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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年 牧師メッセージpastor'S message



    「心を天に向けて」Ⅱ
 
                      
大宮 陸孝 牧師    


  「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に包まれて表れるでしょう。」           コロサイの信徒への手紙3章1節~4節

 教会の暦では、5月28日のペンテコステ(聖霊降臨主日)を迎え、6月4日は三位一体主日そして、その次の日曜日6月11日から聖霊降臨後主日が11月26日の聖霊降臨後第26主日まで続いて、年度の終わりとなります。ペンテコステは一年の教会生活の折り返し点です。残る年度の後半を新たな思いで進めるに当たり、初代の教会のペンテコステの出来事、聖霊の注ぎによって新たな信仰の歩みをはじめたことを覚え、生活を整え直して年度後半に臨むのです。

 使徒言行録2章1節以下を読みますと、弟子たちや多くのイエスを信じて従って来た人々に聖霊が注がれ、弟子を代表するペトロが、立ち上がって説教を行った後に、その説教を聞いて受け入れ、洗礼を受けた人々が三千人ほど仲間に加わったと記されています。そして「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを割くこと(神の恵みの分かち合い)、祈ることに熱心であった。」と記されています。人々の中に聖霊の働きが起こり、信仰が与えられて、洗礼により救いの中に生かされる人々が生まれた時、彼らは信仰者の群れの生活、教会生活をするようになりました。その教会の信仰生活の様子が43節から47節まで記されています。「信じる者たちは皆一つになって、全ての物を共有にし」という共同生活のことも記されています。

 これは、厳しい迫害と同時に、国を追われるようにして、ユダヤ社会を脱出し、地中海のギリシャ地方、さらにはヨーロッパへと西の方へ移動し、生活様式を変えざるを得なかった、生活原理の大転換をしなければならなかった、そういう事情と関係があるようです。私有財産の放棄を教団が強要したわけではなく、それぞれの生活状況に従って、お互いに支え合い、励まし合う中で、自由にそのようなことが行われたということのようです。言うなれば、今の難民相互支援のようなものであったろうと思われます。

 そのような日々の生活の中で、前回話しましたような、心の置き場所を地上のものではなく、上に置きなさいという勧めがなされていくわけです。今までの生活を棄てて、上にあるものを求めよと聖書は激烈なことを語りますが、その時既に人々の今までの生活は成り立たなくなっていたのです。そして民族的な移動という新しい状況の中で、今までの様々なしがらみ、自分の欲望であったり、恨みであったり、憤りであったり、貪欲であったり、悔いであったり、執着であったり、そうしたものにもはや心を置くことなど出来ない、後戻りできない状況に追い込まれていた中で、聖書は言うのです。「あなたがたは死んだのであって」と。死んだのであればもはや仕方がないのです。地上のもののしがらみから離れるほかないのです。死ねば解き放たれるのです。「あなた方は死んだ」と聖書が言う時何を言っているのでしょうか。

 改めて、上記の聖句を読みますと、1節に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とあり、3節には「あなた方は死んだのであって」と語られています。そして上にあるものつまり、「復活されたキリストと共に在るもの」を求めるのです。復活されたキリストと共にある故郷、復活されたキリストと共に在る自分、復活されたキリストと共に在る御国を求め、そこに思いと志を向ける、そこに生活原理を置く、それができるためには、この地上の罪の現実に死ぬことだ。古い自分、その人生、恨みや悔い、貪欲や怒り、憤り、地上へのあらゆる執着、それらに対して死ぬこと、そしてキリストと共に新しい命に復活させられることに基づいて初めて実現することだと、聖書は語っているのです。

 「キリストと共に」というのは同時にというだけではなく、キリストの助け、力によってです。キリストの憐れみと恵みの内に古い自分に死ぬことが出来た。そして復活させられたというのです。これは同じコロサイ書2章12節にありますように、「洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた」と言われていることです。父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける時に起こる神の救いの出来事なのです。
 

                  2023年6月1日



  「心を天に向けて」Ⅰ
 
                 大宮 陸孝 牧師


「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に包まれて表れるでしょう。」  
       コロサイの信徒への手紙3章1節~四節

