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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

礼拝説教  7月〜8月


2021.8.29「真実の言葉を語るのは誰か」マルコ7:1-23
2021.8.22「イエスー神が人となった方」ヨハネ6:56-69
2021.8.15「教会ーキリストに繋がる群れ」ヨハネ6:51-59
2021.8.8「神のもとから来られた方 」ヨハネ6:41-51
2021.8.1「天からのパン」ヨハネ6:22-35
2021.7.25「神の愛の言葉に生かされる」ヨハネ6:1-15
2021.7.18「未来を切り開く力」マルコ6:30-44
2021.7.11「真の主権者イエス」マルコ6:14-29
2021.7.4「神の御名があがめられますように」マルコ6:1-13

「真実の言葉を語るのは誰か」マルコ7:1-23
2021.8.29
 大宮 陸孝 牧師
「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコによる福音書7章8節)
 主イエスの救い主としての宣教の活動は、そのはじめから(2:1〜3:6)終わりの日々にいたるまで(10:1〜12、12:13〜37、他)論争的対話によっていろど(いろど)られています。その相手はほとんどがファリサイ派の人々と律法学者であり、それにしばしば祭司長、長老たちヘロデ派の人々が加わり、そして例外的に「サドカイ派の人々」(12:18)との論争もありました。これらの論争はみな真理を求めてなされたわけではありません。主イエスを「試し」(8:11、10:2、12:15)、「陥れ」(12:13)、さらには、主イエスを「殺そう」としてなされたものであります。(3:6、11:18、14:1)ですので、そのやりとりは多くの場合厳しく激しいものでありました。とはいえ、これらの論争も問答も主イエスにあっては宣教の活動の一面でもありました。というのもこれらの対決を通してイエスはさまざまな「言い伝え」や習慣といったものの呪縛から人々を解き放ち、福音の自由を提示し、真実に~に従う道を明らかにしてくださったからです。本日の日課の所もそうした聖書の箇所の一つであります。対決というあり方も主イエスの人格の一部です。それは決して心の偏狭さを表すものではありません。受容、尊重、問題解決などと同様に他者と健全に向き合い、関わり合うための重要な能力の一つです。

 この箇所の論争的な対話はエルサレムからファリサイ派の人々と数人の「律法学者たちが来てイエスのもとに集まり、イエスの弟子たちの中に食事の前に手を洗わない者がいることを見とがめ、非難したところから始まります。そしてその問題は、衛生上のことではなく宗教上のことでありました。しかし、これはモーセの律法に明記された戒めではなく、敬虔な者は守るべしとされていた「昔の人の言い伝え」であります。3節以下によれば、市場から帰ってきたときにも、その間異邦人との接触で汚れたかも知れず、従って体を清めたり、買ってきたものを水で清めるだけでなく「杯、鉢、銅の器や寝台」なども清めなければならないとされていました。

 私たちがまず注目しなければならないのは、非難されたように手を洗わず食事をしていたのは弟子たちの全部ではなかったことであります。つまり、言い伝えとしての清めの規定に従っている者もいました。主イエスご自身はどうであったか。ルカによる福音書によれば食事の前に先ず身を清めるということをイエスはなさいませんでした。(11:38)ただ食前に「賛美の祈り」(マルコ6:41)を唱えました。弟子たちの間でもそれは変わらなかったようであります。それにもかかわらず弟子の中には言い伝えに従っている人もいました。そして、少なくてもイエスはそれにこだわっている様子はなく、止めさせてはいませんでした。ここに、イエスと「ファリサイ派の人々と律法学者たち」との対立を、ただ単にイエスは言い伝えとしての清めの掟に従わなかったのに対して、律法学者たちは従っていたというところに見るのではなくて、イエスは自分の弟子の中に言い伝えに従っていた者もいたし、従わない者もいたけれども、それをとがめたりはしなかった、まずはそのままにしておいたのに対して、ファリサイ派と律法学者たちは言い伝えに従わない者の存在をたとえそれがガリラヤにおいてであれ(ユダヤ教の人たちから見て異文化の地)少しも許そうとしなかったというところに見ることができると思います。「昔の人の言い伝え」であろうと、一つの物差しを当て嵌めて、それに合わないものをみな否定し、そこに同質の集団をつくろうとすること、このことこそ律法主義の本質といわなければなりません。主イエスはなによりもこうしたことから自由であったということです。

 ファリサイ派と律法学者たちはイエスに「なぜ・・・昔の人の言い伝えに従って歩ま」ないのかと問います。これに対してイエスは彼らに「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして・・・~の掟をないがしろにした」と言って厳しく批判します。何よりもイエスは「昔の人の言い伝えを「人間の言い伝え」(8節)、「あなたたちの言い伝え」(9節)という言い方で、その本質を喝破致します。こうした「言い伝え」は、本来の律法の細則として定めて、これを忠実に行い~の掟として果たして行くという分かりやすい方法であったのです。しかし、そのわかりやすさが人間に偽善を起こす原因となってしまっていました。人の目に見えることを行うことが目には見えないことを行ったことになるというときに、人間に見えて確認できることを通して、目には見えないことをも人間が常に確定できることになってしまいかねません。本当は満たしていないのに、見た目によって満たしたかのように見せかけることが巧みに行われてしまいます。逆に、目に見えることを行っていない人は、目には見えないことも満たしていないとして切り捨てられるということが起こります。また~に対して自らの業を誇り、他人に対して優越感をもったり、差別したりすることも起こります。そういうことであるならば、イエスの弟子たちの中にいろいろな人がいたということは、イエスは律法主義に立っていなかったということを明らかに示しているということです。

 人間の言い伝えに従うことが必ずしも~の掟を守ることにはならない、それどころか~の掟を守らなくてもよいように言い伝えが悪用・乱用されている実例を挙げたのが、コルパン定式の習慣であります。当時実際にコルパンと言って誓い、両親の扶養義務を逃れようとする者が出て来た。イエスによれば両親への義務をないがしろにして~に仕えることができると考えるならば、実はそれは両方に対して仕えることにならない。~に仕えること、~を崇めること(7節)は人に仕えることから切り離されません。コルパンと宣言すれば父母に何もしなくともよいと教えるなら、それは、かえって~の掟を破ることである。~の掟(いましめ)の真理は~と人とを誠心誠意愛することにあるのです。

 そもそも「汚れた手」で食事をしても汚れたことにならないのはなぜでしょうか。それは「人を汚す」ものは本当は何か、私たちはどのようにしたら~に従うことになるのか、キリスト者だけでなく一般に今日の人間のあり方に深くかかわる問題がこの問いにおいて提起されていると見るべきでありましょう。「汚れ」ということをどのように見るか、ファリサイ派や律法学者たちとイエスとでは決定的に違っていました。食前に手を洗うことにしても市場から帰ったら清めるにしても、それは汚れは外に原因があるとの見解によります。しかしイエスはそのようには考えません。「外から人の体に入るもの」とは食べ物のことを意味するのでしょうが、それだけではなく、人間の身体も含めて人間の外部にあるすべてを指すと理解できます。主イエスにとって汚れは外にはありません。誰かが汚れているとか、何かが汚れているとかもない。~がおつくりになったものは何一つ汚れているものはありません。聖なるものと俗なるものとの区別はありません。主イエスはまさにそうした人間的区別を乗り越えられました。罪人と呼ばれた人と食卓を共にし、重い皮膚病の人に触れてこれを癒し、悪霊の世界に踏み込んで、捕らわれた人々を解放されるのであります。

 それでは、主イエスにとって人を汚すものとはいったい何か。それは「人の中から出てくるもの」であります。「中から、つまり、人間の心から」出てくるもの、それが人を汚し人を~から引き離す。人を汚すものとは「悪い思い」のことであります。そこから来る言葉と振る舞いのことであります。ヤコブは「舌は火です。舌は『不義の世界』です」と言い、さらに「わたしたちは舌で、父である~を賛美し、また、舌で、~にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブ書3:6〜10節)と述べて、人間の「言葉の過ち」を鋭く指摘しています。そしてこうした「舌」の問題、人間の語る言葉の危うさの問題も、根源的には「心」の問題であると指摘します。「人の口は、心から溢れ出ることを語るのである」(ルカ福音書6:45)。言葉が人を汚し行為が人を汚すとすれば、本当の問題はその心にある、この「心」の深み、内面性、人の思いの源泉、人を人たらしめている人格の中枢のことであります。「その心が私から遠く離れている」と、預言者イザヤの言葉によってイエスはファリサイ派と律法学者たちの実態をあからさまに指摘しているのです。

 近年、小学校から大学まで「若者の心を育てる」ということが共通の教育指針となっています。頻発する社会的不正や凶悪な事件、虐待やいじめ、非行など許されざる行為や犯罪を毎日のように見聞きし、今日確かに私たちもしっかりした「心」を育てることに教育の方向を定めなければならないと思います。この「心」とは表面的なものではなく、本日の福音書が示しているように、それは心の深い所での内面性であり人格の中心のことでありますが、しかしそれはわたしたち自身の意思や努力によって実現して行くことではありません。他の聖書の箇所を参照しますと、~は、人間のこの心の弱さを知っておられます。(マルコ2:8、ローマ8:27)そして、~はこの人間の「心」をこそキリストがお住まいになる場所とされます。(エフェソ3:17)そこへと~が「アッバ、父よ」と呼ぶ「御子の霊」を送ってくださったのであります。一言で言えば「心」とは~との出会いの場、交わりの場にほかなりません。自らの心を~の真実の言葉によって育てるということこそ私たちにとって重要なことであります

 私たちにとって何よりも大切なことは、そうしたまさに心の次元が存在すること、そしてその私の心が人を汚しもするし、しかし同時に人を人とし、その人らしい豊かな人生を可能にするものでもあること、この私の心の二つの異なった方向性は、~の真実の言葉、恵みの言葉に聞き、生かされるかどうかに掛かっていることを私たちがしっかりと認識することであります。

 18節で主イエスは弟子たちの無理解を叱責しておられます。「あなた方もそんなに物分かりが悪いのか」これは相当きつい言い方です。「あなたがたもそうなのか」主イエスは、おそらくその言葉を深い悲しみの思いで発しているのでありましょう。「あなたがたこそそうであってはならない」という思いを込めてわたしたち一人一人に言っている言葉として聞き取っていかなければならないと思います。

 ~は人の心を、~を愛し人を愛するようにと造られました。~を愛することは、~が愛されたものを愛することでもあります。つまり、他者を尊敬し愛することから~を愛することは分離されてはならないのです。~を愛し人を愛することにおいて人の「心」は初めて豊かに大きく育つものであり、人と人との関わりを健全で豊かなものにすると確信するのであります。その教育的方策は様々あるでありましょうが、まず私たちが自分自身の心を惜しまずに~の恵みの言葉に対して開くことであると思います。~の御言葉に聞き従う、これを実行に移すことによって私たちも神さまから託された教会の働きに、参与して参りたいものです。

お祈り致します。

父なる神様。あなたはわたしたちのところに御子をお送りくださり、わたしたち一人一人の様々な人生の道の歩みを共に歩んでくださっていることを感謝いたします。わたしたちはこの世にあっては、たびたび孤立し、自分を失い、失われた状態を経験致しますけれども、あなたは恵みによって、わたしたち一人一人の命をあなたのものとしてくださり、そのわたしたちの生活のただ中に真実の愛の御言葉をもって臨んでくださっています。それですから、一日一日をあなたの恵み深い言葉によって力を与えられ、自由と愛と喜びの心を持って歩むことができますように導いてください。

主イエス・キリストによって祈ります。   アーメン

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「イエスー神が人となった方」ヨハネ6:56-69
2021.8.22
 大宮 陸孝 牧師
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネによる福音書6章54節)
 7月25日の主日礼拝から四回に渡って読み進めてきたヨハネ福音書6章の主イエスの長い話の部分を先週読み終えました。本日はそれに続く6章全体の総まとめの部分となります。

