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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年礼拝説教


★2022.4.24 「命の息吹に満たされて」 ヨハネ 20:19-31
★2022.4.17 「主は生きておられる」 ルカ24:1-12
★2020.4.10 「神に傾聴する祈り」 ルカ19:28-48
★2022.4.3 「家は香油の香りでいっぱいになった」ヨハネ12:1−6

「命の息吹に満たされて」 ヨハネ 20:19-31
2022.4.24 大宮 陸孝 牧師
「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」(ヨハネによる福音書20章21節)
 主イエスがわたしたちの罪の現実を負われて苦しみの中を歩まれ、十字架に赴かれた日々を忍ぶ受難節を、わたしたちは静かにそれぞれの歩みを振り返り、主イエス・キリストの十字架の意味を心に刻んで過ごして来ました。その中でわたしたち自らの罪深さ、弱さを思い知らされ、主イエスの十字架の恵みに今も生かされていることを改めて心に覚えながら、先週わたしたちはイースターを共に迎え、わたしたちの「罪と死」の圧倒的な支配の現実を突き抜けて、復活された主イエスの出来事の中に表された大きな恵みを、改めて皆さんとご一緒に喜び分かち合うことができました。

 主イエスの復活の出来事は、わたしたちに究極の希望を与えるものです。復活の主は、わたしたちを新しい命に招き入れ、朽ちることのない希望を与えてくださいます。そして、主が命の力をもって弱きわたしたちと常に共にあり、励まし支えてくださることを示してくださいます。もし主イエスの復活がなかったら、わたしたちには信仰が与えられることはなかったでしょうし、わたしたちを真実に生かす希望もなく、罪の暗闇の中にとどまり続けなければならなかったでしょう。

 また、もし主イエスの復活の出来事がなかったとしたら、主イエスの福音は主の十字架の死と共に消えてなくなってしまい、現代まで語り伝えられることはなかったでしょう。しかし、復活の出来事が実際に起こったからこそ、あの十字架にかけられ処刑された主イエスが「~の子」であり、「キリスト」であることがわたしたちに明らかにされ、そして今も主がわたしたちと共に生きて働き、救いの御業をなしてくださっていることが明らかとなっているのです。

 世界には主イエスの復活を信じない人も多くいます。しかし誰が主の復活を否定しようとも、主の復活の出来事は決して無になるものではありませんし、その事実がなくなることもありません。主が復活されたからこそ、弟子たちは希望を与えられ、新しい命に生かされたのです。そして弟子たちはキリストの共同体を形成し、福音を宣べ伝え、その宣教の歴史の中にわたしたちも生きることが赦されているのです。

 しかし、先週も申し上げましたように弟子たちにとって主イエスの復活の出来事は理解し難い信じることの困難な出来事でした。考えて見ればそれも無理のないことだったのだと思います。主イエスは十字架に付けられ、想像を絶する苦しみの中で息を引き取りました。本当に死んだかどうかを確かめるために、ローマの兵士は槍でイエスのわき腹を刺したと聖書には記されています。しかし主は動きません。力尽き心臓の動きも止まり、完全に死んでしまわれたのです。主イエスの亡骸は墓に葬られました。墓に葬られ死んでしまった人間が生き返ることなど、弟子たちの常識を越えている出来事だったのです。

 主イエスが復活されたという事実を知らされた弟子たちは、19節によりますと、最初は喜びが湧いてきませんでした。弟子たちはユダヤ人を恐れて、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」閉じこもっていたというのです。ここには主の復活を喜ぶ姿はなく、「恐れ」の中にある弟子たちの姿しかありません。どうして弟子たちは「恐れ」の中にあって、心を閉ざしていたのでしょうか。

 主イエスを信じて従って来た弟子たちにとって、主の十字架の死は絶望のどん底に突き落とされた出来事でした。その落胆ぶりはわたしたちの想像を超えるものであったと思います。彼らがイエスに従っていた期間は決して短くはありません。主イエスと共に生活し、主イエスのことを知れば知るほど、この方こそわたしの救い主であり、このどうしようもない社会を変革してくださるお方なんだと信じるようになりました。彼らは主イエスの教えとわざに触れる度に、新しい世界の幕開けに希望を抱き、その思いは日ごとに増していったことでしょう。主イエスのためなら命をも捨てよう、それほどの思いで弟子たちは主イエスに従って来たのです。けれども主イエスは捕まってしまいました。そして犯罪人として最も惨めな形で十字架にかけられ殺されてしまう。そのようにして弟子たちは、最も大切な存在を失ってしまいました。

 かけがえのない存在を失った喪失感が彼らを襲いました。そして「反逆者イエス」の「仲間」であるゆえに、自分たちも捕まって殺されるのではないかという「恐れ」の中に弟子たちは置かれました。ですから、「鍵をかけて」ひっそりと身を寄せ合うようにして家の中に閉じこもっていました。

 そして、弟子たちにはもう一つの「恐れ」がありました。それは主イエスを裏切り見捨ててしまったことへの後ろめたさや後悔の思いからくる恐れです。それらは弟子たちの心を締めつけ、深い心の傷となってその痛みに耐えられない日々を過ごしていたと想像されます。マグダラのマリアが言うように、あの主イエスが本当に甦ったとしたら、どんな顔をして主イエスに会うことができるだろうか。人間の弱さから犯してしまう罪が、弟子たちを取り巻いています。喪失感、恐怖感、罪責感にかんじがらめにされ、まさにどうすることもできない状態の中で、弟子たちの心は硬く閉ざされていたのでした。

