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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

聖句断章weekly message  2019年(2)


「見よ、神の小羊!」2020.1.19
「新しいことを告げよう」2020.1,12
「祝え! 主は近い!」2020.1.5
「苦難の中を守られて」2019.12.29
「私たちの違いを超えて」2019.12.22
「天の国の到来」2019.12.15
「主の道の整え」2019.12.8
「用意していなさい」2019.12.1
「楽園は今ここにある」2019.11.24
武井陽一先生の礼拝メッセージより「山に逃れなさい」2019.11.17
「体の復活」2019.11.10
「聖徒の交わり」2019.11.3
「力なる神は」2019.10.27
「主はあなたを守る方」2019.10.20
「主の不思議な御業」2019.10.13
「主にまかせよ」2019.10.6

 見よ、神の小羊!
2020.1.19
 谷川 卓三 牧師
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネよる福音書1章29節)
●メシアとの出会い 。
人間(じんかん)と書いて人間(にんげん)と呼ぶと言われるが、人間の交わりの間でも、メシアと出会いは特別で、一生に一度与えられるべき出会いである。その時は祝別されよ?。私たちはいつ、メシアと出会ったのか。不思議な事であり、誰もその時と場所を知らない。出会いはいつも一期一会で特別なものであるが、しかし、メシアとの出会いは特別中の特別である。アブラハムが幻の中で神の御声を聞いた時以来、人は神の御声によって導かれ続けてきた。

●「見よ、神の小羊」。
神が人間となる受肉によってメシアとの出会いが可能になった。それは既に世界が新たな段階に達したことを意味し、神の新しい事が開かれようとしている。私たちはどのような人を「油注がれた者」メシアと称え、出会う人をそれと確認することが出来るか。冠を置いてその方の前にぬかずき、真の王とすべき方について、洗礼者ヨハネは、聖霊が留まるのを見たから、と言う。イザヤもメシアとして、霊的指導者が現れることを予言した。神に導かれた人は、ひっくるめて、義なる人。洗礼者ヨハネは彼の弟子たちを何故イエスに引き合わせたのか。イエスの内に神的なアトラクティブを見たから。神の人は、悪との戦いにぶれない、妥協しない。それは彼が神の霊によって動かされているから。

● 世の罪を取り除くメシア。
世は争乱、騒ぎ立ちの世界(詩編2篇)。世の一番の問題は罪であるが、世は神を失ったが故に、自らを神とする個人主、ひとり神に満ちて、自己主張の喧騒が渦巻いている。大口、騒ぎ立ちで、世の罪を取り除くことは出来ない。むしろ、思いもよらず、贖いの小羊、十字架の神において世の罪は取り除かれる。ヨハネは遠いまなざしでイエスのメシア性を認めた。人間の評価の毀誉褒貶に揺すぶられず、ブレることなく確信をもって神に従うイエスこそ、「この人を見よ」とヨハネが指さす方である。

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 新しいことを告げよう
2020.1.12
 谷川 卓三 牧師
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイよる福音書3章1-17節)
●私たちは年の前半、私たちの主であり、「神の家の土台」であるイエスについて学ぶ。その学びの最初が「主の洗礼」である。その土台の上に私たちは神の家を建てる。私たちはイエスを単なる模範とするのではない。イエスを通してのみ実現する模範である。「私を離れてあなたがたは何もできない」。イエスを通してはじめて父なる神に繋がる。一人では神に繋がることはできない。隣人なるイエスを通して。兄弟なるイエスを通して??

●そのイエスの出発点が洗礼である。それは彼の一生の出発点であるだけではなく、神の導く新しい時(世)という、世の終わりまで続く壮大な神のドラマの始まりでもある。罪に沈む「はじめの世」に死に、義に生きる「新しい世」に生まれる。そのシンボルとしての洗礼である。その神のドラマがイエスの洗礼から始まる。イエスご自身の洗礼から始まり、全ての人の洗礼へと拡散して行く、神の同じ一つの洗礼である。「私は罪の赦しのための<唯一の>洗礼を受け入れます」(二ケア信条)。

●洗礼は天と地を一つにする。天からの聖霊によって天が開け、鳩が降って民と結びつけることによって天と地は、「天にあるごとく、地になる」。その時、地上的「私」の視点が死に、導きの天の視点から生きる事が始まる。神が主となり、私は主に従う僕とされる。造られた者はみな天からこの啓示を受ける。それを無視して、神の恵みを無駄にしてはならない。

