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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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礼拝説教


「父なる神の家」ルカ2:41-52
「闇に包まれた夜に」ヨハネ1:1-14
「主を待ち望む」ルカ3:7-18
「荒野からの出発」ルカ3:1-6 2021.12.5

「父なる神の家」ルカ2:41-52
2021.12.26
大宮 陸孝 牧師
「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカによる福音書2章49節)
 11月28日待降節第1主日から新しい年度が始まりまして、ルカによる福音書を新しい1年の日課として読み通すこととなります。本日の日課は、クリスマスの時期を挟みイヴ礼拝を含めてルカ福音書の第4回目になります。

 ルカ福音書は、使徒パウロの地中海一帯の伝道旅行に同行し行動を共にした医者ルカが著したものとされています。ルカはこの福音書の続編として、使徒言行録を書いた人物でもあります。この福音書の執筆の目的は、1章1節から4節に記されています。そこに「わたしたちの間で実現したことについて・・・順序正しく書き、伝えられていることが確実であることを明らかにしたい」と記されています。「わたしたちの間で実現されたこと」とは、主イエス・キリストの生と死に関することであることは明瞭です。その内容が何であるかということは、この福音書全体を読み通すことによって明らかにされることです。この書が捧げられた「テオフィロ」という人物とは誰であるかは特定できておりません。恐らくローマの高級官僚であろうと推測されています。その人物に、キリスト教の真実を知らせようとして書かれたものがルカによる福音書と使徒言行録なのです。

 このルカ福音書の著者のことを「貧しい者たちの福音書」と呼ばれていることの中に、その特徴がよく示されていると言うことが出来ます。ルカ福音書では、貧しき者、小さき者、弱き者、低き者たちに対して特別な眼差しが向けられていることが読み進んで行くに従って明らかにされてゆきます。それは御子イエスの誕生に関係のある部分についても表されています。その一つは「マリアの賛歌」と呼ばれる1章46節〜55節の中の特に52節53節の部分です。「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める物を空腹のまま追い返されます」。この句の中にルカ福音書の特徴を垣間見ることができます。

 もう一つは、御子イエスの誕生にまつわる記事の中で、女性が重要な役割を演じている点に特色があります。エリサベト、マリア、女預言者アンナといった人々です。そこに福音宣教の働きでの女性たちが果たす重要な役割が示されていると見ることが出来ます。そのように、いろいろな意味で「貧しい者」とイエス・キリストがどのように関わるかということに関する特別な視点を持っているのがルカによる福音書です。それが今日の社会の状況とどのように関わって来るのかという難しい問題も当然そこに出て参ります。私たちの教会が、貧しい者と関わられたイエス・キリストの教会として、今日、主と共にいかに進むべきかという教会の新しいあり方、向かうべき方向を心を傾けて探っていくことになります。

 それで、本日の日課は、四つの福音書の中で少年時代のイエスについて語っている唯一の箇所であります。そのころイエスとその両親は、エルサレムから約140キロほど離れたナザレという町で生活していました。父親としての役を負わされたヨセフは大工であったということはよく知られています。ユダヤの国においては、12歳になると青年期に入ったと見られ、律法に記されていることをことごとく守るべき義務が生じます。そして、ユダヤの国における三つの大きな祭りの一つである、春先にエルサレムで行われる過越の祭に参加しなければならなくなります。その時のことについて記されているのが本日の日課です。

 その頃の習慣として、エルサレムから遠く離れた町や村から祭りのために出かけるときには、町や村の人々が一つの集団を作って行進したようです。1日20キロほどの道のりを、途中、旧約聖書の詩編の中にあるいくつかの詩、都もうでの歌などを共に歌いながら進んだと考えられます。そして、盗賊や強盗から身を守るためにも、集団で巡礼の旅をするのが有利でありました。イエスの住むナザレの村の人々も、行きも帰りもそのようにして歩いたようです。ところがエルサレム神殿での礼拝を終えてナザレに帰る途中、イエスの両親はイエスがその集団にいないことに気づいたのです。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。この巡礼の集団は、通例、女性たちが先頭を歩き、その後ろに男性たちが続くという構成をなしていました。そのために母マリアは、イエスがそばにいなくても、父ヨセフと一緒に後ろの集団にいるものと考えていたのでしょう。父ヨセフはそれとは逆のことを考えていたのかもしれません。そのために、一日中歩いている中でも、両親はイエスの不在に気付かなかった、ということが起こってしまったのでしょう。(44節)ともあれイエスの不在に気付いた両親は直ぐにエルサレムにとって返し、町中探し回り、三日目にイエスがエルサレム神殿の中で律法学者たちと語り合っていたところを発見したのです。

 ルカ福音書には一貫して流れている一つのテーマがあります。それはある者が「いなくなる」、「探す」、「見つける」という一連の出来事がしばしば出てくるということです。たとえば15章1節以下にあの100匹の羊がいなくなり、それを探して見つけ出す羊飼いのたとえにそれを見ることができます。また放蕩息子のたとえにも、そのテーマが含まれています。(15章11節以下)