 このような「恐れ」の中にある弟子たちの姿は、同時にわたしたちの姿でもあるように思います。弟子たちがユダヤ人を恐れたように、わたしたちも日々の歩みの中においてわたしたちを脅かす様々な力に恐れを抱いています。また信仰の歩みにおいても神さまの御心に生きることができず、神さまに顔向け出来ない罪や弱さをわたしたちは心の奥底に持っています。そのような「恐れ」を抱きながら硬く心に鍵をかけて生活しているのがわたしたちの現実ではないかと思います。

 そのように恐れを抱いて鍵をかけ、硬く閉ざされた家の中に閉じこもっていますと、弟子たちが全く想像もしていなかった出来事が起こります。甦りの主が来てくださったのです。主は弟子たちに言われます。「あなたがたに平和」と。主イエスは、恐れに満たされた弟子たちの真ん中に立たれ、慰めに満ちた言葉を語りかけてくださいました。「恐れ」の只中にあり、もしかしたら主イエスにさえ「恐れ」をいだいていた弟子たちにとって、甦りの主が「すでにあなたがたには平安がある」と語ってくださることにまさる喜びはなかったと思います。

 主イエスは弟子たちを叱りに来られたのでも、裁くために来られたのでもありません。この言葉の中にはご自分が弟子たちに裏切られたことに対する恨みや怒りはありません。弟子たちは甦りの主イエスにここで出会い、この言葉を聞いた時に自分たちの裏切りや罪が、すでに赦されて、平安のうちにあることを知ったのではないでしょうか。鍵がかけられ硬く閉ざされた家同様、弟子たちの閉ざされた心の中に主イエスが来てくださって、主が自ら弟子たちの閉ざされた心をその内側から開いてくださったのです。

 また主イエスは、弟子たちに、手の釘跡とやり槍によって傷つけられたわき腹をお見せになりました。主はどのような意図でご自分の傷をお見せになったのか、また弟子たちはその傷を見た時にどのようなことを感じたのか。主イエスが単に自分が十字架に付けられたあの「イエス」であることの証拠を提示し、弟子たちはそれを見て、このお方が主イエスであると認めて「喜んだ」という風に読めるのですけれどもこれにはもう少し深い意味があるように思います。

 それは、弟子たちは主イエスの傷を見た時に、主イエスの死の本当の意味が分かったのではないか。主イエスの傷は主イエスの苦しみ、そして十字架での死を表しています。そしてその傷は弟子たちの裏切りの記しでもありました。弟子たちは「あなた方に平和があるように」という主イエスの言葉を聞き、その傷を見た時、主イエスの苦しみと死が誰のためのものであったかということを悟ったのではないか、だからこそ、彼らは「喜んだ」のだと思います。そう解釈しなければ、他者の傷を見て喜ぶ真意がどこにあるかが理解できません。この罪深いわたしを赦すために、この信仰弱いわたしのために主イエスは十字架にかかってくださったのだ。そして今、甦ってこのわたしの罪を赦し、平安が既にあると語ってくださる。弟子たちはこの事実にどんなに感動したことであろうかと思います。今までに経験したことのない喜び、主イエスを裏切ったことによって、弟子たちが抱いていた罪の意識、自分ではどうすることもできずに硬くなっていった心の状態が、主イエスの愛の温もりよって、まるで氷が溶けるように和らぐ様子を表しています。弟子たちは今まで経験したことのない、喜びと主イエスの愛の温もりの中で心が満たされて行ったのではないかと思います。

 さて、恐れから解放され、喜びに満たされた弟子たちは、主イエスによって一つの使命を与えられます。「『あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」(21節〜22節)神さまが主イエスを遣わし、弟子たちに罪の赦しと希望を与えられたように、今度は主イエスが弟子たちを遣わして、すべての人々に主にある罪の赦しと希望と喜びを与えるという使命を弟子たちに与えたのです。罪の赦しの問題は、神さまと人間との関係の問題です。弟子たちに与えられた罪の赦しと希望を与える使命とは、人々を神さまとの正しい関係に立ち帰らせる働きをするということです。罪の赦しを必要としない人は、この世界に一人もいません。弟子たちは甦りの主イエスと共に、すべての人々に、罪の赦しと主にある希望を与える宣教の働きを担うことが求められています。

 そして、この働きは弟子たちの力だけで成し遂げられるものではなく、主イエスが「聖霊を受けなさい」と言われたように、何よりも「聖霊」の力によらなければ出来ない働きです。また主イエスご自身がこの言葉を語りかける時に「息」を吹きかけられたことがとても印象的です。この主イエスが息を吹きかけるイメージは、創世記2章の人間の創造物語を思い起こさせます。今、弟子たちは主イエスから命の息を吹き込まれて、甦りの主イエスを信じる者として全く新しい人間に造りかえられ、主の使命に生きる者とされたのです。

 死の中から復活された主イエスは、弟子たちに大きな力を与えられました。弟子たちは、絶望の淵からもう一度立ち上がることができ、赦された者だけが知る「喜び」を伝えるために、また主の復活の証人として力強く歩み出していきます。かつて受難と復活の予告を聞いた弟子たちは、この主イエスの言葉を十分に理解することが出来ませんでした。しかし今や、甦りの主に出会い、聖霊なる息を吹きかけられ、罪に死んで再び~の新しい命の息吹によって生かされることを実感したのではないでしょうか。「これが復活の命に与る」ということであります。

