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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

礼拝説教 2021年5〜6月


2021.6.27「神の救いの言葉に立つ」マルコ5:21-43
2021.6.20「神とともにある平安の中で」」マルコ4:35-41
2021.6.13「先が見えなくても」マルコ4:26-34
2021.6.6「神の霊の人イエス」マルコ3:20-30
2021.5.30「さあ、新しく生きていこう」ヨハネ3:1-17
2021.5.21「生きる喜びへの転換」ヨハネ15;26,27,16:4-15
2021.5.16「私のために祈られる主イエス」ヨハネ17:6-19
2021.5.9「人々を生かす新しい愛の規範」ヨハネ15:9-17
2021.5.2「~の愛の招きに応えて」ヨハネ15:1-8 


「神の救いの救いの言葉に立つ」 マルコ5:21-43
2021.6.27
 大宮 陸孝 牧師
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(マルコによる福音書5章34節)
  マルコ福音書を断片的に読んでおりますが、本日の日課の前からの流れを見ますと、ガリラヤの湖を挟んでこちらの岸からゲラサ地方に赴きその途上、湖の上で突風を沈める出来事が起こります、この箇所は先週の礼拝の日課で取り上げたところです。そして、向こう岸のゲラサ地方で悪霊に取りつかれた人に出会い癒されたかと思うと、すぐさま、船に乗ってまた対岸へとって返しました。そこからが本日の日課の部分です。岸辺に戻ってきたイエスを群衆が取り囲みます。その直後にイエスの所にヤイロがやって来ました。差し迫った状況からすると、イエスが到着するのを待ちかねるようにして切羽詰まった思いで待っていたとも考えられます。「会堂長の一人」というヤイロの立場も、イエスという存在に強く批判的・対立的であったユダヤ教指導層であったにも拘わらず、事情の切迫はそうした背景を越えさせていたことを物語っています。ヤイロはひたむきにイエスにすが縋る思いをもって、イエスに働きかけ、語りかけていますが、イエスは無言で答えています。無言はイエスの場合決してヤイロを無視する行為ではなく、すぐに行動をもって答えるということですが、その様子から、イエス自身がいのちにかかわる切迫した緊急事態であることを、ヤイロよりも、他の誰よりもご存知であり、すぐに出かけるイエスの姿を示したものであります。

 群衆が押し迫る中を、イエスはヤイロの家への道をひたすら急ぎます。そこで女がイエスに近付き、イエスの服に触れます。イエスはそれを感じて、問いかけます。「私の服に触れたのはだれか」と。共同訳では同じ形の問いを弟子が繰り返しているのに、わざわざ違った訳し方をしています。イエスの問いは直訳すれば、「だれが私に、服に触れたのか」です。女の人の意図は「この人の服に触れれば」です。そしてその通りにしました。しかしイエスはそれを「服に」ではなく、「わたしに触れた」こととして感じているのです。このイエスの問いに応じるようにして、弟子は文字通り「だれがわたしに触れたのか」と問い返して、押し迫る群衆の中で、そういうことは当然起こることで、ことさら意に介するに当たらない、という反応を見せます。女が「服にでも触れれば」という気持ちは分かる。イエスがそれを「私に触れた」と感じた違いが重要なのですが、弟子たちは全くそのことに気付きません。ここにはこれまでも繰り返されて来た、弟子たちの無理解や不信仰の姿が描かれているのです。

 ここで強調されているのはこの場合「服に触れる」ことと「わたしに触れる」こととは本質的に違うということです。服にでも触れれば、と思っても、イエスにとってはまさにわたしに触れることであった。服に触れるという時、服はただ単にそれ「物」ですが、イエスの場合、それは「わたしに触れる」(つまり人格的な出会いを意味する)ことでありました。時の切迫の中でイエスが歩みを止めないまま起こっている偶発的な出来事(小さなハプニング)のような事柄の中に、イエスは「わたしとあなた」の、全人的関係と働きをもって立たれる姿が示されています。この女性のはかない、かすかな願いに全人格で相向い、この女性の全人格を捕らえて、その病を癒し、その人自身の本質的な問題を解決するということです。単なる人道主義の共感という見地ではありません。一般的な社会の中では汚れた者として排除され、社会生活にも礼拝にも復帰できなかったこの女性と、イエスが向き合うこの方向性に注目しなければならないでしょう。ですから、時の切迫の中でも、イエスはこの女性の前に立ち止まり、この女性と全人格的に向き合うのです。一瞬も失いたくない切迫した状況の中においても、イエスは敢えて歩みを中断して、立ちどまって女に直面し、まさに顔と顔とを合わせて向き合うのです。時間にしてわずか一瞬の出来事だったかも知れません。しかし、その一瞬は永遠に相当する、「~の時」の瞬間であったのです。~が働かれる出来事です。だから、~ご自身が働いて起こる「あなたの信仰があなたを救う」瞬間となるのです。信仰はほかのどのような仕方でも起こりえません。「信仰は私たちの内における~の働きである」と、そう信じて断言したのはルターでありました。(このことは13日の説教でも申し上げた通りです。)ですから、「安心してゆきなさい」も、わたしたちが口にする気休めのような、「大丈夫、大丈夫」という程度の意味では断じてありません。直訳すると「~の平安の中に向って行きなさい」です。~の働きと~の平安のもとで、イエスによる私たちへの具体的な生活の中での勧めと励ましの言葉が続きます。人にではなく、~の助けにこそ望みを置きなさい、と。

 時の切迫を中断しているときも、その一瞬に込めたイエスの全人的対応と働きがあります。そこでこの女性に起こったことは病の癒しだけではなく、神さまの決定的な働きの結果としての全人的な救いを信じるという信仰の出来事も起こったのです。~の救いの出来事に全身全霊で全人的に身を投じ、全幅の信頼を置いて身を委ねることが出来るようにされたのです。

 さて、切迫した事態の中での中断は、全てをおそすぎたものとしたかのように見えました。そうこうしている内に、ヤイロの家から使いが来て、少女は死んだという知らせを持ってきました。中断のせいで、とうとう死んでしまって、間に合わなかったのか、中断が無くても所詮間に合わなかったのか。ともかくここまでは来たものの「先生を煩わすには及ばないでしょう」という、諦めに似た言葉が続きます。イエスはこの知らせを傍らで聞いていて、ヤイロに「怖れることはない」とまず告げます。この表現にはいつも、「~がここに臨み、働かれる」という意味合いがあります。この愁嘆の場にも~は臨み、働いておられるのです。ですから、次には「ただ信じなさい」と続くのです。ルターはここを「ただ~の働きを受けなさい」と訳します。そして、これは4章から5章にかけて連続して起こる出来事を貫く信仰の基本的な姿勢です。

 そこでイエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけと共にヤイロの家に向かうことになります。ここからは他の弟子たちも群衆も同行しません。しかしそれでも、家には悲しみ、泣きわめく大勢の人々がいました。「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」というイエスのことばと、人々のあざ笑いとの対象、人間の悲しい常識と諦め。イエスはその人々をしりぞけます。

 少女の部屋にイエスと両親と三人の弟子たちとが入ります。ここでこそ、イエスは徹底的に積極的、行動的でありました。これが本日の福音書の日課の中での最大の、決定的な山場であります。少女の手を取る。声をかけ、「あなた」と呼びかける。「起きなさい」と言われる。そして少女は起き上がって、歩き出す。

 少女は十二歳、あの女性の病は十二年。赤ん坊が十二歳の少女となる年月、その成長、両親たちの慈しみ、将来への希望。そしてその少女の死の現実と絶望。それとは対照的な、女の物心両面での辛い、苦しい、病の十二年、希望のない将来。それぞれの切迫した状況の中で、イエスにおいて臨む~の現臨と働きがあります。この~の働きの中でのみ、信仰は起こり、また出来事となるのです。そこでは人間の行動も理性も排除される。イエス・キリストにおける恵みによる~の義認と救いの働き、~による人間の受容、その信仰における受容は、ただ信仰義認の「論理」の問題ではありません。生死を含めた人間の現実に臨む~の働きの真実に他ならないのです。こうして人間の病と死をすら支配するイエスは、人間の時間の切迫の中で、時間をも越えて時を支配する方であることをここで明らかにしておられるのです。

 少女は歩き出しましたから、人々はそれを見て、「驚きのあまり我を忘れた」。つまり事態は人々の前に明らかとなっています。更にそれは広く拡がって行かざるを得ない、隠しようのない事実であり、かつ真実であります。しかしイエスは「このことをだれにも知らせないようにと厳しく命じられ」たとあります。秘密保持の命令です。人々に共有されてしまっている事実をどのようにして人々に秘密に出来るというのでしょうか。連続して重なった三つの出来事によって示されているのは、「この人(イエス)はだれか」という問いに対する答え、「この人は救い主」ということであります。これは明らかにされていると同時に隠されている~の真理、~の真実です。ペトロをはじめ弟子たちはまだこの答え、この秘密を垣間見たに過ぎません。もっと明らかに、もっとその核心に迫る形で見えて来る時まで、この秘密、この秘義の保持が命じられているのです。これは弟子たちにとっても生涯にわたる信仰の課題となったことでした。この出来事はあなたがた一人一人の内にこれから起こることなのだと主イエスは弟子たち一人一人の生涯の信仰の歩みを見通しておられたのです。

 まずペトロが「あなたは、メシアです」(8章29節)と告白することに至ります。さらに、三度にわたる主ご自身の受難予告に対しても無理解であった弟子たち、主の捕縛の際に逃げ去った弟子たちが、主の十字架上の死と復活を経て、主の宣教の委託に応えて主体的に宣教していく展開を待たなければなりませんでした。使徒言行録でさえも依然としてその途上の記録であります。ひとたびのイエスによる禁止命令を受けた弟子たちは、その禁止命令を破られた後、生涯を懸けて、その秘密とは、自らの内に働く~の救いの出来事のことであったのだと確認し、またその秘密を宣べ伝え続けて行く。これはキリストの証人であろうとする私たちにとっても同じことが言えるのです。弟子たちに起こっていることはあなたに起こっていることですよと。救いの完成の時を目指して歩む私たちのこの世での信仰の課題とは、それは主の救いの言葉に立つということなのです。

祈ります。
  主よ、あなたはみ言葉によって、私たちを、死を越える新しいいのちに呼び出し てくださいます。その救いを心から信じて生涯を歩んで行くことが出来るように して下さい。
   救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
 
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「神とともにある平安の中で」 マルコ4:35-41
2021.6.20
 大宮 陸孝 牧師
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコによる福音書4章39節)
  マルコ福音書は、イエスがガリラヤ湖を舟で行き来して活動する様子を繰り返し語っていますが、これはその最初のものです。その出来事は、「その日の夕方」(35節)のことでした。その日とは、イエスが舟の上から岸辺に集まったおびただしい群衆に向かって、「『種を蒔く人』のたとえ」など数々のたとえを語られた長い一日のことです。それについては先週主日の説教で取り上げました。イエスはこの日一日説教され、~の国について語り続けられました。その説教壇になったのは、弟子たちの舟でありました。余りにおびただしい群衆が岸辺に押し寄せて来たので、舟に乗って距離を保たなければならなかったのです。夕方になるとイエスは、「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに言われました。そこで「弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出し」(36節)ました。その日イエスは一日中舟の上から群衆に話していたので、そのまま船出したということでしょう。

