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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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礼拝説教


★2021.11.28「頭を上げよ」ルカ21:25-36
2021.11.21「真理の言葉を聞く」ヨハネ18:33:37
2021.11.14「耐え抜く信仰」マルコ13:1-13
2021.11.7「神は命の主である」ヨハネ11:32-44

「頭を上げよ」 ルカ21:25-36
2021.11.28
 大宮 陸孝 牧師
「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネによる福音書33章37節)
 ルカ福音書21章5節以下では、主イエスがエルサレム神殿の崩壊する日が来ると言われたのを受けて、弟子たちは、そのようなことはいつ起こるのか、また、その徴は何かを質問しました。その最終的な答えが21節〜24節に記されています。そして、ここに記されています出来事は、イエス様が語られた四十年ほど後の、紀元後七十年にローマの軍隊によってエルサレムの都と神殿が滅ぼされるという形で実現いたしました。

 24節の最後に「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」と記されています。この「異邦人の時代、もろもろの国々の時」というのは、エルサレムに対する「神の怒り」の器としての役割を果たしていくことが述べられているのですが、しかしそれで終わるのではなく、その延長線で「異邦人、もろもろの国々」が、今度は自分たち自身の罪に対する神の怒りを受ける「時」、つまり、報復の日(神の裁きの日)をも含んでいるということです。紀元後七十年のエルサレム滅亡の後の、何十年何百年何千年という年月が含まれていることになります。

 本日の日課はそれを受けて25節「それから」と始まりまして、世の終わりとそのときに起こる「人の子」イエス・キリストの来臨について語られてゆきます。ここは先々週14日の主日の日課で学びましたマルコ福音書13章1節から8節の後の24節から27節までの平行記事ですが、マルコ福音書では「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら―読者は悟れ―」(マルコ13・14)となっている句を、ルカ福音書は「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(ルカ21・20)と変更が加えられていて、より具体的な歴史に言及する表現になっています。

 これはルカ福音書2章と3章で洗礼者ヨハネの誕生の予告、イエスの誕生、そして洗礼者ヨハネの活動と続く記事において、時代と年代を明記して、ローマ帝国史の歴史の中に設定されているのと同じ構成になっています。つまり、これは、福音書の読者が承知している"現代史"的な表現に言い改めてその時代を生きる人たちに呼びかけたものであると理解することが出来ます。そして、さらに「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」ときわめて、客観的に書くことによって、その読者となる対象はユダヤ民族の範囲を超えて、より広い国際社会、つまり、エーゲ海一帯にいる人たちであることを示しています。

 ここに言われている戦争とは、紀元後六六年から七〇年にかけて行われた、エルサレムのローマ帝国に対する独立戦争です。ローマ帝国側からすれば、エルサレムの大反乱とそれに対する帝国の威信をかけた鎮圧の戦争でした。ルカ福音書は、そのすさまじい戦いの悲劇のほとぼりのまださめやらぬ時代に書かれ、またそれを実感を持って読まれたものと言うことが出来るでしょう。かの大反乱の渦中で、キリスト者たちはどのように対処していったのでしょうか。終末に向かっての信仰者の生き方について、この日課の箇所の中にその答えが示されているように思います。

 私たちが先ずここでしっかりと受け止めておかなければならないことは、エルサレムの滅亡という大事件を示唆する一連の言葉が、主イエスによる予告、預言という形になっていることです。あのエルサレムの滅亡という大事件は主イエスの預言であった、主イエスの預言通りになったのだということこそ、紀元後七十年代の人々にとっての心の支えになったのだということが重要です。

 過去の時代に「エルサレム」は、永遠の都と信じられてきました。ごく根本的なこととして、ユダヤ人たちは、すでに紀元前五八七年に、バビロンによって、都エルサレムも、神殿も滅ぼされるという経験をしてきました。エレミヤ書やその続編の書とも言える哀歌はエルサレムが滅亡する絶望の時代に生きた人々の祈りの書とも言える預言書です。

 そのエレミヤ書4章23節に「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」と記されています。エレミヤというまだ若い青年預言者が国家の滅亡の際に見た世界、それはすべてがガラガラと崩れ去った混沌の世界、何の光も差し込まない暗闇の世界でした。そこでは筆舌に尽くせない壮絶な出来事が起こっていました。イスラエルの人々が経験した地獄、それは、私たちが想像することもできない、人間が人間でなくなるような経験であります。イスラエルは「世界の終わり」を見たのです。

 しかしそのような人間が人間でなくなるような経験をし、地獄の底に突き落とされたイスラエルの人々が、哀歌の中で大変力強い信仰の言葉を発していることは驚きです。哀歌の最後の言葉です。

 わたしたちの日々を新しくして昔のようにしてください。

 あなたは激しく憤り
 わたしたちをまったく見捨てられました。(哀歌5章21節22節)

新共同訳では、21節と22節が切れていますが、ほかのいくつかの聖書ではここが繋がって訳されているものもあります。そうするとここは次のようにも読めます。

 「わたしたちを昔のように日々新しくしてください。あなたが完全にわたしたちを見捨てるのでないのなら、あなたがわたしたちに向かって激しく憤るのでないのなら」

このように読みますと、この結びの言葉は全く違った意味合いを帯びてきます。哀歌は、国が滅んでいく現実の中、「神に見捨てられ、罰せられて絶望だ」といって終わっていないのです。むしろイスラエルの人々は「神は自分たちを見捨てるような方では絶対にあり得ない。神はかならずわたしたちを絶望の中から復活させてくださる」という神への信頼で結ばれているのです。

