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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年12月礼拝説教


★2023.12.31 「救いの約束と希望に生きる」ルカ12:22-40
★2023.12.24 「神の祝福のもとに創造された命」ヨハネ1:1-4
★2023.12.17 「光の預言者ヨハネ」ヨハネ1:19-28
★2023.12.10 「救いの良い知らせの前触れ」マルコ1:1-8
★2023.12.3 「新しい創造の力」マルコ13:24-37
「救いの約束と希望に生きる」ルカ12:22-40
2023.12.31 大宮 陸孝 牧師
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカによる福音書2:29-30)
 ルカによる福音書2章25節から40節は、ルーテル教会においては降誕主日を送った後の最初の主日、つまり降誕後第一主日の聖書日課として用いられることが通例であり、また最もふさわしいと思われます。待降節の間主の降誕を緊張して待ち望み、喜び祝った降誕主日も終わり、わたしたちがまた気持ちを転換して慌ただしく歳末と新年とに備えて行かなければならないという姿勢は正しいとは言えないのではないでしょうか。大いなる喜びと感謝をもって救い主を迎えたものには、旧年と新年という暦の上での区別よりも内面の方向転換、救い主と共なる新たな信仰の歩みをこそ大切にして行きたいと思うのであります。この一週間あまりの短い期間に、降誕と年末・年始の両方を等しく盛大に祝う意味は何なのだろうかと思わされます。これは方向転換の逆戻りではないだろうか、新しいものと古いものとの混同ではないだろうか。日本におけるキリスト教会の歩みはこれまで長い間新年のもつ異教性と戦ってきています。もちろんキリスト者であろうとも、この世の歳末の清算から除外されることはないでありましょうけれども、しかし、そこにも、主の新しい恵みはすでに蔽っているのです。古いものは終わります。しかしその前に新しいものが始まっていたのです。このことは、年の終わりだけではなく、わたしたちの人生の終わりにおいてもまた同様なのです。生きてキリストに出会った者だけが、喜んで平安のうちにこの世を去ることができる、それが時を越えて主の救いに身を委ねて生きるキリスト者の生き方であるのです。

 本日の福音書日課は、時を越えたキリストの救いの恵みの優位性を明らかにしているところであります。それをルカは1章と2章でイエスとヨハネの誕生と幼年期をそれぞれ対比させることによって表そうとしています。ここにはその対応的表現法と呼ばれる特徴が三組含まれています。まず第一は2章21節です。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とありますがヨハネの場合は1章59節〜64節に並行して書かれてあります。第二は二つの主題が2章22節〜38節に出て来ます。まず、神の行為とイエスの役割に関する預言的讃歌が主題となっています。ヨハネの場合は1章59節〜64節にあります。一つ目はルカ2章25節〜38節にあるシメオンとアンナのイエスへの反応です。ヨハネの場合では近隣の人々の反応として1章65節〜66節に書かれています。二つ目は2章29節〜32節のシメオンの讃歌は、明らかに1章68節〜79節のザカリヤの歌に対応しています。第三は2章39節〜40節の「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とありますが、これは1章80節のヨハネの場合の反復句であります。

 この対句を比較しながら読んでわかりますことは、常にヨハネに対するイエスの優位性が強調されているということです。つまりルカが1〜2章で強調して語っていることの一つは、イエスの方が本番であり、ヨハネはイエスの先駆者であるという信仰上の主張となっているということです。

 幼児イエスが両親に伴われて神殿に入ると、そこにシメオンという名の老人がおりました。この名は「聞き入れられた」という意味をもっていますが、新約聖書ではギリシャ語の形「シモン」で記されています。この人物についてはここ以外には記されておりません。物語はこの人物の特徴をのべております。「正しい人で信仰があつく」とあります。その意味は、神の戒めと定めとを落度なく行い。神を恐れる人ということであろうと推測されています。また「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とは、イザヤ書40:1〜2節にありますように、慰めがメシヤの救いに関する言葉でありますから、明らかに来たるべき救い主を待望していたことを示している言葉であると解釈されます。

 つまりシメオンはただ律法を守って、ひたすら過ちを犯すことを恐れて生きる人ではなく、希望の人でありました。そしてまた、「聖霊が彼にとどまっていた」とは、シメオンが預言者であることを示していて、女預言者と明記されたアンナ(36節)と同列に立つと考えられます。神が常にシメオンに語りかけ、シメオンは神の語り給うことを確信していた人でありました。その確信とは「主のつかわす救い主に会うまでは死ぬことがない」という確信です。シメオンはこのことを神から示されていたのでした。シメオンは神殿で幼児イエスに出会ったとき、この幼子こそ、神がシメオンに示され、待ち望んで救い主に違いないと確信します。もちろんそれは聖霊に導かれてのことでありました。シメオンは幼児を腕に抱き、この子のことで神を賛美したとありますが、両親がその幼児を捧げたのに続いて、今度はシメオンが預言者の仕方でこの幼児を神に捧げたということを表しています。