 イエスは群衆から離れて弟子たちとだけで舟に乗って向こう岸へ行こうとされたのです。主イエスはおそらく、押し寄せて来る群衆に話をされ、一区切りついた所で、疲れを覚えたのでしょう。艫の方で枕をしてうとうとしているうちに、深く眠り込んでしまわれました。これは、長い一日の宣教によって疲労の極に達し、前後不覚の眠りに陥ってしまったというのが事実なのかも知れません。弟子たちは「イエスを乗せたまま漕ぎ出した」という表現は、寝込んでしまわれたイエスをそっとそのままにして弟子たちが船出した、という意味かも知れません。イエスを無理に起こさずに言われたままに舟をこぎ出したのは、弟子たちの主イエスをいたわる優しさと見ることができます。36節には、「他の舟も一緒であった」とありますが、誰が乗っていたのかは分かりません。イエスの話をもっと聞きたいと思う人々が、舟に乗ってついてきていたのかも知れません。しかしその舟の話はそこで終わり、話は、「激しい突風」(37節)に襲われたという出来事に移ります。

 ガリラヤ湖では時として異変が生じることがあるようです。突然吹き荒れる突風とは、日没後に、突如北あるいは北東から吹き降ろす突風で、この突風が嵐を巻き起こすことがあるようです。この現象は、雨が激しい時だけではなく、晴れている時にも見られるようです。この突風は、ガリラヤ湖が海面から200メートル以上低い場所にあるという、地理的に特殊な環境によるものです。熱い地方ですから天気のよい日には、昼間に強烈な直射日光を受けると湖面の水温が上昇し、その上の空気を熱して上昇気流となりそして夕暮れになると、東岸の崖の上空の空気がにわかに冷却し、崖の斜面から突如突風が、湖面に吹き下ろす現象が起こるのだそうです。マルコはこの突風を「激しい突風」と表現してその激しさを強調しています。ガリラヤ湖の漁師たちは、この突風を非常に恐れていましたので、突風になる兆しも当然わきまえていたと思われます。しかし、ここには、弟子たちの狼狽振りと主イエスの靜かで落ち着いた様子が、実に対照的に描かれております。

 「舟は波をかぶって、水浸しになるほど」(37節)になりました。これは、激しい風になり、波がざぶざぶと舟の中まで打ち込んできていまにも舟に満ちそうになったということです。弟子たちには、これは自分たちの力を超えるとんでもないことが起こっていると分かったのでしょう。いつもとは違う激しさに、弟子たちは、舟が沈むのではないかと恐怖を覚える程であったろうと思います。

 「しかし、イエスはとも艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)とあります。「とも艫の方」は舟の後方にあり、少し高くなっていますから、あまり波がかかりません。多分イエスは、そこで舟を漕ぐ人たちが漕ぐために使う座布団のようなものを枕にして眠っておられたのです。「とも艫の方」は、船頭が座る大切な場所で、そこには舟を操る舵もありました。イエスはいうなれば弟子たちの運命を握ったまま深い眠りに陥っておられたのです。そこに非常に突発的な激しい風が起きて、舟に乗っていた弟子たちは慌てふためいたということです。

 しかし、こうなるまでには、少しの時間があったのではないかと思われます。イエスと行動を共にしている弟子たちの中には漁師だった人たちもいて、彼らにとってガリラヤ湖は日常の働き場であった。舟を操って魚を取るのが彼らの職業でしたから、ガリラヤ湖のこうした突発現象についても、経験があったに違いありません。そのような場合に、彼らは日頃の鍛錬と技によって、風を巧みに切り抜けて来たものと思われます。ところが今回の嵐は、彼らの日頃培って来た技では克服できない大きなものであったのです。彼らはあらゆる手をつくしましたが、いよいよ舟が危なくなりました。

 弟子たちは恐れにとりつかれ、もはや舟を漕ぐ力の限界を感じ危機感を募らせます。どうしようもなくなった弟子たちはイエスのもとに来て、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」といいながらイエスを起こしました。漁師だった弟子たちですら、今や遭難を恐れずにはおれなかったほど事態は深刻であったのです。ところが助けを懇願するこの言葉には、いくらかの非難が込められているのが感じられます。我々はいま必死になっても命が危ない状況に立ち至っているのにあなたはねむっておられるのですか、という非難の響きがあります。漁師上がりの弟子たちは舟のことに全く自信満々でした。向こう岸へ渡るためには、舟の中のイエスの存在は全く不必要くらいに考えていました。ところが嵐に遭うとき、自信の根拠であった知識や経験や技術は、かえって恐怖と絶望の原因でしかありませんでした。彼らは今までその存在を忘れていたイエス・キリストにすが縋りつきます。キリストが一緒におられることの意味を再発見しようとあがくのです。しかし、その時キリストは眠っておられました。

 この場面で、私はこれとは反対の場合を想い出します。ゲッセマネの園の夜のことです。主イエスがひとり目覚めて憂い、苦悩し、祈り、弟子たちはみな眠りこけている場面です。目覚めていなければならないところで目覚めることがなかった弟子たちは、眠っていてよい状況の中で、不安と焦燥に駆られ、眠れませんでした。真に悲しむべき罪と不信仰の問題には悲しまず。世の小さい出来事に悲しんでいるのが弟子たちであり、また私たちなのではないでしょうか。

 主イエスは直ちに「起き上がって、風をしかり、湖に『黙れ、静まれ』と言われ」ました。この叱るという言葉は、旧約聖書では、主なる神が人間を脅かす諸々の力をしつ叱た咤されるのに使われている言葉です(詩篇106:9)。ここでイエスは、嵐や海に対して力をふるう主なる神と同じように振る舞っています。イエスは、父なる神に祈って嵐を静めてもらうのではなく、自分自身の言葉でそれを行います。すでに1章25節では、悪霊に取り憑かれた人に向かってイエスが「黙れ」と言われ、また悪霊に「出て行け」と命じられたという記事が出て来ました。39節の「黙れ、静まれ」という言葉は、イエスがここで悪霊を追放されたときの言葉と同じ言葉です。このことは、嵐の背後に、人々の命をねらうかのような悪霊の力が働いていると人々が恐れていたことを意味するものです。湖に向かって言われた「黙れ、静まれ」という言葉は、そのような自然の驚異に対しても、イエスはそれを圧倒する力を持つ方として行動されたということです。イエスに対する悪霊の総攻撃のような突風は、イエスの権威を伴った命令によって静められます。

 「すると、風はやみ、すっかりなぎ凪にな」りました。驚くべきことに、プロの漁師たちすら力に余ると思い、滅ぼされるのではないかと恐れたほどの嵐が、イエスの一声でたちまち静められてしまったのです。イエスが叱ると、嵐は過ぎ去り、大きな静けさが生じました。このようにイエスは、弟子たちが嵐の中でイエスに呼び求めるときに、救いの手を差し伸べる力を持った方であることを示されました。

 なぎ凪になってからイエスは、弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)と言われました。本来であれば、危機から救われたことに対する喜びの声が上がってもよいと思われる所で、弟子たちはイエスに「なぜ怖がるのか」と叱責されたのです。イエスが弟子たちに向かってお叱りになったのは、弟子たちの非難めいた言葉に対してではありません。「まだ信じないのか」という言葉にありますように、むしろ、彼らが嵐を恐れて慌てふためき、不安と絶望に陥ってしまった信仰の無さに対してです。恐れ動揺する必要のない理由は主イエスが権威をもって弟子たちと共にいるからです。イエスの日頃の教えをすっかり忘れて、目の前の突発的な出来事に慌てふためくとはどういうことかとイエスは言われているのです。イエスは、弟子たちがイエスを信じないから怖くなったのだとおっしゃったのです。

 なぜここで弟子たちは、イエスに信仰がないと言われたのでしょうか。ある人は、弟子たちはイエスがそこにおられるのに、イエスがそこにおられないかのようにあわてふためいてしまったからだと言います。そこに~がおられるのに、~がおられないかのようにあわてふためいたからということです。

 弟子たちがあわてふためいてイエスを起こそうとしたのは、自分たちの力は尽きて滅びの霊に脅かされているが、この先生は既に多くの病気を癒し悪霊を追い払った方だから、この方に頼めば助けてくれると考えたからでしょう。しかし、それはイエスを心から信じて起こしたということではなかったのです。わたしたちがこんなにはらはらして必死になっているのに、なぜ私たちのことを放っておくのかという思いからです。このうろたえの中に、イエスに対する信頼や信仰は見えないのです。

 主イエスはここで弟子たちに信仰とは何かということを示したかったのだと思います。それは私たちのあらゆる問題を、不安や心配の一切を神さまに委ねて行くということです。この「まだ信じないのか」という問いは、イエスへの信仰、イエスへの信頼の欠如を一方では明らかにしながら、他方では、早く信頼を確立するように弟子たちを促しています。イエスは、神の力に一切を委ねる心からの信頼を求めておられるのです。

 ここでイエスが弟子たちに求められていたのは何だったのか。イエスは弟子たちに舟を漕ぐのを任せて眠っておられた。弟子たちはイエスを運ぶ務めを与えられていたのですから、イエスの働きの一部を担って、今せっせと働くことではなかったかということです。そこで大切なことは、必要とされる所に踏みとどまり、イエスを信じる信仰を持ち続けるということです。確かにそのように弟子たちの信仰が問われていると言えます。

 主イエスが嵐を静めたことを体験した弟子たちは「非常に恐れ、『一体この方はどなたなのだろう。嵐や湖さえも従うではないか』と互いに言った」(41節)。とあります。この弟子たちの言葉は、危機から救われた喜びというよりも、怖れを現す言葉です。湖は静かになったのですから、弟子たちはもう怖れを捨てて和やかに振る舞ってもよかったのですけれども、いま弟子たちは、嵐を怖れたよりももっと激しい怖れに満たされています。これは嵐の中で臆病になっていることとは明らかに違います。~の臨在に触れた怖れです。今までに出会ったことのない存在に出会って、この方はいったい誰なのかと、私たちもまた改めて問わないわけにはいかなくなります。この奇跡物語はただ単に自然法則を超えた不思議な出来事として見るのではなく、~の語りかけ、問いかけとして聞いて行くことが大切なのです。

 弟子たちの「いったい、この方はどなたなのだろう」というこの問いに、主イエスはお答えになりませんでした。主イエスはやがて、受難の道を歩む御自身の姿を明確な言葉をもって語られるようになります。弟子たちは、イエスに対する期待が裏切られたような思いになって、イエスに躓き、ついにはこのイエスを捨ててしまいます。そして、イエスは人々に捨てられ、十字架に付けられて殺されます。そのイエスが死の中から呼び起こされます。ちょうどここに「イエスは起き上がって」と書いてありますように、イエスが死の眠りから立ち上がられて甦りの姿を示された時、弟子たちは、この方はどなたなのだろうとはついに言わなくなります。弟子たちを訪ねてくださったのは、甦りの主イエスでした。そしてそのことを弟子たちは喜んだだけではありません。自ら進んで、異邦の地に舟を乗り出すようにして伝道を初め、イエスとは誰かと語り続けたのです。イエスはあなたがたを訪ねておられると語り続け、証しし続けたのです。

 信仰を持つということは、イエスの弟子になることです。弟子になるということは、イエスを心から信頼して従って行くということです。信仰を持つことをここでは、イエスと共に舟に乗ることだと理解しています。昔から教会と舟は深く結びついていて、教会の会堂には舟を型どったものがいろいろあるようです。また説教壇が舟の形になっていたり、礼拝堂の壁に大きな舟が取り付けられているものもあるようです。そしてもっとはっきりしていることは、教会の会堂に来ることは舟に乗ることだという考え方です。教会の会堂に入って座る座席は、いわば舟の座席のようなものです。人々は、この会衆が座る席を昔から「舟」と呼びました。ここで私たちは共に舟に乗っていて、そこで礼拝をするのはイエスと共に船旅をする体験なのです。教会の会堂に来る時、私たちはイエスと同じ舟に乗るのです。そこでわたしたち自身が主の愛の奇跡にあずかり、その奇跡を喜ぶことができるようになるのです。そして私たちは、イエスの愛のうちに生きることを許されていることを感謝して、「互いに愛し合いなさい」という戒めを行うことを促されているのです。

