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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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礼拝説教


2021.10.17「神に仕える道」マルコ10:32-45
2021.10.11「新しい命への再生」マルコ10:17-30
2021.10.3「希望ー神の御旨に生きる」マルコ10:1-10

「神に仕える道」マルコ10:32-45
2021.10.17
 大宮 陸孝 牧師
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」(マルコによる福音書10章45節)
 本日の福音書の日課のところで、主イエスの歩みは、エルサレム入場の直前になりました。ここは、「イエスは先頭に立って進んで行かれた」(32節)で始まりまして、日課の少し後で、「イエスは、なお道を進まれた」(52節)で終わっています。主が前に向かって先頭に立って、進んで行かれる姿が、ここに見事に描かれています。

 イエスの一行は、エルサレムに向かって上っていく途中、エリコへ行かれました(46節)。そしてベタニヤを経て、エルサレム入城となります。この方向でエルサレムへ入られたとすれば、エリコは海抜マイナス約300メートル、そこから約35キロメートルのエルサレムは海抜約800メートルですので、1,100メートルの登山と同じことになります。それも、ユダの荒地の中を通ることになります。その行程をイエスは先頭に立って進んで行かれたのです。弟子たちは進んで行かれるイエスの後ろ姿を見て、「驚き、恐れた」(32節)と語られるのです。イエスがエルサレムでの受難と死に向って、堂々と進んで行かれる姿が浮かび上がってきます。

 その途中で主イエスは、三度目の受難告知をされました。この主の告知の言葉は、そのままその後の教会の信仰告白になっていったと考えられます。「主は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子(主)を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして主は三日の後に復活する」ここで言う異邦人とは、ローマ帝国の役人、ピラト、そして軍隊を指します。三日の後にその死から立ち上がる(復活する)主を描き、その主は今これを聞いているあなたの内に生きておられるという意味になります。ここには、永遠なる~の救いの御業を現すために堂々と進まれる主の姿を見ることができます。

 主が受難と死に向かって力強く歩まれていくのに対して、弟子たちはなかなかそれを理解できなかったという極めて人間的な物語が、次の35節から45節に記されています。それは弟子たちの中でも重要な位置を占めるヤコブとヨハネが、イエスに特別な願いをします。「主が栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人を右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と言うことでした。栄光を受けると言うことを、まるで何か人間的な特権でもあるかのように受け取ったのです。栄光とは、~からの重み、力強さを意味しています。それは、主の受難と死によって、初めてもたらされるのですが、これらの代表的な弟子たちでさえも、それを何か人間的な特別な権威、権力でもあるかのように考えてしまったのです。ここまで主と共に歩みながら、このような考え方になっていることは不思議ではあるのですけれども、私たちの信仰の歩みも、常にこのような誤った理解に陥る可能性があるのではないでしょうか。それも過ちというよりも、それを優れた理解と思い続けていることが多いのではないでしょうか。

 それに対して主の言葉は大変厳しいものでありました。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われ、さらに「あなたがたは、このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と問われました。これは、この信仰の群れ、教会が守っている二つの重要な礼典、洗礼と聖餐を指しています。

 しかしこの二人は、特権だけのことを考えていますので、単純に「できます」と答えていますが、主イエスの真意は受け止められてはおりません。そこで主は「そういうことはできるだろうが、しかし、わたしの右や左に誰が座るかは、わたしの決めることではない」(40節)と答えておられます。つまりそういうことは、神のお定めになることであって、如何なる人間の権威や権力によっても決められるものではないのです。もちろんそれは教会の権威によるものでもなく、牧師の権威や、有力な信徒の権威によるものでもないのです。私たちにとって、最後の決定は、神の御手にゆだねることなのです。

