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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

聖句断章weekly message  2019年(1)


「神さまといつもいっしょ」2019.9.29
「わたしは命のパンである」2019.9.22
「栄光と力を主に帰せよ」2019.9.15
「人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く」2019.9.8
「わが魂よ、主をたたえよ」2019.9.1
「わが魂よ、主をたたえよ」2019.8.25
「すべての民は神の宝」2019.8.18
「神が嗣業として選んだ民」2019.8.11
「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」2019.8.4
「神の裁きと憐み」2019.7.28
「真のもてなし」2019.7.21
「戒めは心の中に」2019.7.14
「平和の都エルサレム」2019.7.7
「神に従うということ」2019.6.30
「閉じ込めから解き開きへ」2019.6.23
「神の似姿」2019.6.16
「神の民の一致のために」2019.6.9
「ゆるし、そして、とりなせ」2019.6.2
「すべての人よ、主をたたえよ」2019.5.26
「愛なしにすべては虚しい」2019.5.19
「復活ーすべてに勝って偉大なる業」2019.5.12
「主が導いて行かれる」2019.5.5
「あなたがたに平和があるように」2019.4.28
★「太陽と共に始めよ」2019.4.21
「あなたを救うために主は十字架の犠牲を負われた」2019.4.14
「導かれるままに」2019.4.7

 かみさまといつもいっしょ
2019.9.29
 谷川 卓三 牧師
神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。(創世記1:31)
●この節は創造主として神が天地を創造された時の最後の言葉である。神の言葉は音声としての言葉ではない(詩編19:1-5)。神の魂から私たちの魂に響く言葉である。

●その天地創造の最後の言葉は「極めて良し」であった。「アーメン」が思い起こされる。「アーメン」は「そうです」という意味だが、もっと強い肯定である。その根源がこの神さまの「極めて良し」ではないか。創造世界は神の全肯定から開始された。そこから、それに与る人間と自然の被造物の全肯定が繋がる。

●宇宙の開闢(かいびゃく)、世界の始まりを何と信じるか(いずれにしてもそれは信じるべきもの)でその後のすべての針路が決定づけられる。創造世界を全肯定して信じるとき、世界のすべては喜びあふれる恵みの世界となり、すべてのものが兄弟姉妹となる。それを妨げる力と戦わなければならないが、それに打ち勝つ力によって私たちは神の子として成長させられる。進化論仮説は人を孤立化させる。万物の霊長と祭り上げられて宇宙的孤立を招来する。人間はそのような神ではない。

●神は創造を全肯定の満足をもって眺められた。そしてそこから新たにそれを保ち守り発展させる神御自身の努力が始まる。神は決して駝鳥ではない。天地創造の終わりは神の世界の始まりである。神の世界はワクワクランドである。全てが日ごとに新たに創造される世界である。それは、天地創造の継続であり、進化・新化・深化・神化の方向に向けてのスパイラルである。

*今週は動画はありません。

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 わたしは命のパンである
2019.9.22
 谷川 卓三 牧師
「わたしは命のパンである。」(ヨハネによる福音書6:48)
●他の誰でもない、「わたし」はあなたがたの命のパンである。このパンなしには人は生きることができない。命は唯只神の恵みの賜物。誰も命を造り出すことはできない。神のみが命の贈与者である。そして、その命が維持され前進するためには日ごとに「パン(糧)」を必要とする。主イエスは「日ごとのパンを与えてください」と祈るようにと言われた。パンを手に入れるのは私たちの努力の結果ではない。「空の鳥を見よ」日ごとの糧は天の恵みであり、父なる神はかならずよくしてくださることにすべてを信頼して前進せよ。主なる神はあなたがたに聖霊を賜り、全てを良きにしてくださる。創造主を信じる時私たちは聖霊の交わりの内に心安らかに前に向かって歩める。

●「たたえられよ、主!あなたへの愛の故に人を赦し、病と苦しみに耐える人々のために心安らかに忍ぶ人々は幸い。いと高きあなたの栄冠を受けるから。」(「太陽の賛歌」)
永遠の命は主なる神への愛の交わりであり、愛は赦しの力。赦しは忍耐の力。忍耐は天の栄冠への希望。(ローマ5:1-5)
苦難を心安らかに耐える。それは人を愛することによって受ける苦難である。「病と苦しみに耐える人々のために心安らかに忍ぶ人々は幸い。」フランシスコは心と体の病に苦しむ人々と共に苦しんだが、しかし、その苦しみは心安らかな苦しみであった。それがキリストの愛に結ばれた苦難であり、苦難と共に栄光が与えられる。それは栄冠の終わりに向かう人生である。あてどのない人生ではなく、キリスト・イエスにおける神の愛の交わりの中に生かされて生きる人生である。

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 栄光と力を主に帰せよ
2019.9.15
 谷川 卓三 牧師
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。
(ルカによる福音書8:25)
●イエスの信仰は少なくとも、創造主に対する信仰だった。世界を創造し支配される方としての神を父とお呼びになった。これは私たちにとっては決して当たり前のことではない。私たちは神をそのようなものとして明確に信じることをしていない。私たちの信仰はせいぜい信心をすれば何かいいことがある程度の信仰ではないか。あるいはいろいろな恐れを抱かせるもの、たとえば地震、嵐、台風、大きな木や大きな岩などに霊力を感じて神と崇める。あるいは人を神格化して崇めることであろう。新興宗教の教祖に従うように。