 その後の弟子たちの伝道活動には目を見張るものがありました。自分の命のために主イエスを裏切った弟子たちが、迫害の連続の中で、自らの死を恐れずに力強く伝道の働きを続けていくことができたのは、「死んでも生きる」という主の約束と希望に立ち、そして主イエスに命の息を吹き入れられ、新しい命に生きることができたからです。

 わたしたちもまた、主イエスに新しい命の息を吹きかけられ、新しい命に生かされた者です。いろいろなことがある中で、あの弟子たちと同じように、悲しみや苦しみを背負いながら歩み、恐れに満たされて心を閉ざしがちなわたしたちです。しかし、そんなわたしたちの現実のただ中に主イエスは来てくださって平安を与えてくださるのです。わたしたちのまわりの状況がすぐに変わるわけではありません。でも甦りの主イエスが新しい命を与え、このわたしと共に歩んでいてくださるのですから、これほど力強いことはありません。復活の主イエスは、わたしたちのうちに新しい命を今も、そしてこれからも注ぎ続けてくださいます。そのことをわたしたちはしっかりと受けとめて、主イエスが与えてくださる新しい命をしっかりと生きてまいりたいと思います。

 お祈りいたします。

 主なる神様。復活の主イエスを覚えて礼拝をしておりますこの聖日に、あなたの御言葉が与えられて復活の主イエスの派遣のもとに立たせていただいたことを感謝いたします。どうかわたしたちの教会がいつどのような時にもわたしたちの主イエスが天と地の一切の権能を授けられている復活の主であることを告白し続けていく教会となることができますようにお導きください。世界が戦争と混乱の中にあります時代に、わたしたちが誰がまことの主であるのかを誤ることがありませんように、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主の憐れみと愛の御手に信頼して、主の派遣を受けて伝道していく教会となることが出来ますように導いてください。病の床におられる方、人生の厳しい試練と戦いの中にある方々、心身の疲れを覚えておられる方々に癒やしと安らぎと希望を与えてください。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン

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「主は生きておられる」 ルカ24:1-12
2022.4.17 大宮 陸孝 牧師
「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカによる福音書19章40節)
 旧約聖書詩篇30篇6節に「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」と賛美の歌が記されています。主イエスが亡くなられてから悲しみの夜を過ごしました婦人たちが、「週の初めの日の明け方早く」に驚くべきことを体験いたします。イエスが葬られた墓へ行くと、墓石が転がされていて、中を見ても主イエスの体がなくなっている。そこへ天使が現れて言うには、復活して生きておられるので、ここにはおられないのだ=Aそういう説明でありました。それは、生前のイエスが度々人の子は殺されてから三日目に甦る≠ニ言っておられた通りだということを、婦人たちも思い出します。そして彼女たちは十一人の他の弟子たちのところに参りまして、これらのことをみな「知らせた」というのであります。

 そのように知らされた弟子たちの消息については、ルカ福音書は、イエスが捕らえられた時、大祭司の邸宅でペトロがイエスを知らないと否認したその時から、何一つ伝えておりません。ペトロのその後についても何も記しておりません。ところが、イエスさまの十字架の死の場面で、23章の49節に、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立ってこれらのことを見ていた」とあります。ここの「イエスを知っていたすべての人たち」という中に、弟子たちも含まれていたのであろうと思われます。

 10節の後半から11節「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。墓から帰りました婦人たちが十一人の弟子たちに「一部始終を知らせた」ということについては、9節に書いてあります。この9節の「一部始終を知らせた」というのは、事実(墓に行かない弟子たちにも報告しましたよという事実)を告げるそういう文章です。それに対して、次の10節に「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話した」と記されていますのは、報告したと言う事実を伝えるのではなくて「話し続けていた」、「繰り返し、繰り返し話し続けた」または「入れ替わり立ち替わり」マグダラのマリアもヨハナもヤコブの母マリアも「次々と話し続けた」という表現であります。

 しかし、弟子たちは、その熱心な、繰り返しの話にもかかわらず、この話が「たわ言のように思われた」といいます。「たわ言」と訳されていますこの言葉は聖書の中でここにしか出て来ない「無駄話」という意味の言葉です。弟子たちは婦人たちの熱心な繰り返し話します話を意味の無い無駄話であると聞きましたので、婦人たちを「信じなかった」そういう反応を示したということです。ここに描き出されているのは、空の墓の中で遺体を見失う混乱です。ルカは婦人たちも弟子たちも「途方に暮れる」という人間の深い困窮の実相の深みを丁寧に辿りながら、人間の不信仰によって作り出されている神との断絶による希望の道の途絶と、それに対して語られる復活という福音、すなわち、墓の中で途方に暮れて立ち尽くし、途絶えたかに見える人間の希望の道に、なお続く主イエスの救いの道、人間を追い求めて止まない神の命の光を示された物語を語っているのだと受け止めることが出来ます。

 12節では「しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」とあります。特に「ペトロ」が立ち上がって墓に走りましたのは、イエスが捕らえられたあの夜に、大祭司の屋敷の中でわたしはイエスを知らない≠ニ三度も否認をしたその罪の意識からであろうと思われます。

