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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年6月礼拝説教


★2023.6.25 「神を畏れ敬う」マタイ10:16-33
★2023.6.18 「目指すは~の愛の国」マタイ9:35-10:8
★2023.6.11 「日々新たに生かされる」マタイ9:9-13
★2023.6.4 「愛の主はいつも私たちと共に在る」マタイ28:16-20

「神を畏れ敬う」マタイ10:16-33
2023.6.25 大宮 陸孝 牧師
 「わたしはあなたがたを遣わす。」(マタイによる福音書10:16)
 本日わたしたちに与えられている福音書の御言葉はマタイによる福音書10章16節から3節までの箇所です。既にわたしたちはマタイ福音書をここまで学んで来ましたけれども、この箇所は9章の終わりに「収穫は多いが、働き手が少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という主イエスの御言葉がありまして、十二使徒が選ばれ、伝道のために派遣されるにあたって、主から懇切な注意を与えていただいている部分であります。この派遣に際しての注意は10章の終わりまで続いていてその部分については次週の日課となっていて、本日は10章24節から39節まで、次週は40節〜42節となっているのですが、わたしはこれを本日は16節から33節まで、次週は34節から42節までに区分して学んで参りたいと思います。

 ここでは一二使徒の派遣が述べられていますが、これは、わたしたちとは関係ない特別な人々のことではありません。12という数字は、イスラエルの12の部族を現しています。ここでは全イスラエルが~に選ばれ、使命を与えられて派遣される出来事が述べられているのです。かつての古いイスラエルとは違って、イエスを主と信じ、その主から選ばれている新しいイスラエルである教会の代表としての十二人のことなのであって、ここで語られている選びと派遣は、決してわたしたちとは無関係な次元のことではなくて、わたしたち自身のことに他なりません。このわたしたちが選ばれて、教会に召され、このわたしたちが祝福の祈りを受けて、使命を与えられて、一週間のこの世の生活に向かって行く、派遣されて出て行くことなのです。その場合の懇切丁寧な注意がここで主御自身からわたしたちに与えられているということなのだとわたしは受け止めています。

 使徒と言う言葉はアポステローというギリシャ語で、派遣すると言う言葉に由来します。つまり使徒というのは、使命を託されて派遣される人、メッセンジャーという意味なのです。教会というのは~から選ばれ、使命を与えられて派遣された~のメッセンジャーであるということなのです。ここにこそ教会の存在理由があります。教会というのは~の救いの働きを世に告げるためにこそ存在するのです。わたしたちはこのようにして聖日ごとに~から選ばれ、召されてここに集い、御言葉の糧を与えられ、祝福を受けてこの世に派遣されて出で行く、それは福音のメッセンジャーとしての使命を与えられてである、ということを今わたしたちに示されているのです。ここでは、その使命を果たすために世に派遣されて出て行くことは相当な覚悟をしなくてはならないと言うことが強調されています。主が御自身で懇切丁寧に多くのことを教えておられるのは、そういう事情によるということです。

 マタイ10章26節から31節までのわずか6節の箇所には、何と三回も「恐れるな」という言葉が語られています。今朝は特にこの言葉に耳を傾けたいと思います。これはわたし達の信仰の歩みに対して、主が励ましを与えてくださる御言葉です。16節のところに「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と述べられていますように、派遣は実に容易ならない覚悟をわたしたちに求める苦難の道であることが告げられております。ここには主イエスが生前に行われた弟子派遣の状況とは違ったマタイの時代の教会の状況とが重ねられていることをわたしたちは認識してここを読んで行かなければならないという事情があります。17節以下に激しい迫害がそこに想定されているのは、主イエスが復活なさって昇天され、弟子たちの福音伝道が開始された後に、発生した事態のことを言っているのです。このような戦いの中に身を置く中で、「蛇のように聡く、鳩のように素直に」という勧めが時宜に適う助言となり、「狼の真っ只中に羊を送り込む」という比喩も、的確な描写となっているということです。迫害の真っ只中に伝道の使命を与えられて派遣されるということは、このように恐れざるをえないことであったのです。この世とは~から離れ、~の敵となった世界です。恐れを感じるこの世にこそ~の御業が伝えられなくてはならない。~のわざとしての伝道の働きに参加すると言うことは人間のわざとしての可能性に依り頼むのではなく、~の可能性にだけ依り頼むことが求められます。主が果たしてくださった救いの道筋は十字架を通してであるということを改めて思わされます。主は繰り返して「恐れるな」という言葉をもって、わたしたちを励ましてくださり、もう大丈夫だと言うわたしたちの人間的な自信によってではなくて、この主の励ましによってのみ宣教の働きへと出で行くことが可能となるということです。