●御声は雷光と雷鳴を伴った神のみことばである(詩編29)。導きの御声はこの世のものならぬ劇的な神のみことばとして、シュトッテルンハイムのルターのように私を主の僕となす。その時の御声は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。導きの主に従う時、新しい世に向けて出発する。

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祝え! 主は近い!
2020.1.5
 谷川 卓三 牧師
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイよる福音書2章10節)
●占星術は星が 2万5920年、約26,000年かけ一周する歳差運動を12の星座に分けて地上の運命を占う超古代からの天と地を結ぶ知恵である。それを知るためには少なくとも26000年前からのデータを伝承を通して知っている必要がある。満天の夜空とはそれほど魅惑的な天の世界である。

●しかし、星占いのニューエイジ系スピルチュアルは、反キリスト教思想に重用され、唯一の全能の父なる神に真っ向から逆らう思想であるが、しかし、東方の博士たちも神の統治のもとにある世界を信じ、星を頼りに救い主を拝みに、まだ見ぬ約束の地に向けて出立したのである。このことを考えると、超古代からの知恵知識も神のご支配の下にあってその役割を果たしてきたものである。全てのものは用い様次第である。だから、どんな知識でもまずは知って、保留しておこう。それらに対する最終判断を先走ってはならない。星が導く。

●パウロはフィリピ4:8-9で真理として尊ばれることをリスペクトしなさいと勧めている。「すべて真実なこと・・・」とはこの世の知恵知識の総体ではないか!そこにはおのずと限界、誤謬、錯誤、誤解、偏見、隠蔽、誤導さえある。にもかかわらず、パウロは神の導きにおいてそれら全ては価値あるものとして肯定的に相応しい場所を得て、平和の神が平和をもたらす、と語る。

●真理の光に直接触れた喜びは、それが異邦人の発見であるに関わらず、天地創造の全能の唯一の父なる神に通じる。イスラエルと異邦人は神の独り子イエス・キリストの誕生において一つにされる。その喜びを指し示す星を見て異邦人の賢者は喜びに溢れたのだ!

●神の国が近づくということは、全てが肯定的に捉えられること、祝いの喜びのうちに受け止められることである。今日は 主の顕現主日の礼拝の日である。主の栄光とは何か。全てのものが肯定的に喜びのうちに捉えられることではないか。神の国は近い?全てのことを祝え。全てのことを肯定的に捉え、失敗をも祝おう。キリスト教的には祝いこそ礼拝である。

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 苦難の中を守られて
2019.12.29
 谷川 卓三 牧師
「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイよる福音書2章13節)
●イエスが誕生したちょうどその時、独裁者ヘロデは新しい王の誕生の噂に大きな不安を抱き、芽の内に摘んでおこうとし、実行した。政情不安の中でイエスの両親はイエスを連れてエジプトに逃れる。エジプトはかつて父祖ヤコブが一族を連れて飢饉を避けて逃れた所であり、ユダヤ人が助けを受けた所であるが、奴隷にされ苦難を受けた場でもあり、複雑な関係である。聖家族はエジプトに逃れ、そこで寄留の民として保護を受け生き延びることが出来た。シナイ山で十戒を受けた時、自らエジプトで寄留者だったことを憶えて、寄留者を同情して受け入れるようにと神から命じられている。

●神は、アブラハムと契約を結び祝福の約束を子々孫々を視野において与えて以来、必要な時に夢・幻・不思議な出来事を通して、直接お告げを与えられる。私はそのことを、経験を通して信じるようになった。客観性、科学的証明、目に見える証拠が至上命題である近代啓蒙主義がなんと言おうと、私は自分の経験を通して、神が主として僕である人間(私)を動かすように関わってくださったことを知っている。それは今も続いており、世の終わりまで続くであろうと信じている。イエスの誕生の時のヨセフへの夢を通して緊急な危機からの守りを与えられたことを信じる。キリスト・イエスの生涯は誕生の初めから、この世の権力・飢餓・災害等による苦難に翻弄され組み込まれ参加されてメシアの生涯を歩み通された。

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私たちの違いを超えて
2019.12.22
 谷川 卓三 牧師
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)
● クリスマス、神の独り子のご降誕は、神の特別な祝福、すなわち、救いの御代の開始点です。「神はそのひとりごをお与えになったほどにこの世を愛された」ということが時満ちていよいよ地の上に開始された時です。これから始まるあらゆる時代はその祝福の内にあります。その福音が世界中に伝播してゆくためにその後の世界は進んでゆきます。