 このシメオンの讃歌は、ヌンクディミティスと言われ、「主よ今こそあなたは、お言葉どうりこの僕を安らかに去らせて下さいます」とのラテン語訳の冒頭の言葉によって名付けられたものであります。イエスの誕生と幼児時代の第三番目の讃歌で、待望された救主を見たシメオンが、喜びの余り歌ったこの歌は、美しさと荘厳さをともなっていて、教会では五世紀頃から、この歌を終歌として礼拝の終わりに唱えるのが伝統となっています。長い間の祈りが聞かれ、待望の時が終わって成就の時が始まったという、喜びの確信が表わされ、また来たるべき方を指し示す厳しい預言者の務めから解放され、平安の中に入れられるとの慰めが高らかに歌われているのです。シメオンはここで、「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)と言っております。救い主を見たことがシメオンにとってはすでに救いを見たということ、つまり救われたことと一つであったのだということです。この時点では救い主はまだ幼子であります。その救いの御業はこれからであるにもかかわらずシメオンはすでに救いを見たというのです。このことばでシメオンは確かに預言者であったと言えるのです。そしてシメオンはその救いは万民のために、異邦人にとってはそれは今まで知らなかった救いの道を開かれる啓示の光であり、イスラエルの民族にとってはそれは、同族民の中から救い主を立て異邦人を照らす啓示の光となしたもうことが限りなき栄光であるのですが、しかし、その栄光とはあくまでも万民を救われる神に帰さなければならない栄光でありますから、イスラエルの民は奢り高ぶってはならないのです。

 そのことを受けて、33節以降で、この幼子がしるしとなって、神につく者と神に背く者との区別が明らかにされると預言しています。「しるし」とはここではまず躓くことを意味しています。躓き倒れることなくして立ち上がることができない。立ち上がる前提としての躓きがある。そのことによって立ち上がる、これこそイスラエルの多くの人々の心にある思い、つまりメシヤを待望する願いが実現するということであります。これは何のことを言っているのかと言いますと、次の35節のことばで更に明確になります。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」母マリヤに投げかけられた峻烈な言葉です。マリヤの心を刺し貫く傷はマリヤの手の中にある幼子の歴史的な運命によって起こります。マリヤもまたその幼子の石に躓きます。その彼女の躓きは、イスラエルの多くの人々を越え、万民の躓きを代表するものでもあります。33節の冒頭に「シメオンは彼らを祝福し」とありました。これは祝福の言葉として言われたものであることを改めて思い起こします。マリアが如何なる苦しみに立たされようとも、このイエスと共に働くことを許されることは神の恵みの意志であり、シメオンの言葉は苦難に満ちたものであっても、神の真実を表す祝福の言葉として教会は受け取るのです。

 36節から38節では、新しい女預言者アンナが登場します。その名は「神に恵まれた者」を意味します。アンナが高齢で敬虔に神に仕える者であることが語られています。これは彼女の偉大さを強調しています。このアンナも幼子イエスを、来たるべき救い主であると認めて、神に感謝し、救いを待望する全ての人に告知するのであります。このアンナの告知によってイエスの救い主であることの真実性が証明されているのです。

 救い主イエスのいますところに必ず証人がいます。シメオンとアンナの全生涯はただキリストを待望し、指し示し、賛美するために捧げられました。そして、これこそ真実の証人の姿ではないでしょうか。わたしたちの人生は個々人においては様々であります。その中で孤独の感情がわたしたちを襲ってきます。事実わたしたちは一人一人孤立し、若い世代から孤立して残されていることを自分に感じているかも知れません。シメオンとアンナはそのような空虚さの中でただ死を待つ老人として孤高に生きたのではなく、来たりたもう救い主への信仰の中で、来てくださる方を待望し、期待し、やがて必ず来るその日を確信している者であることを、力強く証しして生きたのであります。わたしたちが証人となる救い主は今どこにいるのか、罪の深みに降り、小さな幼児となり、更に深く一切の誉れと栄が全く止むところまで降り、罪人と共に、死に行く者の友となりたまいました。わたしたちもまたこの目でこのようなイエスの救いを見るのです。

 お祈りいたします。

 天の父なる神様。この一年あなたは恵みの涙をもってこの世界を潤してくださり、同時に御子イエス・キリストをわたしたちの世界に与えてくださり、あなたの愛で支えてくださり、わたしたちの世界の不安や困難や、憎しみの中にあるわたしたちがあなたが与えてくださる希望を持って生き、愛をもってわたしたちが共に生きる道を開いてくださいましたことを感謝いたします。

 来たるべき新しい年もあなたが与えてくださる真実の御言葉の光に照らされて、その導きに勇気を持って信頼し従って行く信仰の歩みを歩みだして行くことが出来ますように

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りします。   アーメン

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「神の祝福のもとに創造された命」ヨハネ1:1-4
2023.12.24 大宮 陸孝 牧師
「わたしは水で洗礼を授けるが、、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その方はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネによる福音書1:26-27)
 ヨハネ福音書1章1節は、神がわたしたちを救うために人となってこの世界に来られた、それがイエス・キリスト(救い主)であると、救い主イエスの神性を力強く宣言しています。イエス・キリストの「人性」だけを強調することが進歩的で現代的であるかのように思い込む方がいます。時には、神の言葉を取り次ぐ教会の指導者でさえもがそうであるのに驚かされます。信仰者でない者の解釈はそれはそれで良いのかも知れません。しかし、わたしたちは、初期キリスト教の歴史を正しく担い、そのために迫害を受け、生死を賭けた信仰告白の末に殉教した信仰の諸先達は、キリスト教をヒューマニズムのレベルに堕する危険を回避したことに思いを向けなければならないと思います。ヨハネ福音書記者は、ロゴスつまり、イエス・キリストの「神性」をまず第一に告知したのです。教会は宗教改革以降の近代・現代も同じ危機に直面して来ました。しかしそのことに気づかない人が後を絶ちません。相対的な存在を決して絶対化しない視点を持つことは、絶対者が誰であるのかが分かってはじめてできるのです。この点をはっきりと示しているのが一四節であります。この言(ことば)がわたしたちの歴史の中に「受肉」したという、神が人間を救う過去の救済の歴史を示しています。この点について本日は学びます。間にバプテスマのヨハネのことが入っておりますが、これは先週ヨハネ福音書1章19節以下の日課で学びましたので本日は取り上げません。

