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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年1月礼拝説教


★2023.1.29 「イエスは真の平和の君」マタイ5:1-12
★2023.1.22 「神の救いの恵みの働きに身を委ねよ」マタイ4:12-17
★201.1.15 「世の罪を取り除く神の子羊」ヨハネ1:29‐42
★2023.1.8 「どん底に愛をもって立つ」マタイ3:13-17
★2023.1.1 
「~の御言葉に導かれて」マタイ2:13-23

「イエスは真の平和の君」マタイ5:1-12
2023.1.29 大宮 陸孝 牧師
 心の貧しい人々は幸いである,
天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5:3)
 本日の福音書の日課マタイ福音書5章1節〜12節は、第5章から第7章に及んで書かれていますイエスの説教の冒頭の部分です。1、2節には、「イエスは・・・山に登り」「弟子たちに教えられた」という状況が設定されており、それにちなんで「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」という名称が生まれました。ルカ福音書では同じ内容の教えが、平地を舞台として描かれていますので、山上という状況設定がこの教えの伝承の初めからあったものではなく、マタイによって与えられたものであると推定されます。ルカ福音書ではイエスはあなた方と二人称で呼びかけられていますが、マタイ福音書では1、12節を別にすると、イエスの「祝福の教え」に客観性を与えるためであろうと思われますが、「その人たちは」と、三人称複数形の文体となっています。「祝福の教え」の一つ一つには、その理由、根拠を示す「・・・だからである」が後半部分に付いているのが特徴です。3節を例にとると「・・・幸いである、天の国はその人たちのものだからである」となっていて、3節〜10節は形式的に一つのまとまりをなしていると見ることができます。

 1ー2節 「山に登られ」て弟子たちに教えたと語り出し、「山」に特別な意味を持たせています。マタイ福音書では「山」は、たとえば四章一節ではイエスが試みを受ける「山」であり、17章1節では変貌の山について、28章16節では復活と弟子への派遣命令の「山」について語ります。マタイには「イエスの啓示の業」何か重要な神の真理、働きを示す時との関連で「山」という言葉が用いられています。モーセがシナイの山で「律法」の本質である十戒を授かったように、そしてそこからイスラエルの信仰の確立を見たように、「山」で弟子たちは新しい「律法」をイエスによって授与されるという類比をここに見て取ることができます。

 4節 九つの「幸いの教え」の冒頭に出てくる「幸いである」という語は、当時のヘレニズム文化の中では「幸運あれ」という意味で頻繁に用いられていた挨拶の言葉だったようですが、新約聖書では、長い間待望していた神の約束の成就を経験し始めている者たちの深い内的な喜びを意味し、旧約の「神の祝福」を意味する用語が背景となっています。

 「心の貧しい人々」は直訳すると「霊において貧しい者たち」であり、この最初の「幸いの教え」の主語は、文字通り貧しい状態を言いあらわしていると見ることができます。イエスの時代のユダヤ教では「貧しい者」と「心の貧しい者」は同義語であったと考えられます。たとえば、死海文書の中の『戦いの書』にも、文字通り同じ表現の「霊の貧しい者たち/心の貧しい者たち」と言う表現が見られ、それは「光の子ら」を意味し、クムラン教団のメンバー自体を指す言葉でもありました。クムラン教団の構成員は自発的な貧しさを求められ、文字通りの「貧しい者」が「義(ただ」しい者」と同一視されていました。マタイはここで神の救いを待望する「貧しい者」つまり、信仰に生きる群れのことを言っているのだということになります。「天の国」は「その人たちのものである」と、未来形ではなく、現在形で言われていることに重要な意味があるということです。それはイエスは既にわたしたちの所に現臨し、御国は既にイエスにおいて存在しているという意味合いです。

 四節 「悲しむ人々」この言葉と全く同じ言葉が旧約聖書のイザヤ書61章2節に出てきます。そこでは御霊によって「油注がれた者」が、「悲しんで(嘆いて)いる全ての人々を慰めるために来た」ことを告知しています。ここでもまた、救いを待望する、圧政と暴虐に虐げられた者たちと迫害されている「貧しい者たち」のこと、つまり信仰の群れの中に生きる者たちのことを語っているのです。

 5節 「柔和な人たち」は詩編37編11節からの引用で、ヘブライ語原典ではこの語は「貧しい者」とも「柔和な者」とも両方の意味を有していて、どちらとも訳せることばです。共同訳「貧しい者」となっていますが、そうすると、3節の「幸いの教え」とほぼ同じ内容の教えとなるので、この文脈では、貧しい人々は柔和なのだと言おうとしていると解釈可能です。単なる性格的に温厚なことを言っているのではなく、敬虔な者、謙虚な者という意味になります。「地を受け継ぐ」であろう。地とはイスラエルにとっては重要な用語となります。元来イスラエルの地、アブラハムに約束された約束の地を意味する言葉です。(創世記13章15節参照)そして、救いの成就という文脈では、約束されてきた地が再生された、新しい天と地を意味する言葉になりますので、ここでは、イエスを通して与えられる神の国のことを言おうとしていると解釈されます。

 6節 ここで「義に」と「渇く」はマタイ特有の言葉です。「飢え渇く」目的を「義」に限定したのは、「飢えている者」を「神の許しと憐れみの働きを待望する以外にない者」のことで、その現実に追い込んだ罪の正体は、自らが神から離反したことの結果であり、自ら神に立ち帰ることはできないと自覚する者のことです。ただ単にこの世の不合理に苦しむということではありません。神の一方的な恵みによる救い(つまり義)を待ち望む者のことを言おうとしているということです。