 イエスがいない、イエスを探す、そして再び見出す、この一つの流れは、主イエスの死と復活の出来事と深く関わっているものです。同時にわたしたち自身とイエス・キリストとの関わりという面からも考えることができるものでもあるのです。それは、わたしたちにおいても、わたしたちの日常の歩みの中でふとキリストが不在であることに気づくことがあります。キリストと共に歩んでいるつもりだったのに、自分の生活の中にキリストがいまさない、つまり、キリストを閉め出した生き方になっていた、ということに気づかされることがあるのです。キリストなしで済ましている自分に気づかされることがあります。そのときわたしたちはどうするべきなのでしょうか。イエスの両親が、その向きを変えてエルサレムへ引き返したように、わたしたちも方向を転換して、キリストがいますところに向かわなければなりません。み言葉の中に、礼拝の場に、信仰者との交わりの中に、主イエス・キリストを見出すために自分自身の方向を変えなければならないのです。御子イエスの不在に気づいた両親の方向転換は、私たちのあり方について大いに学ぶべきところがあると思わされます。

 さて、神殿での少年イエスは律法学者と律法(旧約聖書)について語り合っていました。恐らく律法学者の教えることに関して、イエスは高度の質問をしていたのでしょう。人々は驚きと賞賛の声を上げています。しかしこれは後にはイエスへの敵対心へと変わって行く事になるのです。

 両親は行方不明になっていたイエスを神殿の外に連れ出して(たぶん本人の自尊心を人々の前で叱ることによって傷つけることのないように配慮しただろうとわたしは思いました)叱りつけます。この時のマリアの姿は、母親として当然のことだと思います。それに対して、少年イエスの応答の言葉は49節に記されております。「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。わたしがもし父親の立場におかれてこの言葉を聞いたら恐らく激高していただろうと思います。「どれだけ心配して探し回ったことか、その気持ちも知らないで、その気持ちを踏みにじるようなことをよくもしゃあしゃあと言えたものだ」と、しかし恐らくヨセフはその思いを飲み込むように黙っていました。来るべき時が来たということでしょう。

 「わたしは自分の父の家にいる」とはどういうことでしょうか。この場合の「自分の父」とは、父なる神のことであることは明らかです。主イエスにとって、この世界は父なる神が造られただけではなく、全ての時代にわたって神が支配しておられるところです。その認識がすでに少年イエスの中にあったということです。少年イエスは、神との特別な関係を、「自分は父の家にいる」という言葉で言い表しています。そしてそのことは、信仰の認識としては、わたしたちにも共通のものがあるはずです。「インマヌエルなる神」は、いつもわたしたちと共におられます。そのことがわたしたちを、いついかなるときにも支え、励ますのです。わたしたちが地上のどこにいても共にあろうとしてくださる神、それがわたしたちの神です。

 少年イエスの両親はこの言葉を理解できませんでした。御子イエスを胎に宿す時に特別な体験をしたマリアも、そのこととイエスの言葉との関連を捉えることは出来ませんでした。これは無理もないことで、マリアやヨセフが特に鈍かったというわけではありません。イエス・キリストに関する真理は、十字架と復活の光に照らされなければ正しく理解することはできないのだということを改めて教えられます。

 マリアは、「これらのことをことごとく心に留めていた」と記されています。(51節)「これらのこと」というのは、少年イエスが父なる神との特別な関係について語った言葉だけではなく、イエスが律法学者と対等に語り合っていること、さらにはそのようになにか特別にひらめくものをもったイエスが、両親に従順に仕えていること(51節)などをも含んでいると考えられます。マリアは御子の誕生のときに、羊飼いたちが礼拝に来たことをめぐっての様々な事柄も「全て心に納めて」(2:29)いました。今はどういうことなのかわからない神の言葉や信仰の出来事は、わたしたちの心に納めておくことによって、やがてその真理が明らかにされるときが来るでありましょう。「あのみ言葉の意味が、今分かった」という時が必ず訪れるのです。神についての真理を正しく理解することができるのにも、それにふさわしいときが必ず訪れるのです。

 52節に「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された」と成長するイエスの姿が描かれています。変化することのない永遠の神が、御子においてこの世に来たり、変化する人間と同じ姿をとっておられます。ここに神の人間に対する特別な関わりを見ることができます。身を低めたもう神、人の世界におりて来てくださる神、人の苦悩を御自分のものとされる神がここにいますのです。

 永遠におられる神は、この世に誕生することなど必要としてはおられないお方です。その誕生する必要のない神が、あえて人のかたちをとってこの世に来てくださったのです。そのようにしてこの世に存在する者となった神の御子は、人間と同じように成長して行かれるのです。それは私たちと同じ人生を共に歩まれる神の姿です。神はそれほどまでに私たちを相手にし、私たちに感心を持ち、私たちを愛してくださっているのです。