 まず「言は神と共にあった」という一節の宣言でありますが、イエスという方が如何なる過ぎ行くものによっても砕かれることなく、常に新しい命の力に満ちて、神の本質を持った存在であり続けるという、その神性を言い表しています。そしてその神性とはイエス・キリストが人格的な存在であるということ、そのことをも意味しています。つまり教会にその本質を表される神は人格的な存在である、ということなのです。神が人格を取ってわたしたちのところに降りて来られた救い主イエス、その方が、言葉を持ってわたしたち個々人に呼びかけておられる、つまり、わたしたちはイエス・キリストから神の召し(召命)を受け、それに応答する存在であること、さらに応答する責任があるとの人間理解に通じていくのが、ヨハネ福音書の1章2節のことばなのです。

 神とイエス・キリストが人格的存在であるという宣言は、聖書の示す宗教が、つまりキリスト教が人格の宗教であって、自然崇拝などのシャーマニズム的な宗教ではないということです。そしてさらには、人格的宗教ということは、倫理・道徳(人と人との秩序関係)の根源的な規範を与える宗教であって、お祭りの宗教ではないということでもあります。つまり、神に応答する責任的な存在としてわたしたちはまず神と向き合い神の御言葉を聞き、それを生きて行くことが真の人間としての在り方なのだということになります。そのようにわたしたち個々人はまず神の召しに応答していくそういう人間理解に基づいて、第二のこととして人と人との正しい関係も成立するということになります。そこから切り離された、人間の自己本位の勝手な自己都合による命や人権が主張されるだけであるならば、それは混沌と抗争を招くだけである、ということはわたしたちが歴史の中で繰り返し経験していることであります。これを違う言い方をするならば人間は例外なしに誰でも神さまから祝福を受け生きているということです。ですから、ヨハネ福音書の冒頭の一節から5節までは「人権、いのち、人格の尊厳」の規範をも示しているということができます。

 さらにわたしたちが注目しなければならないのは、イエス・キリストが万物の生成に関与している、というヨハネ1章3節の告知です。神が創造されたこの世界と人間の関係、つまり、自然破壊や生態学的な命の生存の危機が問題となるとき、この世界の創造主である神さまと共に、御子イエス・キリストが、創造の業に関与した存在であるとのヨハネ福音書の1章3節の言葉に注目する必要があるのではないでしょうか。つまり、この世界の創造の出来事においてのイエス・キリストの果たした中心的役割に注目する必要があります。イエス・キリストが、人間以外の自然や生物に対してどのような理解をもったかを考察することが求められるということです。

 そこで考えさせられることは、まず第一に神に造られた全てのものは祝福の内に創造されたということです。ですから、近代・現代の創造の世界の破壊の危機の起源は、近代・現代人が神さまの祝福から逃走したこと、あるいは離反したことにあるということ。本日の文脈でいうならば、神の祝福に応答していないことにその起源は求められるべきなのだということです。創世記3章に、神の祝福を受けて命を与えられた者の堕落の歴史が、天地創造の物語に続いて描かれているのは、その事実の明確な告知なのです。

 今、現代に生きるわたしたちは、何に応答して生きて来たのかを確認しておかなければなりません。特に、十九世紀から二十世紀にかけて多くの知識人が「神は死んだ」と人間の知性・理性に究極の望みを置く思想やイデオロギーに自分の命をかけ、世俗主義を謳歌してきました。可能な限り人間の生から宗教的な要素を排除して生きてきました。その結果が、現在の地球規模の「道徳的危機、モラルハザード」を招来させているのであります。そのことによって人間の理性に究極の望みを託す古い人間中心主義は瓦解したと聖書の信仰に立つわたしたちは認識するのです。とりわけ二十世紀の二つの世界大戦と、その後の東西の対立に起因する冷戦構造の崩壊(全体主義陣営の崩壊)、二十一世紀になって更に規模が拡大している明らかな自己中心的な非人間的行為と、それにまさるとも劣らない資本主義経済の矛盾と地球規模の自然と人間性の破壊行為は、神の創造の秩序に対する明らかな反抗であることが一層明らかとなってきています。結局今までの人間の歴史の中で抱えている問題の全てが、神の座に、神ならぬ存在を神として据え崇めるという疑似信仰の結果なのだということであります。人々が神を神と仰ぎ見る視点を持たない時、その人達が形成する民族・国家やグループは独裁者の恣意的な思いに支配されることになります。この時、倫理・道徳の共通の理解基盤を失い、混沌と闇が人間世界を支配することになります。

 この人間の闇の現実をわたしたちが直視するとき、同時に、しかし光はこの闇の中で輝いている、もう一方の神の救いの現実も見えて来るのです。わたしたちの暗闇の歴史を越えた所からの究極の救いを求めて行く他に、わたしたちの解放はないと認識しなければなりません。そのためにわたしたちは今、神の恵みの言葉の前に召し出されているのです。神の召しにしっかりと応答していくために、教会の礼拝の場に立ち続け、神を神として崇める神礼拝をしっかりと守り、神の言葉をしっかりと聴き、従い続けて行くところにこそ救いが約束されているのです。

 人知ではとうてい測り知れない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

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「光の預言者ヨハネ」ヨハネ1:19-28
2023.12.17 大宮 陸孝 牧師
「わたしは水で洗礼を授けるが、、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その方はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネによる福音書1:26-27)
  ヨハネ福音書の1章1節〜8節までのところでヨハネによる福音書の基本的な考え方を述べています。それは、永遠の神のことばロゴスが具体的なこの世界にあらわされ、「永遠の神の言葉が肉となってこの世に顕された」という主張をしていて、それが今、具体的な人物を通して表され始めたと言うことが語られています。ヨハネ福音書の著者は、これから述べる具体的な事柄というものをまず象徴的に捉え表現しています。ですから、ここに登場する具体的な人物というものを、わたしたちは深く、そして丁寧に読んで、その背後にある意味を問い、それを深く理解していかなければならないのです。