 イスラエルの民は、イスラエルの先祖の指導者、モーセなどによって与えられたトーラー(律法)、これは旧約聖書の創世記から申命記までのいわゆるモーセ五書のこと、これを中心に旧約正典をさらに解釈したり注釈したタルムード、これは律法学者の口伝解説を集めたもの、それと、ミドラーシ、これはユダヤ教の正典解釈です。こうしたものがありますが、そういう律法解釈の書などを通して信仰を養われて来ました。

 しかし今や、人類史における神の受肉によって、神が人格を取ってわたしたちの世界に来られた、イエス自身を通して、わたしたち全人類が養われるという信仰理解が本日の日課のところで示されているのです。一イスラエル民族の問題ではなく、イエスにおいて全人類の救いが問題となっていることが告げられているのです。つまりイスラエルの民は、長い年月にわたって律法の賦与によって養われて来ました。そのことによって「選ばれた民」と言われましたが、しかし、今や、救い主イエスが神が人となるという形で到来することによってユダヤ人たちは人の子の肉と血に与る(人格的に関わる)養いを受ける必要に直面しているというメッセージを、今朝の聖書はわたしたちに告げているのです。それを食し、飲まなければ、あなた方の内に命はないと述べ(53節)、次いで、それを飲み食する者は永遠の命を得る(54節)と告知されているのです。

 そして55節〜57節でその内容がさらにいっそう展開されていきます。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」と述べられています。これは初期の教会に行われていた聖餐式が背景になっていることを先週に述べました。神は彼岸(被造世界の外)だけに存在するのではなく、またわたしたちの地、この世にだけ存在するのでもない、換言すれば、天と地の一方に独占的に存在されるのではなくて、天の栄光の座にいますと同時に、聖餐において、キリスト教会に臨在される方であると告げているのです。

 その後の60節以下のところは、そのまままともに読んでもわからないことだらけです。一つのことを申し上げますと62節に奇妙なことが書いてあります。「それでは、人の子がもといたところに上がるのを見るならば・・・」と記されています。これは一体何でしょうか。その後が書いてありません。文章そのものが中途半端ですから、そのままでは読んでもわかるはずがありません。

 60節〜61節で「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』イエスは弟子たちがこのことについてつぶやいているのを気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまづくのか』」と記されています。それに引き続いて、問題となる62節の中途半端な言葉につながるのです。そして63節には「命を与えるのは、"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と続いて行きます。前後のつながりが62節でぷっつりと切れています。
 
 ここは「もし・・・ならば」と言う仮定文で、「もし・・・ならば」と言う条件のところだけ書かれていて、帰結文がすっぽりと抜けている形なのです。読む人はこの帰結文を推測して補って読むしかないのです。この仮定法で表現されている聖書の記述の背後には何があるのか。

 26節からここまで主イエスによる長い長い話が続きました。五つの質問を核にした話が続きました。その全体に関することの内容が、この後に来る帰結文であると解釈できます。そこに立ってイエスがここで言おうとしたこと、「・・・」のところで示したかったこととはこういうことであったろうと推測できます。「弟子たちも、人々も、イエスの受難、十字架、復活、昇天、つまり天におられる神のもとへの帰還、前におられたところにいる、その現実を見いだすことができないので、主イエスの神に起源する権威を理解することができない。もし、そのことを理解することができるならば、命を与える者が誰であるかがわかる」ということです。もしイエスが父なる神に戻られるのを弟子たちが見て理解するならば、弟子たちがつまづいたり、疑ったり、問題とすることはなくなる。それは、主イエスご自身が、そのようなことを告げることのできる権威を持っておられることを知るからである。しかし、多くの人々、弟子たちの中の多くの者ですら、イエスが父なる神のもとに戻るのを見ることはしない。今こうしてイエスが話している時点では弟子たちでも何もわかっていない、理解できていないので、イエスがそのようなことを告知する権限を持っていることを理解しないであろう、と告げているのです。

 つまり端的に言うと、イエスが十字架にかかられた出来事の内に、十字架に上げられるということと、前におられた父のもとに上げられる、つまり天に上げられるということが同時に、二重写しになっていることを認識することが求められているのです。十字架のイエスの内に天のもとに帰られる先在の救い主イエスの姿を見出す必要があると告げているのです。十字架の出来事の内に、神のわたしたちに対する救いの働きの現実を見いだすならば「これはひどい話だ」「こんなひどい話は聞いたことがない」とは言わないということです。弟子の中でも「ひどい話だ」と思わざるをえないようなイエスの言葉であり、人々も、また弟子たちでさえもその言葉を受け入れる準備、受容できる心の備えがまだできていない、という意味内容のことが62節で言おうとしていることなのです。

 このように述べた後に、イエスは「わたしがあなた方に話した言葉は霊であり、命である。」(63節)と言われます。ここは地上を歩まれる神の到来を告げるメッセージであります。今人類史に旧約聖書の預言者たちが指し示して来た神の啓示の出来事、神の救いの歴史の中心的な出来事が、イエスという一人の人を通して起こっているのですが、わたしたちは、あの地上を歩まれた、わたしたちの歴史の中に存在されたイエスのうちに、神の働きを見るか、それとも見ないかの問いの中に立たされているのです。そのわたしたちに主イエスは「そのうちにわかる」と言ってくれているのです。イエスの教えと救いの働きを、つまり、受難、十字架、復活、昇天の一連の出来事を人々が経験した後に、つまり、そのことを現実に見聞きして初めてわかるようになるだろう、と主イエスは告げておられるのです。この時点ではまだわからないから、「裏切る者まで出る」と主イエスは予告しているのです。わたしたちが洗礼を受けて信仰者になる唯一の条件は、イエスの十字架の出来事のうちに、わたしたちに対する神の愛と真実が現れていることを承認できますか、あなたの罪の赦しのためにイエス・キリストが十字架におかかりになったと信じますか、ということなのです。それを承認できますか。ということです。その問いに対して、「できます」「承認します」と答えたのが信仰者なのです。そのような信仰告白をわたしたちは、日毎に確認することが求められているのです。神の言葉は聖霊の働きとして現在のわたしたちに臨んでいます。そうです。気がつけば主イエスは62節の「・・・」にわたしたちが求めるべき究極の未来の一つの光を備えてくださっていたのでした。それはキリストの信仰です。すなわち使徒信条にもありますように、父と子と聖霊なる三位一体の神への信仰です。

 さて、66節と67節に入ります。「このために、弟子の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れてゆきたいか』といわれた」と記されています。「このために」ということは、「主イエスが神から遣わされた御子である、キリスト(救い主)である」という使信の・た・め・に、それに懐疑を抱く者、信仰告白しなかった者は主イエスのもとを去ったということです。しかも大勢の人が去ったのです。

 離れた多くの弟子たちがいましたが、もう一方で、イエスのもとに残ったさらに限定された、限られたごくごく少数の弟子たち、十二弟子を中心とするその弟子たちと関わりの深い人々、そしてイエスを尊敬していた多くの婦人たちが一緒に初代教会を築いたのです。その初代教会を築いた人たちと、弟子たちの中からでさえ主イエスを裏切る者が出ますが、そういう人物やイエスのもとを去った多くの民衆と、イエスのもとに残った人たちとの違いはどこにあるのかを示そうとしています。それは、歴史に存在した一個の人格的な存在としてのイエスの内に、神の人格的な「言葉」と「働き」を見いだすことのできる者と、できない者との相違であったということができるでしょう。この信仰告白した人々によって教会が成立していくことになるのですが、そのごく限られたイエスのもとに残った人々でさえ、その信仰は、イエス・キリストの受難、十字架、復活、昇天、さらには聖霊賦与というできごとを経験するまでは、その信仰の土台は定かではなかったのです。

 しかし、それでもペトロの精一杯の信仰告白が次に続きます。68節〜69節です。「シモンペトロが答えた。『主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」と記されています。信じると知るという動詞はここでは両方とも現在完了形です。つまり、ペトロがかつてある時期に信じ、そして知った信仰、そして今なお信じ、認識している信仰について語っているのです。「あなたこそ神の聖者である」という表現は、本日の日課のところと共感福音書の悪霊追放の記事のところにだけ出てくる用語です。そこで言おうとしている内容は「イエスの存在とその働きそのものは、神に起源する」ものであるという、そういう信仰告白がなされているのです。「あなたこそそういう方に違いありません」と、イエスの神性を、ペトロは力強く告白しているのです。この告白に注目することが重要です。

 それは、ここでのイエスのもとを去った大勢の群衆と同じように、「時代精神」におもねて、イエスの神性を告白するのに躊躇して、イエスの人生の面だけを主張するキリスト教の指導者やキリスト者が今日たくさんいるからです。イエスはヒューマニティーに富んだ行いをした、主イエスは弱い者の見方であった、差別、被差別の構図の問題をついた人であったという主張は、現代人にとってはわかりやすいのです。しかし、わかりやすいから逆にキリスト教の信仰からは遠のいてしまうという自己矛盾に陥っているのです。今日のキリスト理解の欠点は、また力がないのは、イエスの神性に目を向けないで、人性の面だけを強調して説いているからです。いつの間にかキリスト教が人道主義の一部になって、そこに取り込まれているというところが、キリスト教の力のない原因なのだということです。初代教会からこの問題との葛藤と戦いが生じていたのです。そのことを象徴するのが次の70節71節のユダの裏切りについて言及する主イエスの言葉ですが、ここでは取り上げません。ペテロの告白の重要さは、そうした情況の中で、この方の働きは神に起源する、と力強く告白したことにあるのです。わたしたちはここに立ってさらに信仰を深めていく歩みを続けて行きたいと思います。

お祈り致します。

神様、わたしたちはこの世の様々な問題に悩み苦しみ、その故に心は凍えております。どうか、あなたの霊の息吹をわたしたちに与えてくださり、わたしたちの命を暖めてください。わたしたちは正しくあなたに目を向けることができなくなっております。真理の御霊をわたしたちに送ってくださいまして、真実を見る目をお与えください。神様。わたしたちはまた、生きる力、生きる喜びを失っております。どうか主の喜びの息吹をわたしたちにお与えくださり、あなたが与えてくださる恵みに生かされ、喜んでこの人生を歩んでいくことが出来ますように、わたしたちを導いてください。

わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。

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「教会ーキリストに繋がる群れ」ヨハネ6:51-59
2021.8.15
 大宮 陸孝 牧師
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネによる福音書6章54節)
  主イエスがガリラヤ湖畔のカファルナウムでなさった長い話が、本日の日課で終わります。前回までに、この長い主イエスの話は、五つの問いに導かれる問答形式になっていることを申し上げましたが、本日の日課は、その五番目に当たる「どうして、この人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、現代に生きるわたしたちがそのままの表現で読みますと、肉を食べるだとか血を飲むとかという猟奇的なことが生の形で書いてあると思われるかもしれません。その質問が五番目の質問であります。

