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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

礼拝説教


2021.5.16「私のために祈られる主イエス」ヨハネ17:6-19new
2021.5.9「人々を生かす新しい愛の規範」ヨハネ15:9-17

2021.5.2「~の愛の招きに応えて」ヨハネ15:1-8 


「私のために祈られる主イエス」 ヨハネ17:6-19
2021.5.16
 大宮 陸孝 牧師
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」(ヨハネによる福音書17章11節)
   本日はヨハネによる福音書17章6節から19節までを先程ご一緒に朗読いたしました。この17章は大祭司の祈り、つまり、主イエスが父なる神に対して行った私たちを執り成す執り成しの祈りです。新約聖書ではここにしか出て来ない貴重な内容を私たちに伝えております。その17章1節から11節までを、主イエス・キリストの父なる神に対する祈りとして区分されます。そして17章の12節から19節までの「聖なる父なる神」に対して、主イエス・キリストが呼びかけた祈りとなっております。

 12節以下の大祭司としてのイエスの祈りは、弟子たちと世との関係に移ります。父から世に遣わされて、世にいる時を過ごし、父の栄光化の務めを果たし終え、完成して世を去ろうとするイエスが、世にいる間に、世に残される弟子たちのために祈る祈りです。弟子たちの、世との関係は短く四つ示されています、前提は、弟子たちは世から出たものであるということです。しかし、今世は弟子たちを憎んでいる。イエスを憎み、御言葉を憎み、神を憎むゆえです。(ヨハネ福音書が書かれた時代の迫害が背景となっています。)この事実はまた、弟子たちがもはや世に属していないことの証しです。父とみ子の一致につながる以上、弟子たちは世のものであり続けることはできません。もちろん、イエスの祈りがなくてはならないように、イエスとのつながりなしには、またこれを忘れては、弟子たちは再びいつでも「世に属する」ものに逆戻りし、墜ちる危険を常に自分自身の内に持っているのです。それは神を忘れ、神に背き、神に逆らう形で起こるのですが、最も危険なのは、自分は神に仕えていると言う形で起こるときです。しかし、イエスのこの祈りに支えられている限り、彼らは世に属さず、世のものではありません。そのような弟子たちを、イエスは更に世に遣わすのです。

 弟子たちの、世からの選び、聖別と、世に向かわせる派遣とを同時に含んだ祈りです。イエスを中心として、二つの相反する方向の働きかけが弟子たちに対して起こるということです。世から選ばれ、聖別されながら、弟子たちの生は、隠遁修道士の生ではない「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではない」。なお翻って、世に派遣される生であります。父の栄光を現すために世に遣わされたイエスの場合と同様に、弟子たちは今新しく御言葉の真理を、真理である御言葉を伝えるために、世に遣わされるのです。イエスの祈りに示された、弟子たちとこの世とのこのダイナミックな働きと関係に注目するところから、キリスト者とはなにか、教会とは何か、宣教とは何かがあらためて問われなくてはならないのです。同時にこの祈りは、世のための祈りを含んでいるものでもあります。「世は言葉を認めなかった」(1:10)、キリストを憎み、弟子たちも憎む世であるのに、それにもかかわらず、その世のために、弟子たちを遣わして世を救おうとするみこころに基礎づけられた祈りでありますから、「この世が救われるように」との祈りに他ならないのです。

 本日の日課の後も大祭司としての祈りはなお続きます。代々の信仰者のための祈り(20節以下)と、世の反対にもかかわらず、ご自身と弟子たちの密接な繋がりの確認の祈りです。ここに執り成しの祈りの基本があります。これが大祭司としてのイエス独自の執り成しの祈りという大切な面があることはもとより、執り成しの祈り一般の基本が示されているとも言えると思います。

 第一に、祈る自分のその時々の確認です。自分のアイデンティティの確認です。単なる存在の確認であると言うよりも、関係の確認ということです。祈りとは、先ず自分の存在の根源である神との関係で確認されるものです。弱い人間である私たちでありますから、それが私たちの側でいつも断固として確立しているということは言えない。「その時々」というのは、私たちの側では常に弱々しく、変わりやすく、移ろい易く、破れやすいということです。神の前での、そのありのままの姿の確認ということです。神はそのあるがままの私を、キリストにあって既に受け入れてくださっているのです。

