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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年7月礼拝説教


★2022.7.31 「神の豊かな恵みへの招き」
★2022.7.24 「神の霊に生かされる」ルカ11:1-13
★2022.7.17「神の愛の言葉に傾聴する」ルカ10:38-42
★2022.7.10 「あなたの人生に寄り添う主」ルカ10:25-37
★2022.7.3「主の憐れみの御手の内に」ルカ9:51-62

「神の豊かな恵みへの招き」ルカ12:13-21
2022.7.24 大宮 陸孝 牧師
「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」ルカによる福音書12章20-21節)
 主イエスの語られるたとえ話は、驚くほどわたしたち人間の時代や世界、それに個人個人の生活とも関わりのあることを知らされます。しかし、このときに、イエスの所に願い事を持って来た人物が、そのことを悟っていたかどうかは分かりません。「群衆の中のひとり」と言われております。わたしたちと殆ど同じ普通の人だったのだろうと思います。その人は、兄弟と遺産をめぐる争いに巻き込まれていました。この人の兄弟は、財産を横領して、分け前をくれようとしなかったようです。それでこの人は信頼していたイエスのところに来たのです。イエスが自分の権利を認めて、彼を助けてくれるものと期待したのです。「先生わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。イエスがどうしてこの人の願いを退けたのかは、すぐにはわからなかったでしょう。この差し迫った権利喪失の危機にあたって、助けを願っているこの人を、あの良きサマリヤ人のたとえ話に登場しているもうひとりの人、つまり、強盗に遭って倒れている人と比べることができるのではないでしょうか。この人は、ここで、身ぐるみはがれて、半死半生になって道ばたに倒れていないかも知れません。しかし、彼は、自分の兄弟に、略奪されようとしているのでありますから、この人の面倒を見て、その隣人になり、彼が正当な権利を得るよう手伝ってやることが、イエスの任務ではなかったのか、なのに、イエスはどうして、こんなにそっけなく、退けてしまうのでしょうか。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」イエスはそう言って、この人を放置するのであります。

 これをどう理解したらよいのでしょうか。いったいイエスは、この世俗のわたしたちのいざこざに、根本的には関係しようとしないのでしょうか。イエスはこれまでに、ある時代の教会が、求め、また、実践したように、霊的なものとこの世的なものとを、きれいさっぱりと、分離しようとしているのでしょうか。~の言葉と教えは、日常生活の中のありふれた権利問題と、何ら関わるべきではないということなのでしょうか。それとも、イエスは、この人が遺産をあきらめ、その当然の権利をあっさりと放棄すべきだと、言おうとしているのでしょうか。これと似た問題で争っている人は、わたしたちが想像する以上に多いのではないかと思います。わたしたちの心配事や緊急に必要としていること、自分の兄弟や姉妹とのもめごとなど、決着を付けてしまうことのできないいろいろな問題が、ある日、わたしたちをイエスのもとに追いやります。わたしたちはイエスを信頼し、イエスに助けを求めます。そういうわたしたちにイエスが関わるのはほんの少しでいいのです。わたしたちの兄弟または姉妹たちに、彼らがどうすべきかを忠告してくれさえすればよいのです。しかし、イエスはわたしたちをそのままにしておくのです。わたしたちにはそれがなぜだか分かりません。

 実際に、イエスは、わたしたちの願いをそのまま放置することがあります。イエス様ならばこう言ってくださるはず、こうしてくださるはずと、答えは明確であると、前もって確信して疑わない者を、イエスは放置するのです。イエスの助けを得て自分の仕事をうまくやろうとする、イエスをただ利用するだけの者を、イエスは放っておくのです。

 繰り返し繰り返しなされてきたキリスト教会の誤解があります。それは、イエスをわたしたちの生活のために実利的に利用できると考えることです。しかし、はっきり言うならば、イエスは、わたしたちの目的のために利用されるような方ではありません。イエスはわたしたち人間にあやつられるような方ではありません。イエスはわたしたち人間のあちら側とか、こちら側とかどちらか一方の立場の肩入れをするために来られたのではありません。イエスは、全ての党派に無関係です。キリスト教的な党派であれ非キリスト教的な党派であれ、あるいは、カトリックと福音主義といった信仰上の教派であれ、または、自由主義的なものと実証主義的なものといった教会内の党派であれ、民主主義と共産主義といった政治的な党派であろうと、イエスはすべての党派に関係がありません。

 そうは言うものの、確かにイエスはわたしたちを助けてくださる助け主です。しかし、そこでわたしたちが思い違いをしてはならないのです。わたしたちを助けてくださるのは〈イエス〉がそうするのであります。どんな人間的党派も自分の都合によって、自分の都合に合わせてイエスに助けを要求することはできないのです。イエスは確かにわたしたちを助けてくださるわたしたちの味方です。しかしそうするのはイエスの主体的な自分の愛と憐れみによる判断が基準なのです。ですからここで、「そして一同に言われた」とあるのです。イエスはすべての人に向かっています。遺産を巡って争っている兄弟の両方に、つまり、不当な者にと同じように、正当な者にも向かっているのです。両方がイエスの言葉を必要としているのです。イエスのたとえ話を現実的に聞こうとするならば、このイエスのたとえばなしによって、わたしたち全員が挑戦を受けているのです。実は、そのことこそ真実の助けなのです。

 そこで、イエスは、畑が豊作だった「金持ち」について語ります。イエスはこの男について詳しいことは何も語りません。彼が年寄りなのか、若いのか、家族持ちなのか、自分だけのことを心配していればいいひとりものなのか、分かりません。ただ一つのことだけが、明確です。つまり、生活するのに充分なだけのものを持っている人がここにいるということです。その人には、必要なものが豊かに与えられています。けれども、彼はもっと欲しがっています。それがこの人の人生における出発点、この人の人生態度の出発点なのです。こういった人生態度は、わたしたちと無縁なものではありません。わたしたちのほとんどは、確かに金持ちではありませんが、生きるに充分なだけのものを持っています。多くのものは、必要以上に持っています。わたしたちの畑はよく実りました。そして、なおいっそう、よく実るのです。今日的に言いますと、わたしたちの畑とは、わたしたちの経済であり、農業であり、工業であり、事業の世界であり、また何かと議論の多い他国との交易的な接触でもあるわけです。これらのすべての畑はよく、まぎれもなくよく実っているのです。

 外国人の目で日本の繁栄を見れば、日本が国際経済共同体に加盟するか、論議されていましたときに、国際紛争への寄与が厳しく問題として取り上げられ、国際的な紛争の負担を負わないで、商売上だけ有利にと言うことが問題視され、公平ではないというのです。これが、いわゆる、集団的自衛権とかTPPへの加盟の問題の背景となっている日本の問題とされたのです。