 そのような困難の中で主が繰り返し「恐れるな」と言われる根拠は何なのかを見ておく必要があります。

 「恐れるな」と主が言われる理由は「~の真理」は必ず明らかになるからです。伝道とは道を伝えるということです。人間の歩むべき道筋を伝えるということです。~との新たな命の繋がりに生きることを伝えることです。道とは実際にその上を歩いて初めて意味を持ちます。このように~の救いの道を伝えるということは、わたしたちが新しくされ、生き方を変えられ、~のために生きる者となるそういう歩みを実際に歩み出すことを迫るものです。~が人間に語りかけたことは、人間がそれをどんなに抑圧し押し込めようとしても、いつか必ず障害や抵抗を突破して、外に現れ出るという真理の不滅性を示す言葉です。人々は伝える者を拘束し、箝口令(かんこうれい)をしいて、~の言葉の伝搬を差し止めようとするかも知れない。「しかし~の言葉は繋がれていません」(Uテモテ2:9)。主の弟子はこの福音自身が持つ威力に信頼するがゆえに、時がよくても悪くても、「わたしが暗闇であなたがたに話すことを、屋根の上で言いひろめよ」という命令に従って、大胆に信仰を告白し、宣教に励むのです。 宣教とは何を伝えることなのか、その道とは何か、主イエスはヨハネによる福音書で「わたしは道で在り、真理であり、命である」(14:6)とトマスに答えておられます。道を伝えるとはこのように道であり、真理であり、命であるイエス・キリストを伝えることでありますから、そのことによって主イエスが自らを明らかにする。真理でないものがどのようにそれを妨害することがあっても、真理は自らを明らかにするので、わたしたちは確信を持って暗闇で言われたことを明るみで語り、耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めるようにと励まされているのです。

 18節「また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」といわれています。ここで主は、迫害を恐れるな、本当に畏れるべき者を畏れよといっておられるのです。畏れるべきは~であることを知っていれば、その他のものはまったく恐れる必要はありません。伝道はぎりぎりのところ命がけです。殉教の覚悟も必要になってきます。そのような者に主は励ましの言葉を与えてくださっているのです。

 19節「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」ここでは宣教に派遣されたわたしたちに、~の行き届いた配慮がなされているということが強調されています。一アサリオンというのは当時の労働者の一日分の賃金の十六分の一の金額とされています。雀が二羽でそのような僅かな金額で売買されている。それほど取るに足らない雀でさえも父なる~のお赦しがなければ、地に落ちることはない。わたしたち人間はそのような雀よりもはるかにまさっていますが、そのわたしたちの髪の毛一本に至るまでも父なる御~はすべてご存知なのですから、自然の中にもこの~の意志が働いているのですから、イエス・キリストを死人の中から甦らせた~の働きにおいて、み子の贖いの死によって人間の最大の問題である罪と死の問題をも解決される~の恵みの意志を示されていますから、その信頼に揺らぐことなく立ち続けなさい。何も恐れないでいなさい、というのです。旧約聖書の申命記33章27節には次のように言われています。「いにしえの~は難を避ける場所、とこしえの御~がそれを支える」。このような主の御腕にすべてを委ねて、恐れるなと主は言われるのです。

 このような激励の後に、苦難の中で主イエスへの信仰を告白し続ける者だけが、最後の救いの完成の日に主イエスの執り成しの祈りを受けることができると宣言されます。恵みの主に対する真実な応答を求められます。

 教会の働きには恐れはつきものです。主がわたしたちを選び、派遣されるのは伝道が必要なところ、わたしたちがどうしても恐れを抱き、不安に満たされるところです。主の派遣の御言葉を前にしてわたしたちもまた恐れ覚えずにはおれません。しかし、主イエスは今朝、このようなわたしたちに「恐れるな」と語りかけてくださいます。この主の励ましに支えられて、主に遣わされて、宣教の使命に向かって出で行く者となりましょう。