 イスラエルは数ある民の中で最も小さく弱い民でありました。小さな民が世界の強国に押しつぶされて、呻いている。もし神が、その哀れな民を、罪ある者として徹底的に罰し、見捨てるような神であるのなら、そんな神にいったいどんな信頼を置くことができるのか。イスラエルが見たのは、絶望の中で呻く者に寄り添い、くずおれる者の嘆きに共感される神の姿であったのではないでしょうか。そうであれば、その神は暗闇に呻くイスラエルの人々にとっての一筋の光となり、絶望の中の希望となり、困難な現実を生き抜かんと立ち上がっていく力となっていく、哀歌の結びの言葉はそのような力強い信仰を感じさせられます。

 哀歌のそのような信仰を裏付ける聖書の箇所があります。エレミヤは国が滅びていく時、「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」と、世界の終わりの様子を語っていますが、エレミヤが語った「混沌―形なく、空虚」という全く同じ言葉がもう一カ所だけ使われています。それは創世記1章2節の「始めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、神の霊が水の面を動いていた」という箇所です。混沌―旧約聖書の中でわずか二カ所だけにしか見られない特殊な言葉が、天地創造と国家滅亡の物語で使われているのです。ここから推測されることはエレミヤ書の作者と創世記1章の作者とは同じ人物ではないかということです。エレミヤと哀歌の時代を生きた人が、創世記1章の物語を書いたのではないかということです。つまり世界の終わりを見た人たちが、「世界の初め」を書いたのだということです。絶望の世界を経験した人が、世界の初めの希望を書き綴っていたのです。創造物語は、世界の終わりを見た人々が、それにもかかわらず、その生き地獄の中に共に寄り添い、彼らの嘆きを共に嘆く、近くにいましたもう神の姿を見た人が書いたのだということです。ですから、創造物語は、その世界の終わりのような暗闇の中で神が「光あれ」と言われたこと、全てが崩れ去ってしまった現実の中にも「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われたことを記して、自らを励まし、懸命に立ち上がろうとしたイスラエルの信仰告白なのだと言えるのです。

 わたしたち人間の世界の現実は確かに罪の混沌とした中にあります。光が見いだせないように見える。そうした中で、村上春樹は、どうせ世界には希望がないんだ。行き止まりなんだ。ぼくらは窓のない密閉された、光のない世界から出られないんだ。こつこつ努力しても何にもなりはしないさ。それなら、せめて今の時を楽しく慰め合って生きて行こうじゃないかと、明るい未来を見出し得ない現代の社会の中に生きる若者に呼びかけています。

 しかし、主イエスは言うのです。「世界は確かに混沌である。光が見出せないように見える。しかし、父なる神は親鳥が雛をその羽で覆うように、あなた方の混沌の世界を大いなる憐れみの御手の中に覆われ、支えておられるのだ。あなた方が今こうして生きていることには、確かな神の意志が働いているのだ。だからどんな状況の中にあっても、希望を失わないで、あきらめないで、誠実に向き合って行くのだ」。初代教会のイスラエルの滅亡という終わりから新しい世界の始まりへ、明るい未来を見出し得ない状況の中にあっても、希望を失わず、神への信頼に支えられて、自分たちの前に立ち塞がる現実を誠実に向き合って、懸命に立ち上がって行く信仰告白を自らの告白とすることを私たちに語りかけているのです。

 世の終わりと言いますけれども、本当の意味で終わってしまうのではなくて、「万物を新しくする。回復する。更新する」そういう出来事だと主イエスは言っておられるのです。わたしが再びこの世に来る時、それは再創造の時なのだと改めてここで確認しているのです。だから「身を起こして頭を上げなさい」。「身を起こす」「頭を上げる」という二つの言葉が続けて使われています。これは詩編24編7節と9節の言葉です。

 「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」。9節「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」

 ちょうど、神の栄光の箱がエルサレム神殿に運び込まれる時、神殿の大きな門が「身を起こし、頭を上げよ」と呼びかけられたように、栄光に輝く主が再び来られる時に、僕であるわたしたちは解放された者として「身を起こし」「頭を上げ」て、この御主人の帰りを喜んで迎えるのです。再臨の主を本当に、「身を起こし」「頭を上げ」て喜びを持ってお迎えをすることができる者、この人たちが本当に救われた、あがなわれた民であります。わたしたちもそういう者として身を正し、「身を起こし」「頭を上げ」ていたいと思います。

お祈りいたします。

神様。いつ、あなたが全てを新しくし、いつ、主イエスがわたしたちの前に栄光の主として来てくださるのか、わたしたちには予測することはできませんけれども、いつでも身を正して主の御前に立つことができる信仰の姿勢を整えていることができますように、わたしたち一人一人を励まし、強め、導いてください。

主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン

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「真理の言葉を聞く」 ヨハネ18:33-37
2021.11.21
 大宮 陸孝 牧師
「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネによる福音書33章37節)
  ヨハネ福音書18章28節から19章16節まで、主イエス・キリストがピラトの官邸においてピラトの前で裁判を受けたことを、七つの場面に区切られて記録されております。本日の日課はその裁判の第二の場面の18章33節〜37節までです。この箇所は、総督廷内での主イエス・キリストと、ローマの地方総督との間の会話です。この官邸をピラト自身が出たり入ったりしながら、外部にいる当時のユダヤ人社会の指導者層とピラトの対話が展開され、内部では、主イエスとピラトとの対話が展開されるという場面構成になっています。