 最初に、ヨハネ福音書の著者は、この具体的な内容を書くに当たって、バプテスマのヨハネを登場させています。それは「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(六節)と述べ、そして「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」と記し、8節に「彼(ヨハネ)は光ではなく、光について証しをするために来た」と述べています。

 その具体化というのが、本日の日課19節以下の物語になっているということです。バプテスマのヨハネが、ここに登場します。そして、エルサレムから来たユダヤ人たちが、いろいろ「あなたはどなたですか」と問います。

 イエス在世時代のエルサレムの宗教的指導者たちはサンヘドリンという議会を持ち、それはここにある祭司やレビ人(祭司階級の人々)によって構成されていましたが、彼らが当時様々な宗教運動に対して神経をとがらせていたことは自然なことでありました。たとえばマルコ11:29〜33を見ますと、彼らがイエスに対し何の権威をもってそのようなことをしているのかを尋問していることが記されています。彼らはバプテスマのヨハネに対しても当然強い関心と不安を持ったのでしょう。イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが大きな問題であり、ここに記されているような言い伝えが作られていたことは納得出来ることです。20節に「あなたはメシアであるか」「キリストであるか」「救い主であるか」と問います。現在のユダヤ人たちも、キリスト者に対して、どうしてナザレのイエスがメシアであるのか、救い主であるのか、と今でも問い続けているのです。

 21節に「あなたはエリヤなのか」という問いがあります。これは『旧約聖書』の一番最後のマラキ書の終わりのところに、救い主が来られる前に、エリヤが来られるという預言があるので、そこから問われています。そしてさらに、あなたは「あの預言者なのですか」と問います。これも世の終わりにメシア出現の前に1人の預言者が現れ、神の国とメシア出現と、それに対する民の悔い改めを述べ伝えるという預言があるからです。(これは申命記18:18が根拠となっています。)あの預言者とはだれのことなのかいろいろと議論がなされるところですが、「預言者エレミヤ」のことではないかとも言われています。これらの問いに対して、バプテスマのヨハネは、23節に預言者イザヤの言葉を用いて答えています。これはイザヤ書40章3節からの引用なのですが、その通りではありません。大分違った解釈をしています。

 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。ここで、このイザヤ書の聖句の意味をどのようにヨハネ福音書の著者はとっているのか。深く読んで行かなくてはなりません。イザヤ書40章3節は、荒れ野で呼ばわる声がある。主の道を備えよ」と書かれています。ところが、ヨハネ福音書の著者は、バプテスマのヨハネが、「荒れ野で呼ばわる者の声である」と言っているのです。これは『旧約聖書」の通りではないのです。ヨハネはあくまで神よりの声、前触れの声、つまり証人としてここに登場しているということになります。バビロン捕囚の民に向かって、荒れ野の声が、間近な神よりの赦しと開放を叫んだように、ヨハネはあくまでメシア・イエスを指さす声なのです。

 荒れ野というのはユダの荒れ野で、あのベタニヤを越して東側はずっと死海にいたるまで、あるいはヨルダンまで、荒れ野が続いています。その荒れ野の中で叫んでいる声を、ヨハネの著者は自由に解釈して、この荒れ野というのは、わたしたち自身の生活ではないか、わたしたち自身のこの世界のことを言おうとしているのではないかとも読めるのです。そしてその次に「主の道をまっすぐにせよ」とありますが、これがバプテスマのヨハネが主張する意味なのだと述べています。つまり、わたしたちは生きる限り荒れ野を歩んで行くけれども、その中に主の道、つまり永遠の道が、垂直に開かれると言っていると解釈できるのです。ヨハネによる福音書のこれからの物語の意味を問う上でこれは重要な点です。荒れ野の世界の中に、主の道が上から開かれて来る。ヨハネ福音書の中には、イエス誕生の物語がありません。しかし、荒れ野の中に永遠の道が入り込んでくる。この事柄は、まさしくベツレヘムの一隅に、永遠の栄光が示されてきたという、クリスマスの物語と同じ意味を示しているのです。

 さて24節は「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」と書かれています。ファリサイ派の人たちはヨハネのバプテスマの行為の中に、そのバプテスマが、世の終わりに現れ、間近に迫っている神の裁きに対し悔い改めのバプテスマを授けるという、メシアあるいは預言者の象徴的な行為に類するものを読みとったのでしょう。これに対しバプテスマのヨハネは内容的に何も説明せず、自分は水でバプテスマを授けるに過ぎないが、後に来られる方イエスは聖霊によってバプテスマを授けると言っています。

 バプテスマのヨハネは、具体的には何をしたのかといいますと、洗礼を授けていたわけですけれども、しかし、ここで彼は「私は水で洗礼を授ける」(26節)と言いました。ヨハネの福音書の中で、水と言えば大変大きな役割を演じています。例えば、このすぐ後のところに、カナで水がぶどう酒に変わる物語が出て来ます。4章のところには、シカルの井戸でサマリアの女が水を汲んでいる風景が出て来ます。そこで、「わたしの与える水は、人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水がわきでる」(4:13〜14)と書かれています。この水は、洗礼における水を象徴しています。バプテスマのヨハネは、水で洗礼を授けていたのですが、その水だけではまだ足らないのだと言っているのです。この後に来られる方が、真実の世界を示されるのだ、と言っています。