 さてそれで、この物語は更に劇的に展開されて行きます。ヤコブとヨハネのことを知ったほかの10人の弟子たちが、立腹したというのです。極めて人間的です。抜け駆けの功名に対する批判です。それに対して主は、もちろん一般的には支配者がその権威をふるうけれども、このような信仰的共同体では違うと告げられ、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい」(43〜44節)と語られました。これは、一般の社会での組織や権威とは異なっているのです。一人一人が、神の御手に委ねながら歩むのです。主が示された道は、イザヤ書52章13節から53章12節にあります「苦難の僕の歌」にありますように、ほふり場に引かれて行く羊のように、血を流すけれども、その血は、見ているわたしたちの癒やしのためであるというのです。本当に「仕える者」「~の僕」の真実の姿は、イエスの受難と死に最も明らかに示されたのです。しかし、現実的に教会のような信仰の共同体においてさえも、この弟子たちのような人間的な価値観が、まるで信仰的なものとして受けとめられることがしばしばあるのです。

 そして、最後に主イエスは、「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの(すべての)人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」(45節)と、しめくくられます。主はご自分のいのちを、「すべての人の身代金」としてささげられるのです。この「身代金」(リュトン)は、初期のキリスト者たちが、主イエスの十字架の死を解釈する時に用いられたことばです。しかもそれは、イザヤ書が53章10節に言っているように、「病に苦しむこの人(主の僕)を打ち砕こうと~は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。・・・~の望まれることは彼の手によって成し遂げられる」にある「償いの献げ物」に辿り着くのです。この「償い」(アシャム)は、本来「罪の奴隷からの解放」という意味を持っていたのです。そこで、主イエスの十字架のできごとを、初代のキリスト者たちは、この旧約聖書のイザヤ書の御言葉の完成と解釈して、すべての人々を罪から解放する献げ物と見たということになります。主は私たちがどのような状況に置かれていても、そこから「解放して」くださる救い主なのです。

 主イエスが教えておられる仕えるという言葉の本当の意味の奉仕とは、人間の自己満足のための身勝手な要求に応じられるということではありません。どんなに努力し、力を入れて奉仕しても成果の上がらない、生き甲斐も感じられない、仕えることによって自分を消耗するだけの人間の自己中心的な要求にしたがうだけのことであれば、それは不毛感、虚無感に圧倒されるだけのことです。私たちでもそのような奉仕ならばやめてしまうでしょう。しかし、主イエスが「仕えよ」と言われたのは、そのような自己中心的な人間の自己損耗と破滅にほかならないような務めを指して言っているのではありません。しかし、確かに主イエスの十字架への歩みは、主イエス自身、人々を愛し、人々に仕え、ついに御自身をすり減らしてしまうような歩みでありました。

 このような主イエスの僕としての奉仕にどれだけの意味があったのか、自己を失っても、なお意味がある奉仕とはどのような奉仕なのでしょうか。自己を破滅させることも覚悟の上でなされることは、私たち人間には全く無意味なことと映ります。この主イエスの十字架への歩みを、人間的に意味あることとして意義づけていくことは私たちにはできません。そうするには、わたしたちは余りにも虚しい存在なのです。しかし、イエス・キリストにおいて仕えて行くときに、仕えることは意味あるものとなり、またそのような生き方が可能ともなるということです。仕えること、僕となることの根拠を与えるものは、ただイエスしかおりません。このことを明らかにしているのが45節のことばなのです。

 このことを違う角度からはっきり申し上げておきましょう。わたしたちはむやみに人の僕となってはいけません<Kラテヤの信徒への手紙5章1節(新約349頁)には「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません」と警告されています。キリストを知った者は、自主の人であって、人に隷属することはありません。まして、世は悪に満ちて、しかもむなしいのですから、わたしたちが、ただ、この世の虚無のしもべになるだけであるならば、世の悪と虚しさとに仕えるほかなくなってしまいます。

 ですから、わたしたちはイエス・キリストにおいてのみ、イエス・キリストの故にのみ、人のしもべであるということを学び知らなければならないのです。パウロもUコリントの信徒への手紙4章5節(新約329頁)で、「わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたのしもべにすぎない」と言っております。身を粉にして奉仕してもなお虚しさを脱しきれない私たちの中に、一切の虚しさを克服しておいでになる十字架と復活の主が立っておられるのです。

