日本福音ルーテル賀茂川教会 |
出て来てなだめた 2019.3.31 神ア 伸 牧師 |
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 (ルカによる福音書第15章28節) |
弟が帰って来たとき、最初に出迎えたのがもし兄であったなら、ずいぶん話は変わっていたのではないか。 ある説教者が、こう想像しています。痩せ細り、みじめな姿で帰って来た弟を見つけた兄が、「おお…! どうしたんだ。お前…!?」。すると弟は、父に言おうと思っていた言葉を、兄にも言う。 お兄さん、わたしは天に対して、またお兄さんに対しても罪を犯しました。もうあなたの弟と呼ばれる資格はありません。どうか雇い人の一人にしてください。 そう言われたら、兄もそう激しくは怒らず、案外、広いこころで弟を受け入れたのではないか――。なるほど、そうかもしれません。 私どものほとんどすべてが願っていること――。それは、わたしの弟が、まずわたしに謝ってくれることです。いいえ、ここは大切なところですから、もっと率直に申します。わたしに対して罪を犯した人が、まずわたしに謝ってくれる。「申し訳ありませんでした。わたしが間違っていました。正しいのはあなたの方でした…」。わたしがゆるせないあの人が、いつかそう言って悔い改める日が来ないものか――。 私どもがふだん願っていることは、実は圧倒的にこの兄息子の方に近いのだと、私は自分のこととして思う。 けれども、主イエスが語られた譬えは違います。私どもの願いに真っ向から逆らうようにして、さっさと父親は、この弟をゆるしてしまいました。 さあ、食べて祝おう…! パーティーだ――。 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた(=そばに呼んだ・慰めた/28節)。 お前もこっちへおいで。わたしのそばに。わたしの愛のなか、喜びのなかに入っておいで…! その父の喜びを受け入れることができず、腹を立てた兄。それは、弟息子を失う父の悲しみを理解することができなかったということです。まさにそこで、まさにそのところで、今度はこの兄が父から遠く離れて行き、もう一人の放蕩息子――失われた者となってしまった。自分も父に愛されていることを、見事に見失ってしまった。 私どもは知っています。あの弟のためになり振り構わず走り寄ってくださる神の愛、そして兄をもそばに呼び慰めてくださる神の愛を! ここにわたしがいるではないか。このわたしの姿が見えるか。このわたしの言葉が聞こえるか――。そう、主は問われます。主イエスのこの呼びかけのなかに、神に愛されている私どもの姿が、くっきりと浮かび上がってくるのです。 このページの先頭へ |
それでもだめなら 2019.3.24 神ア 伸 牧師 |
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 (ルカによる福音書第13章8-9節) |
きょうの日課は伝えます。神殿礼拝を献げていたガリラヤの人たちが、どういうわけか総督ピラトの兵隊たちによって血を流されるという凄惨な事件に巻き込まれてしまったことを(1節)。さらには、シロアムという池のほとりに建設中の塔が押し倒されて、一時に18人もの、かけがえのないいのちが奪われるという事故が起こってしまったことを――(4節)。 遠い昔の出来事ではない。今を生きる私どもも身に沁みてよくわかることです。だからこそ問い、うめかざるを得ません。神の胸をつかみ打ち叩くようにして、なぜ、こういうことが起こるのですか――。あのひとたちがあんな酷い目に遭ったのは、どうしてですか。何かがおかしいじゃないですか…! そこで何の説明もないまま、痛み悲しみを乗り越えられるほど強くない私どもであることをよぅくご存じでいてくださる主は、しかし説明を一切しておられません。たとえ一時、人びとが納得するような説明をしたところで、それはほんとうの救いにはならないことをも、よくご存じであったからです。主イエスはただ、繰り返し、念を入れながら、こころを込めてお語りになる。 あのひとたちが酷い目に遭ったのは、因果応報などではない。決してそうではないのだ…! そのことを知っているあなたがたはどうか、神の懐に、わたしのもとへと帰ってきてほしい。