 あの事件の前に、わたしはどんなことがあっても大丈夫だ≠ニ豪語しておりましたのが、イエスの予告通り、見事に三回もイエスを知らない≠ニ裏切ってしまった、そのペトロが真っ先に「立ち上がって走った」というのには、イエスご自身によって語られた22章32節の執り成しの祈りがあったからだと思われます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。このイエスさまの執り成しの祈りと約束は、ルカ福音書だけが伝えているものでありますが、確かに十分な根拠があってルカは書いているのだと思います。その根拠はなにかと言いますと、この神さまの心配り配慮の事であると思います。神さまは、ペトロがどのような事態に立ち至ろうと信仰をなくさないように心配りをしておられるのです。

 そういう神さまの側の配慮に促されるようにしてペトロは墓に走って行って、墓の中に入って、そして「亜麻布しかなかった」という事実を確かめるのですが、「この出来事に驚きながら家に帰った」という結びになります。ここで「驚く」と訳されております言葉は、今まで「不審に思った」とか「不思議に思った」とか訳されてきた言葉です。ペトロにして見れば、不思議に思い、不審だなあと頸をかしげながら家に帰って行ったというところでしょう。ここまでの事実を確認して、それで、それではイエスはやっぱり復活されたのか≠ニいう結論にはいたらなかったと言うのです。「驚く、不思議に思う」、そういう所に留まっているのです。これを見ますとイエスは甦りたまえり≠ニいうキリスト教の復活の知らせというものは、どんなに信じにくいものかと言うことをわたしたちは知らされます。イエスは甦られたのだ≠ニ言う知らせは、そうたやすく信じられるものではないのです。生きる~の存在を信じていて、しかも死人の復活という教理を信じているユダヤ人のこの弟子たちが、ここまでいろいろなことを積み上げられても、なお不審に思う、「たわ言」だとしか聞けない。これがわたしたち人間の判断なのです。

 この時、弟子たちが容易にイエスの復活を信じなかったということ、これは分かるような気がします。彼らを不信仰だ、疑い深い≠ニそういうことはわたしたちには言えないのではないか、それどころか、イエスは「生きておられる」という知らせを「たわ言」のように思う。わたしもやっぱりそうだろうと思うのです。そうして「驚く」だけで、「不思議に思う」だけで帰って来るというのは、無理からぬ態度ではないかと思います。要するに、この時の弟子たちは、いわゆるカルト教的な狂信的な人間ではなかったということなのです。普通の正常な人間であったのだということが言えるのではないでしょうか。

 ずっと後になりまして、パウロが、総督フェストウス、ヘロデ・アグリッパ王たちの前でキリスト教の弁明をしました時に、パウロは、イエスが死んで三日目に甦られたことを堂々と語りました。その時フェストゥスは思わず遮って、「学問のし過ぎで、おかしくなったのだ」と反応しました。今度は
カルト型の狂信ではなくて、勉強のしすぎで世間知らずで非常識な頭のおかしくなった男、こういうタイプの話だというのであります。その時パウロは「わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです」(使徒26:25)とそう言ったのです。これはやはり、かつては「たわ言」だ、「不思議だ」と思っていたタイプの考え方を、~の配慮によって全く新しく変えられたので、イエスの復活は「真実で理にかなった」お話しなのだという受け止め方が出来るように、~の配慮によって変えられた人の言葉であるとルカは言っているのです。

 元々の人間としては、ペトロたちは、ガリラヤの湖の漁師として職業上生活上の普通の判断力を磨き上げてきた、そういう人だと思います。判断一つ間違えば舟が転覆してしまうかも知れない、言ってみれば命を賭けた仕事をしている職業人としての実際的な判断力からすれば、弟子たちが不審に思ったというのは、非常に判断力のいい人たちであったと思うのです。そして、イエスが三日目に甦ったからここにいないのだというような話は、これはやっぱり「たわ言だ」と退けてしまいたくなるような、そういう判断力を持っていた人なのだと思います。天使が言うからとか、イエスさまは預言者だからとか言っても、そういう超自然に逃げ込まないで、自分の判断力でちゃんと判断できる人たちであったということです。

 神さまは、主イエスは、そういうごく普通の生活感覚を持つ人間を変えてイエスは甦られた≠ニ言う復活の証人に新しく変えて下さったということなのです。そしてそれは上からの霊の力によるものであって、決して始めから「おかしくて」、狂信的に信じやすいタイプの人だったから、ころっと信じたと言うのではないのです。人間的には正反対なのです。こんなおかしなはなし、こんな「たわ言のような」話はわたしは絶対に信じない≠ニいうタイプの人間、それをイエス・キリストと神さまは聖霊によって内面から変えてくださったということなのです。

 これからまだまだ神さまの救いの働きは続きます。イエスの復活の証人を新らしく生み出す~の創造とはどういうことなのか、主の不思議な救いの働きを信頼しつつ学び続けたいと思うのです。わたしたちが信じておりますイエスは甦られた≠ニいう信仰は、大変しっかりとした健康な判断力を備えた人々の証言の土台の上に成り立っている、そのことを確認したいと思います。

 お祈りいたします。

 神様。わたしたち人間の通常の常識、判断力から言いますと、とても受け入れることのできないほどのことを、あなたは現実になさいました。そしてその信じがたいことをわたしたちが信じるようにと、証人を作り出し、さらにあなたの御霊を一人一人の心に注いで、証人たちの証言を受け入れることができるようにわたしたちの心を変えてくださいます。そのことによって、今わたしたちは、イエスがわたしたちに先駆けて復活し、永遠の命を示してくださり、その命へとわたしたちを召してくださることを信じる信仰を与えてくださいました。心から感謝申し上げます。