お祈りします。
主よ、嵐に悩む私たちの舟に、共に乗り込んでください。私たちの苦難の中にある祈りをお聞きくださり、私たちのために立ち上がってください。
み子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン


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「先が見えなくとも」 マルコ4:26-34
2021.6.13
 大宮 陸孝 牧師
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコによる福音書4章30-32節)
  マルコによる福音書4章26節以下に入ります。「再び湖のほとりで」と場面の設定が行われます。マルコ福音書は何度も湖のほとりのイエスを描きます。最初の「4人の弟子の召命も「ガリラヤ湖のほとり」(1:16)でありましたし、次の弟子の召命も「再び湖のほとり」(2:13)でありました。それは、弟子の中心であったペテロとアンデレ、ヤコブ、ヨハネはもともと漁師でありましたので、湖のほとりで教えるという情景は実際にしばしば目にした光景であったにちがいありません。ですのでこの場面設定はごく自然であったと思われます。この4章の直前で「イエスが家に帰られると」(3:20)という展開になっていますので、場面はここで切り替わり、そして再三の「湖のほとり」となるわけです。この日の「湖のほとり」には普段とは違った情景がありました。そこには「おびただしい群衆」(1節)が押し迫ってきていました。それを避けるためでしょうかイエスは船の中に座り、そこから民衆に語りかけます。多分波は靜かで風も穏やかな日だったでありましょう。主イエスが腰掛けている舟は、弟子の誰かの持ち舟だったのかもしれません。湖の沖では網を打つ漁師の舟も見えたかもしれません。岸辺にはさざ波が寄せては返し、寄せては返していたでしょう。どこかで小鳥のさえずる声も聞こえていたかも知れません。何となくのどかな感じがします。しかし、風景としてはのどかでも、集まって来ていた群衆の気持ちは「のどか」とはほど遠かったのではないかと思われます。彼らには仕事があったでしょうし、女性ならば家事があったでしょう。それにもかかわらず、イエスの話を聞こうとして数えきれないほどの人々が集まっていたのです。その多くは生活に追われ、一日であっても仕事から離れればそれだけ生活が圧迫されるような人々であったでありましょう。炊事や洗濯も、一日として手の抜けない仕事であります。それでも彼らはイエスのもとにやって来ていました。そうせざるを得ない「何か」が彼らの側にはあったからであります。この先でマルコはそういう人々を見たイエスが「飼い主のいない羊のような(群衆の)有様を深く憐れん」だ(6:34)と記していますが、ここに集まっていた群衆もおなじような人々だったと考えられます。

 この場面は、この箇所、「また、イエスは言われた」(26節)、「更に、イエスは言われた」(30節)という言葉で導入される二つのたとえが語られる状況でも、継続していると見られます。「イエスが1人になられた時、12人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて訪ねた」という「譬えを用いて話す理由」の10節の場面と、13節以下の「たとえの説明」の部分は編集者の挿入句と見られますので、この場面でのもともとのイエスの話は「一続きのたとえそのものの部分」であったと見ることができます。

 群衆はなにかを求めてイエスのもとに来ていました。お金と暇のある人はそう多くなかったはずです。そこには、癒やしを求めていた人もいたでありましょう。「悲しむ人々」もいたでしょう。「義に飢え渇く人々」もいたでしょう。総じて言いますと、「羊飼いのいない羊のような」人々とイエスの目には映っていたということです。

 ここでイエスは、「羊飼いのいない羊のような」人々に向けて二つのたとえを語られるのです。その一方は「~の国は次のようなものである」(26節)という言葉で導入され、もう一方は「~の国を何にたとえようか」(30節)という言葉で導入されています。どちらも「~の国」が主題です。「~の国」とは「~の支配」のことであります。言い換えますと、「~の意志が貫徹している」事態であり、状況です。集まって来ていた群衆の「差し当たっての関心」は、「~の支配」よりも、おそらくはもっと身近な、もっと緊急性のある、もっと具体的なものであったであろうと思われます。病気、貧困、不和、不正、争いなどがあり、明日の生活の心配などがあるでしょうし、とりあえず明日の生活の心配はなくとも、将来への不安もあるでしょう。政治的・経済的搾取を身近に感じることもあったかも知れません。もちろん人々の生活の中には、愛、善意、親切、自己犠牲、友情、助け合いなど、心温まるできごともあったでしょう。希望や勇気を与えてくれるような体験もあったでしょう。それにもかかわらず、心を凍らせるような出来事もありますし、希望や勇気をくじ挫くような経験も現実にあったに違いありません。理解を超えた不条理が人々を苦しめることもあったに違いありません。

 イエスはそのような人々を前にしてここで「~の国」の支配についてたとえで語っておられるのです。その背景には、しかし、どうしても~の支配が見えないという多くの人々の切実な経験があり、イエス自身としては先週話しました悪魔との対決があります。主イエスは「~の支配」に関して人々のこうした疑問、困惑を知った上で、このたとえを話したということです。

 最初のたとえは、蒔かれた種は人が何をしていても「ひとりでに」成長し、やがて「豊かな実」が実るが、人間には「どうしてそうなるか」分からない、というのが主要点です。「ひとりでに」とは、「種が本来持っている固有の原理によって」という意味ですが、それは種に内在する力から来ているということです。最初に種が蒔かれ(出発点)て、それはやがて豊かな実(結末)へと至ります。出発点は目に見える。それは種が蒔かれることだからです。また、結末も見える。豊かな実りだからです。しかし、その両端の間のプロセス(成長)は多くの場合ゆっくりとしており、「なぜ成長するのか」人間にはその理由が分かりません。

 根本的に言って人間に成長の理由がわからないのは、成長のプロセスが「命の育み」だからです。その種に命がなければ、土に蒔かれてもその種はやがて朽ちていく。しかし、その種に命があれば、種が土に蒔かれることによって、「ひとりでに」成長する。ひとりでに成長するのは、種に命があるからであり、生長は命の証しだからであります。人間は種を蒔くことができる。豊かな実りを収穫することもできる。しかし、命を左右することは人間には結局はできない。動物の命であれ、植物の命であれ、おおよそ命には常になにかしら神秘的な要素がつきまとっています。自然に触れるときにもその神秘を感じますが、とりわけ、新しい命の誕生の時にはその神秘を強く感じます。それは命を左右することは人間に委ねられた権限に属しているのではなく、もっぱら~の支配に属しているからです。わたしたちは命の神秘に驚きます。何らかの意味で~の尊厳の一端にそこで触れることになります。

 主イエスは「~の国」は、そのようなことに似ている、と語られます。~が命を造り、育み、成熟させる。同じように、「~の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という主イエスの宣教第一声(出発点)とそのイエスの再臨(結末、人間救済の完成)の間には、まだみえないが~の国が着実に前進しているプロセスがある。それが見えないのは確かに辛いことである。ときにはそのためにくじ挫けることもあろう。しかし、霧の中で何が見えなくとも、霧が晴れると目指す山頂が日の光に耀いて現れるように、「見えない」からといって、それが「ない」ということではありません。

 次のたとえも「~の国」が主題です。ここでのポイントは、先のたとえが「成長の謎」であったのに対して、「成長の巨大さ」であります。からし種のような小さな種から、空の鳥が巣を作るほどに大きな木が育つように、~の国もその発端は気づかれることがない程に小さくても、やがてこの世界の現実を圧倒する巨大な事実として出現する、というのです。(私はこのことを根拠にして、25年ほど前に賀茂川教会で『小ささを恐れず』と題した説教をしたことを記憶しています)

 主イエスのメシアとして活動を開始されるまでは隠されていたことが「時は満ち、~の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という主イエスの言葉で公然と始まった。「~の国の支配の告知」は、世界の歴史の中で見れば、非常に小さな発端であった。しかし、主イエスの復活後の弟子たちの働きによって教会が形成され、、教会は紆余曲折の道を辿りながらも、地中海世界に拡がり、、それは今でも、依然として紆余曲折な道を辿り、道に迷ったり、途方に暮れるようなことがあっても、それでもなお主イエスの御後に従う教会の歩みは続いてきました。

 教会と~の国の安易な同一視は間違いであることを教えてくれたのは、アウグスティヌスでありました。そして、それが致命的な過ちであることを教えてくれたのは、宗教改革者ルターであります。しかし、そうではあっても、いつの時代のどの教会も、使徒信条やニケヤ信条の信仰告白に従って、「私は教会を信じます」と告白してきました。神の国を告知している神の言葉が語られ、聞かれ、信じられる場所は、まずもって教会であります。ですから、教会は直ちに「神の国」ではないけれども、少なくとも神の国の「目じるし」ランドマークとなるところです。

 この賀茂川ルーテル教会にも主イエス・キリストが神の国の栄光を持って来ておられます。そして、さばきと赦しの大権を行使しておられます。古き人間を新しき人間に造りかえておられます。このことは最も秘められたことであります。人々は過去の日の偉大であったイエスについては知っているとしても、今日今ここに偉大な主権者として臨在し、民の集いを導き、慰め、癒やし、新らしい神の霊の命へと結び付けておられる生けるキリストを認めようとしません。そのようなものは見えないから、と言います。確かに、それは秘められています。そして最も秘められ・隠されたものであるがゆえに、しかし最も顕わな現実であります。神の国は人間の粉飾の世界の壁を破って、突如として現れる真実の世界であります。神が力強く働かれるところに、今ここでの現実として存在するものです。その現実を現実としてとらえるのが私たちの信仰であり、その現実を捕らえてそれに参与するのが私たちの教会であり、また礼拝であるのです。

 今の私たちの目に見える教会の現実はコロナ感染防止で共に集うことができないという事情があるとしても、神の愛によって生み出された霊的な教会共同体としての現実が厳としてここにあるのです。近いうちに、神が臨在されるここにまた共に集える日が来ます。その日を祈りをもって待ちましょう。

 そして、私たちが礼拝を通常にできるようになった後の教会の信仰の交わりについて、なお一つ、28節の主イエスが「土はひとりでに実を結ばせる」と言われたことに関して申し上げておかなければならないことがあります。5月23日の説教で私は、弁護者なる神の霊の働きに導かれる中で、私たち一人一人は救いとられ、信仰の共同体である教会が形成されていくと申し上げました。そしてさらに、6月6日の説教で、主イエスの前に立つ時、人は例外なく、そこでイエスは誰であるかを知り、イエスの言葉を聞き、信じて従っていくかどうかの態度決定を迫られる。主イエスの御言葉は、「あれかこれか」二者択一を問うものとして私たちにもその決断を迫っていると申し上げました。これはあくまでも神様が私たち一人一人個々人と向き合ってくださる中で起こることです。ですから信仰告白は私たち一人一人が自立的に、主体的に、一人の人間として神の前に立つ私たちの人格の内面に神さまが働きかけられている結果起こることなのだということを私たちはしっかりと認識していなければなりません。私においてもそうですし、他者においてもそうなのです。
 
