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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年8月礼拝説教


★2023.8.27 「困難の中の信仰告白」マタイ16:13-20
★2023.8.20 「立派な信仰」マタイ15:21-28
★2023.8.13 「嵐の中に立つイエス」マタイ14:22-33
★2023.8.6 「命を養う神の言葉と霊」マタイ14:13-21

「困難の中の信仰告白」マタイ16:13-20
2023.8.27 大宮 陸孝 牧師
 「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」(マタイによる福音書16:16)
 「イエスはフィリポ・カイザリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何ものだと言っているか』とお尋ねになった」(13節)。

 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。この言葉は、マルコ福音書では、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8:27)となっており、ルカ福音書では「群衆は、わたしのことを何者だといっているか」(ルカ9:18)と記されています。いずれにしても、「人々はナザレのイエスをどのように判断しているか」と問われているのです。

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。当時、この問いが問われたとき、それに対して人々が与えた答えは、たいへん好意に満ちていました。ある人々は、「洗礼者ヨハネだ」と言います。荒れ野で人々を悔い改めに導き、後にヘロデ・アンティパスによって処刑された洗礼者ヨハネが、今、生まれ変わってきたのだと言うのです。また、別の人々は、「エリヤだ」と言います。昔、~の御許に引き上げられ、終わりの時に再びやって来て、救い主メシヤの道ぞなえをすると考えられていたエリヤが、ここに現れていると言うのです。しかし、ほかの人々は、旧約聖書に現れたあの悔い改めを説く預言者エレミヤが再来したのだと言い、あるいは、~から委託を受けた別の預言者の一人がそこに登場しているのだと言います。

 人々は、そのように語って、主イエスをただならない方であることを認めるのですが、しかし、このような言い方でどういうことを言おうとしているのでしょうか。このイエスという方は、事実、ただならぬ方である。それは、かつてイスラエルの歴史の中に登場した、~の使者であるような人々を引き合いに出さなくては、とても捕らえきれない、そういうただならない方として、しかし、それは、歴史の中に現れたひとつの事実として、疑いもなくトップレベルにあるような、しかしそれでもやはり、歴史の中のひとこまであるような、そういう方として主イエスを受けとめるということであったように思います。そういう点で、当時の人々の答えは共通していました。彼らにとって、主イエスは確かにただならない存在ではありましたが、主イエスは、結局、歴史の中の一人物以上の方ではありませんでした。

 「人々は、わたしのことを何者だといっているか」。この問いは今日においてもわたしたちに問いかけられています。しかし、今日そのように問われて、果たして当時の人々のように、誰か歴史上の人物を引き合いに出して、これに簡潔に答える人がいるでしょうか。洗礼者ヨハネも、エリヤも、他の預言者たちも、今は既に遠い過去の人々です。そのような人々を引き合いに出して、このナザレのイエスと呼ばれる方について、何か特別な経験を言い表すということは、今日の人々には考えられません。それどころではなく、今日の時代は、特に傑出した人物などを考えるのは難しい時代です。~から特に遣わされた聖なる存在をイエスの中に見たとしても、しかしそれは、世の風評に過ぎないばかりではなく、人々がここに一人の偉人を仰いだとしても、そこに人格的結合が生まれたわけではありません。要するに傍観者・第三者としての当て推量に過ぎないのです。現代社会は互いに相対化することが進んでいて、他人は他人であり、自分は自分であるという考え方がわたしたちを支配しています。そのようなときに、「人々は、わたしを誰といっているか」と問われても、多くの人々は、そのような問いを問う人と自分はなんの関係もないかのように、冷ややかに聞き流して、そばを通り過ぎて行くだけであろうと思います。

 かつて、人々は主イエスを歴史の中に登場した一人の傑出した人物ととらえました。そして、今日、人々は主イエスを自分とは無関係な人物と受け流していきます。そのような今の時の中で、しかし、改めて、わたしたちは主イエスに問われ尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」まさにそうです。このような時代に、わたしたち信仰者はこの方をどのように言い表すのか改めて問われています。

 15節と16節を読みます。「イエスは言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか』。」「ほかの人々はともかくとして、それでは、あなたがた、わたしに従って来ているあなたがたは、どう考えているのか」と問われるのです。そしてそれに対して弟子たちを代表してペトロが答えます。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。ペトロの答えは短く、簡潔です。と同時に、すっきりしていて、明瞭です。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

 このように答えて、まずペトロは、「わたしたちは過去に生きた人々を引き合いに出して、あなたを考えるようなことはしません」と言っています。そして、次いで、「あなたは、おおよそ、この世のどんな人々をも越えておられる方です」と言います。

 「あなたはメシア」。「メシア」というのは、「~に油を注がれた方」のことです。そして、「~に油を注がれた方」といえば、当時のユダヤの人々にとっては、いちばん終わりの日に現れて、~のご命令にしたがって~の民を救い出してくださる、イスラエルが待望していた救い主のことです。それまでの歴史の歩みのすべてを乗り越えて、永遠に果てることのない栄光をもたらしてくださる方のことです。ペトロは、ユダヤの人々が深い期待を込めて口にしている呼び名を取り上げて、それをナザレのイエスその方に当てはめて、「あなたはメシア」と申し上げているのです。