 26節で「あなたがたが知らない」と言われております。この知らないというのはあなたがたは神の啓示つまり、聖霊の働きを受けていないし、また受けようともしていないのだからイエスが誰であるのか分からないのだ。わたしも知らなかった(人の力では知ることが出来ない)が、神の啓示(聖霊の働き)を通してそれを知ったのだというのです。これはヨハネ3:1〜8にそのことを説明しています。イエスは人を生まれ変わらせる力を持つというのです。そしてそれは霊(聖霊)の働きによる、人の力ではないというのです。

 パウロも第一コリント書12:3で、誰でも聖霊によらなければイエスを主ということはできないと言っていますが、ここヨハネ福音書ではイエスを世の罪を取り除く神の子羊として知るというのです。この子羊という表現の起源として二つあります。一つは言うまでもなく出エジプトにおいて、子羊をほふり、その血を家の鴨居に塗ったものの家は天使によって過ぎ越され、塗っていないエジプト人たちのすべての長子が殺され、それによってファラオはイスラエルを去らせることに同意したという、イスラエル人(ユダヤ人)の信仰の基礎となっている解放の出来事です。第二は、子羊とは書いてないですが、イザヤ書五三章の主の僕の歌のことです。要するにイエス・キリストの十字架と復活とそれによる罪と死からの人類の解放ということです。このことを心に信じ悟ることは、神の啓示と選び、聖霊の働きによるものなのです。それをヨハネ福音書著者はここで強調しているのです。

 さらにパウロはローマの信徒への手紙の8章15節以下でも、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストの苦しみを共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」こう言っています。この場合「聖霊」というものは、様々な苦しい試練の中にあっても、それを耐え忍ぶ神さまの力として与えられているという意味になります。来たるべき方が聖霊の洗礼をさずけて下さるとヨハネがいっておりますのは、そういう意味の聖霊の働きであります。

 今のわたしたちには、この歴史の中、あるいは自分の地上の生涯において、実にさまざまな試練に打ちたたかれます。踏みつけられます。けれどもその中で聖霊によって、わたしたちは、必ずみ国を受け継ぐことが保証されているのだという励ましを得て、その試練に耐え、忍耐いたしまして、そして義と平和に満ちた見事な実を結ぶ麦として、最後の収穫に与る者でありたいと思います。

 お祈りいたします。

 神さま。現実のこの世の中や、歴史や、あるいは人生は、決して甘いものではなくて、神を信じ、キリストに頼った者にも情け容赦なく様々な試練と鞭とが加えられる場であります。しかし、あなたはイエス・キリストを通して、福音を信じた者に聖霊を与えくださり、わたしたちが神の子であるのだと繰り返して保証してくださっています。また、キリストと苦難を共にするからには、栄光をも相続する共なる相続者であるということを保証していてくださいますので、感謝いたします。

 どうぞ、わたしたちがこのイエス・キリストを信じ、聖霊の洗礼を受けまして、それぞれの歩みを歩んで行くことができますように、わたしたちをさらにイエス・キリストに結び付けてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン

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「救いの良い知らせの前触れ」マルコ1:1-8
2023.12.10 大宮 陸孝 牧師
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコによる福音書1:1−3)
 新約聖書の最初のところには、イエス・キリストの生と死、働きと教えを記した四つの文書がありますが、これらは「福音書」と呼ばれています。その中でマルコによる福音書は、一番早く書かれたもので、紀元六五年ごろに外国人によって書かれたとされています。

 「福音」(原語のギリシャ語で『ユーアンゲリオン』)とは「良い知らせ」という意味で、もともとは、王の世継ぎが生まれたとか、戦争に大勝利したとかいうような、国を挙げて喜び祝うような出来事の告知のことでありました。キリスト教会はイエス・キリストによって全世界に救いが与えられたという告知こそ、世界最大の「喜びの音信(おとずれ)」であると理解し、キリストの救いの宣教を「福音」と呼びました。そして、イエス・キリストの生涯と教えを、単なる歴史の事実としてではなく、神の救いの業として伝えようとして「福音書」が生まれたのです。

 冒頭の「神の子イエス・キリストの福音の始め」という言葉は、この福音書の表題であると同時に、その叙述を主イエスの宣教の発端からはじめることを示しています。第1節でマルコは、自分がこの福音書で伝えようとしているお方が「神の子」であると言い表しています。これは初代のキリスト者たちの信仰告白であり、イエスという人間としてこの世に神が直接に臨まれたということを告白しているのです。「イエス・キリスト」という名称がすでに、このことを表しています。「イエス」(ヘブル語でヨシュア)とは、ユダヤではよくある人名で「主は救い」という意味でありました。それに対して、「キリスト」ヘブライ語では「メシア」)は「油を注がれた者」という意味で、神から任命されて人を救う者、「救世主」を表します。キリスト教会の最初の信仰告白は「イエスは主である」(ローマ書10章9節)でありますが、「主」という言葉は人間の指導者や教師にも用いられましたので、特にその神性を強調する意味で「神の子」と告白されているのです。

 マルコ福音書は、その「福音の始め」として、第一に洗礼者ヨハネの登場、第二に主イエスの洗礼、第三に荒野での主イエスの試練と宣教の開始を記しています。この三つが「福音の始め」であり、それは、主イエスの救い主としての生涯への準備と開始でありました。本日の日課はその中でも特にヨハネの宣教を伝えるものであります。