 わたしたちがこの信じがたい福音を隣人たちに根気よく語り続けることができますように、力と勇気と希望をお与えください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン

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「神に傾聴する祈り」 ルカ19:28-48
2022.4.10 大宮 陸孝 牧師
「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」(ルカによる福音書19章40節)
 主イエスのエルサレムでの最後の一週間の始まりです。主イエスのエルサレム入城から始まり、ユダヤ教指導者たちとの論争、最後の晩餐、ゲッセマネの園での祈り、逮捕、二つの裁判、ゴルゴタの丘の上の十字架上での死、そして死から立ち上がるイースターの物語と流れは続いて行きます。

 主イエスはロバの子に乗ってエルサレムへ入場なさいます。そして、「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに~を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところに栄光』」(37〜38節)ルカは「弟子たちの群れ」が、主イエスを先頭に立って進んで行かれるときに、こぞって喜び、声高らかに神を賛美したと書いています。いま、主と共に、心から喜び、声高らかに神を賛美する、そのような信仰の歩みがここに示されています。

 そして、そのときに叫ぶ歌が「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(38節)です。ルカはそれに続けて「天には平和、いと高き所には栄光」を加えます。降誕の物語で天使が語った言葉がここに繰り返されています。救い主としてわたしたちの所に来られたその方が、いまロバに乗って、預言通りやって来た、天には平和、いと高きところには、栄光~にあれという見事な賛美がここにうたわれます。これはルカの信仰告白であり、わたしたちへの証言でもあったと見ることができます。

 問題は、39節から44節までです。これは他の福音書には出て来ないルカ特有の記事です。イエスの弟子たちの~への賛美が歌われたとき、「ファリサイ派のある人々が群衆の中からイエスに向って、『先生、お弟子たちを叱ってください。』」(39節)と訴えます。なぜ、「叱ってください」と言ったかというと、主イエスが救い主ということは、ユダヤ教の観点からいうと、とんでもないことであって、救い主は世の終わりに来ると、彼らは堅く信じていたからです。現在でも、一部のユダヤ教の人々はそのように考えています。それなのに、弟子たちが、いま目の前にいるイエスは救い主で、賛美しようと言っていることがおかしいということで、ファリサイ派の人々は怒ったわけです。それに対して、「イエスはお答えになります。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す』」(40節)と。わたしたちの信仰理解には、このような世界が示されていることを、しっかりと受け止める必要があります。賛美の声がわたしたちの口から発せられなくなったとしても、石が叫ぶ、被造物が叫ぶというのです。わたしたちは、~への賛美を捧げています。だから信仰が成り立ち、礼拝共同体である教会が成り立っています。でも現実的に考えると、極めて人間的な問題のために、真の賛美が捧げられないことが起こってきます。主の名によってできあがっている教会でさえ、さまざまな問題のために、心から~への賛美が捧げられないことも起こります。しかし、その時には石が叫ぶというのです。歴史と人間を超えた絶対なる神の憐れみと愛が注がれ、否定しようもない神の御業がここで一人の人の登場で始まろうとしていることへの賛美であります。

 そして、41節「エルサレムへ近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない』」エルサレムの都に入城なさるこの日、本日、今現在を聖書は特別な意味を込めて表現します。わたしたちには、今日とは昨日に続くこの日(きょう)という思いがあります。またこの日(きょう)は明日に結び付く今日と考えています。マタイ福音書6章34節にありますように、「明日のことを思いわずらう」ことなく、「一日の苦労は、その日一日だけで充分である」と言われますように、聖書において、その日(今日)は大事な意味を持っている時と考えられています。このイエスの語っておられるその日(今日)に、対比できると思われる言葉は、ルカ21章5節にあります「神殿」ではないかと思います。その神殿は「見事な石と奉納物で飾られた」神殿です。長い時をかけ、実に長い時をかけることで、持続的・継続的に~への服従の意味を、そして信仰を見ていたということです。エルサレム神殿などはその代表格であったでしょう。

 そして、「この日」は突然のようにやってきた。何の前触れもなく突然にこの日になったというのではありません。それは創造の時以来、まさに「この日」まで、継続して予告され、示されてきた「この日」だったのですが、人にとって、~の時は突然なのかも知れません。ちょうどわたしたちとイエス様の出会いがそうであるように、でも、この主イエスとの出会いもまた何の予告なしにではありません。教会では常に語られ、示され続けてきた御方であることもまた事実なのです。

 そして、「この日にお前も平和への道をわきまえていたなら・・・」と続きます。これも同じように、時の持っている意味を、人間救済の歴史として認識し、預言者やみ使いを通して「平和への道」を示されて来ましたし、それを「その日」として、受け入れた人々の救いの歴史が旧約聖書の中に書かれています。そしてわたしたち自身、「その日」をわたしたちの教会の救済の歴史として経験してきた者でもあります。ルカ福音書ではユダヤの人々は、「その日」を知っていたはずの人々として描いています。「平和への道」をわきまえていた筈の人々であった、だからこそ、その平和を世に拡げる選民(イスラエル)とされた人々であったのでした。しかし、彼らは「この日」を、主イエスに見ようとしなかったのです。「平和」を主イエスに見なかったし、「道」を、主イエスに、見なかったのです。

