本文へスキップ

1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

賀茂川教会タイトルロゴ  聖壇クロスの写真

2022年6月礼拝説教


★2022.6.26「主の憐れみの御手の内に」ルカ9:51-62
★2022.6.19 「解放の主イエス」ルカ8:26‐39
★2022.6.12 「聖霊―心の内に働かれる神」ヨハネ16:12-15
★2022.6.5 「新しい命の息吹」ヨハネ14:15-21

「主の憐れみの御手の内に」ルカ9:51-62
2022.6.26 大宮 陸孝 牧師
「わたしに従いなさい」(ルカによる福音書9章59節)
 本日の日課の所はルカ福音書の第四部、イエス様がいよいよエルサレムに向かわれる旅行を開始されたことが語られ、それが19章27節まで続きます。それは受難のための旅行であり、そのことは9章22節と44節の受難予告によって示されています。ここには、神さまのご計画を成し遂げるために、受難を決意し、ひたすらそれに向って進まれるイエスの姿が鮮明に描かれています。これがこの第四部の特徴であります。主イエスはご自身の死をはっきりと意識し、確固とした決意をもって、それに向って歩んで行かれたのです。どんな決意かと申しますと、~の御計画に添って歩んで行くという決意です。そして、その死出の旅の途上で死と向き合いつつ語られたイエスの教えとして、ここにイエス様の教えが述べられているのです。ですから、わたしたちはここで述べられていることをすべて、わたしたちの神さまのことなど忘れて自分勝手に生きてきた結果辿り着いた、神さまから見捨てられてしまっていると思われるような人間の孤立状態を一身に背負い、その状態を自らを犠牲として神さまとわたしたちとの和解、神さまとわたしたちとの繋がりを取り戻してくださるために、十字架に向って真直ぐに進みたもうイエスに思いを集中しつつ読んでいかなければならないのです。そのエルサレム行きに同行していたのが、弟子たちでした。五一節に「道を進んで行くと」とあります。主イエスがご自分の死をすでに予想し決意してエルサレムに弟子たちを伴い赴こうとしているその途上で三人の人物と出会い対話を交わします。その対話の主題はエルサレムに向かうイエスに従うということであります。

 「従う」ということはどういうことか、先行するある人がいて、その人の何らかの影響力を受けて、他の人がその人の後について行くことであります。ですから「従う」というのは関係の概念です。従うにもいろいろあります。従う姿を外から見ただけでは、両者の間柄のあり方は見分けが付きません。例えば、権力や暴力をもって威圧され、心身の上に危害が加えられるならば、自分の意志に反して従うということであります。または、因習や習慣に従うと言う場合は、道徳・倫理の力以上に、善悪、正しい間違いの判断を超えて人を従わせる力があります。新しい価値あるもの魅力的なものが現れると、人を引きつけて従わせていくことに展開して行くこともあります。追っかけと呼ばれるのがそうです。人は誰でも畏敬と信頼と納得をもってだれかに従って行きたい心情を持っているものです。

 聖書の中では、このように人が人に従うという世俗一般の意味でイエスに従うということが語られているのではありません。聖書が信仰において従うという場合には、ほとんどすべてが、~または神の権威が働くものに人間が従うという意味で用いられています。

 57節に「一行が道を進んで行くと」とあります。これは、51節主イエスが「エルサレムに向かう決意をされ」て、53節エルサレムを目指して進んで」行かれる、56節「そして、一行は別の村に行った」となっています。ここで注目すべきは決意してエルサレムへ向かうイエスについて行くということはどういうことなのか、エルサレム行きに同行する人たちの群れはどういう従い方を求められているのかということです。

 イスラエルの民がエジプト脱出の出来事を経てカナンに向かうシナイの荒れ野において、ヤハウエの神が民を導かれたとき、民たちには従うという意識が無い程に、ヤハウエの神の先導力は必然的なものでした。カナンの約束の地に定住するまでは、ヤハウエに従うということばは殆ど用いられていないのです。しかし、カナン定住の後、他の神々とその習俗に接することになったイスラエルの民は、改めて反省と模索、自覚と判断が必要となり、この従うと言う言葉が重要な意味を持つことになっていくのです。その典型的な例は、列王記上18:21節(563頁)以下です。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が~であるなら、主に従え。もしバールが~であるなら、バールに従え」

 さて、ここでイエスに従っている群れは二つに大別することができます。一つは無名の民衆が「後について行く」用例です。彼らがイエスに従って行く動機、目的、意図、その意味と内容はいろいろ、人それぞれで、一貫性がありません。しかし、彼らがイエスに従ってエルサレムまでついて行った動機はなんであれ、イエス様が不当に裁判に掛けられていくことになった経緯を子細に見てみますと、有罪となったその理由、それを促進している人たちとして、このエルサレム行きに同行した民衆が、直接間接に関わっていること、そして最後にはイエスを裏切って行く人たちであったことを確認しておく必要があります。