 7節 「憐れみ深い人々」六節までの最初の四つの「幸いの教え」は、人々の心や置かれている社会的な状態に焦点が合わされていましたが、ここでの本筋は他者に対する憐れみの行為が問題となっています。後期ユダヤ教のラビの倫理においては、他者に対する憐れみの行為は中核をなす徳目でした。しかし、ここでのイエスにおいて「憐れみ深い人々」とは、神の無限の赦しを経験した人のことを言っています。本来わたしたちの内側にはない神の憐れみが働く場所を各人の内面に用意する者に、神がご自身の憐れみを付与されることを約束されているのです。

 8節 「心の清い人々」は旧約聖書詩編24編四節の引用と見られます。「神を見る」旧約聖書の神観で言えば、出エジプト記33章20節では「人は神を見ることはできない」のですが、それに対して、新約聖書では、黙示録22章3〜4節では、メシアの時代の終末の時、キリストの再臨の時に、「神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」との理解が示されています。

 9節 「平和」(エイレーネー)という語は新約聖書に数多く出て来ますが、「平和を実現する人々」という語はここにだけ出てくる語です。「平和を打ち立てる」という動詞形はコロサイ書1章20節に一回だけ出て来ます。ここでの「平和を実現する」は、おそらく武力によって地上に「神の国」をもたらす運動を展開していた「ゼーロータイ」(熱心党)の運動との関連で述べられているものと見做すことができます。そのような運動は圧政に虐げられたローマ支配時代のパレスティナの社会で絶え間なく生起していた試みでした。しかし、イエスは、御国は人々の努力による結果とは全く異なるものであることを告知します。

 10節は3節と同じ内容をもって「幸いの教え」を閉じます。マタイを指導者とする教会は、同胞のユダヤ教指導者と抗争の関係にあって、迫害を受けていました。ユダヤ人キリスト教徒とユダヤ人ユダヤ教徒間の抗争の反映がここに見られますが、しかし、それは民族としてのユダヤ人による弾圧ではありません。マタイはイエスの教えとして「迫害の経験によって恐れ、驚き、惑わないように」と読者を励ましているのです。

 11〜12節 マタイ福音書は迫害下にあった教会を対象にこの福音書を書いていますので、それが反映されて「迫害」が重要なテーマになり、さらにここでは、「あなたがたは幸いである」と二人称になり、それに「ののしられ、迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」が付加されています。これは、ユダヤ教のユダヤ人指導者から、最初イエスの弟子たちが、次いで第二世代のキリスト教会の指導的ユダヤ人キリスト者が受けた迫害の内容を伝えているものと思われます。「身に覚えのないことであらゆる悪口」は、「偽りを言う」意味で、迫害者が民衆を欺し扇動するのに常套手段とした手口です。つまり、「迫害者」は「真実を告げない者」であり「偽る者」を言うのです。

 「天には大きな報いがある」。迫害の文脈では、報いは未来のことで、それが、「天において」と表現されます。ここでの「天」は、永遠から永遠に関わることがらを意味し、その永遠に関わる喜びを意味するもので、つまり、それが、「幸い」の内容であるということになるのです。天における報いは人間自身の功績によるのではない、つまりわたしたちには何の根拠もない。ただ神の恵みによるということを強調しているのです。「あなたがたより前の預言者たち」は、人間の歴史上で神の言葉に仕えた者たちに連綿と続いた迫害について言及しているということです。神の新しい救いの時が近づいている。時は近い。神の救いの時は始まった。だから、あなた方の信仰の歩みも、神の救いの恵みに向けて方向を転換し、生き方を神への応答に向けて変革するようにと、わたしたちへ呼びかけている言葉です。

 今年は戦後77年、平和が主張されてきましたが、平和を唱える者が争いの構造を生み出して来たとも言える現実です。「義のために」は「イエス・キリストのために」と言い換えることもできる言葉です。本日の日課では、ただイエス・キリストだけが「平和の君」であり、「和解の基点」であることを語っています。このイエス・キリストから離れて平和を唱える者は、自らの民族・国家に都合の良い平和を唱えるだけであります。人の中からは闘争、抗争、軋轢(あつれき)、憎悪、嫉妬しか生じません。「人」は平和を創り出さないのです。生来の人間は自己中心で、争いとねたみと悲惨を生み出します。それに対して、神のみを神とする人の内側には、神の恵みが働く場所が備わります。その人を成熟した人と呼んでも良いかと思いますが、そういう人のみが神の働きに於いてまことの平和を実現し得るのです。

お祈りします。

 父なる神様。あなたはわたしたちに、何の権利も資格も根拠もないにもかかわらず、ただただあなたの御子の十字架の贖いと復活の恵みの働きの裏付けをもって、わたしたちに威厳をもって幸いだと語りかけてくださいます。

 わたしたちにこのような幸いをいただけますことは、わたしたちがそれにふさわしいからではありませんでした。ただあなたの一方的な恵みの御業として、このふさわしくないわたしたちを、あなたが御子の尊い犠牲をはらってでも、愛してくださったからでした。どうかこのようなあなたの愛による御支配を、わたしたちがただただ慕い求め、身を低くして恵みを受け止め、あなたに対して真に富む者となることが出来ますように、お導きください。

 体と心を病んで苦しんでおられる方々、人生の重荷にあえいでおられる方、奉仕の仕事で苦労しておられる方々にあなたの助けと励ましと希望を与えてください。世界にあなたの望みたもう平和が実現しますように。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお祈り致します。 アーメン
 
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「神の救いの恵みの働きに身を委ねよ」マタイ4:12-17
2023.1.22 大宮 陸孝 牧師
 そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。(マタイによる福音書4:17)
 「悔い改めよ。天国は近づいた」教会はまさにこの御言葉を宣べ伝えるために~から召された共同体です。教会がこの世に存在している理由は、主イエスを通してこの世に働いている~の救いの御業を世に告げるためです。

