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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年5月礼拝説教


★2022.5.29 「一致への祈り」ヨハネ17:20-26
★2022.5.22 「平和はキリストの愛によって実現する」ヨハネ14:23-29
★2022.5.15 「~の愛・・沈黙の言葉」 ヨハネ13:31-35
★2022.5.8 「神の声を聞き分る」ヨハネ10:22-30  
★2022.5.1 「キリストの内にある命への道」 ヨハネ14:1-14


「一致への祈り」ヨハネ17:20-26
2022.5.29 大宮 陸孝 牧師
「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(ヨハネによる福音書14章27節)
  ヨハネ福音書17章は、14章から16章の長大な主イエスの別れの説教に続いてささげられたイエスによる祈りであります。形式的にいうと祈りは説教から区別されるものでありますけれども、しかし、内容的にはこれは密接に関連しておりまして、16章の終わりの所で(33節)、この世での苦難を避けることの出来ない弟子たちへの励ましを最後に語ったイエスの説教は、弟子たちのために執り成す17章の祈りにおいて頂点に達していると見ることができます。主イエスはこの祈りを捧げた後に、18章1節において、ただちに十字架への道を歩み始められるのです。主は話すべきことは全て語り終え、思いを残すことなく、十字架への道を歩み始められた、という流れのなかで、17章の祈りは~の御子としての思いの根底をわたしたちに開示し、イエスとは誰であり、どのような方であるかをあますところなく証ししているということができます。

 この祈りの目標は11節後半に「わたしたちのように彼らも一つとなるため」と述べられ、その執り成しの対象が更に拡大され、イエスによって選び出された弟子たちとその弟子たちの宣教によって信仰の群れに加えられていくすべての人たちが神のもとに一つとなるということでありました。イエスの祈りは弟子たちおよび弟子たちの御言葉の働きによって信じる者となった全ての人たちとその後の教会の宣教の歴史にまで及んでいます。イエスの祈りは「すべての人を一つにして下さい」(21節)というものですが、ここで一致を願わざるを得ない具体的な危機は何であったのかは語られていません。そういうことで言うならばこの祈りは、変わることのない真実の教会のあり方が祈り求められているということができると思います。教会の一致の規範は御子イエスと父である神との一致にあります。イエスが「彼らの内におり」(23節)、「彼らもわたしたちの内にいる」(21節)ことによって「彼らも一つになる」(22節)、しかも「完全に一つになる」(23節)この父と御子、御子と弟子、さらに弟子たち相互の一致は「~の愛による一致」としても説明されます。

 愛と一致におけるこうした教会の存在そのものを通して「世は・・・信じる」ようになり、また世は「知る」ようになるといわれています。その内容は、23節の最後のところに、「また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」とあります通り、~が御子を愛しておられたように、イエスの弟子たちと、イエスを救い主と信じる人たちをも、父なる~が愛しておられたことを、世全体が知るようになるでしょう、とイエスは祈りの中で言っているのです。つまり、~はわたしたち人間を愛しておられるということを、心ある人たちは知るようになるということです。わたしたち人間は、誰でも例外なしに、~の祝福を受けて、この世に生を受けた者であると告知しているのです。これは旧・新約聖書を貫いているわたしたちへの喜びの使信、福音、メッセージであります。

 学校教育の中で、家庭教育の中で、何故、一人一人の命が尊いのかということを示す規範が、戦後の教育の中で失われていると思います。わたしたちがそのような考え方価値基準に真剣でないならば、つまり「人間とは何か」ということを真剣に考えなかったら、人間の命が粗末にされる社会を招いてしまう、ということは他の命も粗末にするということです。現代社会はそのことが危惧される事態となっています。わたしたちが尊い存在であるということは、~がわたしたちを祝福のうちに、この世に生をお与えになったという真の創造信仰を抜きに考えることはできません。

 父なる~と子なる~との関係のうちに、~の愛が存在します。子なる~を通して示された、父なる~のわたしたちに対する愛は、具体的には、キリストの十字架の出来事のうちに、~の愛がわたしたち一人一人に向けてなされた出来事として理解できるかできないか、受け止めるか受け止めないかという問題です。あの十字架のできごとのうちに、愛する御子を死にいたるまで、しかも十字架の死に至るまで、人々を愛するが故に、掛けられ、わたしたちの命をあがなってくださった。ここに~の愛の頂点があるのです。そういう理解をすることを現代に生きているわたしたちは、この主イエスの祈りを通して問われているのです。

 それで、聖書の中に頻繁に出てくる「世」という言葉について、本日の日課にも出ております、「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わにしなったことを、信じるようになります」、後には「世が知るようになります」と出て来ますが、この聖書が語る世とは何かについて理解をしておいた方が良いかと思います。新約聖書のギリシャ語原典では「世」を意味することばとして、主として、誰もが知っているコスモスということばと、アイオーンということばと、オイクメネーという、この三つのギリシャ語が出て来ます。その中でオイクメネーということばは、エコノミー、エキュメニカルなどの語源となったものであります。この三つの言葉は文脈によっては取り替えることもできるくらい意味内容が似通っております。聖書においての世ということばは、聖書独特の強調の仕方で、~に無縁の、~に敵対する勢力としてのこの世が考えられています。ヨハネ福音書のこの世というのもこのように理解して間違いではないと思います。世についてわたしたちが忘れてはならない決定的に重要なことは、~はこのようなご自身に逆らうような世を御子において徹底的に愛され、その救いのために主イエスを遣わされたことであります。(3:16〜17参照)