 第二に祈る自分ととりなしの祈りの他者との関係の確認です。これはまた単に人間同士としての関係の確認ではなく。神を仲立ちにした関係の確認です。キリストを頭とする教会の「聖徒の交わり」の中での確認です。キリストがご自分を献げて既に受け入れてくださっている私と隣人との確認です。

 第三に差し迫った危難、緊迫した急務のための祈りです。それは大きなこと、深遠なこともあると同時に、小さな、個人的な、しかし切羽詰まった事柄であることもあります。あれもこれもと、この際だからというように並べ立てることもありません。肝心なことを祈る。今欠かせない祈りを祈るのです。その意味で執り成しの祈りは狭いとも言えます。

 しかし、同時にとりなしの祈りは広い。第四は、執り成しの祈りの射程がどれほどなのかということです。弟子たちのために祈ったイエスの祈りは、世の執り成しを含んでいます。特定の他者の、特定の祈りの課題は同時に、広く人間全般のための課題を含んでいるのです。祈りは、固有でありながら、普遍的でもあるのです。

 信仰者は皆祭司であることをルターは主張しましたが、それは、キリストと共に、他の人々のために執り成しの祈りを許される幸いを言おうとしたものです。教会は信徒のために建てられたものでありながら、同時にこの町のために立てられた、この町のための教会とも言うこともできます。この町のために祈る教会。教会も、牧師も、教会員も、「小さなキリスト」になって、宣教のために教会が建てられたその町、その村のために執り成しの祈りを続けるところから、教会の宣教は始まるのです。

 ルーテル教会が持っております伝統的な礼拝式文では、礼拝の始めの部分に、「特別の祈り」と呼んでいる祈りがありました。これは「特祷」とも「集祷」とも呼ばれた祈りで、本来「コレクトの祈り」でありました。由来を辿りますと、礼拝に集まる信徒一人一人がその日の自分の祈り、個人的な願いを一つずつ持ち寄り、牧師がそれを集めて、それらの祈りをまとめて祈ったものでした。礼拝の始めに個人的な祈りを祈る。御言葉を聞いた後に、教会は「総祷」として、執り成しの祈りを祈る。しかし、これが自由祈祷の形になり、自分の祈り、自分たちの祈りになって、執り成しの性格が失われてしまう事実に直面しています。どの教会でも結びの部分に来る祈りに、執り成しの祈りを回復しなければならない課題があると私は思います。

 500年ほど前のルターが書いたほとんどどの手紙にも「あなたのために、またはあなたがたのために祈っています」とあるそうですが、それだけではなく、それに加えて、さらに殆どどの手紙にも「私のために祈ってください」とあったそうです。他者のために執り成しの祈りをする自分が、同時に他者の祈りを必要としている自分でもあるということです。執り成しの祈りをする者はまた、他者の執り成しの祈りにも心を開いていなければならないということです。執り成しの祈りは私たち人間の間では一方通行なのではなく、双方通行なのだということを忘れてはなりません。また、それを目指さなければならないと思います。隣人のために祈る私がおり、また、隣人に祈られる私もいるのです。教会の信仰共同体の具体的な姿のひとつです。

 私たちのこうした執り成しの祈りの脈絡に、切り込み、介入する形で、イエスの大祭司としての祈りの姿があるからこそ、私たちの間の執り成しの祈りは成立しているのだということです。主イエスの大祭司の祈りに支えられ、導かれて、執り成しの祈りを許される幸いの中を歩んで、神さまとの調和を回復し、自分との調和を回復し、他者との調和を回復し、広く世界との調和を回復してゆくことが可能となるのだと思います。

お祈りをします。

父なる神さま。私たちが本当に神さまと繋がって新しい命の道を歩むことができますように、それぞれのおかれた場所で、いつも神さまに祈り、また、他者のために執り成しの祈りをして行くことができますように、一人一人を導いてください。普段の生活の中であなたを仰いで、あなたの僕としての生活をし、また、公同の礼拝においてもあなたを主として仰ぎのぞみ、救いの恵みをほめ讃えて信仰の歩みを歩んでいくことができますように私たちを導いてください。
イエスキリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン

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「人々を生かす新しい愛の規範」 ヨハネ15:9−17
2021.5.9
 大宮 陸孝 牧師
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15章12節)
   先週の主日には、私たちはヨハネ福音書15章1節~から8節のところで、ぶどうの木と枝の譬えで、主イエスと私たちの関係について学びました。そして、本日はそれに続いて再び、愛の戒めについて話は展開します。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい」というのです。この愛のテーマはヨハネ福音書とヨハネ書簡において中心的なものです。13節では友のために命を捨てる愛について語られています。