●イエスの創造主に対する信頼は嵐さえも支配される創造の主を父として愛し一体化して、現象への恐れを取り去り、世界の終わりの創造の完成に至るまで導く主であることに対する絶対的信頼である。そのような信頼がイエスにあって、何故弟子たちや私たちにないのか。イエスと弟子たちは別世界に住んでいるのだ。創造の神を信じる人の世界と、それを信じられない人の世界には大きな断絶がある。同じ嵐を見ていても、恐れを抱くか、寝ておれるか、の違いである。

●イエスが「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた時、ご自分の信仰の尺度でそれを言われた。そして、私たちにご自分と同じ信仰を求められる。それは人間には不可能だが、神には出来ないことはない。神と共に生きる人間には可能であるが、神から離れた人間には見えない世界である。イエスによって招かれている創造世界はそのような信頼世界である。それは私たちのすぐ近くにある。主なる神が共におられるので、全てをゆだねて安心できる世界である。

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 人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く
2019.9.8
 谷川 卓三 牧師
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。(ルカによる福音書12:24)
●世界が神の世界(国)であるなら、人間が働くことは、神が許された喜びを享受するための努力である。糧を与えるのは神であって、人間の努力はただ許される限りにおいてである。「今日もこの日の糧をお与えください」と祈る人は「この日の糧が手に入るのは神の恵みによっていることを知っている。人間も鳥も獣も、同じように、そう祈る。神は必要なものそれぞれに、それぞれにかなった必要なものを与えられる。

●しかし、近代主義は私たちを迷路に誘導した。産業革命以来のお金のための労働の苦しみを紛らわす幻想を、資本主義・社会主義・共産主義のドリームを振りまいてきた。たが、現実はますます奴隷化される世界である。働きが喜びでなくなった社会に私たちは生きている。神の祝福された世界が見えなくされている。お金がなければ何もできず、お金を持たない者は価値なき者とみなされる社会となった。

●ルカ12:22-31は私たちの魂を神の創造世界へと喚起する。それによって私たちは世界が決して悪魔の支配に完全に委ねられているのではないことを知る。「烏のことを考えてみなさい。」主イエスは自然に生きる被造物に見える神の憐み深いご支配を思わせて、弟子たちの閉ざされた魂を奮い起こさせる。「あなたがたは鳥よりもどれほど価値があるか」と。世界を神の恵みの創造世界と見ることは、人間を素晴らしいものへと変容させる。神を賛美する心をもった人間へと変容させる。イエスキリストは私たちを生き生きと生きる喜びを与えるために世に来られた。

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 わが魂よ、主をたたえよ
2019.9.1
 谷川 卓三 牧師
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカによる福音書5:11)
●神の創造を知っているイエスと知らないペトロたち。そのペトロたちに創造の事実を知らせると、彼らは「すべてを捨てて」イエスに従った。「イエス」は創造の象徴。メタファである。神の創造の出来事を知る者と知らない者の差は天地の差である。だから、それを知れば人々の行動は即座に変わる。今までの固定概念が全て虚しくされ、ちり芥のように思われ、捨て去ることができる。それほど創造の光のインパクトは人を変え、人を導く。

●新しい創造は混沌(むなしさ)から。虚しい君へ。光は近い。あなたを救う光はすぐそこに来ている。光を待ち望め。君の虚しさは創造への想像力の欠如からきている。しかし、虚しさも神の創造のご計画の中で大きな意味を持っている。神の創造の初めは虚しさの暗い海から始まったと聖書に書いてある通りである。虚しいという君は想像力がまだ光に曝されていない。

●ペトロたちも夜通し漁をしたがいつもの経験通り虚しい結果となった。淡々と虚しい漁の跡片付けをするのみであった。そこに突拍子もなくイエスが「ここに網を下ろしてみなさい」と言われる。彼らからしてみればとんでもない提案である。この差が創造に対する想像力を持っている者と持たない者の差である。暗闇の虚しさはやがて光あれとの神の創造の光によってすべてが新たにされる。新しい創造に向けてイエスキリストは人々を弟子たちとして呼ばれる。そのことは今日も集団的社会的に、歴史の真実として、そしてそれは君の魂への光としても、来ている。

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 わが魂よ、主をたたえよ
2019.8.25
 谷川 卓三 牧師
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。るためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(ルカによる福音書13:12−13)
●18年もの間病を患い、腰が曲がったままだと言う。イエスはその女の人の有様を憐み、癒して差し上げた。人々は神の憐みを喜んで神を賛美した。このまま神の善意が広まるならば、どんどん神の国はこの世に広がっていったにちがいない。ところがこの世の問題はここから始まった。これをよく思わない人々がこの世において力を持っており、彼らの邪魔立てによって神の善意は妨げられる。これが宣教の現実である。

●神の善意と憐みを良しとしないのか? そんなことはない、とその人たちも言うに違いない。だが善意を示すにはTPOがある。安息日には神の戒めにある律法を守ることが優先する。それを犯すことは神をないがしろにすることである、と。人々はこれを聞いて委縮して言葉を失った。自分たちは律法について何も知らない。神を冒とくするつもりなどないが、とにかく、権威の言うことに従っておかなければ後で何があるかわからない。

●イエスの宣教の壁はそのような権威ある人々の圧力であった。これを打ち破る手はないものか。人は目上の人に従わなければならないと、昔の人々は教えられた。しかし、イエスの復活後弟子たちは、ペトロが言うように、人間に従うよりも神に従わねばなりません、と断言できた。それを可能にしたのが、イエスキリストにおける神の権威の絶対性への目覚めであった。福音書を書いた人々はそのような人々、復活のイエスと出会って、神の愛の恵みの絶対性に目覚めた人々であった。キリスト教は神の絶対性に目覚めた人々から始まる。