●祝福を受ける人類。天からの光が差し込んで来るとき、闇は照らされます。天と地が一つに結ばれる救いを告げ知らせる天使の合唱は救いの先取り、告知です。ちょうどマリヤに天使ガブリエルが嬰児の誕生を告知したように、今、神の民を代表して羊飼いらに救い主の誕生が知らされ、天と地が合体する救いの調べが奏でられます。「天になるがごとく地にもなさせたまえ」が主イエスの祈りでした。それは彼がそのために来られたことを暗示します。人は神なる天と向かい合わなければ救いを受けることのできない霊的存在として造られたからです。

●祝福に満ちた人生。全てのことが神からの祝福であることが了解され、全ての神からの祝福の出来事が喜びと感謝をもって受領される時、心静かに満たされて、地の上に平和がもたらされます。新しい御代に祝福あれ。バッハのクリスマスのカンタータ110番は「私らの口が笑いで満たされますように。それは、主なる神が大いなることを私たちの上に行われたから。」で始まる。そして、「さあ、急いで天に上れ、神がなされたことをおもえ。神は私たちが天の子となるためにのみ人となられたことを」と続く。

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 天の国の到来
2019.12.15
 谷川 卓三 牧師
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。。(マタイによる福音書11章11節)
●この聖句は預言者の時代から神の子らの時代への突入を示している。何故その転移が起こったか。個人の人間的魅力からすれば、預言者は最高だ。だが、神の御子の到来の故に、あらゆる人間の個人的優越性は凌駕され、キリストにおいて、全ての人が個人的資質に勝る交わりの中で大いなる者とされる。それがクリスマス、キリストの受肉においてもたらされた転移である。

●キリスト教の個人ー主義はキリストと結ばれ、キリストの内に存在を許された者の個人−主義で、イエス・キリストにおいて一人一人が完全に平等な個人である。しかし、その個人は孤立しておらず、キリストにあって被造物全てに開かれた交わりの中にある個人である。一人一人が孤立した個人ー主義とは言葉は似ても内容は全く非なるものである。イエス・キリストによってはじめて、個人ー主義は変容される。そのために、御父は御子をこの悪しき、孤立した個人―主義の世界に送って、救いのご計画を実行された。

● 洗礼者ヨハネの尋ねに対して、その問いに答えることをきっかけに、さらに、それを超えて、人々に対して、福音を宣言して言われた、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。 」それは、ヨハネの「悔い改め」の宣教を超えて新しい時代を意識づけるものである。世界はこの認識を持つことによって、目に見える個人(外見)だけを見て人物評価をする人間の歴史は変容され、キリスト・イエスにおける一致の連帯への運動である、教会の時が始まる。

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 主の道の整え
2019.12.8
 谷川 卓三 牧師
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。(マタイによる福音書3章1-2節)
● 福音の物語は洗礼者ヨハネの宣教から開始される。イエスとヨハネ、相前後して預言者の生を全うした二人。神は牧者を「預言者」として送る。預言者は人間に頼らない。ただ神にのみ聞き、示されたものを民に告げる。最初の預言者モーセはシナイ山の雲の中で神に聞き、神と語り、その答えを民に告げた。そうして民は神の御心を知り、人間性を保って生きる者とされた。人類史の隠された中心である。ニケヤ信条はそれを「聖霊は預言者を通して語られた」と言い表している。

● 民は堕落する。そのために、必要な時には悪を悔い改めて善に立ち返らなければならない。洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ野で、その必要な「悔い改め」を迫る説教者として遣わされた。それは御心にかなう預言者の業である。「悔い改め」は神の前での業である。それは、この世の様々な枠組、階級や国や地域性や出自などなど全ての地上的な差異を超える。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 」ユダヤ人も異邦人も関係ない。むしろ、神に感謝する異邦人を神は愛する。

● 悔い改めの宣教は、この世のあらゆる次元を超越して、神の前で、「天になるごとく地にも」御心が成るようにとのメッセージである。だから、それは聖霊による平和の宣教である。

●教会とは主の霊の宿るところ。それは組織を超える。預言者の言葉に耳を傾け、神のほうに向きを変える者は誰でも、その「残りの者」から、神はアブラハムの子らを呼び起こされる。目に見える教会は、聖霊によって語る預言者が良い羊飼いとなり、その預言者に信頼し耳を傾ける時に、主の教会、霊の満ち満ちた教会となる。主は神の民を形成するために預言者を遣わし、民を悔い改めへと導く。