 この聖書の言葉は、信仰を持たない人でも耳にしたことのある大変有名な言葉でもあります。そして、教育者や為政者など、多くの方がこの言葉を引用して、生徒や民衆に対して自分の教え諭す言葉として用いられているのです。ですから教会外でも主イエス・キリストの言葉として知られている言葉となっているのです。しかし、その語られている脈絡、前後関係、置かれている聖書の文脈を考慮しないでその言葉が用いられるときに、聖書の告げているイエス・キリストの心、聖書の心とは全くかけ離れた意味を盛り込んでしまうという事態を招くことにもなってしまうのです。この言葉は、これを語っている主体者は誰なのか。これをはっきりさせないと、大きな過ちを犯す用いられ方を、世界の歴史の中でされてしまう大変危険な面があるということを先ず申し上げたいと思います。民衆や隣人に命を捨てることを勧め、または人道主義的な利己心を捨てて人類の福祉に役立つように、というような主張をする人は、自らがそれをするということではないのです。為政者や指導者が生徒や学童や民衆つまり国民に、その教えを自分の教えであるかのように伝えるのです。それは博愛主義もあるいは道学者も同じことです。

 本日の日課の14節には、主イエス・キリストがわたしたちに対して「わたしの命じる事を行うならば、あなたがたはわたしの友である」と、このように述べています。つまり、「友のために、命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)と言われるすぐあとで、その「友のために命を捨てるのは誰か」という問題が存在するのです。それがこの文脈で語られているのです。神の人間に対する徹底した愛を十字架の死において示された主イエス・キリストが、私たちを友と呼んでいるのです。主イエス・キリストがその友のために命を捨てているのです。つまり、十字架に示された神の愛がここでは先ず第1に問題になっているのです。それを言っているのです。それを私たちが自己流に解釈して、国民に対して、学童・生徒に対して「命を捨てなさい。それが美しい行為ですよ」と、自分は安全圏にいてそういうかけ声だけをすることがあるのです。多くの人々を死に追いやる、自爆テロもその類のひとつです。宗教家と称される人もその類の奨励をしているのです。しかし自らは安全圏にいるのです。主イエス・キリストは「あなたがたはわたしの友である。私はその友のために命を捨てる」と語ると同時に、神の愛とはそういうものである、とわたしたちの歴史においてご自身を示されたのです。

 国家的利益だけを追求し、宗教的またはイデオロギー的党派をむき出しにした抗争は二十一世紀の冒頭から、つまり十九世紀、二十世紀と続いて、二十一世紀になってもその冒頭から起こり続けています。中東や西アジアの問題だけではありません。原理主義は宗教の名において命を捨てることを奨めていますしかし、原理主義者は自らは命を捨てないのです。民衆に命を捨てさせているのです。昨今の北東アジアの諸国も同様です。どの国について私が申し上げているかは想像してください。非人間的な反平和的なことをしているのです。非人間的な行為を排除しよう、と民主と平等と平和を主張しながら、その実現手段として実は非人間的なこと、非民主的な反平和的な事をしているのです。このような残虐行為を奨める為政者や空論家たちに、この聖書の言葉を引用させてはならないのです。

 人間の尊厳や命の尊さを示されたイエス・キリストが私たちに新しい戒めとして、「わたし(神)があなたがたを愛したように、(あなたがたも)互いに愛し合いなさい」(12節)と言っているのです。その前提の部分である「私があなたがたを愛したように」という箇所を告げないで「あなたがたも互いに愛し合いなさい」などと言ってもそれは美辞麗句に過ぎないのです。それは単なる道徳に過ぎないのです。友のために命を捨てるような行為をなし得ないわたしたちにもかかわらず、そのことばをわたしたちが新しい戒めとして聞くことができるのは、語っている主体者である主イエス・キリストがわたしたちの足を洗い、わたしたち友のために命を捨てるという、主イエスの振る舞い(教えと業)にわたしたちが関わることが許される恵みに与っているからです。

 私が強調したいのは、今申し上げましたように、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という聖書のことばは、それに続く「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」という主イエス・キリストのことばとの関係で読まなければ、正しい聖書の解釈にはならないということです。つまり、わたしたちを友と呼ぶイエス・キリストがその友のために十字架の死を遂げられたことが、この教えの前提となっているのです。そして主イエス・キリストによる新しい教えである「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15章12節)が示されるのです。その教えの聖書の基本的な構造をわたしたちが理解すること、これをわたしたちが喜びの訪れを理解した、つまり、聖書の中心的な事柄を理解したということになるのです。