 このたとえばなしでは、この人の人生の問題すべてが、自分に与えられたものを今どうするかという問いからはじまっています。ひとつのことがはっきりしています。それは彼が困っているということです。収穫をしまうのに、場所が狭く、小さすぎるという問題です。このたとえを読むと、この農夫が考えたり、数えたり、あれこれ思いあぐねて、足したり、かけたり、引いたりしているのがわかります。彼は幾つかの対策を考えては諦め、そして最後に決断します。「こうしよう、倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい込もう」。「わたしはしよう。わたしはしよう。わたしはしよう」とここに言われています。それに加えて、「取り壊し、建てて、しまい込む」とか、「わたしの穀物、わたしの倉、わたしの財産」と続いています。こうして、彼が自分自身とかわす、対話が続けられていくのです。「こうして自分自身に言ってやるのだ『わたしの魂よ』」とたいへん珍しい対話をしていくのです。「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」世界経済に於いても、政治に於いても、平和の問題にしても、その安全保障を自分で確保しようというのです。

 この男は十分に持っています。しかしまだ一抹の不安があります。この男は賢く計算しました。彼は先の見通しを立て、畑の好景気が突然去った時のために蓄え、安全を確保しました。彼の計画は、事態に即応した冷静な現実主義と言えないでしょうか。自分自身の目で見たもの、計ったもの、見積もり、コントロールできるものだけで計算しています。「わたしはこうしよう。わたしはこうしよう。わたしはああしよう」と。そうしてものが取り壊され、また建てられるのです。彼は現代人ではないでしょうか。倉が建てられるだけではなく、倉に納められ、また取り出される。それらは高速回転して動いています。現代経済の歯車という実利主義です。この男のこんなに賢い計算が、それでも何か間違っているとしたら、一体どういうことになるのでしょうか。実際のところ、何か計算が合っていないのです。彼は大事な一項目を見落としていたのです。「しかし、~は」とイエスは言われます。~が、この男の人生の中で見落とされていたのです。そしてわたしたちに再び問いが投げかけられます。~が見落とされていたのは、この男の人生だけのことですか、~が見落とされていたのはあなたの人生においてもそうなのではありませんか、と。

 「しかし~は『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、一体だれのものになるのか』」と。このたとえ話の中では、この男がまだ計画を変えようと思えば変え、計算をやり直そうと思えばやり直す機会が与えられているとは言われておりません。全く思いがけなく、死はやってくるものです。死は、どんなに賢い計算も、どんなに遠大な計画も無効にするもう一つの確かな現実主義です。

 主イエスは、この観点から一人一人に与えられた人生の生涯を受け止め直すようにわたしたちを促そうとしているのです。この男は何も悪いことをしたわけではありません。彼は勤勉で、有能で、成功を収め、しかも目先が利いています。しかし、それでもなお、彼は愚かな者なのです。十分に先を見ていないのです。彼は、わたしたちみんなの前にやがて立ちはだかる最も確かなこと、死という現実を忘れてしまっていたのです。

 こうして彼の現実主義・実利主義と将来へのこざかしい備えは、全くの個人的な所有欲に過ぎないことがわかってしまいます。いずれは~に申し開きをしなければならないのに、彼は~を考慮に入れていません。わたしたちが注意しなければならないことはわたしたちへの~の賜物は、わたしたち人間が共に生きるために分け与えられたものであるということです。

 「自分のために富を積んでも、~の前に豊かなものにならない者は」このたとえに投げかけられている根本的な問いは、~に対して富むということでありましょう。有り余るほどの持ち物を目指し、~を忘れた、この物持ち、金持ちの生命保険は、愚かさそのものです。しかし、それではわたしたちは何によって生きるのでしょうか。「~の前に豊かになる」とはどういうことを言っているのでしょうか。この富は、特別なものであります。それは、常にわたしたちの前に備えられている、わたしたちと~との新しい命の交わりのこと、はっきりといいますならば、聖餐の食卓のことが言われているのです。

 人間であれば、自分で築き上げた栄華のうちに留まることは出来ないという客観的な事実を見据え、人に命を与え、取るお方があるということを悟らなければなりません。そしてそのお方がいつお取りになるかは、人の準備だとか何かに左右されない、今宵かも知れないのです。その時豊かであっても貧しくとも、人間にはいかんともしがたい命の始まりと終わりというものがあって、これを御手の中に握っておられる「~」という方がおられる。わたしたちはその神さまのお赦しの中で生かされている。そしてこの神さまのお恵みに支えられて、この短い生涯の日々の生活を喜び、楽しみ、満足するように一所懸命努力しているのですけれども、そしてそれがかなったとしても、それはどこまでも~の恵みであります。~に対して富むとは、この自分の命が~の無条件の愛の内に生かされていることを改めて受け止めることを言っているのです。

 聖餐という小さなしるしの中には、~の食卓の豊かさが備えられ、わたしたちが~の新しい命の豊かさに与ることが約束されています。一口のパンと葡萄酒によって、~の恵み、~の赦し、~の平安という富が、わたしたちの内に宿るということです。たとえ話の中で、語られた同じ言葉を、聖餐の中で、今度は空しい自分一人の独り言としてではなく、~が全く別の意味の響きをもって語られます。主イエスは言われます。「愛する魂よ、さあ安心しなさい」。この主の食卓から「食べなさい。飲みなさい。楽しみなさい」と。これが主の豊かな食卓と命に与るということです。この聖餐に与る信仰の群れを生きるわたしたちは、この~の御恵みの御業を信じて、赦されております短い人生の日々を、出来るだけ楽しく、出来るだけ喜ばしく、出来るだけ健やかに、しかも感謝をもって、共に生きる群れとさせていただきたいと願うのです。主が命豊かにわたしたちと共にいてくださるからです。

 お祈りいたします。

 神さま。わたしたちが生かされております救いの恵みの根本的なことについて、主イエスが鮮やかに恵みの事実を教え、真実を包み隠さず示してくださいますから、感謝致します。

 どうか、わたしたちが主イエスによってもたらされた、あなたの愛と無条件の赦しの中で生かされ、あなたの永遠の命の交わりに加えられていることを、感謝と喜びと希望のうちに新しく生きる命の力とさせてください。
わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

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「神の霊に生かされる」ルカ11:1-13
2022.7.24 大宮 陸孝 牧師
「そこでわたしは言っておく、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさいそうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す物は見つけ、門をたたく者には開かれる」ルカによる福音書11章9-10節)
 本日の福音書の日課は、主が教えてくださった主の祈りを基本にして、祈ることを教えておられるところです。まず最初に、重要な「主の祈り」の部分の基本的な意味を確認しておきたいと思います。イエス様の時代のユダヤ教では、毎日祈る祈りを教えていました。バプテスマのヨハネも彼の弟子たちに祈ることを教えていたようです。ルカ福音書を読みますと、他の福音書に比べてルカがひときわ祈りを重んじていることがわかります。イエスは洗礼を受けられるときや、大切なことをしたり、重大なことに出会ったりしたとき、また民衆から離れて一人で山に退いておられるとき、~の力を求めて祈られましたし、十字架にかかる前の苦しみの時にもゲッセマネで祈り、十字架の上でも祈られたのです。主イエスは身をもって祈りの大切さを弟子たちに教えられました。そして、本日の日課のところで弟子たちの求めに答えて、祈りを教えられたのです。