飛び込んできてほしい――。 皆さん! 私どもが信じる、いいえ、私どもの極みまで愛し抜いておられる主イエス・キリストは、私どもに必ず実りがもたらされることを信じて、そのために、何年も、何年も待ち続けるお方です。 どうかもう一年、お願いですからもう一年待ってください。今度こそは去年以上に肥やしをやり、去年以上に一所懸命世話をしますから…! このわたしが、必ずこのひとに実りを実らせてみせます。悔い改めて神のもとへと帰って行く一人、ひとりの存在そのものが神よ…あなたにとっての何にも代えがたい、貴い実りであるはずでしょう…!? 主人の前に立ちはだかるようにして、我が身を挺してとりなし祈るこの園丁こそ、自らが切り倒されるようにして十字架につけられた主。このお方こそ、私どもの主。あなたの主です。 このページの先頭へ |
何をしてほしいのか 2019.3.17 神ア 伸 牧師 |
「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。 (ルカによる福音書 第18章41節) |
目が閉じられていたこのひとは、生きていくため必死に物乞いをするなかで、その日の衣食住に関わるだけでも、これまでいろんな人から聞かれてきたのです。「何か欲しいものはありますか」。 けれども、主イエスは、ただ主イエスだけが、かれにこう尋ねられた。 何をしてほしいのか。欲しいものではない。あなたがわたしにしてほしいこと、ほんとうの願いは何か――。 言葉に詰まりながら、もしかしたらその声は消え入りそうなほどか細く、震えていたかもしれない。けれどもかれは万感の思いを込めて、はっきりと口に出して申しました。 主よ、生まれて初めて口にいたします。わたしは、目が、見えるように、なりたいのです…。他の誰にも言ったことはない。けれども主よ、あなただからこそ、あなたにしかおできにならないことを、今、願います。 そうして目を開かれたかれが、最初に主イエスのお顔を見たとき、ほんとうに嬉しかったに違いない! 自分をまっすぐに見ていてくださる愛のまなざしが、このわたしの叫びを聞いて立ち止まってくださり、このわたしの祈りを聞いてくださった方のまなざしが、まっさきに目に飛び込んできたのですから。 ああ…そうだ、このお方を見るため、このお方に見ていただくために、わたしは生きてきたんだ…! そうして目が開かれ「イエスに従った」かれが次に見たのは、その週のうちに捕らえられ、十字架に殺されてお仕舞になった主の苦しみのお姿でした――。いったいどんな想いで、その苦しむみ顔を見たのでしょう。こんなすさまじい出来事を見せられたことで、もう一度闇の中に戻って行くような体験をしたのではないだろうか――。 しかし、わたしは信じます。このかれもまた、復活の主イエスに訪ねていただいたのだと! お甦りの主が、ペトロを始めとする弟子たちにもう一度出会ってくださったように、このかれもまた、主の弟子の一人として、お甦りになった主イエスに直接訪ねていただいたのだと。そのことをのちに、自分の教会で、かれは繰り返し、何度も語ったのだと――。 わたしは主イエスに呼ばれ、そのおそばに行くことができた。そして、このお方のまなざしを見ることができた…! いのちの主が、あなたを呼んでおられる。わたしと今一緒に、あのお方のそばに行こう…! 皆さん! これは皆さんの物語です。私たち一人ひとりもまた、確かな望みのなか、主の光のなかにあるのです。 このページの先頭へ |
ただ主に仕えよ 2019.3.10 神ア 伸 牧師 |
イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 (ルカによる福音書第4章8節) |