 主イエス・キリストの十字架の死によって新しい戒め、新しい律法が与えられて、そこから普遍的な宗教であるキリスト教が成立したのです。あるいはこういうこともできるでしょう。文化、学問、技術、科学技術、芸術の基礎を与えるキリスト教が誕生したのです。ここに新しい戒めに基づく普遍的な世界宗教であるキリスト教が生じたのです。この新しい戒めの規範、つまりわたしたち人間と人間の関わりの筋道の問題、換言すれば倫理の問題の基礎は、神がイエスにおいてわたしたちを愛されたという行為によって築いておられるということをヨハネ福音書は書き記しているのです。しかも主イエスにおける十字架の死に到るまで徹底して愛されたと言う事実がなければ、わたしたちが互いに平和を望み、信頼関係を築くということはなり立たないのです。繰り返しますが、この規範となるイエスの十字架の事実がなければ、お互いに愛し合うことも、父母を敬うことも、殺すなというようなことも、単なる倫理・道徳的教えと同じ、いわゆる道徳訓話に過ぎないのです。誰にでも言える言葉に過ぎないとも言えるのです。

 それで本日はもう1つのことを申し上げておきたいと思います。15節から17節のところで、16節の「わたしがあなたがたを選んだ」「わたしがあなたがたを任命した」、そのことについて一緒に考えたいと思います。ちょうどこの前の部分で、神の愛の資質を持って互いに愛することが可能となるという事を述べていますが、その直後に弟子たちに対する主イエス・キリストの愛において選ばれていること、神の使命に任命されていることに話が及んで行きます。主イエス・キリストの愛によって、私たちが友として選ばれ任命されているという状況の展開が起こっています。主イエス・キリストの愛が私たちの内側に新しい関係を樹立しているということです。

 このことは15章1節の「私はぶどうの木」5節の「あなたがたはその枝である」と言う言葉との関係で語られています。そうして「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)という言葉が示しているように、父なる神と子なる神の間に存在する一致性が、主イエスによって選ばれた弟子たちとの間にも生起すると言われています。

 神の無条件の愛と恵みに基づいて、父なる神と、子なるイエス・キリストと、あなたがたとが1つとされ、実を結ぶ、つまりあなたがたも互いに愛し合うという世界が開かれるとヨハネは言いたいのです。「私の名によって父に願う」とは祈りのことです。「なんでも与えられる」とは、特にここでは、「互いに愛し合いたい」という私たちの願いを父なる神が聞いてくださるということです。わたしたちが神の愛の人格になるということです。~の愛を持って愛し合うということです。「わたしの名によって」すなわちキリストの名によってとは、私たちが祈るとき、キリストの最も深い絆と意志の疎通の中で祈ることです。その祈りと願いは神とキリストを愛し、またわたしたちがお互いに愛し合うことだと私たちに告げています。主イエスが全身全霊を持って祈られている祈りを、私たちの祈りにするということです。わたしたちはいつも罪の赦しを祈り、また自分の願いごとを祈りますし、それはそれでよろしいのですが、この一番深い祈りと願い、神とキリストを愛し、またお互いに愛し合えるようにという祈りをこそわたしたちは先ず祈っていかなければならないのです。

お祈りします。

天の父なる神さま。
わたしたちはこの世にあって、破れや重荷や不安におののきつつ、人生を歩んでおります。このようなわたしたちのために、あなたはみ子を私たちのところに恵みをもって送ってくださいました。そして、私たちの罪にまみれた現実を贖ってくださり、私たちを一人一人受け入れ、また、共に私たちの人生を歩んでくださる、大いなる愛をわたしたちに 与えてくださいましたから、心から感謝を申し上げます。主が子と呼んでくださり、また、友と呼んでくださるゆえに、わたしたちがそれに値しなくとも、わたしたちと共に愛と恵みを持っていてくださいますから、私たちがどのような現実の破れの中にありましても、その破れの中で、あなたの恵みによって新たに生きる望みと力を頂くことができますから感謝いたします。どうかあなたが、私たちの未熟な破れた人間から、主の僕として、友として立ててくださり、わたしたちが自分を取り戻して新しく歩んで行くことができますように、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン

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「~の愛の招きに応えて」 ヨハネ15:1-8
2021.5.2
 大宮 陸孝 牧師
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書15章5節)
  後期ユダヤ教の時代の紀元前百六十年頃にマカベヤ家がシリヤ帝国を破り、ユダヤ王朝を築いた時、王朝の貨幣の紋章は葡萄の木でありました。これは、聖所の前面にある大きな黄金の葡萄の木であり、これを象徴として紋章としたものです。葡萄の木はユダヤ民族の象徴であり、聖所の黄金の葡萄の木も、ソロモンが作ったものとされています。詩篇八〇篇九節には、「あなたは葡萄の木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に拡がりました」と詠って、~がイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへと導き出してくださったことを回想しています。

 しかしイスラエルは~の期待に反して、悪しき葡萄の実を結ぶ野葡萄となってしまったのです。それは偽りの葡萄の木でした。イスラエルの民は自分たちが~の選びの民であり、~の祝福の継承者であると誇っています。しかし、まことの葡萄の木、つまり~の約束を真実に受け継ぐ者は、イエスご自身であり、ですから、イスラエルの民であることが救いの条件なのではなく、イエスに繋がって実を結ぶ者が救いに与るのだと宣言しているのが本日の福音書の日課のところであります。

 「~の民」は血縁地縁におけるイスラエルではなく、イエスに繋がって生きる生命共同体なのです。「葡萄の木」はイエスであり、そこから生え出る若枝は弟子たちであります。ですから弟子たちから生じる実りとは、彼らの宣教の働きによって、~の救いに招き入れられる教会の群れ、これこそ、ぶどうの枝に生じる実りであります。「まことの」は完全あるいは純粋を意味しておりまして、新しい教会の群れの主は、~の命そのものであると受け止めて良いと思います。(ヨハネ十一章二十五節参照)イエスの父である神は、ぶどうの木の所有者であり、その生育を自由に行うことの出来る審判者であると言われています。

 「実を結ばない木の枝はみな、父が取り除かれる」と二節にあります。ぶどうを栽培するするときに、特に注意を要するのは剪定であり、念入りな整備であります。葡萄の剪定は収穫の後で行われ、冬には幹とごく少数の枝だけになってしまいます。また葡萄の若木は植えられてから三年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって、生命力を蓄え、良き実を結ぶように手入れされます。ですから実の成らない枝は切り捨てられ、実の成る枝は徹底的に保護されることになります。「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、このような厳しい警告が発せられたのは、イスラエルの民のように、主に選ばれ、主の中に生きることを許されたにもかかわらず、主に逆らって歩む者、「わたしに繋がっている枝でありながら、実を結ばない者は、~の裁きの下にあると警告されているのであります。

 続いて主の慰めと励ましの言葉が語られます。「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。この句は第一三章一〇節の洗足の出来事を想起させます。最後の晩餐の席上、弟子たちの足を洗われた主イエスは「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけ洗えば良い」、と語られました。主イエスにある者は主イエスの語る言葉によって清くされています。み言葉が聞く者の中に働いて、神の救いの恵みを深く受けとめる信仰が養われるのです。

 「わたしにつながっていなさい」(四節)イエスは、わたしはまことのぶどうの木であり、父は農夫、そしてあなた方は枝であると語られました。父なる~、子なるイエス・キリスト、そして信徒の関係がここに明らかにされています。そしてこの関係は「繋がっている」という語によって結ばれています。動かされないでしっかりと留まっている場、それはまことのぶどうの木なるイエスであります。人間がどこかに留まり、つながるのは信頼をその根底に持っているから、ですから、この勧めは、~の救いの業に信頼し続けなさいという主の命令であり、呼びかけなのです。イエス様は私たちが繋がるべきぶどうの木として、、私たちと関わられ、わたしたち一人一人をその枝として結びつけてくださる。しかもそれを私たち一人一人の自分からの主体的決断として、信仰において主イエスにつながるように勧めたもうのです。これが本来的な自分になるということなのだというのです。別の言い方で言えば、、信仰とは形式的、名目的なものではなく、主体的な、自覚的なもの、つまり借りものではなく、自分の生きた信仰でなければならないのだということです。一人一人が主イエスと向き合いつながり、ぶどうの幹と根から発する命の力、樹液によって育ち、生きるのです。枝は孤立した自発的な欲求があるのではなく、樹液が溢れ出る時、枝は茂り、それが途絶える時、枝は枯れるのです。ですから枝であるわたしたちは自らの力で立ち、育ち、生きるのではありません。しかし私たちはいつも自分を頼り、人間の力と頭脳に望みをかけ、自己の意志によって生きようします。そういう私たちに神さまは、あなたは独り立ちできないわたしとつながって命を得ている「枝なのだよ」と語りかけておられるのです。