 主イエスが人間として成長して行く姿は、本来わたしたちの人間としての成長の姿でなければならないということを思わされます。わたしたちこそ神の子として信仰において成長していかなければならないのです。その成長とは「神と人とから愛される」生を送るということです。それは単にいい子になるとか善良な人間になるということではなく、むしろ真に必要とされているところで仕える人間になる、ということです。祈りが、愛が、支えが、協力が、交わりが必要とされている人々のところに、自分の身を投げ出すことができるということです。主によって生かされている喜びが大きければ大きいほど、様々な困窮の中にある、主にある喜びに触れることができないでいる人たちのところに、主の喜びを運んで行くのです。主イエスはそのように愛をもってわたしたちのところに来てくださったのです。

 お祈りいたします。

 神様イエスさまが信仰の人として成長していく姿をわたしたちに示してくださって感謝いたします。わたしたちも主イエスが示してくださった信仰の道を、神様に従順に従って歩んで行くことができますように、あなたと人々からの愛を恵み深く受けて、信仰の人として成長して行くことが出来ますように。人々にあなたの愛を証して行く仕える生き方が出来ますように導いてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン

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「闇に包まれた夜に」ヨハネ1:1-14
2021.12.19
大宮 陸孝 牧師
「初めに言葉があった」(ヨハネによる福音書1章1節)
  「初めに言葉があった」で書き始められているヨハネ福音書は大変独特な表現で救い主イエス・キリストに対する信仰告白が語られているのですが、なぜ独りの人格ある方が、「言」といわれているのか、救い主イエスが「言葉」と言われていることの意味は何なのかクリスマスの礼拝を通して、私たちにもその真理に導かれて行きたいと思います。

 ヨハネ福音書が言おうとしていることを掘り下げていく前に、私たちの人間関係の中での「言葉」のもっている機能とか役割やその状況について少し考えて見たいと思います。私たちは言葉を用いて生活しています。一般的に言葉は何らかの情報交換のために用いられます。そしてまた、言葉は話し手の心の状況とか意志とか思いなどを伝える役割を持っています。つまりそれは自己を開示する働きをするものであります。それによって他者との間に対話や人格的な関係をなり立たせる交わりの媒体の働きをするものです。そのようにして言葉によって、自分と他者との結びつきを与えられます。人を人とするもの、それは人が言葉によって自己を示すことができるということにあるということができますが、これは神からの特別な贈り物であります。

 しかし、私たちが用いている言葉は、よく考えて見ますと、そうであってはならないのに、言葉とは、最も当てにならないもの、真実の伴わないものとなっていることに気付かされるのです。私たちはいかにしばしば誇張や偽りや欺きや誹謗中傷を語り、現実の社会は、言葉による駆け引きやごまかしの場となり、人の言葉を正直に信じる者は世間知らずと嘲られたりします。そして現代はあまり意味のない言葉が流行語としてもてはやされたりして、言葉が氾濫している時代です。そのような状況は言葉の公害とかインフレーションと言われたりもしています。人間の語る言葉というものは、それを発している人間全体の世界を否応なしに背負っているもので、その人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映していくという言葉の持つ大切な役割が指摘されています。そうであるならば、言葉が人と人との関係を築きあげるよりも、逆にその関係を破壊する方向に働いているのは、単なる言葉だけの問題ではなくて、それを発する人間の世界か、あるいはその人の人間性が崩れていることのしるしだ、と見ることもできるのではないでしょうか。愛のない言葉は、「騒がしいどら、やかましいシンバル」(コリント13:1)に等しいものであります。そのような言葉が騒がしく響いている時代の中で、真実をもって自己を語ろうとしている言葉を、私たちは聞き逃さないようにしなければならないのです。

 私たちは神の御子イエス・キリストが「言」として、神の言として言い表されているヨハネ福音書の句に出会います。ヨハネ福音書は、「言」が初めにあり、「言」が神であったという具合に、御子キリストを言い表しています。今度は、神にとって言とは一体何であるのかを考えなければならなくなります。私たちがまず見なければならないのは、ヨハネ福音書と同様に、「初めに」という言葉で書き始められている創世記の1章の創造物語です。「初めに神は天地を創造された」(1節)「~は言われた。『光あれ』。こうして光があった」(2節)そこには、神が天地を創造された時の様子が描かれています。そこで主張されていることは、神が言葉を語られることによって、あらゆるものが造られた、ということです。そこには神が語られる言葉と、それによって生じる出来事との間に少しのズレも狂いもないことが語られています。神の言葉はそれが語られることによって、その内容とすることができごととして生じるような力を持ったものであることが分かります。神が語られる言葉には、~ご自身の意志や力や存在の重みが込められています。ですから神の言葉が語られる時には、そこに何事かが必ず生起するのです。詩篇33編6節には、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」と詠われています。