 33節から35節までは、「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『おまえがユダヤ人の王なのか』といった。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そういうのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか』。ピラトは言い返した。『わたしはユダヤ人なのか。おまえの同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか』」と記されています。

 主イエスが聞き返したので「わたしはユダヤ人ではないから、そのようなことには答えたくない」という意味合いでピラトが主イエスに言っています。「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」と、突き放すように主イエスに言っています。この対話の中身は至って当然ですから、誰にでも理解できる内容です。イエス・キリストがユダヤ人社会で何をしでかしたのか、とピラトは問うています。ピラトの関心は、このナザレ出身のイエスが、この世の王であるか、あるいはそうではないかという、ただそれだけです。もし、イエスが「この世の王である」と宣言するならば、ピラトが治めるべくローマ皇帝から派遣されている地方総督ですから、国家反逆罪を適用して、「王を名乗る者を処刑する」というそれだけのことです。この裁判の背景には、面倒な被支配民族の宗教問題に関わりたくないという地方総督の思いがあります。ローマが支配している民族や国家の宗教問題に関わりますと面倒な問題に巻き込まれますので、為政者としてはなるべく、宗教や信仰の問題については関わりたがらないのです。それが原因で紛争が生じればそれが政治的失点になるからです。

 36節には「イエスはお答えになった。『わたしの国はこの世に属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、(部下が)戦ったであろう。しかし、実際、わたしの国はこの世に属していない』」と語ったと記されています。ここに主イエス・キリストの、わたしたち人々に知らせたい内容が出て参りました。この36節では、「わたしの国は、この世に属していない。もし属していたら戦ったでしょう。戦争を起こしていたでしょう。しかし、そうはしない」とイエスはピラトに述べたのです。何でもないことが記されているように思いますが、きわめて重要な事柄が秘められているのです。つまり、ここには、主イエス・キリストが説く「わたしの国は神に起源するものだ」ということ、「神から出ているものだ」ということが、はっきりと告知されているのです。「わたしの国はこの世には属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、自分の弟子たちが、ピラトのローマ軍隊に対して、たとえ鎮圧されるとしても、戦争を起こすであろう」と言ったのです。

 このイエス・キリストのピラトに対する答えは、近・現代のキリスト教国の政治的支配層に属する者にとっては、特に傾聴しなければならない言葉であるように思います。この類いのことを、敬虔な信仰、神の名によって、あるいは信仰者の信心、信ずる心を巧みに利用して戦争に駆り立てることを、かつての世界史上においても、また、現代史においても、し続けているからです。キリスト教はこの世において政治的な主導権を握ろうとする団体ではないのです。キリスト教はこの世における社会運動や、政治運動を担ったり、特定イデオロギーの先駆となる役割を担うものではないのです。そしてさらに時代精神に乗る、あるいは、時代精神に迎合することが、あたかも教会が時代の先端の課題を担っているかのような錯覚をしていないかという問題でもあるのです。

 わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、(部下が)戦ったことであろう、とイエス・キリストがローマの地方総督、ローマの高官ピラトに告げているという事実は、わたしたちに何を語ろうとしているのか。

 紀元前一千年頃のイスラエルは、約束の地カナンの占拠後に、十二部族連合の形態をとっていましたが、他国に対して十二部族連合では勝てないので、民衆、国民が統一王国を願いました。そして統一王国ができ、サウロ、ダビデ、ソロモンを歴代の王としていただき、繁栄して行きます。いわゆるイスラエルの統一王国時代です。そのソロモンは第一神殿をエルサレムに建立しました。第一神殿時代の開始です。ところが、平和を獲得したその時代は百年ほどしてまもなく、南北王朝へと分裂いたします。そして北王国はアッシリアに滅ぼされ、残った南王国もバビロニアによって滅ぼされ、民はバビロンへと捕囚となりました。捕囚後解放されてパレスティナへ戻って来たイスラエル民族が残留していた民と共に第二神殿を建立しました。第二神殿時代の開始です。ユダヤ教の成立はその頃からです。その時代に、アレクサンドロス大王によって統一をみた地中海世界が、大きく三つに分裂して、そのうちの一つの大国シリアのセレウコス王朝にユダヤ民族は、戦いを挑まざるを得なくなりました。思想、信教の自由と民族の独立を獲得するためです。その歴史のプロセスの中で、次には大帝国シリアから、思想信教の自由だけではなくて、民族の独立も勝ち取ったのです。しかし、その25年にもわたる戦争の後に、シリアとの講和が成立した直後、勝利を勝ち取ったユダヤ民族の中に、内紛が起こって、今度は同胞同士が争って、前にも増して陰惨な殺戮が続いたのです。これが人間の行う現実でした。

 そうした中で、ギリシャの支配がローマの支配に移っていったその時、イエス・キリストの降誕の少し前のパレスティナ地方は、騒然としていました。ユダヤ民族はまたまた自分たちの国家の独立を願う運動を、パレスティナとその周辺で起こしていた中で、イエス・キリストが誕生したのです。そして、そのイエスを一時は自分たちの王にしようとする運動も起こりました。支配する側も支配される側も、神の名を利用しながら、神のみ旨に反する平和とか独立とか自由を、いかにもっともらしく主張しても、真の平和は到来しないのです。人間それ自体の非人間性を克服することはわたしたち自身にはできないのです。この類いの人間の欲望、願望は、根本から変革されない限り、まことの平和は この世には来ない、そのことをイエス・キリストは、宣教の初めから、人々に告げ知らせたのです。