 ナザレのイエスその方は、人の目からすれば、メシア(救い主)としての希望や期待を満たす証しなどなにも持ち合わせていません。隠れたかたちで、人の身をとってこの世に現れ、そしてエルサレムの門の外で十字架の上で死なれました。そのような人物について、ペトロは、はばかることなく、この方こそほかに比べるもののない方、なぜなら、この方こそ~の御子であられるのだからと申し上げるのです。マタイはメシア告白に「生ける神の子」という尊い呼び名が付け加えられています。そのようにして、主イエスがほかに比べようのない、特別な方であることが強調されているのです。

 この主イエスという方において、わたしたちはまことの~に出会っているのだ。物言わぬ、死んだ偶像ではなく、まさに生きて働いておられる~にお目にかかっているのだ。また、人間があれやこれやと思い巡らして作り出す様々な~の観念を超えた方、すべてが浮き沈みして移り変わる中にも、変わることなく生きておられるまことの~がここにおられるのだ。マタイ福音書に記されたペトロの言い表しの言葉には、そういう思いが示されているのだと受けとめることができます。「あなたこそ、~の子」という表現には、もはやほかに何の説明もいりません。当時の人々には、それを聞いただけで何が言われているのか、すぐに悟ることができた言葉です。「あなたこそ、~の子」。つまり、このイエスと呼ばれる方において~御自身がわたしたちに出会っておられる、そう言われているのだということをすぐに理解できます。

 「あなたは、生ける神の子です」。この言い表しは、まことに大きな、それこそ、わたしたち人間が口にすることのできる、最後の言葉です。ですから、その時代にも現代でも、繰り返して人々は問題にします。いったい、どうしてあなたがたはそのような大きな言葉をあえて口にすることができるのか。そのような信仰の表しがほんとうに真理にかなっていると、どうして確信できるのかと、問うのです。

 マタイ福音書記者はその問いに答えようとしているのです。この信仰告白に続けて、次のように記します。一七節です。

 「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」。人間ではなくというのは、もろくはかなく移ろい行く人間、そういう人間の弱さをとらえて言われている言葉です。わたしたち人間は、暫くの間だけ生きて、やがて過ぎ去っていきます。そして、わたしたちの血も肉もいつか滅び去ります。そのようなもろく、はかない人間がどうして先程のペトロが語ったような大きな言葉を口にすることができるでしょうか。

 わたしたち人間には、ペトロが告げたような信仰の言い表し方をすることは、とてもできません。わたしたちが語ることができるのは、せいぜいのところ、たとえそれが最高の事がらであるとしても、それはすでに地上にあったもの、人間の歴史に現れてわたしたちが経験することのできたもの、そのようなものと比べながら、または、そのようなものをたとえに用いながら、語ることのできるものに限られています。

 そして、ここでペトロが語っている事がらは、ほかに比べようのないことがら、ほかに何のたとえをもってしても示すことのできない事がらなのです。ですからそれはまさに、「わたしの天の父」があなたがたにそういう理解をたまわったのだとしか、言いようがない事がらなのです。

 「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。このようにイエスが言われたことこそ、わたしたちが本日、受けとめ、信じ、告白しなくてはならない事がらです。わたしたちは、人間の理性とか人間の理解能力とか、そういうものに基づいて主イエス・キリストを信じ、主の御許に近づくのではありません。また、民衆の間に広まっているメシア待望に同調して、このように言ったのでもない。そうではなくて、聖霊が、御言葉を通してわたしたちを招き、聖霊の賜物をもってわたしたちを照らし、そして正しい信仰を保たせてくださっています。聖霊の力によって御言葉がわたしたちに働き、それによって~がわたしたちをしっかりととらえ、支えてくださっています。主イエスを通して聞かされた御言葉によって、わたしたちは導かれ、主イエスこそキリストであられるという信仰の告白に導かれます。 そしてこのように言い表し、このような信仰を告白しながら、教会は生きていきます。主イエス・キリストの教会は、この聖書の言葉が聞かれ、そしてイエスはまことにキリストであられるという信仰告白に結びつけられてこそ、成り立つのです。この世には、主イエス・キリストに背を向けたり、無関心になったり、あるいは反対するさまざまな動きがあります。そのため、わたしたち信仰者にも、ときには、おじけづいたり、自分が信仰者であることや、教会に属していることを明言するのをはばかったりすることもあります。また、信仰の核心にふれることを、人々に受けのよい、別の言葉で新しく言い表してみようとしたり、あるいは、キリスト者であることの証しとして、隣人愛の業に精出してみるようなこともあります。そういうこともいろいろあるでしょうが、しかし、わたしたちは、どのようなこの世の困難の中にあろうとも、このところで問われている問いを避けて通ることは決してできないのです。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。したがって、ここでペトロが答えている言葉が、わたしたちにとって、決まり切った、形ばかりの言葉とならないように、そのようにしてわたしたちがこの問いを避けて通ることがないように、心がけなくてはなりません。始めのところで申しましたように、このペトロの告白の言葉は、それぞれの福音書では違った表現で伝えられています。ということは、この、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いを、それぞれの福音書を記した人たちが、それを自分に問われたこととして、新しく聞き、そして、新しい思いで主体的に答えていったためと考えられます。~は今日の日にも、その問いを新しくわたしたちに問いかけておられます。それに対して、わたしたちは新しく御言葉に聞き導かれた思いをもって、わたしたちの答えを申し上げなくてはならないのです。

