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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

聖句断章weekly message  2019年(1)


「神の似姿」2019.6.16
「神の民の一致のために」2019.6.9
「ゆるし、そして、とりなせ」2019.6.2
「すべての人よ、主をたたえよ」2019.5.26
「愛なしにすべては虚しい」2019.5.19
「復活ーすべてに勝って偉大なる業」2019.5.12
「主が導いて行かれる」2019.5.5
「あなたがたに平和があるように」2019.4.28
★「太陽と共に始めよ」2019.4.21
「あなたを救うために主は十字架の犠牲を負われた」2019.4.14
「導かれるままに」2019.4.7

 神の似姿
2019.6.16
 谷川 卓三 牧師
「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
(ヨハネによる福音書14章10節)
*父と御子の一致の交わり、コミュニオン。聖霊は交わりの霊。交わりは心と心の霊的スパーク。ミケランジェロの「アダムの創造」をご覧あれ。キリストは第2のアダム、アダムはキリストの予兆。両方とも神の似姿、Imag deiである。創造は神と人とが神の霊的スパークによって一つに結ばれる三位一体の神の御業である。その創造の三位一体的栄光は永遠に一貫している。
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*イエスと同じように聖霊も「自分から語るのではない」。幸いなる永遠の命に与る交わりの生の秘密は「自分から語るのではなく」にある。イエスは御父と一つである。それは御父からの声を聞いてそれをそのまま語り実行するからである。その時、その仲介を果たしたのが聖霊であった。それと同じように、御父を知らせる声として聖霊は私たちに臨む。それが内なる声である。

*「また、これから起こることを告げる」。未来に対する予言である。人間においては過去現在未来は時系列であるが、神の現実は時制を超越しており、人間には予言のように見える。人間の知識をはるかに超えた三位一体の神の秘義、それが創造宇宙である。

*父と子と聖霊は三者が互いに一致して分かち合う共同体の生である。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」と。そこから、目に見える現実世界が湧き水のように流出してくる。聖霊は御父と御子をみことばで結ぶ帯であり、また、御子と私たちをみことばで結ぶ帯でもある。御父と御子の間の交わりの関係のすべてが、聖霊降臨後、三位一体の神と私たちの関係へと転移される。そうして救いが完成へと向かって進む。救いの必須要件は、隅々まで浸透してすべてを結びつける聖霊の交わりである。

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 神の民の一致のために
2019.6.9
 谷川 卓三 牧師
わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハネによる福音書14章10節)
*神の聖霊は一致を成就する。世界の一致、神の民の一致である。それは不思議の連続による。人知でははかり知ることのできない神のご計画の成就である。

*混乱から一致へ バベルからエルサレムへ 分裂(争い)から一致(交わり)の世界へ。

*父と御子の一致から発してすべてが一致する世界へ主は救いをもたらされる。しかし、この世はそれを信じることができない。ならば、業をもって。復活の力で。

*「わたしは自分から語るのではない。父が語らせてくださる。」との主の御言葉が、信ずるすべての人々に及ぶとき、人々は自分から語るのではない、聖霊が語らせるままに、語るようになる。主イエスにおいてなされていたことが、すべての信じる者において現実となる。それが聖霊降臨である。神がなされる業を信じる者が一致の世界を築くべく召されている。

*「主の民の一致のために」とりなし祈る。それは悪の力に打ち勝つ神の力による不思議の出来事である。

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ゆるし、そして、とりなせ
2019.6.2
 谷川 卓三 牧師
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカによる福音書24章45-48節)
#「希望のとりなし:ゆるし、そして、とりなせ」

*主の救いのご計画が全て整えられて天の王としての慈しみの支配がはじまる日。

*主は弟子たちを祝福しつつ昇天された。それは、神と人との和解の集大成である。主が昇天され父なる神の右に座し、われらのためにとりなしをされているからには、昇天後のわれらの歩みは和解の務めの歩みが、主の再臨に至るまで固定されて保持される。