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 用意していなさい
2019.12.1
 谷川 卓三 牧師
「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイによる福音書24章44節)
●「目覚める」とは、復活の主が共にいることに目覚めることで、それによってたえず元気を与えられること。主が共におられる者は鷲のごとく飛翔する。復活の主が世の終わりまで共にいてくださるなら、再臨の時には主がいつお出でになっても直ぐに出迎えることが出来る。

●イエス・キリストの復活は人類を新しい創造、新しい命へと目覚めさせるための神のチャレンジである。イエスが私たちの真ん中にいつも立って、シャローム、あなたがたに平和があるようにと祝福される人生へと人を招くチャレンジである。

●ノアの時、人々が思いがけなく洪水の犠牲になったとき、ノアは悲しい思いをした。全ての愛する者たちが水の藻屑と消え去ったからである。人々が目覚めていなかったから失われた。それを繰り返してはならない。だが、箱舟後の人類は罪を繰り返す。ノアの教訓は今も人々の無知偏見の中で繰り返されている。歴史は繰り返す。過ちは繰り返される。またもや、ノアの教訓が忘れ去られ、罪の惰性が支配する。目覚めるとは、事実を事実として、たとえそれがさし迫った危機の事実であろうと、認めることだが、それは目覚めの結果であって、それ以前に、事実を直視しようする開かれた心こそが目覚めである。そのためには復活の主が共にいてくださり、どのようになろうとも、私たちは主にあって対応できるという安心である。

●そのためには、人間の罪が贖われなければならない。神は箱舟でノアを救った時にそう決意された。人間を罪の故に失うことが二度とないように神は周到な救いのご計画を立てられた。その手始めがアブラハムの召命だった。彼から神を信頼し約束を信じる人が増え栄えるようにと。しかし、その道は長く曲がりくねった道となった。それも必要な経験だった。人間が神なしには無力である経験を幾星世代にもわたって積み重ねるために。

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 楽園は今ここにある
2019.11.25
 谷川 卓三 牧師
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカによる福音書23章43節)
●神が人となる。対話のために。一致の為に。しかし、神と人との対話は困難。神における常識は人間の非常識、その逆も然り。神への怒りや憎しみが渦巻く人間に真意を伝える親心はその似姿。しかし、神が人間になることを決断された時からその完成、すなわち、万物の自由への解放に向けて歴史は着実に進む。そして今日はその最後を思う主日。

●神への憎しみ、そして対話の拒否(強盗の一人)

●もう一人の強盗。悩み多き今生の最後に救いへの願望。神との対話への希望。「パラダイス」は天国にあると思い込んでいる人間に対するイエス(神)の答え、「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」。「今日」「私と一緒に」。「パラダイス」は死の彼方ではなく、今ここに、主が共におられるところにある。「神共に」、対話が成立した世界はパラダイス。逆に対話がない世界は地獄。

●パラダイスは死後の素晴らしいヴィジョンである。しかし、パラダイスが神のファイナルアンサーではない。「永遠の安らぎ」が終わりではない。パラダイスはオアシスのようなもの、一時滞在地である。天国で平安のうちに眠る者が目覚める時が来る。

●聖書が言う終わりの時は「生きている者と死んだ者を裁くために」主が栄光の雲に乗ってふたたび地に帰って来られる時である。それは祝宴の時である。「永遠の王キリスト」が戻って来て、神が全てにおいて全てとなり、地上に平和が完成する時、それを祝うために、詩編47:10にあるように、自由な民がもろもろの国から集められ祝うフィナーレである。

●キリストの復活で始まった新しい世界は喜びの祝宴をもってその完成を見る。神のご計画はキリストの復活をもって新しい創造に達し、神の子らの解放が体の贖い(霊の解放ではなく体の復活)に至るまで広げられその完成を迎える。

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 礼拝メッセージより 「山に逃れなさい」
2019.11.17
 武井 陽一 先生
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。(ルカによる福音書21章21節)
山に逃げる
@津波から逃れるように一目散に
A都会の狂騒、偶像から逃れる:アブラハムの出発
Bイエス・キリストのみもとに逃げる。

内村鑑三:ローマ署7章を講義した最後の語った言葉
      (石原兵永が記録、1921年12月11日)
 私が最後の日に神の前に出る時には、私はどうして立ち得るか。私のなした僅かな伝道、事業、そんなものは何にもならぬ。私は何によって神の前に立つか。我が主イエス・キリストを義として 前に立てて、私はその陰に隠れるのである!