 彼らは「この日」も、「平和」も、「道」も、別のところに見ていたのでした。彼らには、主イエス以外の「別」のところに、それを求めましたし、求める根拠を持っていたと思われるのです。このように「その日」を、「平和」・「道」を、他に求めることができるようにしてしまったのが、栄光の歴史を持つエルサレムであったのではないでしょうか。そして人に「見事な石と奉納物とで飾られた」偉大に見えるものこそ、継続的であり、服従のしるしであるという、ユダヤ教の信仰の生み出したものならば、それは人間を主イエスから別の、世俗的な立派さへと、人の目を向けさせてしまうということでなかったのではないでしょうか。

 イスラエルの民の場合には、自分たちが救いの先駆けとして、それに値する~の言葉を持ち、信仰の父祖アブラハムを持ち、そして永遠の都・エルサレムを持つとするならば、彼らにとっては、待望するメシアの姿と、主イエスの姿とは、必ずしも重なるものはなかったと思います。出身地にしても・系図にしても・聖書において、むしろそうでないと判断を下してしまうだけの充分な根拠を持っていたと思われるのです。聖書を聖典とし、その聖書に見るように見、考えるように考え、やはり歴史的な流れの中で、それをもって正しいとすることに従うように、ユダヤの民がそうであるということは何ら奇異なことではないと思います。しかし同時にそのことはわたしたちに一つの課題を残しているとも思います。その課題とは、~の摂理はわたしたちに隠されているということです。「しかし今は、それがお前には見えない」(42節)とは、もしかすると、知らず知らずのうちに他のものに目を奪われ思いを寄せているうちに、それに自由を奪われ、そこに安住してしまっているもの、建物や、人間的なもの・人物や、歴史、思想などであるとするならば、そしてそうであろうと思うのですけれども、ユダヤ教特有の問題であるというよりも、いつの時代にもあり得るわたしたちの問題として示されているのではないかと思います。

 43節以下 「やがて時が来て・・・」ここに書いてあることは、主が来られる決定的な時そこで何が起こるのか具体的に確定できる出来事を必ずしも示しているものではありません。この完膚なきまでに破壊され尽くす、という強い調子が、そのままわたしたちの救済の歴史そのものに当てはまるとするならば、今の時代の、如何なる地域においても、それに類似したことが起ころうとも不思議ではありません。むしろ問わなければならないのはそれを引き起こす原因であろうと思います。今のわたしたちの~との関わりの問題として捉える必要があります。~との関わり方次第では、かつて、ユダヤの民と主イエスとの間に起こったこと、つまり、神が憐れみをもって来てくださり、わたしたちを恵み深く救い取ってくださろうとしていることを見損なっているそのわたしたちの自己中心的な罪のゆえに、深刻な破局が起こりうるということでもありますし、またそれぞれの時代は、いつの時代にも似たものを持っているように思うのです。

 エルサレムに近づき、エルサレムの都がみえたとき、イエスはエルサレムのために泣いて言われた(41節)、とあります。そこまで主イエスを嘆かせた状況を思う時に、主イエスが求めた事は何だったのか、45〜46節に簡潔に書かれています。神殿の庭で礼拝をする人たちが~への捧げものをする上で必要としたものそれは「商い」でありました。~に仕えるためにと、思い込み、確信しているこの「商い」、そして人が線を引いて庭でなら許されるとしていたところ、それらは、人が長い時の中で知らず知らず育んでしまい、そのことを今やおかしいとさえ思わなくなっていました。しかし、主イエスは46節に「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われ、「盗賊の巣」にしたと言われます。これらのことについてもユダヤ教の人たちは、必ずしも無知であったとは思われません。それでも必要に迫られ、やむを得ず、許される範囲を定めて、しかも~への信仰を表す範囲ということで認め、重宝していたものであったのでしょう。

 しかし、そのことが「平和をもたらす」、「~の訪れの時を知らない」で済むようにしむけ、隠してしまっているとすれば、どうなるのでしょうか。そのような中で、主イエスは「わたしの家は祈りの家」という言葉のもとに神殿の清めを実行なさいました。ここで主イエスが祈りに込めたものは何であったのかを考えさせられます。主イエスは度々祈られ、祈りについてもその意義を示されます。それによりますと、主イエスにとっての祈りとは、ご自身の使命を常に確認すること、~に聞き従う服従の姿であり、~がその使命に生きる者に最善のことをしてくださるという確信を得ることでありました。主イエスにとって祈りとは、生きていたもう~との交流であったと思います。つまるところ、人の手の如何なるものによってでもなく、~ご自身の意志に、神ご自身の求めに従うことを、祈りの中で求めて行かれるのです。

 「主よわたしに答えてください」と求めながら、得られない思いに苦しめられ、遂に自分のために~を作る。そのような的を外したわたしたちの身勝手な生き方、それが、主イエスを悲しませたエルサレムの姿でもあったのだと思います。そのような中にいますわたしたちのために、主イエスは深く悲しまれ、わたしたちを救おうとして止まない神の愛のうちに十字架への道を歩まれておられるのです。

祈ります。

 神さま。あなたは聖霊を通してわたしたちを訪れ、わたしたちに心を配り、そしてわたしたちを平和への道へ導こうと願っておられます。わたしたちの心は頑なで、その神さまの訪れを見ることができず、知ることもせず、ただただ自分の思いと世間の人々の声にかき乱されながら生きているのが現状であります。