 つまり、神のことばとは、神の意志や力が込められたものであり、神の御心を実行する働きをするものであることがわかります。神の言葉とは、行動する神ご自身である、と言ってもよいのです。そしてヨハネ福音書では、御子キリストが、そのような神の「言」であると宣言され、告白されているのです。つまり、イエス・キリストこそ、神の意志や思いを実行する方であり、神の創造力を持ったお方である。イエス・キリストこそ、「神の言」として、神のご意志・ご計画を遂行されるお方なのだ、ということになります。御子キリストは、新しい時代の中で行動される神ご自身なのです。ですから御子イエス・キリストがこの世に送られたこと、キリストの降誕の出来事であるクリスマスは、神による新しい創造の始まりである、ということをいっているのです。ヨハネ福音書は「初めに」という出だしの表現によって、人間の新しい創造、新しい誕生について語ろうとしています。私たちは創世記とヨハネ福音書を重ねて見ることによって、世界の創造者が、同時に世界のそして人類の救済者でもあられる事実を見ているのです。「救い」とはキリストによる再創造であります。自らの罪の現実の只中で苦しんでいる世界のすべての人間は、キリストによって新たに造り変えられるのだと世界に向かって宣言されているのです。私たちの世界にイエス・キリストという形をとって来てくださった神は、再び創造の業を開始されました。神の言としてのキリストの言葉を聞くときに、つまりキリストを受け入れ、その御言葉に従順に聞き従うとき、そこに神による私たちの新しい創造に関わる何事かが起こります。そのことをヨハネは「命」として示しています。1章4節です。「言の内に命があった」と告げています。キリストには命があった。この命について考えて見なければなりません。命とは一体何であるのか。思いつきますのは、肉体的・生物学的な命です。肉体の生き生きと躍動する姿は、間違いなく生命の力強い姿の一つです。逆に肉体の衰え、肉体の死は一つの命の終わりです。このように肉体に起こる変化という面から捉える事のできる生命というものがあります。普通私たちはこのような生命を命といっています。

 しかし、わたしたちの命はそれだけでは捉えられない面もあります。肉体的には生き生きとした人の心の中に、影のように忍び寄ってくる得体の知れない生きる事への不安や恐れというものがあります。一体自分は何のために生きているのだろうか、このような生き方でよいのだろうか、生きる事に意味などないのではないかといった生きる事への影です。何かまだ大切なものに欠けているそれを自分のものとしていないという、命の充実を味わえない生命状態というものがあります。逆に肉体的には病があったり、障碍があっても、また生活上の様々な困難や苦労があっても、なお生き生きと活力ある命を生きている人々もいます。それは何かに満たされたから、何かを手にすることができたからではなく、客観的な環境が必ずしも恵まれ、整っているとは言えない中で、その人の命が光り輝くということが起こることがあります。このことは肉体的条件や環境の状況に関わりなく、それを超えて、私たち人間の存在を支えるもう一つの命がある、ということを示しています。そのような命こそすべての人にとって必要としているものであると私は思います。静かに心の耳を澄ましてみるとき、そのような命を求める心の叫びが自分自身の中にあるのを聞きとることができるかも知れません。さらには、生きたい、何とかして本当の命を生きたい、という激しい願いを込めた叫びが、この世界に渦巻いているのを、聞きとることができるかも知れません。真の命を求める叫びがあちこちにこだましているということです。

 苦悩している心、真の命を生きたいとの問いを聖書に投げかけるときに、「言の内に命があった」との宣告に出会うのです。「言」とはイエス・キリストのことでした。そうであるならば、この宣告はイエス・キリストには真の命がある、と宣べていることになるのであります。「命とはイエス・キリストである」、そして、イエス・キリストにある命こそ、真の命だという信仰告白に出会うことになるのです。

 神は全能の力を持っておられます。その方が人間を愛して、人間を救おうと決心なさったときに、人間となった、それが「言は肉となった」つまり神の子イエス・キリストが人間として生まれたという出来事であります。そしてイエス・キリストは罪人である人間と連帯し、最後には十字架について、人間の罪の責任をご自分で引き受けられ、人間はそれによって罪を赦されて、新しい命を生きるように、新しく生きる命の道を開いてくださったのです。

 真の言葉とは、人を生かす言葉のことです。その言葉によって、一人りひとりが自分を生かすことができる言葉、それが真の言葉です。御子キリストには~の命が宿っていますので、人を生かし、それによって人が生きることができる言葉なのです。クリスマスは、この命をもった神の言葉であるキリストを、私たち一人ひとりが真に聞くべき言葉として受けとめ、この命に触れ、キリストにあって新しい命の歩みを始めるべきときなのです。私たちの命を求めてのこの世の旅は、このキリストから始まりキリストに達する、このことの繰り返しなのです。ルターが聖書のみ信仰のみと言った時の信仰とは、このイエス・キリストに出会うことによってだけという意味だと私は改めて思います。

 今年のクリスマスに、御子キリストに真剣に耳を傾けることによって、私たちの再創造が起こり、命の喜びを受ける者となることができますように。心の闇を抱えて生きている多くの人々にとっても、この命の言葉はその人々の新しい光となることを確信して、多くの人々が、「言葉」であるこの主イエス・キリストのもとに導かれますように。