 さらに、主は、仕えるという言葉の最も深い意味を明らかにされます。あがないとして、命を与える、と。あがないというのは、先程も考察しましたように、罪からの解放、罪の償いのための代価を意味しています。主は、今、はっきりと、ご自身の死が、罪人のための代理のつぐないであると宣言されます。これは決定的な定義です。罪を犯したがゆえに罪の報いを自ら負わなければならない人々に代わって、主イエスが~の裁きと呪いを引き受け、これによって、私たちの罪の代価は支払われ、私たちは神と和解することができた。これが、神の国が私たちのところに来たということだったのです。

 キリストの主権がそのようにして十字架の上で確立し、私たちはその主権の中に入れられました。わたしたちは贖い(あがない)の成就の中に入れられたのですから、主の御足の後に従い、神の救いの働きのための僕となって、すべての人々に神の恵みの言葉を伝えるという、信仰者の新しく仕えて行く道に徹して行きたいと思います。

お祈りいたします。

父なる神さま。あなたが御子イエス・キリストを私たちにくださったゆえに、喜びと讃美をささげます。どうか、この時にわたしたちの抱く願いを、私たちの願いではなく、あなたの願いとしてください。この世の罪のどん底に立って私たちの身代わりとなって私たちを罪から救い開放してくださった主の愛を深く覚え、その恵みの主と共にあり、主の救いの御わざに仕える喜びのうちに、自分の人生を歩んで行くことができますように、私たちをお導きください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

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「新しい命への再生」マルコ17:17-30
2021.10.10
 大宮 陸孝 牧師
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある」(マルコによる福音書10章21節)
  ペトロの第一回目の信仰告白とそれに続く山上での変貌の出来事の後、主イエスはエルサレムの十字架の道へと歩み出して行きます。本日の日課は、フィリポ・カイサリアから始まり十字架の場所へと向かう道のりの途上での出来事の一つです。32節ではこれがエルサレムへ向かう旅の途上の場面であることが確認されています。

 マルコ10章は主イエスに対する論争が継続されています。それは、結婚、子ども、財産というそれぞれ人間の生活に深く関わっている事柄の議論です。それらの人間生活の具体的なことも十字架に向かう主イエスの後を追うことに位置づけられ、考えていかなければならないこととして取り上げられているのだということです。主イエスが開いてくださった十字架への道を、わたしたちはそれぞれが生活上抱えている様々な問題をどのように整理し決断し 従っていくのかそのことが問われていくのだということでありましょう。本日は日課全体に渡って取り上げるのは長すぎますので、前半の22節までを取り上げます。

 17節「イエスが旅に出ようとされると」というところから本日の日課が始まります。この旅は先に申しましたように、エルサレムに向かう旅、つまり十字架の死に向かう旅です。そこに一人の男が近づいてきます。22節によりますと彼は富める人物であるとだけ語られています。若くて地位のある人物であったか、あるいは真面目で富める者という一般的な人物像を示しているということかもしれませんが、あらゆる人が真面目な富める者となる可能性を持っているし、そうありたいと願っている、そういう裕福で人柄も善く礼儀正しい理想的な人物を描き出しているのであろうと思われます。彼は申し分なく自己実現をした人物とさえ言うことが出来ます。そして彼はさらに自分を高めるものを求めてイエスに近づきひざまずくのです。しかし、それは言ってみればさらに自分を満たそうとする静かな貪りでしかないのです。彼はイエスに向かって走り寄りひざまずきます。これは礼拝の姿勢です。この人物は主イエスを神に関わる特別な存在と認めて自分の願いを表明しているのです。この機会を逸することはできないのです。

 彼は主イエスに「善い先生」と呼びかけますが、イエスは自分に向かって呼びかけられた「善い」という言葉を拒否しています。この人がなぜ「善い先生」という言い方をしたのか、また、イエスがなぜこの「善い」という言葉にこだわるのか、次の言葉にその謎を解く鍵があります。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」この「善い」ということは、本日のこの対話全体を見たときに大切な意味を持っていることに気づかされます。