 目の前にいる弟子たちの宣教のことばによってイエスを信じた人々、つまり後々の教会のために祈られたイエスを知らされることは、わたしたちにとってどんなに大きな励ましとなり希望となることか、その祈りの中に既にわたしたちも含まれていたのですから。イエスが、今の時代のアジアの一隅に生きるわたしたちにも、わたしにも、あなたにも直接に関わりをもっていることを、これほど明快に証ししている言葉はありません。わたしたちは主イエスによって直接に祈られているのです。主イエスは2000年前の教会の歴史に生きた一人一人と関わりを持たれ、それだけではなく、今わたしたちにも関わりを持たれる。未来の、本日の教会に於いてなされる礼拝の説教の言葉によってイエスを信じる人々にもそれは及んでいくということです。礼拝に参加しておられる求道者の方々にも、これから教会につながるであろう方々にも関わりを持たれることは言うまでもありません。宣教に生きる現代の教会もあの時のイエスの弟子たちと全く同じ状況にあるのです。世に遣わされた教会は、世のただ中で「苦難」を回避することはできません。17章の主イエスの弟子たちへの執り成しの祈りは、今日のわたしたちにも妥当するものとして、わたしたちのために祈られている言葉として受け止めなければならないのです。弟子たちのため、また後の教会のために祈る主イエスの姿は、ご自身の体である教会のその頭(かしら)、教会の主とは執り成しの主であることをわたしたちに示しているのです。

 弟子たちに関して、またわたしたちに関して主イエスは何を父なる~に祈ったのか、主イエスの究極的な「意志」とは何であったのか。それは「彼らが一つになる」こと、まさに「すべての人」が一つになることでありました。教会が一つになることはここでどのようなことが考えられているのでしょうか。人間的な次元での一致が考えられているのではありませんし、そうした一致への努力が求められているのでもありません。執り成しの祈りにおける父なる~と御子と弟子たち、そして教会の関係は一見複雑に見えますけれども、教会の一致が教会の内におられるイエスによってもたらされるという単純な事実がいわれているのです。これをわたしたちは聞き逃してはならないでしょう。主イエスが教会の中にいることによって教会はイエスの内に、そして御子イエスと父なる~との愛の交わりの内にいることが許される。それゆえにイエスが「いますところに、共に」いることが、教会が一つであることの最終的な意味であるということになります。わたしたちがしっかり認識しておかなければならない重要な点は「一つであること」が主イエスご自身を通してのみ成立するということです。主イエスが弟子たちの内におられることから全てが始まっているのです。共にいて下さる主イエス、この主イエスに伴われて教会は父なる~との交わりに招き入れられ、御子と父なる~との一致と交わりに与ることが許される。そうして初めて教会は一つとなる。これが世に対する教会の証しであります。

 ~は主イエスご自身の存在を通して~との交わりへの「新しい生きた道」をわたしたちのために開いてくださいました。この道はまたすべての人に開かれています。「信じる人々」すべてに、~との交わりは開かれているのです。

 お祈りいたします。 

 ~様。救い主イエスはわたしたち一人一人のために愛をもって執り成しの祈りをしていてくださいます。どうかこの主の祈りによって、わたしたちがあなたの愛と恵みのもとに一つとなっていくことができますように、霊をもって導いてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン。

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「平和はキリストの愛によって実現する」ヨハネ14:23-29
2022.5.22 大宮 陸孝 牧師
「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(ヨハネによる福音書14章27節)
  本日の日課の少し前の21節には、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と記されております。神さまが御自身をわたしたちに愛において顕されるということです。フィジカルということばがあります。日本語には訳しにくいことばです。身体的・物理的あるいは、わたしたちがこの世では肉体をとって時間・空間に支配される生物学的な意味での存在であるということを現します。そのフィジカルな、肉眼で見る限りにおいて~の啓示・~の自己開示は、主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちの肉眼上の視野からはその命は終わりを遂げたと見えます。十字架の死をもって、肉眼的なわたしたちの視野からは、イエスは去ったということです。

 しかしもう少し前の16節〜17節を遡って読みますと、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事ができない。しかしあなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と記されていました。つまり、主イエス・キリストの死とこの世から去るということには、父なる神と共にある主イエス・キリストの命へとわたしたちを導くという積極的、肯定的な面があるということなのです。これが、弟子たち、わたしたち信仰者に対して示された「新しいいのち」であると告げられているのです。

 それでは「新しい命」とは何か、聖書が示そうとしている「新しい命」とは、「信仰の命」と言い換えてもよろしいかと思いますが、それは何なのか、これがなかなか分からないのがわたしたちなのだと思います。わたしたちが自分の歩みを顧みるときに、~の恵みとか、~の導きというのは、大体その時には分からないものです。何年か後に、あるいはかなり経ってから、「あゝ、あれが~の導きだったのか」「~の恵みがそこに現れていたのか」と遅まきながら気付くということがあります。困難な病気、あるいは家業や事業の一大事など、危機のただ中にいるときには分からなかったけれども、そのことを通して自分が強められたり、思いもよらない解決の道が示されたことの内に~の導きや恵みを見出すのがキリスト者の生き方です。そういう生き方、ものの考え方、見方に視点を変えられるのが信仰者の生であります。これが「新しい命にあずかる」ことであるということでしょう。それは、~の導き、救いの恵みの中では、わたしたちの死は終わりではないということ、死は「新しい生」への転換点に過ぎないということをも示されています。これがわたしたちに理解できるのは、礼拝の中で、~御自身の霊による真理の御霊がわたしたちに与えられ、~の霊がわたしの中に生き、働いてくださっているからなのです。

 身体的にはイエス様はこの世から去って行かれる。しかし、その方が、その存在を信じまた敬い、愛し、その言葉を内面深く受け止める人たちに対しては、霊的に今共にいてくださるのです。それはキリスト者の共同体、礼拝をする共同体の礼拝のただ中でのみ経験できることなのです。

