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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2024年10月礼拝説教


★2024.10.27 「命の主に立ち帰る」ヨハネ8:31-38
★2024.10.20 「愛によって仕える自由」マルコ10:35-45
★2024.10.13 「命の主であるイエスに従いなさい」マルコ10:17-22
★2024.10.6 「神の招きのもとに立つ」マルコ10:1-16

「命の主に立ち帰る」ヨハネ8:31-38
2024.10.27 大宮 陸孝 牧師
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書8章31-32節)
 日のヨハネ福音書日課の直前の8章30節で「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とマルコは報告しています。この30節は大変重要なことを語っています。といいますのは、このようにイエスを信じた、しかも2章23節や7章31の場合と違い、イエスの奇跡を見て信じたのではなく、7章12節以下イエスの、特にユダヤ人に対する厳しい言葉を聞いて、それでもイエスを信じたと言っているのです。そのように多くの人たちが、イエスを信じたのに、その彼らがやがてイエスにつまづき、8章59節によればイエスに石を投げようとするに至るのです。このことはヨハネ福音書が書かれた時代、一世紀終わりか二世紀始めのころと二重写しになっていて、特にその時代のユダヤ人のキリスト教信徒のことを念頭に置いて彼らにも問いかけている言葉であるように思われます。恐らく一時信仰していた多くのユダヤ人キリスト者は、当時のユダヤ教によるキリスト教への反論、迫害、イエスのメシアであることの否定などによって動揺し、信仰を捨てるに至る者が多く出たと思われる、その人たちに対しても本日の日課のイエスの言葉は投げかけられていると見ることが出来ます。

 本日の福音書日課で展開されているのは、イエスとユダヤ人たちとの論争です。この部分は一つの単元として段落をなしてはいますが、前後の脈絡からすれば、30節から59節までが内容的にまとまっていると見ることが出来ますが、しかし日課として与えられている部分も一つの単元として一応のまとまりを持っていますので、それを中心に学んで行くこととします。

 31節「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とありますのは、前の節の「多くの人々がイエスを信じた」を受けています。ところがこの「イエスを信じたユダヤ人たちに対して、イエスは45節以下で、「あなたたちはわたしを信じない」「なぜわたしを信じないのか」と、彼らの不信を責めておられます。つじつまの合わないこの矛盾をどう考えたらよいのか。ユダヤ人たちが態度を変えたのか、それとも、イエスの対話の相手が途中で変わったのか、真相はどうなのだろうか。ここでヨハネにおいての〈信仰〉および〈ユダヤ人〉について省察して行くことがこの矛盾の解明の手がかりとなります。

 ヨハネ福音書の中の〈信仰〉の諸相を見てみますと、信仰に対するヨハネの評価は必ずしも一様に積極的になされておらず、ときには否定的に受け止められている〈信仰〉もあることに気づかされます。たとえばしるしを見て信じた人たちをイエスは信用されなかった(2章23節)、ファリサイ派をはばかって公に告白をしなかった信仰(12章42節)、見るまでは疑っている実証主義の信仰(20章29節)などですが、本日の日課に登場するユダヤ人たちにしても、その信仰はまことの信仰ではなく、ただ一時的に感激して同意しただけ、という信仰ではなかったか、いわゆる軽信、・薄信・盲信の類いの信仰で、しかも、このような人たちの信仰には、当のイエスを殺そうと謀る悪魔的な反抗が秘められていました(8章37節)。つまり、冒頭の「イエスを信じたユダヤ人たち」と末尾の「イエスを信じないユダヤ人たち」とは同一人物であって、〈信仰で装われた不信の徒〉こそ、イエスが対峙された論争相手だったということになります。

 そのユダヤ人たちにイエスは、本当の弟子になるとは、イエスの言葉に「とどまる」ことであると宣言します。「とどまる」という言葉はイエスと神との関係を示唆していて、イエスは神であるという信仰告白のことを言っていることになります。「とどまる」はヨハネ福音書の中で多用されていて、「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない」(5章38節)など弟子としての資格をあらわす重要な言葉となっています。イエスの言葉に「とどまる」とはちょっと軽く信じるということではなく、イエスの言葉によって自分の命が根底から支えられ続けることを意味していることが明らかとなります。