お祈りいたします。

恵みの神さま、あなたはいつも私たち一人一人をあなたの愛の命による創造の力によって新しくしてくださるために、あなたの満ち溢れる愛と命をもって救い主イエスとなって私たちのもとに来てくださいました。わたしたちが皆、この方の満ち溢れる命の豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けて、それを人生の土台として行くことができますように私たちの信仰をあなたの真理の言葉によって新にしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。     アーメン。

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「主を待ち望む」ルカ3:7-18
2021.12.12
 大宮 陸孝 牧師
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカによる福音書3章16節)
  まず最初にマルコ、マタイ、ルカの共観福音書でバプテスマのヨハネについて、違いがありますので、そのことをお話しておきたいと思います。

 マルコ福音書は、イエスとは誰か、イエスの語る福音書とはなんであるかを明らかにしようとして、福音書を書きました。そのイエスに先立って、マルコは洗礼者ヨハネを登場させ、そのヨハネにイエスを紹介する役目を与えています。マルコによれば、洗礼者ヨハネは、イエス仁先駆けて主イエスの道を準備する「使者」だとマルコは言います。

 一方マタイやルカ福音書によれば、イエスはこのヨハネのことを「およそ女から生まれたもののうち、ヨハネより偉大な者はない」と言っています。これはヨハネに対する最大の賛辞であります。(マタイ11・2〜19、ルカ7・24〜27)マルコにはこのような賛辞は記されていません。

 反対にマルコ福音書は「わたし(ヨハネ)よりも優れた方(イエス)が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の草履のひもを解く値打ちもない」(1・7)と言わせています。「わらじのひも」を解くのは、召使い(奴隷)の仕事でした。イエスの前ではその仕事をさせてもらえないほどの値打ちのないものだとヨハネ自身に言わせているのです。それはイエスとヨハネの違いを決定的なものとして際立たせるためでした。ヨハネのメッセージの第一声は、マタイによりますと「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2)でした。マルコではイエスも同じ言葉を使っています。(マルコ1・15)ただ同じ言葉を使っていてもその意味するところは違いがあるように見えます。

 ルカ福音書の本日の日課3章7節〜14節では、ヨハネがどういう説教をしたのかが書いてあります。そこを読みますと、ヨハネはきわめて具体的に、今までの生き方を悔い改めて、人間本来の生き方を取り戻すようにと語っています。そのように生き方を改めなければならない理由は、七節にありますように「差し迫った神の怒り」です。

 神がもう忍耐の限界を超えて人々を罰しようとしておられる。その裁きを誰も逃れることは出来ない。だから悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧がすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。だから悔い改めよ、生き方を変えよ、その第一歩が悔い改めの洗礼だ。そのように宣べ伝えたので、良心に責めを感じている人々が、みなヨルダン川に出て行ってヨハネから洗礼を受けようとしたのです。この悔い改めをどのように捕らえるかが本日のポイントです。

 ヨハネのメッセージは主イエスが語る「神の国」とは、ずいぶんニュアンスが違うことにお気づきだと思います。主イエスは「福音」と言いました。「喜びの訪れ」「良い知らせ」だと言いました。神からの喜ばしい訪れが間もなくやって来る、いやもうすでに来ている、と告げたのです。

 マルコ福音書には、ヨハネは「荒野で」「罪の赦しを得させるため『悔い改めの洗礼』を宣べ伝えた」(マルコ1・4)のですが、しかし、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝え」たと、ヨハネと主イエスとの決定的な違いが指摘されています。宣べ伝える中身が違う。読者よ、ヨハネの言う「罪の赦しのための悔い改め」と、イエスの言う福音とは全く異質なものだということを気づいてくださいと、福音書の冒頭で訴えているのです。このことを踏まえながら、本日のルカ福音書の日課を読んで参りたいと思います。

 ルカ福音書では、ヨハネが皆に呼びかけて悔い改めの洗礼を受けよと勧めた時に、それではと言って、洗礼を授けてもらおうと来た「群衆」たちにピシャッと、こう投げつけます。「蝮の子らよ」。これはたいへんおかしな場面です。実際にこの後、10節以下を読みますと、この群衆たちは大変素直にヨハネに「それではどうしたら良いのですか」としつこく聞いてくる人たちです。更に15節まで読み進めて参りますと、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと」思ったほどなのです。更に読み進めて20章まで進むと、「ヨハネの洗礼は天からか人からか」という問題にまで展開し、問い詰められた神殿の当局者たちは、民衆がみなヨハネを預言者と敬っているからというので答えを見いだせなかったというふうに展開しているのです。つまり民衆は素直に信じ、素直に教えを受け、洗礼も受け、ヨハネを預言者として敬ったということです。

 むしろ、7章30節では「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼(ヨハネ」から洗礼を受けないで自分に対する神の御心を拒んだ」のです。イエスの敵となるファリサイ派や律法の専門家たちは、もともとヨハネなどは信じないし、洗礼を受けになど来なかったのです、とルカは主張しているのです。