 本日の日課25節〜26節には「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたに全てのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と記されています。聖霊の働きというのはそれは、いつでも主イエス・キリストの霊の働きであって、他のものではありません。生前わたしたちの中にいたと同じ主イエス・キリストが、一貫して今度は同じ人格をもって霊的にわたしたちを助け導いて下さる方として、~の御言葉として、~の御心に生きる方、わたしたちに~の御心を示す方、~の御言葉によってわたしたちを新しくされる創造者として、わたしたちといつも一緒にいてくださるということです。

 さて、それで次の27節に「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」と言われました。これは大変重要なことを私たちに告げております。この世の支配者やこの世自体が決して私たちに付与することのできない平和を、主イエス・キリストが弟子たちに、あるいはキリスト者たちに対して与えるという約束がここで宣言されているのです。ですからその平和の中味は何かということが重要なことになってくるのです。

 現代のわたしたちの状況を考えますと、内紛や国同士の紛争・戦争がありますし、部族や民族の争いもありますので、「平和」の大切さを感じて、平和と言う事を誰もが口にします。けれども、自分に、あるいは自分の属する集団や民族、あるいは自分の国に都合の良い「平和」を主張しているに過ぎないことが多いのです。心ある人はそのことにお気づきだと思います。わたしたちはいずれも自分たちに都合のよい「平和」を主張しているに過ぎない、ということを認めなければなりません。主イエスはそのことを指摘しています。

 主イエスはそれに対して「わたしの平和を与える」と言われます。「この世の支配者の平和を与える」とは言っていないのです。当たり前のようですけれども、わたしたちキリスト者は、信仰者は、そのことをしっかりと聞いていかなければならないのです。その点がもしも曖昧であるならば、さまざまな「平和」「平和」と言いながら、恣意的な平和が主張され、世界に悲惨をもたらされていくことになるでしょう。ここでは主イエス・キリストに起源する平和が問題となっているのでありまして、他の誰かに起源する平和ではないということです。そして、主イエス・キリストにおける平和というのは、弁護者、助け主、真理の御霊、聖霊が「共にいる」ということです。イエス・キリストのもとから遣わされる聖霊を抜きにしては真の平和はあり得ないと言うことです。

 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」そういう信仰の歌を高らかに歌う、そういう信仰の歌に聖書において出会います。(詩23:4)わたしたちは長い年月、悲しみの内に過ごさなければならないこともあるでしょう。失意のうちに過ごすこともあるでしょう。しかし、どこかの時点で、「主は共にいる」という信仰の歌を、心の内に、あるいは口に出して言える時が来るものであります。信仰者とはそういう者です。それはわたし自身が強いのではありません。わたしたちは怖いときには怖いし、悲しいときには悲しいし、畏怖するときには畏怖するのであります。しかし、わたしたちのその畏怖する心のうちに~が働かれるときに、弱い自分が、臆病な自分が、悲痛のうちにある自分が「強くなれる」「失意が希望に変えられる」という経験をするものです。信仰者はその経験に生きる者であります。人生のどこかの時点で、わたしたちは~の導き、聖霊の導き、働きを感じ取ることができるものです。

 27節にもどりますと、主イエスがここで言おうとなさっているのは、イエス・キリストの霊が働いている場こそが真の平和がある場所であるということです。平和とはわたしたちと~との和解が成り立っているかどうかが基本なのです。それなくしてはわたしたち人間の間での平和というものは口さきだけの平和で、ある民族の、特定のイデオロギーを信奉するグループの、あるいはある家庭の、ある個人的な恣意的な平和なのです。まさに今日の味方は明日の敵ということになるのがわたしたちの平和です。真の平和は~と人間の間にある平和が土台です。それが堅固である時に、人間と人間の間の平和は真実なもの、確かなものとなるということです。

  シャロームということばがあります。パレスティナに行くとよく耳にします。とりわけユダヤ人の社会ではよく使われています。ユダヤ人の挨拶は、「こんにちは」という代わりに、「シャローム」というのです。さようならの時も「シャローム」です。~に起源する「平和」「平安」があるように、というのがシャロームの元来の意味です。しかし現代では、その言葉は空しく響くだけです。とりわけパレスティナ地方では、それを聞くと白けてしまう現実があります。パレスティナとイスラエルは、ご存じのようにテロが頻繁に行われ、イスラエルと軍事的な紛争を繰り返しているからです。この現実は最もシャロームにほど遠いではないか、その中でわれわれは「シャローム」と言わなければならないのか、という疑問が生じているのです。~における正義と真実の愛が基礎となっていなければ、いかに聖戦(ジハード)を宣言しても、~の名を語っていても、あるいは自らの正義をかざしても、それは憎しみと恨みと破壊をもたらすだけであるということです。「シャローム」だの「聖戦」などと言っているけれども、それはヤハウエの~とは何の関係もないのです。~とわたしたちの間の和解が成り立つところにのみ、真の平和が成り立つのです。本日の、イエス・キリストが「わたしの平和をあなたがたに与える」というのは、そういうことです。

 本日の日課の少し先の31節に「わたしが父を愛し、父がお命じになった通りに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て、ここから出かけよう」といわれます。主イエス・キリストは、主イエス・キリスト御自身が父なる~の意志に徹底して従うことによって、つまり十字架の死にいたるまで父なる神の御旨に従うことによって、わたしたちと~との和解の道筋を付けてくださいました。そこに~の愛が現わされている。そこに真の平和の源泉がある。そこに向って立って歩めと主イエスはわたしたちを促しておられるのです。わたしが歩んでいる真の~との愛の和解の道をわたしと共に歩もうと主イエスはわたしたち一人一人に恵み深く呼びかけて下さっているのです。