 32節 ヨハネ福音書では、「エゴー・エイミー」(わたしは・・・である)という言い方でイエスが神的な権威をお持ちの方であることを言い表しています。たとえば「わたしは世の光である」(8・12)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14・6)などがそうです。イエスに留まるとき、そこで「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とイエスは言われます。ヨハネ福音書はギリシャ語で書かれていて、ギリシャ語で真理はアレーセィアと言いまして、それはおおいを取り除くと言う意味になります。ギリシャの哲学者たちは、人間の感覚というおおい(ベール)を取り除いて理性の眼でもって見るときに本当のものが見えて来ると考えました。そして、ヘブライ人にとって、このアレーセィアに当たる言葉はエメスと言って、真実と訳すべき言葉で、神の真実を指す言葉です。この神の真実の言葉を、旧約では、人は預言者の言葉を通して聞くと考えました。ヘブライ人にとっては(神の言葉を)聞くことが根本的に大切なことであり、ギリシャ人にはベールをはがして本当のものを見ることが根本的に大切なことでした。ヨハネはそのヘブライの伝統に立ちながら、同時にギリシャ的なものをも取り入れて、「神の言葉を聞く」だけではなく、神の言葉が肉となった姿を、あの実在したイエス・キリストの十字架と復活の姿に見ることを言っているのです。

 イエスの言われる真理とは、客観的な真理ということではなく、イエスを通して示される神の啓示のこと、神であるイエスのことで、真理を知るとは、イエスに啓示されている神と深く人格的な関係を切り結ぶことを意味しています。そしてそのことによって「真理はあなたたちを自由にする」出来事となるのです。イエスにつながることによって、わたしたちが神との関係性を回復し交わるときに、神の真実の愛と命に捕らえられて本来の人間性を回復し、今まで縛られていた自己中心性、自己正当化、責任転嫁という人間性喪失から解放され、根源的に自由にされると、大変重要なことを語っているのです。真理の内実それはイエス‥キリストのことであります。

 33節 ユダヤ人は当然のことながら「自由」という言葉を奴隷からの自由と理解していました。そして、イエスの意味するところを聞くことよりも、自分たちの出自を持ち出して自己正当化を図ろうとします。アブラハムの共通の末裔であるイスラエルの民の間にはユダヤ人に仕えるユダヤ人の奴隷の存在など考えられませんでした。しかし、史実からすればユダヤ人はエジプト、バビロン、そしてローマのでの奴隷状態を経験していますので、この自己正当化はユダヤ教が成立して以来、アブラハムの子孫として神の律法を守り、たとい国家権力に従属したとしても、自らを奴隷とは認識していなかったのです。安息日を覚え、礼拝を守って来たのです。思想・信教の自由を、弾圧されても自分たちはその自由を失わなかった。自分たちの内心の信仰の自由を貫いて来たとの自分たちの持っていた自負からの発言でありました。イエスとの間には大きな理解のずれがあった。それがここで明確になります。

34節 「はっきり言っておく」と、イエスは重要な発言をされるときに度々用いられる表現で、ユダヤ人たちのプライドを理解しながらも、自由ということが罪からの解放を意味していることを示されます。罪の奴隷とはユダヤ人の出自によるものではないことをはっきりと語られます。ヨハネが語る罪とは、単に道徳的な罪を指しているのではないことを、8章12節で語られています。律法を守っているから自由だ、潔白だと主張するユダヤ人に対して、すべての人は罪と死の支配から逃れることは出来ない、すべての人はこの意味で罪の奴隷であると、イエスは示されます。その罪とは神から離れている状態のことを言っているのです。

 マタイ福音書8章10節から12節に、異教の人がイエスから救いに与った時、信仰告白をしたのですが、「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」。これは、自分たちはアブラハムの末裔だから、自動的に救いに与れると思っていたけれど、それは間違いであるということを言われているのです。ヨハネ福音書の8章34節では、主イエスは、民族や国家の系譜、繋がり、人間の系譜というのは、神の子となる為の基準・規範にはならない、ということをはっきりと告げているのです。「はっきりと言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」ここで、罪の奴隷というのは、血統に因らないということ、そして、罪からの解放はイエスによってもたらされるとの宣言をされておられるのです。

 35節〜36節 イエスの時代は常識として奴隷は同じ家にいつまでもいることはまれで、通常、他の家に売買されて行きます。罪の奴隷も同様にアブラハムの子孫としての出自に関係なく、売り渡されることがある。しかし、その家の主人の子はいつまでもその家に留まることができる。家の主人と同様の神の権威を持つ子とはだれのことか。ここでは、イエスを「神の子」と言い表すフイオスを用いて、信仰者を指す場合のテクナ、人間的な親子関係の意味と区別しています。この神のみ子であるイエスによってのみ、わたしたちは罪からの赦し、救いが与えられる「本当に自由な者」となると語るのです。罪から解放する力は、そして死から解放する真の命は、ただイエス・キリストの十字架と復活の真理にのみあると主張しているのです。