 一方ではそういうことでありましたが、もう一方では、イエスの弟子となって「従う」弟子たちの群れも同行しておりました。そこには、イエスとの間に独特の主従関係が生まれ、専従者となってイエスの宣教の働きを分担し、信仰共同体の一員となって生きた人たちがいます。ここに区分される者こそ、新約聖書が描く主に従う群れのことであるということができるでしょう。弟子たちがイエスから召命を受けて従うときには、具体的な状況や問題意識などが伝えられている者もありますけれども、それは大変にまれなことで、多くはそのことよりも、ひたすらイエスに従って行く者となるための自覚と条件が規範として語られています。ですから、この場合は、イエスに従い弟子として生きる者は、独自の使命を自覚しなければならないことを教え示すことがその趣旨であるとみられます。つまり、十字架の死を遂げるイエスに従うことは、まず自分自身が永遠の救いの喜びを得て、さらにそれを他の人々にも伝えて行く教会の宣教の働きを共に担いながら、その職責を分担する自覚と決心が必要であることを言おうとしたのです。
 それで、58節の「人の子には枕する所もない」という御言葉に展開して行くのです。その中心的な意味は何かといいますと、伝道を専ら(もっぱら)の使命として生きるもののこの世のあり方、それは遍歴と無宿性こそその生き様であることを言おうとしていますが、しかし、それは地上における放浪性、無宿性をあらわすと解釈するだけでは不十分です。この世においては旅するものであり、その旅の目標はイエスを通して実現した救いの福音を伝える宣教の独自な働きを意味しているのです。「あなたは行って、~の国を言い広めなさい」(60節)というのがそれです。

 ヘブライとは放浪する民という意味でありますが、その意味するところは、アブラハムやヤコブの生きざまに象徴されています。つまり、歴史の中の人生は、永遠の命のあり所を目指す放浪者(自由人)として旅に生きることでありました。この世の放浪の旅はただ単に通過するという意味ではなく、~の国に至る過程(プロセス)です。ヘブライ人への手紙13章12節〜14節(新約419頁)を読みますと、「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、(~の民とするために)門の外で苦難にあわれたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、その身元に赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず~に献げましょう」というのであります。このように「枕するところがない」とは来たるべき永遠の命の世界が実現するまでは、この世においては安住の場所はないという含みを持って語られている言葉です。ですから、歴史の中での消極的な漂白、無宿をいっているのではなくて、主イエスの愛に繋がること、永遠に生きる~との新しい命の繋がりに立ち帰って、わたしたちをこの世の人間の自我の世界(罪の世界)から解放し、自由なものとし、~の国の永遠の世界に救い取ってくださるこの働きに信頼を持って自分を委ねて、この神さまがわたしたちを我が子のように愛してくださっていることをこの世に宣べ伝えて、充実した人生を生きるキリスト者の生き方を言おうとしているのです。

 主イエスはわたしたちを、権力によって、あるいは精神的な圧迫によって、強制的に従わせるということはなさいません。人格的な関係に立って、イエスはわたしたち一人一人に対する責任と誠実、理解と愛があって、その人一人一人の人生の歩みに同伴され、働きかけ(救いのために労を厭わない配慮)があって、そのうえで救いの完成があるのです。わたしたちがイエスのこの働きに触れるときに、イエスへの信頼が生まれ、従う心がわたしたちの中に生まれてきます。そして決断となるのです。わたしたちの信仰の歩みの目当ては、あくまでもこのイエスの恵みの配慮にあります。この世にあってわたしたちは~の国の喜びを知った者として信仰の道を歩んでいます。イエスに従うことは、~の国が持っている永遠の命への救い、その喜びに生きることであり、その喜びを家族を含む他者に知らせて共有することです。そこでは、人生の意味の理解、生き方に関して価値観の根本的な転換が起こります。喜びと希望が待っている新しい人生の方向が与えられます。この方向性は磁石が絶え間なく左右に揺れ動きながら常に真北を指すように、イエスに向かい、~の国を目指しているのです。この方向をわたしたちは見失ってはならないのです。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたは主イエスを通してわたしたちを、わたしに従え≠ニ召し出してくださいます。その御声に従うからには、すべてのことの第一に、~の国のために働く「鋤」(すき)を取り、それを手放すことなく、また「~の国を広める」伝道の働きに専念して、イエス様に目を向けて、イエス様の後に従っていく者とならせてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン。