 17節の後半では「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか」とこの人は尋ねます。彼の願いは永遠の命の継承者となることでした。この永遠の命という言葉は、マルコ福音書ではここ以外に同じ10章30節にしか出てきません。「永遠」ということばは、何よりも神の特性を表すものです。それは時間を無限に延長するということよりも、神が時間を超越した方であることを表すのです。有限な人間がこの神の永遠性にあずかるということが「永遠の命」の内容です。ここで問題になっているのも、命の時間的な長さではなく、質的な問題です。彼が得ようとしている「永遠の命」は神がもたらそうとしている「神の国」の到来を求めるというのではなく、彼自身が手にすることができるものである報酬としての永遠の命であります。彼は自分のはかりで自分がより良くなる「善」を求めているに過ぎないということなのです。

 「善い先生」という呼びかけに対する主の答えは「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)丁寧ではありますが一般的な敬称として言っているに過ぎない「善い」という彼の言葉を、主イエスは本来の神に対して用いる言葉として定義づけます。つまり「善い」という言葉はただ神に対する呼称として用いられなければならないというのです。主イエスはこの人物の言葉を取り上げて彼を神の前、つまり救い主イエス御自身の前に引き出しているのです。彼の自分自身の人生のさらなる充実を図るために何かを付け足していくというあくまでも自己中心の生き方から、神を中心とした、まさに彼が求める永遠の命である方(かた)が今彼の目の前に立っている。この方に従っていくことに永遠の命を見いだすべきである、そのことに彼の意識を向けさせたのです。

 ここに主イエスの前につまずくく人物がいます。彼は正しいものを求め、礼儀正しく真面目で誠実な努力家であったかもしれない。自分を高めること、より良い自分になることに熱心でありました。人はより高い自己のために謙遜さえ身につけることができます。しかし神の善を求めることとは、自分の内には善なるもののないことを知りその自己中心と戦うこと、自己中心を捨てて神の御心を求めることであると9月19日の説教で学んだ通りです。

 さて、主イエスは、この人に向かって旧約聖書の十戒の後半部分(出エジプト記20・12〜16、申命記5・16〜20)を語ります。十戒は前半が神と人との関係についての掟で、後半が人と人との関係についての掟です。神と共に生きようとする人にとっての根本的な要求がそこに記されているのです。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と尋ねます。

 12章28節以下の一人の律法学者との対話の中で主イエス御自身が十戒の内容の重要性を二つの掟にしてお答えになっています。そして律法学者の「先生おっしゃるとおりです。『神は唯一である。他に神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています」という答えに対して「あなたは、神の国から遠くない」と言われています。(12章29節〜34節)神の国の近接に生きることと同時に永遠の命を受け継ぐこととは、この二つの掟に生きることと深く関わっているのです。

 主イエスの前にひざまずく人物は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言います。彼はこの戒めの遵守が身についていることを自認していますが、しかしそれは彼自身がずっと自分で出来てきたことを積み重ねて来たことをいっているに過ぎません。その意味で彼は自分を子どもの頃の延長線上に自分を置いている、その上にさらに成人した大人としての善なるものを積み重ねようというのです。これは15節の「子どものように神の国を受け入れる」こととは違います。15節の子どもは、自分を開き、神の国を受け入れ、神の国に自分を委ねていることを示しているのに対して、この人物は求め、手に入れ、自分を高めることを目指し続けているということです。彼の姿はパウロになぞらえることができます。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン民族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」(フィリピ3:5以下)。しかしパウロは「しかしわたしにとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見做すようになったのです。」(同7節)と語ります。パウロにはこの人物にはない大きな転換点があったのです。