 4月9日にイースター(復活主日)を迎え、まもなく、5月28日にはペンテコステ(聖霊降臨主日)を迎えます。上記した聖句は、復活されたイエスに出会って喜びの内に始めた、初代教会の新しい信仰生活について記されているところです。他の人に対する態度や、家族に対する姿勢など、信仰を持って歩むキリスト教生活の根本的な姿勢について勧められているところです。

 まず、「上にあるものを求めなさい」とあり、さらに繰り返して、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言われています。原文では簡潔に「上に思いを向けなさい」という表現です。思いを上に向けるとはどういうことでしょう。

 心が疲れたときには、空を見上げて星や雲を見て、ほっと一息つきたくなる。上を向くと心が晴れやかな気分になり、癒やされた気分になる。斎藤茂吉は精神科の医者であると同時に文学方面にも関心を寄せ、数々のすぐれた作品を発表しています。その斎藤茂吉の有名な句にこんなのがあります。"最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片"最上川の上空にかかった虹を詠んだ句です。作者が見た時には、完全な虹ではなく、消えかかり、切れて断片となっていました。その切れてしまった虹の断片の消えゆく美しさを表現しようとしたものと解釈できます。人の移ろいやすさや刹那的な人生を重ねて見ているのかも知れません。

 しかし、上に記しましたコロサイの手紙では、単なる気分転換に上を向けといっているのではありません。「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられるところ」と記されています。そしてそこからキリストが再び来られるところ、私たちも、キリストに包まれるところです。「上にあるものを求める」とは、つまり、「神の座についておられるキリストを慕い求め、キリストの御国、私たちの真の故郷を求め、キリストと共にある私たち自身の命、キリストと共にある私たちの本来の自分を求めなさい。ということを言っているのです。

 この地上にある自分は本来はあの上にいなければならない存在なのだと言っています。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」私たちの生活の源、命の源はそこにあるのだ。だからそこに心を置きなさいと明確に言っています。

 反対に「地上のものに心を引かれないようにしなさい」とは地上のものから解放されるということです。この世に生きてある限り、私たちには地上のものがからみつきます。この後の五節には地上のものとは「情欲や悪い欲望、及び貪欲」があるといわれ、さらに八節には「怒り、憤り、悪意」といったものが挙げられております。地上のものに捉えられ、心が憤りで一杯になるそういうことも含まれると言うことです。人生で受けて来た傷もあるでしょう。自分自身の過失もあります。自分自身の悔やまれる人生もあるでしょう。しかし、心の置き場所はそうした地上のものではなく、上に心を向ける、本当の自分がキリスト共にいるまことの故郷。そこにこそ思いを向け、そこにこそ心を置きなさいというのです。この心の置き場所を変え、考えや志の向きを変え、生活の原則を転換していくことは決して容易にできることではありません。思うように生きられないままここまで来てしまった人生の悔いからどうしたら自由になれるのか。上にあるものに心を留める。どうしたらそれができるのか。このお話の先は次回にいたします。 

                   2023年5月5日 




「わたしたちは神に贖(あがな)い出された
      神の家族です」
 
                      
大宮 陸孝 牧師    

 
 「イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
        マルコによる福音書3章33節~35節
 
 統一教会の問題が再浮上し、信仰と家族の問題を改めて考えさせられています。今から77年前の敗戦後「家制度」が廃止され、経済発展に伴う都市化と共に労働力を提供する若年層は農村を離れて都市部に流出し、それまで家族をまとめていた生産の場は都市の企業や工場に移り、そこで新たに夫婦を中心とした親子から成る核家族を形成し、さらに他方では高齢化が進み、老齢者のみの家族や独り暮らしの単独世帯も増え続けています。そして一般的な傾向として、離婚率が上昇し、"空の巣症候群"に陥る年配夫婦や熟年離婚も増えています。そのほか多様な家族構成へと展開して行くことになり、事実上家族がばらばらな生活となっていく傾向が強くなっています。そういうこともあってか、家庭内離婚や家庭内暴力、児童虐待など否定的な側面が表面に現れてきているように思われます。

 家族の形態や構造は時代の変化と共に変わります。それと同時に家族の不変で本質的な機能とはなんなのか、愛や信頼を確保し、共に喜びを分かち合い、病気、事故、災害、そして死に際しても家族が身近な支えであり必要であるとするならば、そのシステムをどのようにして保持していくのか、家族システムのそのようなスキル形成(人格形成・教育)をどこに求めるべきなのかをしっかりと再確認することが喫緊の課題ではなかろうかと思うのです。