*メッセージはこちらへ。

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 すべての民は神の宝
2019.8.18
 谷川 卓三 牧師
@ 詩編82:8 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
A エレミヤ23:29  このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
B ヘブライ12:1 全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
C ルカ12:49 わ たしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
●正義の裁きをなさる主なる神は、小さな群れ、地の民を悪の権力から守り、最後は民の勝利と平和の樹立へと導いてくださる。主は民の側に立たれる。

● エレミヤは真実を精錬する火である神の言葉を信じる。火で精錬されても消えない真理こそ最後まで残るもの。私たちに自由を与える神の力である。

● 闇の力はメディアのマインドコントロール、金と性欲と地位の誘惑に弱い人間を暴力を用いて神の国に敵対する。彼らの蛇のような狡猾な知恵に対抗するためには、十字架の知恵、神の知恵をもって「互いに愛せよ」との主の掟を御旗に掲げて、十字架の主に従うことによって栄光の勝利へと凱旋する。

●願っているだけで平和は来ないことはイエスが一番ご承知だ。主は、平和を実現するための力は「火」だと言われる。火のような愛の力が。だが残念ながらその火が人類にはない。だから、言葉だけである。その火を投ずるために私は来た、と主は言われる。それは十字架の平和である。

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 神が嗣業として選んだ民
2019.8.11
 谷川 卓三 牧師
@詩編33:12 いかに幸いなことか、主が嗣業として選ばれた民は。
A創世記15:1 「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
Bヘブライ11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
Cルカ12:32 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
●嗣業とは相続財産のこと。主語が神であることに注目。私が選んだのでなく、神が選んでくださった。しかも、相続財産として。ここに信仰の人生の確かさの基盤がある。

●アブラハムの選びについて見ることは、世界の歴史の始まりから終わりまでを見ることにつながる。*アブラムの召命、*祝福、*守り、*希望の約束の未来。*アブラハムとノア。*ノア(箱舟)以前とノア(箱舟)以後。*旧人類と新人類。約束の成就・完成に向かう世界。

●アブラハムは神と共に歩む新人類の原型。それはイエスキリストにおいてクライマックスに達する。Q:「望んでいること」「確信する」「見えない事実」「確認する」とは?

●「小さな群れよ、恐れるな」と、神が小さな者の側に立っておられる。「あなた方は地の塩・世の光である」。

●そして主は「喜んで神の国をくださる」。「神の国の到来する終わりの時」は「婚宴から帰って来て喜んで僕たちの食卓の給仕する主人と共に喜びの食卓に参加する時」。救いの完成の時を待ち望みつつ「目覚めておれ」。「天に宝を積む」歩みだけが私たちの光栄ある望みとなるように。

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 慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし
2019.8.4
 谷川 卓三 牧師
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
(ヨハネによる福音書15章10節)
●先の大戦が74年前に終結したが、なぜ戦争になったのか、戦争で何があったのか、その結果何が始まったのか、様々な反省もすっかり忘れられて、過去を知らない新世代が被害者意識から世界を敵に回す自己中心の国へとその支配体制を固めようとしている。

●世界も再構築の間でその支配権をめぐって激しく争っています。ミカの予言した終末的な主の山は異なる諸国の集い、主の憐みを受ける神の義の山。この終末的な世において人間が神の子であることを想起する礼拝をとおして、人間の思いから戦うことをやめ、神のみことばとして、世界の救済計画を聞こう。

●「遠く離れている者」と「近くにいる者」。「異邦人」と「ユダヤ人」、奴隷と貴族、地の民とエリート、99%と1%、この間の「敵意」の克服なしに平和はない。キリストは来られ、十字架において敵意の中垣を取り払って、平和を打ち立てられた。

●「父の掟」はただ一つ「愛せよ」であることをイエスは、私たちにも知らせるために来られた。神は賜った十戒の第一に「あなたの神、主以外の誰をも神としてはならない」を据えられた。その基の上に他のすべては立てられる。ルターはその解説に「あなたはあなたの主を何よりもおそれ愛し信頼しなければならない」を置き、十の掟全部の初めに据えている。
●「愛せよ」との掟を顧みない支配者とその手下たちは、戦争の犠牲によって与えられた平和憲法をおぞましいとして退ける。しかし、彼らが捨てた石が隅の親石となった。今こそ世界の平和を深く主の愛から捉え、そこに留まろう。ノーベル平和賞は一番政治的な「うさんくさい」賞であるが、平和を造り出す神の民の勢力は平和に留まることを互いに鼓舞し励まし合う。平和こそ主から賜る最高の賞。

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 神の裁きと憐み
2019.7.28
 谷川 卓三 牧師
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
(ルカによる福音書11章1節)
*神の裁きは悪に向かい、神の憐みは神の国に向かう。
*全肯定と全否定の同時性;神と悪魔の同時性:それを可能にするのが神の国を執拗に求めるイエスの祈り(即、主の祈り)。

●祈りの人イエス。「弟子たちが祈ることを自分たちに教えてくださるようにキリストに頼んだのは、祈るキリストを見たとき、彼が祈りそのものであることを見たからである。弟子たちは彼らが今まで見たことのなかった仕方で彼のことを見て神の子を見たのだ。」(エリク・ドイル)弟子たちは個々の祈りを知りたかったのではなく、祈りそのものを知りたかった。祈りは生き方全体の問題、存在の在り方そのものの変容である。