 どうか、そうした中で、あなたが恵み深くわたしたちに救いの福音を語りかけてくださいますとき、自分の心にあなたが訪れていてくださる日であることを自覚し、あなたの御前に深くそれを受け入れ、信じ、あなたにお答えして行くことができますように、わたしたちに真実の信仰を与えて下さい。
 
主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン。

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「家は香油の香りでいっぱいになった」 ヨハネ12:1-6
2022.4.3 大宮 陸孝 牧師
「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネによる福音書12章3節)
  本日のヨハネ福音書の日課の少し前の11章55節から57節を読みますと、イエス逮捕の機運が高まってきたことが告げられております。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを探し(56節)「居所が分かれば届け出よ」(57節)と必死に探している姿が描かれております。その結果については何も語られていません。それは、自らの権力と権威を守ることに躍起になっている彼らは所詮、イエスの居所を探し当てることもできなければ、またそこに立つことも出来ない存在であることを意味しています。イエスの居所と、ユダヤ人たちの居場所のずれ、それは彼らだけのことではないということです。
 
 このことをプロローグとして告げられ、本日の日課「ベタニアでの油注ぎ」の話へと移行してゆきます。まず1節〜2節で、「過越祭の6日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」マルタは前にも奉仕をする者としてよく描かれていましたが、重ねてここでも言われております。次いで、「ラザロはイエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」と記されております。

 このわずか2節の中に、「ラザロ」の名前が二回出て来ます。この福音書の記者が強調したいことが浮かび上がってきます。11章4節のラザロが蘇ったことへの言及と、そのラザロが主イエスの食事の席にいたと記されていますのは、神の子がそれによって栄光を受けるためであると言うことを再確認してそれをヨハネはここに記しているのだということです。

 3節〜6節 ここで、マリアによるイエスに対する信仰の表明である、ナルドの香油の話になります。「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」この足に香油を塗るのは、当時の習慣としては異例のことです。お客を歓迎して、心から家族挙げて迎える時にも、普通はそうはしないのです。

 このマリアの行為の理由は、続く7節のところで。主イエス・キリスト御自身によって明らかにされます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と、主イエスの十字架の死に言及します。敬意を表して、客に、あるいは家臣が王様にするときにも、髪にほんの一滴注ぐのが普通ですから、マリアが壺を割って香油をふり注いだということは、特別なことであったということです。この出来事の背景には、イエスという人物を、油注がれた者、すなわち、救い主メシアであると認めたくない人々がたくさんいましたが、それに対してマリアは「この方こそ、わたしの主であり、救い主キリストである」と、自らの究極の忠誠を捧げる大事な存在であることをはっきりと示した行為だったということです。ですから自分の持てるすべての大事なものを救い主に捧げたと、ヨハネは強調しているのです。

 「家は香油の香りでいっぱいになった」と表現されています。家がその芳しい香りで満ちあふれた、つまり、マリアのいるところには、主イエスと父なる神に対する全幅の信頼が満ちあふれている、また、神と人に対する愛が満ちあふれていることが描写されているのです。

 実はこれに対して対局となる伏線があります。11章39節です。ここでイエスは、マルタやイエスに付いてきた村の人たちに、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが「主よ、四日も経っていますから、もうにおいます」と言ったのです。主イエスが「開けなさい」と言ったときに、「そんなことをしても無駄です。もう四日も経っていますから腐って悪臭を放っていますよ」と言ったのです。つまりここでは主イエスの言葉をマルタは拒んだのです。主を拒むときに、わたしたちは、芳しい香りと正反対の、腐敗した臭い、悪臭を発生させるのです。ヨハネはその対比をここでしているのです。生ける主への信仰とは反対のことから生じてくるのは悪臭、または鼻を突くようないやな臭い、あるいは有害な臭いなのです。

 そのことと対比するときに、マリアの行為から芳しい、人に安らぎを与える、愛を伝える、そういう香りが充満するのです。わたしたちはよく奉仕するマルタと、静かにイエスのことばを傾聴するマリアとこういう対比で二人のことを考えますが、ヨハネはもっと厳しい信仰と不信仰という視点でこの二人を見ているように思われます。マルタは「おわりのときには、みなよみがえることは知っているけれども、いまよみがえるはずはありません」とイエスに答えて、なおユダヤ人の伝統的な信仰から抜け切れていないということです。イエスをどう見るかという点で、マルタは当時の一般のユダヤ人たちと同様奇跡行為者と見做していたということです。そういうマルタとマリアの、主イエスに対する振る舞いの対比を、ヨハネ福音書はしているのです。

 そのことを踏まえた上で、さらにヨハネ福音書はもう一つの対比をわたしたちに伝えようとしています。それはイスカリオテのユダとマリアの対比です。ユダは「そんな無駄なことをなぜするのか」といいます。「この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と主張しています。そうした方がよほど良いではないか、人々の役に立つではないかと言うのです。ユダが言っていることは、わたしたちのものの考え方や、行為と相通じるものがあります。ユダのように「そんなことをするより、こういうことに使った方がいいだろう」と言う方が、反論することが出来ない正論のように聞こえる場合が、わたしたちの日常の生活の中でもしばしばあります。しかし、事柄の本質から外れた議論、または、事柄の本質を見ていない議論になる場合があります。つまり、自分に都合のよいことだけをもっともらしく主張するのはわたしたちの間でも、日常的にしていることではないかと思います。ヨハネはそれに対して厳しいことをイエスの行為と言葉からわたしたちに伝えています。「彼がこう言っているのは、貧しい人々のことを心に掛けていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(6節)と記されています。口では貧しい人のためとか、麗しい行為を装いながら、そのようにして集めた献金を私物化していたのです。それをイエスは厳しく「そうするのは盗人だ」と言っています。

