちは、その主イエスをけなし、悪しき噂をしました。「あの男は家を支配する者。人のこころの家、こころの平和を乱し、支配してしまう者(ベルゼブル)だ」と――。

それに応えて、主イエスはユーモアあるたとえをお語りになった。ここで主はご自分を強盗にたとえておられる(23-27節)。

どうかよく聞いてほしい。たとえ、どんなにあなたのこころの平和を乱す者であっても、その者たちですら身内で争うことなどしない。一致団結してやって来るだろう。その者たちを神のみ手によって追い出しているわたしが、どうしてベルゼブルなどであるだろうか。まず、家の真ん中にいる、あなたのこころの平和を力で乱すものを働けなくするために、外からまことの、真実の支配者がやって来なければならない。そしてその家を、真実の家として、愛によって取り戻す者がやって来なければならない。それがわたしなんだ…!

そのようにして、あなたの家に、こころに、主イエスが入って来られます。愛の強盗として――。主イエスはまず、食卓に我がもの顔で座っているあなたの不安を、迷いを、痛み苦しみを捕まえ、動けなくする。そしてもう一度、あなたを愛のご支配のもとに、神の許へ取り戻しに来てくださった。

そのためにこそわたしは来た…!

まことの安らぎを、休息を、赦しを、家の中に、私たちの生活の真ん中にもたらすために、主イエスご自身が、食卓の真ん中に主人として、愛の主として座るために来てくださった――。

たとえ私どもがどんな罪を犯しても、何をしても、もしかしたら自分の良心さえもゆるすことができないとしても、主イエスは赦してくださる。くつろぎの家に迎えてくださいます。

どうか主よ、私たちのこころの家に来てください。どうか主よ、私たちの家を愛によって満たしてください。私たちの教会を、赦しの家とし続けてくださいますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。

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 手を伸ばしなさい
2018.7.1
 神ア 伸 牧師
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
(マルコによる福音書第3章5節)
神は、いのちをお望みになるお方です。その神のみこころを、主イエスはもちろん、聖書の専門家・リーダーであるファリサイ派もよく弁えていました。神はあなたが生きることを欲したもうお方である!と。

ただし、今いのちが脅かされているのでないなら、安息日の明けるのを待ってから癒したらよい。それが律法の定めでした。

これはわたし自身のこととして申しますが、ある身体的ハンディ、多少の不便があっても、それを補うことを経験的に覚えます。このひとも、そうであったかもしれません。生活に不便はあっても、それをひっくるめて神がお創りくださった作品として、日々を歩むのです。まして緊急なことでなければ主イエスもまた、

よく来たね…。けれど、日が暮れたらもう一度わたしのところへいらっしゃい。礼拝が終わり、安息日が明けたらわたしが癒してあげよう。――そうおっしゃることもできた。しかし、主イエスはここで、

真ん中に立ちなさい…! 手を伸ばしなさい――。

このひとは、礼拝堂の後ろの方に座っていたのでしょうか。ともかく、人びとからいちばん見えるところに引きずり出しておしまいになるのです。

そうして癒されると、皆で喜び祝宴が開かれた…のではなく、民のリーダーたちは、主イエスを殺そうとすぐさま相談を始める。何ということでしょう!(6節)

安息日に癒すことが善いか、悪いか――。そのことを自分の正しさを物差しとして問うているとき、身体に痛みを負って、そのためにこころまでもしかしたら傷んでいるかもしれない相手が、すぐそばいることに気づかなくなるのです。安息の礼拝に集っている者たち自身が、すでにこころを失っている。頑なになり、裁きのこころを抱え続けている。

その私どもを、主はじぃと見回し、おっしゃいます。

真ん中に立ちなさい…! わたしの前に来なさい。手を伸ばしてごらんなさい。あなたが、手を伸ばすことができるように、わたしは、あなたのかたくななこころを解きほぐし、覆う。冷たくなってしまっているこころに、わたしのいのちを注ぎ込もう…!

主よ、あなたのお顔さえも、私どもの好みに変えてしまおうとする、私どもの罪を、どうか赦してください。今、愛ゆえに怒り、ふかく悲しんでおられるあなたの前に、跪きます。主よ、どうか、私どもをあわれんでください。こころを伸びやかにし、解き放ってください。

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