 子の持つ権威によることであるとは、イエスの主権者としての自由に基づく自由な意思、自由なみ業によってもたらされるものであり、それゆえ、ここで言われている自由とは、人間が神に逆らい、神なしに自分で獲得しようとする自己栄化の自由ということではなく、神から人間に授けられる賜物であり、恵みであるという意味です。

 37節〜38節 イエスはユダヤ人が血筋や出自からすればアブラハムの子孫であることを承認しますが、しかし、実際にはイエスの言葉を受け入れず、イエスの言葉に留まらず、最終的にはイエスを殺そうとしていることを厳しく指摘します。ここでのユダヤ人とイエスの主張の食い違いは、イエスの父は神であることに対して、ユダヤ人の父はアブラハムであることです。「わたしが父のもとで見たこと」という神なる父からの権威と、「あなたたちは父から聞いたことを行っている」というモーセが神から与えられた律法を行うことによって神の民であることの継承を主張することの違いを明らかにしているのです。

 ここでは、かねてからのイエスとは誰なのかという問いが、ユダヤ教の枠組みを超えて「真理」として提示され、イエスは神であると宣言されています。この主張の背景には、一世紀末のヨハネの教会とユダヤ教の会堂との分裂、対立状況が繁栄されています。この分裂は一世紀末にユダヤ教側で開催されたヤムニヤ会議で決議された、会堂でイエスをキリストと告白する者は公式に会堂から追放され、異端とされたことが挙げられます。この論争を通して当時のユダヤ人が直面した会堂に残るか、イエスをメシアと告白して、会堂を去るかという二者択一の痛みの中にあるユダヤ人に対して、イエスが神であることの再確認とイエスの言葉にとどまり続けることを促しているのです。

 そうした中でイエスが示そうとされているのは、人間存在の根底にある内面の罪の問題でありました。それはユダヤ人に限られた問題ではなく、わたしたち一人一人に投げかけられた問いでもあります。真理とはなんであろうか。ヨハネ福音書は真理とはイエスご自身であることを伝えます。わたしたちがイエスの言葉にとどまる時、神に起源する愛のはたらきによって、神との生きた交わりと関係が回復し、そこに自由が生まれる具体的な人間解放の出来事がわたしの内に起こると言われているのです。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とどまるという言葉には、続ける、生きながらえるという意味も含蓄されていますので、「わたしの言葉に生き続けるならば」という訳でも成り立ちます。ヨハネ福音書13章34節、35節にはこのように記されています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。主イエスの言葉はわたしたちを癒やし、慰め、生かし、喜びを与え、わたしたちを愛の業に押し出す言葉です。しかし、それはわたしたちに要求し、束縛する命令ではなく、祝福し、助け、わたしたちを本当の意味で自由にする恵みの言葉です。信仰とは、信頼を持って、このイエスの御言葉に生き続けることです。

 お祈りします。

 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝わたしたちは宗教改革を覚えて記念礼拝をささげております。わたしたちは弱く躓(つまず)くことの多い者であり、また人を躓(つまず)かせる者でもありますが、そのようなわたしたちを、あなたは真実の御言葉をもって守り、導き、生かしていてくださいますから心から感謝致します。

 どうかわたしたちの毎日の生活が、たえず悔い改めて、あなたに向き合い、ただただ主のみ言葉に聞き従う信仰の決断をして、あなたの救いの完成を待ち望み、あなたが栄光を持って再びおいでになる日を待ちのぞむことができますようにわたしたち一人一人を導き、支えてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン
  
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「愛によって仕える自由」マルコ10:35-45
2024.10.20 大宮 陸孝 牧師
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」(マルコによる福音書10章45節)
 本日の福音書の日課は先週の日課の続きです。先週の日課には三回目の受難予告がなされていたのですが、説教では取り上げませんでした。エルサレムに近づいての三回目の受難予告はイエスの受難がいよいよ現実味を帯びてきて、受難の場所もエルサレムと特定されます。最初の受難予告の直後と、二回目の受難予告の直後には、弟子たちの無理解を示す物語が繰り返し示されていますが、この決定的な受難予告である第三回目の予告の直後には、さらに弟子たちの無理解を強調する物語が記されています。本日の日課はこの受難予告の直後とは思えないような要求をするゼベダイの子のヤコブとヨハネの、弟子としては殆ど絶望的な姿が描かれています。