 教会は羊飼いのいない羊の群れに神が憐れみをもってのぞ臨みたもう場所なのです。そういう意味でここ、賀茂川教会は神の家なのです。同じような人、同じような生き方をする人が、集まって同士的交わりを造り、それが固いものであればあるほど排他的になったり、区別したりするのは、人間の集まりの自然な成り行きかもしれません。しかし、このことを断じて許してはならない交わりがあります。教会の信仰の交わりです。教会は羊飼いのいない羊のような群れの真ん中に神さまご自身が憐れみ深く臨んでいてくださる場所です。ですから群れがたといまとまりのない集団であろうと、ばらばらであろうと、秩序がなく雑然としていようとそれでよいのです。教会の信仰の交わりは、同じ信仰に於いて結束するということではなく、あらゆる排他性を破ってゆく、このことにおいて志を同じくすることなのです。そして人々が一人一人憐れみの神と向き合うことが出来るように配慮していくことです。それが私たちにできる最高のもてなし(ホスピタリティー)です。

お祈りいたします。

天の父なる神さま。御子主イエスは、私たちの不真実の世界にその壁をつき破って、あなたの真実の愛をもって来てくださいました。主イエス・キリストによってもたらされたあなたの真実の愛が私たちの中に支配しますように、御国を来たらせてください。
御子主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン

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「神の霊の人イエス」 マルコ3:20-30
2021.6.6
 大宮 陸孝 牧師
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(マルコによる福音書3章28節)
  本日の福音書の日課の少し前3章7節から19節のところの、救いを求めて主イエスのもとに押し寄せる群衆と、主イエスの宣教活動に加わるために選ばれた12人の弟子と対照的に、3章20節から30節では、イエスについて「気が変になっている」と誤解する身内の人たちと、「ベルゼブルに取り付かれている」と中傷する律法学者たちが描かれます。身内の人たちがイエスを取り押さえに来たという21節は、31節から35節につながる形で伝えられていた伝承と考えられます。この21節と31節から35節の伝承の間に、マルコはサンドイッチのように22節から30節を組み込んだのでしょう。その22節から30節には、ベルゼブル論争と、聖霊を冒?する罪についての言葉が含まれています。

 20節では、群衆の間でのイエスの人気が再び取り上げられています。イエスが帰って来られた家に群衆が集まって来たため、イエスと弟子たちは食事をする暇もないほどでした。カファルナフムにおける伝道の拠点で、イエスの住まいとなっていた家は、「シモンとアンデレの家」(1:29節)と考えられます。イエスはその家で食事も寝室も提供されてくつろぐこともできたのでしょう。イエスは既にナザレの家を出ていて、多くの日々を巡廻伝道の旅に過ごしておられました。そしておそらくシモンとアンデレの家族を、御自分の家族のように愛しておられたものと思われます。

 そこに、イエスに否定的な判断を下す二組の人たちが登場します。それはまず21節の「身内の人たち」です。身内の人たちがイエスを「取り押さえに来た」のは、「あの男は気が変になっている」といううわさを耳にしたからです。「気が変になっている」というのは、本来あるべき所から外れて「正気を失っている」ということです。言い替えれば、常軌を逸しているということです。イエスを小さいときから知っている身内の人たちも、イエスは気が変になっているとお思い込んでいたのです。

 イエスの狂気をうわさする人々も、本当のイエスを理解できないでいました。イエスは人々が考えるような信仰の指導者ではなかったのです。イエスは~の福音のために生きておられるのですが、それが、おかしく気が変になっているように見えるのです。自分たちの考えに会わないと、あいつはおかしいのではないか、気が変になっているのではないかとレッテルを貼ることは今の世でもよくあることですが、イエスをおかしく気が変になっていると見なす人間が、かえってここで問われているのです。

 そしてさらに、「エルサレムから下って来た律法学者たち」がイエスを中傷します。彼らにとっても、イエスは手に余る存在で理解できなくなっていました。イエスは自分たちが期待するような~の民の指導者とは見えなくなっていたのです。律法学者たちにとって、イエスの始められたことが霊的な領域に属することは明らかで、イエスが霊的な力に満ちていることも否定できない事実でした。しかし、イエスは自分たちが期待するイメージからはみ出ており、彼らにはそこに~の霊が働いているとは思えなかったのです。そうとすれば、イエスは悪霊の仲間であり、しかもその中の指導者的な存在であると考えるよりほかにありませんでした。そこで「悪霊の頭」である「ベルゼベルに取り付かれている」と判断したのです。「ベルゼベルに取り付かれている」ということは、2000年前の人たちにとっては「気が変になっている」ことと同じでした。このように、イエスは神ではなく悪霊の仲間と判断され、気が変になっているというレッテルを貼られたのです。イエスが「~の国」を宣べ伝える道すがら、その都度の求めに応じて行ったと思われる病人や悪霊に衝かれた人を癒されたことが、一方では「~の子」としてのしるしであると見られ、他方では悪霊に取り憑かれている者のしるしとして疑いの目で見られました。

 23節には、「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。イエスが律法学者たちから呼ばれたのではなく、主イエスが彼らを呼び寄せたのです。3章6節でファリサイ派の人々はどのようにしてイエスを殺そうかと相談していたと語られていますが、このときの律法学者たちにも、イエスを裁き抹殺しようとする意図があったのでしょう。律法学者たちを呼び寄せた主イエスは、彼らの中傷が的外れであることをたとえを用いて証明します。それが24節の国のたとえと25節の家のたとえ、および27節の家財道具のたとえです。主イエスは、国のたとえを語り始められましたが、すぐに家のたとえに移られました。「国が内輪で争えばその国は成り立たない」ように、「家が内輪で争えば、その家は成り立たない」というのです。恐らく当時、「「ベルゼブル」という言葉は、「家の主人」である悪霊たちを連想させるものだったのでしょう。だからこそ、主イエスが家のたとえを語られたと推測されます。

 律法学者たちも認めざるを得なかったのは、主イエスによって、自分たちの力が及ばなかった悪霊に取り憑かれていた人々の解放が起こっていたということです。そこで彼らは、イエスが悪霊を追い出すことができたのは、悪霊の家の支配者であるベルゼブルの力を借りたからだと解釈したのです。しかしイエスは、それは内輪もめでしかなく、そんなことをすれば、家は内部分裂し破滅してしまうと言われます。主イエスは、国や家と同じように、サタンも「内輪もめして争えば」内部分裂して滅びてしまうと言うのです。ここで主イエスは明らかに悪霊の家となった人間は身も心も痛めつけられて滅びに定められるという、人間の滅びの現実を語っておられるのです。

 ここで思い起こさなければならないのは、マルコ福音書が成立した初代教会の状況です。教会の信仰者たちは、紀元70年にユダヤ戦争でエルサレムが陥落して間もない頃に生きていました。エルサレム陥落に至るまでのユダの国の内部は、ローマと戦ってその抑圧から解放されようとする戦闘派と、ローマと戦うべきではないとする和平派に相別れて、四分五裂という内部分裂の状況にありました。このように国全体が内部分裂した中にあって、教会の人たちは、分裂した国について語る24節を、自分たちの状況にあてはめて読まずにはおられなかったに違いありません。同じことは、分裂した家について語る25節にもあてはまります。ユダヤ戦争の間、戦闘派と和平派の抗争がなによりもまず家族の絆をズタズタに引き裂いたことは、『ユダヤ戦記』を書いたヨセフスの報告にある通りでした。教会の人たちにとって、25節の分裂した家は目の前の現実そのものだったということです。

 27節でイエスは「先ず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と激しい言葉を語られました。このたとえは、イエスを、強いものであるサタンを「縛り上げ」て、「その家を略奪する」サタン配下の諸々の悪霊を追放する者として示しています。イエスによってサタンは縛り上げられ、その家の家財道具、これは人格を奪われてサタンの所有になっている囚われの人々ということですが、その人々が解放されると宣言しているのです。そのように、人間存在を破壊する者を縛り上げるために、イエス御自身が押し入ってこられたのです。サタンや悪霊たちの支配のもとで苦しみもがく人たちを、御自分のもの、~のものとし、神の新しい命とのつながりを生きる者とするためです。

 ところで、サタン、ベルゼブル、悪霊というようなものは、現代においてはありえないと考えるかも知れません。わたしたちは、より合理的に考えるようになっていると思っています。しかし、現代の私たちは、本当に理性的に自由に生きることができるものとなっているだろうか。敗戦後75年といわれます。そんなに昔ではない75年前に、第二次世界大戦で多くの国と人が悪霊にとりつかれたように戦争に溺れた体験を持っています。また今の日本でも、あやしげな霊性(スピリチュアリティー)の専門家と称する人々や占い師たちが、大衆的なメディアによってもてはやされたりしています。明らかに現代社会もまた、ベルゼブルが跋扈するのを防ぐことができないでいます。しかし、まさにそこでイエスは、聖霊による戦いを続けられるのです。そして、弟子となって~の御心に従う戦いをする者を招いておられるのです。

 続いて28節で主イエスは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒?の言葉も、すべて赦される」と宣言されました。赦しの根拠は、主イエス御自身の解放の戦いとその勝利にあります。ここでは、「罪」と「冒?のことば」とが並べて語られています。罪とは隣人に対して、冒?は神に対して的外れであることです。隣人を愛することも~を愛することもできない罪です。人間の悲惨はそこに生まれるのですが、そこにこそ私たちの気が変になっている現実があるとイエスは見ているのです。私たちはくつろぐことができる本来の家を失っています。主イエスは、その私たちを御自身の家に迎え、~の家族としてくださるために戦っておられるのです。

 29節では、「聖霊を冒?する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ことを告げます。主イエスはこの言葉によって、悪霊追放を通して~の支配を宣教する主イエスを、~ではなくサタンの力にあずかる者と判断した律法学者たちを厳しく拒絶されました。「聖霊を冒?する」とは、具体的には、イエスに向かって「ベルゼブルに取り付かれている」と中傷することに他なりません。主イエスにおける聖霊の働きをベルゼブルの働きと曲解することは、ヨルダン川の洗礼の際に聖霊を与えられている神の子イエスを、「汚れた霊にとりつかれている」者と見なすことを意味します。そのように「聖霊を冒?する者」は、現に実現し始めている救いの出来事を否定するものです。ですから、他のどんなことも赦されるにしても、イエスにおいて始まっている救いの御業を、汚れた霊の業と見て聖霊を冒?することだけは致命的で、永遠に赦されることはないのです。

 30節までに語られていることは、このような戦いをしながら人々を招かれるイエスとは誰か、ということです。イエスは最も身近であった身内の人たちや、信仰の指導者である律法学者たちから全く理解されず、むしろ、彼らは群衆に先立ってイエスに躓いてしまいました。自分たちをつまづかせる者に対しては、受け入れられない思いや排除したい思いが生じます。イエスは既にここで律法学者たちの、イエスを抹殺しようとする殺意と向かい合っておられます。そして、イエスはそこで御自分が誰であるかを告げておられるのです。
(イエスさまとは誰かという主題はマルコ福音書では全体にわたって何度も登場してくる主題です。7月11日の日課ではこの主題が大きく取り上げられます。)

 ここで、主イエスにおいて神の霊の働きを見るか否かが問われます。何が本当のことであり、何が本物であるかを見分けるのは難しいものですが、イエスという存在は、私たちが本当の命に生きることができるかどうかの分かれ道なのです。主イエスの前に立つ時、人は例外なく、主イエスを信じて従っていくかどうかの態度決定を迫られるのです。そこで私たちも、イエスは誰であるかを知り、イエスの言葉を聞いて従って行くかどうかが問われるのです。それはナザレのイエスによる救いの出来事を信じて受け入れるかどうかということです。イエスの御言葉は、「あれかこれか」二者択一を問うものとして私たちにもその決断を迫っているのです。