 お祈りいたします。

 ~さま。あなたは聖霊を通してわたしたちの所に来てくださり、わたしたちに心を配り、そしてわたしたちを平和の道へ、救い主イエスへと導こうとしてくださっています。しかし、わたしたちの心は頑なで、そのイエス様がいつも共にいてくださることが見えず、知ることもせず、ただただ自分自身の思いと世間の人々の声にかき乱されながら生きているのが現状です。

 どうか、そのような罪の中にあるわたしたちに、あなたが恵み深く救いの御言葉を語りかけてください。あなたの新しい命の御言葉でわたしたちを罪の座から立ち上がらせてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン。

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「~の愛・・沈黙の言葉」 ヨハネ13:31-35
2022.5.15 大宮 陸孝 牧師
「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34節)
  本日の福音書の日課は短い節ですけれども、救い主イエスの重要な教えが一つ出て参ります。31節から32節「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。~も人の子によって栄光をお受けになった。~が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、~も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる』」とあります。この直前の30節には、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」と、大変印象深い、短い節で終わっています。この節は「ヨハネ福音書の夜」と呼ばれているところでもあります。~の栄光が「暗くされる」、「隠される」あるいは「~の栄光について偽りの宣伝活動、プロパガンダ活動が行われる」、つまりこの世の世俗の勢力、人間の罪深い闇の業が支配的になっている状況を、「夜であった」と表現していると見ることができます。この闇の出来事、ユダが裏切りのために主のもとを去るという事がらが、次の31、32節の栄光に関しての宣言と論理上繋がっているということができます。この「~の栄光をあらわす」ということについてでありますが、たとえば、ヨハネ3章14節でも、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と、十字架にかかることが言われているのですが、さらに「それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである。~は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」(15〜16節)と記されています。この聖句と本日の日課とは密接に関連しているのです。主イエス・キリストが上げられるとき、つまり~から栄光を受けるとき、わたしたちは永遠の命を得る、という非常に理解困難なことが福音書に書かれています。

 同じく8章28節に「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに(十字架に付けたときに)初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう』」このように言われております。深い意味がこの中に込められています。わたしたち人間が~の御子を十字架に付けるときに、主イエス・キリストが「かつてあり、いまもあり、未来もある存在」、つまり地上を歩まれる~に他ならないという理解が、わたしたちにできるようになるということです。これがヨハネ福音書の中心的なメッセージの一つなのです。キリスト教は十字架の宗教です。この人の子が上げられるときが来るという十字架の宗教が、わたしたちにはわからないという声が多いのです。日本において戦後の75年ほどの間にずっと言われ続けて来たことです。驚くことには、教会の中でもそのように言う人がいるのです。キリスト教のわかり難さ(にくさ)は、十字架上の主イエス・キリストの死ということです。何が分からないのか、罪の贖い(あがない)という意味がわからないということです。これが分からないということはどこに問題があるのか明瞭です。自らの内にある~に対しての罪性、パウロ風に言うならば、善いこと(~に従うこと)をしようとする自分の心の内に悪の法則(神に逆らいはなれようとする傾向)が入り込んでいると言うことを認められないということです。~との関係で自分を省みる場を持っていないそういう人が十字架の意味について、どうしても分からないというのです。その実例をわたしたちはこの後にすぐ続く34節の関連で見てみますが、その前にもう一つ申し上げておきますと「自分は、~の子を十字架に追いやるような者ではない。と思っているときには、キリスト教の中心的な問題である、イエスの「十字架の死の意味」などということについては、「時代遅れだ」「分かり難い」と思ってしまうのです。ですから、34節の「新しいいましめ」などは、自分にとっては不要であると思ったり、そう主張したりするのです。その実例としてユダがここに登場しているのです。

 そしてもう一つ注意していただきたい重要なことは、ヨハネ福音書が「栄光」という言葉を用いるとき、独特な意味を持っているということです。~御自身が自らをわたしたちの前に、あるいは歴史の中で自らを顕し示すという~の自己啓示を意味しているのです。~の栄光とは~がご自身の本質を顕す自己啓示のことなのです。

 たとえばヨハネ福音書1章14節のところで、「言は肉(体)となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と述べられております。これはイエス・キリストのうちに、わたしたちは~の栄光を見たということと同じことなのです。「それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と告げられています。

 2章では、イエスが、イエスの母と共にカナの婚礼の宴席で、最初に栄光を現します。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」(11節)と記されています。

7章18節でも言及しております。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。これはイエスにおいて顕される栄光についてのことばです。~の栄光がイエスにおいて現されるとは、イエスの十字架の死に~が顕されること、イエスの十字架というのは、はっきりと~の栄光を見ることができる時と場所であるということです。

 本日の日課では、反逆者ユダがイエスのもとを去る、その出来事が人の子が栄光を受けることとつながって行くのです。ヨハネ福音書は最初から生涯の最後の受難・十字架・復活との関わりで、栄光ということをわたしたちに語ろうとしているのです。32節はそのことを言っているのです。イエスとユダという二人の両極の人物像を描くことで、~の子の栄光が十字架のできごとに於いて、「いま、見えるようになる」という告知が、ここで力強くなされているのです。

 33節の「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』といっておりますが、これはヤハウエのいますところにあなた方は来ることが出来ないということであります。そういう状況の中で主イエスの新しい掟」が出てくるのです。この新しい掟が本日のメッセージの中核部分です。そのことを一緒に考えたいと思います。