 お祈りいたします。

 恵み深き父なる神さま。

 あなたはわたしたちを、選ばれた~の民として、揺るぎないあなたの恵みの中に置いてくださり、如何なる困難の中にあっても、何度も信仰を失うような試練の中でも、何度も離反を繰り返すような危機的な時にも、そのような弟子たちが信仰を失うことなく、地上から消滅することもなく、今日まで信仰共同体として教会に集い、礼拝を守り続けることができるようにしてくださいます。これからも救いの喜びをもって信仰の歩みを続けてゆくことができますように、変わることのないあなたの憐れみによってわたしたちの歩みを守り、支え、導いてください。

 この祈りをわたしたちの主イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン。

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「立派な信仰」マタイ15:21-28
2023.8.20 大宮 陸孝 牧師
 「そこでイエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。』そのとき、娘の病気は癒された」(マタイによる福音書15:28)
 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。(21節〜23節)

 「イエスは何もお答えにならなかった」。そもそも、主イエスはなにを答えなくてもよいのです。主イエスが耳を澄ませて聞くべきなのは、父なる~の御声だけです。ひたすら御父の御声に聞き従ってこそ、主イエスはまことの従順なる~の御子であられるのです。わたしたちはまずそのことをしかと受け止める必要があると思います。

 あれやこれやと、さまざまに言いはやし、互いが矛盾しあっていることを言い張っているこの世の自己主張などには耳を貸さず、ただひたすら、~の教えからそれて行かないように、父なる~の御声に聞き従うところに、主イエスの真実の強さがあります。そうであればこそ、律法学者やパリサイ派の人々と論争するときにも、彼らが持ち出すいかにも敬虔そうな言い伝えを、主イエスは、~の御名のゆえに、きっぱりと退けられるのです。主イエスには人間の声に聞き従う必要はありませんでした。当時の宗教指導者たちが権威として語る言葉にすら、従わないでいる主イエスです。なおさらのこと、この女性の訴えに耳を貸すまでもありません。

 22節に、この女性は「この地に生まれたカナンの女」であると記されています。それなら、彼女は全くの外国の女性であり、したがって、~については何も認識をもたないで、この世では自分ほど惨めな者はいないかのように思い込み、悲痛な嘆きをもらしている人物です。そのような女性に「イエスは何もお答えにならなかった」としても、もっともなことであったということなのです。

 しかし、そうは言っても、このとき主イエスがせめて一言だけでも、この女性に労りの言葉をかけてほしかった、という気持ちがないわけでもありません。なんと言っても、この女性は一人の母親として深い嘆きの中におかれています。22節のところでは、「娘が悪霊にひどく苦しめられています」と訴えています。そうだとすると、彼女の娘は、顔に笑みをうかべることなど耐えてなく、いつも目が据わったような状態で部屋の隅にうずくまり、同じ年頃の娘たちのように、気の合う若者を見つけて陽気に騒ぎ回るという、親しげな様子はどこにも見られなかったでしょう。そのことは母親にとっての苦しみです。事実、22節では、「わたしを憐れんでください」と主イエスに訴えています。

 しかし、このような場合にいつも主イエスが憐れみをかけてくださったなら、と思うのはどうも、わたしたちの感傷であるようです。福音書の中に出てくる主イエスは、いつでもどこでも涙を流してばかりいるような方ではありません。そしてまた、なににつけ、この世の事がらを呟き批判ばかりしているような方でもありません。主イエスは語るべきでないときには、沈黙なさいます。語るべきときが訪れるまで、じっと沈黙を守られます。ですから、一度主イエスが口を開いて語られるときには、その言葉には重みがあるのです。

 わたしたちもキリスト者として、また主にしたがう者として、黙すべき時には沈黙して神の言葉に聴くことに集中し、~の救いの証しを語るべきときには大いに語る者とならなければなりません。それなのに、わたしたちは何と口の軽い人間なのでしょうか。今も、このような人を目にすると、すぐにお節介をしたがります。どうして主イエスは何もおっしゃらないのか。何かひと言でも言ってあげればよいのに。大丈夫だよとか、安心して行きなさいとか、せめてひと言だけでも語ってあげたらよいのに、と言い出すのです。

 多くの場合、沈黙していることの中に、かえって、深い憐れみがたたえられているということがあります。それであるのに、このところの弟子たちの行動を見ると、彼らは誰かから何かを言われたわけでもないのに、この女性を見て、つい口を開きます。弟子たちは黙っていることができません。21節の後半です。

「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」。

 もちろん、弟子たちは、この女性に対して主イエスが邪険に振る舞ってほしいと言っているのではありません。そうではなく、なんとかこの女性をなだめて、この女性が自分たちのところから遠ざかるようにしてほしい、と言っているのです。できることなら、わずかな心遣いをして、あまり責任を背負わずにすむ程度の、優しい言葉をほんのちょっぴりかけてくださって、それでこの女性の気持ちが一応満足して、もはやわたしたちの後を追ってこなくなるような、そういうことをしてほしい、と言っているのです。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」。一時凌ぎの慰めを与えさえすればいい。それで厄介払いができるのだ、と言うのです。わたしたちにできることはしてあげたではないか、あなたは、まだそれ以上のことを要求するのかと、そのように言いたいのです。こういう態度を示すのは、弟子たちばかりではないのではないかと思います。