●「祈るという存在の在り方は、神、他の人、全被造物に関係する存在の在り方である。『アバ父よ』と祈る人は、実在との関係に完全な意識と共に入り、神から自分自身の存在が肯定されていることを聞く。これによって彼は単に受け身的にばかりでなく能動的にも、神による自分自身の人間肯定を「アーメン」として聞く。」(エリク・ドイル)イエスのように祈る生き方においては、人生の変容が起こらずにはいない。生き方上手の方法論ではない。それが「天の父よ」の祈りである。

●「完全な自己肯定を通して純粋な自己愛が生まれ、そこから、他者、すなわち、人間、動物、植物、岩石、あらゆる被造物を愛し受容し、自分の存在の深みからそれらに対して全面的に肯定の「アーメン」を言うことができるようになる。それで、万物が神に向かって宇宙的肯定の「アーメン」の大合唱を歌い上げる。」(エリク・ドイル)「アバ父よ、あなたが私の内におり、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内に一つにしてください」(ヨハネ17:21)の成就に向かうのが主の祈りである。

●負い目と罪:負い目とは無知の故に誤りを犯し、人を傷つけること。世界は情報の世界である。何に基づいて判断しているのか。何故そのようなひどい判断をするのか。それはその人の人格の問題よりも、その人の情報の問題である。「彼らは何も知らないのです」とキリストは十字架上でとりなされた。神の裁きと憐みの圧倒的非対称性。十戒の最後の言葉:恵みは幾千代に及ぶが、父祖の罪が子孫に及ぶのは三四代である。

●「神を知らないこと」が一番大きな無知である。だから、「求めよ」「探せ」「門を叩け」と主は言われる。真理を求めようとする神の与えた本能によって祈りの生き方という真実に向かうなら、無知な存在から光へと、神によって安らかに導かれる。

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 真のもてなし
2019.7.21
 谷川 卓三 牧師
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
(ルカによる福音書10章41-42節)
●アブラハムは期せずして「神をもてなした」。ヘブライ13:2 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」何という神秘であろう!神をもてなすとは。ここに礼拝(奉献)の意味がある。神は打算(取引)を嫌い、まごころを愛される。それが捧げもの(犠牲)において、旧約以来一番強調されたことである。三人の旅人訪問者である三位一体の神は私たちのもてなし以上に私たちに恵みのハプニングを与えられる。それは、三位が一体となって指さす御子の命(聖餐)である。ドイツ語のGottesdienstは礼拝の意味であるが、直訳すれば神奉献。それはしかし、神への奉献である以上に、神からの奉献であるとルターは強調した。

●出会いは創造的。もてなしの心と形の一致は大切。そのことが茶道で表現されている聖餐の所作である。しかし、もてなしという言葉を乱用して、実際はもてなしを忘れている現代日本の現実は歯がゆい限りである。もてなしの心が打算に依存しており、真のもてなしとは言えない。

●神の目から見て、必要な唯一つのこと。それは神ご自身とのつながりを意識すること。それ以外はすべて添えて与えられるもの。逆に、それがなければ、どのような良い働きも「思い悩み、心を乱す」仕事になってしまう。

●私は独りでは何もできない。イエスさまが言われたとおりである。ヨハネ15:4 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」 神なしには何もできないし、何者でもない。人間が神なしには事実、何の実も結べない存在であるという重大な認識です。失敗を通してそのことが再発見されれば神さまのお恵みです。まだ神の現在を信じられない友の苦しみ・不安・闇の現実にも、「主が共におられる」との共同確認である礼拝を神に感謝します。逆に、神が共にいて導いてくださっているので、恐れることは何もない。

●私たちに対する、「つながっていなさい」の神の催促(ヨハネ15章のぶどうの木のたとえはそのように解釈すべきである)は、それが永遠の命に係る緊急条項だから。そしてそれは意識の問題である。「つながっている」ことを意識し、そして感謝して「つながる」ことである。意識なしには恵みは無駄になる。人間とは意識的存在なのである。それがイマゴデイ(神の似姿)たる所以である。

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 戒めは心の中に
2019.7.14
 谷川 卓三 牧師
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」
(ルカによる福音書10章37節)
●申命記30:14 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」どうしたら神のみことばが私の心に沁み込んでくることができるのだろうか、と。その答えは? 申命記学者たちは律法学者の先達としてしっかりと答えている。決して難しいことではない、と。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」。何をもって「ごく近く」と言うのか。一番近いのは、私の心の中、ということ。それ以上に近いものはない。私が心で聞き、心で見る(現代的に、「頭で」はないことが面白い)。そしてすぐに応答する。すなわち、「あなたの口と心」がそれをする。心は神との対話性の器官である。そしてそれが、対話性において一番近い。対話において人は他者に応答する。イエスかノーか、留保かも含めて答える。人間関係に対する応答は間接的であるが、心の中での神への応答は、無視や言い訳を含めて直ちに反応しているのである。その反応が「イエス(然り・ハイ)」であるなら、行動は直ちになされる。行うことができる。

●「行って、あなたも同じようにしなさい。」このイエスさまの言葉が全ての人間の浅知恵を終わりにするカギである。神の知識は自分の行動の経験を通してのみ進化(深化・新化)する。その事実の前には「律法学者」の観念論、理論的理解、言い訳は虚しく、学者たちの偽りの教理がこの世を偽りの権威で導くことが続くかぎり、神の知識がそれを覆す形で神の国は進む。私たちはそのような学者たちの理論に迷わされ惑わされることなく、自分自身の経験を頼りに、神の知恵の真実の道を進もう。