 つまり7節の言葉は、「差し迫った神の怒りなどわたしには関係がない。神の怒りは来るかもしれないが、わたしたちには関係がない。わたしたちはそれを免れる。なぜなら、わたしたちの「父はアブラハムだ」からと言っている人たちを問題にしているのです。偽善的に形だけ洗礼を受けることによって「免れられる」というそんな問題ではないよ。わたしたちの父はアブラハムだから、迫り来る神の怒りを「免れる」我々には関係がないと言っている選民意識それが問題なのだとヨハネは言っているのです。

 これではっきりしたと思います。ヨハネは最後の預言者として登場してきましたが、それは旧約聖書の路線である伝統や律法を守ることをそのまま受け継ぐ預言者としてではなく、エルサレムの人々もユダヤ全土の人々も、そして異邦人も含めて、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしいもろもろの行いをするように呼びかけているのです。

 10節「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた」この質問はどうもルカが好んで用いる文章のようで何度も用いられています。これはルカ福音書時代の教会の信仰者の実践の手引きでもあったのではないかとも解釈することが出来ます。「分けてやれ」と訳されています言葉は、"施し"とも訳せる言葉で、ローマへの信徒への手紙12章6〜8節では、まさに教会の役職の一つとして表現されています。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を受けていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば奉仕に専念しなさい。また教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」これらはおそらく今で言う教会の役員に当たるものではないかと思われます。キリスト教会において、施し、分け与える業、これは早くから非常に重要な教会の業として受け止めていたということだと思われます。

 12節の徴税人への勧めは、当時行われていた徴税は徴税人が規定以上の取り立てをして差額を着服するということが普通に行われておりました。これを戒めたもので、その人の職務とか地位とかを乱用することによって社会に不正がはびこることを防ぐ戒めです。各種の職業とか地位に付随して起こってきます様々な腐敗が社会を曲げていくことを避けるように、それによって社会の公正、正義を守るようにという勧めです。

 14節では兵士に対してなされている勧めですが、「給料」と訳されている言葉は、もともとは兵士たちに配給されていた給食の食事を表した言葉ですが、やがてその代金を表すようになり、新約聖書では「生活費」「報酬」と訳されております。「満足せよ」というのは、十戒の第十の戒め"隣人のものをむさぼるなかれ"を守りなさい。「ゆすり取るな」は第八戒、「だまし取るな」は第九戒を守れということになります。

 ヨハネは人々に向かって「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすなと戒めました。同じことを主イエスはヨハネ福音書8・39節でもっと積極的に"アブラハムの子ならば、アブラハムと同じ業をするはずだ"とユダヤ人たちに言われています。そのアブラハムをユダヤ教では、慈善の業と律法を守ることにおいて信仰の父であるとたたえていたのでした。ですから、自分たちの父はアブラハムだなどと言うならば、アブラハムの子らしくアブラハムと同じ業をせよ、施しをし、神の戒めを守れと言っているのだと解釈することが出来ます。

 ルカが悔い改めを語るとき、ユダヤ教の壁を越えて何処に向かって方向転換をせよと言っているのか曖昧な言い方をしているような印象を持ちます。ですから、ヨハネが語る福音とは何なのかもはっきりとしません。群衆の悔い改めとは何をすることかという質問にも十戒をもって答えるというのはやはりヨハネは旧約聖書の枠を超えることのない預言者なのか。ヨハネの語る福音とは何なのか、ヨハネとイエスは何処が違うのか群衆にも戸惑いがあったようです。マルコ2章18以下に人々とイエスとの間に断食問答が出て来ます。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食をしていた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちは断食をしているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか』。するとイエスは言われた。『誰も織たての布から布きれを取って古い服に継ぎを当てたりはしない。・・・また、誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ』」

 マルコ福音書ははっきりとイエスの福音は、ヨハネの古い革袋に入れてはいけない。イエスはヨハネを受け継いではいない。両者はまったく異質なものだから、つなぐことはできないし、共存させることもできないというのです。イエスの福音に、ヨハネの「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を接ぎ当てしてはいけないと言っているように受け取れます。主イエスとヨハネの間にはやはり決定的な断絶があるようです。その宣教には質的な違いがある、天地の開きがあるとマルコは言うのです。

 そして、その一方でマタイもルカも、イエスの宣教は洗礼者ヨハネの宣教である悔い改めと罪の赦しを継承しているという解釈もありますが、マルコはそんなことをしたら、新しい酒を古い革袋に「入れるようなもので、両方ともだめになってしまう、新しい酒つまり主イエスの福音を受け入れるためには、古い革袋を捨てて、新しい革袋を用意すべきであるというのです。この主張にマルコは一回だけ「悔い改め」という言葉を使っています。マルコが言う悔い改めとは、「心を入れ替えて、古い革袋を捨てて、虚心にイエスの福音を聞き、受け入れる用意がありますか」こういう意味であると受け止められます。