 お祈りします。

 わたしたちを選び、御業のために遣わしたもう神さま。

 あなたがわたしたちに期待される宣教のわざは、あまりにも重く、わたしたちはあまりにも無力です。でも、主よ、あなたはそのようなわたしたちに今朝「恐れるな」と何回も語りかけ、励ましてくださいました。その主の励ましによって、どうか、あなたがわたしたちを招いてくださる宣教の働きへと歩ませてください。そしてわたしたちの働きを実り多いものとしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン
 
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「目指すは~の愛の国」マタイ9:35-10:8
2023.6.18 大宮 陸孝 牧師
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。(マタイによる福音書9:9)
  主イエスがご自身の権威を示されることによって、信じて従う者が起こされた。まことの権威者に服従するものとして、徴税人マタイの信仰と服従、献身がなされたのだというのが先週の箇所の主題でした。マタイは、主イエスという新しい権威のもとで、新しい心、新しい希望、新しい生き方、つまり生まれ変わった人物としてここに出て来ているのです。

 先々週の旧約聖書の日課では、創世記1章から2章のところを読みましたが、このところでは、特に2章の所で、人間の創造のことが集中して記されています。7節の記述ですが「主なる~は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」と記されています。ただ土からと言わないで、土の塵から造られたと言われているところが特徴的です。それほどに元々の人間の弱さ、もろさ、はかなさが強調されています。人間は時代の繁栄だけでは生きられません。どうにもならない人間の無力、虚しく破れやすい人間の現実があります。そして、その塵から造られた人間が生きる者になった。~がその鼻に「命の息を吹き入れられた」からだというのです。この人間の創造の話は古代の人間のことを言っているだけではありません。同時にわたしたち一人一人の「根源的な事実」の話なのです。人が土の塵から造られたということは、わたしたちにも当てはまります。わたしたちもまた土の塵から造られていて、そのままでは死んだ状態のわたしたちなのだということです。しかしそこから「生きる者」とされました。それは~の息に依るのだというのです。~が命の息を吹き入れてくださったのは、過去の人間のことだけではなく、いまわたしたちに対してもです。今日も主なる~はわたしたちに命の息を吹き入れてくださっています。それで土の塵のようなわたしたちが今日も生きる者とされているのです。生きることはただ人間の繁栄によるのではありません。~の息によって命を受け、生かされているのです。~の息を受けて、~の命に繋げられているのです。

 さて、それで本日のマタイ福音書日課でありますが、このマタイの召命を受ける形で、今朝の一二人の弟子たちの召命と派遣へと進んでいくというつながりになっています。10章の15節まで十二人の弟子たちの選びと「派遣」のことが語られています。やはり弟子たちを召し出す権能がここでも強調されています。弟子たちは~の働きのために、~の権能に基づいて召し出されます。使命を与えられるとは言っても人間が生来持っている能力とか資質でそれをしなくてばならないというのであれば、だれであってもそれはできないでありましょう。主は十二人を呼び寄せて、宣教の使命に耐えられるような権能を先ず授けられたのです。自分の人間的な力によってではなくて、主から授けられた権能によって刈り入れの仕事へと派遣されていくのです。

 ここに主イエスによって選ばれ召し出された十二人弟子たちの名前がリストアップされています。十二人という数はイスラエルの十二の部族を代表する数であると考えられます。これにより、教会という共同体が古いイスラエルに代わって新しいイスラエル、~の民として召し出されていることが示されているのです。この十二人の中にはペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネといった二組の兄弟たちがいますが、彼らのどの人も特別に宗教的な教養をもっていないガリラヤの漁師でした。また熱心党のシモンと言われているこの熱心党とはローマの外国による支配を拒否してメシアの支配を実現するために武力行使をも容認する反ローマの過激な闘争グループでありました。それと後にイエスを裏切ったイスカリオテのユダもいたことが明記されています。もしもわたしたちが選ぶとすればもっともっと吟味して、選りすぐった人物を選ぼうとするのではないでしょうか。しかし、主の選びは人間の選択と違っていたのです。考えて見ますと教会にも実に様々な人々が集まっています。主によって集められています。いずれも主が御旨のままに選び召し出されているのです。ここでわたしたちの物差しをふりまわして、選別することは決して正しいこととは言えません。漁師がいても、熱心党がいても、そうして場合によっては裏切り者がいても、それは主が選ばれたのであれば、わたしたちはこの自分もまた主の御旨のままに選ばれていることを覚えて、その選びを受けとめて行くことが重要なことでありましょう。主は元々弱さの中にあるわたしたち一人一人を、弱さに負けてしまう危険性があるから選ぶのは止めようとはなさいません。裏切るかも知れない者をもそうはならないことを最後まで願い続け、わたしたちを新にする命の息吹を与え続けておられるのです。このように主がわたしたちを愛し選ばれておられるとするならば、わたしたちは自分の造った物差しで選抜することを控えなければなりません。教会はわたしたちが人を選別する場所ではなく、主の選びと新しい命の創造がなされていく場所とならなくてはなりません。