◆ページの先頭へ

「解放の主イエス」ルカ8:26‐39
2022.6.19 大宮 陸孝 牧師
イエスが、汚れた霊にこの男から出るように命じられたからである。(ルカによる福音書8章29節)
  福音書はガリラヤから始まり、エルサレムでの十字架の死、そして、復活から昇天に至るイエスの救い主としての公生涯を記している信仰の証言の書です。ルカによる福音書は4章14節から9章50節まで、イエスのガリラヤにおける宣教活動を記しています。荒野での三つの誘惑を論破してサタンを退けた後、イエスは「霊の力に満ちてガリラヤに」帰ってきます。そしてガリラヤ各地で神の福音を語り、病める人たちを癒やすなど多様な伝道活動を展開し、その評判が周りの地方一帯に広まって行きます。こうして始まったガリラヤ伝道の終わり、9章49節から50節で弟子グループに属さない無名の人物がイエスの名によって悪霊追放の活動をしているという情報を記しています。これはガリラヤにおいてのイエスの活動がイエスや弟子たちの知りうる範囲を超えて大きな反響を呼び起こした事を示しています。そのガリラヤ伝道の中で、本日の日課の諸悪霊との対決と、イエスの勧めによって弟子とはならなかった人物のことを記した8章26節から39節の物語は、ガリラヤ伝道の主要な主題「悪霊追放」が語られています。

 ここでの「悪霊追放」はガリラヤ湖東岸の異邦人の地でなされており、その前後のガリラヤ伝道という活動舞台とは異なっています。イエスとその一行はある日ガリラヤの向こう岸ゲラサの地方に渡りますが、ゲラサのひとりを救うのみで直ぐに帰ってきます。ルカによる福音書では、異邦人伝道は正式にはイエスの復活後に、復活したイエス御自身の言葉に基づいて開始されるのですが(24章47節)、8章26節から39節の物語は、教会によっていずれ開始される異邦人伝道の先取りとなっているもので、ガリラヤ伝道中にこの物語を置いたのは弟子たちの教育的な意味合いであろうと推察されます。異邦人の中での弟子グループ以外の伝道者が現れたことについて、イエスの正当な後継者を自任する弟子たちに対して、異邦人伝道の発端をイエスに遡らせ、その権威の所在を明確にしようとしたものであると考えられます。

 26節ではルカはイエスの向かった地が「ガリラヤ」の対岸「ゲラサ人の地」であったと記していますが、これはルカ福音書の読者が異邦人であるため、イエスが一旦ガリラヤを離れて異邦人の地に渡ったことを明示しようとしたと推測されます。ルカがここで伝えようとしたことは、イエスが危険を冒してもあえて湖をこぎ渡って異邦人に救いの手を差し伸べたということです。

 27節では、主イエスが出会った悪霊に憑かれた人は「その町の者」であったと紹介されます。町の人々は悪霊に憑かれた人を監禁したり監視したりしたものの効果はなく、結局は墓場に厄介払いしていた。町の人々は他ならない自分の町の人をしかも苦しむ人を排除することで、平和な暮らしを守っていたと言う状況を浮き彫りにし、弱者を避ける人々は後にイエスを拒否することへと展開して行きます。「長い間」という表現も悪霊に憑かれていた人の苦しみの期間がどのようであったかを示しています。彼はひどく荒れ狂っているだけではなく、常人としての生活を拒否されたまま、長期にわたって苦しみに耐えていたということです。ルカは悪霊を実質の主語にして、憑かれた人はあくまで悪霊のなす悪行の被害者となっています。彼はイエスによって救われるのですが、イエスに出会うまで孤独な人として、長らく社会から廃絶され苦しんでいました。悪霊が彼の意思を超えた力で彼を操り、常軌を逸する行動に駆り立てていたのであって、イエスはその根本原因を除去することによって人間を回復させ、解放しておられるのだというのです。

 28節「いと高き神」という叫びは、多神教を奉ずる異教の人がその中の最高神を特定して呼びかける時の観念を背景としています。イエスの前に出て来たこの人はひれ伏しながらイエスに「いと高き神の子」と呼びかけます。これは悪霊の叫びですから、イエスは異邦人を癒やすというだけではなく、異邦の地を支配している悪霊を克服される方であることを示しています。人間よりも悪霊の方がイエスの本性を正しく見抜いていると言うことでもあります。悪霊はイエスの力を知っているからこそ、関わり合いを拒み、イエスと無関係なところで自己の領域を確保しようと務めるのです。