 34節の「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」この新しい掟とは何なのでしょうか。

 マザー・テレサがこの聖書の言葉を自分の生き方の指針としておりまして、広島の原爆資料館にこの言葉を記した色紙が展示されています。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。これは、「互いに愛し合いましょう。そうすれば、このような悲惨なことは起こりません」という程度の人道主義的な軽い思想家の言葉ぐらいに扱われるのは間違いです。マザー・テレサの思いと行いの原点は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という聖書の教えにあるのであって、~の愛がわたしたちに対する掟の基礎をなしているということを強調しているのです。ところが日本では~の事が出てくると全部カットしてしまい、人目に触れないようにしてしまうそれが由々しき問題なのだとわたしは思います。英語の最初の文章は Let us love one another as God loves each of us これが日本語訳ではすっぽり抜けてしまっているのです。これでは、「わたしたちお互いに愛し合いましょう。そうすれば二度と悲惨な戦争など起こりませんよ」といくら言っても、それはお題目を並べているだけに過ぎないのです。なぜわたしたちは悲惨な問題を繰り返し起こすのか、という原因に注目する必要があります。わたしたち一人一人が~から愛されている尊い存在であると言う事を忘れないように、神さまからかけがえのない賜物としての命を全ての人が与えられているということを認識する場を持たないといけません。、わたしたちは先ず一人一人自分の命が神さまの無条件の愛を受けて生かされていることに立ち帰りましょう。これが新しい掟なのです。

 原崎百子の「わが涙よわが歌となれ」の中に次のような一文があります。「あなたがたは信ずるだろうか、この母が、あなたたちをこよなく愛していることを。・・どの一人をもかけがえのないものとして、こんなにも切ない思いで愛していることを。・・あなたがたが、この母の愛をもし信ずるならば、どうか信じてほしい、神さまの愛を信じてほしい。たとい、お母さんが天に召されても、それでも、あなたがたが信じつづけられるように。悲しみを乗り越えて生きていけるように。・・四人の子どもたちよ。・・お母さんを お母さん自身を あなたがたにあげます」

 主イエスの愛はどのような愛なのか。弟子たちとの別れは必然的なものでした。十字架上でのイエスの死は別離において完成された愛であります。一六章七節に「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われております。この逆説の意味は何でありましょうか。それはイエスの聖霊による自立の道を開こうとするものであります。(13節)。依存を生み出す愛はまことの愛ではありません。イエスがわたしたちに与えようとしている愛は、相互依存の人間同士の仲間愛ではありません。この戒めの新しさは、愛はイエスから発するものであるという新しさです。そしてわたしたちの一人一人の主体を、自立した愛の人にしてくださるのです。それですから、真の意味でわたしたちは一人一人が~の愛に応えて~の召しに応える生き方ができるようになるのです。「悲しみを乗り越えて」自立に向かわせる愛こそ真実の愛なのです。それですからイエスは自立を必要とする弟子たちにねんごろに話しかけておられます。「子たちよ」と。(33)この弟子たちはイエスによって生み出された「~の子」であります。去りゆくイエスは弟子たちの別離の寂しさを慰める言葉や、ご自分を想起させるための遺品を残しません。弟子たちがイエスの所に行くことはできない、と突き放されて、それについての説明も与えておられません。むしろイエスは課題を残すことによって弟子たちへの愛を貫かれたのだとわたしは思います。自立する弟子たちは愛の主体とならなければならなかったのです。わたしの愛を受けて愛する者になりなさいとのイエスの掟だけが真にわたしたちを一人一人自立させ、主体的にする。ですからこの掟は~からのわたしたちへの賜物でもあるのです。主体的とはいっても、人間の内側から自然に湧き起こってきたものではなく、「あなたがたは愛しなさい」という永遠者の言葉としてわたしたちに働きかけられているのです。人間的愛と歓喜の中にある時にも、また絶望と孤独の中にある時にも、「あなたは愛しなさい」という戒めは両者に真に愛の人として生きる認識の覚醒を促し、真の自立的愛の主体へとわたしたちを導こうとしているのです。そして、主イエスご自身は沈黙をもって御自身の愛を実践なされているのです。つまり、十字架への道をまっすぐ歩んで行かれたのです。わたしたちは一人一人神さまから愛をいただいて、主体的に愛の人として証しをしていくところに立つ者なのです。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたの御子イエス。キリストが、わたしたちに代わって罪の償いの死を遂げ、それによってわたしたちは神さまの赦しをいただき、恵み深い神さまとの交わりを直接受けることができる者に変えてくださいました。しかも、それを神さま御自身が愛をもって今も共にいてくださる事によって保証していてくださいますことを、心から感謝いたします。わたしたちが礼拝を守り、あなたの御言葉を聞くごとにあなたが与えてくださった愛を新しく生きる力としていくことができるようにわたしたちの頑なな心を悔い改めさせてください。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。    アーメン。

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「~の声を聞き分ける」 ヨハネ10:22-30
2022.5.8 大宮 陸孝 牧師
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。(ヨハネによる福音書10章27節)
 22節に「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と記されています。そして、続く23節で「イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」と、時に続いて場所が示されます。これはちょうど7章以下での仮庵祭において、イエスがエルサレムで、数々の教えと行いをなしたとか、盲人を癒したという9章の記事がありますが、それから三ヶ月後の祭りのことになります。「時は冬であった」11月の末から12月の始めの祭りです。

 アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年頃のことですが、その後に、ギリシャは四つのヘレニズム国家に分裂します。そのときに、シリアとパレスティナ地方を支配したアンティオコスW世・エピファネスは、自らをエピファネスと称しました。エピファニー(~が現れた)~顕現を意味する言葉を自分の名前にするなど、~の再来であるかのように振る舞いました。そしてパレスティナ地方のユダヤ人社会を支配するのに、宗教の弾圧を致しました。小民族にもかかわらず、最も統治しにくいユダヤ人社会を支配するのに、宗教を根こそぎ絶とうとしたのです。具体的にはエルサレムの神殿にギリシャのゼウス~を祀って礼拝を強いたのでした。これに対して抵抗して立ち上がったのが、今日のテルアビブとエルサレムの中間のところにある小さい村モディンのマタティアとその一族でした。父親は息子たちと共に大帝国に対して戦いを挑みました。これが紀元前168年頃のことです。そして開戦3年目にシリア側が折れて、一旦和睦が成立し、思想、信教の自由は認めるのですが、国の独立は認めないという講話条件が提示されますが、その条件を拒否して蜂起したのがマカバイ家の人たちでした。彼らは民族の独立を勝ち取る二五年戦争に突入し、結論的には25年に及ぶ独立戦争の結果、ユダヤ民族は独立を勝ち取りました。この時に、マカバイ家の人々は汚された神殿を浄めて、つまり「宮浄め」をして、新しい神殿を、破壊された神殿、汚された神殿に変えて奉献したのです。それを記念して、今日現在つまりそれからもう2150年も経っているのですが、ユダヤ教のユダヤ人たちは、ハヌカの祭りと言って大事にしているのです。これが本日のイエスさまの教えと働きの歴史的な背景となっているところであります。イエスさまが歩かれた神殿の境内、これはソロモンの回廊と呼ばれているところでした。

 そこを歩いておられると「ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』。このユダヤ人というのは民族的な意味でのユダヤ人ではなく、これは当時の主イエスに対抗したユダヤ人の一部の上層部の人たちのことであります。それに対してイエスは答えられます。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。〔つまりわたしはきちんと伝えている。7,8,9章で、人の子という新しいメシアのイメージ(像)を示したけれども、あなたたちは信じない、ということです。〕わたしが父の名によって行う業がわたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない、わたしの羊ではないからである。(主イエスは信じる人と信じない人の分裂が生じることを承知しておられます。)イエスの登場によって、イエスの教えと行いによって、人の間に分裂が生じる、~の言葉を聞く者と聞かない者、~を~として敬う者と、~を~としない者、~の座に~でないものを据える者との違いが出てくる。これが本日の主題です。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う 」。~の声に聞こうとする人たちの群れができる。そのことを本日の御言葉は伝えようとしているのです。

 人々は 主イエスに、「もしあなたがメシアであるならはっきりそう言いなさい」と告げました。人々の関心は、「イエスは誰なのか」という問題です。この問いは実は民衆がイエスに期待しているのは何なのか、ということと関連しています。先に見ました背景となっている歴史の中で改めてイエス様の言動を見ます時に見えて来ることがあるのです。わたしがメシアとしてこの世界に来たのは、あなたたちが期待しているような、見えるかたちの新しい神殿を奉献することを目的としているのではないことを主張していると理解できるのです。

 イエスは同時代の人たちに対して、新しい神殿の建設について述べているのです。マルコ福音書14章58節に出て参ります「わたしは三日で神殿を建て直す」と言って、みんなに嘲笑されたという記事がありますがそれと関連していると見ることができます。ここでイエス様は、キリストを頭とする教会、つまりイエスさまの教えと業を正しく伝達している信仰の共同体である教会のことを、ハヌカの祭りで人々に示しているのです。本当の神殿というのは地上を歩まれる~、別の言葉で言うならば、イエスのうちに働かれる「ヤハウエ」の教えと業をわたしたちが見る、そのイエスの内にという場所が問題となっているのです。今問いを発したユダヤ人にとっては、その「場」をイエスの内に見るか見ないかということが問われているのです。

 今日のわたしたちに置き換えるならば、わたしたちは、わたしたちの教会で百年以上にわたってなされ続けて来ている礼拝において、~を賛美し、~の言葉に聞く神殿を奉献するかしないかが問われていると理解することができるのです。それが「良い羊飼い」つまり十字架におかかりになって、人々を贖う良い羊飼いとして描き出されている意味です。旧約聖書の中で、様々な預言との関係で、またはメシア待望との関係で示されてきた良い羊飼いのイメージと根本的に違う事柄を、イエスはヨハネ福音書の10章の良い羊飼いの譬えをもって示されているのです。そしてその中で「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と述べておられます。(27節〜28節)三ヶ月前の仮庵祭で、イエスが、キリストであることをはっきり述べられたにもかかわらず、ユダヤ人たちはそれを理解しなかったと指摘されています。イエスの言葉を聞こうとしないということこれが問題なのです。聞く耳を持たないから理解しないのです。~の声を聞いて聞き分けることができないのです。なぜなのでしょうか。それは~に代わるものを自らの~としてそれに聞き従おうとしているからです。~の声をきくことができないことを~のせいにすることはできません。わたしたちが~に代わるものを自らの~として、それに聞き従っていないかということを反省する必要があります。これはわたしたちの価値観、人生観の問題に繋がっていく問いであります。現代人であるわたしたちが、神のことを、聖書のみ言葉に聞こうとしてきたかどうかという問題です。キリスト者とは、イエス・キリストとその御言葉に聞こうとしている人たちです。わたしたちの大部分はそういう人たちです。しかし教会に来ていても聖書に聞こうとしていない人も現実にはいるのです。残念ながら、わたしたちのこの百年の教会の歴史の中で、そのことが露呈しているのです。自分の都合の良い聞き方を聖書の中からするけれども、聖書そのものに聞こうとはしないということです。

 アセスメントという言葉があります。査定するとか評価するとかいう意味で経済用語としてよく使われます。わたしたちの信仰生活が習慣化してしまいますと、査定する基準、判断する基準、評価する基準をどこにおくかということが、曇って不明確になったり、ずれてしまったりしてゆきます。つまりイエス様の言われることやなさったこと、振る舞いを評価したり、理解したり、あるいは判断したりすることが、いつの間にかわたしたちの、一人一人の自分勝手な基準に偏ってしまっていたりしているのではないかという問題です。もちろんキリスト者ではない人はそうであるのは当然のことでありましょう。問題は洗礼を受けて信仰者とされた者がその心の内側に、各々が自分勝手に作り上げている基準に従って、聖書を理解したり、キリストのことを考えたり、イエスの教えや教会のことを考えることなのです。それを意識的にする人もいますし、無意識的にする人もいます。