 このような十二人の「選び」に続いて、彼らの派遣が語られます。彼らはそもそも派遣されるためにこそ選ばれたのです。教会は~の国のために使命を与えられて派遣されるためにこそ召し集められ、神の息吹つまり~の御言葉による養いを与えられている共同体なのです。主が5節以下で十二人の弟子に先ず言われたことは、差別と偏見と受けとめられる言葉でした。イスラエルの人々が自分たちを~の民として、異邦人や混血の民族サマリア人を見下し軽蔑していたことはよく知られていますが、主イエスまでもがそうだったのでしょうか。決してそうではありません。この主の言葉からうかがわれることは「ユダヤ人こそ危ない」という危機感であります。多くのユダヤ人は「ユダヤ人は~の選民だから大丈夫だ」と考えていましたが、決してそういうことはないのだ、そのように考えて悔い改めをしようとしないユダヤ人の所にこそ出かけて行かなくてはならないのだ、という主の御趣旨であったのです。自分のことを棚に上げて、わたしたちは大丈夫だ、と考えて思い上がる者が実は一番危ないと主イエスはおっしゃっておられるのです。これはわたしたちにとっても決して他人事ではありません。

 さて、それで、派遣された者の使命が7節以下に記されています。それは、神の支配が差し迫っていることを告知し、そのことを具体的に示すような働きをすることです。病人を癒すとか、死んだ人を生き返らせるとかここに記されているようなことは人間には不可能なことを要求されているように思います。遣わされて出て行く者は自分の能力とか才覚で使命を果たすことを期待されているのではないということです。先程申しましたように、このような権能は主ご自身が父なる~から与えられている権能であります。つまりわたしたちにできることは、父なる~の権能をもって先だって御業を進めておられる主を指し示す、指さすということであります。御業をなさるのはこの主御自身なのですということをいつどこにおいても指し示すということがわたしたちの役割です。主が癒してくださいました。主が~の息でわたしを生き返らせてくださいました。主が清め、主が悪霊を追い払ってくださいました。主がこのようにわたしを新しい命に生きる者してくださいましたと、わたしにしてくださった主の救いの業を証しすることなのです。わたしたちが人々の煩いを負い、その病を担い癒すことはできませんが、主がそれをなしてくださると告げる働きをするのです。

 8節b「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」~があなたを救ってくださったのは無条件の恵みに拠ります。恵みとして~から与えられたものは、また無償で人に与えるのは当然です。むしろ、わたしたちを通して、このような~の恵みが伝えられることは大きな栄光とさえ言わなければならないでしょう。主がその御業のためにわたしたちを派遣される場合には仕事をされるのはあくまでも主御自身なのですから、その主の恵みをどこまでも頼りにしなければならないと主は言っておられるのです。派遣はこのように~の祝福の使者として遣わされることです。

 そして確かにこれは十二人の使徒たちのことです。そして、この派遣が今朝ここにいるわたしたちに語りかけられ、この週の魂の糧として与えられたのです。わたしたちはその意味を噛み締めなければなりません。わたしたちはこの世の生活の中から今朝この礼拝の場に選ばれ、召されて集められました。それは使命を与えられて、~の国の使者としてこの世に派遣されていくためなのです。使徒たちに語られた言葉は、派遣されて出て行くわたしたちにも語られていることを覚えて、この選びと派遣の中で生き生きと躍動している~の息、命の鼓動に生かされて、先だって歩まれる主と共に~の平和の祝福をたずさえていでゆく者とされるのです。

 お祈りいたします。

 選びと派遣の主なる神さま。

 今朝もわたしたちをこの世の生活の中から礼拝の場へと選び出し、召してくださいましたことを心から感謝いたします。あなたが決してふさわしくないわたしたちを、無条件で愛してくださり、罪赦して教会の交わりの中にお招きくださいましたことを覚えて、選び召してくださったあなたの愛の故に、どうかわたしたちがお互いに許し合い兄弟姉妹の交わりを深めることができるようにしてください。あなたの御言葉の糧を癒しと霊の養いとし、~の国の使者としてそれぞれ与えられておりますこの世へと、あなたの平和の祝福を携えてお遣わしください。わたしたちの教会がただ集められた群れであるだけでなく、遣わされたものの群れとなり、~の国を目指して生きる者となることができますように。

