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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

聖句断章weekly message  2019年(2)


「体の復活」2019.11.10
「聖徒の交わり」2019.11.3
「力なる神は」2019.10.27
「主はあなたを守る方」2019.10.20
「主の不思議な御業」2019.10.13
「主にまかせよ」2019.10.6

 体の復活
2019.11.10
 谷川 卓三 牧師
この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。(ルカによる福音書20章36節)
●復活の命はイエスにとって体を伴わない霊的復活ではなく、体の復活である。しかし、その体は私たちの脆い罪の体ではなく、それとは次元の異なる体である。「めとることも嫁ぐこともない。」「天使に等しい者、神の子とされた者」としての体を持つ。ローマ8:23 「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」贖われた体を持った復活は将来の希望に属する。最終的ゴールとしての復活である。

●復活の命はこの世の朽ちる脆い次元の命とは別の、神の霊によって生かされる命である。1コリント15:42-44 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」「自然の体」、生まれながらの体は、もろい肉なる、罪の体である。それに対して、「霊の体」は復活の体であり、神の霊によって生かされる栄光の体である。

●イエス・キリストにとって人は皆、神の霊によって生かされる存在である。「すべての人は、神によって生きている。」それ以外の命は本来の神的命ではない。「この人たちは、もはや死ぬことがない。」創造された本来の人間は永遠の命を生きていた。それが、神以外のものを神とする誘惑に落ちて、その命を失い、脆く、死に至る命に頽落してしまった。それが原罪に刷り込まれた命であり、神なき世界の命である。復活は、創造本来の永遠の命に生き変えること、不死の命を生きるものとされることである。

*今週は動画はありません。

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 聖徒の交わり
2019.11.3
 谷川 卓三 牧師
しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。(ルカによる福音書6:27)
●原での説教の終わりに、締めくくりとして、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と言われ、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」との言葉を賜る。これはこの世の倫理基準ではない、神に従う者としての基準である。そしてそれを実行するのは、自分の力ではなく、聖霊である。しかし、あなたがたには出来る。私はあなたがたに聖霊を送る、と主は言われる。

●今日、世界は悪魔の攻撃と見られる行為にさらされている。悪人が我が物顔で横行しているが、それでも、主よ、彼らを愛さなければならないのですか?他者への批判をすれば一日中それに没頭してもまだ全く足りない。しかし、悪に対する批判は悪からの批判にさらされ、堂々巡りとなる。否、敵は圧倒的だ。私より強い。主よ、私は悪を批判することに疲れました。

●そのような世界に主はやって来られた。そして言われる。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」と。どうしてそんなことが出来るのですか、主よ。主は言われる。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」マタイ5:45 主にあって、批判の時は終わっている。復活の太陽が昇る時、私たちもその太陽に照らされて光として世界を、一人一人を、照らす時がもたらされた。悪人を照らす光として、批判を超えた愛の世界から、悪に対処しよう。

●首里城の焼失によって復興の象徴を失った沖縄の人々、また、日本の人々、世界の人々に心から悲しみを共有し、聖徒の交わりの完成を望みつつ、愛をもって悪しき世界に対処します。復活の希望は悪に優ります。悲しみのない世界へ、神と共に、復活の太陽となって。優越した神の光の輝きを受けて世界は平和を得る。

*動画はこちらへ。

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 力なる神は
2019.10.27
 谷川 卓三 牧師
彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。(マタイよる福音書11:12)
●昨年10月の私の巡礼地の一つ、ラテラノ教会。この教会は洗礼者ヨハネのために奉献された教会であることをはじめて知り、教会史、世界史の中で、洗礼者ヨハネとキリスト教会の位置づけが印象的に受け止められた。それが宗教改革主日の福音テキストであることは、ルターもまた、洗礼者ヨハネのような位置づけであることを意味している。

●浮草のようなこの世の偽りの情報の嵐に翻弄されながら、確かな大地に立とうと、神からの祝福を奪取しようとするヤコブ。創世記32章のペヌエルでの一夜のヤコブはついにイスラエルの名を賜る。「お前は神と人と格闘して祝福を奪い取ったから」と天使は言い残して去る。信仰とは神とのバトル(格闘)。神からの祝福(天国)を奪い取るバトルである。そのようなバトルを生きる伝統は世界中でイスラエルの中だけで預言者の系譜を生み出した。その預言者の最後がヨハネである。

●「天国を激しく襲う者」。神からの祝福こそルターが必死で求めたものだった。彼は修道院でも人一倍悩み抜く求道者だった。神との格闘は延々と続く告解として表れた。人は皆、人生の格闘を抱えている。そのことをご存じの主は「私に従いたいと思う者は自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われる。その格闘はしかし、救いの終わりとして報われる。