 そして、そのような教会の伝道の原点ともいうべきものは主イエスの宣教にあるということができるでありましょう。主イエスの~の国宣教が、教会の宣教によってさらに継承され、わたしたちの歴史の中に~の救いのご計画が繰り広げられて今日にまで及んできているのです。今朝わたしたちは、そのような教会の伝道の原点ともいうべき、主イエスの宣教の開始についてのマタイ福音書4章12節から17節までの聖書の御言葉を与えられております。

 洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになり、またユダヤの荒れ野において誘惑を受けられ、これらの二つのことを経て、いよいよ救い主としての公の活動をなさる公生涯が始められます。主イエスはまさにそのためにこそメシアとして~からこの地上に派遣されておいでになったのです。

 12節「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」
 主イエスが生まれた時にユダヤの王であったヘロデは紀元前四年に世を去り、その領地は三人の子どもたちに分けられました。彼らは王としてではなくて、領主として支配したのですが、アケラオはユダヤとサマリアを支配し、ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレヤを、そうして、ヘロデ・フィリポはパレスティナ北東部をそれぞれ支配しました。この三人のうちで洗礼者ヨハネを逮捕したのは、ヘロデ・アンティパスでした。その理由についてはマタイは14章3節以下で、「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」と、記しています。ヘロデ・アンティパスは、自分の弟であるヘロデ・フィリポの妻ヘロディアと結婚したことに対して、ヨハネから批判されたので、ヨハネを逮捕して牢獄に入れたのです。

 そして、主イエスがそのことを聞いて「ガリラヤに退かれた」というのはどういう意味なのでしょうか。そもそもヨハネを捕らえて牢獄に入れ、荒れ野に叫ぶ預言者の口を封じてしまったヘロデ・アンティパスは、ガリラヤの領主なのですから、そのお膝もとに難を避けて退くというのでは、話しの辻褄が合いません。そこでいろいろと解釈されるのですが、たとえば田川健三さんはマタイの見方によれば、ガリラヤ地方は、辺境の地に過ぎない。だからここでは、単に消極的に田舎に「引き込む」という意味で書いていると言っています。しかしそれとは反対に、イエスがガリラヤに退かれたのは、それ自体がヘロデに対する強烈な答えであり、イエスは敢えてガリラヤ領土内で伝道を始めることによって、逃避ではなく挑戦(チャレンジ)の姿勢を示されたのだと解釈する人もいます。しかし、厳密にマタイの意図に従うならば、イエスの伝道の初めにガリラヤへ「退かれた」理由はほかにあります。

 1月1日の礼拝説教でも申し上げた通り、「退く」という動詞は、あのヨセフが、幼子とマリアを連れてエジプトへ退いた時(2:14)、そして再びガリラヤへ退いた時(2:22)、どちらも、ヨセフが夢で~の託宣を受け、これに聞き従ったことを示す語として用いられていました。ですから、マタイはここでも、~の隠された計画と啓示に対する、イエスの服従の行為として象徴的に言い表していると取るのが一番説得力のある解釈であるとわたしは思います。終わるのではなく、~の御業が始められたという意味です。さらに、マタイでは、イエスが「ナザレを去り」(13)、ここをあとにされた理由もまったく同じ視点からとらえられています。ガリラヤが伝道の初めの地として選ばれたのは、そこにイエスの故郷ナザレがあったからだ、と考えるのが自然であります。しかし、主イエスはナザレを出られた(マルコ1:9)。確かにそこがイエスに敵対する地であるとも記されています(13:53〜58)。ここでも「去る」という言葉が用いられる際の特別な意味を見過ごすことはできません。人間的な言い方をするならば、ここで「去る」という言葉は、かけがえのない父・母のもとを離れること、あるいは、努力と精進の結晶であり、当然の権利として主張できるはずの全財産の放棄に関して言われています。「ナザレ」は、イエスがそこで育まれ、成長されたなつかしい故郷であり、イエスの最も重要な地盤、そして人々によってナザレのイエスと呼ばれる由来となった場所であります。「去る」とは、そこで生きて行くことを断念し、真の人間の故郷を示すために、イエスは「ナザレ」を去り、今や新しい地に向かわれるということであります。

 マタイはこの事実をイザヤ書9:1、2から引用して「預言者イザヤによって言われた言葉が成就するためである」と記します。ここに列記されていますゼブルン、ナフタリ以下の諸地方は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるごとく、さげすまれた地であっただけではなく、紀元前七三三年にアッスリアによって侵略され完全に占拠され、失われてしまった場所であります。イザヤ書9:1、2節には、嘆きと苦しみが支配するこれらの地で、暗黒と死の陰に住んでいた民が、「大いなる光」を見、彼らの苦しみと悩みが、一転して慰めと喜びに変わったと記されています。マタイの信仰の目は、イエスの出来事の中に、旧約聖書が預言していたことの成就を見ているのです。

 今はアッスリアという外敵による侵略ではなく、人間の内なる罪による挫折と絶望のために、生きることの重荷に耐えることができないで喘いでいる闇の世界に、救い主なるイエスが「光」として現れ、そのイエスを通して父なる~の御心が地に行われていると言うのがマタイの信仰の証しであります。イエスが「カファルナウムに行って住まわれた」ということが、そのしるしだというのです。「住む」という語は結局一つのことを、つまり、父なる~が、イエスにおいて、人間の内に宿り、人間と共におられるという福音を明らかにしているのです。

 コロサイ人への手紙1章19節「~は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血のよって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と記されていますように、イエスがおられるところ、そこにこそ、そこにおいてだけ神の臨在の「光」があるというのです。(ルター)教会はこの光をまっすぐに見上げることによって立ち、生きるものとされるのです。

 ユダヤの社会では異邦人というのは、~とまったく無縁な存在だと考えられていました。~と無縁ですから、救いとか光からも無縁な存在として暗闇の中に住んでいる希望のない民だと言われていた人々です。その人々に救いの光、救いの喜びが与えられるというイザヤの預言が、主イエスがガリラヤで宣教を開始されることによって実現したというのであります。このために、主イエスはガリラヤを宣教開始の場所としてお選びになったのだというのです。