 枝は本来的には、つながるか離れて孤立するか自分で決断できませんし、呼びかけに応じる力をすら持たない存在であるにも拘わらず、主は「私につながっていなさい」と私たちの主体性を認めてくださり、許してくださっているのです。本来、独り立ちすることができない人間、呼びかけに応答することさえ自分の力ではできない、根と幹に依存している枝に過ぎない存在であることを認めて、それにも拘わらず、あなたはわたしにつながっていれば、実を豊かに結ぶようになると主は呼びかけておられる。そこに主の深い信頼と期待が溢れているのです。~の深い愛が私たちに迫り、私たちに注ぎ込まれているのです。

 ですから「わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である」と五節で繰り返されますこの宣言は、愛と信頼に満ちた~の祝福の言葉なのです。そして私が幹であるキリストの愛によって支えられ、守られ生かされていることを自覚的に感謝を持って自ら告白する時、主よあなたの愛から離れませんという靜かな、しかし強い決意が生み出されて来るのです。信仰とは自分一人で力んで獲得するものではなく、主の慈愛と恵み、特に無条件の赦しを覚えるとき、わたしたち一人一人のものとなるのです。

 「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と力んで言いましたペトロの決意は、一人の女の「この人もイエスと一緒にいました」という言葉でもろくも崩れ去ってしまいました。(ルカ二二:三三)しかし復活の主がペトロに現れ、「わたしを愛するか」と問いかけ、ペトロの裏切りを赦して、再び召された時、ペトロは「主よあなたがご存知です」と自らを復活の主イエスに委ね「わたしに従って来なさい」という招きに応えて、復活の証人としての歩みを全うして行ったのであります。

 復活の新しい命の約束を信じる教会の信仰につらなる生命共同体は、その活動の最終の目標を創造主である~の栄光を現すことに置いています。キリストのからだなる教会の枝として主イエスに連なりながら、一日一日を生かされるわたしたちの生活を通して、~はご自身の栄光をあらわそうとされております。ここにわたしたちの栄光があります。そのような信仰の歩みをパウロはこのように語っております。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた~の子に対する信仰によるものです。わたしは~の恵みを無にはしません」。(ガラテヤ二:二〇)

 命の主イエスに従って行く信仰の歩みが、主イエスの御ことばにしっかりと結びつき、多くの実を結ぶ時、栄光をお受けになるのは父である神であります。実りとは他でもありません。他の人々を~に招くこと、そしてその人々の中にイエスの復活の新しい命と希望と喜びの光を注ぎ入れることであります。そのように生きてこそ神さまは、私たちの命に全き充足を与えられるのです。

 今わたしたちは一つの大きな問いを持ってここに、~の前にいます。その問いとは、わたしたちはどこから来てどこへ行くのかという問いであります。この応えることの出来ない問いを持って~の前にいます。そうです、教会は、この最後の問いに対する答えを知っているからこそ、こうして存続しているのです。この点について、全く謙虚に、しかし、全く確信を持って語ることができなければ、教会は、逆に、自分たちのこの世での人生のあり方に関心を引き寄せられ、人生の重荷のもとに圧迫されている絶望者の集団ということになりましょう。そしてそれはキリストの教会ではありません。苦悩についてではなく、救いについて、疑いについてではなく、確信に満ちた新しい命の希望について、教会では語られなければなりません。教会は確固たる希望の場所なのです。

 亡くなった方々はどこにおられるのでしょうか。私たちは自分の愛していた人たちの忘れがたい印象を残している最後の姿を今目の前に想起しています。そこから先は誰もかえってくることのできない道を彼らは歩んでいます。ですから、彼らに、私たちの問いに応えさせることも出来ません。教会は彼らをではなく、復活の主を指さすのです。新しい命の創造者であり、死者の主でもあられるからです。私たちが静まって~の言葉に依り頼むならば、死は恐れるに足りません。私たちのこの世の平和ではなく、復活の主の平和が約束されているからです。私たちはそのことに子どものように望みをかけて、やがて完全な~の民として私たちを迎え入れてくださる~の恵みの御手にすべてを委ねて信仰の歩みを歩んで参りたいと思います。

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