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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 ルターの紋章日本福音ルーテル賀茂川教会  

牧師メッセージバックナンバーpastor'S message


  「平和の君イエス」   

                      
大宮 陸孝 牧師    

              
 昨年のクリスマスに、のぞみ保育園年長組の子供たちの降誕劇を通して、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との天使のメッセージを聴きました。主イエス・キリストは平和の主としてこの世界にお生まれになった、これがクリスマスの本当の喜びであることを示されました。

 しかし、平和ほど誤解されやすくまた濫用されている言葉もありません。また平和ほど脆く、はかないものもないとも思います。1945年第2次世界大戦が終わる間もなく、朝鮮動乱が勃発し、それが収まったかと思えば今度は1955年から1975年まで、20年にも及ぶベトナム戦争、そしてアメリカとソ連の冷たい戦争が1991年のソ連崩壊まで続き、さらにドイツの東西分離が1992年ベルリンの壁崩壊まで続いて、それがようやく終わったかと思えば、今度は2003年3月から2011年まで中東のイラク戦争と続きました。そして、その間にもイスラエルとアラブの紛争があり、敵味方に分かれて未だににらみ合っています。このエルサレムほど、2000年以上も昔から戦場になり、流血の惨を味わった所はありません。そして、今年の2月ロシアとウクライナの戦争が始まってしまいました。毎日凄惨な戦場の様子が私たちの家庭に映し出されて、私自身、身も心も壊されて行くのを感じています。

 戦争を始める者はその戦争を正当化して、正義の戦いであることを主張します。ロシアのプーチンは自分は平和のための戦いをしているのだと主張し、世界平和のために祈るとまで言っています。しかし、聖書は繰り返し繰り返し、正しい戦争などあり得ないことを私たちに告げます。

 なによりも私たちは、私たち人間がどんなに正しいことを行っていると自分で思ったとしても、その心の中はどろどろした身勝手な自己中心の思いから出ているのであり、それによって傷つけられている人々が大勢いるのだということ、多くの場合そのことさえ気づかずに自らのみを正しいと思い込んでいるだけであることを十字架の主を仰ぐ時にしみじみと身にしみて知らされるのです。
 主イエスはどのような意味で平和の主なのかを次のように言われます。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ福音書25章40節)私が人を傷つけながら生きていると言うことは、とりもなおさず主イエスの御心を傷つけながら生きているということなのです。神の御心がわからないで、自分勝手な生き方をしているそれを罪というのです。その的外れな生き方の延長線上に戦争があるということになります。このままいけばいずれは人類は自らの罪の故に滅亡する。そのことを聖書は何度も何度も私たちに警告しているのです。

 それだけではなく、主イエスはその滅びに至る私たちの的外れの結果を自ら引き受けて私たちの身代わりとして十字架の死に赴かれたのだということです。そのことを私たちは「救い」と言っているのです。そのことに気づかされてはじめて、私たちがこの神の救いの働きに深々と頭を下げる姿勢が生まれてくるのです。

 自分を犠牲にして他者を生かす。主イエスはそういう意味で平和の主なのです。平和の君イエスは、自分は傷つけられ、傷つけられつつなおも、どこまでも深くわたしたち小さい者、不完全な者、傷ついた者、苦しみの中にある者、悩める者、病気を患っている者を、愛と憐れみと慈しみの心で包んでくださり、癒やしてくださる方なのです。私たちの自己回復の道はこの方の愛のもとにあるのです。 
             

                      2022年5月1日



「神はわたしたちを命をかけて守る」   

                      
大宮 陸孝 牧師    

              
 「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 ルカ福音書15章4節~7節

 神様が人を慈しみ愛されることを、親子の愛にたとえるときには、子に対する親の情愛というものは、その表現方法には違いはあるかもしれませんが、時代や文化を越えた不偏なものであるでしょうから、私たちはそんなに抵抗なくこれを受け入れることができるでしょう。しかし羊飼いのたとえということになると、羊飼いなど見たこともない私たちには、わかりにくいたとえであろうと思います。