 この世のわたしたちの常識的な感覚からすると、わたしたちが愛し、尊敬し、その教えに従った一人の指導者の死を記念するために毎週集まるということは、これは悲しみとか嘆きをともなうことでありますので、決して喜んだり感謝すべきこととはいえない事柄です。とりわけ死者に対する特別の感情を抱いている日本人のわたしたちには、人の死やあるいは人の不幸を感謝したり喜んだりするということは、むしろタブー視します。パンを割く聖餐の礼典を行うために初代教会の人々が集まる時に、自分たちの先生あるいは主と仰いだ人の死を喜びと感謝の記念として集まっていたのですから、その人々は一見非常識だと思われる集いをし続けていたことになります。教会外の人たちには、そのことが不思議に思えたことでありました。そして、もう一つ、教会の外の人たちにわからないことがありました。それは、その集いを続けていた人々つまり、初期キリスト教会の人たちは、その指導者が十字架上で処刑された時に、自分たちが先生とか神の子であると仰いでいたその人を見捨てて逃げ去った人たちであるということです。そういう人たちが集まって、悲しみとか嘆きの集いではなくて、喜びと感謝の集いを持ち続けるようになったのですから、教会以外の人たちにとっては、何が起こったのかいぶかしく思わざるを得なかった、と言うのが実際のところであります。ですから、その集いに対して、誤解と批判が、その集いが始まった直後からパレスチナ地方のユダヤ人社会に起こったのです。先週話しましたパウロによる教会迫害もそのような中で起こったのでした。それよりも少し後のギリシャ、ローマの文化圏の中では、そのような批判や疑問が、たくさんキリスト教会に対して出されました。初代教会の周辺の人々が感じたように、何か奇跡的な出来事としてしか表現できないようなことが起こった、としか考えられないことだったのです。指導者の処刑によって、失意、失望ののうちにあった人々が、突然喜びと感謝の集会を持つようになったのはなぜか、という問題です。教会側の宣教的な視点からいいますと、集いを始めたのは、主の死を告げ知らせるためではなくて、その主が復活したよみがえったことを証言するためであった、ということを護教的に人々に示すためであったということです。これは本日の日課の学びの中で、わたしたちがしっかりと受け止めなければならないことです。

 初代教会の人々が絶望から立ち上がることができた新しい生の根拠は、主イエスの十字架の死にあるのではなく、死からよみがえった復活の事実にある。そこから集いを始めた人々に新しく生きる力が与えられたのだということ、そしてその根拠は過去に起こった一つのできごとが、単に過ぎ去った過去の一回限りの出来事に留まらない、わたしたちの現在も、現在だけではなくて、未来をも規定していくものであり、その意味でイエスの十字架の死は、初代教会の人々にとっては、単に過ぎ去った過去の出来事を思い起こすというのではなくて、その教会に連なる人々に今起こっている事柄として受け止めている、ということです。初代教会の集いの中では、キリストの身体は、何よりもまず、十字架で亡くなられた主が、働き続けておられる祝福の領域であったということです。そのようなイエス・キリスト理解が初期教会内に生じたのです。十字架上で亡くなられた主が、歴史の中で働く身体となる場とは、それを信じて集まっている群れの中でということ、つまり、主が働く体なる教会という新しい教会理解が記されているのがヨハネ福音書6章52節から59節のところなのです。

 52節に「どうしてこの人は自分の肉を食べさせることができるのか」と、互いに激しく論じ始めたと記されております。6章の長い話の最後の問いです。この問いが、モーセを通して人々に与えられた天からのパンという歴史的な伝承に示されている故事を成就させたイエスの長い話の結論を導き出している、それが53節以下です。

 53節では、「はっきり言っておく。人の子(地上を歩み働かれる神)の肉を食べなければ、あなたたちの内に命はない」と主イエスは言われます。「ない」という否定的な言い方で言われ、それにたいして54節では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と53節とは対照的に、肯定的に言われております。ここで注意しなければならないのは、歴史上のイエスの肉体上の「肉」と「血」を食べたり飲んだりするなどと言っているのではない、ということです。「そう言っている」という解釈をして、中世から現代に至るまで、大変な論争が続いたのです。しかしヨハネ福音書を注意深く読んではっきりと言えることですが、歴史上のイエスの身体の「肉」と「血」を食べるとか飲むなどとは、言っていないと言うことです。特にヨハネ福音書に即して言うならば、そのようなことは一言も言ってはいないのです。言っていないばかりではなく、むしろ、そのように考えたり見做すことがないように「人の子(地上を歩み働かれる神)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と本日の日課ははっきりと言うのです。「ナザレのイエスの肉を食べ、血を飲む」などとはどこにも言ってはいないのです。ヨハネ福音書のキリスト論の神学的な特徴である「人の子」との関連で述べられているのです。その理解が十分でなかったために、不毛な論争を続けて来てしまったということなのです。聖書を注意深く読まないとそういうことが起こると言うことをわたしたちはしっかりと心に留めておかなければなりません。

 初代教会時代に、教会の評判をおとしめるために、教会が大事に守っている聖餐式に対して、教会に集まっている人たちはナザレのイエスの肉と血を飲み食いしていると批判したのです。つまりイエスをキリスト、キリストと言う者たちは、「不気味なことをしている」「忌まわしいことをしている」という評判を周囲の人たちに言い広めて、教会を迫害しようとしたのです。しかし、ヨハネ福音書はそのようには言っていないのです。「人の子の肉」「人の子の血」という言い方をしているのです。つまり、イエスが十字架に掛かり亡くなったことと復活なさったこと、その生死のできごとは地上での神の働きそのものであるのだ、その神の働きを信じて、神の働きの中に人々が関わることによって永遠の命を得るのだ。そして終わりの日に神の永遠の命に与る者としてよみがえるのだ、と主が約束された、と述べているのです。

 本日の日課の背景には、主イエス・キリストを聖餐式や信仰告白の形で言い表すことを躊躇する、そういう周囲の批判や評判を気にする人、また今まで親しくしていた仲間から排除されることを恐れる、また世の中の動きをいつも気にして、時代精神におもねていつも信仰の内容が揺れ動いている人たちがいた初代教会の歴史があるのです。たとえばヨハネ福音書の12章42節にそういう人が出て参ります。「・・・とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」と記され、そういうことですから聖餐式を守ること、イエスを主と告白することも公にしなかった人たちがいたのです。そういう人たちのことを43節で、はっきりと「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と言っています。周囲の様々なこと、この世の方にいつも目が向いて、歴史のイエスの中に働かれる神の方に目が向いていない、このことはわたしたちの常でもあることです。しかも事柄を曖昧にして自らの弱さを隠そうとする、本日の日課の背景にはそういうことも問題になっているのです。

 そうすると見えてくる事柄は何でしょうか。いよいよこの長い話の終結を告げる部分です。歴史のイエスの十字架に至る生涯が示しているように、十字架の上で、人々の罪の購いのために血を流され、死なれたイエスの歴史の出来事の中に、わたしたちが何を見るかということです。一方では、それはこの世の人間の罪による支配の結果である憎しみや疑いや、抗争と破壊・破滅をもたらすということをイエスが身をもって示されている、それが見えてくるということです。しかし、もう一方では、そのような破滅に向かう人間の歴史の中に神ご自身が身を投じ、罪の現実がたどる宿命に身を委ね、また引き受けながら、しかしその中で、愛をもって働かれているそのことが示されているということです。もう少し掘り下げた言い方をしますと、神は人間の破滅に向かう歴史に身を投じて、愛においてわたしたちの歴史を導き始められたということです。それが見えてくるのです。

 イエスという具体的な人格の中に、そのように地上を歩まれる神、つまり人の子としてのイエスを見て、その地上を歩まれる神に繋がることによって、聖餐式に与るということは朽ちない食べ物が与えられるということであると認識することができるようになるということです。そのことが見えてくれば、永遠の命に繋がると言うことの意味も見えてきます。それは朽ちない食べ物つまり、聖餐式に繰り返し与ることは永遠の命に繋がり、信仰の命を生きることなのだと言うことをヨハネは言おうとしているのです。

 主イエスのこれらの話の背景には、出エジプトの時の民衆の混乱の中の、パンの問題、危機的な状況の問題、特に食料の問題があるということを学びました。天からのパンを食べると表現されている中の「食べる」という動詞の、ユダヤ人社会の伝統的な聖書解釈の歴史があります。一言で申しますと、食べるというのは食べ物を飲み込んでしまえば後はおなかの中で自動的に消化されて栄養が吸収されることではなく、そのようなおおざっぱな食べ方をするのではなく、しっかりと噛んで味わってその食べ物の風味を味わって時間を掛けて食べることを意味したのです。そういう食べるという意味に注目してもう一度53節から56節を注意深く読み進めていく必要があるのです。食べ物を咀嚼して食べるように繰り返し聖餐式に与るということは、永遠なる神がわたしたちの内で働いておられるということの繰り返しの経験と確認です。その繰り返しの中でわたしたちは内面から変えられていくのです。わたしたちの信仰生活の歩みの中にしっかりとそのことを組み込まなければならないのです。そのように歩むわたしたちの信仰の歩みの中で実際に働いておられる神を見る信仰の目を与えられていく、つまり霊において神が現臨しておられるということが見えてくる、そういう霊的感性が与えられていくということに繋がって行きます。

 ですから、わたしたちは、イエスが地上でなさった生涯と、その後の復活と昇天と聖霊の派遣という神様の働きを理解した上で、何度も聖書を読み直していくことを通して、神は現実の教会に現臨されている方なのだというヨハネ福音書のメッセージをしっかりと受け止めて次週の日課に更に読み進めて行きたいと思います。

お祈りを致します。

天の父なる神様。移りゆく世に、変わらず立っております十字架を仰いで、時代が暗い時、わたしたちが冷え凍えております時、罪の重荷がわたしたちを押しつぶそうとしている時に、これを担い打ち砕かれる主を仰ぎ見ることが許され感謝いたします。また、墓を打ち破って立ち上がってくださり、この世界を永遠なる神のものとして取り戻してくださったイエス・キリストを日毎に仰ぐことができますことを感謝申し上げます。ここにこそわたしたちの希望があります。どうかこの主をわたしたち一人一人自分の生活の中に迎えて、主と共にある喜びに生き、主と共に信仰の歩みを歩み出すことができますように導いてください。

イエス・キリストの御名を通してお祈り致します。   アーメン

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「神のもとから来られた方 」ヨハネ6:41-51
2021.8.8
 大宮 陸孝 牧師
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネによる福音書6章47節)
 ヨハネ福音書6章41節以下を本日の日課として先ほどお読みいたしました。先月の25日からヨハネ福音書6章を続けて読んできました。荒野においてイスラエルに与えられた「天からのパン」の旧約聖書の故事を引き合いに出しながら、私たちと同じ肉を取って地上を歩まれるイエスこそまことの「天からのパン」であると、ユダヤ教の人たちに明瞭に宣言されました。

 そして本日の日課に入る前に、先週の日課と今週の日課との間、34節から40節までがそっくり抜けている形になっており、そこに重要なことが一つ入っておりますので、34節以下のところを読みます。「そこで、彼らが『主よ、そのパンをいつも私たちにください』というと、イエスは言われた『わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったようにあなた方はわたしを見ているのに、信じない。父がわたしのお与えになる人は皆、わたしのところに来るわたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである』」

 ここに五つの問いの内の三つ目が出て来ます、34節の「そのパンをいつも私たちにください」という、質問というより、請求、要求の形の文体です。この要求の中で『いつも』と訳されている言葉はもう少し厳密に訳しますと、「絶えず」、あるいは「永遠に」、または「将来いつもずっと」そのパンをわたしにくださいという意味内容を持った用語です。

 これはどういうことかと言いますと、先々週と先週にも言いましたように、エジプトの奴隷状態から脱出して、イスラエルの宗教の確立に繋がる、またイエスラエル民族の独立に繋がる出エジプトの出来事の中で、苦しいこと、困難なこと、危険なこと、食糧難などに遭うたびに、モーセと神に対して不平不満を言った民衆について、出エジプト記に詳しく記されています。空腹になれば、この飢饉をどうにかしてほしいと要求したのです。結果的にはマナやうずらを与えられ救われるのですけれども、そういう要求を絶えず、モーセや指導者たちに不満を抱きながら言っていたのです。モーセを通して与えられた食べ物は、「食べればなくなる食べ物」でした。それを永久に、あるいは、将来にわたって保証してほしい。そうすれば神様を信じましょう、という人々の要求があるのです。