 この三回目の受難予告は、一回目と二回目の受難予告に比べて描写がより具体的で、さらにイエスが先頭に立ってエルサレムへ上って行こうとする姿に、弟子たちはただならない緊張と恐れを抱くのです。しかし、それにもかかわらず、このヤコブとヨハネはイエスに対して「一人をあなたの右に、一人をあなたの左に座らせてください」(10・37)との要求をするのです。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(10・41)イエスの受難予告にもかかわらず、何という要求かといって腹を立てたのではありません。自分たちを差し置いて二人が抜け駆けしたことに腹を立てたのです。こうして繰り返されるイエスの受難予告の直後の、弟子たちの絶望的な無理解な振る舞いが繰り返し記されているのです。

 カール・バルトはこの箇所の説教で、「そこでは、イエスが一つの境界線を越えたもうたのである。こちら側の土地は、あちら側の土地から、鋭く明瞭に分離されている。イエスは、この境界線を越えたもうた」と語ります。イエスの受難と復活は、人間の世界と神の世界の境界線で起こる。だからイエスの受難は人間の目には人間の悪の現実の結果としか見えない。「向こう側」の世界のことは、こちら側から、人間の目からは見通すことはできない。イエスの受難という同一のできごとが、人間の悪の現実の結果であると同時に神の救いの計画であることは、向こう側からの光が差し込んで来なければ、決して見えて来ない神の側の事実である。イエスはこの境界線を越えて行く。それが、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」(33節)というイエスの言葉の意味だ、と語ります。イエスの誕生もあちら側からこちら側への越境であった。それがヨハネ福音書が一章で語っている受肉ということでありました。

 苦難と復活によってイエスは人間には不可解な境界線を決定的に超えて行こうとされます。イエスはこちら側の世界の重荷を一身に担い、「ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えて来ることもできない」とアブラハムが語る「大きな淵」(ルカ16・26)を超えて行こうとされる。そのことは弟子たちにもまだ理解できていない。イエスがここで同時に語っている「復活」の光に照らされて、初めて、その神の真実がわたしたちにはっきりと示され、理解できるようになるのです。イエスが「わたしたちはエルサレムへ上っていく」と語ってくださっていることに希望がある、つまり境界線を越えるのはイエスと共なる「わたしたち」なのだということです。

 さて、三回目の受難予告の直後にゼベダイの子ヤコブとヨハネが「進み出て」つまり押しかけて行き、直談判をします。「先生お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)それに対してイエスは「「何をしてほしいのか」と尋ねます。この後の46節〜52節の「盲人バルティマイの癒やし」、バルティマイに「何をしてほしいのか」(51節)と問いかけています。イエスは彼らの本心を聞き出しておられるのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)その弟子たちと、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)と言われたバルティマイとの対照に、弟子たちの無理解への厳しい批判を見ることができるように思います。

 ヤコブとヨハネは自分たちの栄達についての言質を取ろうとします。イエスが栄光の座に着くときに、その左右に座る地位を要求するのです。実は二人がこのような思い違いをする伏線がありました。ヤコブとヨハネは9章2節から3節のところで、イエスの変容に立ち会ったとき、栄光に輝くイエスの姿を目撃しました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に耀き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほど白くなった」つまり二人はイエスの左右に座を占めて、その栄光に与る自分たちの姿を夢見ていたのです。

 ゼベダイ子たちの要求は、イエスの受難を全く無視したものでした。彼らはイエスの栄光と自分たちの地位に最大の関心を持っています。それに対してイエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と語ります。まず、自分たちの無理解を悟れと諭します。その上でイエスに従うとはどういうことなのかを改めて示そうとしておられるのです。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)「このわたし」がという主語が二度繰り返され強調されています。「杯」とは旧約聖書ではイザヤ書51章17節以下、エレミヤ書25章1節以下では、神の審判が与える苦難を意味し、「バプテスマ」は「水の中に浸す」または「大水の底に沈められる」という意味で、死、あるいは死に至るほどの苦難を意味する描写です。ここではイエスの受難と死と同じ苦難を受ける覚悟があるのかと問われているのです。

 この問いに二人の弟子は何のためらいもなく「できます」と答えます。(39節)二人がそう答えたのは、イエスの「わたしの杯」「わたしの受ける洗礼」と言われた意味を全く理解していなかったからです。そしてイエスは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と断言されます。これはこの後の二人の弟子の運命を予見した言葉で、「そのようになるだろう」と言われて、イエスの弟子となってイエスに従うということは、栄光の座を望むよりも、イエス自身の受ける苦しみにあずかり、イエスと結ばれる方が遙かに重要なことなのだとイエスは諭しているのです。