 17節 「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」天の国とは~の支配を意味する言葉ですから、これは端的に言えば神さまが始められた救い、愛と恵みの御業に身を委ねなさい、と言うことです。~の新しい創造の業が、主イエスご自身の御言葉と働きに於いて始まったのだと、主イエスは自ら権威をもって語られ、方向転換を迫っておられるのです。具体的には主イエスがわたしたちのところに来られたことに対して、わたしたちがその主に対して向きを変えて、主イエスをわたしたちの中にお迎えするということです。わたしたち教会のすべての業は、この主イエスの宣教の業に始まっているのですから、この原点に立ち戻りながら、わたしたちに与えられている宣教の使命を果たして行くようにわたしたちは召されているのです。
 
 お祈りいたします。

 わたしたちの生をも死をも、すべて大いなる憐れみと愛の御手の中に支配したもう主イエス・キリストの父なる神さま。
罪深いわたしたちのために、あなたはそのひとり子イエス・キリストをお遣わしになり、十字架と復活を通して、わたしたちの罪を赦し、永遠の生命への道を開いてくださいましたことを心から感謝いたします。主はわたしたち人類を救う業を、暗黒の中に希望もなく、生きておりましたガリラヤの民に向かって悔い改めよ、「天の国は近づいた」といって始められ、神さまの新たな救いの業に向き直るように求められました。わたしたちが~様の愛に向き直り、あなたの癒しと助けと励ましと希望を与えられて、信仰の歩みを歩んでいくことことができますように導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン 

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「世の罪を取り除く神の子羊」ヨハネ1:29‐42
2023.1.15 大宮 陸孝 牧師
 イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。(ヨハネによる福音書1:39)
 ヨハネ福音書1章19節から51節は「証しの書」と呼ばれている一つのまとまった単元となっているところです。「証しの書」と呼ばれるのは、19節〜28節で、ユダヤ人の問いに対し、バプテスマのヨハネは自分自身について「そうではない」と否定的な返事が続いてなされます。「それではなぜ洗礼を授けるのか」と問い詰められて、来たるべき者がいることを証ししています。29節で日が改まってその後は、バプテスマのヨハネの証しは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と特定の人物を指し示して、34節に至って「この方こそ神の子である」と述べられ、続く35節ヨハネの証しを聞いた人々がイエスの後について行き、イエスと出会い、その喜びを仲間と分かち合おうとして彼らにイエスのことを証しし、イエスの所に連れてくる、そして彼ら自身イエスと出会うと言った内容が繰り返し述べられているからです。

 四つの福音書はどれも、洗礼者ヨハネの登場から始まり、その後にイエスの公生涯が展開していくという構成になっています。29節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。ここではヨハネは誰に対して語っているのかははっきりしていません。現在形で語っているということは読者を意識していると見て良いかも知れません。つまり過去ではなく今現在聞いているわたしたちへの問いかけとして語っているということなのかも知れません。

 「世の罪を取り除く神の子羊」とバプテスマのヨハネが語る時には、旧約聖書の律法に規定されている様々な律法違反の罪を購う贖罪のことを想起して違和感を覚えるかも知れませんが、しかし、ここで言われる「罪」は単数であることに注目させられます。ヨハネにとって罪とは、イエスによって啓示された神に背を向け、自分の中に閉じこもる根源的な個々人の神に対する決断のことです。神からの離反は誰もその代わりをすることができません。イエスがそのような人間一人一人の罪を負うあるいは罪を取り除くとはどういうことなのか。それは、言い換えるならば「神に背き離れる人間を、それでも、愛で包み込み、孤立した人間の冷えた心を愛で暖め、溶かし、本人の決断が神の愛に応答していく方向へと変えられることである」ということができます。

 30〜34節 バプテスマのヨハネは自分の役割を、「その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」と後から来るイエスとの関係で繰り返し位置づけています。そして、その方を「あなた方は知らない。わたしも知らなかった」と言います。バプテスマのヨハネはイエスのメシア性を聖霊によって示されたことを根拠にして、より具体的にヨハネが直接見た証言に移って行きます。イエスが洗礼を受けたとき「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上に降るのを見た」そして、「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」と、ヨハネ福音書は一貫して、バプテスマのヨハネをイエスの証人として描いているということなのです。この出会いから始まって、新たなイエスとの出会いの出来事が次々と起こっていくのです。

 35節 「神の子羊」なるメシアを巡って、バプテスマのヨハネから二人の弟子へ更に他の弟子へと証しの連鎖が展開されて行きます。「その翌日」これは29節にも出て来ました。そして43節にも繰り返されている言葉で、場面転換の際に用いている常套句なのですが、それだけではなく、象徴的な意味として「メシアの活動の日」ということを強調しているということでもあります。ここではイエスがヨルダン川で洗礼を受けられた翌日のことです。洗礼者ヨハネからイエスへの移行の時、イエスがいよいよ救い主としての公生涯を歩み出すことを言っています。場所はヨルダン向こうのベタニア。

 36節 「見よ、神の子羊」ここではヨハネの弟子二人に向かってなされた証言です。ヨハネの役割はここでの証言をもって終了となります。この証言以降では先ほども申しましたように、旧約的な意味合いが止揚されていると推測されます。

 37節 「二人の弟子はそれを聞いて従った」 ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの証言によって、イエスの方に向けて弟子の召命が向けられています。洗礼者ヨハネの役割を見落としていません。二人の弟子のうち一人は後に名前が明らかにされていますが一人は無名のままです。「イエスに従った二人」は四〇節にも繰り返されていますので、共感福音書との関連で言えば、「二人の弟子」は「ゼベダイの子ヨハネとヤコブ」と仮定することも可能です。