私どもの主なる神よ――。私どもは、全世界の権力と繁栄(6節)を手にしたいなんて、そんなことを考えてはおりません。けれども自分の人生は、どうか思いどおりになるようにと祈ります。「そんな人生あるはずがない」。わかってはいても、思いどおりにならないということはやはり、時にたいへん、ほんとうに厳しいことなのです。悪魔はきっと、そこを衝いて言うのでしょう。 神なんか拝んで何になるか――。この世で幸せでさえすれば、神なんか拝まなくたって、いいじゃないか。 ところが主イエスはこれに真っ向から立ち向かって ただ、あなたの神である主を拝み、仕えよ。神を神とせよ。何が何でも…! それが救いへの道だ――。 しかし神よ、わたしはなお、あなたに訴えをぶつけたい。もっといい救いの道があるでしょう。石をパンに変えるとか、困っている人を助けるとか――現に、この言葉どおりの生き方を最期まで貫かれたあなたのみ子は殺されてしまったではないですか。そんなのお話にならないじゃないですか。これでは十字架のとき、人びとがののしったのも当然です。「おい、もっと神の子らしくしたらどうだ。他人は救ったのに自分は救えないのか」と。そして、驚くべきことに神よ、あなたのみ子は最期に、こう叫ばれたのです。 わたしの神よ、わたしの神よ――。なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか…! わたしはこの叫びを、祈りを、どのように受けとめたらよいかわかりません。わたしなら、主イエスのようにではなく、"いやいやわたしを捨てるなんてそんな神はこっちから願い下げだ"と――わたしの方からあなたを捨ててしまうだろうからです。 しかし、神よ、わたしにもこれだけはわかります。み子イエスは"なぜわたしを…!"と叫ばれながら、ご自分を捨てたあなたでさえ、試す(品定めする)ことをなさらなかったのだと!"神は生きておられる…! 今、わたしの中に、このわたしと共に――"。そのことを、ほんとうに驚くべき仕方で、私どもに示してくださったのだと 主なる神よ、どうかこの十字架のキリストのお姿を、さやかに仰がせてください。私どもがあなたを捨てても、しかしあなたが私どもをお捨てになることはありません。今、共に集い、それぞれに友のこと、この場にはいない愛する者のことを想い起こしながら、あなたが生きておられることをもう一度、確かな思いで戴き直すことができますように。 このページの先頭へ |
真っ白に輝いた 2019.3.3 神ア 伸 牧師 |
イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 (ルカによる福音書第9章28−29節) |
クリスマスって、眩しすぎるんだよね・・・。 そこに登場する羊飼たちも、東の国の博士たちも、みんな輝いて、喜びに溢れている。でもその光は結局、自分からは遠いところで輝いていて、自分だけ取り残されているみたいだ・・・。クリスマスって、眩しすぎるんだよね・・・。聖書を読み、礼拝をして、一瞬はその輝きが見えたとしても、それはそのときだけのこと。自分の悩み、人間関係、あの問題この課題、生活は何も変わらない。また闇の中に帰って行くだけだ――。 かつて、ひとりの仲間が語ってくれた、胸をえぐられるような告白です。「また闇の中に帰って行くだけだ」。何もクリスマスのときだけでは、ないと思う。わたし自身の生活だって、皆さん一人ひとりの生活だってそういう面がきっと、どこかにあるだろうと思うのです。 けれども、帰って行くその闇のただ中に、主イエス・キリストが共に、確かにいてくださる! わたしはそう信じています。どこにも望みが見えない、誰も助けてくれない、一緒にいてくれる人は誰もいない。すべての光は消えた・・・。そう思ったときに、「光が消えた後で」さやかに、力強く響いてくるみ声がある――。 あなたがここに幕屋を建てる必要はない。あなたの手で、信仰の民が荒れ野のテント生活でしたように、常夜灯をともす必要なんかない。今、ここに、わたしの子イエスがいるじゃないか。これに聞きなさい。この人を見なさい。そうすれば大丈夫だ…! ペトロはのちに、きょうの出来事を想い起こしながら、教会の仲間たちを励まし続けました。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(ペトロの手紙二 第1章19節)。 明けない夜はない…必ず夜は明け、闇は払われる! 必ずそのときが来るんだ…! わたしは、あなたはまだ闇の中にいるのかもしれない。けれどもその闇の中に、主イエスは来てくださったんだ――。 あなたも、そしてあなたも、この光を仰ぐことができるんだ――。すべての光は消えたと思っても、耳を澄まし、顔を上げれば、そこに、み子主イエスがおられる・・・! ここにこそ、確かな望みが与えられていることを、こころからの感謝と畏れをもって、受けとめ直したいと願うのです。 このページの先頭へ |