 群衆がここで主イエスに要求する内容は、宗教とか信仰を問題にしているのではないということです。ちょうど出エジプトの時に人々がモーセを通して神に要求する内容と同じであって、神に対する私たちの要求とか、あるいは願い求めることとか、希求したりする内容は、そのレベルに過ぎないということなのです。つまり、朽ちてなくなるものでよいから自分の要求と必要を常に将来にわたって、場合によっては永久に、死ぬまで満たして欲しいと要求しているのです。食べ物を永久にと言っていますが、死ぬまでのことです。そういう自分たちの要求、必要を絶えることなく、常に将来にわたって死ぬまで与えてください。こういう要求なのです。

 これはイスラエルの人々とか、イエスの時代の人々だけの希求ではないのです。その後の現代に及ぶ世界の全ての人々の要求でもあるのです。人類は、食べればなくなる食物を欠かすことなく与えてください。そうすれば神様あなたを信じましょう、と言い続けているのです。わたしたちの時代、この類いの要求は信仰や宗教に関心がないという人も、時の為政者に対して抱く政治や経済の領域での要求、社会や各領域の利害の問題、たとえば経営者と働いている人たち、つまり労使間の双方の要求、支配される側と支配する側の間にある利害のむき出しになるいろいろな要求と共通している事柄でもあります。信仰の領域においても、私たちの人間社会の問題においても、人間の心の内にある要求や願望は本質的には変わらないと言ってよいかと思います。

 この要求に対してイエスは、荒野でイスラエルに与えられた「天からのパン」の旧約聖書の故事を引き合いに出して、「わたしは天から降ってきたパンであり、これを食べるものは飢えることがなく、渇くことがない」と言われます。ここも厳密に訳しますと「他ならないわたしがその命のパンである」となります。パンに定冠詞がついているのです。この場合の「そのパン」は、ユダヤ教の宗教においては律法を象徴する表現となります。ユダヤ教の人たちは「他ならないわたしがあなたがたの律法である」という意味で聞いたことになります。「わたしはこの世の秩序に全く新しい判断基準を与える」と宣言されたのです。イエスというお方を自分の救い主と告白する視座を持つことによって、あなたがたは新しい命に生かされることになる、という宣言です。

 そしてそれが神の永遠の決意であったから、地上を歩まれる神であるイエスは死人の中から復活される、それが神の永遠の決意であったから、人間の未来に待っているのは「永遠の命」以外の何物でもない。そういうことですから、イエスはこの天から降って来たまことのパンを食べるなら、「その人は永遠に生きる」それが新しい基準だと言われるのです。

 イエス・キリストは私たちと同じ肉を取って地上を歩まれ、まことの「天からのパン」であると、ユダヤ人たちに明確に宣言されました。そしてこの「天からのパン」を食べるとは、端的に、イエス・キリストの死と復活において私たちの罪の赦しと永遠の命の約束を「信じる」ことであり、感謝して受けることです。それ以外の何事も求められていません。ただ信じることだけが求められています。真心を込めて、このイエス・キリストの恵みを信じることが求められています。そして更にもっと先にこれからのこととしてイエスという存在を通して与えられるパンについて、つまりそれは霊の賜物のことでありますが、再来週の日課のところで申し上げます。

 そして本日の日課41節以下に入ります。ここは私たち現代人が、率直に聞いていかなければならない内容を含んでいます。聖書の時代だけでなくて、聖書に記録されているそのままの表現が、現代人に何の抵抗もなく同意できる私たちの問いでもあると言ってよいのではないかと思うからです。イスラエルの荒野の旅は、ただでさえ苦しい旅でありましたが、彼らのあの不平とつぶやき、つまり不信仰によっていっそう苦しい旅となりました。そして、私たちもこのイスラエルの不信仰と決して無縁ではないのです。

 ヨハネ6章は五つの問いが含まれている問答形式でイエスの長い講話が構成されていて、本日の日課には、42節に四つ目の問いが出て参ります。「これはヨセフの息子のイエスではないか。われわれは、その父も母も知っている。どうして今『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」ということばです。こういうつぶやきから本日の日課は始まるのです。つまり自分たちと同じ素性の人間ではないか、ということです。これは現代人であるわたしたちのつぶやきと同じです。「イエスさまってほんとうにいたのですか」。あるいは「イエスという人物は歴史上存在した人物であるということは認める。なぜかというと、社会科の中の世界史という学科の中で、ギリシャ・ローマ史との関係でイエス・キリストのことに言及する記事があり、世界史で習ったから、イエスという人は実在したのだと思う」ということです。織田信長や豊臣秀吉がいたように、イエスという人物もいたと思っているだけのことです。もちろんキリスト教信仰者が言うように「神の子」であるとか、あるいは「メシア」であると言うことには懐疑的であって、「そういうことは、私は信じていません」と言うのがおおかたの人たちです。存在は認めたとしてもそこ止まりなのです。このことでわかりますように、自分たちと同じ素性の人間ではないかとつぶやいた、というこの時のこのつぶやきは、現代人である、教会と関わりのない人たちの共通のつぶやきでもあるのです。

 どうしてイスラエルの人々はイエスの教えを率直に聞くことができなかったのでしょうか。本日の群衆のつぶやきからいえることは、イエスと言う人物について自分たちはよく知っていると思い込んでいます。父も母もその生い立ちも知っているこの人物が神の子などでは絶対にあるはずがない。これが彼らのつぶやきでした。当然と言えば当然です。人間には理性が与えられています。「このイエスが天地万物を造られた神であり、命のパンである」などと言うことは、絶対にあり得ない。こう考えるのは常識的に正しいのです。少なくとも、自分たちのすぐ近くで暮らしている人の内に神様の力が働いているなどとは、とうてい考えられませんでした。

 しかし本当に心を払わなければならないことはこれから先の領域のことなのです。つまり、信仰の領域とか、宗教の領域のことがらです。群衆はそのことに無理解でありました。その群衆に向かって「イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることができない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。』」と記されています。

 イエスが答えられていることはこんなことです。つまり、「あなたがた『ユダヤ人たち』の人間的な思惟判断に基づく態度決定を超えたことなのだ」とイエスは先ず言うのです。この人間的な思惟の枠、範囲を超脱した、父なる神が引き寄せる、わかりやすく言いますと、人間の土俵ではなく、神の土俵(信仰の土俵)に上がるのでなければ、イエスが言われることは全く理解できず、彼のもとに来て、彼について行くことなどできるはずもないのだから一旦つぶやくのを止めてわたしのところに来て私の言うことをよくよく聞きなさい、と言っているのです。

 ここでヨハネは「彼らは皆、『神によって教えられた者』になるだろう」という旧約聖書のイザヤ書54章13節を終末的な預言として解釈して引用し、終末論的な出来事として、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのところに来ることになる」と述べています。神から聞いて学ぶとはどういうことかと言いますと、ただ単に知識的なものを詰め込まれたり、教えられたりすることとは全く違うことを言っているのです。上から押しつけられて勉強すると言うのではなく、見たところごく普通の何でもないような、普段からよく知っているイエスという人物との関わりを通して神様は働いておられるのだ。そのことに気付きなさい。このイエスという方とずっと一緒にいることによって、見て学ぶ、わかっていく、体得していく、イエスという人物が神から来られた方なのだとわかって行く、ということです。

 このことを劇的に体験した人がいます。もとユダヤ教の熱心な指導者で、初期のキリスト教会を激しく迫害したサウロという人物です。サウロは、初めはここに出ている群衆と同じところに立っていました。軍隊を連れてキリスト者を探し出して殺害すると言うことを繰り返していました。ダマスコへ軍隊と共に向かう途中で突然神に打たれ倒れて目が見えなくなります。そして、「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」という神の声を聞きます。サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と聞きますと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と答えが返ってきました。人々は目が見えなくなったサウロをダマスコまで連れて行き、サウロはそこでアナニアという人物に出会います。アナニアはサウロに「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊に満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」と伝えます。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。と使徒言行録9章1節〜19節のところに書いてあります。その後サウロは2年間ほど身を隠し教会の指導を受けて質実ともに熱心な教会の伝道者となって行きます。使徒言行録13章9節で、サウロからパウロに改名し、以後はパウロという名で記録されています。

 その使徒パウロは、Uコリントの信徒への手紙の4章16節〜18節で、「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は、日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と述べています。このように言う使徒パウロは、イエスから受けたこととして、ユダヤ教からキリスト教に改宗したときのイエスとの出会いで、彼は見て学び、わかり、体得していったのだと言ってよいでしょう。私たちが目に見える領域、この世界の次元だけが、私たちの全領域ではないということです。私たちが目に見えるあるいは経験することができる、歴史の中の目に見えるいろいろな出来事を通して、その中に働く目に見えない神の働き、神の意志を理解すること、それに触れることが、信仰の世界では問題とされているのです。目に見えるものだけが全てではないのです。目に見えるものの中に働かれる神の意志や、神の御旨、神を見ると言うことが、信仰に生きる者の生き方なのです。

 本日の福音書の日課に引用されているイザヤ書53章のところで言いますと、13節「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」となっています。イザヤは53章で、まだ起こっていない出来事ですけれども、メシア、子羊が屠り場に惹かれていくように、十字架におかかりになるメシア像を描いているのです。自分たちのイスラエルの宗教史的な歴史の出来事の中に、神の働き、神の意志を読み取って、そしてイエスの救いの出来事との関連で、何百年も前に、そのイスラエルの歴史の中で、人々に、神の子イエスが人々を救う働きとして、十字架におかかりになることと復活の出来事を預言している、実に驚くべき信仰の目を彼らは持っていたのでした。

 「天から降ってきたパンを食べるものは死なない」この言葉の背景には、イエスの十字架があります。死からの復活があります。パンを食べるとは、このイエスの救いの働きは私のためであった、私を永遠の命に新しく生かしてくださるためであったと受け止めそれを信じることです。それを表しているのが聖餐の時にいただくパンと葡萄酒(葡萄液)です。信じてこのパンを食し葡萄酒を飲む者は死なず、永遠に生かされるのです。次週は52節以下でこのことを学びます。

お祈り致します。

恵み深い神さま。あなたが旧約の昔から約束してくださいました、あなたの満ちあふれる恵みによって、罪人である私たちを新しい命に生かしてくださり、命の糧で満たしてくださいました。私たちはそのことを聖書の証を通して教えられ、心から感謝いたします。
 私たちが主のもとに集まり、主によって養われ導かれながら、忠実に信仰の歩みをしていく者となっていくことができますように、私たちを導いてください。

キリスト・イエスの御名を通してお祈り致します。    アーメン

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「天からのパン 」ヨハネ6:22-35
2021.8.1
 大宮 陸孝 牧師
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネによる福音書6章33節)
 本日の聖書の日課から、天からのパンに関する主イエスの長い説教が開始されます。6章22節以下には五つの問いが要所要所に組み込まれています。いわゆる問答形式で展開されています。その点に注目しながら、ヨハネが福音書をこういう形でまとめた意図を明らかにすることがまず大切になってきます。本日の日課にはそのうちの二つの問いが出てきます。

 25節に「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」と記されています。これが最初の質問です。もう一つは、30節に「そこで彼らは言った『それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか』」と記されています。この二つの質問に注意しながら、本日の日課の中心的なことは何なのかを考えて行こうと思います。

 6章22節は長い説教の序文です。「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこに小舟が一艘しかなかったこと、またイエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが他の小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを探し求めてカファルナフムに来た」と叙述されています。そして、24節にも向こう岸に残されたパンを食べた人々についての言及があります。それらの人々がカファルナフムという場所一カ所に集まったのです。パンの奇跡があった次の日に、「イエスを探すために集まった」のです。イエスを探すと言う表現はすでに15節に出てきていました。「イエスを探し出して王にしようとした」とありました。しかも捕らえて王にしようとしたと言うのですから、人々はイエスを強制的に王の座につかせようとして探していたのです。