 そして主イエスはそういう弟子たちの誘いに、果たして同調なさるのでしょうか。主イエスもまた、この女性に対して、一般の人がやるのと同じ態度をとられるのでしょうか。そのようにしてこの女性を追い払われるのでしょうか。

 事情はそのようにはなりませんでしたが、主イエスが次に発せられた言葉は、わたしたちにとって、それ以上に衝撃的です。24節です。「イエスは『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。この言葉を聞きますときに、思わず、心の中でつぶやかずにはいられません。「ああ、主イエスよ、あなたはなぜそれほどまでに心が狭いのでしょうか。あなたの愛は、あなたが与えられた人々にしか向けられないのですか。あなたはすべての人々を愛されるのではないのですか」、と。

 しかし、主イエスが言われることは確かに正しいのです。誰でもすべての人々を、ひっくるめて、みな愛する、などと、主イエスは言われません。当然です。愛は、いつも具体的なものです。この人を、そしてあの人をと、いつも具体的な相手を愛します。したがって、だれかが本当に愛すると言う場合には、必然的に、その人の愛の対象からはずれている人がいるのです。愛は選びを伴うのです。無差別に誰でも愛する愛などというものはありません。真実の愛は、選びを伴うのです。ただ、主イエスの選びは普通のわたしたちの選びとは違っているのです。わたしたちの愛は、自分からのほしいままな相手を愛する愛であるのに、主イエスの愛は、父なる~が選ばれた者に対する愛であるという点です。主イエスの愛は、あくまでも、~への従順から出ています。そして~はイスラエルの失われた者を選ばれました。失われた者、これが本日の主題です。それは資格を失った者、自らを誇るのではなく、~の憐れみに頼るほかない者のことです。

 外国人の女性はこのようなイエスの御言葉に、何を感じ取ったのでしょうか。彼女は大事なことに気付きます。それはこの方の人を愛される愛は真実の愛だということです。そして、彼女は、主イエスに対して、いよいよ信頼の思いを深くします。この方は、気休めの慰めの言葉を語るのではなく、まさに真実に愛すべき者を愛する方であることを、確かに認めました。

 それで彼女は叫びます。25節です。

 「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」。この女性の姿を前にして、その熱心にほだされて、こんどこそ、主は御心を和らげてくださるのではないか。ついそのように期待してしまいます。しかし、いま、この女性に必要なのは、何なのでしょうか。彼女の願い通りになることでしょうか。主イエスがこの女性の娘をいやしてあげるということでしょうか。彼女自身は、そのこと以外には思いつかないでいるかもしれません。

 そして、主イエスは、いま、御前にひれ伏している女性には、彼女が望んでいるような小さな願いが満たされるだけでは十分ではない。彼女はもっと大きな幸いを得るところまで進んでいかなければならないと、お考えになります。もし、彼女がこのままもとの状態に戻るのなら、そして、娘が健やかになってほしいという切なる願いがかなえられるのなら、それだけでも、もちろん、彼女は幸せな気持ちになり、喜び、満足するに違いありません。しかし、それでは、彼女の最も魂の深い所が、依然として破れたままで繕われずに残ってしまいます。そして、「これでわたしが願っていたすべてが叶えられた。これ以上、わたしに何の不足があるだろうか」と言い出すでしょう。しかし、わたしたちは、自分が困難のうちにある時にだけ助けを求め、そして、それに答えが与えられてそれで満足する、それだけの者ではないことが分かった時に、そのとき初めて、自分自身を、また、わたしたちの世界を、そしてすべてのことを、新しく、~からの贈り物として受け取ることができるようになるのです。

 そして今ここに、最も深刻な試練が繰り広げられます。26節です。

 「イエスが、『子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない』と言った」。

 子どもたちというのは、イスラエルの民のことです。子犬というのは、イスラエルの人たちが異邦人をさげすんで呼ぶあだ名です。なぜ、主イエスはそれほど辛辣(しんらつ)なのでしょうか。いかにも愛の人であるかのような顔をして、その実、その背後には、何とも憎悪すべきサタンの顔が隠されているのでしょうか。この女性は、このような主イエスの言葉を、一体、どのように理解したらよいのでしょうか。

 主イエスはあくまでも父なる~に忠実であられます。憐れもうとする者を憐れみ、恵もうとする者を恵まれる。完全に自由な~のなさりようにしたがっておられます。~のなさりように対しては、主イエス御自身すら、どうしてそのようであるのかを問うことはできません。ここではただ祈りながら手を指しだし、わたしたちに賜るものを両手にいただくしか道がないのです。自分の方にはまったく何の資格も権利もない。ただ~が下さるものをいただくだけ、そして、そのことを知ってはじめて、わたしたちに何のとりえもないのに、それを一切問うことなく愛してくださる、その大きな~の愛の選びが分かるのです。