主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン
 
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「日々新たに生かされる」マタイ9:9-13
2023.6.11 大宮 陸孝 牧師
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。(マタイによる福音書9:9)
 先日の主日から一週間が過ぎました。時が過ぎ去るのは早いですね。わたしたちは、一週間前の日曜日の礼拝に新しい展望と抱負をもって信仰の歩みを歩み出してきました。わたしたちが人生を歩んで行く中で、自分の歩みを見直し立て直して、新たな歩みに相応しい心、抱負、希望、期待をもって歩み出すために、日曜日毎に教会に集い礼拝をし、新たに指針を受け取り直して新たな一週間に臨むという繰り返しをしています。

 新しい一週間ですから、新しい日々に相応しい心、抱負、希望、期待を持ってまた日常生活に帰って行くわけです。それが一週間の展望となり、歩む力となり、励みになるということです。でも、その新しい心、新しい展望、新しい希望、期待、抱負はどこから来るのか、ということを考えます。

 それはわたしたち自身からではないということです。自分自身から出た心、希望、期待や抱負ではないということです。それは~から来る力によって、恵みとして心新たにされるということです。そのように思いますときに、第二コリント4章16節にあります「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新にされていきます。」という言葉を実感を持って受けとめることが出来るのです。「内なる人」とは、キリストによって生まれ変わった新しい人を意味します。「外なる人」とは、自分の力や才能、能力、いわゆる外側の部分により頼む人のことです。内なる人としてキリストに結びついている時に、わたしたちは日々新にされ、日々変えられるのです。この日々新にされ続けることによって、新しい一週間の経過の中でも、日々新にされるのだなあと感じる、そういう霊に導かれる日々の歩みの内に次の日曜日を迎えるというライフサイクルをわたしたちは生かされているのです。

 さて、マタイ福音書9章ですが、8章から9章にかけて、主イエスの癒しの奇跡が三つづつ、しかも三つに構成されています。本日のテキストは、大きく構成されている二つ目の癒しの記事8章23節からはじまる奇跡・癒しの結論としての挿話であります。ここには三つの奇跡・癒しの物語が記されています。第一番目が23節から27節です。これは自然を支配し治められる主イエス、自然に対する権威の主を言い表しています。第二番目が28節から34節です。悪霊につかれたガダラ人の癒やしです。ここでは、霊の世界の支配者、治められる主イエス。悪霊に対する権威を持たれる主イエスです。第三番目が9章1節から8節に記されています罪を赦す権威を持たれる主イエスです。この三つに共通するのが、主イエスの権威ということです。主イエスの権威によって、風や波を従わせる、自然界や宇宙に秩序を与えておられるといってもよいでしょう。その主イエスの権威によって、悪霊を追い出し、主イエスの権威によって罪を許されるのです。そこで重要なことは、罪を赦す権威をお持ちの方は~のみであるということです。その神の主権が主イエスの主権なのだということを強調していることになります。主イエスがご自身の権威を示されることによって、そこに信じて従う者が起こされた。まことの権威者に服従するものとして、徴税人マタイの信仰と服従、献身がなされたのだというのが本日の箇所の主題です。

 カファルナフムにおける中風の者を癒す出来事の後、イエスは町から出て行かれます。その途中で、収税所に座っている一人の人物がイエスの目にとまります。マルコとルカはその名をレビとしていますが、マタイ福音書は、その名をマタイと変えています。十二弟子の一人として名を連ねることになるマタイがここで主イエスの召しを受けたのです。彼は徴税人でした。マタイは、主イエスという新しい権威のもとで、新しい心、新しい希望、新しい生き方、つまり生まれ変わった人物としてここに出て来ているのです。

 主イエスとの出会いの中で新しい人間に生まれ変わるのです。ですので、どのようにして生まれ変わったのか。マタイはどういう人であったのかを見ておく必要があるでしょう。

 マタイは当時のイスラエルを武力で占領していたローマ帝国のために働いていました。ローマの帝国という権威と支配のもとで、その権威に服して生きていたのです。そこには、偶像崇拝の問題がありました。ローマ帝国、特にその支配者である皇帝は神として崇められ、礼拝の対象となっていたのです。その権威の下で税金を集めていたのです。コインにはローマ皇帝の顔が刻まれていました。つまりマタイはお金に従属していたのです。