 主イエスは彼に対して「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい者に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(21節)と彼の欠乏を指摘するのです。それは一つの欠乏でありながら彼の全ての欠乏の根底にあるものです。それは、彼が神に自分を明け渡すことをしないことです。神の前にも人に対しても明け渡すことをしないままで自分を高め確保する道に終始していたことです。彼が永遠の命を受け継ぐことは自分の命を保証するものとしての意味を持つことであり、それこそ善なるものであり、それを彼は善良な仕方で求めていたのです。

 しかし、この自分を豊かにして行こうとする道は常に欠乏を生み出して行くのです。それは富が富を求めるように、自分への善なるものを得ようとしても限りがない。自己の魂の深みにおける欠乏をいっそう明らかにして行くのです。自分の内に自分で善なるものを築くことはできません。むしろ、真実に自分の心の奥底にあるものを見つめるならば、そこには深い矛盾と破れを見出す他にはありません。パウロは律法に生きることがまさにこの矛盾と、神に自分を明け渡すことができないという罪をあぶり出すことを明らかにしているのです。
 
 真実に律法に生きることは神と隣人を愛することに全存在を投入することでなければならないのですが、この豊かな男の善良さはこの深みから目を背けさせるものとなっていました。しかし、主イエスの言葉は彼の殻を破って彼を揺り動かします。持っているものを売り払い貧しい者に施すことは、十戒の後半の隣人への愛を実践するものでありました。つまり、与えられた賜物を用いて隣人に仕えて行くことこそ永遠の国を受け継ぐ生き方であると主イエスははっきりとここで宣言されているのです。そしてその宣言によって彼が子どもの頃から守ってきたと自認してきたことがはっきりと打ち砕かれたのです。そしてさらに、善き師に対してはそこから得られるものを期待するのではなくて、自分を捨ててただ従うことだけが必要なのです。自分に留まることは結局この戒めに不徹底であることを示すばかりではなく、戒めが真に求めていることに対して違反しているのです。主イエスはそのことをここで厳しく指摘し、豊かな自分に留まるか、自分を捨て「善き方」に従うかの選択を迫っておられるのです。

 主イエスの言葉はこの人物に悲しみをもたらしました。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」(22節)のです。彼の深いところで危機が生じています。しかしこの危機は彼が自分自身のあるがままを明らかにさせられた危機であります。彼は獲得する生き方を捨てることなしには真に自分が求めていた「永遠の命」に至ることがないということがわかり始めていました。永遠の命とは、自分に生きることを捨てて、「神と人を愛する」という二つの愛に生きることによって、新しく神に生きることだと示されたからです。

 そしてこの悲しみは彼に一つの道を開いてもいたのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(Uコリント7・10)彼は自分を知る悲しみを知らずにいました。自分の真の姿を知る悲しみは絶望して立ち去るか、真に救いを求めて神の憐れみに自分を委ねていくかのどちらかを選ばせることになります。彼がここで覚えた悲しみは主イエスの愛によって生じさせられたものであり、主イエスの愛によって導かれなければならない事柄でした。彼の悲しみは絶望へとさまよい出すようなものではなく、主イエスに従って行くことへと向かわせるものであったのです。悲しみが開く道があります。悲しみに耐えて歩むことが出来る道とは、神の国へ招く主イエスの愛を受け止めて主の招きに自分を委ねて行くことであります。この人は主イエスのもとを立ち去って行きます。しかし主イエスの開かれる道のりは十字架への悲しみの道のりであり、主がこの悲しみの道をたどられるということにおいてわたしたちへの愛を示されたのです。主はわたしたちの破れの悲しみを負ってさらに十字架への道をたどり行くのです。