 この女性は驚くべきことに、そのことを悟るのです。そして、自分が理解したことを、たいへん素直な言葉で言い表します。27節です。

 「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」。彼女はこう言っているのです。「そうです、主よ。あなたがわたしに言われる厳しい言葉は、みなそのまま真実です。わたしにはあなたの憐れみを受ける資格も権利もまったくありません。しかし、資格がない者にもあなたは憐れみの御手を延べられる方であるとわたしは信じます」この女性の言葉には、暗闇から光の方に向かう何かがあるのです。それを主イエスは看て取られます。そして、主イエスは彼女の辛い人生に憐れみの手を延べられ、最後には、その娘の所に行っておあげなさいと、彼女の身を娘の方に差し向けられました。

 これが、信仰です。わたしたちの方からも、無条件に神の憐れみに身を委ねて行く、そして、そういう大いなる信頼の中で~が御力をふるってくださるのです。28節です。「そこでイエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。』そのとき、娘の病気は癒された」。主イエスはそのように言われます。新しい人生が彼女に与えられます。その光の中では、これまで彼女の家庭を覆っていた暗いかげがみな吹き払われます。~の御前には、悪霊に捕らわれた生活は、もはや存在しません。主イエスの愛と恵みだけを期待する生活が繰り広げられるからです。

 最初のところで、主イエスはこの女性の切々たる訴えを取り上げられなかった。それは、主イエスがただただ~の御声に聞き従うのだから、と申しました。事情は、まさしく、その通りです。人の声のみが喧しく(かまびすしく)響く中でも、~の御声を聞くことこそ、重要であります。その時に、それによって、~なき状態と思えるところでも、~の大きな御力の現れるを知ることができるのです。~の御心に従って行動してこそ、~に新しく生かされる信仰の出来事が起こって来るのです。そこでこそ~がわたしたちに与えようとなさる真実のパン・命の糧・愛の業が何なのかがわかるのです。それは~がご自分を、わたしたちが生きるために、命のパンとしてお与えになること、すなわち十字架の贖いという救いの働きです。立派な信仰とは、これを~の愛の業、救いの業としてしっかりと受けとめて行くことです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神さま。信仰をほめられる異邦人と信仰の薄いことを嘆かれるほかはない主イエスの弟子たち、この対象のなかで、わたしたちは自分たちの思い上がりを思い知らされます。信仰の薄いことと不信仰を主イエスが嘆かれるイスラエル、~の民。しかし、主イエスはそれでも「わたしはイスラエルの失われた羊のところに遣わされた」と言ってくださいます。民の不信仰によっても、あなたの救いの恵みは揺らぐことはありません。~に選ばれたイスラエルと信仰を称賛された異邦人によって、新しい~の民、イエス・キリストの教会が~の救いの約束を受け継ぐ者として地上に誕生し、今もそのようなものとしてわたしたちも集められています。感謝と喜びをもってこの~の召しに応えて歩んで行くことができるようわたしたちを導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「嵐の中に立つイエス」マタイ14:22-33
2023.8.13 大宮 陸孝 牧師
 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書14:25)
 新約聖書で一番重要なことと何かと問われれば、人によっていろいろな答えが出てくるだろうと思います。がしかし、それはやはり、~が人となられたこと。主イエスが救い主として来臨されたこと、十字架、復活、聖霊降臨の出来事です。これは聖書の世界だけのことではなく、宇宙万物、全人類、歴史のすべてを通して最も重大な出来事であろうと思います。

 そして、旧約聖書の中での重要な出来事のうちで、最も重要な出来事は何かと言えば、それは、天地創造の出来事であると思いますが、重要であるにもかかわらず、わたしたちが聖書を読んで、最初に躓くのが、この天地創造でもあるのです。創世記。一週間で宇宙万物を創造された。そして~は土から人間を造られた。アダムであり、そのアダムのあばら骨から女エバを造られた。教会はこんなことを信じているのかと言うことになるだろうと思います。わたしたちが注目しなければならない創世記の主題は~の御言葉による創造と選びです。

 創世記の次に出エジプト記がありますが、ここにある主題は~と人との契約です。この契約に人が従順に従う時に祝福が与えられる。命と自由・開放が保証されるということです。エジプトの地で奴隷のような、捕らわれ状態になっていたイスラエルの民を~の主権において、開放し自由へと導く。この~はその言葉の威力によって、人間の歴史を創造し、歴史に常に働かれる生ける神であります。出エジプトにおいては、~の主権と力がエジプト脱出という出来事に現されます。その際にイスラエルと全人類において記憶されるべき重要な出来事が起こります。過越しという出来事です。出エジプト記12章以下に記されております。エジプトに災いをもってご自身を顕わされる時、イスラエルを過ぎ越されるのです。これは新約では主イエスの十字架と重なっているのです。主の十字架は神が人の罪を過ぎ越されたという意味で、過ぎ越しの祭りと同じこととして理解されるのです。その次に起きた出来事は、紅海が分かれてイスラエルの民が海を渡ったということです。そして、40年の荒れ野でさまよう出来事があります。ここに先週お話ししましたように、天からパンが降ってきました。~のパンであるマンナです。

 この旧約聖書、特に出エジプト記の出来事をよく理解していないと、本日の福音書の日課は十分に理解することができないと思います。先週の福音書のところは出エジプト記の天からのパンと重なります。主イエスは成人の男性だけで五千人の群衆に五つのパンと二匹の魚を祝福して裂き与えて空腹を満たされ、主イエス御自身が天からのパンであることを確認いたしました。それが福音書の証言であり、教会の信仰です。