*悔い改めは神による希望から。主の苦しみと死と復活における罪の赦しを得て、世界の民は罪びととしての共同性において神との和解と悔い改めを受ける。

*復活経験から赦しと和解を得て「パウロ」のとりなしの祈りは復活の確信に基づいている(第2日課をよく読んで!)。

*それゆえ、とりなしはへりくだりの業である。へりくだりはキリスト教倫理の中枢である。謙遜なる勇気はとりなしの祈りへと結実する。ルターは修道士としてこの謙遜(フミリタス)を常に自分に問うた。

*ブラザーロジェの祈りにはいつもこの「赦しととりなし」が含まれていた。天に帰られたとりなしの主がゆるしの福音をもたらされた。それを万人に伝えることが始まる世界。

*動画はこちらへ。

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 すべての人よ、主をたたえよ
2019.5.26
 谷川 卓三 牧師 new
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネによる福音書14章23節)
*「私を愛する者はだれでも」|すべての人、全人類、諸国の民 パウロの見せられた幻。神の命令だと分かって喜び勇んで直ぐにキリスト教宣教の処女地ヨーロッパの地に向けて出発した。

*「わたしを愛する人は(皆、誰でも)、わたしの言葉を(喜んで)守る。」|契約を喜びの心で直ぐに実行する。

*全ての人が救われるために主は病を負われた。そして、病いを患うの主となられた。病を負う人々をご自分のコアな友となして、ご自分と同じ全ての人の僕とされた。

*一緒に住む。「神が人と共に、人が神と共に。」黙示録21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、」それが平和。シャロームの平和(神の平和)。一緒に住んでいるか?孤独ではないか? エコロジーの心

*私は主が私の心の中に語りかけて言われるのを聞いた。「私がなす(成す・為す・生す)救いの業を見ているがよい」私は確信をもってワクワクさせていただく。先週「聖句日めくり」をとおして聞いたみ言葉は今週私の心に届いて、歴代下のみ言葉が個別化した、受肉したということだ。

#教会の祈り:☆とりなしの祈り彡
*もろもろの多宗教の一致のための、異邦人への宣教|あらゆる宗教が指し示す天に向かう心。その心で一致して平和を作り出そう。

*今週の説教の動画はありません。申し訳ありません。

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 愛なしにすべては虚しい
2019.5.19
 谷川 卓三 牧師
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
               (ヨハネによる福音書13章34節)
@この言葉はTコリント13章の愛の賛歌において有名だが、これは彼自身の体験の言葉だった。彼の前半生と後半生を分かつ体験。それは愛の体験としてやってきた。キリストにおける神からの愛の体験として、ダマスコ途上の出来事はあった(ルターのシュトッテルンハイムでの雷も、私のローマでの体験も)。秘儀としての愛の発見。愛が全てを解決する秘密だったことを知ったパウロ。

*彼の前半生の難しさは異邦人の問題だった。異邦人(キリストの道の者も含めて)を神の世界でいかに受け入れることができるか。違いすぎる!考えも習慣も振る舞いも違いすぎる!

@神からの愛の経験としての歴代誌下20章17節。「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。」主はすべての人を救われる。その救いの業を見ていよ。「今ここで」それは行われる。それはパウロの経験であり、私の経験でもあった。

*「わたしがあなたがたを愛したように!互いに愛せよ。」を主からの愛の言葉としてうけとめたとき、パウロの心は燃えた。そうして、Tコリント16章14節「いっさいのことを愛をもって行いなさい」や「愛がなければすべては虚しい」が自然と湧き溢れてきた。

@St.Francis of Assis, アッシジの聖フランシスコ1182-1226のこと。テゼーのポスターのこと。小鳥に説教したフランシスコの絵。単純さ。テゼーの精神の精華として。一致と単純さは相即。愛という単純さ。難しいことは何もなくなる。愛は小鳥をも兄弟と成す。

*教会の祈り:とりなしの祈り
教派の違いが宗教の違いのごとく受け止められている場合さえある。キリスト教徒の一致が愛による知識に基づいて行われることを見よ。教派を超えてキリスト者は愛睦まじくせよ。