●私たちはこの世で何をなすべきか。それがこのサマリア人の教えにすべて描かれている。テゼ共同体を先導するイコンが「良きサマリア人」のイコンである。それを今日の画像として添付する。6つの丸の中に描かれている物語は一つの物語としてその中心にイエス・キリストが、アルファでありオメガである方としてその川の流れを導いておられる。この流れ全体が神の国がこの世に打ち勝つ栄光の業である。
●私たちも行って同じようにしよう。ただそれだけが最後の審判の時に問われる天の天秤である。マタイ25:45-26「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

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 平和の都エルサレム
2019.7.7
 谷川 卓三 牧師
どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
(ルカによる福音書10章5−6節)
*町々村々はエルサレムに通じる。エルサレムが町々村々である。平和が合うかないか、が神の前に問われる世界がエルサレムという聖なる名である。

*平和は神とのつながりを意識するところから来る。つまり、それが神殿の役割である。エルサレムにある唯一の神殿は、唯一の神との聖なる契約を意識するために人類に与えられた宮である。

「どこかの家」とは究極、エルサレム神殿のことである。今日語られるイエスの言葉はみな、エルサレムとその神殿に対する言葉として理解すればよく分かる。「この家に平和があるように」。エルサレムとは「平和の町」の意味だが、実際の町はその聖なる名を汚す町であった。イエスはその町の中心である神殿に平和を祈る。それはかなえられなかった。イエスがその町を去る時は十字架を経て復活して天に上る時であった。しかし、それによってこの町に平和が与えられた。その平和は「エルサレム」が天のエルサレムとなる時であった。そのことを急いで知らせるために、使徒たちは世界の果てまで遣わされる。そうして、天のエルサレムは世界中の人々の共同体の中に見えない形で現れる。 町とその中に住む人々、家々は神に対して責任がある。平和は共同体全体の問題である。町々の集合体である世界の平和は創造主なる神との和解と赦しにおいて成就する。

 「これもさんびか」という新しい子ども讃美歌の歌集1番、「夏は暑いぞ」。のぞみ園の今月の歌。「夏は暑いぞ。夏は凄いぞ。まぶしい光がいっぱい。だからジンジンジンジン蝉は鳴くよ。命の限り歌うんだ。そうさ、僕らはみんな夏が好き、夏が好き、夏が好き、だって神様の光に包まれるから」「夏は暑いぞ。夏は凄いぞ。不思議な力がいっぱい。だからドォドォドォ海はうねる、しぶきをあげて踊るんだ。そうさ僕らはみんな夏が好き、夏が好き、夏が好き。だって神様の力が押し寄せるから」。夏の暑さの中ですばらしい神さまを賛美するポジティブな心がよく表れている。「神様の光に包まれるから」「神様の力が押し寄せる」と。世界中の創造世界は海も山も野原も川もみな、神さまの愛につながっている。それを意識する心は「へりくだり」である。森羅万象をご自身につなげ、それを守っておられるかたへおそれと愛によってへりくだる者に平和が与えられる。

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 神に従うということ
2019.6.30
 谷川 卓三 牧師
そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
(ルカによる福音書9章59−60節)
#神に従うと、どんないいことがあるのか? 自由(解放と開放=開け)が与えられる。自分からの解放、他者への開放。この際、他者とは、「汝」(木々や鳥やを皆含む山川草木の被造物全体:パウロのローマ8章18節以下の未来への希望) 「自由」とは、愛に生きる自由。鳥のような自由。他者と楽しむ自由。

*イエス一行の宣教のこの旅はエルサレム(神の都)、神の宣教のゴールへの旅である。神が宣教される最終目的はエルサレム神殿を巡って交わされる。世界が神の前にあり、神の前に問われることをこの神殿は象徴している。

*だれでも弟子になろうとする者はそのイエスに同行するために招かれ召される。すなわち、自分の業のためではなく神の業のために同行するようにと。自分の業であるなら、自分で決めればよいが、神の業であるなら、神が決め、神が導き、神が配慮される。しかしこの意味が分かる者は少ない。12弟子といえども、エルサレムに一緒に上った彼らでさえ、従うことに意味を悟ることは、ようやく復活のイエスが彼らにご自身を現わして初めてである。それでもイエスは彼らを連れて上る。彼らの思い違いを悟らせるために。従うことは自分で、自分勝手に、自分の考えを実現することによって貢献することではない。単純に、ただひたすらついて行くだけでよい。これほど単純なことはないのだが、これほど人間にとって受け止めるのに難しいこともない。

*神が招く、神が召す、ということがどうしてわかるのか。それは神ご自身が呼びかけ、「ついてきなさい(したがってきなさい)」と言われるから。神の招きのしるしは、ブラザーロジェによれば「明確、単純、純一」がそのしるしだと言う。その従いには迷いがない。答えはすでに心の中に与えられている。それに従うだけでよい。

*説教の動画はこちらへ。

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 閉じ込めから解き開きへ
谷川 卓三 牧師
悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(ルカによる福音書8章38−39節)
#閉じ込めは自己の内を循環するだけで新鮮な空気による命のリフレッシュがない状態。解き開きは主と共にあることによってたえず循環する命の泉。

*「悪霊どもを追い出してもらった人」そして正気に戻った人。悪霊どもは暗闇の中でのみ活動できる。自己という閉じ込められた闇の世界は悪霊どもの活躍の場である。私が何を考えているかはほかの誰にもわからない。そこではすべてが自己責任となる。しかし、神はそのような世界を造られたのではない。神の造られたのは神と人とが愛の交わりの中でたえず交流する世界。そこには生き生きとしたみずみずしい命が生きられる。神との交わりに生きる人。相手が何を考えているか得体が知れない世界は「正気」の世界ではない。そこでは容易に「悪霊ども」が憑りついてくる。