 イエスの家族との関係を描いている福音書の箇所はそう多くはありませんが、上記の聖句はそのひとつであります。イエスの弟子たる者の道が説かれ、神のみ心を行う者こそ弟子にふさわしく、イエスの家族なのだとイエスは言われます。注目しなければならないのは、ここにイエスの家族が出てくることです。ここに描かれているイエスの家族は、イエスに対して決して好意的に関わっているのではないということです。

 イエスの教えを聞こうと集まってきた群衆の対応に忙しくしているイエスを見て、「身内の者たちは」イエスが気が狂っていると思って、「取り押さえにやって来た」(21節)というのです。そしてもう一つの話しも、群衆がイエスの話しを聞いていたところへ、イエスの母と兄弟たちがやって来て、「人をやってイエスを呼ばせた」(31節)というのです。イエスの母と兄弟たち家族は教えを聞いている人々の中には入ろうとしないで、外に立ったままであったというのです。この時点ではイエスの家族は、イエスの行動とその教えには同調できない、部外者の立場を取っているのです。

 イエスの父ヨセフは温厚で信仰深い人であったようであります。イエスやその他の子たちがまだ小さかった頃に亡くなったと思われます。イエスは母子家庭で青少年時代を過ごし、ナザレで農具造りの大工をしていた父、ヨセフに代わって、若くしてその仕事を受け継いで家計を助け、やもめの母を支え、兄弟姉妹たちにも気を配って面倒を見ていたのです。その生活は貧しいものであったにしても、家族は一つにまとまり助け合い、支え合って懸命に生きてきた家庭であったと思われます。それが今やイエス対母マリアと兄弟たちという対立と緊張関係がこの家に生じている。宗教的なものからこの軋轢(あつれき)が生じている。宗教上の相違から来る対立や違和感はその根が深くそう簡単には和解できるものではありません。

 イエスは神に召され、やむにやまれぬ思いで立ち上がったのです。たとえ自分の母が反対しても思い直すことも後に引くこともしません。かといって自分の家族にも理解されず、受け容れられない運命でもありました。それは神に召された者の宿命的な内的苦闘でありました。けれども、イエスはご自分の家族を忘れたのでも、見捨てたのでもなく、ましてや自分の出世のために家族を踏み台にしたのでもありません。愛して止まなかった彼らへの愛は本物の愛でした。彼らとの小さな血縁の愛情を決して無にすることをしないで、自らのもっと大きな愛で、彼ら(家族)と更に全世界の人々を包み込んだのです。

 十字架の贖いによって全世界の人々を救い出すことが神の御心でした。全世界の全ての人々を神の家族とするために一時源家族を離れただけのことだったのです。後にイエスの家族はそのことを理解し、重要な初代教会のメンバーとなって行きます。

                      2023年3月1日

  

「若い日にあなたの創造主を覚えよ」
 
                      
大宮 陸孝 牧師    

 
 「朝種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれかそれとも両方なのか、わからないのだから。光は快く、太陽を見るのは楽しい。長生きし、喜びに満ちているときにも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように。・・・若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。・・・知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。・・・青春の日々こそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」
     旧約聖書コヘレト11章6節~12章2節

 受験のシーズンを迎え、大勢の若者を見かけます。彼らが喜びの春を迎えることが出来ますように祈ります。昔「大学受験ラジオ講座」を聞いていました時に、単純なメロディーが三回オープニングテーマ曲として流れるのが印象深く心に残っています。この曲は、ヨハネス・ブラームス作曲の大学祝典序曲の最後4番目に出てくる曲で、今では、日本でも大学のオーケストラでよく演奏されているようです。ユニバーシアード(国際大学スポーツ連盟)が主催する総合競技大会では、開閉会式、と各競技の表彰式で、勝者を讃える歌として、この曲が演奏されます。