 イエス様御自身が、その点をはっきりと示しています。一つ例をあげます。8章14節〜15節に「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかしあなたがたはわたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。(あなたたちの判断基準は何かを明確にする意味で)あなたたちは肉に従って裁くが、わたしは誰をも裁かない」と言われています。この肉によって裁くということで、まさにそれが神聖な領域に、わたしたちの歴史を超えたところに究極の判断基準を置くことをしないで、歴史の内側のことを基準にしていないかとイエス様は言っておられるのです。このようにして、イエスを救い主と告白する者、つまり信仰者とそうでない者とが生じるということです。その現実をわたしたちは本日のイエスさまの御言葉から直視する必要があるということです。そこでわたしたちがすべきことは、一人でも多くの人がイエスにおいて示されている教えを自らの判断基準とするという謙虚さを持つことであり、またそのようにできるよう祈り願うことであります。主の祈りにありますように、み心が天に於いて行われるように、地の上でも行われますようにと祈ることです。

 イエスを主または救い主と信じるということは、イエス・キリストの内に、働かれる~を見るということです。わたしたちが~の臨在を認識するのに、エルサレムの丘にそびえ立つ物理的な目に見える神殿をもはや必要としないということです。大事なことはわたしたちの時代に具現化された「ヤハウエ」の~それをイエス・キリストの内に見るか見ないかということです。それはわたしたちにとっては、イエスの名によって行われる、教会の礼拝と聖書の解き明かしにおいて見ることです。

 わたしたちの教会はこれを大事にしていくときにのみ、まことの主であるイエス・キリストを証しする信仰の群れとして、よき信仰の共同体を形成していくことができるのです。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたは、あなたの御子イエス・キリストを生けるあなたの言葉としてわたしたちに与えてくださり、わたしたちを悪から救い、御国の子としてあなたのみもとに行くまで、主イエスの御言葉を通してわたしたちを導いてくださいます。

 どうか、わたしたちがこの~の言葉を聞いて、信じて、受け入れて、従って行くことができますようにわたしたちを導いてください。

 イエス・キリストの御名を通してお祈り致します。    アーメン。

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「キリストの内にある命への道」 ヨハネ14:1-14
2022.5.1 大宮 陸孝 牧師
「心を騒がせるな。~を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」(ヨハネによる福音書14章1節)
 ヨハネ福音書の13章31節から16章の終わりまでのところは、主イエスが十字架にかかって世を去る前に弟子たちに語られた最後の教え、いわゆる「別れの説教」が記されているところであります。主イエスが弟子たちに、御自分の死の意味を教え、御自分が父なる~のもとに帰られた後に、弟子たちがどのように生きるべきかを教えられているところであります。

 このような別れの説教はヨハネ福音書独自のもので他の福音書には記されておりません。恐らく主イエスは十字架に付けられる直前には、御自分の死後の詳細な展望のようなものは持っておられなかったのではないか、嵐のように御自分に襲いかかる試練の中で御自分をただ父なる~の御手にすべて委ねる思いで死に赴いたのではないかと想像されるのです。それに対してヨハネ福音書の記者は、主イエスが十字架の死の後によみがえられて、弟子たちを立ち上がらせた、そのことを確認した者として、あの復活の主イエス・キリストであれば、弟子たちと分かれるにあたって、このように教えられたに違いないと、ヨハネ自身の心で聞いたキリストの御心を書き記したものと思われます。教会がキリストの復活後に学び知ったことを、十字架を前にしてのキリストの言葉として書き記しているのです。

 この別れの説教の本論は14章から始まっています。その前半のところで主イエスは、死を前にして弟子たちが動揺することのないように、御自分の死の意味を教えておられます。「心を騒がせるな。~を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」(14章1節)。「騒がす」と言う言葉は、海が嵐によって荒れ狂うような状態を現します。弟子たちはこれまで、主イエスが救い主として~の国を築いてくださると信じて従って来ました。それが救い主としての歩みを始められて数年後には十字架に付けられて処刑されてしまったのです。弟子たちは得意の絶頂からどん底に突き落とされて、心は海が暴風雨に荒れるような混乱状態に陥っていたのでした。しかし主イエスはそのような弟子たちに「心を騒がせるな」と、動揺しないで冷静にこの時を乗り切って行けとお命じになるのです。そのためには、弟子たちが自分の力に依り頼むのではなく、~を信じ、主イエスを信じて、その御手に自分を委ねる信仰が求められるのです。

 「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(2節〜4節)。キリストの死は、この世の生を終えて消えゆくことではなく、地上から天に移りこの世から~のもとに移ることです。しかもそれは、人間をこの世から~のもとに迎えるための通路を開き、人間に永遠の生命を与えるためです。主イエスにとって死とは消滅ではなく、この世的な存在から霊的な存在へ移ることでありました。人間は本来そのように、~のもとから来て~のもとに帰る存在として造られているのですが、この世において罪を犯し、~との関係が切れてしまっているので、帰れなくなっているのです。そのような人間の罪を主イエス御自身が引き受け、贖いの死を遂げてくださることによって、~と人間の交わりが回復され、人間は故郷に帰るように、~のもとに帰ることができるようになったのです。そのために主イエスは「あなたがたのために場所を用意しに行き」、「用意ができたら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と、御自分の死の意味を説明されています。そしてこのキリストの言葉は、ただ人間の死についてだけ言われているのはありません。