 さて、本日のヨハネ福音書の日課の、「あなたはユダヤ人の王であるか」というピラトの尋問は、ユダヤ人の訴えを取り上げ、それが客観的に政治的な意味なのかどうかを確かめようとしてなされたものであります。それに対して「わたしの国はこの世のものではない」と主イエスはお答えになります。つまり政治的なものではないということです。この言葉に、ピラトは、「それでは、あなたは王なのだな」と念を押します。しかし自分の国という以上、やはり何かの王には違いなかろうとピラトは問うているのです。イエスはそれに答えてどういう意味で王ではないが、どういう意味で王であるかを積極的に明言しています。つまり、主イエスはメシアを指す宗教的な意味で、王であることをここで明言しているのです。「わたしが王だとはあなたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」と謎めいた答えをされるのです。「わたしが王であることの意味は真理について証をすることだ」というのです。これは「わたしの言う『国』というのは、神に属するもの、神に起源するものである」という脈絡の中でイエス・キリストは語っているのです。主イエスの言う「神の国」というのは、神の支配される領域、神の支配される場所、神を真理そのものとして中核に据えて、神に応答していく群れ・共同体を意味しているのであって、イスラエル史の中でユダヤ民族が求めたもの、また、その後の世界史が語っているような人々が求める国家、民族を意味するものではないと明確に答えておられます。

 37節の「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とは、その神の国で神の国に属する者は、神の呼びかけに答える責任ある存在であることを認識していて、それだけではなく、自分が自分であるということは、神の民の一員として、神との応答関係に生きる主体を確立している存在であり、それを自覚して生きていくことだと主イエスは述べているのです。ここで主イエスが言っている「真理」とは、神の働きかけ、呼びかけのことです。つまり、主イエスはピラトに「あなたも真に神の呼びかけに応答していくところに立つべきである」と呼びかけていることになります。

 ヨハネ8章31節で主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語っておられます。主イエスが語る「真理」とは一体何なのか。わたしたちを自由にする「真理」とは何なのかここでわたしたちはしっかりと理解しておかなければなりません。

 ヨハネ福音書の14章5節では「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか』」。すると次の6節では、「わたしは道であり、真理であり、命である」と主イエスは語られます。「わたしが真理そのものである」と主イエスは宣言されたのです。

 現代に生きるわたしたちは、信仰を持たないことが、自由にものを考えたり、自由に振る舞ったりできると考えます。なまじ信仰心などがあるから、不自由なものの考え方しかできないのだと思っている人がいます。特定の宗教を持つと偏見でしかものを見ることができなくなると思いがちなのです。人々がいろいろある宗教に対してそういう考え方になることについては、宗教の側にも責任があるとわたしは思います。そういう形で宗教の虜にしようとする怪しげな疑似宗教がたくさん存在して来ましたし、今もたくさん存在しています。そういう宗教家や宗教の指導者たちが、人々の振る舞いを宗教の名において拘束して来た歴史が存在していることは確かです。また啓蒙主義の台頭も、そういう疑似宗教に対する宗教批判が背景にあったということも事実でしょう。ですからそういう怪しげな宗教には近寄らない、という言い分も一理あります。

 しかし、反面、同じそのような構造を、自由に生きていると思い込んでいる世俗主義に生きる者もまた、自らの限られた思いや諸思想を絶対化したり、自分と共鳴する著名な知識人の思想や生き方等を絶対視していることもあります。怪しげな思想や宗教からは自由であっても、自分たちが生み出す思想や制度、体制を絶対視していないか、あるいは、その虜になっていないかを、わたしたちは顧みる必要があるのです。多くの人々が、不条理なこの世の事柄に拘束されて日常生活を送っているにもかかわらず、本人がそれに気づいていないあり方もまた問題となります。

 さて、ヨハネ福音書に記されている主イエスの「わたしが真理である」という言葉は、自然科学などで言われている真理、存在するものを観察したり分析したり、その構造を明らかにしたり、それを数式化したり、目の前にあるものを明確化することとは違うことを言っています。ここで言う真理とは、人間が対象としている自然や宇宙そのものを創造された方、その創造に関わる存在、それが真理の源、真理そのものであるといっているのです。ですから、主イエス・キリストが「わたしが真理であり、その真理があなたを自由にする」というその内容は、私たちが被造物であることの限界を認識し、相対的な存在であることを自覚すること、自分は創造された土の器に他ならないことを理解し、造物主との正しい関係にしっかりと立ち戻ることを言っているのです。そのように本来的なあり方に私たちが謙虚に立ち戻る時に、相対的なものを絶対視する愚かしさから解放される、それを自由と言い、「真理に生きる」ことだと言っているのです。有限なものを徹底して有限な存在として認識できることが、永遠から永遠に生きる無限なものを見出すことにつながるのです。「真理の発見」とはそういうことです。

 真実の信仰に生きる者、つまり、神だけを神とする者は、人間を拘束しようとするあらゆる勢力から自由に生きることができる。真理を知るということは、主イエス・キリストの内に、歴史に働かれる創造主なる神を見ることである。本日の日課は私たちにそのことを告げているのです。