 主の祈りはマタイにもありますことから、イエスの教えておられる祈りが二通りの伝承があったことがわかります。そして、後のマタイとルカの教会において内容が徐々に整えられていったようです。マタイに比べてルカの方が簡単で、分かりやすいようです。

 ルカはまず「父よ」と呼びかけています。「父(アッパ)」は、「お父ちゃん」といった親しみを込めた呼び方です。ユダヤ教の祈りでは、~は人間が近づくことが出来ない存在として捉えられていて、人間はその偉大さの前にひれ伏す呼び方をされていました。十戒においては直接~の名を呼ぶことを慎むように戒められていて、ヤハウエなる~の名が出てくるとそれを別の名に置き換えて読まれていました。それに対して、イエスは、そして初代教会での~への呼びかけは決定的な違いを示しています。わたしたちはイエス・キリストを通して、イエス・キリストの十字架の贖いの愛を拠り所として、アッパと~に親しみを込めて呼びかけることが許されているのです。ですから、それは決して~の名をみだりに口にし、軽々しく呼びかけることではないのです。この点を先ずわたしたちはしっかりと念頭に置く必要があります。

 「御名が崇められますように」とは、ユダヤ教の祈りと本質的に変わることはありません。この祈りで、最初に自分自身の、個人的な願望を第一とするのではなく、まず~のことに関する願いが最初に祈られていることをしっかりと確認しなければなりません。「御名が崇められますように」とは、~が人間の一切の妨害を排除して、自由に御心のままに行動してくださるように、人間ではなく、~が歴史の支配者、主権者であってくださるように、という意味と、すべての人間が~の御前にひれ伏し、~を信じ、従い、崇めるようにしてくださいという意味とを含んでいます。

 ですから、その祈りは当然「御国(~の支配)が来ますように」という願い、祈りへと展開して行きます。特にイエスは世の終わりの~の支配が近いと信じておられましたし、初代教会でもイエスの再来が間近であると信じており、今はその艱難の時代だと考えて忍耐していた中での切実な祈りが、この「御国がきますように」という祈りだったのです。現代ではそのような切迫感がなくなっているのでありますが、少しでも世界が~の御心に添うようになっていくように、~の御心がこの世界において正しく実現していくようにとの願いは、今もわたしたちにとって切実な願いであることに変わりはありません。このような祈りをわたしたちが真剣にしていくことをイエスは教えておられるのです。

 この~の御心が行われるようにとの祈りに基づいて初めて、わたしたちの個人の願い、祈りをイエスは許し、教えてくださいます。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。子どもが親を信頼し願い求めるように、わたしたちはイエス・キリストを通して~をお父ちゃんと呼んで、何でも祈り求めることができるのです。これは人間にとって切実な願いです。イエスの時代の農民の生活がこの祈りの背後にあるようです。彼らは一日働いてその日一日生活し、明日は明日で一日の糧を働くのでした。蓄えはありません。ですから一日一日生きることは切実であり、一切を~に委ねて生きる他はなかったのです。今日の日本でのわたしたちの生活はそれに似たものになってきているように思います。この祈りは誰にでもよくわかる祈りであるということができます。

 そして、わたしたちが人間として生きて行くために、神さまに祈り求めて行かなければならないことはそれだけではありません。さらに必要な祈りがあります。それが、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分の負い目のある人を皆赦しますから」という祈りなのです。わたしたちはパンだけで生きている存在ではありません。~の霊の息吹を吹きかけられて生きている者です。~との霊の繋がりの中で生き生きと生きていくべきものなのです。しかし、~との命の繋がりを失ってしまっている。それを聖書は罪と言っています。わたしたちは日々~との生き生きとした命の繋がりへ自分を回復するために、~の無条件の愛、~の無限の許しを必要としています。しかし、多くの人はそのことを認識していません。気がつかないで、ただただ肉の糧であるパンだけを求めて祈っています。人間として豊かな人格を生き生きと生きるとはどういうことなのか、その規範はどこにあるのか。創世記にありますような~との豊かな霊的な命の繋がりを生き生きと生きる神の似姿としての人間のあり方はどこに示されているのか、そのことをイエス・キリストは御自身が~に「アッパ(お父ちゃん)」と呼びかけることによって、ここに~の許しを信じて、新しく~への応答関係に立ち帰る道があることを示しておられるのです。この信仰の中でこそ、わたしたちは自分の人間としての回復を信じ、また他の人をもその人自身と~との新しい関係の中で認めることができるようになるということです。

 そしてそこから最後の祈りが出てきます。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と。この最後の祈りにも、ユダヤ教の祈りと教会の祈りとの違い、それぞれの特徴が現れています。ユダヤ教の祈りでは、「試みを通してわたしの信仰を試し、より良い信仰者にしてください」となります。ユダヤ教では試練を通して、それに打ち勝つことによって~の前に功徳を積み、善い行いとなると考えるのです。これが律法に立つユダヤ教の祈りです。しかし、教会の祈りは、そのことよりも、~との真実の和解がどこでなり立つのかを問うのです。それは、アッパなる~の無条件の許しの愛の上に立つのですから、率直に恐ろしい試練に遭って信仰がおかしくならないよう、そのような試練に遭わせないでください、父なる~の和解の赦しを信じさせてくださいと祈るのです。~の無条件の許しの愛をそのまま信じる信仰に立たせてください、と祈るのです。この祈りにイエスさまの十字架の贖いを信じる信仰を通して生かされている者の人間らしさが溢れていると言うことができるのです。試練を通して信仰が磨かれるということではなくて、わたしたちはそのような試練に打ち勝ち、自力で~に立ち返ることはもはやかなわない、恐ろしい誘惑ともなるような試練の前に弱い、もろい、危うい存在でしかありません。ですから、そのような試練に遭わせないでくださいと率直に祈る祈りが、最後に置かれているのです。

 それで9節と10節でありますが、「そこでわたしは言っておく、求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさいそうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す物は見つけ、門をたたく者には開かれる」ここには「求める」「探す」「たたく」という三つの動作にわたって、必ず答えはあるのだという、答えの確実性を断言する言葉があります。ここでイエスが言っておられますことは、すべて、この前に教えられている主の祈り、~に祈ることの言い換えなのだと解釈できます。