 そして、本日の福音書の日課は先週の続きで、二つの主題があります。第一は嵐です。そして第二に湖の上を歩くことです。二つは共通した内容を含んでいます。それは信仰です。何に対する信仰なのか?あり得ないことに対する信仰です。つまり奇跡です。しかし、奇跡を信じる信仰を強調しているのかというと、必ずしもそうではありません。奇跡という形で現れたイエスを信じる信仰です。

 マタイ14章22節以下を読みますと、いろいろなメッセージが伝わってきます。五千人の給食の出来事の後として、二つの出来事とそれに対する応答がここの中心的なメッセージであります。その第一が、船の中の奇跡です。嵐の奇跡と言ってもよいでしょう。ここに注目すべき言葉がいくつかあります。「船」「向こう岸」「逆風」「波」です。マタイによる福音書8章23節以下では、やはり船に乗って、向こう岸のガダラ人の地方に行かれる記事が出ています。そこでは激しい嵐が襲って、船が沈没しそうになったとあります。その時、弟子たちの恐怖をよそに、主イエスは、船の中でゆっくり休んでおられる。眠っておられます。この8章の嵐は、本当は地震と訳さなければならない言葉なのです。同じくマタイ福音書27章51節で主イエスの十字架の死の時に、「地震が起こり、岩が避けた」とあります。復活の時、28章2節には「大きな地震が起こった」とあり、墓の石が転がされていたのです。海で地震とは興味深い表現ですが、確かにこの地震という言葉が、ここにあるのです。

 よく、教会は海に漂う小舟にたとえられます。みんなと一緒に小舟に乗って、救いと喜びの港である神の国に向かって進む小さな船です。その船旅は、時に楽しく、乗客である教会員同士、和気藹々として船旅を楽しみます。まだ見ぬ~の国のすばらしさに期待します。船から景色を見ながら、その自然の美しさに時に感嘆し、喜びを分かち合います。

 しかし、よいことばかりではありません。嵐が来ます。激しい嵐、波が高くなり、前に進むこともできなくなり、それどころか沈没しそうになることもあります。狭い小船の中で乗客同士の葛藤や軋轢も生じます。逆風が強いためになかなか「向こう岸」つまり目的地に到着するようには思えません。不平不満、いさかい、恐れが乗客である教会員に蔓延します。いつまでこの逆風は続くのか? 高波は収まらないのか? 夜通し、弟子たちは悩まされます。そういう時に、主イエスが波の上を歩いてこられます。主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。と弟子たちに声をかけられます。(25節)この「恐れるな」という言葉は、旧約聖書でイスラエルの民に一貫して~が語られている言葉でもあります。

 いま主イエスは、嵐の中で恐れている弟子たちに呼びかけられます。それは小舟に乗った教会の群れへのメッセージでもあります。教会にとって、嵐とは時に政治的な弾圧、時代の中での迫害、誘惑、危険のことであります。それに加えて、教会内部においても教会員相互の不信やわだかまり、争いがあります。そういう嵐の中で、信仰者は、キリストを待ち望むこと、なお、~の救いの恵みに与る希望を持ち続けること、~の恵みの力によって教会員相互に赦しあい、助け合い、支え合い、愛し合う。それがキリストの現臨、キリストがいますこと、主イエスご自身が小舟に乗り込まれていることです。その主イエスが言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

 それはわたしたち信仰者一人一人においても同じことです。信仰の生涯、主イエスを信じて喜び、救いにあずかり、~の国の祝福を受けて、信仰の生涯を歩いています。しかし時に苦難、病、試練が襲いかかり信仰という小舟が沈没しそうになることもあります。そういう時に、教会の仲間の祈り、支え、助け合いがあると励まされます。主イエスは前に進まない小舟に近づき、「安心しなさい、恐れることはない」と励まされます。信仰を持った者の生き方、それは人生の嵐の只中でその嵐の試練を受けとめ、その弱さの中で生きようと信仰の決心をした時に、~の奇跡が現れます。今日この礼拝に参加しておられる一人一人の人生の中に、試練、病気、苦難、家族や社会の中での人間関係の悩みを持った方が居られると思います。その自分の人生を~に委ね、信仰の歩みを一歩、踏み出すとき、天地創造の神、命の祝福の~が共に居られることを感じ取ることができると思います。そしてそこに「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」との主イエスのみ声が聞こえ、命と勇気をそそがれるのだと信じます。

 さてそれで、それにペトロが波の上を歩く記事が続くのですが、ここで、旧約聖書出エジプトの所に話しを戻します。出エジプトの奇跡の中で、最大の頂点である海の水が分かれて、水の壁ができて、海の底が乾き、海の底を歩いて向こう岸に渡った記事です。出エジプト記14章21節22節です。(旧約聖書117頁)

 「モーセが杖を持って手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」

 ここに描かれているこの海が分かれて向こう岸に渡っていく出来事と、マタイ福音書やヨハネ福音書、新約聖書で、主イエスが湖を渡るのと象徴的な出来事としては同じこととして重ねられているのではないかと思われます。海や湖はイスラエルの歴史の中で、また旧約聖書全体を通して、自分たちの行く手を遮り、妨げる敵、障害物です。出エジプト記では、~の息吹によって海が分かれ、イスラエルは乾いた地を渡りました。そして向こう岸へ着いたのです。そこは、乳と蜜の流れる地カナンでした。