*この説教の動画はこちらをごらんください。

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 復活ーすべてに勝って偉大なる業
2019.5.12
 谷川 卓三 牧師
 「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」 (ヨハネによる福音書10章29-30節)
*復活の教会は一致の力、すなわち、恵みの力、すなわち、神の力。それによって救いを宣教した復活体験後のペトロたち初代教会の宣教である 。
 復活を信じる者の祈りはかなう。ドルカスを慕い嘆く婦人たちは復活によって強められたペトロの祈りに期待をかける。一致の力は周囲に復活の空気を拡散させる。 

*「わたしと父とは一つである」。復活の力、すなわち、神の力は一致の力。結びつきの力。力の秘密。神との一致、結びつきを信じることができる根源が主の復活。

*強烈な一致の交わりの感覚 イエスの場合 それは愛の感覚として(本日の福音)。それを弟子たちに、そして私たちに与えてくださるのが主の復活だ。 

*神は人間にご自身の自由を与えられた。それは完全なる自由としてである。それを妨げることは神でも出来ない、なさらない。もししたなら神の自己矛盾だから。だからそれゆえにこそ、人間は他者に対して個々の自由を侵してはならならない。唯一の神を主とする者は他者を限りなく尊重しなければならない。しかし、自由を尊重するとは決して他者を自由放任して独りにするという意味ではない。真の自由こそが人間への最高の賜物としての真理である。自由にあってこそ(のみ)愛することができる。

そのような自由なる民となるように、神にある自由へと招待することが福音宣教である。キリスト者の自由とはそのような、他者を恵みの交わりへと招く、復活を信じる者の自由である。神は復活において人間に真の自由を回復された。それが黙示録の殉教者たちの何ものをも恐れない天の民の自由である。


*この説教の動画はこちらをごらんください。

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 主が導いて行かれる
2019.5.5
 谷川 卓三 牧師
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる。」
       (ヨハネによる福音書21章18節)
#パウロの回心とペトロの回心:特別啓示と一般啓示
 :私たちの場合は?

*あるがまま、ということは即ち、導かれるまま、ということである。私が主に先立って判断するのでなく、主が連れて行ってくださる。それは、最高の道、即ち、恵みの道。復活の主の啓示。それが円熟ということ。貧に処する道も富にある道も。孤独の時も交わりの時も。神に導かれるリズムを感じつつ。神のなさることは時に応じて美しい。

*神は人をすば晴らしく導いてくださっている。そのことに気づかせられるのが特別啓示の時。パウロはそれを「恵みを受けた」と言う。その啓示を受けたなら、もはや孤独ではありえない。その特別啓示を忘れてはならない。「神の命令には逆らえない」と言って松山を出たことを忘れない。だが、実際は、忘れえない。それは繰り返し繰り返し語られる。ペトロやパウロの物語、即ち、復活物語が繰り返されたように。

*主の導きに従う人の規範としては、ただ従順のみが問題となる。〔私〕の行為ではない! 〔主〕が導く道の途上にあるからこそ、主に対するあるがままの服従の従順さが特別に大切なのだ!

*「主よ、何故ですか」とのペトロの問いへの主の答え、というか、3度の反問:「あなたは私をこの人たち以上に愛するか」 その時ペトロは悪しき状況の意味に気づかされて、苦しみが喜びへと激変した。意味が分かった!のだ。

*今回は説教の動画はありません。

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 あなたがたに平和があるように
2019.4.28
谷川 卓三 牧師
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
(ヨハネによる福音書20章21節)
*「シャローム」 神からの祝福 / 安息日の平和の挨拶
*あなたがたに平和があるように!復活の意味がここにある。
  神との平和(和解)の福音 神と人との平和の挨拶
  聖餐式の平和の挨拶も。
平和と信頼と喜びの霊をもって派遣。【テゼー:信頼の光 ブラザーロジェの祈り| 憐れみ深い神さま!あなたは、キリストと使徒と聖母マリアから今日の証し人に至るまで私たちを「平和と信頼と喜びの担い手として」私たちの周りの人々のために存在するように呼び出しておられます。】