 「求めよ」と言うのがイエスが教えてくださった祈りを心から本心で祈れということを表すことは説明の必要が無いと思いますが、「探す」と訳されております言葉は、旧約聖書では、「求める」と「尋ね求める、巡礼する」と言う意味のことばで、「~を求める」とか「~の御顔を尋ね求める」という、広い意味での祈祷や礼拝を表すということがわかります。わかりにくいのが、三番目の「たたく」という言葉でありますが、これも、当時のユダヤ教ラビたちの言い回しでは祈りを表す表現でした。エステル記2章5節(旧約764頁)に「スサに一人のユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシュ、シムイ、ヤイルと続くベニヤミン族の家系に属していた」という一節があります。この節の要点はベニヤミン族の系図を示すところにあるのではなく、モルデカイという一人の人物の特徴を表しているあだ名であると解釈されています。ヤイルの子≠ニは、祈りによってイスラエルに光を与えた℃qを意味し、シムイの子≠ニは、祈りを~が聞き入れられた℃qという意味であり、キシュの子≠ニは、憐れみの門をたたいて♀Jけてもらったことを示す、こういう解釈がなされております。すべて結局、モルデカイが祈りにおいて聞かれたり、かなえられたりしたということを表す別格のあだ名だと解釈しているのです。この例からもユダヤ教では「たたく」と言えば、「~の憐れみの門をたたく」という、祈りを表す文学的な表現だということがわかります。

 「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」と命令があり、「与えられる」「聞かれる」「明けてもらえる」という断言が語られているこのことばで主イエスがおっしゃろうとなさったことは、とにかく「求めなさい」、与えられたければ「求めなさい」という、神に熱心に信頼し続けるそのことを勧めているのだと受け止めることができます。

 祈り求めると言うときのわたしたちの問題は、~さまからの答えとして与えられたものを神さまからの賜物だとして、しっかり認識し、分かって受け取っているかどうかだということです。受け取る側のわたしたちが、ただラッキーだ、偶然だ、運がよかったのだと言って受け取るだけなのか、~からの賜物だとしっかり認識して、感謝をもって受け取るのかと言うことであろうと思います。最後にその~が賜物として与えてくださる最も良いもののことに触れ、「求める者に与えられる良い物」、それはつまり「聖霊」のことだと言われます。「聖霊」とは一人一人祈り求める者に賜る賜物であるというのです。このことをしっかり認識しますと、本日の日課のところでイエス様が教えておられることの中心的な趣旨がよくわかると思います。

 旧約聖書の終わりの方にゼカリヤ書という預言書があります。その12章10節(旧約1492頁)。これは主の日、終末が来ることを預言する一環として語られている文章です。「わたしはダビデの家とエルサレムの民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」。このように旧約聖書に約束されていたわけです。「祈りの霊」これを神さまが注ぐとき、それまでのイスラエルやユダヤ教の祈りとは違った意味の祈りというものが始まると言うのです。

 祈りは先ず~から始まるのです。~が「祈りの霊を注がれ」るとき、~の子たちの祈りが、大胆に、勇気をもって、「アッパ」と口を突いて出てくる。わたしたちが神さまに「アッパ」と呼びかける「祈りの霊」は、神さまがくださった、わたしたちを「~の子とする霊」なのです。この霊がわたしたちの唇を開いて、「アッパ」と呼ばせ、わたしたちが~の子であることを証明することになるのです。ローマの信徒への手紙8章26節(新約285頁)「同様に霊≠燻繧「わたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊℃ゥらが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。わたしたちはどう祈ったらいいか分からない。言葉にも並べられない。そのもどかしいわたしたちの霊の思いを、~の聖霊がしっかり執り成してくださるからこそ、~に通じる祈りとなる。

 このように、わたしたちが「アッパ」と呼びかける力も、わたしたちが実際に言葉を連ねて祈る祈りそのものもわたしの心がやっているのではなくて、~から賜る聖霊がそうさせていてくださるのです。

 イエス様が、求める者に天から父が与えてくださる≠ニおっしゃいました「聖霊」とは、そういう祈りの霊なのです。わたしたちに、~さまのことを「アッパ」と呼ばせる霊なのです。わたしたちのどう祈ったらよいか分からない心を導いて祈らせる力なのです。わたしたちはこの神さまの霊の力によって、日々に信仰者として育てられ成長させていただいているのです。

 お祈りします。

 父なる神さま。あなた自身と、あなたのもとから来てくださいました御子イエス・キリストとに励まされ、その真実な御言葉と祈りの霊の力によりまして、祈るべきことを祈っていく者に新しく変えてくださる約束を与えてくださいました。わたしたちをあなたのこの約束のもとに、聖霊によって日々導いて新しく育ててください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。     アーメン。

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「神の愛の言葉に傾聴する」ルカ10:38-42
2022.7.17 大宮 陸孝 牧師
「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだ。」ルカによる福音書10章42節)
 本日のルカ福音書の日課10章38節以下は、舞台はベタニアでの出来事として描かれています。エルサレムの郊外の村です。イエスは今やエルサレムに入ろうとされています。イエスのエルサレムの旅は9章から始まって19章まで続くのですから、旅行の行程を考えますと、ベタニア村が旅行の初めに出てくるのは少し早いようにも思いますが、このマルタとマリアの物語を、旅行の始めから問題となっておりますイエスに従うことの意味を示す枠の中に入れる意図で、旅行の始めに入れたと思われます。

 マルタとマリアの姉妹は初代教会に名の知れた人物であり、二人とも敬虔なキリスト者として尊敬されていたようであります。この二人がどういうきっかけでイエスと出会ったのかについては何も書かれていません。ともかく、イエスはエルサレムに上る度にこの家に立ち寄られたと推測することができます。ここに泊まり、そしてこの家に集まってくる人々に福音を語られた、つまり、イエスの宣教の拠点となった場所でありました。

 それで、久しぶりに来訪されたイエスをマルタはとても気を使い、できる限りのもてなしをしようとしました。イエスは何といっても彼女たちにとって、最も大切な客だったのです。ここでは、マルタは実際的・行動的な女性として描かれております。イエスを迎えるに当たり、たいへんな苦労と準備を重ねたことでしょう。イエスをこよなく尊敬し、もてなそうとして必死で立ち働くマルタにとってマリアの態度は許せないものだったに違いありません。この大多忙の最中にマリアは何も手伝わず、イエスの足もとに座り込んでイエスの話しを夢中になって聞いていたのでした。

 この様子を皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。特に婦人の方々は、恐らくマリアに余り良い印象を持たれないのではないでしょうか。マルタの方がずっと立派で親切だと思われるのではないでしょうか。たとえイエスのお話しが聞きたいからといっても、何も手伝わず、イエスに何のおかまいもしないマリアは、あまりに身勝手な女性と映らないでしょうか。