 29節「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じた」イエスと悪霊の出会いが厳しい対決であった事を強調するため、「命じた」となっています。この命令は直ちに実行されず、悪霊はイエスに取り入るボーズをとって抵抗します。この物語ではイエスの命令は無視されているだけではなく、イエスは相手の名を尋ね出した上で、その願いに譲歩してやる形でやっと悪霊を駆逐しているように見えるのですが、しかし、悪霊の懇願の前にイエスが命じているのであって、執拗な悪霊の抵抗にもかかわらず、結局はイエスの命令は実行されることになります。

 30節悪霊の名「レギオン」はローマ軍団のことで、歩兵6000とこれを護衛する300ないし600の騎兵で構成されていました。悪霊とは現代では勿論神話的な表象として理解されていますが、その名がレギオンであるということは、悪霊に取り憑かれている男のレベルで言うと、彼はローマ軍による残虐行為を身に受けて、あるいは暴行を目撃して精神的に非常な衝撃を受けたということかもしれません。あるいは当時の歴史的伝承のレベルで言うならば、パレスティナ各地に駐屯するローマ軍団の政治的軍事的圧力に対する人々の反発は、ローマ軍が強力なだけに内面に鬱積せざるを得ず、その抑圧された心理が豚の集団死に象徴されるようなローマ軍の破滅の願望になったのかもしれません。軍隊の力で表される悪霊が滅ぼされ、一人の人間が回復されたことは、政治的な意味合いで考えれば、今日の状況、ロシアによるウクライナの侵攻と虐殺、核兵器使用の脅威、世界的な食料難と経済恐慌、そして世界の人々の怨恨に見られる、わたしたちの目の前で起こっている現実と重なるものでもあるとわたしには思われるのです。

 31節悪霊が恐れた「底なしの淵」とは死者の世界のことで、最後の裁きのために悪霊が閉じ込められる場所のこと。彼らはそこに転落することを拒むのです。そして、転落して死んだのは豚であって、悪霊ではありません。つまり、ルカによればもろもろの悪霊は一旦追い出されはしたもののまだ絶滅してはおらず、終末に至るまでその戦いは、更に拡大し続いているということであり、その悲惨な現実を現代のわたしたちも経験しているということです。

 34節〜37節悪霊追放の結果に対して町の人々が示した反応を段階的に記しています。ルカがこの部分の資料を蒐集するまでの展開がうかがわれるところです。つまり伝承の段階で次第に整えられて付加されていった部分で、複雑に組み合わされ、はっきりしない所もあります。25節の事態に対する人々の精神的な対応は「恐れ」です。37節でこの地方の民衆が「自分たちの所から出て行ってもらいたい」と退去を願い出るのも、異常な力を発揮するイエスにただならぬ者を感じて「恐れ」の念に襲われたからでした。この「恐れ」とは、イエスの力と存在が人々の理解を超えたものであり、この世についてのこれまでの考え方の枠組みを壊してしまうような方であることを意味しています。イエスという方は圧倒的な神的な力を秘めた方であり、その力によって悪霊を追い出したその出来事を見た人々は、自らの破滅をも予感して「恐れた」ということでありましょう。

 38節悪霊から解放された男はイエスに「お供をしたい」と申し出ます「お供をする」は8章1節では弟子のあり方として用いられている句でありますので、彼はイエスの弟子となって同行する事を願い出たと言うことになりますが、イエスはそれを断ります。彼が悪霊から解放されて平常になったとはいえ、彼がゲラサの町にそのまま留まることは、豚の損失を被った人たちから見れば決して歓迎されることではなかったでありましょうし、彼にとって危険なことも予想されることでした。それよりも恩人であるイエスに付いていって、さらに深い教えを授けられるほうが彼にとってどんなにか望ましいことかと思われたのです。ですからしきりに(繰り返して)願ったのです。にもかかわらず、イエスは彼が家に帰るように促します。それは、イエスがもたらした救いを自らの地で語り伝えるためでした。彼は平常心を取り戻しただけではなく、これから先この地でイエスから新しく使命を与えられてそれを果たして行く人間にされたのです。主イエスは、出会って救われる人々を、各々にふさわしい信仰の道を歩むように指導されるのです。それにしてもただでさえ自分の過去や日常の生活を知っている場での伝道がどれほど困難なことであるかをイエスも弟子たちも知っていたはずですが、出会って間もない人物に主イエスはこの困難な課題に立ち向かわせるのです。彼はその後この壮絶な戦いの人生に立ち向かって行くことになるのです。ルカは正気になるとはそのことをも含めて言っているのかもしれません。