 ユダは貧しい者に心配りをしてそう言っているのではないのです。ユダは信仰の共同体を自分の利益のために利用しようとしていたのです。ただ他人の財布を握っていただけであるという指摘がヨハネ福音書でなされているのです。今日においても、募金をする事務所だけが肥大化して、それで生計を立てる団体がたくさん世界中に出て来ています。募金や献金の本来の趣旨と異なる運動に変質している団体がたくさんあり、社会問題化しています。こういう問題がイスカリオテのユダとマリアの対比で示されているのです。それをヨハネ福音書では悪魔的なユダの行為であると言っているのです。

 わたしたちは、ここで、真に言おうとしていることを聞きそびれてはならないと思います。すなわち、主イエス・キリストのために生きるということは、隣人を利用することではなくて、自分が主イエス・キリストに奉仕することなのだということです。隣人に自分の都合を押しつけて強いて奉仕させるということであってはならないのです。自分で奉仕や献金やを捧げるべきであるということです。ユダとマリア、そしてマルタとマリアの対比から、そのことを示されているのです。マリアはここで、主イエス・キリストの十字架の贖いのために香油を注いだのです。主イエスの葬りの備えの時としてその時の瞬間をとらえ、信仰深くその時を逃がさずイエスに真実に仕えたのです。これができたのは、常々マリアが主に傾聴する姿勢を持っていたからです。マリアは自分にとって大事な主イエス・キリストが取られるであろうごく近い将来の行為に対して、つまり十字架に向かう、主イエス・キリストの行為に対して、惜しげもなくすべてを捧げ、神のわざに仕えたのです。

 ここで「一リトラ」と言う珍しいことばが出て来ました。これを考察しておく必要があります。これはギリシャ、ローマの重量の単位で、326グラムです。純粋な香油ですからこれは大変な分量の香油です。お金に換金しますと三百万円相当に値する香油を、マリアはこの日のためにコツコツと貯めたお金で購入して準備していて、それを惜しげもなく主イエスの体にふり注いだということです。金銭や、それに相当する対価のものを主イエスのためにすべて捧げる行為を通して、わたしたちに問われてくることがあると思います。それは、わたしたちは何に価値を置いて生きているかということです。マリアはナザレのイエスを救い主として自分の持てるすべてを捧げた、つまり自分の人生をかけたのです。

 そしてそれに対して、それにもかかわらず、なお、自分の利害のために、生きようとするユダは、神様に自分の究極の忠誠の心を捧げようとしている真摯な人をも利用しようとしている姿が対照的に描かれているのです。

 7〜8節 マリアは主イエスの持つ死の重要性に気付いた人物です。ですから主イエス・キリストは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りのために、それを取っておいたのだから」と言われるのです。つまり、この日はラザロと一緒のテーブルに着いている主イエス・キリストの、葬りの準備の日であったということです。これが本日の聖書日課の重要なテーマでもあるのです。マリアの行為は、主イエス・キリストの十字架に赴く準備のためであったということです。

 そこにさらに重要な言葉が出て参ります。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」ということばです。これは当時ことわざのように言われている次の言葉をもじったものです。「人間の歴史では、絶えず貧しい者を生み出す」ということばです。「世界から貧しい者がいなくなることはないであろう。それ故、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15章11節)このイエスの言葉にもかかわらずユダの行為を主イエスが退けられたのはなぜなのか。

 それは、貧富の差に限らず、人間のあらゆる格差は人間の過ちにより生じるものであるということ、絶対者ではない人間が、政治、経済、法律、宗教、歴史、言語、地理などあらゆる分野の大きな進歩にもかかわらず、それらは相対的なものであるということ、完全なものではないにもかかわらず、絶対者のように世の権力者やその権力を行使する者が民衆を抑圧し、独裁のような支配形態を取っていることを問題にしているのです。当時の支配体制はそれがあたりまえのことであったのです。

 その解決をイエス・キリストが果たしたということです。人類史に存在する貧しさの問題は神に対する畏敬の念を持つことなしには解決しないと言うことを主イエス・キリストは示されたのです。マリアは、地上に働く神の顕現としてイエス・キリストに全幅の信頼を置きました。「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」という申命記の言葉は、神に起源する愛と配慮、心配りが与えられて始めて根本的に解決することだと言っているのです。この愛の力を主イエスはマリアに与えられたということです。わたしたちはこのマリアの信仰の系譜に立っている者として、神の溢れる愛を受けて行きたいと思います。

 お祈りいたします。

 教会の主であり、世界の主であるイエス・キリストの父なる神様。この聖日もわたしたちをここに招いてくださり、あなたの深い恵みの言葉によって溢れるあなたの愛で満たしてくださいましたことを感謝申し上げます。わたしたちがあなたのものとして救い取られるのは、ただただあなたの一方的な恵みによることを、今一度明らかにしてくださいましてありがとうございます。わたしの栄誉のためではなく、またわたしの益のためでもなく、ただあなたの栄誉のためにわたしたちの感謝のわざを捧げさせてください。

 あなたの助けを必要としている人々のために、あなたの愛の力によって働くことが出来るように、わたしたちを新しくしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン

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