 確かにここでは二人の性格や人柄がいかにも対照的に描かれています。マルタは実際的で、世間的な意味でも評判よく、家を立派にきりもりし、生活能力を持ちながら、しかも気立てが良く、親身に人を世話するタイプです。それに対し、マリアはいかにも内気で、勉強家で、内面性が豊かで、しとやかです。しかしいかにも生活能力に欠け、融通の利かない要領の悪い女性で、しかも頑固で自分のことしか考えず、他人への配慮に欠けた女性のようにも見えます。この二人の性格のどちらが良いのかが問題となっているのでしょうか。聖書はマリアの性格の方をより良いと評価しているのでしょうか。最近フェミニスト神学が台頭してきまして、その人たちは、このような見方に反発しまして、マルタの方が立派だといいます。そして聖書には女性に対する偏見があると主張いたします。果たしてそうなのでしょうか。

 ここでは、もちろん女性の性格のことが取り沙汰されているのではありません。むしろここではマリアの行動の異常性がはっきり表面に出されているといった方が的確だと思います。ユダヤ教の律法学者の言い伝えに次のようなものがあります。「あなたの家を賢人たちの祈りの家とし、彼らの足のほこりの中に座り、渇きをもって彼らの言葉を飲みなさい。・・・しかし女性と多く話してはならない」と。つまり当時の常識からするとマリアはイエスの足もとに座ることによって男性と同様に振る舞っているのですし、また食事の準備をする姉妹を助けるという義務を怠っており、社会的な決まりの枠を踏み越えているのです。

 しかし驚くべきことに、イエスはそのマリアを非難されないで肯定されているのですが、それは主イエスはわたしたち一人一人に~の言葉を伝えるために来られたのだという、イエスの持っているただ一つの使命から理解されるべきものであることを示しているのです。

 42節の「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだから、それを取り上げてはならない」この結論の言葉がとても重要であると思います。この物語は、主イエスに対して同じ尊敬と愛情を持ちながら、そしてどちらも同じく主の弟子たらんとしておりましたのに、そのイエスに対する愛し方がちがう、敬い方がちがう。イエスに対する接し方が違う。もてなし方がちがう。この違いは何の違いかを見ていかなくてはならないのだと思います。

 先週の良いサマリヤ人の譬えのところで、律法の専門家は、主なる~を愛し、隣人を愛せよという律法はしっかりと認識しておりました。でも、「あなたはそれをどう読んでいるか」というイエスの問いに即して言うならば、この律法の学者は、父なる~から示された戒めというものを文字面にこだわって、そこに汚れの律法が定められているから汚れには触れてはいけないということで、誰が見ても駆け寄るだろう場面で、彼らは律法の文言にこだわって、道の反対側に避けてしまったわけです。

 ここでのマルタの場合は逆でありまして、確かにイエスを尊敬し、イエスを愛し、イエスに喜んでいただきたいという情はあるのですけれども、その情を抑制できない、情の赴くままに皿の数を増やし過ぎたものですから、「イエスの足もとに座って御言葉を聞か」なければならないという必要不可欠の「一つ」を失ってしまったということなのです。脇道にそれてしまったのです。

 わたしたちが本日のお話しを正しく理解するためには、正しいバランス感覚が必要です。イエスという一人の人物に対して二つの違った態度が出て来て、一方が良くて一方が間違っていると言う造りで言いますと、マルタがいたしましたことは、イエス様を迎え入れてもてなすことであり、それ自体は間違ったことでも何でもありません。当然必要なことですが、ただ度外れに必要の範囲を超えてしまったというだけのことだと思います。肝心なことは最初は認識していたかも知れませんけれども、結局、「脇道に引きずられる」までに度を越した、「多くのもてなし」に思い煩うまでになってしまったということが問題だったのです。

 もてなしと訳されております言葉は、8章3節でガリラヤ巡回伝道旅行中に女弟子たちがイエスやイエス一行に「奉仕した」と訳されておりますこの「奉仕」のことであります。初代教会の時代にここと同じ問題を扱っているのが、使徒言行録の6章の所であろうと思います。(新約223頁)弟子の数が増えて来たために、ギリシャ語を話すユダヤ人たちとヘブライ語を話すユダヤ人の間にトラブルが起こってきました。それは「日々の分配のこと」と1節に出て来ます。この「こと」というのが「奉仕」。「日々のパンの分配の奉仕」のことです。2節に、「~の言葉をないがしろにして、食事の世話をする」という「世話」と訳されている言葉も同じ「奉仕」であります。ところが、4節まで読み進みますと、ペトロたちが、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕」ここの「御言葉の奉仕」という言葉も全く同じ表現が用いられております。この奉仕に「専念することにします」となっているのです。

 接待に重点を置きすぎて、「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」。ここで「ないがしろにする」と弟子たちが申しました表現が本日の40節でマルタが「わたしだけにもてなしをさせている」と訳されている言葉なのです。「わたしだけにさせている」これは「後回しにする」とか「後に残しておく」「放置しておく」と言う表現です。「わたしだけに放置している」とマルタは言っているのですが、でも、これは明らかに主客転倒でありまして、ペトロたちに言わせるならば、こういう姿はむしろ「~の言葉をないがしろにし、後回しにすることになる」とたいへんデリケートなバランスを本日のお話しは教えていることになるのです。どんなことがあっても、先ず~の言葉を聞くということは、取り去ることのできない「最も必要な一つ」の中心的な務めだとイエスは教えておられるのです。ペトロたちが申しました時の「御言葉の奉仕」というのは、御言葉を教え、宣べ伝える勤めのことでありましたけれども、マリアがしております御言葉の奉仕は、(「伝える」ということよりも)じっくりと聞き入って学ぶという、これもまた重要な御言葉の奉仕、務めなのです。これを取り去ることはできない。マリヤは良い分を、ベストな分を選んだのだからとイエスは言われます。

 詩篇の73編26節「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、~はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分」。~こそが、わたしの「分」であるといわれています。同じ信仰が詩篇119編57節に「主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します」。とあります。マリアはこの最も良い分を選び取っているということです。

 イエスがマルタとマリヤの家にやってきて人々が集まる。彼女たちに~の言葉を伝えるチャンスは殆どなかった状況の中で、この瞬間は余りに貴重な時だったのではないでしょうか。マリヤはそれに一切を賭けたのでした。マタイ4章にありますように、「人はパンだけで生きるものではない。~の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを何よりも大切にし、そのために他のすべてを犠牲にすることをも厭わなかったのです。マルタもこのたとえようもない貴重な時間に、彼女は一切を捨てて、社会的評判も捨てて、義務も捨てて、親切な配慮でもてなすことも捨てて、イエスの言葉に耳を傾けるべきでした。それができなかったのです。イエスに一切をかけ、己が存在と人生を投げかけることができなかったのです。ということは、イエスのただ一つの使命に応えることができなかったということです。