お祈りいたします。

わたしたちの父なる神様。主イエスは、わたしたちに、あなたがわたしたちの造り主であり、聖なるあなたを、親しみを込めて、「父よ」と呼ぶことを教えていただき、またそれを許してくださいました。どうかわたしたちが行き詰まりの中にある時や、苦難の中にある時に、あるいは挫折の中で、み名を呼び、み名をよりたのみ、豊かな赦しに与り、新しく生きる力を絶えず与えられることができますように導いてください。

 ともすればあなたを忘れ、あなたの恵みを忘れ、感謝を忘れる生活に陥りがちな時に、礼拝に立ち返り、あなたを拝することによって、あなたの御名を他の何ものよりも崇める者となることができますように、自分の追い求める地上の宝よりも、天に宝を積むことを最高の喜びとして、日々信仰の歩みを歩んで行く事が出来ますように導いてください。

 病の床にある者、その看病に当たる者、生活の重荷を負っている者があなたの名を呼ぶ時に、豊かな祝福をもって応え、その重荷を取り除き、慰めと感謝とを豊かにその心に満たしてください。

 この感謝と願いを主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン

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「耐え抜く信仰」 マルコ13:1-13
2021.11.14
 大宮 陸孝 牧師
「最期まで耐え忍ぶものは救われる」(マルコによる福音書13章13節)
   マルコ福音書を日課に従って読んで参りました。9章の山上の変貌の後エルサレムを目指して歩まれるイエスを追いながらその途上での教えやなさったことをいろいろと学んで参りました。11章でエルサレムに到着して早々、神殿での宮清めを行い、商人たちを追い出しました。それは、本来は「すべての国の人の祈りの家」であるべき神殿が、「強盗の巣」になっていることに対する激しい異議申し立てでした。イエスは、そのあとの「権威についての問答」から「ダビデの子についての問答」と続く話でも、本来のあるべき姿を見失った祭司長や律法学者や長老たちなどを、厳しく批判しました。

 そして本日の日課13章に続きます。13章は主イエスが死を前にして弟子たちに与える、最後のまとまった教えです。主イエスの死後に弟子たちが直面する困難を思って残していく、主イエスの決別説教とも言えます。この後の14章から15章の受難の道を歩まれる主イエスこそ、終末の来たるべき栄光の人の子であることを、確信をもって語っているところです。

 1〜2節ではその神殿での長い一日が終わって、「イエスが神殿の境内を出て行かれ」てベタニヤに帰る途中で、主イエスは弟子たちに、終末に関する教えを語りました。それは、神殿崩壊を預言する言葉で始まります。この言葉が語られたきっかけは、イエスが神殿を立ち去る時に、弟子の一人が神殿を指して、「何と素晴らしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆の声を上げたことでした。イエス時代のエルサレム神殿は、ヘロデ大王によって修築された、当時最も壮麗な建築物の一つでした。しかし、主イエスは、その威容を誇る神殿が「一つの石もここで残されずに他の石の上に残ることはない」日が来ることを預言しました。

 3節以下「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると」ペトロなど四人の弟子たちが、主イエスの預言に驚いて「ひそかに尋ね」ました。弟子たちの神殿崩壊についての問いは、二つに分けられます。一つは、「そのことはいつ起こるのか」と言う問いです。もう一つは、その際には「どんな兆候があるのか」という問いです。神殿が跡形もなく崩れ去るような事態はきわめて異常なことですから、弟子たちは、神殿の崩壊だけではなく、「そのことがすべて実現するときには、どんな兆候があるのですか」と、神殿崩壊と終末を結びつけた聞き方をしたと推測されます。

 五節以下そこで主イエスは、彼らの問いに答えて話し始められました。主イエスがまず語られたのは、「人に惑わされないように気をつけなさい」という警告の言葉でした。主イエスが終末の前兆として最初にあげたのは、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」、「多くの人を惑わす」ということでした。「私の名を名乗る者」とは、自分がメシアだと称する者、または主イエスから遣わされたと主張し主イエスの権威に訴えて教える者を指します。(23節)

 この時から四十年後に神殿崩壊をもたらしたユダヤ戦争が起こります。そこで終末時に約束されたメシア出現とユダヤ戦争の苦難とを結びつけ、いまやメシアが現れたと人々を惑わすのです。彼らは、その戦争を世の終わりの到来と結びつけて、人々に向かって戦いに立ち上がるよう熱狂的に扇動した人たちと考えられます。それらの惑わす者たちは、熱狂的な終末接近の信仰を持って、戦争への危機感を終末への恐れと不安にまで高めます。そして、彼らに惑わされ、終末が今すぐにも来ると信じて熱狂的になっていたキリスト者もいたでしょう。しかしそこでは「慌ててはいけない」「まだ終わりではない」と驚いて動揺し恐怖にとりつかれることが戒められています。

 8節では、次いで主イエスは、終末の前兆として、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり」大規模な人災が人々を苦しめると言います。その上に、方々に地震や飢饉などの大規模な天災も生じるというのです。それらは人間にとっては非常に大きな苦難を意味しています。しかし「これらは産みの苦しみの始まりである」と言われます。この言葉によって、それらは終末の到来の前兆でさえないことが明らかになります。「産みの苦しみ」は、新しい生命の誕生に直結していますから、それは終わりではなくまさしく始まりなのです。このように5節〜8節は、ユダヤ戦争も含め、様々な苦しみが重なる「産みの苦しみ」の時代を描きます。初代教会は、このような時代の中で、主イエスへの信仰に生きていたのです。