 25節〜26節に入ります。「そして湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ』」と記されております。ここに重要な言葉が次々と出てきます。
 「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と記されています。つまり人々が奇跡を見て信じると言う信仰に留まっていることを指摘しているのです。人を驚かせて「わたしは超人である」とか、「メシア」である、また「神の子」である、「神」であると言う人が、当時の地中海世界にはたくさん存在していました。そういう人の行う奇怪な「見たら信じましょう」という類いの信仰がここでは言われているのです。見なければ信じない、納得しなければ信じない、逆に言えば納得したら信じましょうということです。空腹な者の要求を聞き入れて、おなか一杯になる食べ物を瞬時に提供することができる、というようなことをすればこれには人は驚きますし喜びます。つまり人の欲望に近い求めに応える神々は、実は古今東西、長い世界史、人類史を貫いてたくさん存在したのです。残念ながらその類いの神々は、現代もなお存在しているのです。私たちは自分たちの要求をたちどころに充たす神を絶えず求めています。

 人の欲望に近い希求に応えて、莫大な現世利益を得ようとする宗教、それを操る宗教家、それを操る理論家などがひしめき合っているのです。現代ではそれが宗教界だけではなくて、疑似宗教化した特定のイデオロギーに基づく民族国家の態勢の中で行われている様々な政治・経済の支配体制や、支配する側に都合のよい法制度、各民族・国家や特定集団の規範が明確でない価値観や倫理道徳観による支配がなされているところでは、支配する側も支配される側も双方とも目先の利害に基づく欲望や希求がかなえられればそれで満足し、より広い視野に立ってみれば、存亡の危機に立たされているというようなことが繰り返されることになるのです。日本の戦前・戦中・戦後の歴史の流れも同じ状況ではないのかなということを思うのです。

 そうした人間の現実を踏まえてイエスは「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言われたのです。これは聖書の時代の人々の問題であると同時に、二千年後の私たち現代に生きる者に対して向けられている言葉でもあるのです。イエスは「そのような信仰は不十分です」と言われているのです。そしてそれが不十分というならば十分な信仰とは何かが次に問題になるのです。それではいったいヨハネが言う信仰の内容とは何かそれが次に問題となります。

 本日の日課の脈絡で言いますと、主イエスは、奇跡を行う者の内に働く神の働くしるしを見いだすことを、人々に求めておられるということです。そういう信仰の内容つまり、奇跡を行う者、ここでは主イエスの内に働く神の働きのしるしを見いだすこと、これが大事なことですよと言っているのです。奇跡を否定はしていないのです。そのことを27節で、五千人の供食を行われたイエスを、『人の子』ヨハネでは地上を歩まれる神、つまり、私たちの歴史のうちに働かれる神として把握する信仰が強調されているのです。私たちがそのことを理解する、また、見いだすことを求められているのです。27節に「朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」と記されています。「働きなさい」と、主イエスが言われたので、28節では「そこで彼らは『働きます。しかし、神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか』」と反問したのです。

 29節は「イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること。それが神の業である(あなたがたが働くことである)』」と記されています。つまりイエスを救い主と信じること、それが働くことなのだと言うのです。ではイエスの何を信じるのかと言うことになります。それは、イエスの行為のうちに神が働いておられることを信じることだ、と言うのです。つまりこれからイエスの身に起こるすべてのことが、私たち人間の罪からの救い、解放に関わっているということを信じること、それを見抜くこと、見いだすことであると述べているのです。福音の中心的な事柄に注目することです。それを信じますか、信じませんか、と私たちに問うているのです。これからイエスの身に起こることについては再来週15日の日課52節以下に具体的に出てきます。

 そこで第二の質問が出てきます。30節「そこで、彼らは言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか』」と聞くのです。これは現代の私たちの問いでもあろうかと思います。この問いを、イエス・キリストは無下に退けません。その要求に対して大変重要なことを宣言いたします。これが福音の中心的な事柄で皆さんの心にしっかりと留めておいていただきたいことです。非常に整った形でイエスの心を心として、イエス・キリストの言葉が信じられないでいる人たちに対して、理解され易い形で示そうとしています。初めは主イエスに対して、民衆は「ラビ」と呼びかけてきました。ラビはユダヤ教の指導者の称号で「優れた先生」という意味です。聖書の言葉で各時代の言語とか思想とか、習慣とか、価値観とか、よく整理した上で、聖書解釈をした人たちです。そのラビの称号で呼びかけられたことを逆に利用して、ラビたちが使う手法を、主イエスは用いているのです。それが31節以下の問答でなされていることです。

 31節に「私たちの先祖は『荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてある通りです』」と記されております。これは旧約聖書からの引用です。先週の説教で取り上げました旧約聖書のモーセによって出エジプトした民衆の要望に応えて、食糧難の際にマナを天から降らせたという故事です。それに対するイエスの整理された重要な説明が次の32節33節でなされているわけです。

 32節「するとイエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えた(完了形)のではなく、わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(現在形)神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである』」と記されています。」

 31節をどう解釈するか解釈の問題なのです。伝統的にはここはラビたちによって「モーセが天からのパンをあなた方に与えた」と解釈して来たところです。それをイエスは「モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではない」と従来の解釈をひっくり返しているわけです。この与えると言う動詞の時制の違いが重要です。継続して行われて来たこと(モーセが与えてきたこと)を否定して、モーセという主語を神に置き換え、更に動詞を現在形に変えている。つまり「今神が与える、現在与えている」という、言葉としては非常に衝撃的な言葉になるわけです。かつても今もあなたがたを救おうとして神が与えておられるのだという宣言です。そういうことですから、イエスを奇跡行為者モーセと同一視したり、さらにモーセのような預言者であると理解する段階に留まってはいけないわけです。

 33節はさらに衝撃的な言葉です。「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」この言葉により、イエスとは誰かを更にはっきりと宣言しているのです。つまり天からの命のパンそのものとして、わたしを神があなた方に与えておられるのである、と告知しているのです。だからわたしによる供食は、食べてもなくならないパンなのだ。神が人々に、今なお天から、まことのパンを与えておられるのであって、イエスこそ、そのまことのパンに他ならない。これが新しい信仰の内容なのです。「新しいイスラエル」の信仰共同体がここにこそ成立するのだとイエスは告げたのです。(これは25節の「いつここにおいでになったのですか」と言う質問への究極的な答えになっているのです。わたしは神から来た者としていつもあなたがたと共にいてあなた方の中で働いている。あなた方はそれを見いだす信仰の目を持ちなさいと私たちに問いかけているのです。)

 これによって、モーセを神としたり神以外のものを神とする議論が連綿となされてきたけれども、イエスの出現によって、今は神の賜物であるまことのパンを受けるか受けないか、その決断の前にたたされているということをイエスは示したのです。神に至る道は、神を啓示した神の御子イエス・キリストを通してだけなのです。

お祈りします。

天の父なる神様。あなたは私たちに私たちを生かす霊の食べ物としてイエスを与えてくださったことを感謝いたします。わたしたちは土の器です。脆い存在です。しかしこの脆い土の器にあなたご自身の愛と命を主イエスを通して与えてくださり、この地上に私たちを生かし、立たせてくださっていることを感謝します。どうか主イエスの御手より命を受けて新たに生きて行くことができますように。主の恵みに生かされ、喜んでこの人生を生きて行くことができますように、私どもを導いてください。この社会を、この世界を導いてくださいますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。     アーメン 

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「神の愛の言葉に生かされる 」ヨハネ6:1-15
2021.7.25
 大宮 陸孝 牧師
そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」を言った。イエスは、人々が来て、「自分を王にするために連れて行こうとしているのを知って、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネによる福音書6章14−15節)
 本日から8月22日まで、福音書の日課はヨハネ福音書6章を学んで行きます。本日は6章1節から15節までが日課となっています。1節から順次見て参りましょう。

 まず1節から4節です。「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」と記されています。ここに今日の、五千人の供食の出来事の、状況の設定が記されています。舞台はガリラヤ湖、これをヨハネ福音書はティベリア湖と呼んでいます。ヘロデ・アンティパスが領主として治めていた時を表したかったのだと推測されます。これは大変重要なことで、歴史的な事実を核にして、これから述べることは決して架空のことを言っているのではなく、歴史的事実なのだと言いたいわけです。

 主イエスが行った奇跡を見て大勢の群衆が後を追った、と本日の日課の冒頭に書かれています。5章のところに戻って見てみますとベトサダの池のところで38年もの間病んでいる人がいて、主イエスがそれを直した記録が記され、その後に主イエスの長い講話が5章全体にわたってなされています。6章もそれと同じ構文になっています。そして9章でも同じ描写が出てきます。先ず一つの出来事が描かれます。それに続いて、その後に長い長い講話という形で、その出来事を通して、その出来事の延長線上に神様が私たち人間を救うことが事実としてこれから起こることが語られていくという展開になっているのです。そして状況設定の最後の4節のところに「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」と記されています。主イエスによる五千人の供食の奇跡は過越祭との関連で取り上げられているのです。これは、この五千人の供食の奇跡を、「主イエスはどういう方か」ということとの関係で展開しますよ、という予告をしているのです。つまり22節以下の講話部分の伏線となっているということです。

 そして5節以下の五千人の供食の奇跡の出来事が始まります。5節6節には「イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と書かれています。これは福音書の奇跡の出来事に共通して出てくる表現で、主イエスの予知能力について告げているところなのです。イエスという人は、何でもご存じの方ですよ。そういう奇跡を行う人なのですよ、という、奇跡を行う人の、主イエスの、普通の人と異なる面の強調が、奇跡物語の伝承ではこういう形でなされているのですが、ヨハネではイエスが普通の人と異なるということを伝えようとしているのではないのです。その認識の範囲に留まっていないのです。そのことをこの後申し上げます。

 7節8節を読みますと「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためには、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた」と記されています。ここは共感福音書マタイ、マルコ、ルカでは「200デナリオン分ぐらい購入しなければ足りません」と弟子たちが言っている記録があります。ヨハネはそれに対して「200デナリオン分、食料を買い集めても全く足りません。みんなが満腹するようにはなりません」といっているのです。ヨハネがこの五千人の供食の奇跡物語を自分の福音書中に採り上げた理由が他の福音書とは違っているということなのです。

 フィリポが「全く足りない」と強調していることは、歴史的な背景を想起させようとしているということです。一つのことを旧約聖書から引用いたします。イスラエルの民が神に導かれて奴隷の地エジプトを脱出し約束の地カナンを目指して歩んだ、40年の荒野の旅で、人々は、はじめは解放の喜びに溢れて出発しましたが、長い砂漠の旅の連続で、やがて携えてきた食料も尽きてきました。人々は疲れ、不安になり、次第に不満を募らせました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。あなたたち(モーセとアロン)は我々をこの荒野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)とつぶやきました。神はこの民の苦しみをご覧になり、次の朝人々がテントの外に出て見ると「荒野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように」降っていました。(同16:14)これはシナイ半島に生えているタマリスクの木に、えんじ虫という小さなカイガラムシのようなものが群がり、樹液を吸ってそれを体液と混ぜて排出すると、白いうろこ状のものになる。それがマナと呼ばれるものではないかと言われています。イスラエルの民が砂漠で飢えたとき、そこにあるこのようなわずかなものをも食料として、ようやく生き延びたのです。イスラエル民族の奴隷的な状態から、民族国家として独立自立するための戦いの一人間(民族・国家)の内面の歴史でもあると理解することができます。

 その後も食べ物の戦いは続きます。民数記11章には、民とモーセの間だけではなく、モーセと神との間でもモーセの葛藤のやりとりが描かれます。19節に神の重要な言葉が記されています。「あなたたちがそれ(肉)を食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一ヶ月に及び、ついにはあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちはあなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ」と記されています。だからいやと言うほど食べさせるぞというのです。モーセはその神の言葉に対して21節でこう言います。「私の率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一ヶ月間食べさせよう』と言われます」そんなことができるかとモーセは神に反論するわけです。22節ではモーセは「しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか」と記されています。六十万もの脱出した民、それも男だけでとなっていますから全員で百万を超える数になるでしょう。そんなことは神様でも不可能ではないでしょうかと言うのです。