 この曲は1267年にボローニャの司教ストラーダによって作曲され、ヨーロッパ各国に伝わる伝統的な学生歌となりました。歌詞はラテン語で、歌い出しが"ガウデアームス・イギトゥル"でこれが歌の題名にもなっています。「だから愉快にやろうじゃないか」と訳されます。歌詞は10節まである長いものですので、ヨーロッパの各大学では卒業式などには、この中の1~2節を選んで、壇上の卒業生だけではなく、フロアーの家族も、OBもOGも老いも若きも全員で総立ちになって合唱するのです。

 邦訳の歌詞を2、3節紹介しましょう。

1.諸君、大いに楽しもうではないか。
  私たちが若いうちに
  素晴らしい青春が過ぎた後、
  苦難に満ちた老後の過ぎた後、
  私たちはこの大地に帰するのだから

2.私たちの人生は短い。
  短くて限られている。
  死はすぐにでも訪れる。
  残酷にも、私たちはこの世から去らねばならない。
  誰も逃れられない。

3.先に生きていた人たちは
  いったいどこへ去ったというのか?
  天国へ
  あるいは深淵へ、彼らに会うならば行かねばならない。

 この歌の背景には上記に引用した旧約聖書コヘレトの言葉があるようです。この歌は手放しで青春を謳歌する人間の自己栄化の歌ではないのです。人生を歩み出す若きエリートたちに先ず覚えてほしい。青春から老年のたそがれまで、万人が辿る人生を創造主はずっと恵みの御手の中に包んでいてくださる。その神の恵みの御手に導かれて信仰の道を歩むことこそが命を生きることなのだよ、と語りかけて来るようです。

                      2023年2月1日

 
         
「神の愛を心に宿して」
 
                      
大宮 陸孝 牧師    

 
 「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」                    ルカによる福音書13章18節~19節

あけましておめでとうございます。

 新しい年の生活が始まりました。この時、私たちがまず心を向けなくてはならないのは、この世のことではなく、私たち一人一人の内なる心の動きであろうと思います。この地上での私たちの歩みは常に不条理に揺れ動いています。この世の不条理というよりも私たち自身が常に迷い続けていて、人生はすべて迷いの中にあり、絶えず矛盾に脅かされ、苦悩し続け、それらと向き合い対峙しながら、やがて、明日に向かって生きて行くために必要な、目には見えない霊の力、命の力が与えられていくということが起こっていくのではないかと思うのです。

 紀元前千二百年といえば、今から三千二百年ほど前のことになりますが、エジプトで奴隷状態にありましたイスラエルの民を解放するために、神はモーセを預言者として立てます。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人がかれらを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3章9~10節)

 モーセに導かれてエジプトを脱出した民は、エジプト軍に追跡され、海辺に追い詰められ、風前の灯火となった時に、イスラエルの民は非常に怖れて主に向かって叫び、また、モーセに言います。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、なにをするためにエジプトから導き出したのですか」(出エジプト記14章10節~11節)「非常に怖れて」の絶望の声です。夢も希望もありません。やっぱりエジプトに留まっていれば良かった。どうしてこんな所へ連れて来たのか?足がすくんで一歩も前に出られません。

 そして、モーセは民に言います。「怖れてはならない。落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14章13~14節)つまり、エジプトを脱出し、約束の地パレスティナへ向かう脱出行の旅路、これはみな神様のお仕事なのだ。神様のお約束なのだ、だから神は必ず実現させるだろうという信仰がここにはあります。非常に怖れた人々のつぶやきに関係なく、「おそれてはならない」と言ったことの根拠は神の御力への信頼にあったのです。出エジプトは神に信頼し、すべてをお任せして、神のお言葉に従って行動したから出来たのだというのです。

 この見えない神の約束は必ず成ると信頼して神に従い、この希望に生きること、これは私たちの人生の身近な所でも起こることでもあるのです。モーセがしたように、私たちもあせらず、気落ちせず、神の憐れみと恵みの御手を信じ、信頼し、お任せし、子供たちの成長を待つことが大切であろうと思います。もし、こどもが気落ちするようなことがあったら、慰め、励まし、見えないものへの信頼と希望をもつこと、これが私たち大人が持つべき責任であろうと思います。これは私たちすべての人間にも言えることでしょう。人の心に蒔かれた神の愛の種一粒はやがて神の力によって成長し、多くの実を結ぶのです。

 
                      2023年1月1日


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