山に逃げる ただイエスのもとに逃げる
⇒ キリストが われにありて 生きたもう
「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)

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 体の復活
2019.11.10
 谷川 卓三 牧師
この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。(ルカによる福音書20章36節)
●復活の命はイエスにとって体を伴わない霊的復活ではなく、体の復活である。しかし、その体は私たちの脆い罪の体ではなく、それとは次元の異なる体である。「めとることも嫁ぐこともない。」「天使に等しい者、神の子とされた者」としての体を持つ。ローマ8:23 「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」贖われた体を持った復活は将来の希望に属する。最終的ゴールとしての復活である。

●復活の命はこの世の朽ちる脆い次元の命とは別の、神の霊によって生かされる命である。1コリント15:42-44 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」「自然の体」、生まれながらの体は、もろい肉なる、罪の体である。それに対して、「霊の体」は復活の体であり、神の霊によって生かされる栄光の体である。

●イエス・キリストにとって人は皆、神の霊によって生かされる存在である。「すべての人は、神によって生きている。」それ以外の命は本来の神的命ではない。「この人たちは、もはや死ぬことがない。」創造された本来の人間は永遠の命を生きていた。それが、神以外のものを神とする誘惑に落ちて、その命を失い、脆く、死に至る命に頽落してしまった。それが原罪に刷り込まれた命であり、神なき世界の命である。復活は、創造本来の永遠の命に生き変えること、不死の命を生きるものとされることである。

*今週は動画はありません。

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 聖徒の交わり
2019.11.3
 谷川 卓三 牧師
しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。(ルカによる福音書6:27)
●原での説教の終わりに、締めくくりとして、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と言われ、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」との言葉を賜る。これはこの世の倫理基準ではない、神に従う者としての基準である。そしてそれを実行するのは、自分の力ではなく、聖霊である。しかし、あなたがたには出来る。私はあなたがたに聖霊を送る、と主は言われる。

●今日、世界は悪魔の攻撃と見られる行為にさらされている。悪人が我が物顔で横行しているが、それでも、主よ、彼らを愛さなければならないのですか?他者への批判をすれば一日中それに没頭してもまだ全く足りない。しかし、悪に対する批判は悪からの批判にさらされ、堂々巡りとなる。否、敵は圧倒的だ。私より強い。主よ、私は悪を批判することに疲れました。

●そのような世界に主はやって来られた。そして言われる。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」と。どうしてそんなことが出来るのですか、主よ。主は言われる。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」マタイ5:45 主にあって、批判の時は終わっている。復活の太陽が昇る時、私たちもその太陽に照らされて光として世界を、一人一人を、照らす時がもたらされた。悪人を照らす光として、批判を超えた愛の世界から、悪に対処しよう。

●首里城の焼失によって復興の象徴を失った沖縄の人々、また、日本の人々、世界の人々に心から悲しみを共有し、聖徒の交わりの完成を望みつつ、愛をもって悪しき世界に対処します。復活の希望は悪に優ります。悲しみのない世界へ、神と共に、復活の太陽となって。優越した神の光の輝きを受けて世界は平和を得る。

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 力なる神は
2019.10.27
 谷川 卓三 牧師
彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。(マタイよる福音書11:12)
●昨年10月の私の巡礼地の一つ、ラテラノ教会。この教会は洗礼者ヨハネのために奉献された教会であることをはじめて知り、教会史、世界史の中で、洗礼者ヨハネとキリスト教会の位置づけが印象的に受け止められた。それが宗教改革主日の福音テキストであることは、ルターもまた、洗礼者ヨハネのような位置づけであることを意味している。

●浮草のようなこの世の偽りの情報の嵐に翻弄されながら、確かな大地に立とうと、神からの祝福を奪取しようとするヤコブ。創世記32章のペヌエルでの一夜のヤコブはついにイスラエルの名を賜る。「お前は神と人と格闘して祝福を奪い取ったから」と天使は言い残して去る。信仰とは神とのバトル(格闘)。神からの祝福(天国)を奪い取るバトルである。そのようなバトルを生きる伝統は世界中でイスラエルの中だけで預言者の系譜を生み出した。その預言者の最後がヨハネである。

●「天国を激しく襲う者」。神からの祝福こそルターが必死で求めたものだった。彼は修道院でも人一倍悩み抜く求道者だった。神との格闘は延々と続く告解として表れた。人は皆、人生の格闘を抱えている。そのことをご存じの主は「私に従いたいと思う者は自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われる。その格闘はしかし、救いの終わりとして報われる。