 38〜39節 二人の弟子とイエスとの出会いが語られます。イエスは自分に付いてくる洗礼者ヨハネの弟子に話しかけます。「何を求めているのか」とのイエスの問いは、弟子たちの求めの核心を付く問いでありました。この問いは、イエスのもとに来る人は誰であろうとはっきりさせなければならない最初の問いであります。この問いに弟子たちは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」とたずねます。ラビという呼びかけは、本来後期ユダヤ教の律法学者や公認教師たちに対する称号であります。この呼びかけの時点ではまだ「二人の弟子」が洗礼者ヨハネに属することを暗示しているのだろうと思われます。しかし、次の「泊まっておられるのですか」にはヨハネ福音書著者の二重性が込められているようであります。この「泊まる」と訳されている原語はメネイン「とどまる」「つながる」ということばで、ヨハネ福音書には四〇回も出てくる重要な言葉でもあるのです。二重の意味というのは一つには、表面的な意味で「とこに泊まっているのか」を知りたいということであり、二つ目には「イエスとは誰か」という問いがこめられている、つまり「あなたは神の救済計画の中でどこに位置する方なのか」という問いでもあるということです。イエスに付いていくことを望む者は、イエスの立っておられる同じ所に、イエスと共に常に立ち、共に生きようと心から望むのです。そこから神の新しい命の創造の業が始まるということです。

 イエスは、宿泊場所を尋ねる二人に「来て見なさい。そうすれば分かる」と言われ、「彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」となるのです。宿泊場所を知る話としてはたわいない話に過ぎませんが、イエスが「来て見なさい」というのは、ヨハネと決別してわたしに付いてきなさい」という意味を込めて呼びかけているのだということ、そして、二人がイエスの「泊まっておられる所を見た」のは、彼らの師であった洗礼者ヨハネが言った「神の子羊」の本性(ほんせい)を自分たちの目で捉えたということを意味します。「四時ごろのこと」とは、時が満ちたということで、完全な時に立ち会った、イエスに神の本性を見たということを言い表しているのです。彼らはメシアと出会ったのです。出会いは決定的なものになった。この出会い、イエスと共なる生活によって、心底から満たされた、今や命の救いが成就したということを象徴しているということです。「その日は、イエスのもとに泊まった」のです。一晩中、ラビの教えに耳を傾けたという以上のことが言われています。弟子たる者とはイエスに従う者のことであるなら、ここでの短い文章の中に「従った」が三回繰り返されています。そして、次の段階で「わたしに従いなさい」(43節)という召命の言葉につながって行くのです。

 40〜41節 イエスに従った弟子の一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであったことがここで明らかにされます。アンデレはシモンに会うと「わたしたちはメシアに出会った」と告げます。イエスと宿で寝起きを共にしたアンデレともう一人は、イエスがメシアであることを知らされたということを明確にしているのです。そして、ここではっきりと洗礼者ヨハネの役割が終了したということになるわけです。アンデレはシモンをイエスのところに連れてゆきます。

 42節 アンデレのメシア告白に続けて、イエスが何の予備知識も無く突然初対面でシモンに出会ったはずなのに、既にシモンを知っていたように「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われます。これは、アンデレが直にイエスに出会った時のように、シモンがこのイエスの言葉によって、イエスという方が、真の神的存在であることを知らされたということを意味するのです。この二人が、霊性において二人の存在を既に知っておられたイエスに、神の子を見抜いて、メシアを待ち望む者が誰に従わなければならないかを明らかにしたということです。「見よ、神の子羊」には、旧約聖書以上の神の子に出会った響きがあります。真にイエスに出会うということは、かくも重要なことなのだとわたしたちに迫って来る言葉でもあるのです。

 続く43節以下に簡単に触れておきましょう。主イエスとフィリポとの出会いです。この出会いは主イエスの側から起こっています。そしてフィリポはナタナエルに出会って、渋るナタナエルを主イエスの所に連れて行きます。ナタナエルは自分が知らないうちに、主イエスが自分と出会っておられ、主イエスとの出会いは備えられていたことを知って、「ラビ、あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白します。主はナタナエルに言われます。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(50節)

 グリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇画」、最も悲惨な十字架と言われた絵ですが、中央に見るも無惨な十字架の主イエス、左側には倒れそうな母マリアとそれを抱き留める使徒ヨハネ、そしてマグダラのマリアの三人、右側にはいるはずはないのに、バプテスマのヨハネ。そのバプテスマのヨハネの手は「見よ、神の子羊」と主イエスを指さしています。そのそばに字が書いてあるのですが、ずっとなんて書いてあるのか読めませんでした。それがわかったのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)だったのです。信仰によってわたしたちは不思議な目を与えられます。その目とは、自然の中に、自分が見るすべてのものの中に、神の栄光を見るということです。自分の運命が、外面的には、どんなに悲しいものに見えようとも、もう一度よく見直して見ると、神がすべての者を愛するというその愛の広さ・長さ・高さ、深さが見えてきます。そして、わたしたち人間の自己中心のものの見方、人の捉え方から解放され、至る所で、神の栄光の片鱗を見ることができるようになる、そういう目です。

 わたしたちは今、わたしたちをそのように変えてくださる方、わたしたち自身の思いを超えて方向転換させてくださる力ある方、イエス・キリストの所に行きなさいと押し出され、更にイエス自身からも来なさいと招かれているのです。

 お祈りいたします。

 父なる神様。わたしたちはあなたの所に立ち帰ろうとしても自分の力では帰ることも出来ない者、繰り返しあなたから離れてしまう本当に弱い力の無い者ですが、そのような者をあなたのものとして取り戻すために、救い主を与えてくださいました。イエス様がそのような方であることをヨハネからはじまって今日に至るまで教会を通して御ことばによって証しし続けてくださいますことを感謝いたします。わたしたちがこの告げ知らされている神様の救いを仰ぎ見ることによって、喜んで神様に立ち帰り続けることが出来ますように、わたしたちを導いてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン

 
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「どん底に愛をもって立つ」マタイ3:13-17
2023.1.8 大宮 陸孝 牧師
 イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向って開いた。イエスは、~の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた.(マタイによる福音書3:16-17)
 マタイによる福音書は4章12節以下で、主イエスが救い主としての公の活動を始められたことを記していますが、このような公生涯に入る準備として、本日の福音書の日課で「主イエスご自身が洗礼を受けられる」ということを述べています。その受洗を通して、聖霊を受け、それが、それからの主イエスの救い主としての活動が神のご意志であることを確認しているところであります。そのところを順を追って見ていくことになります。

 13節「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである。」

 ガリラヤの地方にあるナザレの村で生活をしておられた主イエスは、東南に降ってヨルダン川のヨハネのところに現れて、洗礼を受けようとされたというのです。洗礼者ヨハネと呼ばれたヨハネは、悔い改めて、新しい救い主の到来に対して心の備えをするように強く人々に訴え、その悔い改めのしるしとしてヨルダン川で洗礼を受けるようにすすめていました。ここで言う悔い改めとはただ単に人間的な次元の倫理や道徳的な生き方を指すのではなく、自己中心で人間中心なわたしたちの人生の姿勢全体を、~に向かって方向転換することにほかなりません。しかし、~の意志によってこの世に生まれ、~の子として人間世界で過ごして来られた主イエスは一体どうしてこのような悔い改めの洗礼を受けなくてはならなかったのでしょうか。あるいは、どうしてそのことが、これからいよいよ救い主として公に活動していく準備として必要なことであったのでしょうか。

 14節を見ますと、「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたですか』。」と言っています。ヨハネがはたして主イエスが~の子キリストであることを認識していたかどうかは分かりません。しかし、洗礼を受けようとして主イエスが自分の前に現れた時に、洗礼を授けることに躊躇を感じたことは、イエスの洗礼が当然なことではなかったことを示しています。ヨハネは自分の方こそイエスから洗礼を受けるべきであるのに、そのイエスが自分から洗礼を受けるのは逆であると述べています。このように「逆である」とする認識が先ず大切なことなのです。ここでは主イエスは敢えてこのような逆であることを、進んで、積極的になさったのです。そして、そのことが主イエスが救い主として歩むこれからの歩みが、どのような方向を持つかを明瞭に示しているということになるのだと思います。

 15節「しかし、イエスはお答えになった、『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」洗礼を受ける必要のある人は、~の前に罪人である者ですが、その点、主イエスは洗礼を受ける必要など全くなかったのです。ヨハネの言うように、逆にわれわれこそ、主イエスから洗礼を授けていただかなくてはならなかったのですが、主はここで「今は止めないでほしい」と言われています。いったいなぜなのでしょうか。

 ここではその理由として「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と述べられています。それはどういう意味なのでしょうか。マタイが好んで用いています正しいことというのは、「~の御心に適うこと」であり「~の求めたもうこと」だということが明らかであります。主イエスがあえて、逆なのは分かっていて、ヨハネから洗礼をどうしても受けたいのだ、と言われているのは、それが~の御心であり、~の求めたもうことであるからにほかならないということでありました。それでは、このような~の求めたもうことというのは一体どういうことなのでしょうか。それは、本来は罪のない御子イエスが、わたしたち罪人と同じ所に立つということ、罪人の一人になるまで、わたしたちの罪の現実を負われたということなのです。

 そのようにして、主イエスがわたしたちの罪の重荷を、ご自分にすっかり引き受けてくださらない限り、わたしたちの救いはなくわたしたちはこの罪の重荷から解放されることはないことをご存知である~は、わたしたちの罪の重荷を代わって引き受けられるために主イエスをわたしたちの所に送られたのだということを明らかにしているのです。

 罪のない主イエスが、罪人の一人であるヨハネから洗礼をうけるのは逆なことだという指摘をヨハネ自身がしているのでありますが、このような逆なことが行われることこそが~の意志なのだということを示されたわけです。だからこそそれは行われて実現しなければならないのです。そうして、このように実現される~の意志とは愛の業のことであるということができるでありましょう。主イエスの受洗はこのような~の愛の意志が実現されていく重要な始まりだったのです。主イエスの救い主としての活動の始まりは、~の愛においてわたしたちの罪の現実を負われ、罪の現実の中でわたしたちと連帯されたことでした。わたしたちが洗礼を受けるという意味は、それによって、その~の愛にこれからの自分の人生のすべてを委ねて行くこと、それがすなわち救いであるということになると思います。

 16節から17節「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向って開いた。イエスは、~の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」マルコによる福音書のこの箇所では「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。であります。マタイ福音書のここの記述は、マルコにくらべて一層洗礼を受けた後の主イエスに聖霊が下ったことをイエスだけにしか見えないことではなくて、すべての人にも明らかにされる客観的な仕方で、聖霊が鳩のように自分に下って来たのをご覧になり、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という声が天から聞こえたとあります。呼びかけの言葉を「あなたは」から「これは」に変えたマタイの意図は、この天からの言葉をイエスご自身だけが聞いたのではなく、周囲の大勢の人々への語りかけで、客観的な出来事であったことを明らかにしている表現であると見ることができます。

 ヨハネから敢えて洗礼を受けて罪人と連帯してどん底にまで下り、立たれたイエスが、ここでは聖霊を注がれて、王として即位し、~の僕であることを確認されているわけであります。人間の罪のどん底の現実に立つ者が実は王であるという逆転劇を支えているものそれが~の霊という救いの力なのだというのです。これから十字架へと次第に下降の道を一筋に下りていく主イエスが、実は王であり、~の僕なのだということを、つまり、その復活の勝利をすでに公生涯を前にして示されているのです。主イエス・キリストは、わたしたちの罪の滅びの深みと死の世界に下りて来られて、滅びと死を乗り越える新しい命をそこにもたらしてくださいました。主イエスの受洗は~の命の勝利が始められたことを告げるファンファーレのようなものです。