お祈りいたします。

天の父なる神さま。私たちの内に働く悪霊の力を、御子救い主イエスによって無力にしてくださり、私たちをあなたの恵みの支配に服する者としてください。

私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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「さあ、新しく生きていこう」 ヨハネ3:1-17
2021.5.30
 大宮 陸孝 牧師
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)
 先週の主日はペンテコステと呼ばれる記念の主日でした。ペンテコステは、神の聖霊の働きによって地上に新しく「教会」が誕生したことを記念し、神に感謝する日であります。使徒言行録によりますと、ごく少数のキリスト者が集まり祈っている時、神の聖霊が与えられ、人々は新しく教会を生み出して行ったと伝えられています。人の思いや努力や計画などと共に、それを超えて、神の聖霊の働きによってこそ、教会が誕生したことが告げられています。教会の誕生に至るまで、ユダヤの民族は、何千年にも渡って神を信じ、歴史の中を生きて来ました。人々は厳格に律法の教えを守り、伝統を重んじ、何よりも自分たちは神によって選ばれた民であることを誇りに生きていました。この「選民意識」を、ユダヤ人だけでなく、日本人も持っていた歴史があります。また、多くの民族にもその傾向が見られます。そのような「選民意識」は、自分たちの民族の尊厳と誇りを持つ一つの表れではあるのでしょうけれども、同時に、その意識は特権意識を生み、自分たちと違う者を排除し受け入れないという排他的な生き方を生みやすいということでもあります。(このような傾向のことを原理主義と呼びます)イエスの時代に生きていた多くのユダヤ人は、その意味で、イエスが示した~の愛、新しい命に触れても、今までの律法学者や伝統から自由になれないで、イエスの語りかけと生き方を受け入れることができませんでした。むしろ「選ばれた民」としての正当性を主張し、律法を基準に、それに合わない者を排除し、排他的になっていきました。

 しかしそういう人々の中で、少数の人々、貧しく、この世的には地位も力も持たない弱い人々、社会の不公正と悪によって弱くされた人々によって革新的なことが引き起こされていきました。始めは、当時のユダヤの女性たちによってでした。彼女たちは、イエスが十字架で殺され、すべてが敗北に終わったと見える墓の前で失意の中にいた時、「イエスは甦りの命を与えられ、生きておられる」という福音を与えられました。その福音は、受け入れがたいものでした。けれども彼女たちは、神から与えられる生命によって突き動かされ、立ち上がりました。そして今も生きて共にいてくださるイエスを受け入れ、宣べ伝え始めました。 その後、人々が集まり祈っている時、神の聖霊が与えられ「教会」が地上に誕生したと語られています。イエスを十字架につけたローマ世界の中において、教会に連なる人々は一握りにも満たない小さな群れでした。しかしその一人一人の歩みが神さまに用いられていきました。そして小さな群れを生かす~の愛は、次第に、多様な文化の殻を突き破り、静かに、力強く拡がって行ったのです。

 マタイ福音書24章が語っていますように、当時の社会的状況を垣間見ても、人々はローマの支配のもとで、さまざまな暴力や人間の尊厳が奪われるような状況の中で苦しみ、互いの間に「対立」や「敵対」また争いが絶えなかったと思われます。また人々の間に裏切りと憎しみがあふれ、弱い人々が差別され、権威をふりかざす人々に苦しめられていました。このことはまさに現代の状況に似ていると思います。そのような状況の中で教会に集う人々も、目を覚ましていないと、この世のあり方に迎合し、神への信頼と希望を失ってしまうと言われています。そして、マタイ24章13節では「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と主イエスは語っておられます。ただ単にじっと殻の中に閉じこもって耐え忍ぶのではなく、神の愛に止まり続ける、どんなことがあっても神を信頼し、主イエスと共に生きていこうと語りかけています。自分の悩みや重荷につぶされそうになっても、決してあきらめない。愚直なまでに~の愛を信じて生きて行こうと語りかけるのです。この語りかけは現代に生きるわたしたちへの語りかけとして心に迫って来るものがあります。

 ペンテコステの出来事はこのようにして、二千年の歴史を超え、民族や国を超え、日本の各地にも教会が形づくられ、私たちのそれぞれの教会にも引き起こされている事実です。今も、神は生命の息吹を教会に注ぎ、私たちを~の愛に生かしてくださっています。組織としてみれば、実に力なく弱く、過ちを繰り返す私たちの教会です。少数者の群れです。そこに連なる私たちも、弱く小さな者でしかありません。けれども、その小さく弱さを持つ教会、私たち一人一人の中に、神によって生命が与えられ生かしていただいて、多様な教会が、それぞれの地域に誕生していったことは、本当に不思議なことです。この教会がこの地に誕生するまでには、多くの信仰の先達者達が祈り、努力し、その人々を突き動かす神の聖霊の働きがあったと思わざるをえません。

 また教会に様々な重荷や悩み苦しみを抱える人が導かれ、教会に連なってきました。その一人一人が、神の息吹を与えられ、新しく生きようとする力を与えられて来ました。一人一人は小さく弱く、力ない人々です。けれども、その一人一人がイエスに繋がって歩もうとし、神を信じて困難を乗り越え、「さあ、新しく生きよう」という生命と力を与えられて活かされて来ました。

 本日の聖書の中に、そのような人として「ニコデモ」という人が登場します。暗い夜にそっとイエスのもとに来たニコデモという人とイエスとの対話の物語が語られています。「夜」という言葉は、ヨハネ福音書では、暗闇とか不安の現実を象徴的に示す言葉です。ニコデモは、ユダヤ教ファリサイ派の指導者の一人でした。しかし彼が、「夜」密かにイエスのもとに来たというのは、彼が暗い思いを持ち、悩みや不安に心塞がれ、新しく生きる道を失っていることを示しています。彼がこれまでに努力し手に入れてきた地位や財産、知識や経験などは、彼の支えや救いにならなかったということでしょうか。

 この物語を見ますと、主イエスはニコデモに向かって「人が新しく生きるためには、水と霊によって新しく生まれ変わらなければならない」と語りかけます。「水」というのは、「洗礼」を示していると思われます。神を信じて新た信仰に生きようとする一つの出発点というべきものです。「洗礼」は、人生が救われて新しく生きる「しるし」として、全くの無条件の恵みとして与えられます。主イエスが示す神とその愛を信じ、自分の人生を自分の力で生きていこうという志を取り除かれて、まったくの無条件の~の愛として洗礼を与えられます。その洗礼は、これを知らなければ、これだけの条件を整えなければ、資格を獲得するためにこれだけの努力をしなければなど一切の条件や功績や資格を超えた、神による「無償」の恵みです。新しく人生を歩み出したい。喜びの時も悲しみの時も、感謝の時も不安と悩みの時も、どのような時にも神はこのような自分を受け入れ、あるがままの「私」を愛していてくださる。その神を信じ、主イエスと共にまた主イエスの歩んだ道に繋がって歩んでいきたい。そのような思いを与えられた人は、この無償の恵みとしての洗礼を受ける祝福に招かれているのです。

 その出来事を与えてくださるのが、~の霊の働きというより他にありません。「水」と共に「霊」と言われるのは、新しく生きていきたいと求める人に働きかける神の霊の力のことです。また8節を見ますと「風は思いのままに吹く」とあります。この「風」という言葉もまた、神の働きとしての聖霊を示しています。様々な問題や課題を抱えて疲れ果て、人生に希望を見いだせなくなっている人が、「さあ、新しく生きて行こう」という思いを与えられるのは、まさに聖霊の働きによると主イエスは語っておられるのです。

 「風は思いのままに吹く」という主イエスの語りかけを思い巡らしていて、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』に出て来る一説「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩を思い起こします。多くの人が心打たれてきた詩です。詩の中に、生きることに疲れ果てた人が出てきます。作者自身かも知れません。その人は、何の希望もなく寂しさと苦しみの日々を過ごしています。その日常の中で、ふっと、どこからか吹いてきた風を感じ、「新しく生きて行こう」という「生きることへの衝動」を感じさせられます。この魂を突き動かす生への衝動が、短い言葉の中に凝縮されているのです。

 よく知られていますように、このヴァレリーの詩を題材にして、作家堀辰雄が『風立ちぬ』という小説を書きました。結核を病んで療養する節子という若い女性と婚約者との物語です。節子は、生きる希望を失っています。そして、自分の命の灯が消えていく予感に底知れない不安を感じています。しかしその時、ふっと一筋の風に吹かれて、消えかかる灯心を燃え立たせる何かが生まれて来る思いを与えられます。

 ある日、二人が散歩している時、節子は、「私、なんだか急に生きたくなった……」と言います。そして彼女は小さな声で付け加えます。「あなたのおかげで…」と。愛する人との触れ合いの中で、それが家族であれ友人であれ、その人に「愛されている」「大切な人」と思われていることは、悩み苦しむ人の人生に生きる意欲と勇気をもたらし、「生きていきたい」という命の衝動を引き起こすことが確かにあるということです。

 彼女は、これからどれだけの人生の時間を生きていけるか分かりません。しかし、時間の長さ短さではなく、「なんだか生きたくなった」という彼女の言葉に、「再生への胎動」を感じさせるものが示されているように思います。また「今」という時間を自分の人生として「生きよう」とする無限の尊さが凝縮されているとも思います。

 私たちの身近にも、また知らない所でも、さまざまな思い悩みを抱えながらも、「今」という時を受けとめ、神さまに「再生への胎動」を与えられて生きようとしている人がいると思います。時には必死に何かを求めながら、その場で立ち上がり、「新しく生きよう」とする人がいると思います。

 ニコデモの場合はどうであったのでしょうか。彼はファリサイ派の指導者です。恐らく彼は、豊かな知性と知識を持ち、一定の地位と立場を持っていたと思われます。物語によりますと、その彼が、「夜」そっとイエスのもとに来たのです。彼は外から見ますと恵まれた状況の中で生き、与えられた能力や経験を持って表舞台に生きていた人です。しかしその陰で、満たされない乾きを持ち、「何か」を求めていました。

 そこで主イエスは、彼に向かって「よくよくあなたに言っておく、誰でも新しく生まれなければ~の国を見ることができない」と語りかけます。新しく生きる者になりなさい。と言われたのです。主イエスは私たちに対しても、このように語りかけておられるのではないでしょうか。「あなたはいろいろと思い煩い、様々なことに思い悩んでいる。しかし、今あなたに必要なことは、過去に縛られないで『今』を生きることだ。精一杯に自分のできることをしたら、後は~に委ねなさい。委ねることができるのだ。後ろのものを忘れ、前に向かって新しく生きてゆきなさい。さあ、一緒に生きて行こう」と。そして、「水と霊から生まれること」、洗礼の恵みと~の聖霊の働きが必ずあることを語っておられるのです。

 私たちは、確かに厳しい問題に直面し、背負いきれない悩みや重荷につぶされそうになることがあります。不条理なことに打ちのめされることもあります。そのような時、挫折や諦め、また虚しさを突き抜けて、「さあ、新しく生きていこう」という主イエスによる促しの声を与えられるのです。

 すべてのものをお造りになった創造主なる~、あなたを造り、生かしたもう~が、人の小さな思いを超えて、私たちに「さあ、新しく生きていこう」と聖霊の働きを送っていてくださるのです。その働きを全身で受けとめて、多くの問題に満ちた社会の現実の中で、それらの問題に向き合い、戦いながら、私たちが出会う一人一人に「さあ、新しく生きて行こう」と語りかけ、主イエスと共に生きて行こうと思います。