 従って、ヨハネの悔い改めをわたしは別の角度から、ユダヤ教の律法を守ることを根拠にして救いを得ようとする従来の的外れなあり方、そのことによってかえって神から遠ざかり、神から離れ、隣人からも離れて、ただ独りで孤立して生きるようなそういう生き方を止めること、自分のことだけ、家族の幸せだけを求めること、他者を無視すること、不当な搾取に生きること、そういう生き方を止めて、神との生きた関係に立ち戻ることを呼びかけたものだと解釈するほうが妥当なのではないかと思いました。神の方を向いて生き始めよと。その具体的な対象は主イエスです。そう解釈するとバプテスマのヨハネは「ここに救いがある。主イエスの方を向け」と呼びかけていることになります。

 ルカ福音書の本日の日課の18節で、このほかにもヨハネが「福音を知らせた」と語っています。ヨハネの宣べ伝えた福音とは悔い改めの洗礼でありました。一方で群衆が求めていたものは悔い改めなき洗礼でありました。ですからヨハネは悔い改めないままに洗礼を受けてもそれは無意味なばかりか裁きを招くことになる、と悔い改めることを強調する意味で悔い改めの洗礼とわざわざ言っているのです。洗礼は悔い改めを象徴する徴であって罪の赦しを与えるものではないことになります。赦しについてヨハネはやはり象徴的に「斧がすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」といっています。主イエスが罪を赦す方として到来されることを言っているのです。具体的には十字架の購いのことであると解釈されます。ヨハネの語る福音とはまさにこのことを、わたしたちの罪を身代わりとなって負ってくださる主イエスの購いの死を予見しているものであるということです。ですから主イエスの福音とバプテスマのヨハネの福音とは根本的には矛盾も対立もしていないのです。同一線上にあるのです。私たちは、主イエスのもとに立ち返ることによって、主の十字架の赦しの恵みに与ることによって、聖霊を新しく与えられ、新しい命への再生に与ることができる、それが、ヨハネの伝えたい悔い改めの実ですよ、主イエスが赦しに招いてくださっていますよと、わたしたちが主イエスの方に向くように呼びかけているのです。

お祈りをいたします。
神様。神様の前で裁きを受け、それぞれに申し開きをしなければならないわたしたちを、この地上の人生において、自分の及びもつかない驚くべき赦しの恵みを、主イエス・キリストの購いを通して与えてくださっていますことを心より感謝いたします。そのように私たちのもとに来られる主イエス・キリストを待ち望みつつクリスマスを迎えることができますように私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン

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「荒野からの出発」ルカ3:1-6
2021.12.5
 大宮 陸孝 牧師
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。(ルカによる福音書3章1‐2節)
 「~の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3節)とあります。このヨハネのことを同じルカ福音書の7章20節では「洗礼者ヨハネ」という呼び名で言い表しています。ヨハネのことを人は皆そのように呼びました。ヨハネのしていた儀式からみて、バプテスマのヨハネだ、洗礼者ヨハネだ、こう言っていた。しかしそのヨハネは本当は預言者として任命され、預言者として派遣されたのであって、洗礼という儀式はその働きの一つに過ぎないということをいっているのです。

 実はこのとき、ヨハネが派遣されて参りますまで、ユダヤの人たちの世界では、長い神さまの沈黙が蔽(おお)っていました。神の言葉がブジの子エゼキエルに臨んだり(エゼキエル1:3)、ベエリの子ホセアに臨んだりした、旧約の昔の時代の預言者はこの二〇〇年の間に絶えて久しく現れておりませんでした。~は沈黙しておられました。旧約聖書と新訳聖書との間に外典、「旧約聖書続編」と呼ばれる文書がありますが、その中に、その預言者が絶えて久しく現れない、いつ現れてくれるかを待望するという文章がいくつも出て参ります。紀元前二世紀の中頃のユダヤ人が見て、預言者が現れなくなって久しい、そして、やがていつか忠実な預言者が現れるのを待望する時代であったのです。

 そして、皇帝ティベリウス在位の第一五年という限定がありますから、紀元後二八年夏から二九年の夏までの一年間という風に、時代が絞られて、その世界の歴史の中に「~の言葉がザカリアの子ヨハネに降った」と語られます。ヨハネは神様の任命があって預言者として召され、神様から預言者として派遣されて登場したのですよ、と宣言しているのです。~の沈黙は終わり、生ける神はこの時から再び語り始められた。ここからバプテスマのヨハネの公の出現、登場が描かれるのですが、ルカ福音書の第二巻になる使徒言行録の10章36、37節では、ペテロがコルネリオスに説教した中で、このように語らせています。「神がイエス・キリストによって・・・平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。ヨハネが洗礼を述べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。」このように、福音の始まりはバプテスマのヨハネに始まって、ユダヤ全土に広がったのだという理解です。これは、20節までに繰り広げられるヨハネの物語だけではなく、それに続いて公に登場されるイエス・キリストの福音全体、両方をまとめる序文となっているのです。