 その先はどうなったかと言いますと、31節に「さて、主のもとから風が出て、海の方からウズラを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上二アンマほどの高さ(およそ九十センチ)に積もった」と記されます。途方もない量のウズラの死骸が積もったということです。物語は続きます。32節「民は出て行って、終日終夜(明けても暮れても)そして翌日も、ウズラを集め、少ない者でも十ホメルは集めた」(十ホメルは2300リットル)1.8リットル牛乳パックおよそ1300本です。六十万の人が一人当たりでそれだけ集めたのです。問題はその先です。33節に「肉がまだ歯の間にあって、噛みきれないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた」としるされています。その肉は腐敗していたということでしょう。疫病が発生したのです。34節を読みますと「そのためその場所は、貪欲の墓と呼ばれている」と記されています。これが民数記11章が伝える内容です。私たち現代人にとってもこの民数記の記事は大変象徴的な出来事なのではないでしょうか。他にもこれと共通した旧約聖書の預言者が行った食べ物に関する奇跡が列王記4章にも、預言者エリシャの物語として描かれています。

 本日のヨハネ福音書の日課に戻ります。このヨハネ福音書6章の奇跡の行為者であるイエスを描写する伝承は、旧約聖書中のこのような優れた預言者の系譜の流れに立つ、預言者の一人として、イエスが期待されていることを示しているのです。イエスの時代のユダヤ教、そしてユダヤ人社会を背景にした人々は、すべてこうした旧約聖書の故事をよく知っておりました。そして、イエスに対して非常に好意的な人でも、主イエスは旧約聖書の預言者の系譜の流れに立つ、優れた預言者の一人であるとの期待を抱いていたのです。その系譜に立つ人物として主イエスは尊敬され、また期待されていたということです。

 12節13節「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた」という記事も、「集めると、人々が5つの大麦のパンを食べて、なお残ったパンの屑で、12の籠がいっぱいになった」と述べられています。これらは旧約聖書と平行している記事で、奇跡が行われたことが事実である事を確認する一つの描写の仕方です。モーセを通して行った出エジプトの出来事の、そのときの民の不平と要望、欲求やそれに対する神の答えなどが、本日の五千人の供食の出来事の背景になっているのです。

 そして、ここでもまた五千人の群衆は、自分の欲求や願望や期待に応える神を求めていることがはっきりしているのです。神はそのような人間の欲望に対して、旧約聖書においては怒る神として描かれているのです。それですから食べたものが鼻から出るほど、あるいは吐き気を催すほど与えられ、人々が今度はほしいほしいと求めたもので苦しみ、それが疫病を引き起こすのです。神の怒りが、そのように彼らに及んだと述べられているのです。

 それに対して主イエスはどうだったのか、身も蓋もないほどの怒りを顕わにしたのか。これが旧約聖書と新約聖書を通して、私たちが「神の救いの歴史」を見るときの重要な見方です。主イエスはそういう仕方ではなさらなかったのです。神は、正義ゆえに怒る神ではありますけれども、同時に徹底して『私たち人間が自ら自発的に理解できるまで、私たちが自ら、この方こそ神である、神の子であると認識するまで』忍耐に忍耐されて、私たちにご自身の人格を通して神様の本質を示してくださるのです。その極みが「死に至るまで、しかも十字架上の死に至るまで、神は徹底して人を愛された」ことなのです。

 14節に「そこで人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」と記されています。つまり民衆はイエスを旧約聖書のモーセやエリシャのような預言者と見なしたということなのです。旧約のイスラエルの歴史の流れの中では、モーセのような指導者・預言者・王という信仰が、当然のようになされてきました。ですから最高の名誉は、このイエスがモーセのような預言者・王であると、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちもはじめはそう思っていましたし、最高の称号を与えたと思っていたということです。

 それに対して、ヨハネ福音書記者やパウロもそうですし、初代教会の多くの人たちが「そうではない」と気付いていったということなのです。初期キリスト教会の歴史を担った人たちは、「モーセのような預言者・王」ではない主イエスを見いだしていったのです。そのことに気づいたのです。

 本日の日課の最後の15節に「イエスは人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた」と記されています。かつてモーセの指導によってエジプトを脱出し民族国家の独立とイスラエル宗教の確立を成し遂げたように人々はイエスを、モーセのような役割を果たす存在と理解し、モーセのような役割を遂行することを、イエスに期待したのです。イエスはその民衆の要求を退けたと、ここで告げているのです。

 人々のこの類いの要求、願望を受け入れれば簡単に伝道できるのです。容易に人々に教えを説くことができるのです。日本の新興宗教に限らずほとんどの宗教が現世御利益を語り、盛んになるのもこの理由です。そうようにするならばイエスは十字架に掛からなくとも済んだのです。しかし、イエスはその道を選びませんでした。その理由はイエスの時代から1300年前の出エジプトの出来事を人類の歴史上で何度でも繰り返すことになることをイエスは見通しておられたからです。

 ヨハネ福音書がイエスはどのような意味で救い主なのかを述べているのが次週の日課に取り上げる22節以下、主イエスの長い講話の形で展開されて行きます。

お祈りします。

恵み深い神様。あなたが旧約の昔からずっと約束してくださいました、あなたの満ちあふれる恵みによって私たち失われた罪人を神のものとしてくださり、魂の底から満足させ、慰めてくださいます日が今日この日主イエス・キリストにおいて地上に現実のものとなっております。私たちはそのことを御言葉によって知らされ心から感謝いたします。私たちが本当に満ち溢れる恵みの中で生かされておりますことを深く味わい、感謝をして歩むことができますように、私たちの信仰を導いてください。

キリスト・イエスの御名を通してお祈り致します。    アーメン

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「未来を切り開く力」 マルコ6:30-44
2021.7.18
 大宮 陸孝 牧師
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満足した。(マルコによる福音書6章41-42節)
 宣教に派遣された弟子たちはカファルナウムにもどり、主イエスのもとに集まって参りました。主は期間を定めておられ、その日が来て、弟子たちは一どきにもどってきたと読み取れます。派遣された者は必ず戻って来て、報告しなければなりません。このつとめを任命された方がおられるからです。

 私たちの場合もそうなのです。週の初めの日に、御言葉を受けて、これをもって世に出て行きます。私たちは出て行った切りでは無いのです。次の日曜日には戻って来て、その一週間の報告を主になされなければならないのです。主のもとに立ち戻る時間を惜しんでこの世のつとめを重んじなければならない、というのは、これがまさに的はずれの始まりなのです。使徒と言う言葉がマルコではここで初めて出て来ます。これまでは「十二人」とか「弟子」と呼ばれていました。そして35節ではまたもと通り「弟子」になります。つまり彼らは使徒として公的なつとめに派遣され、帰ってきて、その任を解かれ、また弟子にもどったと言う経緯がここに表現されているのです。

 その使徒としてのつとめは、教えることと、することとからなっていました。使徒言行録の最初に、「イエスが行い、また教え始めてから・・・」と書いてあります。使徒たちの務めは、第一に、教えることでありました。しかしそれだけではありません。かれらには行うべきわざがありました。そのわざとは、日常の生活をどのように営むかというようなことではありません、使徒としてのなすべきわざのことです。すでに7節の命令にもあり、13節にもありましたように、病気をいやし、悪霊を追放するわざがそれであります。そしてそのようなわざは人々を信じるに至らせるためのものではなく、~の国がすでに来て、~の愛の支配に逆らう汚れた霊の支配は、一切後を絶たなければならないことを示そうとしたものであります。もう一度申し上げます。使徒としての行いとは、教えと生活とが一致しなければならないと言おうとしたものではありません。使徒に負わせられた務めは単なる良い行いではなく、~の国をこの世にもたらすもっと本質的な終末的な行いのことなのです。それは私たちにおいても同じなのです。私たちが主の前に立ち帰って報告しなければならないのは、単なる善意の行いではなく、~の国が近づいたこと、悔い改めて福音を信じること、~の御言葉にこそ服従しなければならないことを人々に伝えて、人々がそれを受け入れたかどうかということであります。先週にも話しましたように、信じるというのは、私たちを生かす~の恵みの言葉に信頼して人生を歩むという新しく信仰の道を歩む行為のことであります。ここに人々を導くということなのです。

 この時、弟子たちは非常な元気と非常な喜びをもって、思いにまさる成果をあげたことを報告したとルカ福音書10章には書かれています。今般の伝道は成功しました。国は震え動き、当時の支配者ヘロデも激しく動揺したとあります。そういう時でありましたので、弟子たちは疲れも覚えず、むしろ得意になって、まだまだ働けますと言うような調子で報告したのではなかったでしょうか。そのとき、イエスはあなた方は休めと言われます。休むことの必要を主イエスは見抜いておられました。働きに自己満足がともない、自己満足は働きに拍車をかけ、自覚のないうちに内側の霊性の貧困が募って、気付いたときには破綻をしてしまっている、というようなことが起こるのです。私たちは失意のときや不安の時には、よく祈ったりするものですが、得意のときには退きも祈りもしません。主はいつも小まめに時間をつくっては淋しい所に出て行かれ、そこで祈ったことを福音書は報告しています。これは主の強い命令であります。権威のもとに彼らを服させ、退き、瞑想し、祈ることを命じておられるのです。

 出入りする人が多くて、食事をする暇も無かったことは、さきに3章20節にも書かれている通りです。そして弟子派遣の結果、この忙しさは倍加されたものと思われます。主イエスは弟子たちを淋しい所に連れ出されます。前進するときだけではなく、退き祈るときにも、常にイエスが先頭に立ちたまいました。この時の行き先はカファルナウムの東北、ガリラヤ湖の西北岸で、1章35節にあったのもこれと同じ場所ではないかと考えられます。ということは、イエスはカファルナウムの地で活動なさる際に、この場所を祈りの本拠地とされていたと言えるのではないでしょうか。私たちの人生にも、その不動の中心となるべき、祈りの場が必要であることを主イエスは教えようとされているのです。

 ところがその静かな祈りの場、主イエスの魂の養いの場、従って弟子たちの宣教の活動のための密かな魂の拠点が、あらわな活動の意味においても中心の場になる時がやって参ります。この主イエスと弟子たちだけの、態勢立て直しの場であった寂しい地で、群れ集う人々にパンを裂いて与えられるというガリラヤ伝道のクライマックスの出来事が起こるのです。主イエスと弟子たちにはもう会堂を用いて宣教することも許されなくなってきていて、荒野においてしか集会を開けなくなってきていたと思われます。8章にもう一度荒野の場面が出て来ます。主の宣教の舞台が荒野に移ることになったということです。

 33節は生き生きした描写です。群衆はすでに主の行きつけておられる靜かな場所を知っていたようです。そこに、先に駆けつけて待っておりました。このため、主イエスとその弟子たちは、静寂な場所で休息の時間を過ごそうとする計画を放棄します。主イエスは、慕い寄る人々を振り離すことはなさいませんでした。ひとまずこの群衆を受け入れてから帰らせ、その後で山へ退いて祈られます。

 群衆は飼うもののない羊のようでありました。彼らには、自ら羊飼いをもって任じる指導者たちがいました。しかしその指導者は羊を養うことができませんでした。ユダヤ教の教師たちが数多くいるにもかかわらず、民衆は霊的に飢えておりました。バプテスマのヨハネが自覚を促し、人々の霊的貧困の実状を明らかにしましたが、ヨハネの死のあと、残ったのは底知れぬ虚無感と罪の意識だけでありました。そこへ主イエスと弟子たちによる宣教がなされたのです。彼らは切ない思いで主イエスを追ってきました。それでもなお、彼らはさまよう羊の群れでしかありません。主イエスは彼らを見、深く憐れみたまいました。人々は主イエスに何を求めてよいのかもわかりません。ヨハネ福音書6章を読みますとこのときの彼らがいかに無理解であったかが余す所なく描かれております。ヨハネ6章については7月25日から、つまり来週から8月22日まで連続五回に分けての日課となっています。