 9節〜13節は「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」で始まります。初代教会のキリスト者たちが生きた歴史的な状況を色濃く反映しています。ここでは、この時を生きる弟子たちの迫害の運命と宣教の課題について宣べられます。

 9節は、主イエスを救い主であるキリストと告白する者が捕らえられ証しさせられるという、弟子たち自身が経験する苦難をあげます。弟子たちは、ユダヤ人からも、ローマ人をはじめとする外国の人々からも迫害されるのです。弟子たちは主イエスのゆえに地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれます。また、ローマ総督や王の前に立たされて証をさせられます。「証をする」は、イエスはキリストであると大胆に告白して福音の真理を証明することです。こうして弟子たちは終末に先行する迫害の中で、主イエスの受難の道を歩むことが示されるのです。弟子たちの苦難は、「主イエスのため」の苦しみですが、それは「福音のため」の苦しみでもあります。しかし、11節には「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。話すのはあなたではなく、聖霊なのだ」と、裁判において福音を証しするのは、究極的には、弟子たちを通して働く聖霊であることを明らかにされ、その聖霊を与えることを約束されるのです。

 また、弟子たちにとって深刻な、そして恐ろしい問題になるのは、家族の中の対立でした。初代教会では、迫害の中で、福音のために家族との断絶や争いを経験した者たちもいたでしょう。そこには、福音に対する激しい対立や内部分裂、さらには、家族を引き渡してでも難を逃れたり何らかの利益を得ようとする内部告発もあったと推測されます。それらのことは、単に血縁的な家族の間だけではなく、神の家族である教会の中にも生じたと考えられます。

 そのような中で、10節には、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言う重要な言葉が挟み込まれます。主イエスは、戦争の騒ぎがあり、地震や飢饉があり、様々な混乱が起こるけれども、それは世の終わりではなく、「産みの苦しみの始まり」だと語られました。それは救いを生み出す苦しみなのだということです。救いを生み出す苦しみなのだから、「あなた方は自分のことに気をつけて」他のものに目を奪われるなと言われたのです。ここで言われている自分とは、福音、つまり、喜びの知らせを担わされている自分です。福音を信じ語ったために捕らえられて弁明をしなければならなくなったり、福音を信じたことで家族の絆が引き裂かれることもあるだろう。しかし、そこで、自分を生かしている福音の喜びの中に立ち続けることができるように気をつけていなさい、と主イエスは言われるのです。

 私たちが注目しなければならないのは、終末がいつ来るかということでも、終末が来る時にはどんな兆候があるかということでもなく、10節の言葉です。福音、つまり、喜びの知らせが世界中の人々のところに届くことです。この世の醜い現実が、喜びの知らせに圧倒されねばならないのです。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という主イエスの言葉により、命をかけた福音の証が私たちの課題となるのです。

 初代教会のこのような状況の中で、弟子たちの運命は深刻さをきわめてゆきましたが、いたずらに慌てることなく、冷静にこれを見なければならないということです。待っていれば実際に戦争がなくなり、だんだん平和になって神の国が来ると言うのでもありません。さりとて戦争や天変地異が続いても、それを直ちに歴史の終わりと取り違えてもいけないということです。「起こらねばならない」という言い方は、そのような一切のことが、神のご支配の中で起こっているということの、冷静で醒めた信仰の認識のことを言わんとしているのです。終末とは、何か決まったプロセスを経て起こるのではない。なぜなら終末とは、主の来臨によってもたらされるからです。それまでの間の人間の歴史と自然の一切の出来事、それは産みの苦しみであるにしても、まだ初めに過ぎないのです。私たちの歴史の終わりとは、十字架につけられて死んだけれども、よみがえって、神の右にいます主キリストが、もう一度私たちの世界に臨まれる時に到来するのです。そのとき、この歴史は終わり、一切が新しく創造され、私たちの救いが完成されるのです。

 旧約聖書の預言書で世の終わりのことを語っている言葉と、主イエスが世の終わりについて語っている言葉とを比べて見ますと、大きな違いがあるのが分かります。預言者たちはしばしば復讐を語りました。今、神の民である自分たちはこんなにひどい目に遭っているけれども、世の終わりが来れば自分たちを苦しめる民は自分たちに仕える者となる、というような復讐の思いです。これに対して、主イエスは、私たちの復讐心を満足させるような神の勝利を約束してはおられません。主イエスの終わりについての言葉は、喜びに満ち、福音に満ちています。あらゆる民に、福音、つまり喜びの知らせが語られ告げられるのです。戦争の最中に、悲しみや苦しみの最中に、自分を苦しめている人々に向かっても、あなたがたのために喜びの光が射したと証しすることができる。それがあなた方の堅く立つべきところであると言われるのです。ですから初代教会の人たちは迫害の中でも伝道にいそしんだのです。自分たちの信仰だけで小さく固まって身を潜めて生きようとはせずに、命をかけて伝道したのです。そして、自分たちを生かし、あなた方を生かす喜びがここにあると告げたのです。

 「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言う言葉の「ねばならない」というのは、主イエスが御自分の十字架の死を予告する時にも用いられた言葉です。この「ねばならない」は、神の御意志を示す「ねばならない」です。十字架が必要になったのは、十字架がなければ解決できない、神から離れ、神に背いて生きる人間の罪があったからです。福音が宣べ伝えられねばならないのは、福音を聞かなければ救われない罪の中に人々がいるからです。人々がその罪に気づいてそこから解き放たれることを願って私たちが福音を宣べ伝える時、私たちはこの神の御意志に担われて生きるのです。