 洗礼者ヨハネは、主イエスの救い主としての働きの道備えをするという、準備の役を担った人物でありました。イエス・キリストの出現は、二千年前に何の前触れもなく突然起こった、単発的なできごとではありませんでした。人間の歴史は、創造という発端から終末の完成に向かう、神の救いの歴史(救済史)として動いています。キリストの生とその働きは、この人類の救済の歴史の頂点であります。旧約の時代は、救い主の出現に向かう準備の時代でありました。この旧約時代の歴史の中で神の救いを明らかに示しているのが、出エジプトの出来事でありました。イスラエルの人々がエジプトの奴隷となって苦しみ呻いていたとき、神はモーセを彼らに遣わし、奇跡的にエジプトから脱出させ、長途の旅を導いて、ついに約束の地であるパレスティナに導き入れました。また旧約の預言者たちは、神の言葉を人々に伝え、人々が信仰に目覚め、悔い改めて神に立ち帰るように教えたのであります。マルコ福音書1章の2〜3節は、旧約聖書の預言者の言葉(出エジプト23:20、イザヤ書40:3)を引用して、預言者たちが、「荒れ野で叫ぶ声」として、神から迷い出た神の民に、悔い改めて神に帰ることを呼びかけた歴史を描き出しているのです。

 洗礼者ヨハネは、その旧約の預言者たちの最後の人でありました。預言者たちは、神に召し出されたという強い召命意識をもって、神の御心として示された告知を大胆素直に語りました。人々は預言者たちによって良心を呼び覚まされ、神を忘れた自己中心の生活を捨てて、神に立ち帰るように、生活の変革を促されたのでありました。ヨハネもそのような預言者の一人でありました。彼は「荒れ野」に住み(1:4)「らくだの毛衣を着、腰に革帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(1:6)。これは預言者エリヤを彷彿とさせる姿であります。(列王下1:8)ヨハネもエリヤのように荒れ野に裸で行きました。都市生活は外面的に快適な生活であり、美しい衣裳のようなものに心を奪われて、内面には、不信仰、虚栄、権力欲、貪欲、嫉妬、憎悪、破壊的衝動などを包み隠している生活であります。ヨハネは人々に、そのような虚栄の衣を脱ぎ捨てて、裸で神の前に立つように呼びかけたのです。

 ヨハネは「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。(1:4)。「罪」(ハマルティア)とは「的外れ」という意味で、正道からの逸脱の状態であります。「悔い改め」(メタノイア)は、メタが「変える」ノイアが「心」なので「心の方向転換をする」ことを意味します。ですから、軌道をはずれた生活を、人間本来の軌道に戻すことであります。旧約の預言者たち、特に預言者エレミヤは「悔い改め」を「帰る」(シュープ)と言い表しました。軌道をそ逸れて宇宙空間を浮遊しているロケットのように、神のもとから迷い出た人間に対して、もう一度神に「帰れ」と呼びかけているのであります。

 この悔い改めの最初のスタートとして、ヨハネは人々をヨルダン川に導き、彼らに洗礼を施しました。洗礼は当時のユダヤ教においても、斎戒沐浴、水で心身を浄める儀式でありました。主イエスの時代に死海のほとりで修道院生活をしていたクムラン教団でも、水浴の儀式がありましたが、これは度々行われ、ヨハネの洗礼のようにただ一度と言うのではありませんでした。ユダヤ教に入信する場合にも洗礼を授けることがあったらしいのですが、ヨハネの場合には、異教徒ではなく、すでに割礼を受けて神の民であると思われていたユダヤ人もみな洗礼をうけるように要求しました。ですから、これは単なる「みそぎ」のような浄めの儀式ではなく、自分の全生涯を決定的に神に向け、神に捧げるという、一生に一度の決心をもって行われたものでありました。この意味でヨハネの洗礼はキリスト教の洗礼のさきがけと言うことが出来るかと思います。

 ヨハネが立ち上がって人々に悔い改めを呼びかけたのは、最後の審判のときが近づき、神ご自身が裁き主として間もなく来られるという、切迫した思いからであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(1:7)これまでも多くの預言者たちが、神は歴史の導き手であり、歴史の終わりに審判者として来られることを語り、「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモス4:12)と訴えてきました。人々はヨハネの説教を聞いて、いよいよそのときが来たと、神の前に突き出されるような思いで、生活の方向転換を決断し、洗礼を受けたのであります。

 多くの人がヨハネのもとに出て行って洗礼を受けました。マタイ福音書には、その中にファリサイ派やサドカイ派の人たちもいたと記しています。ファリサイ派は宗教的厳格派で、律法の細かい規定を厳重に守るべきだと主張し、サドカイ派は祭司を中心とする派で、儀式執行者らしくきちんと律法を守る人たちです。ともに自分たちは神の選民イスラエルであり、信仰の父アブラハムの子孫で、神の祝福を受ける約束を受け継いでいる、と自負していました。彼らを見てヨハネはしかりつけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などと思っても見るな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイ3:7〜9)

 ファリサイ派やサドカイ派は、われわれはアブラハムの子孫で、神の祝福を受ける特権がある、それを保持するために神の戒めである律法を立派に守っている。だから神はわれわれに目を留めてわれわれを守り、栄光を与えて下さるに違いない、と信じていました。

 バプテスマのヨハネはそれを真っ向から否定します。人間の罪は重く、祝福の約束を押し流してしまう。アブラハムの子孫も異邦人も罪の深さでは同じだ、アブラハムの子孫だからといって思い上がってはならない、というのです。旧約聖書の信仰は、神は唯一だ、我々の神以外の神々は~ではないと言う唯一神信仰とともに、我々は神によって選ばれた民だという選民思想と、我々は父祖に与えられた救いの契約を相続しているという契約の思想を持っていました。ヨハネはユダヤ教のこの思想の消滅をここで宣言しているのです。ヨハネによりますと、神の前ですべての民族は同一で、罪ありと言う点でも同一です。バプテスマのヨハネはここで、選民の思想と契約思想を廃棄したのです。これは旧約信仰の終わりを意味しました。