 そしてマリヤはこれを選びました。マリヤはイエスを絶対必要とし、主イエス無しには生きられない所に身を置いておりました。マルタはイエスをこよなく尊敬し、敬愛しておりましたけれども、イエス無しでも、他にもいろいろ生きがいがありました。二人の違いはこの違いであるとわたしは思います。そして主イエスはこのことをわたしたちにも厳しく問いかけていてくださっているのです。
 
 お祈りします。

 神さま。あなたはわたしたちの救いにかかわることを、御子イエスを通してわたしたちに示してくださいます。わたしたちが進んでその御子イエスの膝もとに近寄り、主イエスの御口を通して語られる御教えをしっかりと聞き取ることができますように。そして、わたしたちがいっそうあなたに喜ばれるあなたの子どもとして成長していくことができますように御言葉によって導いてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン。

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「あなたの人生に寄り添う主」ルカ10:25-37
2022.7.10 大宮 陸孝 牧師
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(ルカによる福音書10章33-34節)
  本日のルカによる福音書10章25節以下は、大変有名な良きサマリア人のたとえです。この譬(たと)えばなしはイエス様がエルサレムに向けて意を決して歩み出されたエルサレムへの旅路の中で語られたこととされています。イエスの受難が近づいたことが(9:51)エルサレムへ向かう旅行のきっかけとされております。そしてこの旅行の最初の事件が、サマリヤ人の村で起こります。それはサマリヤ人がイエスを受け入れず、歓迎しなかった話しであります。そしてこの後の旅行の中でのイエスの言葉と行動、出来事はすべてイエスの受難に深く関わっていくこととして描かれて行きます。

 さらにこの物語が、ペテロの信仰告白(9:18〜22)とそれに対応してイエスが喜びに溢れることが10章21節から24節に書かれていますが、その次にこのたとえ話が続いていますので、ここはこの信仰告白を前提として読み解釈して行かなければならないところだということを示しています。

 さて、それで、律法の専門家がイエスに質問をします。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、これは全ての人の宗教的な問いで、特に律法の専門家であるとか聖書学者であるとかいうことではなくても、どんな人でも持つ「永遠の命を受け継ぐ」ためにどうしたらよいかという問いであります。その質問にイエス様は逆に質問されます。「律法には何と書いてあるか」。そして律法学者は、「~を愛する」ことと「隣人を愛すること」を組み合わせて応えます。その結果、28節「イエスは言われた『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」と言われるのですが、簡単に結論から言いますと、これは実はイエス様の皮肉でありまして、真実なイエス様のお教えではありません。「実行すれば命が得られる」というのはレビ記の18章5節で言われていることで、イエスはこれに基づいて返事をなさった訳ですけれども、実はイエス様が十字架に向って歩み出しているのは、これが現実の堕落した人間には出来ないということが明確になっているからなのです。罪人はこの律法では救われないのであって、わたしたちはただ主イエスの贖(あがな)いによって、~の民とされるということを信じる信仰によって救われるのだとパウロはローマの信徒への手紙でも、ガラテヤの信徒への手紙でも、このレビ記18章5節を引いて、それとは違う信仰義認を教えたわけです。ガラテヤの信徒への手紙の方で言いますと、3章11節、12節(新約345頁)「律法によってはだれも~の御前で義とされないことは明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のですという、レビ記18章5節を引いて、キリスト教はこうではなくて、~の恵みに拠る一方的な救いを信じる信仰によると言ったのです。

 ですから、本日のルカ福音書の日課、28節のイエスの答えは一見答えのように見えるのですけれども、これはお話しの本筋ではありません。あなたは~の啓示としての聖書、「律法」を持っているかもしれないが、それをどう読みますか、、どう受け止めますか、この問題が本筋なのだと思います。神の側から授けられる啓示をどういう風に聞くか、「どう読むか」、どう受け止めるか、これが主題なのだと思います。

 そこで30節からのたとえ話が語られることになります。話しは単純明快なたとえばなしで、全く注釈は要らないと思いますけれども、少し注意点を申し上げますと、まず、このたとえが扱っている場面は、わたしたちが日常生活の中でそうしょっちゅう起こることがらではないということです。わたしが外を散歩中に、その道で自分一人で歩いていて、見ると道の向こうで、生きているか死んでいるかわからないような素っ裸になった男が倒れているというような場面に出くわすこと、これは、わたしの生涯の中で一度あるかないか、多分ないだろうと思うような事態です。そのことをまず踏まえる必要があります。

 こんな事は滅多にないことなのです。その滅多にないことに出くわした時に、わたしたちを本能的に突き動かすのは、助けなきゃ≠ニいう思いであろうと思います。この時に、サマリア人の取った行動は当然のことだと思うのです。ロバに乗せて、とりあえずは人里へ運んで助けを求めるというのは、これは当然のことだと思います。びっくりすることでも何でもないと思うのです。

 そのように考えて見ると、このたとえの裏に隠されている事情というものはユダヤ人でなければ恐らくイエス様がこの話しをなさった意図は汲めない、意味の分からないたとえ話なのだと思います。たまたま三人目の親切な男が「サマリア人」であったということをわたしたち日本人が聞いても別にどうということはないのですけれども、ユダヤ人から見て、異なる宗教に走って汚れた者(17:18)と言われていた「サマリア人」。ある時イエスは、あなたはサマリア人で、悪霊に取りつかれている≠ニ当時のユダヤ人から言われたぐらいなのです。(ヨハネ8:48)〈新約183〉それほどに差別され、軽蔑されている「サマリア人」がこのような親切な行為をしたのだというのは、ユダヤ人に取ってみればそれは衝撃的なこと、意外なことであったということなのです。

 そして、その前の「祭司」や「レビ人」が、当然走り寄る人間の本能的な反応をぐっと抑えて、わざわざ反対の方を避けて通ったというのは、ユダヤ人なら分かる話だったのだと思います。彼らには汚れの律法≠ニいう「律法」があるのです。モーセの律法によれば、どの人でも死体に触れたならば、一週間の汚れ、不浄になります。(民数記5:2、19:11旧約聖書218、246頁)ですから、神殿に仕える祭司やレビ人は、自分の父、母、子どもと兄弟以外は、親類の死体にも触れてはならない。これは絶対の律法でありました。(レビ記21:1旧約195)ユダヤ人であれば皆この律法を知っていますから、ああ、祭司ならばそれは当然避けたでしょう≠ニ思うことなのです。そうです。ユダヤ人にとって「律法には何と書いてあるか」が問題となるのです。「律法に書いてある」ことをそのまんま読んでそれを遵守するならば、避けざるを得ないのです。これがこの譬(たと)えの本筋です。