 徴税人マタイはイスラエルを占領したローマのために働き自分の国の不幸を利用して富を蓄積しているとみなされていました。祖国を裏切り、民族を裏切り、友や家族を裏切って、ローマのために働きました。その代償として富を得ました。

 税金を集める仕事として、同胞の金をかすめるだけではなく、ローマ政府の金をごまかすのにも抜け目がありません。徴税人は罪人として、ユダヤの人々から忌み嫌われておりました。そういうことですから、許されるということを考え、信じることさえ冒涜的なことでした。このように徴税人はユダヤ人からは仲間はずれにされていました。徴税人マタイは、どんなに富を蓄えたとしても、誰にも認められない、自己喪失者でありました。自分が心病む罪人たることを知る者は、その罪の故に、~のみ前に出ることができぬという、深い絶望の淵にあります。罪とは~とわたしを隔てる決定的障壁のことであります。しかし、その障壁のかなたに隔てられている筈の者を、主イエスは尋ね求めるために権威をもって世に来られたのです。そして、徴税人マタイに、主イエスはみ手を伸ばされるのです。(9節)主イエスにとって、それは罪人の発見でもありました。罪人の発見は、救いの宣言でもあります。9章2節「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされる」。この中風の人への宣言は、すべての罪人への宣言でもあったのです。罪を赦す~の権威をもって、主イエスはマタイに近づき、「わたしに従いなさい」と召命を与えられます。この呼びかけに、マタイは直ちに従います。マタイはこの呼びかけの中に、真の生命に至る道を見出したのだと推測されます。主イエスの召命はマタイにとって、何ものにも換えがたい最も重要なものであったに違いありません。今ここに主イエスは、マタイを真に生かす命の主として立っておられます。マタイにとって、主イエスとの出会いは、自己の回復です。失われた自己のすべてを主イエスは贖い、回復してくださる、そういう方として今ここに立っていてくださいます。

 10節。徴税人や罪人が主イエスと一緒に食事をされる。交わりの回復がここにはあります。しかし、そこでも古い権威が現れます。11節。ファリサイ派とは、律法をかたくなに守る人たちです。律法という古い権威でもって人々を縛り、支配しようとします。そこには、愛や優しさ、憐れみはありません。まことに12節で主イエスが言われる通りであります。「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない」。そして、13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。古い権威は人を生かすのではなく、人を殺します。コリントU3:6にありますように、「文字は殺しますが、霊は生かします」。また、古い権威は、愛ではなく、裁きです。ヨハネ13章34節「わたしは新しい掟をあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい」。古い権威は、自由ではなく、束縛です。ヨハネ8章32節「真理はあなたがたを自由にする」。

 さてそれで、主イエスは新しい権威者として、いつもわたしたちを召してくださっておられます。「わたしに従いなさい」。わたしは何に従っているでしょうか? 古い権威、権力、お金、地位、自分自身を~とする欲望。わたしたちが従うのは信頼できる方、そこには人格的な交わりがあります。愛と優しさ、寛容という人格を持ったお方です。主イエスの周囲には、このようにして新たに結ばれた人間関係の輪が、次第に広がって行ったと見えます。しかも「収税人・罪人」とさげすまれ、正統的ユダヤ教社会から締め出されていた人々が、大勢そこにいたということが注目すべきことです。

 わたしたちが主イエスに従うのは、自分自身が失っている大切なものを求めるからです。命、救い、~の御旨。そして、それをお持ちのお方にわたしたちは従うのです。服従は献身であります。献げるのです。古い自分を捨てるのです。ここで注目すべきは、8章18節以下にも「わたしに従え」という主イエスの言葉が出てくるのですが、この時の召命には誰も従った者がいなかったということです。9章に至って、新しい権威を示された主イエスにマタイが従うということです。

 主イエスに従うことは、今まで執着していた何かを手放すことです。それは同時に、本当のものを獲得することであります。マタイはお金を失いました。献げたのです。安定した職業を失いました。しかし本当の人生を見出したのです。多額の収入を失って、しかし真実の命の輝きを得ました。主イエスに従うことは何かを手放すことです。しかし、さらに倍して主イエスから臨んだ無償の恵みを得ることでもあります。その恵みの祝福から溢れ出るように、命をかけた献身が生み出されて行ったのです。わたしたちが~の民として新しく生きるとはこういうことなのだと思います。