 この男がたくさんの財産を持っていたことが最後に語られます。その男に主イエスは財産を捨てることが天に宝を積むことになると語りかけます。天に宝を積むということは、主イエスが御自分を捨ててこの地上に降りてこられたこと、わたしたちと同じ人間になられたこと、閉じられていた天と人との関係を主イエスが開いてくださったことによってそれが可能となるのですから、この主イエスと一つになることによって天の富に与るものになるということです。それを真に実現するためにこれから主イエスは愛と悲しみをもって十字架への道を歩んでおられるのです。この男の姿は今まで存在した全ての人間の姿でもあります。ですからわたしたち現代人の姿でもあります。自己実現が人生の目標となっているわたしたちです。そこには常に欠乏という不安が伴っています。そのわたしたちに、真の充足は自分を神に明け渡すことにしかないのだと告げているのです。再三申し上げますがそのようなわたしたちの主に従う歩みは、その先に備えられた復活という新しい救いの道を目指しての歩みであることを忘れてはなりません。主イエスが言われている天に積まれた宝とは私たちの復活の命そのものなのだと私は解釈しています。

お祈りいたします。

主イエス・キリストの父なる神様。
あなたが私たちのために主イエスを救い主としてお与えくださいますことを今日も新たに受け止めることができまして感謝いたします。自分の土の器の弱さを受け止めることがなかなか出来ない私たちを憐れんでください。私たちが自らの破れを知り、この破れを、十字架の主として受け止めてくださる、主イエスの御手に全てをお委ねする者となることができますように。挫折と破れの中にともすると自暴自棄に陥ってしまいがちなわたしたちのためにこそ、主イエスがその私たちのどん底でわたしたちのすべての行きつまりを受け止めていてくださることを心の底から知ることができますようにお導きください。

私たちの教会の群れの中で心病める者、体を病んでおります者、老齢の重荷を担い、生活の苦しみを抱え、また障碍と共に歩んでおります者、そのご家族をどうかあなたが励まし、助けてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

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「希望―神の御旨に生きる」マルコ10:1-12
2021.10.3
 大宮 陸孝 牧師
イエスは言われた。「あなたがたの心が頑固なのでこのような掟をモーセは書いたのだ」(マルコによる福音書10章5節)
  ガリラヤ、カファルナウムを去ってイエスはいよいよエルサレムへ向かいます。通常ガリラヤからエルサレムに行く人々がサマリアを避けて、ヨルダンの東側を通ったと言われるように、イエスご自身もその道を通られます。そしてそれはイエスにとっては特別な意味をもっていたようです。ガリラヤからエルサレムにヨルダン川を渡って行くには、二度の河渡りを必要とします。イエスにとってそれは単に物理的な河渡りであるばかりではありません。復活の後ガリラヤで再び弟子たちと会うまで、一度はガリラヤとの訣別であり、エルサレムで待ち受けている出来事に向っての決定的な歩みでありました。イエスにとってはまさに「ヨルダン川を渡り」後戻りできない決断の歩みであったということです。イエスとその周辺には大きな変化は見られないようでありますけれども、しかし、イエスは弟子たちに教えることに重点を移しています。集まってくる群衆も村々に定住する人たちのようでありますが、この人達に教えたことを更に弟子たちだけにその深い意味を説いて教えるという点が違っています。いやしの業は後退しています。このことは先週の説教でも申し上げました。

 10章1節はイエスがヨルダン川を渡ることによって、ガリラヤでの教えと癒しの日々は終わり、ガリラヤから新たなエルサレムでの苦難の週が待つエルサレムに向かうイエスの決定的な方向転換、移行を指し示して、その間の最後の一こまをこの10章にまとめます。理解することの鈍い弟子たち、(それは私たち自身の姿でもあるということを先週も申し上げました。)に教える最後の章となります。時の切迫の中の終章であります。二様の意味でここに時の切迫が考えられています。一つはイエスの時が迫っているということ、それは第三回目の受難予告がそれを示しています。(10章32節以降)そして、同時にその切迫は終わりの時の切迫です。イエスはこの二様の切迫を直視しながら、エルサレムに向かう途中で、群衆を教え、理解の乏しい弟子たちを教え、旅の途上最後の癒しの業を行うのです。

 旧約聖書時代に神が預言者を召し出して、神の言葉を預言者に託されるとき、神は幻の中で預言者たちに臨み、問答を通して民衆に語るべき言葉を託されるということが繰り返されます。旧約聖書では神が預言者の信仰を深めるために問答によって御自身の意思を啓示されたのです。そしてそれが新約聖書にもそのまま踏襲され、マルコ福音書でもこの形式が繰り返されているのです。