お祈りをします。

天の父なる神さま。
本日新たにあなたの御子イエスの十字架の救いの御恵みをお示し頂いて、心より感謝申し上げます。わたしたち、孤独の中で人生をどのように歩んで行くかおじ惑うようなその時に、私たちの罪の重荷を引き受けて、ただ一人、孤独に耐え、私たちのいかんともしがたい罪に破れた姿を贖いだし、恵みの御手の中に受けとめてくださっていますことを感謝申し上げます。この主の恵みが新たに私たちの心に溢れて、わたしたちが新たにされ、望みを抱き、勇気を与えられ、主イエスがお示しくださいましたこの世に仕えながら新しく生きる道を、私たちが辿ることができますように、どうぞ、今週の信仰の歩みをその様に生きることが出来る命の力を与えてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン

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「生きる喜びへの転換」 ヨハネ15:26,27, 16:4-15
2021.5.23
 大宮 陸孝 牧師
「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネによる福音書17章11節)
   先週主日には、私たちはヨハネ福音書17章の主イエスの執り成しの祈りの所を読みました。本日はそこから逆戻りするかたちで、15章26・27節と16章4節後半から15節までの所を日課としています。ヨハネ福音書16章のこの箇所を理解するためには、まずこれが占めている位置と前後の関係、そして論旨の流れを見ておかなくてはなりません。ヨハネ福音書は第13章1節で新しい局面に入ります。この節でイエスの「時」が来たことをはっきりと打ち出します。ここに至るまでにユダヤ教指導者たちは再三イエスを捕らえようとしますが、その度に主イエスは切り抜けて宣教活動を続けることが出来るのでありますが、それはイエスの「時」がまだ来ていないからだと説明されます。(7:30、8:2参照)。この説明はユダヤ教指導者たちによる度重なる妨害にもかかわらずイエスが語り続けることができた理由を述べていると同時に、イエスの宣教にいずれ終止符が打たれることをも予め示しています。そして来たるべきその「時」に向って進む主イエスの歩みを描きながら、次第に緊張の度を高めて行くのです。第13章1節で、イエスの時とはイエスがこの世の悪の力と対決して苦難の死を遂げ、父なる神のもとに帰るという、イエスの生の最も重要で厳粛な時、つまり苦難と栄光の時であることが示されるのです。

 その後イエスは迫り来る危機を目前にしながら、世に残されて戸惑い不安に陥るでありましょう弟子たちに心をこめた別れの言葉を与えます。これが13章の31節から第16章33節までの長きに亘る別れの説教であり、語り終えた後、17章1節「父よ時が来ました」と~に祈るのであります。ですから13章1節〜17章1節は一つの囲みをなしているということがわかります。「イエスの時」を語るこの囲みの中で、第16章2節と4節は「彼らの時」について語ります。「彼ら」とはユダヤの指導者であります。この二つの箇所によればイエスを苦しめた者たちは主イエスが世を去ったのち更に力をふるって弟子たちを圧迫して、殉教の死にまで追い込むことになるということですから、主イエスが弟子たち(信仰者たち)のもとを離れ去ることは、弟子たちにとってただちに苦難の事態となるのでありますが、しかしそのことがかえって「益となるのだ」といいます。なぜならば主イエスが去ることによって、助け主(聖霊)が信仰者のもとに来るからである(16章7節)と。主イエスの時が苦難と栄光の時であるように、「ユダヤ教指導者たちの時」も信仰者にとってイエス不在と苦難のときでありながら、助け主を与えられるという二重の意味を持つ時であると、「時」を媒介にして、イエスの最後の場面と教会の場面とを重ね合わせているのです。そして苦難を受け、助け主に支えられることになる弟子とは、イエスの生と死を直接に経験した弟子たちだけをいうのではなく、ユダヤ教の弾圧の中でイエスへの信仰を貫く当時のキリスト者たちのことであって、その教会の人たちの苦難の状況を描きながら、進むべき道を描き出し、信仰者に語りかけ励ましているのであります。

 ということで、主イエスは今不安に沈む弟子たちに対して、ご自身の別離と助け主の到来を告げるのですが、この二つのことは表と裏の関係になっていて、一方がなければ他方も存在しないということであります。イエス様が十字架の苦難と死を通り父のもとに帰ることが人々を救うための必然であれば、主イエスが去られてから後弟子たちのところへ助け主が遣わされて来るのも必然なのだ、つまり~の御心なのだと主イエスは言っておられるのです。この宣言を私たちがこの福音書の中に読むということは、イエスも助け主も今はもう過去のものとなった出来事を振り返ってみるというのではなく、確かにかつて2000年前に起こった出来事でありながら、しかも「今」信仰者がイエスの言葉を聴く時点に起こることでもあるということです。~の御言葉は私たちの歴史を貫いて永遠に出来事となる。そういう~の御心なのですから、この言葉を聞いている私たちの中でも、いままさに起こりつつある出来事なのです。~の救いの時とは、今を生きて働く~の創造のときのことです。十字架の死・復活・昇天・再臨という伝統的な時間空間の枠を超え、歴史的な制約を超えて助け主は今私たちのただ中で~の愛の力をもって生きて働いておられるとイエスは御自分を証ししておられるのです。

 助け主は「真理の御霊」、「聖霊」とも言われておりますが、イエスが去ったのち信仰者と共にいて彼らを導き助ける御霊のことでありますが、それは大きく分けて二つの働きをすることが述べられます。一つは信仰者に対する助けの働きと、二つにはこの世に対する働きであります。8節から11節はこの世に対して働く聖霊の働きについて語られております。それによりますと、助け主はこの世の罪を仮借なく暴き告発します。8節に「世の人々の過ちを明らかにする」とありますが、含みの多い言葉でありまして、第一に有罪の判定を下すこととそれに伴う処罰を加えることを意味する言葉です。聖霊の働きとは、この世、これを全世界と言い換えてもよろしいかと思いますが、この世界の全ての人を~の法廷に引き出し、裁くと言われているのです。14章17節によりますと、それはこの世界がイエスを拒否し聖霊を知ろうともしないからだと言われています。第二には正しく納得させる、という意味合いが含まれています。それは聖霊が世界を裁くときに、この世が自らの罪を認めざるを得ないところまで徹底的に追い込むということです。そして、この裁きは決して罪人の滅亡を目的として裁くのではなく、この世が罪の赦しという~の恵みを受けとるための裁きであるのです。罪の本当の深刻さは実はその先にあります。~に逆らう罪について言葉の上では知っていても、イエスが十字架の贖いによってもたらそうとしておられる救いを信じないで、かえってイエスを罪人として拒否したことであります。

 この世が、そして私たちがイエスを罪ありとして断定するためには、私たちが何が正しいことか、何が正義であり、何を行うべきか知っているという自負が根底になければなりません。まさにそこに、イエスを裁き、罪に定める正義を持っていると考えるところに、この世の罪がある。彼らが正義としたことが逆に罪であることを知らせるのが聖霊であります。この認識を徹底的にたたき込まれることによって私たちは悔い改めへの戸口に立つのであります。そして助け主は更に十字架の死を遂げて父のもとへ行くイエスにこそ義(~の御旨・~の肯定)があることを知らせてくれるということです。さらに助け主は、十字架に於いて本当は何が裁かれたのかをも明らかにしてくれるということです。イエスの十字架上での死は犯罪人としての処刑でありました。~の御心を現すイエスの言葉も行為も結局はこの世の人々を回心に至らせることはできませんでした。かえって権力者の手に落ちた無力な反逆者に見えました。しかし、イエスが人間によって受けた裁きは~の栄光(~の御心)に直結していたのです。そして逆にこの世の力が~によって裁かれることになる。聖霊はこうした働きをなすのであります。ですから、信仰者は迫害と苦しみの中にあっても、平安のうちに~と共にあることができるものなのです。

 ヨハネ福音書が書かれた時代は、教会がユダヤ教から異端宣言をされたということが背景になっています。その宣言のもとで、ユダヤ教は教会への迫害と弾圧を行いました。そしてその迫害をユダヤ教は「~への奉仕」と信じて疑わなかったのです。そうした中で教会は、何が罪で、何が義で、どこに裁きが現れるのか、ユダヤ教の基準と教会の基準との違いを明らかにしているのです。主イエスを救い主と信じ、霊において主イエスと共に生きる教会こそが、~が働いておられるところと信仰告白しているのです。弁護者なる~の霊の働きに導かれる中で私たち一人一人は救いとられ、そして信仰の共同体である教会が形成されているそのことをしっかりと認識することが一番重要なことであろうと思います。

お祈りします。

 神さま。私たちはすべてあなたの御心に生きることを知らない罪人であります。あなたの裁きの前に堪えることの出来ないものであります。

 しかしあなたは、そのような私たちを憐れみ、私たちを赦してくださるために御子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださいましたこと、そして、私たちの罪を贖ってくださいました大いなる救いの恵みを感謝いたします。私たちがそのようなものとして自分自身を知り、悔い砕けた心をもってあなたの前にひれふし、主キリストの霊を通して注がれておりますあなたの豊かな慈しみと憐れみに拠り頼んで新しい人生を生きる事ができますように、信仰による喜びと望みと力をお与えください。

主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

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「私のために祈られる主イエス」 ヨハネ17:6-19
2021.5.16
 大宮 陸孝 牧師
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」(ヨハネによる福音書17章11節)
   本日はヨハネによる福音書17章6節から19節までを先程ご一緒に朗読いたしました。この17章は大祭司の祈り、つまり、主イエスが父なる神に対して行った私たちを執り成す執り成しの祈りです。新約聖書ではここにしか出て来ない貴重な内容を私たちに伝えております。その17章1節から11節までを、主イエス・キリストの父なる神に対する祈りとして区分されます。そして17章の12節から19節までの「聖なる父なる神」に対して、主イエス・キリストが呼びかけた祈りとなっております。

 12節以下の大祭司としてのイエスの祈りは、弟子たちと世との関係に移ります。父から世に遣わされて、世にいる時を過ごし、父の栄光化の務めを果たし終え、完成して世を去ろうとするイエスが、世にいる間に、世に残される弟子たちのために祈る祈りです。弟子たちの、世との関係は短く四つ示されています、前提は、弟子たちは世から出たものであるということです。しかし、今世は弟子たちを憎んでいる。イエスを憎み、御言葉を憎み、神を憎むゆえです。(ヨハネ福音書が書かれた時代の迫害が背景となっています。)この事実はまた、弟子たちがもはや世に属していないことの証しです。父とみ子の一致につながる以上、弟子たちは世のものであり続けることはできません。もちろん、イエスの祈りがなくてはならないように、イエスとのつながりなしには、またこれを忘れては、弟子たちは再びいつでも「世に属する」ものに逆戻りし、墜ちる危険を常に自分自身の内に持っているのです。それは神を忘れ、神に背き、神に逆らう形で起こるのですが、最も危険なのは、自分は神に仕えていると言う形で起こるときです。しかし、イエスのこの祈りに支えられている限り、彼らは世に属さず、世のものではありません。そのような弟子たちを、イエスは更に世に遣わすのです。

 弟子たちの、世からの選び、聖別と、世に向かわせる派遣とを同時に含んだ祈りです。イエスを中心として、二つの相反する方向の働きかけが弟子たちに対して起こるということです。世から選ばれ、聖別されながら、弟子たちの生は、隠遁修道士の生ではない「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではない」。なお翻って、世に派遣される生であります。父の栄光を現すために世に遣わされたイエスの場合と同様に、弟子たちは今新しく御言葉の真理を、真理である御言葉を伝えるために、世に遣わされるのです。イエスの祈りに示された、弟子たちとこの世とのこのダイナミックな働きと関係に注目するところから、キリスト者とはなにか、教会とは何か、宣教とは何かがあらためて問われなくてはならないのです。同時にこの祈りは、世のための祈りを含んでいるものでもあります。「世は言葉を認めなかった」(1:10)、キリストを憎み、弟子たちも憎む世であるのに、それにもかかわらず、その世のために、弟子たちを遣わして世を救おうとするみこころに基礎づけられた祈りでありますから、「この世が救われるように」との祈りに他ならないのです。