*主の主権において、主は私たちを悪霊から解放される。神のみが主として愛と慈しみをもって恵みの業を人間に対してなされる。それが神の世界である。神は主として私を驚くべき業によって導き、癒し、悪霊より解き放つ。たえず、いつも、くりかえし!私たちはそのような神とその世界を信じているか?人間は自分の業を誇ろうとする。それは虚しいことである。私が何かをするのではない。神の恵みが私に及ぶのである。それが詩編8篇が歌う幼子乳飲み子の世界である。

*「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 主が召してくださる。それが主と一緒に行く道か、家に帰って人々に主の自分にしてくださった業を語り聞かせることと、どちらが優位という人間の業の比較は成り立たない。主が働いて(=導いて)くださらなければ、人の業は虚しいままである。そこには何も新しいもの、生き生きしたものは起こらない。自分の身近で主の業を語り伝えることのほうが圧倒的に多くの召命であり、多様である。主の業を喜ぶ群れとして日ごとに身の回りに主のなさることを宣べ伝えよう。

*説教の動画はこちらへ。

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 神の似姿
2019.6.16
 谷川 卓三 牧師
「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
(ヨハネによる福音書14章10節)
*父と御子の一致の交わり、コミュニオン。聖霊は交わりの霊。交わりは心と心の霊的スパーク。ミケランジェロの「アダムの創造」をご覧あれ。キリストは第2のアダム、アダムはキリストの予兆。両方とも神の似姿、Imag deiである。創造は神と人とが神の霊的スパークによって一つに結ばれる三位一体の神の御業である。その創造の三位一体的栄光は永遠に一貫している。
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*イエスと同じように聖霊も「自分から語るのではない」。幸いなる永遠の命に与る交わりの生の秘密は「自分から語るのではなく」にある。イエスは御父と一つである。それは御父からの声を聞いてそれをそのまま語り実行するからである。その時、その仲介を果たしたのが聖霊であった。それと同じように、御父を知らせる声として聖霊は私たちに臨む。それが内なる声である。

*「また、これから起こることを告げる」。未来に対する予言である。人間においては過去現在未来は時系列であるが、神の現実は時制を超越しており、人間には予言のように見える。人間の知識をはるかに超えた三位一体の神の秘義、それが創造宇宙である。

*父と子と聖霊は三者が互いに一致して分かち合う共同体の生である。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」と。そこから、目に見える現実世界が湧き水のように流出してくる。聖霊は御父と御子をみことばで結ぶ帯であり、また、御子と私たちをみことばで結ぶ帯でもある。御父と御子の間の交わりの関係のすべてが、聖霊降臨後、三位一体の神と私たちの関係へと転移される。そうして救いが完成へと向かって進む。救いの必須要件は、隅々まで浸透してすべてを結びつける聖霊の交わりである。

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 神の民の一致のために
2019.6.9
 谷川 卓三 牧師
わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハネによる福音書14章10節)
*神の聖霊は一致を成就する。世界の一致、神の民の一致である。それは不思議の連続による。人知でははかり知ることのできない神のご計画の成就である。

*混乱から一致へ バベルからエルサレムへ 分裂(争い)から一致(交わり)の世界へ。

*父と御子の一致から発してすべてが一致する世界へ主は救いをもたらされる。しかし、この世はそれを信じることができない。ならば、業をもって。復活の力で。

*「わたしは自分から語るのではない。父が語らせてくださる。」との主の御言葉が、信ずるすべての人々に及ぶとき、人々は自分から語るのではない、聖霊が語らせるままに、語るようになる。主イエスにおいてなされていたことが、すべての信じる者において現実となる。それが聖霊降臨である。神がなされる業を信じる者が一致の世界を築くべく召されている。

*「主の民の一致のために」とりなし祈る。それは悪の力に打ち勝つ神の力による不思議の出来事である。

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ゆるし、そして、とりなせ
2019.6.2
 谷川 卓三 牧師
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカによる福音書24章45-48節)
#「希望のとりなし:ゆるし、そして、とりなせ」

*主の救いのご計画が全て整えられて天の王としての慈しみの支配がはじまる日。

*主は弟子たちを祝福しつつ昇天された。それは、神と人との和解の集大成である。主が昇天され父なる神の右に座し、われらのためにとりなしをされているからには、昇天後のわれらの歩みは和解の務めの歩みが、主の再臨に至るまで固定されて保持される。

*悔い改めは神による希望から。主の苦しみと死と復活における罪の赦しを得て、世界の民は罪びととしての共同性において神との和解と悔い改めを受ける。

*復活経験から赦しと和解を得て「パウロ」のとりなしの祈りは復活の確信に基づいている(第2日課をよく読んで!)。

*それゆえ、とりなしはへりくだりの業である。へりくだりはキリスト教倫理の中枢である。謙遜なる勇気はとりなしの祈りへと結実する。ルターは修道士としてこの謙遜(フミリタス)を常に自分に問うた。

*ブラザーロジェの祈りにはいつもこの「赦しととりなし」が含まれていた。天に帰られたとりなしの主がゆるしの福音をもたらされた。それを万人に伝えることが始まる世界。

*動画はこちらへ。

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 すべての人よ、主をたたえよ
2019.5.26
 谷川 卓三 牧師 new
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネによる福音書14章23節)
*「私を愛する者はだれでも」|すべての人、全人類、諸国の民 パウロの見せられた幻。神の命令だと分かって喜び勇んで直ぐにキリスト教宣教の処女地ヨーロッパの地に向けて出発した。