 ともあれ、彼は何処にぶつけていけばよいのかも分からなかった彼の不条理への怒りや、「自分、自分」という自分中心の自我意識(エゴイズム)から解放され、自由になって、命の根源である神に徹底した信頼を置き、すべてをお任せする、そこにこそ今を生き抜く力の源泉があることを自ら体験し、そして人々に証する人へと変えられたのです。そのことをドイツ語でゲラッセンハイト(自己解放)と言っています。問題は自己のあり方の全面的な転換に際して内面で起こっている不安と恐れをどのように突き抜けていくかです。ルカはそのために必要なのは主イエスへの信仰意外にはないと言っているのです。

 回復不可能であると思われていたこの人が回復の道を歩むことになったのは、全面的に神の業によるものであることをルカは記して、人間の回復は、まさに神がなさることに他ならないと主張し、しかし、その神による人間回復の業が直ちに人々に受け入れられることになることを意味しないものでもあるとルカは見ています。この人が、イエスをさえ追い出そうと願ったこの地方の人々の中で受け入れられたかどうかは何も記されてはいません。もしかしたら驚異の目で見られるだけで、この人々の中では受け入れられなかったかもしれません。その場合は彼の回復は社会復帰にはつながらなかったということであります。しかし、人々から受け入れられようと、受け入れられまいと、厳然として神は彼を囚われから解放し、救い出されたのです。神は、回復を必要とする人にまっすぐに向かい、その囚われから解放されるのです。本日の日課からそのことを深く心に刻んで置きたいと思います。

 お祈りいたします。

 手の父なる神様。わたしたちはあなたが聖書を通して教えてくださったすべての知識を身につけている訳ではありません。そしてあなたの偉大な業と教えを奥深くまで知ることもできません。しかし、あなたがわたしにしてくださったことについては確信をもって、あなたの権威として語ることはできます。

 ですから、救われたわたしたちが一人一人自分の家に帰って、神が自分に何をしてくださったかを充分に語ることができますように、そのことを通して福音を証する証人としての光栄を与えてくださいますように、お願いいたします。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン

◆ページの先頭へ

「聖霊―心の内に働かれる神」ヨハネ16:12-15
2022.6.12 大宮 陸孝 牧師
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネによる福音書14章16-17節)
  ヨハネ福音書の16章12節〜15節が本日の福音書の日課であります。先週学びました14章15節から21節の内容を再度取り上げながら、本日の箇所を見て参りましょう。この箇所を読みますと、これが書かれた時代がキリスト教の迫害の時代、特にヨハネではユダヤ教徒による迫害の時代であることが明らかであります。もちろんローマによる迫害も始まっていましたが、ヨハネ福音書にはなるべくローマ政府との確執を避けたいという意図が見られます。ユダヤ教徒はキリスト教徒を憎み、ユダヤ会堂から追放するだけではなく、彼らを殺したりするまでになったのです。そしてそうすることが信仰的であり、~に仕えることであると考えていました。そのことはパウロ自身の経験からも示されることであります。そしてそのようなことをするのはユダヤ教の指導者たちが本当には~もキリストも知らない、知ることができない、知ろうとしないからだと、ヨハネはいうのです。

 ユダヤ教というのは厳格な一神教であり、自分たちだけが正しい~を知り、その御旨である律法を知っていると自負していたのです。そしてキリスト教徒はこの尊い律法を汚した者たちなので、~に呪われるべきであると本当に考えていたのです。しかしヨハネはイエス・キリストの存在においてだけ本当に~と~の御心は分かる、また自分自身が何ものかを知ることが出来る、その分かれ道であると主張しているのです。

 イエス・キリストにおいて~の裁きと愛が、またイエス・キリストの中にだけ~の正しさというものが、さらにイエス・キリストにおいてだけ人の罪とその裁きとそして赦しが、つまり~の救いの恵みが明らかになると主張しています。ユダヤ教徒は~を知り~に仕えると言いながら、~を否定し、~を知ることも己を知ることもできなくなっていると言っているのです。これは当時においては驚くべき主張でありました。

 よくよく考えて見ますと、わたしたちキリスト信徒も~を知ると言いながら、~を否定して来た歴史を持っています。その最たるものが実はユダヤ教徒の迫害であります。長い間西洋ではユダヤ教徒が迫害されてきました。もちろんそれにはユダヤ教の特性が災いしていたのです。彼らは強く団結し、周囲と違った特別の生活様式を頑なに守り、周囲の社会の中に溶け込むことを決してしませんでした。それだけではなく、彼らの経済能力は非常に高く、彼らが入り込んでいった国の人たちの反感を買うことになっていくのです。そこで西洋が次第にキリスト教化し、国ごとキリスト教国となった後に、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架に付けた張本人だとしてキリスト教による弾圧と迫害が行われることになっていったのであります。また中世のヨーロッパ人の二百年にわたる十字軍、そしてイスラム教徒の殺戮もやはり同様のケースと思われます。始めは聖地回復の純粋な動機をもってはじめられた十字軍も複雑な利権その他の問題を通して不純となり、そしていたるところで異教徒を残虐に取り扱うようになっていったのです。