一言おっしゃってください 2019.2.24 神ア 伸 牧師 |
ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 (ルカによる福音書第7章7節) |
主よ、多くの言葉は必要ありません。ひと言でいい。ほかの誰かではなく、あなたの言葉が必要なのです…! そうすれば、わたしの部下は必ず癒されます。 百人隊長の信仰告白を伝え聞いた主イエスは、驚かれた。ほんとうにびっくりなさったのです。 わたしは人びとのなかに、ずっと信仰を探してきたのだが、ああ、ついに、とうとう見つかった…! アーメン! イスラエル(神の民・信仰の民)の中にさえ、わたしはこれほどの信仰を見つけたことがない。 「わたしも権威の下に置かれている人間です」(8節)。隊長は、身に沁みていたのです。自分の言動が100人の部下に直ちに影響を及ぼすことを。そういう強い権威が与えられている立場から発するひと言が、かれらのいのちまでも左右する。この事実を、深い恐れを持って受けとめていたのです。そこで、もっと大きな権威のもとに生きておられる主イエスというお方を知り、認め、その前にひれ伏した――。 この出来事の締め括り、隊長から遣わされた人たちが家に帰ってみると、その主イエスの言葉を伝えるまでもなく、部下はすでに元気になっていました(10節)。ある説教者は申します。 「主イエスの言葉が、百人隊長の家を先に訪れておりました。」 わたしは、ほんとうに、慰め深い言葉だと思いました。ああ…そのとおりです! 神の言葉が、わたしを、あなたを、今、訪れていてくださる。 祭司ザカリヤは、高らかに歌いました。「主はその民を訪れて解放し………あけぼのの光が我らを訪れ」。あのザアカイに、主イエスは宣言なさった。「今日、救いがこの家を訪れた」。ナインの町で、母に息子をお返しになった(=新しい贈り物としてお与えになった)主イエスを見て、人びとは賛美しました。「神はその民を心にかけて(=訪れて)くださった!」。 主イエスのみ声が聞えますか。今すでに、主のお言葉がまっ先にあなたを訪ねてくださいます。ただ心にかけるだけではない。きちんと訪れてくださいます。 「ああ…ここに信仰があった。あなたの中にも信仰があった…!」。喜んで見つけてくださる。 その主の言葉の訪れが、皆さんのこころを満たし、骨の中までも満たし、そして、皆さんがここから出て行く、日々を過ごす歩みの一歩一歩に、主イエスのみ言葉の訪れがいつも伴ってくださるように、こころより祝福を祈ります。 このページの先頭へ |
わたしの言葉を聞き 2019.2.17 神ア 伸 牧師 |
わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 (ルカによる福音書第6章47節) |
きょうの〈岩の上に家を建てたひと〉の譬え話は、ほんとうにわかりやすい。それだけに、主イエスの深い想いがこめられた言葉だと思うのです。 どうか、わたしの言葉を信じ、わたしの言葉に従って生きてほしい。そうして、確かな土台の上にあなたの人生をつくってほしい。そうすれば、雨が降り川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、決して倒れることはない。わたしはあなたに、そしてまたあなたも、倒れてほしくはないんだ。そのためにただひとつ必要なこと――。わたしの言葉を〈聞いて、行う〉んだ…! 聞いても実践が伴わなきゃダメだとか、そんな話をなさっているのではありません。何も行わずに生きることなどできない私どもです。生きるとは、絶えず何かを行いつつ歩むということなのですから。 皆さん…! しかし、そのような私どもの一つひとつの行いが、いったい、誰の言葉に基づいてのことなのか。誰の言葉に従い、誰の言葉に信頼して自分の行いを定めているのか――。 この"平地の説教"と呼ばれる主イエスの言葉は、このように始まっていました。(第6章20節) 貧しいひとよ、今、悲しんでいるひとよ、必ずわたしがあなたを幸せにしてみせる――。今、乾くことのない涙に暮れているひとよ、あなたを慰めるのは、ただひとり。