 パレスティナでは現在でも羊を連れた羊飼いを見ることができます。私が三十数年前イスラエルの旅をした時に、荒れ野で羊たちを連れた羊飼いの人たちを、一度ならず見かけました。二千年前のイエス様の時代には、イエス様が羊飼いをたとえにして話せば、恐らくそれを聴いていた人たちはみんな生き生きとした神様と人間の関係を思い浮かべることが出来たのだろうと思います。

 私は中国大連で生まれ、敗戦後一歳になるかならないぐらいで、舞鶴港に母親と兄弟たち総勢六人で引き上げて来ました。そして、それから八年後戦争の悲惨な状況がまだまだ生々しく残っていた復興途中の時代でしたが、ある日のこと、父親が突然乳牛を連れてきました。なんとか生計の足しにしようと考えてのことであろうと思いますが、それから毎日牛のえさをやったり世話をする仕事が私に課され、雨の日も風の日も、学校から帰ると直ぐに牛を連れて山に行き、草を食べさせる間、私はずっと牛の手綱を持って立ち尽くし、牛が草を食べるのをじっと見ていたものでした。それで、私は牛が本当に悲しい時には、涙をぽろぽろ流して泣くということも知っています。

 乾燥していて暑気の厳しいパレスチナでは、家畜には毎日規則正しく水をやる必要があります。羊飼いはいつも羊の群れの先頭に立って羊たちを牧草地や水辺に連れて行かなければなりません。また野獣や盗人たちが出たときには、まず自分でこれらと戦わなければなりませんでした。ヨハネ十章には雇われている羊飼いのたとえがありますが、雇われている人間は、狼が襲ってくれば自分の命が大事なので羊を置き去りにして逃げるけれども、良い羊飼いは羊のために自分の命さえ捨てるのだ、とイエスは言います。

 羊飼いたちは、自分の羊には一匹一匹にその羊の特徴を表すような名前をつけて、どの羊は体力が弱いとか、病気にかかりやすいとか、迷子になりやすいとか性格もよく知っていたようです。羊たちも決して飼い主の声を間違えるというようなことはなかったと言われます。また羊飼いたちは羊を守るために、石投げの技術に熟練していたようです。皮や毛で編んで帯状にして中央の部分に石を載せ、両端を手に持って頭の上で振り回しひもの一端を急に離して石を飛ばす技術です。野獣や盗賊との戦いのためだけではなく、羊の群れを守るために犬を持っていなかった彼らは、群れから離れて行きそうになった羊の鼻の先に石を落として、羊を群れへと引き戻すためにもこの石投げの技術を使ったということです。

 「羊飼いは立っている。まどろむことなく、眼光を闇深くとどかせ、風雨にさらされ、杖にもたれて、彼は散在する羊たちに眼を注いでいる」慈しみ深い神の守りの御手に帰ろうと、主イエスは私たちに呼びかけておられるのです。 
             

                      2022年4月1日



いと高き方の力があなたを包む   

                      
大宮 陸孝 牧師    

              
 「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・神にはできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』」    ルカ福音書1章35節~38節

 「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、跪いてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしたから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」    ルカ福音書22章39節~42節

 主イエスの降誕物語の中で、この出来事をどのように受け止めたら良いのか戸惑うマリアの姿とわたしたちの思いとは重なっているように思います。その戸惑うマリアに天使はとても大切なことを伝え、マリアはその伝えられた天使の言葉に素直に応答しているのが上記の聖句です。

 「いと高き方の力があなたを包む」これは、つまり、これからあなた(マリア)を通して起こる出来事は、神の意思によって起こることなのだから、神に信頼してその御意思にあなた自身を委ねなさいということでした。その天使の言葉に対してマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と応じています。戸惑い、困惑、不安の中でそれに抗するようにして、マリアは神の御意志が成りますようにと応じたのです。