 本日の日課の後も大祭司としての祈りはなお続きます。代々の信仰者のための祈り(20節以下)と、世の反対にもかかわらず、ご自身と弟子たちの密接な繋がりの確認の祈りです。ここに執り成しの祈りの基本があります。これが大祭司としてのイエス独自の執り成しの祈りという大切な面があることはもとより、執り成しの祈り一般の基本が示されているとも言えると思います。

 第一に、祈る自分のその時々の確認です。自分のアイデンティティの確認です。単なる存在の確認であると言うよりも、関係の確認ということです。祈りとは、先ず自分の存在の根源である神との関係で確認されるものです。弱い人間である私たちでありますから、それが私たちの側でいつも断固として確立しているということは言えない。「その時々」というのは、私たちの側では常に弱々しく、変わりやすく、移ろい易く、破れやすいということです。神の前での、そのありのままの姿の確認ということです。神はそのあるがままの私を、キリストにあって既に受け入れてくださっているのです。

 第二に祈る自分ととりなしの祈りの他者との関係の確認です。これはまた単に人間同士としての関係の確認ではなく。神を仲立ちにした関係の確認です。キリストを頭とする教会の「聖徒の交わり」の中での確認です。キリストがご自分を献げて既に受け入れてくださっている私と隣人との確認です。

 第三に差し迫った危難、緊迫した急務のための祈りです。それは大きなこと、深遠なこともあると同時に、小さな、個人的な、しかし切羽詰まった事柄であることもあります。あれもこれもと、この際だからというように並べ立てることもありません。肝心なことを祈る。今欠かせない祈りを祈るのです。その意味で執り成しの祈りは狭いとも言えます。

 しかし、同時にとりなしの祈りは広い。第四は、執り成しの祈りの射程がどれほどなのかということです。弟子たちのために祈ったイエスの祈りは、世の執り成しを含んでいます。特定の他者の、特定の祈りの課題は同時に、広く人間全般のための課題を含んでいるのです。祈りは、固有でありながら、普遍的でもあるのです。

 信仰者は皆祭司であることをルターは主張しましたが、それは、キリストと共に、他の人々のために執り成しの祈りを許される幸いを言おうとしたものです。教会は信徒のために建てられたものでありながら、同時にこの町のために立てられた、この町のための教会とも言うこともできます。この町のために祈る教会。教会も、牧師も、教会員も、「小さなキリスト」になって、宣教のために教会が建てられたその町、その村のために執り成しの祈りを続けるところから、教会の宣教は始まるのです。

 ルーテル教会が持っております伝統的な礼拝式文では、礼拝の始めの部分に、「特別の祈り」と呼んでいる祈りがありました。これは「特祷」とも「集祷」とも呼ばれた祈りで、本来「コレクトの祈り」でありました。由来を辿りますと、礼拝に集まる信徒一人一人がその日の自分の祈り、個人的な願いを一つずつ持ち寄り、牧師がそれを集めて、それらの祈りをまとめて祈ったものでした。礼拝の始めに個人的な祈りを祈る。御言葉を聞いた後に、教会は「総祷」として、執り成しの祈りを祈る。しかし、これが自由祈祷の形になり、自分の祈り、自分たちの祈りになって、執り成しの性格が失われてしまう事実に直面しています。どの教会でも結びの部分に来る祈りに、執り成しの祈りを回復しなければならない課題があると私は思います。

 500年ほど前のルターが書いたほとんどどの手紙にも「あなたのために、またはあなたがたのために祈っています」とあるそうですが、それだけではなく、それに加えて、さらに殆どどの手紙にも「私のために祈ってください」とあったそうです。他者のために執り成しの祈りをする自分が、同時に他者の祈りを必要としている自分でもあるということです。執り成しの祈りをする者はまた、他者の執り成しの祈りにも心を開いていなければならないということです。執り成しの祈りは私たち人間の間では一方通行なのではなく、双方通行なのだということを忘れてはなりません。また、それを目指さなければならないと思います。隣人のために祈る私がおり、また、隣人に祈られる私もいるのです。教会の信仰共同体の具体的な姿のひとつです。

 私たちのこうした執り成しの祈りの脈絡に、切り込み、介入する形で、イエスの大祭司としての祈りの姿があるからこそ、私たちの間の執り成しの祈りは成立しているのだということです。主イエスの大祭司の祈りに支えられ、導かれて、執り成しの祈りを許される幸いの中を歩んで、神さまとの調和を回復し、自分との調和を回復し、他者との調和を回復し、広く世界との調和を回復してゆくことが可能となるのだと思います。

お祈りをします。

父なる神さま。私たちが本当に神さまと繋がって新しい命の道を歩むことができますように、それぞれのおかれた場所で、いつも神さまに祈り、また、他者のために執り成しの祈りをして行くことができますように、一人一人を導いてください。普段の生活の中であなたを仰いで、あなたの僕としての生活をし、また、公同の礼拝においてもあなたを主として仰ぎのぞみ、救いの恵みをほめ讃えて信仰の歩みを歩んでいくことができますように私たちを導いてください。
イエスキリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン

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「人々を生かす新しい愛の規範」 ヨハネ15:9−17
2021.5.9
 大宮 陸孝 牧師
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15章12節)
   先週の主日には、私たちはヨハネ福音書15章1節~から8節のところで、ぶどうの木と枝の譬えで、主イエスと私たちの関係について学びました。そして、本日はそれに続いて再び、愛の戒めについて話は展開します。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい」というのです。この愛のテーマはヨハネ福音書とヨハネ書簡において中心的なものです。13節では友のために命を捨てる愛について語られています。

 この聖書の言葉は、信仰を持たない人でも耳にしたことのある大変有名な言葉でもあります。そして、教育者や為政者など、多くの方がこの言葉を引用して、生徒や民衆に対して自分の教え諭す言葉として用いられているのです。ですから教会外でも主イエス・キリストの言葉として知られている言葉となっているのです。しかし、その語られている脈絡、前後関係、置かれている聖書の文脈を考慮しないでその言葉が用いられるときに、聖書の告げているイエス・キリストの心、聖書の心とは全くかけ離れた意味を盛り込んでしまうという事態を招くことにもなってしまうのです。この言葉は、これを語っている主体者は誰なのか。これをはっきりさせないと、大きな過ちを犯す用いられ方を、世界の歴史の中でされてしまう大変危険な面があるということを先ず申し上げたいと思います。民衆や隣人に命を捨てることを勧め、または人道主義的な利己心を捨てて人類の福祉に役立つように、というような主張をする人は、自らがそれをするということではないのです。為政者や指導者が生徒や学童や民衆つまり国民に、その教えを自分の教えであるかのように伝えるのです。それは博愛主義もあるいは道学者も同じことです。

 本日の日課の14節には、主イエス・キリストがわたしたちに対して「わたしの命じる事を行うならば、あなたがたはわたしの友である」と、このように述べています。つまり、「友のために、命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)と言われるすぐあとで、その「友のために命を捨てるのは誰か」という問題が存在するのです。それがこの文脈で語られているのです。神の人間に対する徹底した愛を十字架の死において示された主イエス・キリストが、私たちを友と呼んでいるのです。主イエス・キリストがその友のために命を捨てているのです。つまり、十字架に示された神の愛がここでは先ず第1に問題になっているのです。それを言っているのです。それを私たちが自己流に解釈して、国民に対して、学童・生徒に対して「命を捨てなさい。それが美しい行為ですよ」と、自分は安全圏にいてそういうかけ声だけをすることがあるのです。多くの人々を死に追いやる、自爆テロもその類のひとつです。宗教家と称される人もその類の奨励をしているのです。しかし自らは安全圏にいるのです。主イエス・キリストは「あなたがたはわたしの友である。私はその友のために命を捨てる」と語ると同時に、神の愛とはそういうものである、とわたしたちの歴史においてご自身を示されたのです。

 国家的利益だけを追求し、宗教的またはイデオロギー的党派をむき出しにした抗争は二十一世紀の冒頭から、つまり十九世紀、二十世紀と続いて、二十一世紀になってもその冒頭から起こり続けています。中東や西アジアの問題だけではありません。原理主義は宗教の名において命を捨てることを奨めていますしかし、原理主義者は自らは命を捨てないのです。民衆に命を捨てさせているのです。昨今の北東アジアの諸国も同様です。どの国について私が申し上げているかは想像してください。非人間的な反平和的なことをしているのです。非人間的な行為を排除しよう、と民主と平等と平和を主張しながら、その実現手段として実は非人間的なこと、非民主的な反平和的な事をしているのです。このような残虐行為を奨める為政者や空論家たちに、この聖書の言葉を引用させてはならないのです。

 人間の尊厳や命の尊さを示されたイエス・キリストが私たちに新しい戒めとして、「わたし(神)があなたがたを愛したように、(あなたがたも)互いに愛し合いなさい」(12節)と言っているのです。その前提の部分である「私があなたがたを愛したように」という箇所を告げないで「あなたがたも互いに愛し合いなさい」などと言ってもそれは美辞麗句に過ぎないのです。それは単なる道徳に過ぎないのです。友のために命を捨てるような行為をなし得ないわたしたちにもかかわらず、そのことばをわたしたちが新しい戒めとして聞くことができるのは、語っている主体者である主イエス・キリストがわたしたちの足を洗い、わたしたち友のために命を捨てるという、主イエスの振る舞い(教えと業)にわたしたちが関わることが許される恵みに与っているからです。

 私が強調したいのは、今申し上げましたように、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という聖書のことばは、それに続く「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」という主イエス・キリストのことばとの関係で読まなければ、正しい聖書の解釈にはならないということです。つまり、わたしたちを友と呼ぶイエス・キリストがその友のために十字架の死を遂げられたことが、この教えの前提となっているのです。そして主イエス・キリストによる新しい教えである「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15章12節)が示されるのです。その教えの聖書の基本的な構造をわたしたちが理解すること、これをわたしたちが喜びの訪れを理解した、つまり、聖書の中心的な事柄を理解したということになるのです。

 主イエス・キリストの十字架の死によって新しい戒め、新しい律法が与えられて、そこから普遍的な宗教であるキリスト教が成立したのです。あるいはこういうこともできるでしょう。文化、学問、技術、科学技術、芸術の基礎を与えるキリスト教が誕生したのです。ここに新しい戒めに基づく普遍的な世界宗教であるキリスト教が生じたのです。この新しい戒めの規範、つまりわたしたち人間と人間の関わりの筋道の問題、換言すれば倫理の問題の基礎は、神がイエスにおいてわたしたちを愛されたという行為によって築いておられるということをヨハネ福音書は書き記しているのです。しかも主イエスにおける十字架の死に到るまで徹底して愛されたと言う事実がなければ、わたしたちが互いに平和を望み、信頼関係を築くということはなり立たないのです。繰り返しますが、この規範となるイエスの十字架の事実がなければ、お互いに愛し合うことも、父母を敬うことも、殺すなというようなことも、単なる倫理・道徳的教えと同じ、いわゆる道徳訓話に過ぎないのです。誰にでも言える言葉に過ぎないとも言えるのです。