●ルターの宗教改革の発端は自分の魂の救いを求める格闘であった。世界を変革する革命は覚醒を求める一人一人の魂の神との格闘から始まる。神はその格闘に祝福をもって報いてくださる。「激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」現在進行形の約束としてこの言葉を告げる主イエス・キリストである。

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 主はあなたを守る方
2019.10.20
 谷川 卓三 牧師
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカによる福音書18:1)
●「たとえ」。イエスのたとえは神の国のパロディーとしてのこの世である。そしてこれは私たちの信仰的視点として重要なポイントとなる。この世は神の国の影絵、鏡、像、不完全な「たとえ」である。それでもたとえは神の国をなにがしか伝えるものである。何故なら、この世は元々神の創造物だから、人間の堕落後もなお、神の国をあいまいの中にも明確に指し示す。

●「祈り」。ふたりはひとつ、いつも。そのような間柄の中でなされる、これが祈りである。一人が他者に向かうのではない。それは祈りに対する誤解だ。そうではなく、二人はひとつ。いつも、どのような時に、信頼を置いて、神と一緒に歩む。その中で交わされる瞬間瞬間の会話が自然な神の国の祈りである。堕落後の人間にはそれが失われた? そうであろうか。そうではない。神はいつも呼びかけておられる。堕落後であればなおさらである。私たちが天を見上げて、共におられる天の父を思い起こせば、その瞬間に私たちは神との祈りの世界に入れられる。

●「守り」。神が共に!が神の守りである。熱心な求めによって裁判官を自分の味方にした女性のたとえ。「でさえ」から「なおさら」へ。この「比べ物にならない」がこの世と神の国の間のパロディーである。神の国の熱心はこの世の熱心とは比べ物にならない祝福である。すなわち、神の国の守りは神が共にいることであり、神が味方であるなら、誰が私に敵しえよう。I feel protected .「私は守られているように感じる」との感覚を大切にしよう。それが主イエスの信仰であり私たちの信仰となる。

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主の不思議な御業
2019.10.13
 谷川 卓三 牧師
それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』(ルカによる福音書17:19)
●病気・患いからの癒しは個人の問題であるが、多くの場合、集団意識が個人の問題を吹き飛ばし、救いよりも集団から排除されないほうが優先する。癒しは個人の問題で、自分で考えなければならない。人が自分で考えるようになることは集団にとって危険である。でも、病気の苦しみは人を強いて個人とする。このサマリヤ人は自分で考えたのだ。癒された喜びは感謝をもって報告すべきと感じ、それを実行した。それに対して、同胞ユダヤ人は大勢癒しを受けたが、皆が集まって相談しているうちに、イエスに感謝をささげるのはお上の手前まずいとの結論に達したのか?!。

●大いなる御業に出会った時、神と私の間の問題となる。その時、「神」を恵みの主として受け入れるなら、人は立つ。人が神の前に立つ「信仰」は民族や家柄の優劣上下を問わない。ここは神の創造世界であるから、人は人種、民族、部族集団に属していても、それ以上に神の前の個人である。信仰は集団を超えることで集団の罪性の問題を解決する。罪は神の前に問われる人類の普遍的罪である。それは個人を超えた大掛かりな集団の問題である。その罪性を超えられなければ人は救われない。その力を個々人に与えるのが信仰である。

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 主にまかせよ
2019.10.6
 谷川 卓三 牧師
主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:6 )
●「わたしどもの信仰を増してください」。それはあくまでもお願いであり、「いかにしたら信仰が強くなるか」 についての自己省察に向かうヒントを与えて下さい、ではない。信仰は自分で増すことのできるものではない。ただ主なる神に願い、あとはゆだねてまかせるばかりのものである。
●その点では弟子たちの態度はそれなりに信仰を求める態度である。だから、イエスも批判的にではなく打ち解けた答えをなさっている。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と。信仰のことで思い煩う必要はない、と。信仰は神の事柄である。神には出来ないことはない。出来ないのは自分の信仰が足りないからではないか、どうしたらもっと信仰が強くなるのかと悩む必要はなく、そもそも悩むことは正しい道ではない、と。
●そうではない。ただ神に忠実であることに心を向けなさい。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と。主に仕える忠実、真心から主に従うのが信仰の道である。しかし、それは自分で忠実であることを努力することではない。それは「自己義認」の道であり、信仰の道ではない。主人がいて、僕がいる。僕だけの世界ではない。主人の導き(言葉)に従うのである。これが信仰の道であり、救いの道は信仰の道によってのみ約束されている。

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