 51節を読みますと「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」とマリアは主を賛美しています。

 時あたかも、思い上がる者、権力ある者が力を奮っている中で、人々は、体調のこと、お金のこと、家族のこと、政治の貧困など、不安や心配を数えるときりがないような状況の中で、そのような人々を押しつぶしてしまうようなもろもろの力よりも、小さな者への神の憐れみと慈しみの力へマリアは信頼を寄せようとしているのです。

 それが「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」
と賛美している内容です。ルターは「神の御目はただひたすら底深い所を見て、高き所は見ておられない」と言いました。

 さてこのマリアの「お言葉通り、この身に成りますように」という神への応答の言葉と重なっているのが、上記ルカ22章42節の主イエスのゲッセマネの園での祈りです。
「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ここにマリアの神の言葉に対してのみ自らを開くその姿勢が、イエスのゲッセマネの園での祈りに非常に象徴的にあらわれている、それが「御心が成るようにしてください」という言葉であるととらえることができます。この二つは相呼応しているのです。

 ここにはイエスという存在は、初めから終わりまで人という土の器の低さを担いきった神である、という信仰があります。人が人として生きるということは、あくまで人が人に留まり、土の器に留まり、人間らしくあることであり、そして、神の言葉に己が身を開くか否かにある。人が神にならないように、神が愛の人として自らわたしたちの所へ降りて来てくださり、神の意志を貫いて生きてくださったのです。「あなたを包む神の力」とは「神の愛の力」のことです。
 
             

                      2022年3月1日





主の愛に立ち帰ろう   

                      
大宮 陸孝 牧師    

              
 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」・・・わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではない。 旧約聖書 ホセア書6章1節~3節、6節

 ホセアは、紀元前八世紀の後半(前750年以降)に南北に分裂したイスラエルの北イスラエル王国で活動した預言者です。この時代北イスラエル王国は、メソポタミアの強国アッスリアによって脅かされ、ついに侵略され、滅ぼされてしまいます。(紀元前722年)ホセアは恐らく、この北イスラエル王国滅亡の20年くらい前から、この滅亡の時位まで活動したと思われます。国家滅亡という大惨事を自ら体験した預言者です。そして恐らく、なぜ、神の民イスラエルが滅ぼされたのか、ということを真剣に考え分析したということでしょう。5章8節以下は、北イスラエル王国がアッスリア帝国によって蹂躙された事件が背景になっていると考えられています。

 アッスリア帝国の王ティグラト・ピレセスⅢ世という人物は、非常に権力欲の強い人物で、古代オリエント全土を支配下に治めようという野心を抱いていたようです。シリアやイスラエルはその野心の犠牲になったのです。イスラエルの特に北の地方、後に主イエスの故郷となるガリラヤ地方が蹂躙されたのです。

 アッスリアは、好戦的で、残虐な軍隊として知られていました。その攻撃を受けて、イスラエルの多くの人々が悲惨な状態になり、弱り果てたのでした。そのような状態の中にあって、国土が荒廃しただけではなく、人々の精神も荒廃したのです。イスラエルの民の主なる神への信仰も、アッスリアの支配の影響を受け偶像礼拝化して行きました。そこでホセアは、イスラエルの人々の罪を指摘して、悔い改めを勧めたのです。

 上記の6章1節~3節は、イスラエルの祭儀で用いられていた「懺悔の歌」から引用されたものです。「懺悔の歌」とは、国が重大な危機に見舞われたとき、たとえば戦争に負けたときとか、疫病に見舞われたときとか、天変地異に見舞われたときに、人々がひとつところに集まって、断食をしたり、灰をかぶったりして歌われた歌です。罪を悔い改めて、神に助けを祈り求めたのです。

 罪とは的外れを意味します。災難をもたらした原因は自分たちの的外れな生き方にあるとして、それを悔い改めること、つまり方向転換をすることでした。人間は神によって命を与えられ、神によってこよなく愛されている。この神との愛による応答関係に生きることが人間の本来の生き方でした。しかし、人間はこの神との愛の関係を生きることから離れ(これが罪の本質なのです)、自分中心に、欲に従って生きてしまう。これがあらゆる災難という結果に結びついていくと分析しているのです。