*「わたしを愛する人は(皆、誰でも)、わたしの言葉を(喜んで)守る。」|契約を喜びの心で直ぐに実行する。

*全ての人が救われるために主は病を負われた。そして、病いを患うの主となられた。病を負う人々をご自分のコアな友となして、ご自分と同じ全ての人の僕とされた。

*一緒に住む。「神が人と共に、人が神と共に。」黙示録21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、」それが平和。シャロームの平和(神の平和)。一緒に住んでいるか?孤独ではないか? エコロジーの心

*私は主が私の心の中に語りかけて言われるのを聞いた。「私がなす(成す・為す・生す)救いの業を見ているがよい」私は確信をもってワクワクさせていただく。先週「聖句日めくり」をとおして聞いたみ言葉は今週私の心に届いて、歴代下のみ言葉が個別化した、受肉したということだ。

#教会の祈り:☆とりなしの祈り彡
*もろもろの多宗教の一致のための、異邦人への宣教|あらゆる宗教が指し示す天に向かう心。その心で一致して平和を作り出そう。

*今週の説教の動画はありません。申し訳ありません。

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 愛なしにすべては虚しい
2019.5.19
 谷川 卓三 牧師
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
               (ヨハネによる福音書13章34節)
@この言葉はTコリント13章の愛の賛歌において有名だが、これは彼自身の体験の言葉だった。彼の前半生と後半生を分かつ体験。それは愛の体験としてやってきた。キリストにおける神からの愛の体験として、ダマスコ途上の出来事はあった(ルターのシュトッテルンハイムでの雷も、私のローマでの体験も)。秘儀としての愛の発見。愛が全てを解決する秘密だったことを知ったパウロ。

*彼の前半生の難しさは異邦人の問題だった。異邦人(キリストの道の者も含めて)を神の世界でいかに受け入れることができるか。違いすぎる!考えも習慣も振る舞いも違いすぎる!

@神からの愛の経験としての歴代誌下20章17節。「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。」主はすべての人を救われる。その救いの業を見ていよ。「今ここで」それは行われる。それはパウロの経験であり、私の経験でもあった。

*「わたしがあなたがたを愛したように!互いに愛せよ。」を主からの愛の言葉としてうけとめたとき、パウロの心は燃えた。そうして、Tコリント16章14節「いっさいのことを愛をもって行いなさい」や「愛がなければすべては虚しい」が自然と湧き溢れてきた。

@St.Francis of Assis, アッシジの聖フランシスコ1182-1226のこと。テゼーのポスターのこと。小鳥に説教したフランシスコの絵。単純さ。テゼーの精神の精華として。一致と単純さは相即。愛という単純さ。難しいことは何もなくなる。愛は小鳥をも兄弟と成す。

*教会の祈り:とりなしの祈り
教派の違いが宗教の違いのごとく受け止められている場合さえある。キリスト教徒の一致が愛による知識に基づいて行われることを見よ。教派を超えてキリスト者は愛睦まじくせよ。


*この説教の動画はこちらをごらんください。

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 復活ーすべてに勝って偉大なる業
2019.5.12
 谷川 卓三 牧師
 「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」 (ヨハネによる福音書10章29-30節)
*復活の教会は一致の力、すなわち、恵みの力、すなわち、神の力。それによって救いを宣教した復活体験後のペトロたち初代教会の宣教である 。
 復活を信じる者の祈りはかなう。ドルカスを慕い嘆く婦人たちは復活によって強められたペトロの祈りに期待をかける。一致の力は周囲に復活の空気を拡散させる。 

*「わたしと父とは一つである」。復活の力、すなわち、神の力は一致の力。結びつきの力。力の秘密。神との一致、結びつきを信じることができる根源が主の復活。

*強烈な一致の交わりの感覚 イエスの場合 それは愛の感覚として(本日の福音)。それを弟子たちに、そして私たちに与えてくださるのが主の復活だ。 

*神は人間にご自身の自由を与えられた。それは完全なる自由としてである。それを妨げることは神でも出来ない、なさらない。もししたなら神の自己矛盾だから。だからそれゆえにこそ、人間は他者に対して個々の自由を侵してはならならない。唯一の神を主とする者は他者を限りなく尊重しなければならない。しかし、自由を尊重するとは決して他者を自由放任して独りにするという意味ではない。真の自由こそが人間への最高の賜物としての真理である。自由にあってこそ(のみ)愛することができる。

そのような自由なる民となるように、神にある自由へと招待することが福音宣教である。キリスト者の自由とはそのような、他者を恵みの交わりへと招く、復活を信じる者の自由である。神は復活において人間に真の自由を回復された。それが黙示録の殉教者たちの何ものをも恐れない天の民の自由である。


*この説教の動画はこちらをごらんください。

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 主が導いて行かれる
2019.5.5
 谷川 卓三 牧師
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる。」
       (ヨハネによる福音書21章18節)
#パウロの回心とペトロの回心:特別啓示と一般啓示
 :私たちの場合は?

*あるがまま、ということは即ち、導かれるまま、ということである。私が主に先立って判断するのでなく、主が連れて行ってくださる。それは、最高の道、即ち、恵みの道。復活の主の啓示。それが円熟ということ。貧に処する道も富にある道も。孤独の時も交わりの時も。神に導かれるリズムを感じつつ。神のなさることは時に応じて美しい。

*神は人をすば晴らしく導いてくださっている。そのことに気づかせられるのが特別啓示の時。パウロはそれを「恵みを受けた」と言う。その啓示を受けたなら、もはや孤独ではありえない。その特別啓示を忘れてはならない。「神の命令には逆らえない」と言って松山を出たことを忘れない。だが、実際は、忘れえない。それは繰り返し繰り返し語られる。ペトロやパウロの物語、即ち、復活物語が繰り返されたように。

*主の導きに従う人の規範としては、ただ従順のみが問題となる。〔私〕の行為ではない! 〔主〕が導く道の途上にあるからこそ、主に対するあるがままの服従の従順さが特別に大切なのだ!