 父なる神さまは救いの御業を、「知恵ある者」や「賢い者」には知らせず「幼子」に示される、とこの直前の10章21節で言われました。この賢い者の代表として今「律法の専門家」が登場しております。この専門家が~が与えてくださっている啓示をどう受け止めているのかがここで問われているのです。その問いの中で「自分を正当化しようとして」「わたしの隣人とは誰ですか」と律法に問われている意味をイエスに尋ねるわけです。イエスは、折角与えられる~の啓示ならば、「幼子のようになって」自分が~の示される聖書、律法というものに照らして、自分がいかにそれを守り切れない罪人であるか、自分が~の与えられた律法を守ることによって自分を救うことが出来ない無力な者であるかということ、そういう自分の欠けを素直に認める「幼子」になっていくようにという結論に導こうとしています。

 律法を行うか行わないかではない、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、「わたしの隣人とはだれで」あるか、わたしの愛すべき隣人とはどこにいるかという問いではなくて、「誰が・・・隣人になったと思うか」とイエス様は質問を変えています。そして、ユダヤ人の最後の応えは「その人を助けた─憐れみを行った人です」それでは、「あなたも行って、同じように行いなさい─憐れみを行いなさい」とイエス様が言われます通り、その関わりの中心は「憐れみ」、愛するという一点であったということです。この憐れみの心、愛の心をもって律法を読むということ、これをイエスは主張して、律法を生きるとはそういうことなのに、誰もそのようには律法を守ることはできないと、きっぱりと言われたわけです。

 イエス様が当時のユダヤ教の指導者たちを論敵として対決した原理は大変単純なものでありました。「善を行う」「人の命を救う」「サタンの束縛から解放する」ただそれだけなのです。愛の心と憐れみの心なしに律法の文字をいくら読んでも、ここでいう隣人とは誰のことか∞ここでいう安息日とはどういう日ですか=Aこんな議論をいくらやっていても、~が御子を通して与えてくださる、人間を救う~の愛の業を知るにはいたらないのです。

 父なる~は御子の生涯を通してわたしたちに~の憐れみと愛を表してくださった。だからイエス様のなさったいろいろな行為や物語あるいは起こされた出来事、語られた言葉、これら全てが神さまがわたしたちに語りかけておられる言葉なのです。働きかけておられる~の憐れみなのです。~の愛の働きなのです。毎週の主日に牧師が語る説教を通してわたしたちは、生きた神の言葉としてわたしたちの内にいましたもうイエスに新たに出会うということこれが説教の意味です。~が人間を救うためにわたしたちの所に来られて、~の憐れみと愛の業を行ってくださった。~が命がけで救いの業を行ってくださった。その十字架への歩みを示すために語られたたとえ、それが本日の譬(たと)えであります。わたしたちはこの譬(たと)えを通して~の憐れみによって生きるように招かれているのです。ある人を愛するということは、その人にたいしてイエス・キリストの証人となることなのです。「隣人を自分のように」といわれるとき、罪人であるわたしたちは、ただただ~の憐れみの御手に信頼を置いて自分をお委ねし、また隣人をもその~の救いの恵みの御手に置いてくださるようにと祈るのです。
 
 本日の福音書の日課は、私たちの今年度の主題聖句が含まれているところです。ホームページの牧師メッセージをも併せてお読みくださり、神の愛への理解を深めていただければ、と思います。

 お祈りをいたします。

 父なる神様。わたしたちが欠けの多い、力のない、幼い者であることを認めて、あなたの憐れみの前に、跪きますとき、あなたは御子イエス・キリストを通して、あなた御自身がどのように愛と憐れみに満ちた方であるかを示してくださいました。

 どうか、わたしたちが、聖書に書かれている主イエスの、あなたの御子としての愛の業を素直に受け取ることができますように導いてください。主イエスを通してわたしたちにあなたの愛と憐れみの心を与えてくださり、わたしたちの教会の礼拝の交わりを通して、あなたの救いの恵みを証ししていくことができるように導いてください。

 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン。


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「永遠の命に与る喜び」ルカ10:17-20
2022.7.3 大宮 陸孝 牧師
「72人は喜びをもって帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」(ルカによる福音書10章17節)
  6月19日の説教でも申し上げましたが、ルカ福音書の9章51節からルカ福音書は第四部、イエス様がいよいよエルサレムに向かわれる旅行を開始されたことが語られ、それが19章27節まで続きます。それは受難のための旅行であり、そのことは9章22節と44節の受難予告によって示されています。ここには、神さまのご計画を成し遂げるために、受難を決意し、ひたすらそれに向って進まれるイエスの姿が鮮明に描かれています。これがこの第四部の特徴であります。主イエスはご自身の死をはっきりと意識し、確固とした決意をもって、それに向って歩んで行かれたのです。どんな決意かと申しますと、~の御計画に添って歩んで行くという決意です。そして、その死出の旅の途上で死と向き合いつつ語られたイエスの教えとして、ここにイエス様の教えが述べられているのです。ですから、わたしたちはここで述べられていることをすべて、わたしたちの神さまのことなど忘れて自分勝手に生きてきた結果辿り着いた、神さまから見捨てられてしまっていると思われるような人間の孤立状態を一身に背負い、その状態を自らを犠牲として神さまとわたしたちとの和解、神さまとわたしたちとの繋がりを取り戻してくださるために、十字架に向って真直ぐに進みたもうイエスに思いを集中しながら読んでいかなければならないのです。そのエルサレム行きに同行していたのが、弟子たちでした。51節に「エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。そしてさらに53節には「イエスがエルサレムを目指して歩んでおられた」と、主イエスがご自分の死をすでに予想し決意してエルサレムに弟子たちを伴い向かおうとしておられる姿が強調されています。

 そして10章ではその道行きがエルサレムからさらに世界への方向付けへと展開していくことが「72人」の派遣で明らかとなります。72人の派遣は、エルサレムへの道がエルサレムを超えて、普遍的、世界的な活動への道の具体的な始まりであり、遣わされる者は神の支配が近いことを告げ知らせる使命を担うことを示そうという、ルカ福音書記者の歴史理解にも関係しているのです。12人の弟子に続いて、これとは別に72人が遣わされるというこの派遣は、ルカ福音書の続編使徒言行録を超えてルカがイエスの出来事においてみる世界宣教のイメージと結びついて行く事柄であるということ、つまり、ここには使徒以外の宣教者の派遣の原型が記述されていると見ることが出来ます。