 お祈りいたします。

 ~の御子救い主イエスよ。あなたは~の御子でありながら、~と等しくあることに固執しようとはしないで、わたしたち病める者、罪深い者のためにここに来てくださり、そして「わたしが来たのは病める者、罪深い者を招いて生かすためである」と、ご自身の全存在をかけて主張し、また、そのために御自身の命をも捨ててくださいました。

 このように救い主がわたしたちのところに来てくださったことを心から感謝して、命の力をいただいて、新しい一週間に臨むことができますように一人一人を導いてください。

 主イエス・キリストの御名を通して感謝してお願いいたします。 アーメン。

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「愛の主はいつも私たちと共に在る」マタイ28:16-20
2023.6.4 大宮 陸孝 牧師
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)
  本日の福音書の日課は、復活の主イエス・キリストの弟子たちに対する最後の厳かな命令と慰めに満ちた大いなる約束が語られております。マタイ福音書の終わりの部分です。

 わたしたちには主イエスが十字架につけられ、死んで埋葬され、三日目に死者の中から復活して、勝利の主として弟子たちに現れたことを、福音書のみ言葉を通して語り告げられているのですが、しかし、それでマタイ福音書は閉じられているのではなくて、これからが新しい始まりであり、その新しい始まりに向かって、復活の主が弟子たちに使命を与えてお遣わしになるのだ、という開始宣言がこのマタイによる福音書の終わりの部分の中心メッセージとなっているのです。

 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。」(16〜17節)

 この時点で弟子たちの数は十一人となっています。それはあのイスカリオテのユダ、主イエスを売り渡したあのユダが自殺をして弟子たちの中から脱落したので、一人減ったことによります。イスラエルの十二の部族を代表するという意味をもっていたこの十二人という数は満たされなくてはなりませんでしたから、使徒言行録ではその数が始めのキリスト教会において補充されてマッティアという弟子が補充されたことを告げていますが、この段階では、弟子の数は未だ十一人でした。

 この弟子たちがガリラヤに行ったのは、復活の主の指示に従ったからでした。28章の10節で、復活の主はマリアたちに出会った際に「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われていました。そのことが弟子たちに伝えられたのでその指示に従って彼らがガリラヤに集まったのです。弟子たちは皆ガリラヤの出身でしたので、イエスの十字架の死の後に主と共に弟子として生活出来なくなった彼らは、それぞれ故郷のガリラヤに帰って昔のように魚をとったりしながら、日常生活に復帰する他ありませんでした。復活の主イエスはそのような弟子たちに先立ってガリラヤへおいでになり、弟子たちを待ち受けておられると言われたのです。このようにして弟子たちは復活の主との出会いの時を持つことになりました。

 「イエスが指示しておられた山に登った」とあります山がどこであるのかは示されておりませんが、弟子たちはたとえば17章の始めでは山の上で主の御姿が栄光に輝くという変貌の出来事を経験していましたように、ここでも復活の栄光の御姿をそのような山において仰ぐことが許されたのでした。ここでは、主イエスの御姿の変貌が示されただけではありませんでした。弟子たちの姿も大きく変化したのです。彼らは主の十字架の死によって挫折を経験してばらばらになってしまっていました。そうした失意の中で、ガリラヤに戻って、漁師にでもなって出直そうというところであったのです。ところがその弟子たちが、この山上での復活の主との出会いによって立ち直り、復活の主によって派遣される使徒として変貌していったのです。

 復活の主の御前にひれ伏した弟子たちの中にも半信半疑で「疑う者もいた」と福音書はわたしたちに書き記しています。およそ二千年前のその当時でも、死んだ人間が生き返ったなどということを、弟子たちがすぐにも信じることが出来たというわけではありませんでした。彼らの中に疑う者もいたのです。しかし、復活の主によってこのような疑いが確信に変えられ、殉教の死をさえ畏れない使徒になっていったということがわたしたちにとって重要なことであると思います。

 「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権威を授かっている。』」

 復活の主が、弟子たちに語られた二つほどの重要な点を見てゆきます。第一は権威を示されたことです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われているのがそのことです。天と地の一切の権能をお持ちのただお一人の方は、いうまでもなく天と地をお造りになった創造主であります。父なる~です。