 ヨハネは「わたしは水であなたたちに洗礼を授けるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(1:8)と教えました。水による物理的な洗いに止まらず、水を媒介とする神の霊によって、心にも体にも神が直接に触れられるというのです。ここはマタイ福音書やルカ福音書では、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3:11〜12、ルカ3:16〜17参照)となっています。そうするとここで聖霊と火の洗礼といっているのは、最後の審判のことであると思われます。農夫は収穫のときに、脱穀場で穀物の穂を打ち、それを箕に入れてふるい、実と殻を選り分け、実を倉に納め殻は火で焼きます。人間も最後の審判のときに、善人と悪人とにふるい分けられ、悪人は永遠の滅びに投げ込まれる。このように、洗礼者ヨハネの語った神は、罪人を裁いて罰する、厳しい審判者でありました。

 ヨハネは旧約の終わりを告げ、新約のはじまりの道を切り開きました。ヨハネは 自分の後に、審判者として神御自身が来られると預言しました。ところが、このヨハネの先駆者としての準備の後に、時が満ちて神の子として来られたイエス・キリストは厳しい審判者ではなく、むしろ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう」(マタイ11:28)と、人々を迎え入れ、包んでくださる方でありました。人の受けるべき審判と刑罰を、人間に科するのではなく、むしろ人に代わって自分が引き受け、十字架について死んでくださったのであります。罪人を裁き罰する審判者ではなく、すべての者を救う神として来られたのであります。洗礼者ヨハネが彼なりの理解で預言したイエス・キリストは、実際は自分が審判を受ける審判者でありました。このイエス・キリストは2000年前に来られた方でありますが、ヘブライ人への手紙が告げるように「昨日も今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ書13:8)であります。(新約419頁)

 ヨハネは人々を荒れ野に導き、虚飾の衣を剥ぎ取って、裸で~の前に立たせました。イエス・キリストは人々を荒れ野に放置するのではなく、ご自分の命と救いを与えてくださり、わたしたちを生まれ変わらせて神の国の民として、神の国の基礎を据えようとわたしたち一人一人に臨んでいてくださいます。

 お祈りいたします。

 神の子イエス・キリストの到来と共に、神の国の建設のわざが始められました。主イエス・キリストの十字架と復活によって人間に救いの道が開かれ、神の国の基礎が打ち立てられました。神の恵みのこの礎の上に、わたしたちの生活を築くことができますようにわたしたちを導いて下さい。

 贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン。

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「新しい創造の力」マルコ13:24-37
2023.12.3 大宮 陸孝 牧師
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコによる福音書13:31)
 マルコ福音書13章は全体にわたって、人の子の来臨を語っています。その将来に起こる事実とはこの世が終わるときに人の子が来られるということです。「人の子」はもともと単純に一人の人を言い表す言葉で、福音書ではじめて定冠詞付きのメシアの権威ある称号として用いられることとなります。その「人の子」はイエスご自身を指し、その意味は大きく二つに分けられます。ひとつは苦難のイエス(マルコ8:31、9:31、10:33、45)、もう一つは、ダニエル書の影響を受けて成立した審判者として来臨するイエスです。(8:38〜9:1、13:26)。そしてその場合、その審判はイエス様が宣べ伝えた~の国の到来の宣教に対する、今ここで取る態度によって決定されるとして、わたしたちの現在のあり方をもう一度問われることとなります。(マタイ10:33)

 マルコ福音書がイエスさまのキリストとしての生と死の意味をわたしたちに分かりにくいこのような終末論的な表現形式を敢えて導入した背後には、初代教会の「終末遅延」を巡る深刻な問題がありました。パウロは、切迫した終末を信じていた使徒たちが次々と殉教するという現実に直面し、終末はすぐに来るという急進的な、または熱狂主義の過ちを正すために、健全な「未来的」な終末論を主張し、「落ち着いた生き方を追い求め、自分本来の仕事に打ち込みなさい」と進めています。(一テサロニケ4:11、13〜18)、マルコでも同じような問題状況と同じような主張をしていると見ることができます。

 13章5節からの長い言葉は「気をつけなさい」という言葉ではじまり、「目を覚ましていなさい」で締め括られます。こうした戒めの言葉、それに類した命令形で記された勧告が要所要所で繰り返されます。最後に置かれた二つのたとえ話、特に最後のたとえ話(32〜37節)によって世の終わりに向けてのわたしたちがどのような信仰の備えをしていくことが大切なのかを、物語の形式で印象深く示されます。イエスはこの長い説話を通して、世の終わりについて哲学的な関心を呼び起こそうとしているのではありませんし、終末までの工程表を示そうとしているのでもありません。むやみにあおり立てて不安や恐れを抱かせようとしているのでもありません。また反対に安心させようとして語っているのでもありません。わたしたちが最初の信仰を最後まで堅く保って救いに至るように勧め、励ましているのです。(13節)この点ではヨハネ黙示録をはじめとして新約聖書の終末論の基本的なとらえ方がここにもあるといってよいと思います。

 このような信仰の備えの勧めを正しく聞き取る上で重要なこと、それは世の終わりを決定的にするものが何か、それを捕らえることであります。マルコ福音書では「人の子」の来臨がそれに当たります。なにやら暗い事件や天変地異が続きその延長線上で一切が滅亡するという終末が成就するのではなくて、人の子の到来が全ての古い世界に終止符を打つということです。24節から25節で描かれている創造世界の崩壊は「それらの日」の最終段階であります。始まりは一四節にありますように「憎むべき破壊者が立ってはならないところ立つことであります。これは異教の~礼拝が神殿に持ち込まれるというような闇の力の支配の結果、「創造の始めから今までなく、今後も決してないほどの苦難がユダヤにもたらされるいうことであります。冒涜と罪の力は、そこで勝利するのか、その支配はなおも続くのか、そうではない。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。このような被造世界の崩壊とは、闇と罪の支配が、支配下にあるものもろとも崩れ去るということであります。そのような仕方で~に裁かれるということです。世の終わりとは、このようにして、罪に支配された古い世界に終止符が打たれることに他なりません。「人の子が・・・来る」(26節)これが本日の福音書の日課の中心点である事は先程も申しました。この人の子は主イエスのことです。救い主イエスはその十字架の苦難と死によって罪の問題に解決を与え、その甦りによって人間に義と命をもたらしました。ですから、キリストの来臨は罪と死に支配された古い世界の終わりであり、わたしたちの救いの始まりを意味するのです。