●ルターの宗教改革の発端は自分の魂の救いを求める格闘であった。世界を変革する革命は覚醒を求める一人一人の魂の神との格闘から始まる。神はその格闘に祝福をもって報いてくださる。「激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」現在進行形の約束としてこの言葉を告げる主イエス・キリストである。

*今週は動画はありません。

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 主はあなたを守る方
2019.10.20
 谷川 卓三 牧師
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカによる福音書18:1)
●「たとえ」。イエスのたとえは神の国のパロディーとしてのこの世である。そしてこれは私たちの信仰的視点として重要なポイントとなる。この世は神の国の影絵、鏡、像、不完全な「たとえ」である。それでもたとえは神の国をなにがしか伝えるものである。何故なら、この世は元々神の創造物だから、人間の堕落後もなお、神の国をあいまいの中にも明確に指し示す。

●「祈り」。ふたりはひとつ、いつも。そのような間柄の中でなされる、これが祈りである。一人が他者に向かうのではない。それは祈りに対する誤解だ。そうではなく、二人はひとつ。いつも、どのような時に、信頼を置いて、神と一緒に歩む。その中で交わされる瞬間瞬間の会話が自然な神の国の祈りである。堕落後の人間にはそれが失われた? そうであろうか。そうではない。神はいつも呼びかけておられる。堕落後であればなおさらである。私たちが天を見上げて、共におられる天の父を思い起こせば、その瞬間に私たちは神との祈りの世界に入れられる。

●「守り」。神が共に!が神の守りである。熱心な求めによって裁判官を自分の味方にした女性のたとえ。「でさえ」から「なおさら」へ。この「比べ物にならない」がこの世と神の国の間のパロディーである。神の国の熱心はこの世の熱心とは比べ物にならない祝福である。すなわち、神の国の守りは神が共にいることであり、神が味方であるなら、誰が私に敵しえよう。I feel protected .「私は守られているように感じる」との感覚を大切にしよう。それが主イエスの信仰であり私たちの信仰となる。

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主の不思議な御業
2019.10.13
 谷川 卓三 牧師
それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』(ルカによる福音書17:19)
●病気・患いからの癒しは個人の問題であるが、多くの場合、集団意識が個人の問題を吹き飛ばし、救いよりも集団から排除されないほうが優先する。癒しは個人の問題で、自分で考えなければならない。人が自分で考えるようになることは集団にとって危険である。でも、病気の苦しみは人を強いて個人とする。このサマリヤ人は自分で考えたのだ。癒された喜びは感謝をもって報告すべきと感じ、それを実行した。それに対して、同胞ユダヤ人は大勢癒しを受けたが、皆が集まって相談しているうちに、イエスに感謝をささげるのはお上の手前まずいとの結論に達したのか?!。

●大いなる御業に出会った時、神と私の間の問題となる。その時、「神」を恵みの主として受け入れるなら、人は立つ。人が神の前に立つ「信仰」は民族や家柄の優劣上下を問わない。ここは神の創造世界であるから、人は人種、民族、部族集団に属していても、それ以上に神の前の個人である。信仰は集団を超えることで集団の罪性の問題を解決する。罪は神の前に問われる人類の普遍的罪である。それは個人を超えた大掛かりな集団の問題である。その罪性を超えられなければ人は救われない。その力を個々人に与えるのが信仰である。

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 主にまかせよ
2019.10.6
 谷川 卓三 牧師
主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:6 )
●「わたしどもの信仰を増してください」。それはあくまでもお願いであり、「いかにしたら信仰が強くなるか」 についての自己省察に向かうヒントを与えて下さい、ではない。信仰は自分で増すことのできるものではない。ただ主なる神に願い、あとはゆだねてまかせるばかりのものである。
●その点では弟子たちの態度はそれなりに信仰を求める態度である。だから、イエスも批判的にではなく打ち解けた答えをなさっている。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と。信仰のことで思い煩う必要はない、と。信仰は神の事柄である。神には出来ないことはない。出来ないのは自分の信仰が足りないからではないか、どうしたらもっと信仰が強くなるのかと悩む必要はなく、そもそも悩むことは正しい道ではない、と。
●そうではない。ただ神に忠実であることに心を向けなさい。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と。主に仕える忠実、真心から主に従うのが信仰の道である。しかし、それは自分で忠実であることを努力することではない。それは「自己義認」の道であり、信仰の道ではない。主人がいて、僕がいる。僕だけの世界ではない。主人の導き(言葉)に従うのである。これが信仰の道であり、救いの道は信仰の道によってのみ約束されている。

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*2019年前半のバックナンバーはこちらへ。






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