このわたしなんだ…! こう語りかけ宣言しておられる方が、私どもを、このわたしを祝福していてくださる! この確かな事実を信じたい。ただ素朴に、純粋に、素直に――。"いやそんなこと言ったっていろんなことがあるのだし、そのためにはイエスさまの言葉も大事だけどほかの言葉も大事ですよ"と思うときに、もしかしたら、私どもはとんでもなく間違ったところに一所懸命自分の家を建ててしまっているかもしれないのです。 そのような私どもに、今、語りかけられている主イエスの祝福の言葉、約束の言葉、権威ある言葉です。 わたしを信じてほしい。あなたを祝福するのは、このわたしなんだ…! 「主よ、どうか御心ならば…!」と、ただひたすらに貧しい者、今、悲しむ者として、主イエスの前に近づいた、ひとりのひとを想い起こしたい(第5章12節)。そのかれこそ、何よりも確かな土台の上に、家を建てることができました。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかったのです。 このページの先頭へ |
敵を愛しなさい 2019.2.10 神ア 伸 牧師 |
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。 (ルカによる福音書第6章35節) |
敵とは、このわたしを憎むひとのこと、悪口を言うひとのこと、わたしを侮辱するひとのことです。また悪気はなくとも、どうもこのひとと付き合っていると自分が損をすると思われるひとのことです。主イエスは私どもにぐいぐいと迫ってこられる。 そういうひとたちを、しかし、あなたは愛するんだ…! あなたを悪く言うひと、憎むひと、侮辱するひとに、呪いではない。幸いと祝福をこそ祈りなさい。 わたし自身のこととして申します。わたしは、いざ目の前に敵が現れると、この主イエスのお言葉を忘れて、敵を愛するよりも自分を守ることに力を注いでしまいます。というよりも、ほとんど反射的に、瞬間的に、本能的にそうなってしまうのです。そうして"ああ…やはりこれが自分の現実なのか"と、ほとんど絶望しそうになります。 そこで何をするのか――。祈るのです。具体的に名前を挙げて、あのひとこのひとの顔を想い起こしながら。「いいえ、主よ、わたしはまだこのひとを愛することなどできません」という祈りはまだきれいなほうです。ほかの誰にも聞かせられません。祈りながらうめき、ほんとうに行き詰まってしまいます。 皆さん…! しかし、私どもは、わたしは、そういう困難と挫折を経験しながらも、今日も繰り返し、祈りの部屋へと入って行きます。自分だけの祈りの場所へと――。そして、自分を悪く言うひとのために祈る。そのひとの顔と名前を思い出す。主イエスが十字架でなさった、この祈りに支えられながら。あなたが、このわたしが敵だと思う相手のためにも祈っておられるキリストの前に、ただひざまずきながら…! 父よ、どうか彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです――。 わたしの主である神よ、すでに、あなたのみ子主イエスのお言葉が、私どもの魂の奥深くに食い込むように響きわたり、突き刺さってまいります。そこで、私どもがここであなたに祈るべきことも定まってまいります。わたしを悪く言う者、わたしを侮辱する者、わたしを軽んじる者のことを今ここで想い起こさせてください。まだ赦しあっていない隣りびとのことを、あなたの憐れみの中で想い起こさせてください。赦しあうことができますように。赦しあうことができないために、誰よりもあなたのみ心を傷つけてしまったことを、今、こころから詫びることができますように。 このページの先頭へ |
愛がなければ 2019.2.3 神ア 伸 牧師 |
愛がなければ・・・・・・ (コリントの信徒への手紙一 第13章) |