 それで本日はもう1つのことを申し上げておきたいと思います。15節から17節のところで、16節の「わたしがあなたがたを選んだ」「わたしがあなたがたを任命した」、そのことについて一緒に考えたいと思います。ちょうどこの前の部分で、神の愛の資質を持って互いに愛することが可能となるという事を述べていますが、その直後に弟子たちに対する主イエス・キリストの愛において選ばれていること、神の使命に任命されていることに話が及んで行きます。主イエス・キリストの愛によって、私たちが友として選ばれ任命されているという状況の展開が起こっています。主イエス・キリストの愛が私たちの内側に新しい関係を樹立しているということです。

 このことは15章1節の「私はぶどうの木」5節の「あなたがたはその枝である」と言う言葉との関係で語られています。そうして「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)という言葉が示しているように、父なる神と子なる神の間に存在する一致性が、主イエスによって選ばれた弟子たちとの間にも生起すると言われています。

 神の無条件の愛と恵みに基づいて、父なる神と、子なるイエス・キリストと、あなたがたとが1つとされ、実を結ぶ、つまりあなたがたも互いに愛し合うという世界が開かれるとヨハネは言いたいのです。「私の名によって父に願う」とは祈りのことです。「なんでも与えられる」とは、特にここでは、「互いに愛し合いたい」という私たちの願いを父なる神が聞いてくださるということです。わたしたちが神の愛の人格になるということです。~の愛を持って愛し合うということです。「わたしの名によって」すなわちキリストの名によってとは、私たちが祈るとき、キリストの最も深い絆と意志の疎通の中で祈ることです。その祈りと願いは神とキリストを愛し、またわたしたちがお互いに愛し合うことだと私たちに告げています。主イエスが全身全霊を持って祈られている祈りを、私たちの祈りにするということです。わたしたちはいつも罪の赦しを祈り、また自分の願いごとを祈りますし、それはそれでよろしいのですが、この一番深い祈りと願い、神とキリストを愛し、またお互いに愛し合えるようにという祈りをこそわたしたちは先ず祈っていかなければならないのです。

お祈りします。

天の父なる神さま。
わたしたちはこの世にあって、破れや重荷や不安におののきつつ、人生を歩んでおります。このようなわたしたちのために、あなたはみ子を私たちのところに恵みをもって送ってくださいました。そして、私たちの罪にまみれた現実を贖ってくださり、私たちを一人一人受け入れ、また、共に私たちの人生を歩んでくださる、大いなる愛をわたしたちに 与えてくださいましたから、心から感謝を申し上げます。主が子と呼んでくださり、また、友と呼んでくださるゆえに、わたしたちがそれに値しなくとも、わたしたちと共に愛と恵みを持っていてくださいますから、私たちがどのような現実の破れの中にありましても、その破れの中で、あなたの恵みによって新たに生きる望みと力を頂くことができますから感謝いたします。どうかあなたが、私たちの未熟な破れた人間から、主の僕として、友として立ててくださり、わたしたちが自分を取り戻して新しく歩んで行くことができますように、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン

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「~の愛の招きに応えて」 ヨハネ15:1-8
2021.5.2
 大宮 陸孝 牧師
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書15章5節)
  後期ユダヤ教の時代の紀元前百六十年頃にマカベヤ家がシリヤ帝国を破り、ユダヤ王朝を築いた時、王朝の貨幣の紋章は葡萄の木でありました。これは、聖所の前面にある大きな黄金の葡萄の木であり、これを象徴として紋章としたものです。葡萄の木はユダヤ民族の象徴であり、聖所の黄金の葡萄の木も、ソロモンが作ったものとされています。詩篇八〇篇九節には、「あなたは葡萄の木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に拡がりました」と詠って、~がイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導き出してくださったことを回想しています。

 しかしイスラエルは~の期待に反して、悪しき葡萄の実を結ぶ野葡萄となってしまったのです。それは偽りの葡萄の木でした。イスラエルの民は自分たちが~の選びの民であり、~の祝福の継承者であると誇っています。しかし、まことの葡萄の木、つまり~の約束を真実に受け継ぐ者は、イエスご自身であり、ですから、イスラエルの民であることが救いの条件なのではなく、イエスに繋がって実を結ぶ者が救いに与るのだと宣言しているのが本日の福音書の日課のところであります。

 「~の民」は血縁地縁におけるイスラエルではなく、イエスに繋がって生きる生命共同体なのです。「葡萄の木」はイエスであり、そこから生え出る若枝は弟子たちであります。ですから弟子たちから生じる実りとは、彼らの宣教の働きによって、~の救いに招き入れられる教会の群れ、これこそ、ぶどうの枝に生じる実りであります。「まことの」は完全あるいは純粋を意味しておりまして、新しい教会の群れの主は、~の命そのものであると受け止めて良いと思います。(ヨハネ十一章二十五節参照)イエスの父である神は、ぶどうの木の所有者であり、その生育を自由に行うことの出来る審判者であると言われています。

 「実を結ばない木の枝はみな、父が取り除かれる」と二節にあります。ぶどうを栽培するするときに、特に注意を要するのは剪定であり、念入りな整備であります。葡萄の剪定は収穫の後で行われ、冬には幹とごく少数の枝だけになってしまいます。また葡萄の若木は植えられてから三年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって、生命力を蓄え、良き実を結ぶように手入れされます。ですから実の成らない枝は切り捨てられ、実の成る枝は徹底的に保護されることになります。「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、このような厳しい警告が発せられたのは、イスラエルの民のように、主に選ばれ、主の中に生きることを許されたにもかかわらず、主に逆らって歩む者、「わたしに繋がっている枝でありながら、実を結ばない者は、~の裁きの下にあると警告されているのであります。

 続いて主の慰めと励ましの言葉が語られます。「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。この句は第一三章一〇節の洗足の出来事を想起させます。最後の晩餐の席上、弟子たちの足を洗われた主イエスは「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけ洗えば良い」、と語られました。主イエスにある者は主イエスの語る言葉によって清くされています。み言葉が聞く者の中に働いて、神の救いの恵みを深く受けとめる信仰が養われるのです。

 「わたしにつながっていなさい」(四節)イエスは、わたしはまことのぶどうの木であり、父は農夫、そしてあなた方は枝であると語られました。父なる~、子なるイエス・キリスト、そして信徒の関係がここに明らかにされています。そしてこの関係は「繋がっている」という語によって結ばれています。動かされないでしっかりと留まっている場、それはまことのぶどうの木なるイエスであります。人間がどこかに留まり、つながるのは信頼をその根底に持っているから、ですから、この勧めは、~の救いの業に信頼し続けなさいという主の命令であり、呼びかけなのです。イエス様は私たちが繋がるべきぶどうの木として、、私たちと関わられ、わたしたち一人一人をその枝として結びつけてくださる。しかもそれを私たち一人一人の自分からの主体的決断として、信仰において主イエスにつながるように勧めたもうのです。これが本来的な自分になるということなのだというのです。別の言い方で言えば、、信仰とは形式的、名目的なものではなく、主体的な、自覚的なもの、つまり借りものではなく、自分の生きた信仰でなければならないのだということです。一人一人が主イエスと向き合いつながり、ぶどうの幹と根から発する命の力、樹液によって育ち、生きるのです。枝は孤立した自発的な欲求があるのではなく、樹液が溢れ出る時、枝は茂り、それが途絶える時、枝は枯れるのです。ですから枝であるわたしたちは自らの力で立ち、育ち、生きるのではありません。しかし私たちはいつも自分を頼り、人間の力と頭脳に望みをかけ、自己の意志によって生きようします。そういう私たちに神さまは、あなたは独り立ちできないわたしとつながって命を得ている「枝なのだよ」と語りかけておられるのです。

 枝は本来的には、つながるか離れて孤立するか自分で決断できませんし、呼びかけに応じる力をすら持たない存在であるにも拘わらず、主は「私につながっていなさい」と私たちの主体性を認めてくださり、許してくださっているのです。本来、独り立ちすることができない人間、呼びかけに応答することさえ自分の力ではできない、根と幹に依存している枝に過ぎない存在であることを認めて、それにも拘わらず、あなたはわたしにつながっていれば、実を豊かに結ぶようになると主は呼びかけておられる。そこに主の深い信頼と期待が溢れているのです。~の深い愛が私たちに迫り、私たちに注ぎ込まれているのです。

 ですから「わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である」と五節で繰り返されますこの宣言は、愛と信頼に満ちた~の祝福の言葉なのです。そして私が幹であるキリストの愛によって支えられ、守られ生かされていることを自覚的に感謝を持って自ら告白する時、主よあなたの愛から離れませんという靜かな、しかし強い決意が生み出されて来るのです。信仰とは自分一人で力んで獲得するものではなく、主の慈愛と恵み、特に無条件の赦しを覚えるとき、わたしたち一人一人のものとなるのです。

 「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と力んで言いましたペトロの決意は、一人の女の「この人もイエスと一緒にいました」という言葉でもろくも崩れ去ってしまいました。(ルカ二二:三三)しかし復活の主がペトロに現れ、「わたしを愛するか」と問いかけ、ペトロの裏切りを赦して、再び召された時、ペトロは「主よあなたがご存知です」と自らを復活の主イエスに委ね「わたしに従って来なさい」という招きに応えて、復活の証人としての歩みを全うして行ったのであります。

 復活の新しい命の約束を信じる教会の信仰につらなる生命共同体は、その活動の最終の目標を創造主である~の栄光を現すことに置いています。キリストのからだなる教会の枝として主イエスに連なりながら、一日一日を生かされるわたしたちの生活を通して、~はご自身の栄光をあらわそうとされております。ここにわたしたちの栄光があります。そのような信仰の歩みをパウロはこのように語っております。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた~の子に対する信仰によるものです。わたしは~の恵みを無にはしません」。(ガラテヤ二:二〇)

 命の主イエスに従って行く信仰の歩みが、主イエスの御ことばにしっかりと結びつき、多くの実を結ぶ時、栄光をお受けになるのは父である神であります。実りとは他でもありません。他の人々を~に招くこと、そしてその人々の中にイエスの復活の新しい命と希望と喜びの光を注ぎ入れることであります。そのように生きてこそ神さまは、私たちの命に全き充足を与えられるのです。

 今わたしたちは一つの大きな問いを持ってここに、~の前にいます。その問いとは、わたしたちはどこから来てどこへ行くのかという問いであります。この応えることの出来ない問いを持って~の前にいます。そうです、教会は、この最後の問いに対する答えを知っているからこそ、こうして存続しているのです。この点について、全く謙虚に、しかし、全く確信を持って語ることができなければ、教会は、逆に、自分たちのこの世での人生のあり方に関心を引き寄せられ、人生の重荷のもとに圧迫されている絶望者の集団ということになりましょう。そしてそれはキリストの教会ではありません。苦悩についてではなく、救いについて、疑いについてではなく、確信に満ちた新しい命の希望について、教会では語られなければなりません。教会は確固たる希望の場所なのです。

 亡くなった方々はどこにおられるのでしょうか。私たちは自分の愛していた人たちの忘れがたい印象を残している最後の姿を今目の前に想起しています。そこから先は誰もかえってくることのできない道を彼らは歩んでいます。ですから、彼らに、私たちの問いに応えさせることも出来ません。教会は彼らをではなく、復活の主を指さすのです。新しい命の創造者であり、死者の主でもあられるからです。私たちが静まって~の言葉に依り頼むならば、死は恐れるに足りません。私たちのこの世の平和ではなく、復活の主の平和が約束されているからです。私たちはそのことに子どものように望みをかけて、やがて完全な~の民として私たちを迎え入れてくださる~の恵みの御手にすべてを委ねて信仰の歩みを歩んで参りたいと思います。

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