 そして、時を隔てて、主イエスは 湖の上を歩いて渡ろうとされるのです。ペトロも同じです。ペトロを代弁者とする教会も行く手を遮る波、逆風の中で向こう岸へ行くことができません。ペトロはわたしたちの代弁者です。ペトロが恐れることなく、水の上を歩くことができるように主イエスに懇願します。主イエスは、「来なさい」と呼びかけると、ペトロは実際に水の上を歩きます。それは誘惑であり、魅力的な奇跡です。主イエスのように奇跡を行うこと。人の癒やし、パンで群衆を養い、水の上を歩き、嵐を静める。しかし、それは人間の力ではなく、主イエスの現臨によって、~の力によって起きることです。

 ペトロはしかし、強い風に気がついて怖じ気づき、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして二人が船に乗り込むと、風は静まった。船の中にいた人たちは、『本当に、あなたは~の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。

 あたりを見回すと怖いものばかり、沈みかける畏れをわたしたちは持ちます。試練、苦難、病に合うと弱気になります。孤独、寂しさ、畏れが生じて、人間の限界、信仰の限界を感じてしまいます。でもそんな時でも、そんなときだからこそ、わたしたちは、「主よ助けてください」と祈り、叫ぶことができるのだと思います。そして、主イエスがおられる時に、共に船に乗られる時に、安心して向こう岸に辿り着くのです。ここには教会に集う一人一人の信仰の歩みのことが語られているのです。大切なことは、主イエスと共に向こう岸へ辿り着くことです。向こう岸とは何か?~の国、祝福に満ちた信仰の世界、霊の世界、永遠の命の世界です。これが約束の地、新約のカナンであります。そこで、嵐や逆風、試練、苦難は恵みに変えられることを知ることです。それがわたしたちの信仰なのです。わたしたち皆がともに「本当にあなたは~の子です」と信仰の告白をして、主イエスを礼拝することです。それが目指す向こう岸です。

 お祈りいたします。

 主よ、逆風に襲われて漕ぎ悩むわたしたちのもとに来てください。弱く愚かなわたしたちを通り過ぎないでください。わたしたちが嵐を恐れて怖じ気づくのでなく、主を迎えて信仰の歩みを希望をもって~の国を目指して前進していくことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン。


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「命を養う神の言葉と霊」マタイ14:13-21
2023.8.6 大宮 陸孝 牧師
 「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める」(マタイによる福音書13:47)
 わたしたちの普段の生活の中の一齣一齣で、わたしたちを勇気づけ、力を与え、生きる喜びと幸いを与えて、わたしたちの~の恵みに対する信頼を新たにするものがあることは感謝すべきことであります。それは~の恵みであります。わたしたちの歌う讃美の歌が、祈られる祈りの言葉が、語られる聖書の言葉の1節1節が馴れ親しみ、自明のこととして分かっていることであっても、時に心を打ち、深い洞察を与えられ、深い~の真理と信仰の奥義を示されることがあるのです。そのようにわたしたちの心が動かされる所に~の啓示(アポカルプシス)ヴェールに覆われ隠されていたことが明らかにされ、示されることがあるのです。

 期待していなかったところで、~の啓示と真理を示される。パンの奇跡とはそのようなものではないかと思います。期待していたとしても、その期待はかすかな希望であって、わたしたちの人生を決定的に変えるような、メディア風にいうならば、衝撃的な出会いによる自己変革とはいかないかもしれない。しかし、確かに~の恵みを受け、聖霊の風が吹いて、新しくされる力が注がれるということがあるのです。

 本日の聖書の箇所はイエスのパンの奇跡が行われるところです。有名な五つのパンと二匹の魚の奇跡の物語です。五つのパンと二匹の魚による、五千人の給食、しかもそれは女性と子どもを除いた数であります。女性と子どもを数に入れれば一万人を超えるでしょう。そのような膨大な数の人に、五つのパンと二匹の魚でお腹がいっぱいになるほどに食事を与えられる。しかも、有り余る。そういうイエスがなさった奇跡の出来事の話しです。わたしたちはこのところで多くのことを教えられます。

 13節と14節では、人間が何を求めて~に近づこうとしているのかが分かります。主イエスの行かれるところに、人々はそれぞれの自分の求めを持ってついて行くのです。自分の求めとは何かと言いますと、必要です。それは一言で言えば人生の諸問題の解決です。人生の諸問題の解決ということでは、それぞれの求めは違います。ある人にとっては、生きる意味の問いかけと答えです。ある人にとっては、真理の発見。ある人には病気の癒しです。大学受験、就職、結婚、子供のこと、親のこと、お金のこと、人間関係での迷いと悩み、自分自身の存在の悩み。

 女性と子供を除いて五千人の人たちが、自分の人生の解決を求めて、主イエスについていったのです。主イエスはその人々に応じるように言われます。14節「「主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ」とあります。パンの奇跡は、主イエスのこの人間への愛と憐れみによって起こされます。それは、一人一人の人生の問いへの解決を提供しようとの~の意志であります。それは、恒常的に提供される~の恵みと力の注ぎのことです。人間への憐れみに基づく主イエスの言葉と聖霊の恵みは、一時的な恍惚感、現実の自分を忘れさせ、地に足がつかないようなものではなく、堅実であり、生活の力であり、生身の人間の命の力・糧であるということです。