 しかし、主イエスはその父なる~からそのような権能を授けられていることを弟子たちに明確にお示しになったのです。復活はまさしくそのことを示す出来事でした。

 権能とか権威などと言う言葉をわたしたちが聞きますと、上から高圧的に押さえられるような印象をもちまして反発を引き起こすこともあるかと思いますが、しかしキリストの教会とは、この天と地の一切の権能を授かっている主イエスの権能の下に召し集められ、ちょうどこの時にガリラヤの山の上でその主の御前にひれ伏している弟子たちのように、その権能の御前にひれ伏す共同体にほかならないのだということなのです。このお方の権能が曖昧にされる時に教会は人間的な権能の前に膝をかがめる団体に堕落してしまいます。教会賛美歌の322番では次のように主イエスの主権を高らかに詠っております。

 「主なるイエスは わが喜びわがたから よわきわれは ながきつきひ主を求む。」と主イエスの主権、権能が天地の何ものにも勝っているという確信を歌い上げ、そのような信仰告白の上にこそ教会が教会である基盤があるということを明らかにしています。

 19節〜20節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」復活の主が弟子たちに語られた第二のことは、遣わされて行って、すべての民に伝えなさい、という宣教命令です。初代の教会は以来この命令に従って世界各地に宣教活動を繰り広げていったのです。しかも、この宣教命令は、天においても地においても一切の権能を父なる~から授けられている、復活の主の権能に基づいてなされているのです。マタイ福音書の最後が、大きな始まりに転じていくのはそこからなのです。

 主の権能に基づいた宣教命令ということは、教会の宣教はこの復活の主の御業の中に基礎づけられているということに他なりません。宣教とは、わたしたちがしなくてはならない人間のわざではなくて、~のわざ、~の宣教なのです。主の御わざ、主の権能の御わざなのです。弟子たちの誰よりも先にガリラヤへおいでになったその復活の主が、また教会に先立って全世界においでになるのであり、その先行して進められる~の宣教に従って行くときに、わたしたちの宣教、教会の宣教がなされるということです。

 教会とは、そのような~の宣教にお仕えする器として召し出されている共同体なのです。教会は一体何のために存在するのかといいますと、~が世界を救う宣教の働きを担うためこの世の罪の現実の只中から解放され、召し出された群れなのです。復活の主の命令が聞こえなくなった教会は、展望を見失います。わたしたちは繰り返し繰り返し「だから、あなたがたは行って」というこの復活の主の派遣の命令に耳を傾け、心を傾けて真にキリストの救いの御業を伝えて行く教会になっていかなくてはならないのです。

 20節「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」わたしたちに先立つ主イエスは、歩みの遅いわたしたちを厳しい罪の現実の中に置き去りにしてさっさと先を歩まれるお方ではなくて、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださるお方なのです。派遣の主イエスは、世の終わりまで、いついつまでも共にいてくださる同伴の主でもあることを、主はわたしたちに約束してくださるのです。ですから、わたしたちは主の派遣の命令に心からの喜びと信頼を込めてお従いすることができるのです。

 このように復活の主がわたしたちを派遣し、その主が世の終わりまでわたしたちと共にいてくださるというお約束に、わたしたちの方でも信頼してその宣教命令に従っていくときに、わたしたちの前には天と地の一切の権能を委ねられているお方の支配のもとで、新しい世界が開かれるのです。日曜日の礼拝の最後で、わたしたちは主の祝福の御言葉を聞き、この派遣の御言葉を与えられて新しい使命を持って「い出行く」ものとされるのです。どうかわたしたちの教会がこの主の派遣にいつも正しくお応えして、~の救いの御業を世に伝えて行く宣教の教会とされますように、互いの祈りを合わせて行きたいと思います。

 お祈りします。

 派遣の主イエス・キリストの父なる神さま。本日御言葉を与えてくださり、復活の主イエスの派遣の下に立たせてくださいましたことを感謝いたします。どうか、わたしたちの教会がいつどのような時にもわたしたちの主が天と地の一切の権能を授けられている復活の主であることを告白しつづけていく教会となることができますようにお導きください。世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主の御手に信頼して、わたしたちの教会がその主の派遣を受けて、あなたの救いの御わざを世に伝えて行く教会となり、実りをゆたかに与えられる教会となることができますように。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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