 そして、主イエスの13節の言葉は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と結ばれます。「耐え忍ぶ」ことは、逃げないで留まり続けることです。「救われる」と言う言葉は、10章30節で「永遠の命を受ける」と言う意味で使われています。迫害のただ中でイエスを否認するのではなく、「最後まで」、つまり命ある限り信仰を守り通す者は、新しい時の救いにあずかるのです。(8章35節〜38節、10章29節〜30節)この「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉は、特に迫害に耐えなければならなかった教会の人々がお互いに励まし合ったときに思い起こした主イエスの言葉だったと思われます。

 ここで「耐え忍ぶ」と訳されている言葉は、もともとは、「しっかり立つ」という意味の言葉です。主イエスは最後までしっかり立ち続けなさいと言われたのです。この「最後まで」というのは死に至るまで立ち続けるということですが、これはしかし、自分の足でしっかりと立って戦わなければいけないと、自分一人で踏ん張るのが私たちの信仰の姿勢だと言っておられるのではありません。そうではなく神様が耐えてくださり、神様が担ってくださっているから、私たちはしっかり立っていられるのです。そこでのみ耐え忍んでしっかり立つことができるのです。主イエスがここで「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と弟子たちに語られた言葉は、後の時代の教会を生かす言葉になりました。これを語ってくださった主イエスが、弟子たちの挫折にもかかわらず、なお復活なさって弟子たちを支えてくださったからです。

 耐え忍ぶことは戦いです。しっかりと立とうとする時に、それを揺るがすものと戦わなければなりません。主イエスのここでの教えの核心は、一人一人の、そして教会の、信仰による生き方の姿勢を教えるものです。主イエスの約束によれば最後まで耐え忍んで神の憐れみに自分を委ねて信仰を守り通す者は救われます。

お祈りします。

教会のかしらなるイエス・キリストの父なる神様。
 あなたが私たちの教会をこの地に打ち建て、今日まで50数年様々な風雪に耐えて、この日を迎えることをお赦しくださいましたことを、ただただ、あなたの御憐れみと心から感謝申し上げます。わたしたちはまだこの教会から離れたままになっています多くの兄弟姉妹のことを痛みをもって覚えざるをえません。主よどうか御心でしたら共に礼拝を捧げ、主の食卓を囲む日を私たちにお与えください。私たちの群れにあって健康を損ね、またご家族の介護のために尽くしておられる方をあなたの御顧みの中においてくださり、お支えください。私たちの国と世界の国々に正義と平和をお与えください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン
 
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「神は命の主である」 ヨハネ11:32-44
2021.11.7
 大宮 陸孝 牧師
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか」(ヨハネによる福音書11章25-26節)
  ラザロの復活の出来事は、ヨハネ福音書の中では、イエス・キリストのほかに死人の中からの復活を伝える唯一の物語であります。そしてこれは、死人の中から復活されたイエス・キリストによって、私たち人間が死を超えて生きるものとされていること、つまり、主イエスが14章19節で言われているように「わたしが生きているので、あなた方も生きる」ことを生き生きと伝えている物語であります。

 ラザロは、主イエスに仕えた姉妹としてヨハネ福音書に伝えられているマルタとマリアの兄弟です。彼らの家はエルサレムに近いベタニアにありました。ラザロが瀕死の病に襲われたとき、マルタとマリアはすぐにこのことを主イエスに伝え、すぐに来てラザロを癒してくださるように願いますが、主イエスはすぐには来てくださいませんでした。そのうちにラザロは死んでしまいます。姉妹たちは深い悲しみの中でラザロを墓に葬りました。ところがそれから四日も経った後に、主イエスはベタニアにやって来ました。主イエスを迎えたマルタとマリアは、11章21節と32節で「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と彼女たちの心の中の無念を異口同音に訴えています。

 彼女たちは、愛する者の死に直面して、何度も~に取りすがって、助けてください、と必死の嘆願をしたことでしょう。そして自分たちの祈りの無力さを感じると、主イエスにすがって願いを聞き届けていただこうと、主の来られるのを一日千秋の思いで待っていたのでしょう。しかし間に合わなかった。今となっては何をやっても無駄であります。
 
 死という厳しい現実を突きつけられて悲しみにくれているところに、イエス・キリストがやって来られます。マルタとマリアが願ったときではなく、イエスご自身の定められた時であります。主は必ず来てくださるのです。このときキリストは、ラザロの姉妹たちが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て「心に憤りを覚え、興奮した」と、記されています(33、38節)。「憤りを覚え」と訳された言葉は、「不快感に心を揺さぶられる」という意味で、「興奮する」とは「かきまわす」という意味があります。この言葉は新共同訳では主イエスが、人間を死に追いやる運命的な無情な力、残酷な死の力に対して、激しく憤られたことを表そうとしています。イエスの怒りは、ラザロの姉妹たちをこのような悲しみに陥れた死とその破棄力に向けられていて、そのような死の支配、悪の支配に対する憤りです。主イエスは命の主であることの絶対的な主張です。主イエスがここにいるということは命がここに支配しているということであり、命がある(11:25)ことであって、死が支配すべきところではない。イエスの憤りはこのことに向けられているのです。