*「主よ、何故ですか」とのペトロの問いへの主の答え、というか、3度の反問:「あなたは私をこの人たち以上に愛するか」 その時ペトロは悪しき状況の意味に気づかされて、苦しみが喜びへと激変した。意味が分かった!のだ。

*今回は説教の動画はありません。

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 あなたがたに平和があるように
2019.4.28
谷川 卓三 牧師
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
(ヨハネによる福音書20章21節)
*「シャローム」 神からの祝福 / 安息日の平和の挨拶
*あなたがたに平和があるように!復活の意味がここにある。
  神との平和(和解)の福音 神と人との平和の挨拶
  聖餐式の平和の挨拶も。
平和と信頼と喜びの霊をもって派遣。【テゼー:信頼の光 ブラザーロジェの祈り| 憐れみ深い神さま!あなたは、キリストと使徒と聖母マリアから今日の証し人に至るまで私たちを「平和と信頼と喜びの担い手として」私たちの周りの人々のために存在するように呼び出しておられます。】

*第一義的に「平和」であって「平安」ではない。
「アロンの祝福」の「平安」を「平和」に言い換える理由。共に「シャローム」の翻訳だが、「平安」は自身の心の事柄。「平和」は関係の言葉。最後の晩餐において主は言われる、「私はあなたがたに世が与えることのできない『平和』を残してゆく」と。また、復活の主は言われる、「あなたがたに『平和』があるように」と。また、パウロはローマ5:1で「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に『平和』を得ており」と言っている。三位一体の名において私たちは神との平和に与っている。それゆえ、私は「平安」ではなく「平和」を用いることに固着する。

*平和の福音を携えて今日も復活の太陽と共に始めよう。


*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
 こちらをごらんください。

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 太陽と共に始めよ
2019.4.21
谷川 卓三 牧師
イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(ヨハネによる福音書20章17節)
*主題:復活の光。復活の太陽。三位一体の光。
    あなたと私への復活の光の到来
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*派遣命令は「新しい朝の光」から。「すがりつく」関係:過去の麗しい同伴関係ではなく、新しい使命:復活の主の同伴と導きの未来への遣わし。

*復活の太陽は全く新しい太陽である。栄光の顕現の太陽である。土曜日の太陽は隠された太陽、父なる太陽の安息である。それに対して、日曜日の太陽は復活の御子の主なる太陽である。日曜日は安息明けの太陽の光から始まる。御子の太陽の安息は、魂の太陽を寿ぐ安息である。安息の質と意味が、土曜日安息とは区別される。

*三位一体の太陽(光の根源なる父と、輝く光としての御子と、内なる温もりの光としての聖霊)。

*兄弟姉妹のところへ行って伝えよ。摩訶不思議な神の出来事としての復活を!

*復活の光が届くとき、一人一人は復活の光によって新しいものとされる。光はそれぞれの人に独自の恵みとして届く。


*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
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 あなたを救うために主は十字架の犠牲を負われた
2019.4.14
 谷川 卓三 牧師
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書23章43節)
*イエスに祝福された磔刑者はどのような人であっただろう。十字架刑は国家反逆罪である。その中には色々な人々がいる。ごろつきのような者も。フランス革命時にバスチューユを襲った者たち、また解放された者たちの中には多くの無頼漢たちがいた。ならず者の暴力によって革命が果たされたことは歴史の裏面である。イエスと共に十字架刑に処せられた二人の強盗もどのような者たちか気になる。イエスに祝された強盗は神を恐れる人であったとある。あらゆる人間の人生の総決算が「神を恐れる」か否かに掛かっているということである。「神を恐れる」ところから人間としての抑制・節制・謙遜が生まれる。
*この人がどんな理由で国家反逆罪に問われたのか。多くの革命的暴動において一蓮托生になった群衆を一括りにしてはいけない。一人一人みな、そこに至る道は異なる。この人がもし、神を恐れ、共に十字架に掛けられたイエスのうちに罪なき人を見て、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとすれば、すごく純粋で高貴な精神の持ち主であったことが想像される。
*暴力的権力のピラミッドで構成される、ローマ帝国のような、この世には認められない者の中にも、神の国のために邁進する多くの人々がいる。その人たちの無念の犠牲を私たちは慮らなければならない。彼らの働きのゆえに天国は近づいている。イエスと共に楽園にいる人々は最後の瞬間まで、その一期一会において、祝福を受けることができる。人類の救いのために御父の独り子が十字架の死の犠牲を払われたように、義のために喜んで犠牲となる品性の神の子らによってこの世は神の国へと近づいてゆく。
*「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」はイエスと共なる神との一致、ヨハネ17:22「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」の成就である。闇の世界が神との交わりによって一瞬にして光へと変わる奇跡がここに起こった。

*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
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 御心に従って導かれるままに
2019.4.7
谷川 卓三 牧師
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(ヨハネによる福音書第12章7-8節)
@ 一期一会:出会いの不思議 闇が光となる。
@ ユダの合理的な、そして自己義認的な反撥、
@ 対して、イエスの非理性的服従(従順)
@ それが救いに至る道と滅びに至る道の分かれ道。
@ 神意のままに、あるがまま従う
 :それが十字架への不可避の道(葬りの日)であろうとも、
   神の導きは全て祝福の道!

*この聖句の説教をYouTubeで視聴できます。
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