 ルターの教理問答書は、信仰の内容を問答形式で教えるものと考えられています。教える者と教えられる者、その教材としての問答書、反復の学習と暗記、このような信仰学習も欠かせないことでありましょう。これによって信仰の核心を体系的に学んで行くのですから。そして、同時にそれは生活のただ中における信仰の問答でもあると思います。ルターの教理問答はそこに根ざしたものと言えます。直接の生活背景には、それぞれの家庭での子どもの成長があります。その子どもの生活と経験のただ中での、信仰の問題についての、繰り返される一つの問い「これは何ですか」が全体を貫いています。生活面での信仰の問題とは生きるという生の経験の中で起こってくる信仰の問題、素朴にして真剣な問いであります。子どもの問いに対する親や教師の信仰告白としての答えという具体的なやりとりをここで考えられると思います。こうしたやりとりは教会や家庭に限らずどこででも、誰に対してでも起こりえます。真剣な問いに対しても、反対する者の攻撃的な、あるいは底意(そこい)を込めた問いに対しても、また、いろいろと起こってくる出来事に対しても、信仰の問答は起こりえます。答える者はまさにその生活の場のただ中で、答えにおいて信仰の告白をし、信仰の生の方向付けをするのです。

 結婚と離婚、子どもたち、所有と財産、この三つの問題を取り上げるイエスの問答はそのような信仰問答の原型であるという事ができます。問いに答えるという教育の姿勢は、申命記6章20節以下に見られる、旧約以来の伝統であります。マルコは特にこの点に注目して、福音書全体を通して、様々な問いに答えるイエスを伝えているのが特徴の一つであります。「教えるイエス」は「問いに答えることによって教える」イエスに他なりません。

 さてそれで、この最初の問答に登場して、イエスに問いを投げかけるのは、敵対している人たちであります。重装備で現れています。彼らはファリサイ派であり、律法の知識とその実践においては際立った人たちであり、これらを駆使して、イエスに問おうとしています。しかも複数です。イエスが語ることの証人になるということも考えて、二、三人うち揃っての登場です。その上彼らには底意(そこい)があります。「イエスを試そう」と思っての登場です。イエスの真意を聞こうというのではありません。イエスを罠に掛けようというのです。イエスを陥れ告発しようという相手であります。二重に三重に手強い相手であります。気を緩めたり、手抜きをして、適当に対応すればよい相手ではありません。対応を一歩間違えば、相手の思うつぼにはまることになりかねない相手であります。

 彼らは手続きに従って離婚することが、律法にかなっているかどうかを問います。律法に照らして良いか悪いかを問う問い方です。あれか、これかの答えがあり、イエスの答えそれぞれに対して、当然次の手を考えて、いずれにしてもイエスを陥れようという、読みのできた質問でした。どちらに答えても、イエスを陥れるのが彼らの狙いでした。

 この相手にどう対応するのか、門前払いという手があります。適当にあしらって、論点をはぐらかした応答で相手を追い返す手もあります。下手に出て、相手を持ち上げたうえで、お引き取り願う事を考える者もいるでしょう。居丈高に虚勢を張って、追い払うことも考えられます。イエスはそのどれでもありませんでした。堂々としており、悠々としておりました。向けられた問いを真正面から取り上げます。そしてイエスは問い返します。相手が問題にしている論点を明確にします。この質問に込められたイエスの思いは、問う者の知識を問い、かつ自らの質問に対する彼らの姿勢を最大限明らかにしようとするものでありました。「モーセが何を命じたか」というイエスの問いに対して、「許しました」と彼らが答えた時、彼ら自身この問いと答えの食い違いに気がついただろうか。イエスの意図は違いに気付かせる事にありました。このイエスの洞察の深さの前にこの答えでもう勝負ありという事でありました。語るに落ちたのです。イエスを試しに来た者たちは見事にイエスに試されてしまったのです。