この手紙の著者パウロは、皆さんと、あなたと共に〈愛の賛歌〉を歌いたがっています。「愛は忍耐強い」。「愛は情け深い」。ただこの事実を信じ、一人でも多くのひとと分かち合い、声を併せて賛美したいんだ、と。 確かに、たいへん厳しい、耳をふさぎたくなるような言葉からこの章は始まります(1節)。〈どら〉も〈シンバル〉も、決して最初からやかましい存在であるわけではない。時と場所をわきまえて正しく打ち鳴らされるなら、その音は聴く者のこころを深く打つのです。けれども無意味・無秩序に、耳元でガシャンガシャンとやられたら、それはたまったものではありません。 私どもの愛のわざ、愛の言葉と呼ばれるものにも、ほんとうに悲しいことですけれど、どうしてもそういう面があるのです。どんな立派なわざも言葉も、そこに愛が伴わないことがある。そうすると、相手にとってこんなに耐えがたいものはない。 わたしは、パウロ自身のこころの内をそっと打ち明けたような言葉としてこの第13章を聴き、受けとめ直しました。これまでわたしの一方的な愛が、どんなに相手を苦しめてきたかを忸怩(じくじ)たる思いで噛み締めながら――。よかれと思ってなしたことが、結局は自分を誇るためにしたことだったのだと・・・! そのうえで、パウロが自分自身をここまで赤裸々に・・・と思えるほど証しする言葉に、共にこころを傾けたいのです(9節以下)。 かつてわたしは、愛において未熟だった・・・。そのことを率直に認めないわけにはいかない。そして、そういう未熟さを捨てた今でも、まだ見るべきものを完全に見ることはできていないわたしだから、「その(主が再び来てくださる)とき」を待ち望んでいる。と同時に、わたしはこう信じているんだ。わたしは、あなたは、今、神にはっきりと知られていることを。もうすでに、このお方に愛されているということを。私どもの目ではない。神のまなざしが絶えず私どもに注がれ、尽きることのない愛で、私どもを包み込んでくださっていることを――。 わたしは、パウロと共に、そして皆さんお一人おひとりと共に、ゆるされる限りの言葉を尽くして、〈愛の賛歌〉を歌い続けたい。 主なる神よ、どんなに確かなあなたの愛に、今、すでに捕えられていることでしょう。あなたにはっきりと知られていることを知り続けるための歩みを続けている私どもです。けれども、主よ、どうか、もっと、もっとはっきりと、あなたの愛の輪郭を捕えて、わたしも、この愛に生きることができますように。 このページの先頭へ |
あなたがたが 2019.1.27 神ア 伸 牧師 |
あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。 (マルコによる福音書 第6章37節) |
この大群衆の、一人ひとりに食べるものを与えるのはあなたがたなんだ…!これをするのはほかの誰かじゃない。あなたがやらずに誰がやるのか――。 神のみ子イエスですから、何万人ものひとたちを満たす奇跡は、あっという間におできになったに違いない。けれどもお一人でやればすぐできるようなことをここでは「あなたがたがやりなさい」と。 驚くべき主のお言葉です。けれど、いちばん驚いたのはその場にいた弟子たちでしょう。 主よ、あなたがやりなさいって…わたしが何をするんですか…。ここには、五つのパンと魚二匹しかありませんよ。"彼らに与えなさい"って、"彼ら"っていったい誰のことですか――。 いずれにしても、この"あなたがたが"と言われているのは、このわたしのこと。みなさんのことです。 わたしはこう思うのです。これはわたしの話です。もしかしたらわたしは、ほんとうは一度も、自分の持っているものについて、神さまに賛美を献げたことは、なかったんじゃないか――。自分の持っているもの自分の与えられたものについて、思い上がったり、ひがんだり、人と比べたり、不安になったり、安心したり、いろんな想いを抱いたことはあったけれども、主イエスがなさったように、それを手に取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱えたことが、だだの一度でもあっただろうか。まるで幼子のごとく何の疑問ももたずに、"神さま、ありがとうございます…!"と――。 ここで弟子たちは、何か特別なパンと魚を配ったのではありません。もともと自分たちが持っていたものを一度主イエスのみ手に委ね、もう一度、それを主のみ手から受け取り直し、群衆に配った。ここでの主語は弟子たちです。〈弟子たちが〉人びとに配った。 このとき、数万人が豊かに養われました。しかしわたしは思います。ここでいちばん豊かな恵みを受けたのは、自分の持っているパンを主のみ手に委ねたこの弟子たちではなかったか。十二人の弟子たちは一人ひと籠(かご)ずつ、主の恵みの豊かさをずっしりと、からだに感じることができたのだから(43節)。 主よ、僅かなものしか差し出すことのできない、私どもです。自分の全存在を献げても、何ほどのことができるかと、途方に暮れるほかありません。しかしあなたは、それをここに持ってこいと言われるのです。私どもを、手に取り、天を仰いで賛美の祈りを献げておられる主のお姿を、今ここでも鮮やかに仰がせてください。主よ、私どもは、あなたのものです。感謝して、主のみ名によって祈り願います。 このページの先頭へ |