 このような愛を持ち、徹底的にその愛に生きた人、わたしたちを罪から贖いだし、死すべきわたしたちに永遠の命を与えるということを完全に成し遂げてくださった人にわたしたちは今出会っているのです。彼自身は豊かであったのに、わたしたちが豊かになるために、貧しくなって、自分を無にして僕の身分になり(フィリピ書二章七節)、わたしたちの救いのために十字架の死をお引き受けになられたお方、その人が今わたしたちの罪のどん底にお立ちになられているのです。使徒パウロが、テサロニケの信徒に宛てた手紙の中に書いています言葉を読みます。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今わたしたちは生きていると言えるからです」(一テサロニケ三・八)。あなたがたが贖い主イエスにあって堅く立つなら、わたしたちは生きることになる!今現在厳しい、激しい驚くべき事件が続発しているこの世界の罪の暗黒の中で、キリストの贖いに堅く立つことによって生きることになる。なぜならそれこそ神の御心である、神の強く深い愛の御心の現実なのだと宣言しているのです。

 わたしたちこの世の未来には依然として、わたしたちを滅びに導く、罪の現実的な力が働いています。しかし、それに対して、この滅びの力を克服する、~の聖なる救いの力が主イエス・キリストによってもたらされています。わたしたち一人一人の人生がそのような戦いの場であります。わたしたちは地上にあって多くの戦いを持ち、苦難に遭うことは避けられないでしょう。しかし、今日もその戦いを共にし、勝利の歌を共に歌ってくださる方がいてくださいます。そのような~の命の力に導かれながら、共に主を讃美して歩む新しい年として行きたいと思います。

 お祈りをいたします。

 教会の頭なるイエス・キリストの父なる神さま。わたしたちの主イエス・キリストが、わたしたち罪人と連帯して、共に罪の深い淵に立ちたまい、わたしたちの罪を代わって担い、救いをもたらしてくださるために、敢えて洗礼を受けられましたこと、あなたの愛の意志に基づいてわたしたちも洗礼の恵みに与ることができましたことを感謝いたします。どうか、わたしたちが与えられた人生をあなたの愛に守り導かれ、永遠の生命を共々受け継ぐ者とならしめてください。どうか、わたしたちの教会が、地のはてまでもあなたの福音を証ししていく教会として成長していくことができますようにあなたの愛と霊の力によって導いてください。どうかあなたの聖霊によって、力と光と平和とゆるしが与えられますように、

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン
 
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「~の御言葉に導かれて」マタイ2:13-23
2023.1.1 大宮 陸孝 牧師
 それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。(マタイによる福音書2:15)
 東の方の占星術の博士たちが救い主を探し求めて、エルサレムにヘロデ王を尋ねた結果、ヘロデによる残虐行為が起こりました。ここには、そのことが一枚の絵のように描かれています。博士たちの救い主探求の旅、そして貧しい幼な子の発見と礼拝は、それ自体としては小さな出来事でした。博士たちは幼子を発見して贈り物をささげました。それは小さな、目につかない出来事です。マタイ福音書によれば、彼らのほかに、この夜にイエスを訪ねた人はいませんでした。幼な子の誕生のことなどには、民衆は誰一人気がついてはおりませんでした。民衆は知らなかった。ヨセフも知らなかった。いいなずけの妻マリヤはイエスを宿すことは知らされていましたが、この幼な子の宿命については何も知らされてはいませんでした。そういう状態の中で、神さまは夢でヨセフに現れ「幼な子とその母とを連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにととまっていなさい。ヘロデが幼な子を探し出して、殺そうとしている」と命令しました。~は怒り狂うヘロデをご存知でした。どんな貧しい家庭であっても生まれてくる幼な子のためにゆりかごは用意されています。しかし、イエスにはそれもありませんでした。しかし、それにもかかわらずイエスは~の平安の中にいました。そして、その平安を破るかのようにヘロデの企みが「主の使い」を通して告げられます。成長して大人になってから迫害に遭うということであればいざ知らず、イエスはお生まれになった直後から苦難の歴史に巻き込まれて行くのです。ヨセフはこの一刻の猶予もゆるされない切羽詰まった状態のときに、とらなければならない処置を~によって知らされ、ヨセフはすぐに夜中であるにもかかわらず、立ち上がって、幼な子とその母を連れてエジプトに行きました。エジプトに逃がれなさい。そのみ言葉に従って行動したのです。

 エジプトへ逃れるということが主イエスにとってこれが~の救いの業であったというような何か特別な意味があったと考えることには無理があります。そうではなく、これは~の導きに従順であったそれだけを言おうとしているのです。エジプトに逃れ、死をまぬがれた、それは、「仕えられるためにではなく、仕えるためにわたしは来た。」と主イエスご自身がそのように言われているように、死に至るまでの従順に生きた救い主を指し示しているのだと思います。主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが成就するためである、と記されています。これはホセア書11章1節の引用です。マタイはこの引用で幼な子イエスがエジプトから呼び出されるということを描いています。出エジプト記4章22節には「イスラエルはわたしの子、長子である」と記されています。マタイはイスラエルのエジプトからの帰還という旧約の歴史をなぞるようにして、~の子にふさわしくない罪人を~は愛し、わが子と呼ばれているように、わたしたちをも、救い主にあって、~がわが子として生かしてくださると言おうとしているのです。そのことを思い巡らすならば、この世の暴君にたち打ちできないと言って~のもとから遠ざかろうとする民衆にたいして、あわれみの綱、愛のひもで彼らを導き、かがみ込んで罪人を愛する神の愛を預言したホセアの預言、そして出エジプトの記述の意味深さに驚くのです。