 イエスは問題の核心に触れます。結婚・離婚の問題の核心にあるのはあなたたちの心の頑なさだと、・・これは今ここでの問題の論点は、論争を仕掛けてきたあなた方の心の頑なさだ、そのことをこそいまここで問題とし見つめなければならない。と言っているのです。イエスが見つめているものは、人間の結婚・離婚の問題を論じている相手の急所となる問題、つまり、神のことです。それも神の働きと、その背後にある神の意志です。人間、男と女、これをお造りになったのは神であります。問題は神の働きと、その働きの背後にある神の意志の問題であります。このことを問うことなしにはそもそも人間に関わる全ての問題は問うことは出来ません。そもそもの始めを問わなければならないということです。人間、男と女、結婚に関する神の意志は、創造の働きをなさる神の意志と意図への注目であります。「神は何の目的でこのことをなさったのか」このことをはっきりと確認しなければなりません。なれと命じ、なったときにこれを「よし」と見られた神の意志に注目すること。「良いか悪いか」の人間の判断の問題ではなく、「よし」とご覧になった神の意志からの出発が重要であるとイエスはそう言われているのです。

 人間の生と命に関する問題はすべて、究極のところ、創造の神の意志と働きに立ち戻って考えなさい、という事であります。そればかりではありません。人間の歴史に働く神の意志というならば、原初の創造においてだけではなく、救いと完成においての神の働きと意志もまた絶えず問われ続け、注目され続けなければならないのです。そしてさらにイエスのお答えはそれに尽きるものではありません。神の意志としての創造と完成のときの間、罪に堕ちた人間の弱さと頑なさ、そこに生じる様々な問題の解決策としての「赦し」も神の意志であると、そのことをしっかりと把握しなければならないということです。

 人間が最初「神が結び合わせてくださった」と信じて踏み出した場合でも、それが自分の思い込みであって、神の御心ではなかったと後で気づかされる場合もありましょう。また神の御心であっても人間の限界や罪やエゴイズム愛のなさの故に、破綻に陥るケースが現実にあります。そして、結婚を継続するそのこと自体も「罪の赦し」なしには成り立ち得ないものでもあります。神は一人一人の家庭に「罪の赦し」を与えて立ち直らせ、離婚の場合にも「罪の赦し」を与えて再出発させてくださるのです。

 結婚に関する神の定め、その出発点は神による創造の出来事であります。人間、男と女、結婚は神の定めによります。定めと言っても、人間をお造りになった神は、一人一人、男と、女をそれぞれお造りになった事を忘れてはなりません。そういう個と連の問題つまり、人間全体をお造りになった神は、またひとりひとりをお造りになったこと、一人一人が生かされて、生きることをお望みであることを忘れてはならないのです。人間それぞれのありかたや結び付きにおいても、神の普遍的な意志と、固有個別の御心とを思うべきでありましょう。神の創造は、すべて同じものを生産する工場のマスプロではないのです。教会は世界で言われている多様化にも対応を求められています。一人一人固有で、個別な男と女が、神の意志に基づいて、結婚によって夫と妻として結ばれるならば、「別々ではなく、一体である」と定められています。この結び付きも「共に」と「それぞれ」が緊張した関係で結び付いているのです。賜物も責任も共通であると同時に固有です。そのように神は結び合わせて下さっているのです。このことを共に信じて共に生きる事へイエスは招いて下さっているのです。

お祈りいたします。

教会の主なる主イエス・キリストの父なる神様。
日々新しい信仰の歩みを歩み出すことを許されて感謝いたします。あなたがその創造のご意思を貫き、たとえ私たちが不誠実であっても、私たちをかたくなな罪の思いから救い出してくださる誠実な方であることを覚えて、そのあなたの真実な愛による救いを仰ぎ、受け止め信じる者となることができますように、また私たちの世界の救いのためにも奉仕する信仰の新しい歩みを歩み出すことができますように力を与えてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン

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