 「~の言葉がだれそれの子、誰それの上に降った」という旧約の、預言者を召し出すときのなじみの表現がここに使われていることから申しますならば、この預言者にとって「あの荒れ野」というのは、非常に独特な意味を含んだ言葉であります。それは昔、シナイで契約を結んでくださった~ヤハウエが、四〇年の旅の間、イスラエルを養い導いてくださったあの救いの世界だったのです。あの荒れ野で再び預言者が起こされ、~の言葉が臨むことがあるとすれば、そのときこそ、~の決定的な救いの訪れの約束の言葉を聞くときである。そのように預言者を待望していたのです。

 一つだけ実例を挙げておきます。ホセア書の9章10節「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た」。このようにホセアは~の言を預言します。そして同じホセア書2章16節で、「それゆえ、わたしは彼女─イスラエルをいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう」と、救いの到来を約束されています。かつて先祖たちを、荒れ野でぶどうの実を見るように見た~は、やがてまた荒れ野でイスラエルの心にねんごろに語りかける日が来るというのです。そのように今、「荒れ野で」「~の言は」イスラエルに臨み始めたのです。イスラエルの救いの原体験、それがもう一度ここ荒れ野で始まろうとしているわけです。ルカ福音書は~の真実がここに現れた。という宣言をもって福音書を書き始めるのです。

 私たちは旧約聖書、新約聖書これを全部ひっくるめて聖書そのものを「~の言」だと信じています。聖書全体が~の言葉だと申しますときには、この聖書全巻を貫いて、それを用いて、神さまのご意向が間違いなく私たちに語られている、神さまのご意志、神さまの御心が聖書全体を通して私たちに与えられているという意味で、聖書は~のことばだ≠ニ言っているのです。

 私たち人間の側から見ると不自然な、超自然的な形で~の言が与えられたのが「預言」というものです。預言者。「ザカリアの子ヨハネの上に~の言が降った」といわれておりますように、これは、本当に上から、外から予期しない形で落ちてきたものです。「~の言がヨハネの上に降った」とはどういうことかと言いますと、ヨハネの人間的な思いや思いつき、思想、あるいは人間的なまぼろしといったものではなく、完全に~さまから与えられたメッセージであって、しかもそれは語らずにはおれない、語らされる、そういう圧倒的な強制力を持ったメッセージであるということなのです。

 さてそこでヨハネは語れと言われた~の言を象徴的な形にして人々に示しました。それは悔い改めの洗礼であります。「そこでヨハネはヨルダンの川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。じつはこの3節から6節までの記述の殆どが、ルカ福音書の1章と2章に描かれているクリスマス物語の中ですでにヨハネについて語られたことをもう一度繰り返しているのです。それを今度は「洗礼、バプテスマ」という形に集約していくわけです。ヨハネという人物はヨセフスの古代戦記にも登場してくるよく知られた実在の人物でしたが、人々からは「洗礼者ヨハネ」と呼ばれていたのです。それほどに洗礼と言う行為については人々の注目を集める珍しい行為だったのです。言葉としても旧約聖書にも続編にも出て来ません。しかし洗礼という言葉ではありませんでしたけれども、ただ一箇所だけエゼキエル書の36章25節にこういう言葉が預言されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前達は清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」。ここは世の終わり、救い主が来て新しい救いが訪れる時、~が水の洗いをもって罪を清めるという預言であります。これは終末の時の一回限りの洗いであります。

 ヨハネが致しました「洗礼」というのは、この預言の中にあった、ただ一度限りの終末的な洗いを儀式的な形式で象徴するものでした。一人が一回限り受けるというのが、旧約の一般の律法に規定された清めの洗いとは違っている点でした。そしてそれは人間を命に至らせる悔い改め、つまり~の真実の救いの業に向き直らせる呼びかけとして聞くべき言葉です。~の救いの恵みのわざをしっかりと受け止めて、私たちを救わんとする~の真実の愛に向き合い応答せよというメッセージを聞き取ることが大事なのです。私たちがそのように受け止めることによって、そこから新しい救いの約束の時代に入っていくことを宣言したものなのです。福音の宣教はこの時に始まって、ずっと今日に至るまで続けられてきています。ですからきよう今日も教会の説教壇から語られる福音の告知は「説教」、ドイツ語では「プレディクト、預言」と呼ばれて来ました。

 説教は、長い沈黙の後に、生ける神がティベリウスの第一五年に語り始められてからずっと語り続けておられる~の言、その通路なのです。説教とは、この説教壇に立つ者は、その人の思想や、その人の願いや、その人の心の幻を語るのではありません。「~の言が降って」押さえつける事ができない、語らずにはおれない、そういう~のメッセージを取り次ぐのであります。

お祈りいたします。

 主なる神様。どうか、私たちの教会の説教壇に~の言葉が降りますように。また全国にありますルーテル教会の説教壇の上で、またすべてのキリスト教会の説教壇の上で、「~の言葉が降って」来ますように、その神の言葉を聞くことによって、私たちの心が~の霊に満たされ、~の恵みによる救いに生かされる者となりますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン


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