これが道だ、これに歩め 2019.1.20 神ア 伸 牧師 |
また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これが(は)道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。 (イザヤ書 第30章 21節/口語訳) |
羊が水辺や牧草を求めるとき、かれらをそこへ導く羊飼いには、先頭に立って案内をするひとと、いちばん後ろを歩きながら、その場所を示していくひとがいる。右往左往して羊たちが迷ってしまわないように、ついて来られなくなってしまわないようにこころを配る。もし行き惑ってしまったなら、羊飼いは羊たちに「うしろからこう呼びかけるのだ」という。 これが道だ、これに歩め…! そして呼びかけるその声こそ、わたしたちの主である神その方なんだ。このお方こそまことの羊飼い、牧者であられるんだ――。イザヤは全霊で伝えます。 なかなか自分で自分の後ろを見ることができない私どもは、夜、慣れない道を独り歩くときなど、後ろに何かがないか、誰かがいないかと、しばしば不安を覚えます。何よりも、わたしたちはそれぞれ人生の岐路において、神のみ心がいったい何であるのかわからずに悩み、苦しみ、ほんとうに…のたうつようにして、うめくことがあるのです。 けれどもそのとき、あっちだこっちだと指図をされるのではない。すでに決められたレールを無理に歩かされるのでもない。絶えず、少しだけ離れたうしろにいて、見守ってくださる方がいる。倒れ、崩れ落ちそうになるそのとき、うしろからみ手をもって支え、静かに、さやかに、励ましてくださるお方がおられる。 これが道だ、これに歩みなさい…! 皆さん…! 私どもがそれぞれに自分の十字架を担いつつ歩む道は、主イエスが先立ち行かれる道です。この主イエスの背中を見つめながら私どもは歩む――。きょう、ルカによる福音が「かれ(イエス)はかれの道を行った」(第4章30節/英訳聖書)というのは、そういうことだと、わたしは信じます。 そうです。主イエスこそ、「これがあなたの道だ、これに歩め…!」という神のみ声をその〈背中で〉聴き、受けとって、人びとの憤激(ふんげき)の間を、その真ん中を通り抜けて、歩みゆかれた(第4章28-30節)。そこにわたしの道、あなたの道を切り拓いてゆくために――。ご自分の十字架を通して、あなたに復活のいのちが始まるために…! まさに「彼(主イエス)が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ書第53章4節)。 私どもの病、このわたしの痛みを背負って歩み続ける神のみ子が、今日もわたしたちをゆるし、愛し、癒していてくださる恵みに驚き、ただただ胸を打たれます。主よ、ほんとうにありがとうございます。 このページの先頭へ |
祈っておられると 2019.1.13 神ア 伸 牧師 |
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると・・・・・・・・・。 ( ルカによる福音書第3章21節 ) |