 19節「群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」。ここでは、隠されていた~の恵みの御業が顕わにされています。人々、特に信仰者に~の真理と真実を示す出来事が記されているのです。これがパンの奇跡の深い意味です。マタイだけではなく他の三つの福音書にも共通して記されているのは、このパンの奇跡だけです。それだけ大切な出来事として教会で記憶され、言い伝えられているのです。

 ここでは、聖餐式で語られる象徴的な言葉が用いられています。天を仰ぎ、讃美の祈り、パンを裂くという言葉です。讃美の祈りは、讃美、祝福、聖別という意味です。ここで、ヨハネ福音書だけはこの言葉を、感謝をささげると言う言葉に言い換えています。これは、後に教会でユーカリストとして聖餐を意味するようになる言葉です。

 主イエスの奇跡は、弟子たちを通して行われました。直接、口を大きく開けて待っている群衆に天からパンが降ってきたのではないのです。主イエスは、パンを裂いて弟子たちに渡されるのです。弟子たちはパンを受け取って群衆に与えます。~は人間を無条件で新しく生かそうとしておられます。人間は罪人です。~から離れているが故に自分を失っている者です。しかし、主イエスの十字架によって罪許され、~に聖別された時から、~の栄光を現すために用いられるのです。主イエスは弟子たちを執り成し手として用いられるのです。~の無条件の愛によって、~と人との仲介者として新しく用いられるのです。ルターがいう万人祭司とはこのことです。

 旧約聖書出エジプト記によりますと、四百年の間、奴隷状態であったイスラエルの人々がモーセという指導者を通して解放され、自由の地へと導かれます。これが出エジプトの主題です。その時、(神の恵みの導きに信頼しなかった)イスラエルの罪によって、荒れ野を四十年間さまようという事件が起こりました。その四十年間の間、何も生み出さない不毛の地、荒れ野に~は天からのパンであるマナを降らせられます。このマナ、天からのパンを食べ続けることでイスラエルは生き続けることができたのです。

 ヨハネ福音書は、そのことを6章31節から35節に言い表しています。そこを読みます。(新約175頁)

 「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです」。すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。~のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」。そこで、彼らが、「主よそのパンをいつもわたしたちにください」というと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」

 主イエスは、この天からのパン、生けるマナ、真実の命の糧としてご自身を提供されるのです。主は切実に求めている人々を救うために、ご自身のはらわたをえぐるような深い憐れみから出た愛をもって、わたしたちの罪を贖い、永遠の復活の命を与えてくださるのです。主が先立って進めておられるその救いのみ業に、弟子たちが積極的に奉仕していく務めをもっていることを明らかに示し、また、その務めをお命じになっているのです。弟子たちに「あなたがたが彼らの食べ物を与えなさい」と命じられた主は、究極的には主が先だってなされる救いのみわざに、弟子たちも奉仕するよう求めておられるのです。

 主の裂かれたパンを弟子たちが群衆に渡したように、主の与えられる御言葉のパンを人々に渡すことをわたしたちにもお命じになり、それを豊かに祝福しようとなさっておられます。わたしたちの抱えている本当の課題は、五千人以上の群衆を前にした弟子たちの困惑にも似たところがあります。子どもたちのために施設を充実させなくてはとか、会堂をもっと機能的に整備しなくては、と言った課題を前にして、一体どうやって200デナリオンもの天文学的な予算を満たすことができようか頭を抱え、その膨大な必要に対して五つのパンと二匹の魚しかないことにがっかりしてしまうかもしれません。しかし、主はそれらを「ここに持って来なさい」とおっしゃいます。そうしてそれらを主が祈りの中で祝福される時に、十分、十二分に満たされることを本日の福音書の日課はわたしたちに教えてくれます。主を信頼して、わたしたちの持てるものを、この世の人々を救う主のご用のために差し出す決意を、主が祝福されるときに、人間の不可能を主が可能にしてくださることがここに明らかにされているのです。

 主は切実に主を求めるわたしたちを、はらわたがえぐられるほどに深く憐れんでくださっておられます。どうかこの主の憐れみに信頼して、もてるものを主の御わざのために差し出し、主の大きな救いの御業にあずかる喜びをわたしたちも共に共有させていただくものとなりたいものです。

 お祈りいたします。

 世界の主なるイエスキリストの父なる神さま。

 真夏の暑い日差しの中この聖日にあなたを礼拝し、讃美するために、このお招きをいただきましたことを感謝いたします。あなたがわたしたちの救いのために御子イエス・キリストをお遣わしくださり、主の深い憐れみの御眼差しの内にわたしたちを捕らえ、わたしたちに溢れるばかりの御祝福を注いでくださることを心から感謝いたします。あなたが弟子たちに主の御わざに奉仕する務めを与えられたように、どうかわたしたちにもその務めを与えて、それを全うさせてください。わたしたちが五つのパンと二匹の魚をあなたに差し出し、御国のわざのためにお用いいただく幸いを分かち合うことができますように、本日いただきました恵みの御言葉が、今日からの一週間の信仰の歩みの中で実り豊かなものになりますように命の力としていくことができますように祝福をお与えください。

 主イエス・キリストの深い御憐れみを信じてお祈りいたします。  アーメン

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