*第一義的に「平和」であって「平安」ではない。
「アロンの祝福」の「平安」を「平和」に言い換える理由。共に「シャローム」の翻訳だが、「平安」は自身の心の事柄。「平和」は関係の言葉。最後の晩餐において主は言われる、「私はあなたがたに世が与えることのできない『平和』を残してゆく」と。また、復活の主は言われる、「あなたがたに『平和』があるように」と。また、パウロはローマ5:1で「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に『平和』を得ており」と言っている。三位一体の名において私たちは神との平和に与っている。それゆえ、私は「平安」ではなく「平和」を用いることに固着する。

*平和の福音を携えて今日も復活の太陽と共に始めよう。


*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
 こちらをごらんください。

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 太陽と共に始めよ
2019.4.21
谷川 卓三 牧師
イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(ヨハネによる福音書20章17節)
*主題:復活の光。復活の太陽。三位一体の光。
    あなたと私への復活の光の到来
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*派遣命令は「新しい朝の光」から。「すがりつく」関係:過去の麗しい同伴関係ではなく、新しい使命:復活の主の同伴と導きの未来への遣わし。

*復活の太陽は全く新しい太陽である。栄光の顕現の太陽である。土曜日の太陽は隠された太陽、父なる太陽の安息である。それに対して、日曜日の太陽は復活の御子の主なる太陽である。日曜日は安息明けの太陽の光から始まる。御子の太陽の安息は、魂の太陽を寿ぐ安息である。安息の質と意味が、土曜日安息とは区別される。

*三位一体の太陽(光の根源なる父と、輝く光としての御子と、内なる温もりの光としての聖霊)。

*兄弟姉妹のところへ行って伝えよ。摩訶不思議な神の出来事としての復活を!

*復活の光が届くとき、一人一人は復活の光によって新しいものとされる。光はそれぞれの人に独自の恵みとして届く。


*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
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 あなたを救うために主は十字架の犠牲を負われた
2019.4.14
 谷川 卓三 牧師
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書23章43節)
*イエスに祝福された磔刑者はどのような人であっただろう。十字架刑は国家反逆罪である。その中には色々な人々がいる。ごろつきのような者も赤穂浪士のような義人も。フランス革命時にバスチューユを襲った者たち、また解放された者たちの中には多くの無頼漢たちがいた。ならず者の暴力によって革命が果たされたことは歴史の裏面である。イエスと共に十字架刑に処せられた二人の強盗もどのような者たちか気になる。イエスに祝された強盗は神を恐れる人であったとある。あらゆる人間の人生の総決算が「神を恐れる」か否かに掛かっているということである。「神を恐れる」ところから人間としての抑制・節制・謙遜が生まれる。
*この人がどんな理由で国家反逆罪に問われたのか。多くの革命的暴動において一蓮托生になった群衆を一括りにしてはいけない。一人一人みな、そこに至る道は異なる。この人がもし、神を恐れ、共に十字架に掛けられたイエスのうちに罪なき人を見て、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとすれば、すごく純粋で高貴な精神の持ち主であったことが想像される。
*暴力的権力のピラミッドで構成される、ローマ帝国のような、この世には認められない者の中にも、神の国のために邁進する多くの人々がいる。その人たちの無念の犠牲を私たちは慮らなければならない。彼らの働きのゆえに天国は近づいている。イエスと共に楽園にいる人々は最後の瞬間まで、その一期一会において、祝福を受けることができる。人類の救いのために御父の独り子が十字架の死の犠牲を払われたように、義のために喜んで犠牲となる品性の神の子らによってこの世は神の国へと近づいてゆく。
*「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」はイエスと共なる神との一致、ヨハネ17:22「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」の成就である。闇の世界が神との交わりによって一瞬にして光へと変わる奇跡がここに起こった。

*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
 こちらをごらんください。

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 御心に従って導かれるままに
2019.4.7
谷川 卓三 牧師
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(ヨハネによる福音書第12章7-8節)
@ 一期一会:出会いの不思議 闇が光となる。
@ ユダの合理的な、そして自己義認的な反撥、
@ 対して、イエスの非理性的服従(従順)
@ それが救いに至る道と滅びに至る道の分かれ道。
@ 神意のままに、あるがまま従う
 :それが十字架への不可避の道(葬りの日)であろうとも、
   神の導きは全て祝福の道!

*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
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