 どういうことかと言いますと、イエスは町々を訪ね歩かれた。使徒たちは村々を訪ねるようにと、派遣された。使徒たちはイエスの癒やしの力と全権を付与されて、イエスの行かないところに遣わされたと読めます。これに対して72人は、間もなくイエスが訪れる地に先に遣わされる。使徒たちは「別動」へと遣わされますが、72人は「先遣」される。イエスがまもなく後からやって来ることによって、彼らの使命は完結される。彼らは先遣者として、直ぐ後に来られるイエスを指し示し続ける役割を担っている。これが代々の世界の宣教者の使命でもある。このことを確認しているのです。

 前置きが長くなりましたが、本日の日課10章17節〜20節には明確な二重の枠で括られています。一つは17節〜20節の「喜びの枠」ともう一つは17節と19節にあります「イエスの名」と「権威」です。

 先ず一つ目の喜びについてです。ギリシャ語には「エドネー」という言葉と「カイロー」という二つの喜びを表す言葉があります。「エドネー」は快楽的な喜びを指します。英語でいえばpleasureです。感覚的な楽しい、うれしいという喜びは「エドネー」を用います。それともう一つ「カイロー」というギリシャ語は英語で言えば「joy」です。日常生活の中でいろいろな喜びを表すときとクリスマスの喜びのような永遠的な喜びは重なっていて容易に分けられないのですが、理論上、反対語を考えた時に違いが出て来ます。「エドネー」は、苦しみや悲しみが来ると消える喜びです。しかし、わたしたちの中でいろいろな悲しみや苦しみが起こりますが、その苦しみの中にあっても、喜ぶことができる、それも歯を食いしばって喜ぶというのではなくて、苦しみ、悲しみの中にあっても、わたしたち自身の中に永遠の内に包み込まれている喜びを発見する、そのときに「カイロー」というギリシャ語が使われています。永遠の命に与っている喜び、イエス誕生物語で、羊飼いに対して天使たちが語った言葉、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2章10節)この喜びが「カイロー」です。人間の成功不成功が問題なのではなくて、一人一人が永遠の神の内に包み込まれている喜びが示されています。一人一人は、どのような時にも永遠の神のうちにあって、喜びに満たされる、それが信仰の力であり、主は、あなたが永遠につながっていることを心から喜びなさい、その喜びに満たされなさいと言われたのです。

 72人は帰ってきます。主に遣わされたのですから、その主のもとに帰ってきます。派遣と帰還は一対であり、連動しているものです。連関運動として、派遣と帰還はそれぞれの節目を迎えます。それに続いて新たな派遣が起こり、それに応じた帰還があります。説教者、宣教者は遣わされた者です。遣わされた者に過ぎないというべきでしょう。派遣と帰還とを赦される限りにおいて繰り返し、これを続ける者です。説教や宣教の働きが自己完結となり、自己満足に陥って、独善となり、送り出されたままで、派遣された事実を忘れ、帰るべき所に戻らない、送り出してくださった方を忘れてしまう、いわゆるカリスマ運動のようになる。そのような者の周りに出来る小さい群れ、大きい群れは大変な混乱と無秩序の中に陥ることになります。わたしたちは何処に帰ればよいのかという問題です。

 17節「72人は喜びをもって帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」。文字通り「喜びをもって」帰って来ます。そのしばらくの働きに疲れていても、心は喜びに満たされて帰って来ます。派遣されたのも喜びであり、その働きも喜びであり、帰還もまた喜びなのです。それは主が共におられるからに他なりません。この主にあって彼らのよろこびが満たされるのです。働きの実りが豊かで、それを喜びをもって伝えることができるというだけではありません。たとえ働きは厳しく、その実りはわずかなものであり、空手で帰らなければならないとしても、彼らはこの遣わされた主のもとに帰ることができることを喜ばずにはおれないということでした。人の喜びに優る、神にある喜び、神から来る喜びを表しています。まさに、「主こそわが喜び」(バッハ)なのです。

 説教者、宣教者は派遣された者、主に送り出された者です。派遣された以上、この方のもとに帰るべき者なのです。帰ることを許されており、帰ることを求められています。託されたことに努めることもまた、究極のところ送り出してくださった方の働きに収束され、御手の内に受容されるのです。

 72人は主のもとに帰ると、口々に報告したでありましょう。その報告は多義に渡ったことでありましょう。語ることはいっぱいあり、尽きることがないほどだったでありましょう。しかし、その72人の報告をルカはひとつの文章にまとめています。多義、多様に渡る報告を正確に要約すれば、この一文に尽きるという書き方です。報告を聞き、受け取る主はご自身のすべての責任においてこれを聞き取り、、受け取ってくださる、ご自身の喜びとしてくださる。72人一人一人の働きの一つ一つ、そのすべてを主ご自身の喜びの内に受け止めてくださるということです。この恵みの内にわたしたちはさらに繰り返して、新しく派遣されていくことにつながっていくのです。

 「あなたのお名前を使うと」は直訳では「お名前において」です。主イエスの名前を懐に所有している印籠のように、ここぞと言う時に取り出して「控えおろう。この紋所が目に入らぬか」と掲げるような意味合いで、人間のよしと思ったときに使える手段、道具のように、「あなたの名前」は遣わされた72人の手中にあって、ちょうど良い時に使えば、効果覿面であるという意味合いとは違うと思われます

 主イエスのお名前は72人の手中にあるものではない。彼らが持って歩くものではない。むしろ、この御名が72人の人たちの存在の根拠であり、72人がそれに支えられ、生かされ、用いられ、彼らを包み込んでいる。自分たちを持ち運び、支え、動かしている、このことを深く経験したのだと思います。御名は神ご自身に他なりません。神様の存在と本質と、そのみこころと力と働きのすべてが「御名」に込められ、この御名に包まれ、この御名の力の内にあって始めて自分たちが神の働き、使命を遂行できた、いや、神ご自身が働いてくださったのだという信仰告白であります。派遣された72人の働き一つ一つのことすべては、主の御名において、主ご自身がおられ、働かれて、ことが決定的に起こった主の出来事に他ならない。そしてあなたが経験したその主の確かな働きの中心に、あなたが神のもとに救い取られたことがあるのだ。だからまさにその確かに神様ご自身があなた自身に働いて救い取ってくださっているそのことをこそ、あなたは喜びとしなさいと、主はわたしたち一人一人に恵み深く語っておられるのです。

 お祈り致します。

 神様。あなたは命の書に、あなたの御子イエス・キリストが罪をつぐなってくださることによって、わたしたちが永遠の命に預かることが出来ますことを心から感謝申し上げます。

 どうかわたしたちが、地上で、人々の目の前で、どのような業をなすかということ以上に、わたしたちがイエス・キリストに結びつけられて神の家族の名簿に加えられておりますことをいつも感謝し、そのことを信じ続けることが出来ますように、そしてその信仰と感謝と喜びからわたしたちの生活や働きが生み出されて参りますように、喜ぶべきことをわたしたちがしっかりとわきまえてゆくことができますように導いてください。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン

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