〈主イエスの洗礼〉。わたしは思います。この福音書をいつも繰り返し聴き続けた、わたしたちの先達である教会の人びとが、きょうのところで何よりも喜びを見出した小さな、小さなことばがあるのだと。 洗礼をお受けになったそのとき、主は「祈っておられ」ました。そう、祈っておられた――。 ある説教者のことばを想い起こします。 このルカは、ほかの福音書にもまして、主イエスがこの世に出られての最初の仕事として〈祈りをなさった〉という恵みをはっきりと伝えている――。 ああ・・・ほんとうにそのとおりです! この福音書は、何と主イエスの祈りに満ち、溢れていることでしょう。どうか、皆さんそれぞれに想い起こしていただきたい。十二人の弟子たちを伝道の旅に遣わされたとき。あの山の上で主イエスのお姿が変わったとき。また弟子たちが「祈ることを教えてください」と願ったときも、それまでずっと主イエスは独り祈っておられた。最後の晩餐で、パンを取って裂き、ぶどうの実でつくった飲み物をお与えになるときも「感謝の祈りを唱えてから」なさった――。 そうです。皆さん! 主イエスは、いつも、祈りの中で、弟子たちを見ていてくださる。いつでも、祈りながら、私どもを、皆さん一人ひとりを、愛のまなざしの中に置き続けていてくださる…。主は祈るときに、独り言のようにして祈られたんじゃない。あるいは、ご自分のためだけに祈ったのでもない。どんなときでも、〈私どものために〉祈られた。〈あなたのために〉です。主イエスが祈られる。そのとき、いつでも皆さん一人ひとりの姿が、このお方のこころにはあるのです。 神がこのうえなく愛し抜かれている皆さん! 神の子イエスはいつも、いつでも、どんなときも、皆さんと共に、あなたの中におられます。このお方は、人びとに立ち交じって、人びとと共に、洗礼を受けられました。わたしたちとつながるために。すべての人がゆるされ、癒され、救われるために。ただひたすらに祈りながら――。 そのとき、主イエスのこころにあった祈りの言葉はこれであったと、わたしは信じます。 父よ、彼らをおゆるしください…! わたしたちは、主イエスのこの祈りに支えられ、包まれるようにして、今日も生き、生かされてゆくのです。 このページの先頭へ |
喜びにあふれた 2019.1.6 神ア 伸 牧師 |
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 (マタイによる福音書第2章10節) |
幼子イエスを拝むため、神の用意なさった星に導かれ、東の国から旅をしてきた博士たち――。かれらはどうしても、この旅をしなければなりませんでした。 この旅をしなければ、自分たちの人生には、決定的な欠けが生じることになる。その欠けを満たしていただかなければならない。そのためにどうしてもわれわれは、あの先立ちゆく星を追って、新しい王にお会いしなければならないんだ…! そして、ついに主イエスに見(まみ)えたかれらはそこで何をしたか――。拝むべき方を、拝んだ。献げるべきものを、献げるべき方に、お献げしたのです。 そのことを成し終えると、まるですべてが満たされたかのように、また自分たちの国へと帰って行きました。苦労の多かった旅に比べれば、主と共に過ごした時はほんのわずかだったでしょう。でも、わたしは思う。ほんとうに喜びにあふれ、喜びに包まれての帰路だったに違いない。長い旅の途次で見てきた景色と、帰って行くときの景色が、どんなに違って(輝いて)見えたことだろう…! と。 わたしは信じます。この博士たちは、自分たちの存在そのものが、神に喜ばれているという幸いを知ったのだと。いいえ、この恵みを、からだの芯で体験したのだ…!と――。 わたしの愛する子よ。わたしはあなたを喜ぶ――。 やがて成長なさった主イエスが、洗礼を受けられたときに聞いた天からのみ声を、もうこのときすでに、目の前におられる幼子イエスのお姿を通して、かれらは全身で受け取っていたに違いない。神の喜びのなか、神ご自身がくださる祝福のなかに、これまでの自分の人生がまるごと引きずり込まれるような体験をしたのです。――わたしは、そう信じています。 そして、皆さんは、この博士たちと同じです。 神よ、あなたはその独り子をお与えになったほどに、この世を愛し抜いていてくださいます。主イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためにです。どうか今、新しい思いで、あなたの愛のご支配を信じさせてください。その愛のご支配の中に、私ども自身を、委ねきることができますように。 私どもは今、黄金も乳香も没薬も持って来てはおりません。あなたもそのようなものは、私どもにお求めになりません。ただ、私ども自身を、あなたのものとしてください。私どもの全存在が、あなたを拝むものと、なさしめてください。主のみ名によって祈り願います。 このページの先頭へ |