 主イエスはそのような彼らを冷ややかに突き放しはしませんでした。主は彼らにいろいろと教えられます。いろいろと、というのは、多くのことを?んで含めるように、熱心に、という意味です。主イエスはこのような心を込めた対話の中で、悲惨な人々と出会われておられるのです。そしてそれに続いて彼らのためにパンを裂いてお与えになります。今日も、主イエスは飼うもののない羊のような私たちに御言葉を語る主、パンを裂く主として近づいて来られるのです。

 ここで起こっていることは避難生活をしている人々への緊急支援という事ではありません。これは救い主の食事を意味します。~の国の宴会が荒野で始まったのです。大群衆は十二の組々に分けられます。そして、各組に一名ずつ弟子たちが配置されました。これはモーセが荒野で、~の栄光のもとにイスラエルの十二部族を編成した時のことを再現したものと言われております。救い主イエスはここに、新しいイスラエルの十二部族を編成し、教会形成の基本的な形とされたのです。救い主イエスの到来によってここに~の国が現出したという初代教会の信仰告白を読み取らなければならないのです。ヨハネ福音書によりますと、この奇跡に触れた人々は、イエスを王にしようとしたということです。群衆は非常に歪んだイエス理解をしていたことは確かであります。しかし、それでも、彼らはこの奇跡を決定的なものとして受け取ったのです。

 こんにち、わたしたちは、聖餐式において、キリストの御名によってパンが裂かれるとき、それが「主の十字架の死を示す」ものであると教えられています。しかし、ここではまだ主の十字架の死という一点は打ち出されてはいませんし、一般的な贖罪の意味も明らかとなっておりません。それらの大切な点はまだ隠されたままなのです。しかし、とにかく、そこに~の国の食事がありました。その中に、主の十字架の死も、主の復活も、主の再臨も踏まえ、それら一切を含み持った終末の食事が目指され、先取りされたものであると見るべきでしょう。

 そのような意味での食事に際して、人々は満腹しました。主イエスと出会った人は飢えた、あるいは物足りぬ思いのままで帰ることはありません。「富める者を飢えたままで帰らせられる」とは、マリヤの歌った讃歌ですが、富める者が富を満喫しそこで自己満足している限り、霊的な充足はありません。しかし、へりくだって主に近づくものは、実際に満たされるのです。礼拝の度ごとに私たちが味わうのは~の言葉に満たされる荘厳な満腹感なのです。最後に、主は残りのものをお集めになります。物を粗末に扱わない主がいます。物を粗末にしない主は、まして、もっと大切な人の魂を粗末になさいません。物質的な恵みを大切にすることを学んだ私たちは、まして、霊的な恵みをいささかも無駄に扱わないよう戒められているのです。本日私たちが聞き、受け止めた~の言葉は、食べきれなかったからと言って生ゴミのように処理してしまうということはしてはならないのです。

 このできごとの全体を通して、群衆に目を留める主イエスの姿が、ここでグローズアップされています。34節イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。すべてはこの主イエスの眼差しから始まっていたのです。主イエスの憐れみが群衆を包み、「飼い主がいない羊のような」群衆に心の底から連帯し、わずかな食料であろうとも、それを祝福し、弟子たちの分配の奉仕を通して、それを配るときには、祝福が具体的に一人ひとりの人のもとに届けられるだけでなく、その祝福は満ち溢れるほどに一人ひとりの人を包み込みます。ここでの奇跡(しるし)の意味とは、イエスの眼差しがこの群衆を包み込んでいたという事実を顕したことだったのだと思います。

 ~の御言葉によって(教えによって)「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない」という確信が無数の人と共に共有されたそのような事実を顕そうとしたものです。「人里離れた場所」とは、もともと「荒涼とした場所」という意味であります。そんな場所であっても、イエスのあの眼差しに包まれた人々は、空腹を満たされ、魂の虚しさも満たされることになった。それはやはり奇跡と呼ぶべきものであったということです。

お祈りいたします。
恵み深い神さま。私たちが、飼い主のいない羊のような、各自それぞれに孤立して生きる生活ではなくて、主を羊飼いとして慕い、主のもとに集まり、主によって養われ導かれながら歩む、主イエス・キリストに忠実に従って行く群れとなっていくことができますように、私たちを導いてください。
キリスト・イエスの御名を通して祈ります。    アーメン


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「真の主権者イエス」 マルコ6:14-29
2021.7.11
 大宮 陸孝 牧師
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから奇跡をおこなう力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。(マルコによる福音書6章14-15節)
 本日の福音書の日課の最初の6章14節から16節のところでは、イエスとは誰かというテーマが再度取り上げられて、そして、ヨハネの死を報じる17節〜29節へと展開してゆきます。マルコ福音書はすでに1章14節で「ヨハネが捉えられた後」という言葉から主イエスの公生涯を語り始めていまして、そこですでにヨハネの死を暗示しておりました。そして本日の日課の箇所でも、ヨハネの死はかなり以前の出来事とされていまして、主イエスについて「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」という考えがあったと語られ、それをきっかけにして、過去を振り返る形で、ヨハネがどのように死を迎えたかが述べられています。マルコ福音書はなぜ、この箇所でヨハネの死についての伝承を取り上げることにしたのか。またなぜ、ヨハネの死の出来事を、ここでこのように詳しく書きとどめたのでしょうか。

 前後の脈絡を確かめますと、この箇所の直前には主イエスが十二人を派遣したことが語られ(1節〜13節)、直後には十二人の使徒たちが主イエスのもとに帰ってきたことが語られています(30節)。つまり、十二人の派遣の記事に挟まれていることになります。十二人は主イエスに遣わされて、宣教し、悪霊を追い出し、病人を癒しました。主イエスの権能によって、主イエスがなさってきたのと同じ業を行った。主イエスの活動が盛んになり、また広がって、使徒たちの手を借りるほどになっている様子をここに見て取ることができます。それに伴って「イエスの名が知れ渡り」(14節)、大勢の群衆がそばに集まって来るようになった。すると、「この方はいったい何者だろう」という問いが切実なものになってきます。

 この6章で語る十二人の派遣とそれに続く五千人の給食の記事は、この時主イエスの活動が最も盛んであった事を示しています。そこでこのような力を働かせているイエスとは何者かこの問いに対してマルコは不思議にも、洗礼者ヨハネの死の様をもって答えとしたということなのです。

 さて、「イエスとは何者か」という問いに対して、人々は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(14節)と言っていました。この考えによれば、主イエスは洗礼者ヨハネその人、あるいは「ヨハネの後継者」であり、主イエスに働いている力は、ヨハネの力であるということになります。その場合に、最も重要な人物はヨハネの方であり、主イエスは二番目の位置を占めるに過ぎないことになります。これは、主イエスの時代にも、その後の初代教会の時代にもありました一つの有力な考え方でありました。

 マルコはここで、このような人々の考え方を逆転させます。人々は、ヨハネを中心として、ヨハネから主イエスを理解しようとしていました。しかし、そうではなく、主イエスを中心として、主イエスから出発して初めて、ヨハネを正しく理解することができること、つまりヨハネは主イエスの先駆者なのだと言おうとしているのです。それがここでのマルコの答えです。

 「イエスとは何者か」という問いに対して、マルコはヨハネの姿をもって答えとします。ヨハネの姿に主イエスのお姿が前もって表されている。つまり、ヨハネの生涯は、ヨハネ自身だけで完結し、意味を持っているのではなく、主イエスを指し示す先駆者としてとらえた時に、初めて意味を持つのだということになります。

 ヨハネの死は、それだけを見れば、何の意味もない非業の死でありました。律法を犯した者が、それを指摘した正しい人を逆恨みし、ついには殺害してしまった。ヨハネが行ったヘロデに対する諌言(かんげん)も、その死も、何ら事態を変えることがない無駄な行為、無益な死であったように見えます。しかしヨハネの死は、主イエスの死の予表と捉える時には、重要な意味を持つことになるのです。洗礼者ヨハネが主イエスの先駆者であるのは、荒れ野での説教によって主イエスの到来の準備をしたからだけではなく、その死において主イエスの死を予表したからなのです。

 ヨハネの死を主イエスのお姿を先取りしている「先駆者」と捉えると、この箇所に、主イエスのお姿を思い出させる様々な点を見いだすことができます。つまり、ここではヘロデの背後で力を持つへロディアが、恨みからヨハネを殺そうとするが(19節)、主イエスもこの世の権力者である祭司長たちによって、ねたみのために引き渡される(15:10)。ヘロデは人をやってヨハネを捉えさせ、牢につないだが(17節)、祭司長たちも群衆を遣わして主イエスを捉えさせ(14:43〜46)、縛った(15:1)ヨハネの弟子たちが遺体を引き取って墓に治めたように(29節)、アリマタヤのヨセフは主イエスの遺体を引き取って墓に納めることになります(15:42〜46)。このように主イエスの苦難と死を先取りして歩んだヨハネがすでに「死者の中から生き返ったのだ」と言われていたことは、ヨハネが指さしている主イエスがやがて本当に死者の中から復活して、墓から出てこられることを暗示していたのだと見ることができます。

 一人の人間が預言者として立てられ、神の言葉を託され、神の言葉そのものであられるお方を指さしながら生き通した。預言者の生に徹した時に、その無益と思える死さえも、預言の性格を帯びるものとされた。ヨハネの無力さは、神の言葉の力を証しする者とされたのです。

 さて、「イエスは何者か」という問いに対して、ここでヘロデのことにも触れておかなければなりません。ヘロデは「王」になりたいと望んでいましたが、父ヘロデ大王が死んだ後、16歳でガリラヤとペレアの領主となります。ルカ福音書では主イエスの公生涯を語り始めるにあたって、この世の支配者たちの名前を列挙していますが、その中に「ガリラヤの領主」としてヘロデの名前も挙げています(ルカ3:1)ヘロデが洗礼者ヨハネを捉え、主イエスにも関心を持っていたのは、自分の支配を脅かしかねない不穏な動きに注意を払い、必要とあれば、反乱の芽を摘み取ってしまおうと思ってのことだったのではないかと思われます。自分の支配を確固たるものにしたい、できることならば自分の領土を増やし、権力を強大なものにしたいとの野心を抱いておりました。

 ヘロデは「王」になりたいと望んでいましたが、父とは違って決して王ではなく、王よりも低い地位である「領主」に過ぎませんでした。それにもかかわらず、この箇所でマルコがヘロデを「王」と呼んでいるのは、歴史的に不正確な記述をしているのではなく、意図的であるように思われます。と言いますのは、22節後半から、呼び方が「ヘロデ」から「王」にくっきりと切り替わっているからです。

 呼び名が「王」に切り替わって以降、ヘロデは王として振る舞おうとしています。まるで限りない権力があるかのように、「欲しいものがあれば何でも言いなさい」と言います(22節)。ヘロデはローマから統治を許されているだけで、領土の分割をする権利などないのに、「おまえが願うなら、この国の半分やろう」と誓って見せます(23節)。へロディアが「洗礼者ヨハネの首を」と願うと、自分ではそれを望んでいないのにもかかわらず、「王」として客の前で誓ったことを引っ込めることができず、願いを認めてしまいます(26節)

 マルコが「王」と呼ぶ人物は、王者らしく振る舞おうとするのですが、かえって、ただ王を演じているに過ぎないことを暴露してしまっています。絶大な権力を誇る王であるようなことを言いながら、自分が正しいと思うことを貫くこともできずに、へロディアの言いなりになってしまっている。まさにその場面でヘロデを「王」と呼んでいるのは、マルコの痛烈な皮肉であると見ることができます。