 28節以下を見てみます。主イエスはいちじくの木に目を留めます。オリブ山に茂っているオリブの木が年中緑であるのにひきかえ、いちじくは冬に全く枯れたようになり、夏が来ると青々とした芽を吹き、季節による変化が著しいので、人の目を惹くのです。

 いちじくの枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかります。それは誰にも平易に分かる時のしるしでありますが、そのように、これらのことが起こるとき、それを前ぶれとして主が来られるというのです。ここに一つの疑問が出て来ます。主はどうして「いちじくの葉が枯れ落ちたならば、冬が近い」というたとえを用いなかったでしょうか。終末に主が来られるというしるしがあるというだけであるならば、夏ではなく、冬でよかったし、そしてちょうど今わたしたちが冬に向かおうとしているこの時期から言っても、万物が凋落する冬のほうがもっとふさわしいたとえであったと言えるのではないでしょうか。しかし、主イエスは、終わりの時をたとえによって示す場合に、冬よりも夏に、木々が立ち枯れすることよりも、繁茂するたとえを用いられます。

 このたとえによってわたしたちは、旧約聖書で、終わりの日を、収穫の日の喜びの叫びや、ぶどうを酒ぶねで絞る歌声によって象徴しているところを今思い起こします。主イエスにとって終わりの日は、悲しむべき裁きの日ではなく、喜びの日なのです。盛んな夏のような充実の日なのです。冬が去れば人々は活動的になりますが、終末はわたしたちにただ沈潜や断念だけでなく、積極性をもたらします。そして、その喜ばしい日を告げるしるしは何だったかと言いますと 、それは、かつてだれも知らない、また予想もしなかったほどの、苛烈な苦しみでありました。ところがそのあってはならないと見られるほどの艱難が、夏の近いことを告げる喜びのしるしにたとえられるのです。それですから、その苦しみの中で、もっと大きい最後的な苦しみを覚悟しなさい、と言うのではありません。苦しみは大きいけれども、それは喜びの前ぶれにほかならない、と言われているのです。そういうことですから、これらのしるしをそのように喜ばしく受け止めるためには、主の御言葉に対する信頼が必要となってきます。その御言葉について、あとで三一節に、これは滅びることがないといわれます。見た目には全てが不幸で、破滅的であります。しかし、不幸も破滅も過ぎゆくものであって、過ぎ行かないただひとつのもの、それはキリストの御言葉であり、わたしたちはそれを誇りとし、新しい命の力とし、喜びとし、希望とするのです。

 終わりの日を、恐るべき日、~の怒りの日と考えている人が多いと思います。それは一概に間違っているとは言えません。~を恐れることを知らない不敬虔よりは、恐れる方が正しいのです。しかし、ただ恐ろしいと考えるだけでは、信仰とはいえないこともまた事実です。サタンもその日を恐れています。わたしたちは恐れに喜びを加えなければならないのです。~の怒りを認めるだけではなく、~はすでにキリストの十字架の恵みのわざによってわたしたちを赦し、わたしたちと和解して下さっていることを知らなければなりません。この決定的な救いを信じて歩むのが信仰であり、希望であり、愛なのです。

 今日の教会も危機の時を迎えています。日本の教会の伝道の不振が語られています。いろいろな機会に「このままだと教会はどうなるのでしょうか?」と耳にします。その気持ちも分からなくはありませんが、しかし、どうもその語り方は、聖書の語り方とは違っているようです。「わたしの言葉は決して滅びない」。今、語られるべきはこの主の言葉ではないでしょうか。わたしたちが教会を守らなければならないのではありません。わたしたちがどのような危機的な状況の中にあっても永遠に過ぎゆくことのない~の言葉が、教会を立たせ、教会を守るのです。マルコによる福音書の教会も迫害の危機の中にあって、この主の言葉を聞き、力強い励まし、約束を聞き取って立ち上がって行ったのです。主は「決して滅びない」と言われます。この「決して」という強い断言は、何があろうとという意味であると共に、わたしたちがどう思おうと、どんなに揺れ動こうともということでもあります。この主の断言をはっきりと聞き取る時に与えられる励ましと希望と喜びは大きいのです。パウロはここから「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんなことをも感謝しなさい。と言ったのです。」(Tテサロニケ5:16〜17)滅びない~の言葉に立っているからこそ言える言葉です。

 お祈りを致します。

 わたしたちの世に新しい天と新しい地を実現してくださるために、再びおいでになる主イエス・キリストの父なる神様。

 本日もこの一週間の初めの日にこのようにして、あなたの御名を褒め称え、御ことばの豊かな養いに与る礼拝の集いにわたしたちをお招きくださり、「わたしのことばは決して滅びない」という主イエスの言葉の確かさにしっかりと人生の土台を据え直して歩む新たな信仰の歩みに導いてくださいましたことを感謝致します。

 どうか悲しみの中におられる方々、病との戦いの中で疲れておられる方々、看取りの方々にあなたの深い慰めと励ましを与えて、悲しみを喜びに、涙をあなたへの賛美に変えてください。あなたの愛による創造の力によって、全世界のあなたの教会の群れがあなたの御業を行う器として用いられ、あなたの御旨がなしとげられ、この世に平和が実現しますように、

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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