 そして主は「ラザロをどこに葬ったのか」と問われます。人々は「主よ、来て、ご覧ください」と葬られているラザロの墓のもとに案内しました(34節)。人の死に際して私たちのできることは、主をその人のもとに案内することであります。執り成しの祈りをすることであります。主イエスはラザロの墓の前に立たれたとき、「涙を流され」ました(35)。新約聖書の中には主イエスが笑ったと言う記事は殆どなく、泣かれるキリストが描き出されています。マルタとマリア、そして「一緒に来たユダヤ人も泣いているのを見て」(33)イエスも泣かれました。泣く群れと一つになって泣かれるのです。人間の弱さを自分のこととして受けとめてくださるのです。キリストは人間と連帯して生きられるのです。

 このキリストの涙は「共感の涙」です。カナの婚礼のときに(2章)、婚礼の最中に祝いのぶどう酒が無くなったとき、キリストは水瓶に満たした水をぶどう酒に変えて困窮を救われましたが、そのことを起こされたのは、人間の欠乏状態に対するキリストの共感でありました。悲しみという二つの波長が重なり合うとき、相互に強め合って大きく響きます。共鳴現象です。私たちの心も、喜びにつけ悲しみにつけ、一人の人の心にもう一人の人の心が深い共感をもって響き合う時に、そこに心の共鳴現象が起こり、大きな力が働きます。

 主イエスは愛する者の死に、涙を流されます。主イエスは涙を流しつつ私たちのもとに来る主なのです。主イエスはその愛する者の死に当たって、死の力が猛威を奮い果たした時、死に飲み込まれて消えて行く人間の弱さと悲しみに対して、共に泣くほどに、同情、共感を抱き、そして人間を滅ぼす死の力に対して激しく憤り、激しく戦って、死が奪い取ったラザロを、死に打ち勝つ~の力をもって取り返し、取り戻そうとしておられるのです。人間の最大の危機に対する勝利の時が来たのです。

 39節で、主イエスは石を取り除くように命じられます。すると、「死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますからもうにおいます』」と言います。ラザロは確かに死んだのです。主イエスはラザロの死ばかりか、その腐敗を待って来たのです。マルタがラザロの死体がぼろぼろになっていくのを見て、もはやイエスに委ねるまでもないと最も厳しい死の現実に絶望しているその果てにやって来るのです。そしてマルタに「もし信じるなら神の栄光を見るだろうと言ったではないか」と言われるのです。主イエスはまさに今ここで命の主として立っておられるのです。そしてマルタはまさに今ここでは主イエスが言われるとおり、信じることがすべてという状況に置かれます。それは主イエスの言葉を聞くことだけではなく、神の栄光を見る事へと導かれるのです。その信仰のもとにマルタは石を取り除くようにと使いの者に指図を与えます。

 こうして石が取りのけられ、主イエスは天を仰いで言います。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します」これは、これから起こる事はあくまでもイエス自身の力ではなく、父なる神の力であることを強調しています。イエスは父なる神に願ったのです。そしてその願いはもう聞き入れられているということを主イエスは承知しています。父なる神に対する完全なる信頼です。復活の瞬間がもう起こったということを先取りして表現しているのです。イエスは、父なる神がイエスの願いをいつも聞き入れる事を知っておられます。しかし、わざわざここでそのことを言っているのは、周囲にいる人たちのためであり、もっとも大切なことは、父なる神がイエスを派遣したのだということを、人々が知ることです。主イエスの奇跡の背後には、父なる神からの派遣という事実があることが忘れられてはならないのです。

 こうして主イエスは、死の眠りについたラザロに、目を覚まして帰って来いと「ラザロよ出て来なさい」(43)と語りかけ、墓の外へ、生命の世界へと呼び出されたのです。主イエスは、ラザロの死を悼むマリアに対して、「あなたの兄弟は復活する」(23)と言われ、マルタが「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(25)と答えますと、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と宣言されました。ユダヤ人は皆、終末にすべての人がよみがえって、最後の審判を受けることを信じていました。それに対してイエスは、復活は遠い将来のことではなく、今のことだと言われているのです。イエス・キリストがこの地上に来て、天と地をつなぎ、~の力で死を打ち砕いて復活されました。そしてその永遠の命を、人間一人一人に与えてくださいます。ですから主イエスと結びつくとき、わたしたちは今、死によっても砕かれることのない、永遠の生命、復活の命をいただくのです。ですから主イエスは「わたしは復活であり、命である」と語られたのです。ラザロの復活はその証しであるということです。

 復活して今も生きておられるイエス・キリストが聖霊によって私たちと結びつき、私たちと一体になってくださるとき、そして私たちが、このイエスを信じて迎える時に、悲痛な現実の中でも砕かれない生命の力をもって生きることができるのです。

 ゴッホの描いた「ラザロの復活」では、墓の入口でマルタが、死の眠りから覚めたラザロに向かって、驚いて両手を拡げています。その背後に太陽が輝いてこの墓を照らしています。ゴッホは死から復活して、死者を目ざめさせるキリストを太陽として描いています。私たちもこの主イエス・キリストの復活の光に照らされて、与えられた命を生きて行くのです。

祈ります。

 神さま。私たちの命が「死をもって終わる」と運命のように思い定めております私たちに、主イエスの復活を実現して、永遠の命に生きる希望を与えてくださいました。この復活の信仰を私たちがしっかりと持つことが出来ますように、あなたの御言葉を学んで自分たちの復活信仰をいっそう堅くすることができますように、主よお導きください。

私たちの主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン
 
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