 ヘロデはヨハネを牢につないでいましたけれども、ヨハネの教えには喜んで耳を傾けていました(20節)。「わたしが首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」(16節)と言う発言からも、ヨハネを殺害したことを悔やんでいるヘロデの良心の声を聞き取ることができます。ヘロデは、「正しい聖なる人」が語る言葉を聞こうとする心を持っていました。もしヘロデが領主ではなく、民衆の一人であったなら、彼は荒れ野に出かけていってヨハネの説教を聞き、罪を告白して洗礼を受けていたかもしれません。しかし、「王」を演じようとする時、ヘロデは神の言葉を聞く機会を自分で潰してしまっていたのです。

 ヘロデは後に、ローマ皇帝のもとに出向いて「王」となることを願い、逆に謀反のかどで訴えられ、領土を取り上げられて追放され、流刑先で死ぬことになります。処刑されたとも伝えられております。王になろうとすることは、ヘロデにおいては文字通り滅びの道であった。牢にいる洗礼者ヨハネを尋ねていた時、ヘロデは王になろうとする道を歩むか、神の言葉を聞き、神の言葉の前に膝をかがめて、神の僕となる道を歩むか、二つの道の岐路に立っていたのです。誕生日の祝いの席で王を演じた時、ヘロデは神の言葉から耳をふさぎ、王になろうとする道を選び取ってしまっていたのでした。自分の欲望を限りなく追求する現代の私たち、王を演じずには居られないヘロデの姿は、また私たちの姿なのではないか。民主主義といい、誰でもが王であり得る私たちの世界は、神の言葉が聞き取りにくい世界であるのかもしれません。

 私たちは充分に王であり得る。しかし王であろうとする道を捨てて、自分以外の者を、愛を持って私たちを生かそうと私たちのもとに来てくださった真の命の主権者、イエスをこそ、私の主とし、神の言葉を神の言葉として聞く道を選び取って行きたいと思います。

 このことについては再来週25日(日)の日課ヨハネ福音書6章1節〜15節のところで更に詳しく取り上げたいと思います。

お祈りいたします。
主なる神さま。自分を主としようとする私たち一人一人の中に、恵みと真実のあなたの言葉が響き続けています。あなたの真実の生ける言葉に導かれ、力を与えられて信仰の歩みを歩んで行くことができますように、あなたを主として従っていく者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン


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「神の御名があがめられますように」 マルコ6:1-13
2021.7.4
 大宮 陸孝 牧師
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ。二人ずつ組にして遣わすことにされた。(マルコによる福音書6章6-7節)
 御自分がお育ちになられた故郷ナザレでは福音が受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、町々村々の会堂を用いる伝道は人々にはばまれたとあります。それは、主イエスがこれから始めようとなさる神の国運動は、今までの血縁の家族とか地縁共同体とは全く異質なものであることを意味していました。ですから「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で始められるのです。まず自分中心の生き方から神の御旨を求めていく生き方へと方向を変えなさいと。

 ですからその一方で時が熟して、十二弟子を全国に派遣する時が来たとの展開に発展して行くのです。この弟子たちは、3章14節にありますように、宣教につかわされるために召し出されましたが、主は弟子たちをすぐに派遣することはなさいませんでした。教育が先ず必要です。しかし、その教育はゆっくり時間をかけたものではありません。主はその宣教活動の早い時期に弟子たちの教育に一段落を付けて彼らを派遣しました。

 主イエスの教えを信奉する人が少しずつ増えて来ていました。そのような増加をもっとはかどらせるために、主イエスは 伝道の手を広げられたのでしょうか。そうではありません。主はここで一挙に決着を付けようとしておられるのです。福音を信じるかどうかの決断が、局地的になされるのではなく、全国になされる必要があったのです。刈り入れの多からんことを祈れとさとされた主は、今や全国に、弟子たちを派遣されます。

 この時の弟子派遣もまた教育の一環であったと見ることもできます。主は言うなればこの実習によって、弟子たちが後になってもっとよく伝道するようになることをもくろんでおられたのではないかとも推測できます。けれども、この派遣においてより重要なことは、明日のことではなく、今日の今のことであります。時はすでに満ちているのです。自分を中心に据えて生きている私たち人間の世界に、方向転換して神を中心にするよう悔い改めの要求を今日、全国にわたってなされなければならないのです。

 これまで、主は、ひとりひとりと人格的な出会いをされたこと、ひとりの魂の中で新しい人間の誕生が徐々に行われていくこと、一人の真剣に信じる心からもうひとつの心へと福音の証しがもたらされることが示されてきました。それは事実なのですけれども、ここにはもう一面、見過ごしてはならないことが提示されているように思います。それは、福音の宣教が全国的な規模で行われるということです。福音が少数者に誠実に信奉され、世間は何の影響も受けない、というのではなく、福音の宣教によって社会が揺れ動くということです。

 この時の十二弟子の派遣は初代の教会の伝道の仕方と関係している、と指摘する人がありますが、初代の教会だけではなく、現代の教会とも深く関わっていることを見て行かなければならないと思います。主は先ず十二人の弟子たちを呼び寄せられました。これは3:13にもあったことばですが、「召し出す」こと、召命を指しています。派遣される者はまず召命を受けたものなのです。私たちは主に召されて主の身元に行き、主に遣わされて使命の場へと出て行く者であります。召集と派遣は教会の呼吸のようなものです。それが起こらなくなったときは、教会が死んだときであります。主のもとに帰ることを忘れたキリスト者は放蕩息子であり、迷える子羊であります。外に向かってどんなに活発に動いても、それは単なる人間的な事業に過ぎません。主は「わたしが遣わさないのに預言者たちは走る。私は彼らに語っていないのに、彼らは預言する」(エレミヤ書23:21)と言われます。しかし他方、主が自分に与えておられる使命を自覚しないキリスト者は、惰眠をむさぼる者、神の恵みを私物化する者であります。生ける主に出会いその恵みを知った者は、言葉と行為を通してこれを証しすることが命じられています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(Uテモテ4:2)という弟子の勧めを心に受けとめなければなりません。

 さてそれで、この弟子たちの巡回伝道の規範となった主イエスの教えでは、先ず彼らの旅が二人一組でなされたことが注目されます。(7節)これは元々ユダヤ人の習慣で(ルカ7:18、ヨハネ1:37)、初代教会でもその習慣が取り入れられたものと思われます。使徒パウロもはじめはバルナバと、後にはシラスと二人で伝道の旅をしました。(使徒言行録13:2、15:40)。治安状態の良くなかった古代では、一人旅は危険で、同行者を必要としたということかもしれません。

 「一人よりも二人が良い。……倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸である」(コヘレト4:9〜10)という知恵に基づくことはすぐに想像できます。

 しかし、それよりも重要なことは、宣教の働きが個人としての働きではなく、共同の働きとして実施されていることです。もちろん神の御意志は、しばしばただ一人の人間の言葉と行動を通して現されて来ました。預言者たちの多くは、孤独な『荒れ野で叫ぶ声』でありました。主イエス御自身も孤独のうちに十字架上で息を引き取られました。ルターは宗教改革の初めのころを思い起こして、「あの時はわたしだけが教会であった」と述懐しています。しかし、そこで語られ行われたことは、決して私事ではありませんでした。預言者は「諸国民の預言者」(エレミヤ1:5)であり、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ」(イザヤ1:2)と全世界に向かって呼びかけました。キリスト者は「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)と信じています。そうだとすると、この万人に対する真理と救いが、私物化されたり矮小化されたりして伝えられることがないように、私たちの宣教の内容が常に私たちの相互の間で批判検討され、共同の福音として宣べ伝えられなければならないのです。私たちが聖書に基づいて宣教するのは、主イエスの死と復活の直接の証人である使徒たちと共に宣教することであり、使徒と二人一組になって宣教することであります。宣教は使徒的な公同の教会の業であって、個人の独白であってはならないのです。

 そして第二には、伝道者たちは無一物で伝道するように命じられています(6:8〜9)。「袋」と訳された言葉は、物をしまっておく袋ではなく、宗教家が人々から施しを受ける時に使うもので、日本流に言えば、托鉢に用いる「鉢の子」です。その袋を持つなというのですから、無所有で生きることが徹底した形で命じられているということです。

 これは一見して禁欲生活を勧めているように思われます。主イエス御自身も、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:26)と、神の配慮に一切をお任せするように命じられました。しかし、主イエスは決して禁欲主義者ではなく、人生の豊かさを喜び楽しむことをも知っておられましたから、「大食漢で大酒飲み」(マタイ11:19)とうわさされるほどでありました。ですからこの無所有の規定はただ単に禁欲的意図で言われているものではないようです。

 むしろこの命令は、弟子たちが取るものもとりあえず。出立することを促していることばのようです。つまり宣教の緊急性を示している言葉であるということです。主イエスは神の国が極めて近いと考えておられたようです。それは「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」(マタイ10:23)と言われるほどでありました、この神の国が来たときに、ユダヤの人々は、それに相応しい準備が整っていなければなりません。そのために主の弟子たちは、舟が沈もうとするときに、乗客が一人も漏れなく救命胴衣を身につけているように、そのつけ方をすべての乗客に知らせようと夢中になっている人のように、宣教に没頭しなければなりませんでした。それ故、自分のことに手間取ってはいられないのです。なりふりかまわず、時を惜しんで宣教に励み、人々の目を覚まさせるように、主は命じられたのです。

 このような姿勢は、自分たちの伝える福音が同胞全体の生死を決定する重大な意味を持っているという確信から出ています。主イエスは御自分の宣教に対して人々がどう決断するかによって、最後の審判における運命が決定すると考えておられました(8:38)。主イエスによる罪の赦しと救いとを知らされた者は、この主の力によって支えられることなしには人生を一歩たりとも先に進むことはできないことを知ります。そして、そのような力の源泉を人々にも伝えたいと願います。いや、、私たちが願うか願わないかに関わりなく、主御自身がその宣教を命じられるのです。(Tコリント9:16〜17)。主の福音を私物化してはなりません。私たちは取るものもとりあえず、宣教に励んでいかなければならないのです。

 第三に、弟子たちは伝道の旅において、一つの土地では一つの家に留まって活動するように命じられています(6:10)。伝道には人と場所を選り好みしてはならないのです。もし神さまが人間を選り好みされたならば、私たちのうちの誰が神の恵みを受けることができたでありましょうか。しかし主は人を差別なさいません。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いてくださいます。この主の分け隔てをなさらない恵みを信ずるときに、罪深い私たちも主の恵みの中にあることを信じることができるのです。そしてその様な主の恵みを伝えるためには、宣教者自身がどこまでもとどまり、誰に対しても心を打ち込まなければなりません。もっと愛すべき人、もっと優れた人物があらわれたならば、そちらに乗り換えようというような、打算的な人間関係を通じてでは、福音は伝えられません。自分の前に立つ人を隣人とし、彼のもとに留まり続けなければならないのです。私たちと生活様式の違う人、生活感覚の異なる人のところに留まることは、忍耐を要することであります。しかしそのような忍耐を通して、人間的な好みによる集団ではなく、福音に基づく主の教会が形成されるのです。

 しかし、そのことは、人にへつらい、人の好みに合わせるということではありません。それは福音による忍耐と謙虚なのであって、この福音がさげすまれ、嘲笑されるようであるならば、私たちは敢然と「足の裏の埃を払い落とし」て(6:11)抗議のしるしとするように命じられています。福音は神の恵みのおとずれでありますが、それを拒否する者には裁きとなります。福音は人間を決断の場に立たせるものであって、甘えさせるものではありません。私たちは隣人のもとに留まり続ける覚悟と共に、福音の尊厳と神の栄誉を汚すことのないよう決意をしなければならないのです。宣教の終局の目的は、多くの人々の内で恵み深い主の業が成し遂げられ、御名があがめられるようになることです。

お祈りいたします。

父なる神さま。
御名を崇めさせてください。御国を来たらせてください。私たちの中に、また隣人の中に救いの御業がなされ、御名が崇められるために、私たちをおつかわしください。

御子イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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