 「わたしの父の家には住むところがたくさんある」(14章2節)と言われる場合の「住む所」は、原語では、【メノー】「変わることなく留まっている」という意味のことばです。ヨハネ福音書15章に「イエスはまことのぶどうの木」の譬えがあり、ぶどうの枝である弟子たちが、幹であるキリストにしっかりと「つながっていなさい」と勧められていますが、「繋がっている」と訳されている言葉が「メノー」であり、「住む所」であります。つまり、「住む所」というのは、天国の住居という意味でもありますが、この世でしっかりと~につなげられて、この世ですでに「永遠の命」を与えられて生きる状態を指すものでもあるのです。ですからキリストの死は、~と人間との交わりを回復し、霊的に死んでいた人間を霊的に新しく生かす道を切り開くためであるということが語られているのです。

 主イエスは御自分の道が、死によって終わる行き止まりではなく、父の家に上り行く旅の関門であることを教えられたのでありますけれども、眼前に主イエスの死を突きつけられて、心が騒いでいる弟子たちには、それが実感できませんでした。そこで弟子トマスが「主よどこに行くのかわたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14章5節)と尋ねます。これに対して主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14章6節)と答えられたのです。主イエスが言われている真理とは、わたしたちがその上を主体的に歩いていって初めてわたしの命に体現される真理であると言っているのです。一般的には真理とは、わたしたちがそれを知ろうと知るまいと、それによって変わることのない、客観的な動かない原則のように考えられています。しかし主イエスがわたしが道であると言うときには、わたしたちがその上を通って歩いてみて初めて目標に辿り着くものです。ですから、そのように主イエスが教えられた真理とは、わたしたちが信仰をもってそれを受け取り、それに従って生きてみて初めて自分の命となり、力となり、希望となり、喜びとなる真理のことであります。

 主イエスが御自分を「道」であると言われたとき、その道とは~と人とを繋ぐ道のこと、~が人間に近づき、人間が~のみもとに行く道のことであります。イエス・キリストが~と人とをつなぐ仲立ち、中保者であることを示しているのです。

 イエス・キリストは一方では~の子でありながら、他方ではわたしたちの所に真の人間として下りて来られ、わたしたちと同じ人間としてわたしたちの罪の現実を共に負ってくださいました。そしてわたしたちに代わって~に近づき、~と直結して~の力をもってそれを担い、支え、癒してくださったのです。主イエスが御自分をこのような父なる~に至る道であると語られたとき、弟子のフィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(14章8節)と願い出ます。イエス・キリストが~と人とを結び合わせてくださると言うのなら、その~を見させてほしいと願ったのです。~は天地の造り主であって、世界を超越しておられるので、人間の側から~を掴み取ることも、見ることもできません。しかしわたしたちは遠い~ではなく、近い~として神さまに触れたい、そのように願ったのです。

 旧約聖書では、モーセがイスラエルの人々を導いて奴隷の地エジプトを脱出して約束の地パレスティナに行けと命じられたとき、この旅を導いているのが~だという証拠を求め、「~の栄光」を見させてくださるように願ったことが記されています。~はそれに対して「あなたはわたしの顔を見ることができない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(出エ33章20節)と言われますが、それでもモーセを岩のそばに立たせて、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(出エ33章22節〜23節)と語られました。人間は、~の臨在を間接的にしか知ることができず、直接的にはできないのです。

 ですからフィリポの願いは人間には不可能な願いなのですが、主イエスはこれに応えて、「わたしを見た者は父をみたのだ」(14章9節)、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(14章10節)と答えられました。人間として人々と共に生き、人々の目の前に現れたイエス・キリストこそ、~が人々に見える形で近づかれた姿なのです。ヨハネ福音書の冒頭で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)と言われていたことが、この14章で改めて語られているということです。

 主イエスは~に祈りを捧げるとき、また~のことを教えられるとき、「~」と呼ばれずに「父」と呼ばれます。しかもその「父」という言葉も、当時の子どもが自分の父親を呼ぶときに使う、「アッパ」という深い親愛の情のこもった言葉を使われたようであります。それが、弟子たちには大変印象深く響いたようで、弟子たちも祈りのときに、~に「アッパ」と呼びかけ、やがてキリスト教がユダヤ以外の地に広がったときに、人々は自国語の「父」という言葉に重ねて「アッパ」と呼ぶようになったので、新約聖書には「アッバ、父よ」という祈りの言葉が記されているのです。このように、主イエスは、~を父、御自分を~の子として、深い絆を覚えておられました。それで「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われたのです。後にキリスト教会は、キリストを「~の受肉」、人間となられた~と呼びました。神さまはわたしたちと一体となられるまでに近く来てくださり、、わたしたちと共に歩み、またわたしたちを担って歩んでくださるのです。

 キリストの十字架の死によって、~と人間との間に道が付けられました。そのことによって、弟子たちが全世界に伝道していく、その土台を築くと12節に言われています。ですから十字架を前にして「心を騒がせるな」と、弟子たちが心を鎮め、~の救いの働きを理解して、その働きを引き継ぐ者となるように命じておられるのです。主イエスは今もわたしたちの前に立ち「わたしは道である」と、わたしたちに歩むべき信仰の道を示し、またその道を歩んで行く力を与えてくださるのです。

祈ります。

神さま。この世にあって罪の不条理の中で苦しみ、憎しみと恨み、虚無と失望に喘ぐわたしたちの心に、わたしは道であると語りかけてくださり、わたしたち一人一人の手をとるようにして、わたしたちを天の父なるみもとに連れて行く道となりたもう主イエスをわたしたちの所に送ってくださいました。間違いなく天の御国へと導いていただけるようにこの主イエスにわたしたちがしっかりと繋がり、命の道を歩み通すことができますように守り導いてください。

主イエスキリストの御名によって祈ります。   アーメン


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