 その本来の生き方からそれてしまって、自分の考えで間違った方向に歩んでしまっている歩みを、本来の生き方へ方向転換して立ち戻ることが、悔い改めということなのです。

 ホセアは、「主を知ろう」と勧めています。この知ると言う動詞(ヤーダー)は、知的・観念的に理解すると言うよりも人格的な関係、深い愛の関係を言い表す言葉です。神との深い人格的な関係、つまり神を心から信頼するとか、神に心から信頼し従う、ということを意味しているのです。

 神の愛への立ち帰りは、現代の私たちにも呼びかけられているメッセージでもあり、神はその機会を恵み深く与えてくださってもいるのです。その一つは主イエスが私たちに代わって、私たちの的外れの生き方の結果を引き受けてくださった十字架において、もう一つは弱い私たちのために神の恵みの言葉によって新たな命の息吹を与えてくださり、私たちの心を導いてくださっていることにおいてです。愛の主に立ち帰り神の招きに応えて行きたいものです。             

                      2022年2月1日




私の心の故郷   

                      
大宮 陸孝 牧師    

              
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリアの総督であった時に行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」                   ルカによる福音書2章1節~5節

 新年おめでとうございます。年末年始を里帰りで故郷で過ごした方もおられるかと思います。コロナ禍での帰省は今年はどうなるかと案じておりましたが、Uターンの新幹線乗車率はほぼ満席、高速道路も渋滞10キロから20キロと例年並みの混雑ぶりであったようです。この時期になりますとクリスマスの出来事を語る聖書の言葉で、特に上記のルカ福音書の箇所が心に浮かんで来ます。

 2章3節に、「人々は皆、登録をするためにおのおの自分の町へ旅立った」とあります。クリスマスの日にそれぞれ自分の町に帰っていった。この「自分の町」を、「自分の生まれた町」と訳している聖書もあります。文語訳まで遡ると、「各々その故郷に帰る」となって、「自分の町」を「ふるさと」と訳しています。クリスマスの時に、人々はそれぞれ生まれ育った町に、故郷に帰って行ったのです。「自分の生まれ育った町に、ふるさとに帰る」。クリスマスは、そのふるさとに思いを馳せる時であったのです。

 故郷を想うことは、自分のこれまでの歩み、来し方に想いを馳せることでもあり、そして自分のこれから、行く末を思い巡らす時でもありますが、ヨセフとマリアそしてその他の大勢の人も「人口調査をせよ」との支配者の命令で、登録をするために、各地からこの生まれ故郷ベツレヘムに、帰って来たのです。このユダヤの寒村ベツレヘムに主イエスは誕生しました。その日はベツレヘムは帰郷した人々であふれかえっていました。宿にも、民家にも、もう人の入る余地のないほどでした。夜遅くまで明かりの灯る村の賑わいに、人々は、「ふるさと」の喜びを味わっていたに違いありません。

 主イエスが誕生したベツレヘムは私たちが里帰りをする町を象徴するような町でした。マタイ福音書2章には、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない」と記されています。「いちばん小さいものではない」と言われるほどに、ひなびた小さな村であったということでもあります。またダビデの町としてもよく知られていました。ダビデの出身地でありました。また、ベツレヘムはルツ記の舞台でもあります。ナオミとルツの物語でもベツレヘムは多くの人々にとって親しみのある町でした。そうした歴史を通してベツレヘムは人々の魂の故郷になったところでありました。

 そこに主イエスが生まれたのです。神が人間となって私たちのところに降りてこられたところとなったのです。主イエスを救い主と信じる全世界の人々の魂の故郷となったのです。その故郷に私も想いを馳せて、そこで生まれた主イエスをシメオンのようにしっかりと両腕に受け止めて新しい年も生きて参りたいと思うのです。
             

                      2022年1月4日

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