 先のユダヤ人迫害はいうまでもなくナチス・ドイツによる六百万のユダヤ人虐殺をもって最大の迫害に達して行ったのでありました。そして、それについて戦時中それを阻止することができなかったドイツのキリスト教徒が深い懺悔をなし、今に至るまでユダヤ人問題の本が多数出版され、反省が続いていると同時に互いの対話がなされているのです。このようにキリスト教徒であっても~とキリストを知ると言いながら、それを知らず否定していくことが起こりうるということをわたしたちは自省し、福音の本源に戻って行くことが大切であるということであります。

 人は常にイエス・キリストに深く視線を向け続けなくてはなりません。特にわたしたちのために十字架にかかりたもうた受難のキリストに目をしっかりと向けなければなりません。キリストの十字架を仰ぎながら、異教の人々、異民族を迫害することはできないと同時に、十字架のイエス・キリストにしっかり目を向けるときにのみ、この世、そして異教といい加減に妥協したり、けじめを忘れたりすることもなく、確かな信仰の歩みを歩んで行く事になるのだということです。

 ヨハネはここで去りゆくイエスを描いています。弟子たちはそれを理解出来ず憂いに閉ざされています。目の前にイエスと共にいる時は安心していられるのですが、いなくなるということは一切の支柱を失うことのように思えたのです。主イエスは、それは全くの誤解であるのだけれども、今はお前たちは知ることができないと言われます。主イエスと一緒にいる時お前たちは何も分かっていない。わたしが去る(十字架にかかって死ぬ)とき「助け主」「真理の御霊」があなたがたの所に来る。そしてわたしがあなたがたの所にいた時あなた方に語り告げた事の本当の意味を悟らせてくれる。あなたがたはそれによって力づけられ強められるであろう、というのです。そして罪とは何か、イエス・キリストは何であるか、義とはなにか、またこの世を支配している罪の根源が打ち砕かれたことが分かるだろう、と言うのです。ここに、生前の主イエスの宣教と十字架後の主イエスの宣教が変わったという深い謎が解き明かされているのです。つまり生前の主イエスは、~の国が近いこと、そして人の罪を暴露し、人がいかに神さまの元から遠い存在になりはてているかを明らかにし、そしてその~から離れている罪の現実を人間が自ら認め罪の告白をすることを求め、更に罪の赦しを宣べ伝えたのでした。そして十字架後には今度は、そのイエスの言葉による宣教が、十字架と復活において出来事となったのだと十字架と復活の出来事そのものを宣べ伝えることへと変わっていくわけです。

 主であるイエスが~と人とに棄てられ十字架のどん底に下りたもうことによって、この世を支配する罪と死の力が打ち砕かれ、わたしたちが~から離れ、罪の支配の現実に囚われてしまっていることからの解放がここに明らかにされているのです。そしてヨハネは「真理の御霊」「助け主」があなたがたに送られる、わたしが生きていれば彼は来ない、だからわたしが死ぬことはあなたがたの益なのだと主イエスの救いの証しを伝えているのです。

 20章のところで、弟子たちが復活のイエス・キリストに出会ったことと聖霊が彼らの心に注がれたことは同じことだとヨハネは伝えています。その点ではルカ福音書及び使徒言行録を書いたルカの伝えていることとは違いがありまして、ルカは主イエスの復活後五十日目に聖霊が下ったと主張していますが、それは根本的な違いではありません。

 イエスは十字架上で死に、去りゆきました。しかしイエスは復活し、目には見えませんが聖霊によっていつもわたしたちと共にいてくださる。イエス・キリストは永遠に生きたもう。このように言っているのです。ここに、父なる~と、子なるイエス・キリスト、そして助け主なる聖霊と、わたしたちが信仰告白している使徒信条の三位一体の信仰の根があるのです。聖霊を通してイエス・キリストがわたしたちと共にいてくださり、わたしたちを助け、守り、導くために働いていてくださるのです。