 エジプトにいるヨセフに「主の使」が夢で現れ、「立って、幼な子とその母を連れてイスラエルの地に行け、幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」と言いました。人びとというのはヘロデに奉仕する人たちのことであります。その中にはヘロデの息子も含まれています。父と子という、血を分けた間柄でありながら、ねたみ合っていた。幼な子殺しでは意見の一致があった親子であったとしても、ほかの点では食い違っていた。だから死んでしまったと書かれていますが、息子は殺されてしまったようです。他人に対するよりもはるかに深い、親子の嫉み(ねたみ)合いがあったと考えられます。暴虐な振る舞いをするヘロデも死んでしまった。主は彼らをさばき、死に至らせたのでありました。

 主はヨセフにイスラエルの地に行けと言われました。その指示に応えて立ち上がるヨセフの従順。イスラエルはヨセフのふるさと、とはいえ彼はふるさとを失ったまま、今、生きています。帰るべきふるさとを失った人の心の状態はほかの人にはわかりません。帰りたい気持ちが薄れていくことはなかったかもしれない。たとえ、エジプトが異国であったとしてもとりわけ苦しい生活を余儀なくされていたわけではありません。ヘロデは死んだと天使は告げます。しかし、帰る気持ちにはためらいがあります。イスラエルまでの長旅の苦労もある。わざわざ帰ることもない。ここにとどまっていたい。しかし、ヨセフは「立って、幼な子とその母とを連れて」、イスラエルに帰ります。冬の時代がヘロデの死によって始まる、困難の歴史がなお続くとの予想もあります。それにもかかわらずそこに行けと主の使いに命じられて、ヨセフは立ち上がります。ヨセフは主の言葉に抵抗することなく立ち上がって、イスラエルに向かいます。

 ヨセフはユダヤに定住しようと考えましたが、しかし、アケラオが父に代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くことを恐れ、ガリラヤの地方に退きました。ガリラヤは北方の遠隔地です。エルサレムからサマリヤを経由して異邦人のガリラヤとも呼ばれるナザレの地へと赴きます。ナザレ、それはマリヤがみごもったことを天使から聞いたところ。ヨセフもこの町にいたと言われている。結局もとのふるさとへと辿り着いたことになります。そこからこの幼な子は「ナザレのイエス」と呼ばれるようになりました。しかし、ナザレから何のよいものが出るだろうかと、ユダヤ人たちにはつまずきとなるような辺境の町でした。こういう境遇があって、この方は、「預言者たちによってナザレ人と呼ばれる」そのことが成就したということなのです。

 そして、さらに、この幼な子イエスの命がこのようにして守られたことの意味は何だったのか。それらすべては、やがて、避けることのできない~の決定として十字架の贖いの死のための備えであった、~の計り知れない摂理の内にあったということになります。十字架の死による贖い、救いの完成という大事業をなすまで、主イエスは~の御手によって守られたと言うことが本筋の主張点であったと思います。仕えさせるためではなく、仕えるための生涯を主が全うするために、時が必要でありました。そしてその時が満ちたとき、~はご自身の御子の命さえ奪い取られることをお赦しになったのです。わたしたちにおいても同じであります。それぞれに時がある、ということを深く思わされます。自分に与えられた務めと命とに誠実に立ち向かって行くときも、立ち上がるときも走り出すときも、また辞する時も死ぬときも、~ご自身の定めのままにそのことが示され、また行われるということを、わたしたちは確信して行きたいのであります。そのような~への堅い信頼と全面的な明け渡しというものを、ヨセフの行動の中に見ることができます。

 以上のヨセフの行動に一貫してあるものはヨセフの~のみ言葉への全き従順と敏速な応答ということであります。躊躇なく~に従う一人の忠実な僕がそこにいるのであります。ほかに何の頼るべきものを持たないものであったとしても、これほどに自分と愛する家族とを神の言葉に委ねて生き続けたヨセフの姿に、心引かれる思いがするのです。信仰はある種の愚かさを伴うものであるかも知れません。先が見えない中で、今示されるみ言葉に愚直なまでに従うということが、信仰の領域であるのです。

 「エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」(13節)とのみ言葉の中に、ヨセフは~の確かな導きを確信して、次の指示を待つことができたのでした。わたしたちの信仰の歩みもその都度、~によって示されるみ言葉によって導かれて行くことを、ヨセフから学ぶことが大切でありましょう。そしてさらにヨセフを超えて、このヨセフを導かれた~のみ腕の確かさをヨセフの生涯の上に見ることが求められているのではないでしょうか。ヨセフの従順を生み出したのは~の確かさでありました。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)そんなことはないと~はいわれます。その確かな御手、み腕が、この全世界と歴史とを導き、また、わたしたち一人ひとりの上にも伸ばされているのです。そのことをヨセフから学ぶことができます。わたしたちもそれぞれにこの一年、またそれぞれの人生の歩みを振り返って見るとき、~の強いみ腕の導きを感謝を持って告白することができるのです。そして新たな年わたしたち自身も主イエス・キリストと共にあるならば、このわたしにおいても、~は共にいてくださり、~のみ腕の中でわたしたちのすべてのことが起こるのだ。イエス・キリストが共にいてくださり、神の御旨が成ると告げられているのです。

 祈ります。

 神さま。主イエス・キリストによって、神さまとの確かなつながりにあることを感謝いたします。新しい年も自分の心の中心に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えして、わたしたちの国と世界の平和と和解、共に生きる関係の確立のために、それぞれに与えられた愛の賜物に応じて用いられて、あなたの救いの栄光を表すことができますようにわたしたちの日々の生活を導いてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン 

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