 「聖霊とは何か」とよく問われます。それは、わたしたちの心の内側に働かれる~の働きです。別の言葉で言えば、わたしたちの思いを、言葉を、行動を導かれる~からの働きです。わたしたちの言動、思いの基準をわたしたち人間の内側に置くのではなくて、人間の歴史を超えた所に究極の支点を置くことを可能とする存在です。信仰が成熟するにつれて人は自分の思いを超える~の意志を絶えず問う生活を求めます。難しいですけれども、そう願いつつ歩みを続けます。~以外の存在を決して~としないということです。~でないものを~とすることを拒否いたします。それが信仰者の生です。~がわたしたちを裁かれるのは、この~から離れていること、わたしたち人間の自己目的のために非常に恣意的に他の人を裁く自分勝手の罪のことです。主イエスは聖霊の働きを通して、繰り返し、このようなこの世の罪の支配の欺瞞性を明らかにして来ましたし、これからも明らかにするという宣言を告知しておられるのです。そのような聖霊の働きの内容を、今日のこの12節から15節が明らかにしているのです。真実の信仰は、そのような内実を持っているということです。もう一度申し上げます。聖霊がわたしたちに語り、告げ、更に悟らせる働きを務めとしていることは、わたしたちの心の内側に~の真実の意志が御言葉を通して働かれるということです。ですから本日の聖書の15節「父なる~が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だからわたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなた方に告げる』と言ったのである」という告知がなされるのです。父なる神のもとに去って行かれた主イエスは、~の霊の働きを携えてわたしたちの所に帰って来られ、今わたしたちの心に~の意志を伝える方として働きかけておられます。その方にしっかり聴き従って行きましょう。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたが今日もわたしたちを生かしていてくださいますことを、心から感謝致します。その神さまの広い愛と慈しみと、また、罪の力、悪の力、死の力からわたしたちを守ってくださる愛の御支配を何よりも最大の関心事として人生を歩んで行くことができますように、ひたすらあなたの御心を求める生活をわたしたちに起こさせてください。あなたの御心に喜びと感謝と希望をもって従い生きる信仰の道を歩ませてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン。

◆ページの先頭へ

「新しい命の息吹」ヨハネ14:15-21
2022.6.5 大宮 陸孝 牧師
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネによる福音書14章16-17節)
  ヨハネ福音書の13章31節から16章の終わりのところは、主イエスが十字架にかかって世を去る前に弟子たちに語られた最後の晩餐での長い教え、「別れの説教」と呼ばれる所でありますが、主イエスはこの説教の中で、御自分の死が、弟子たちとの永遠の別れではなく、むしろ弟子たちと父なる~とをつなぐ「道」を開くものであることを教えておられます。そして御自分の地上での生活が終わった後にも、弟子たちは「みなしご」のように放置されるのではなく、~の命に触れ、霊なるキリストと共に歩むことを教えられました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(14:16〜17)。聖霊を与えてくださるとの約束です。

 「聖霊」とは、わたしたちの内に来られ、わたしたちの内に宿られる~であります。「父なる~」と「子なるキリスト」は、わたしたちの外に居られる~であります。「父なる~」は天地の造り主として、世界とわたしたちを造ってくださいました。そして「子なるキリスト」は、わたしたちの世界に来られ、しかもわたしたちに代わって、わたしたちの罪をその身に引き受けて死んでくださいました。このように父なる~と子なるキリストがわたしたちの外でわたしたちの救いのために働かれるのに対して、聖霊は見えない形でわたしたちの内に注がれ、わたしたちの内に住んでくださる方なのです。

 ヨハネ福音書では、この聖霊を「弁護者」と呼んでいます。ギリシャ語では「パラクレートス」です。「パラ」は「並ぶ」、「クレートス」は「呼ぶ者」「叫ぶ者」という意味で、ちょうど裁判の席で被告のために弁護をする、弁護士のような人を「パラクレートス」と呼びました。「慰め主」とも訳されます。

 わたしたちは神さまを、厳しい裁判官のように考えがちです。使徒信条でも、主イエス・キリストが最後の審判において「生ける者と死んだ者とを裁きたまわん」と告白されています。しかしキリストは、~の裁きによって有罪判決を受け、滅びるほかないわたしたちのために、身代わりとなって死んでくださいました。そして聖霊は、わたしたちの「弁護者」となって、わたしたちを清め、慰め、励ましてくださいます。「サタン」は「敵する者」という意味で、わたしたちを訴え、非難中傷して有罪にし、滅ぼそうとします。それに対して、聖なる神は、わたしたち罪人をも愛し、罪を清め、生まれ変わらせてくださるのです。要するに救い主イエスは父なる~から受けた愛を御自分の内側にだけ留めておられるのではなく、~の外側にいる人間へと注ぎだしてくださったのです。子である~が仲立ちとなって、~の愛を人間のところまで届けてくださったのです。こうして父なる~と子なるキリストとの間に循環していた愛が、神さまとわたしたちとの間にも循環するようになったのです。

 このようにして、父なる~と子なるキリストが深い愛の交わりの中におられるように、わたしたちも~との愛の交わりの中に入れられ、更にわたしたち人間同士もこの愛によって、互いに愛し合って生きるように導かれるのであります。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、~から生まれ、~を知っているからです」(一ヨハネの手紙4:7)。「~は愛です。愛にとどまる人は、~の内にとどまり、~もその人の内にとどまってくださいます」(同4:16)。と語られているとおりです。

 このように、主イエスは御自分がこの世を去った後に、聖霊が弟子たちに与えられることを約束されました。この聖霊は弟子たちと共におり、彼らの内におられるので、弟子たちはこの世の中で、孤立無援の状態に陥り、失望落胆する事はないと、諭されます。最初の弟子たちはその約束の通りに、キリストが天に上げられた後、聖霊を注がれて立ち上がり、聖霊の宮である教会を築きました。使徒言行録はこれをペンテコステの出来事として描いています(使徒言行録2章)しかも聖霊の働きは、それ以後人々の内に注がれて、彼らを立ち上がらせ、教会としての歩みを導いておられるのです。

 「わたしはあなた方をみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(14:18〜19)。これは、キリストの復活の約束ですが、この復活のキリストは、見える姿では、短い期間弟子たちと共にいて、天に昇られました。しかし、霊のキリストとして、今もわたしたちと共におられます。ヘブライ人への手紙で、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ書13:8)と言われ、マタイ福音書の末尾でも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われている通りであります。

 地上で過ごされたキリストと昇天後のキリストを区別して、地上でのキリストを「わたしたちのためのキリスト」と言い、昇天後のキリストのことを「わたしたちの内なるキリスト」と呼んで区別いたします。つまり、地上生活をなさったときのキリストは、わたしたちを救うために、死ぬべき罪人であるわたしたちに代わって十字架につき、人間の救いを成し遂げてくださった方「わたしたちに代わった、わたしたちのためのキリスト」であり、復活され、昇天されたキリストは、「霊のキリスト」としてわたしたちの内に住んで、わたしたちを生かしてくださる方となったということです。

 肉体をとってわたしたちの所へ来られた~の子イエスのこの世における人間としての存在は、十字架の死をもって終わりました。しかし、主イエス・キリストの、この世に対する使命は、それで終わったのではないのです。主イエス・キリストの役割が、別の人格「助け主」あるいは「弁護者」つまり真理の霊となってわたしたちの内に継承され、~のわたしたちへの働きが遂行される新しい時代が到来したとヨハネ福音書は告げているのです。

 この聖霊が「弁護者」と呼ばれ、丁寧に四度も「その方」(15:26、16:8、13、14)と紹介されていますので、聖霊が単なる霊力ではなく人格をもってわたしたちの内に存在されることがここで明らかに示されているのです。この方は自ら「来る」(15:26、16:8、18)、また「出る」(15:26)方として描かれています。聖霊が御父と御子から「出る」別の人格であられることをわたしたちが本気で信じるのであれば、わたしたちの熱烈な呼びかけ次第で聖霊の賜物を左右出来るかのように振る舞う信仰体質ではなく、聖霊の主権的な御意志と自由なお働きを畏れ敬い、それに従う靜かな信仰を得たいと思います。それは~の御言葉への傾聴によって与えられるものであると、自分の信仰の歩みによってそのように信じています。

 わたしたちは、~の御言葉への聴従によって、賜物として内に住むこの霊のキリストの命をいただいて、命と愛に溢れて生きるものとなるのです。これは「わたしたちがキリストを宿している」というよりも、キリストがわたしの内でわたしを生かしていてくださる状態であります。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた~の子に対する信仰によるものです」(ガラ2:20)といっているのも、同じ経験を告白しているのです。キリストがわたしたちの内で生きるとき、わたしたち一人一人は「小さなキリスト」となってこの世に出て行きます。そのようにしてキリストの救いの働きを証しする信仰の歩みをこの教会の礼拝を拠点として展開していく群れとされていくのです。

 お祈りいたします。

 天の父なる神様。私たちは自分からあなたのもとへ立ち帰ることが出来ません。そのようなわたしたちのために、あなたは聖霊を送ってくださってあなたがわたしの内に住んでくださることを感謝いたします。どうかわたしたちの内に住まわれる主イエスによってわたしたちの内に命と愛の泉が湧き出て、喜びの内に信仰の道を歩んでいくことができますように、本日執り行われる聖餐式を通して、主イエス・キリストを新たに内に迎えるときとすることができますように。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン

◆ページの先頭へ



 ◆バックナンバーはこちらへ。




オリーブの実 イラスト


information


日本福音ルーテル賀茂川教会


〒603‐8132
京都市北区小山下内河原町14

TEL.075‐491‐1402


→アクセス