 他の弟子たちは自分たちを出し抜いてイエスに自分たちの栄達を要求したヤコブとヨハネに腹を立てます。彼らが腹を立てたのは、二人の要求が甚だしく見当違いなものだということではなく、自分たちの先を越して、抜け駆けしてイエスにこの要求を持ち出したからでありました。9章34節にもありましたように、高い地位への関心と要求は、十二人の弟子たちに共通していました。彼らは第二回目の受難予告の直後に、「誰が一番偉いかと議論し合って」いました。ヤコブとヨハネの要求はそれがもっと具体的になったものでありました。弟子たちは第二回目の受難予告の直後にしたことと同じことを、この最後の受難予告の後にもしていたことになります。弟子たちはイエスに従いながら常に特権的な地位を欲していたことになります。

 42節「あなた方も知っているように」とイエスは弟子たちを諭し始められます。これは彼らの社会的な常識で一般に言われていることをあなた方も十分知っているという前提で、ユダヤの民が外国によって統治され、支配のもとに置かれている状況を言っているのです。ユダヤの民はマカベヤの時代から異国の支配の許に置かれ、圧政に苦しめられていました。「民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」はいずれも悪政について語られているもので、「暴圧で支配する。圧政を加えている」とも訳すことができる言葉です。イエスは弟子たちが肌で感じているはずの権力者の支配による深刻な問題を提示し、さらに「しかし、あなたがたの間ではそうではない」と言われ、弟子たちの権力への願望や要求はこの世的な願いであって、それは捨てなければならないと諭されるのです。

 43節〜44節「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」この言葉は、二回目の受難予告の後で、「だれが一番偉いかと議論し合っていた」弟子たちに、イエスが語った「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という言葉と内容的には同じことであります。弟子たちは三回目の受難予告の後でも、同じ言葉をイエスから聞いたということです。イエスのこのことばは、愛の奉仕への招きであります。この愛の奉仕への招きをイエスは受難予告の直後になされているのです。これは、イエスの受難と奉仕への招きが不可分であることを示しています。イエスの受難の意味を知り、イエスに従う者は、愛によって奉仕する者へと変えられるのだとの宣言でもあるのです。

 このイエスの愛への招きの言葉の反響を使徒パウロの書簡の中に見出すことができるように思います。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(一コリント9・19)「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです」(二コリント4・5)

 45節「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」この言葉は奉仕への招きの根拠となるものです。ここには訳されてはいませんが「なぜならば」という理由と根拠を示す重要な言葉があり、イエスの愛の奉仕への招き、戒めの特徴は、イエス自身がその根拠となっているということです。そしてここで「身代金」と訳されている言葉は、口語訳では「あがない」となっていました。「あがない」とは、奴隷や捕虜を買い戻し、解放するために支払われる代金のことです。「多くの人の身代金として自分の命を捧げる」とのイエスの言葉と「わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」とのヤコブとヨハネの言葉との間には大きな隔たりがあります。

 イエスは弟子たちと一緒にエルサレムへ上っていこうとされていますが、弟子たちの心は、イエスの心から完全に離れています。弟子たちは繰り返し語られたイエスの受難の意味を全く悟らず、最後まで「栄光のメシア」を夢見ながら、イエスに従ってエルサレムへの道を進んで行くのです。

 主イエスはご自分の弟子集団の中で十二人を選んでこれを使徒とされましたが、それは、神の民である十二氏族の代表の意味がありました。それは、仲間の上に立って支配することが目的ではなく、仲間と共に生きるために仕える使命と責任を果たす意味でありました。権力を振るって支配するのではなく、仕えるためでありました。それは、苦難と十字架の道を歩み始められたイエスご自身が、自分の道として強く自覚しておられ、その道を決然と歩み出しておられたエルサレムへの道こそ仕える道であり、弟子たちにもその道を歩むように教えられているということだったのです。

 お祈りをします。

 主イエス・キリストの父なる神様。主イエスは、わたしたちの身代わりとなってわたしたちの救い主となるために、わたしたちのもとに来てくださり、十字架への道を歩み、わたしたちに新しい命を与え、生かしてくださいました。主イエスのその愛を深く覚え、その愛の力によって、わたしたちが喜びをもって他の人に仕える者となる人生を歩んで行くことが出来ますように、お導きください。この一週間もあなたの御旨がなり、あなたの正義と慈しみが貫かれ、あなたの平和に満たされますように。あなたがこの世のすべてを超えてあがめられる神であられることを、わたしたちの教会がはっきりと告白して行くことが出来ますように、わたしたちを強めてください。

 一人一人の歩みをあなたが御手をもって守り導いてくださり、弱さを覚えております者を励まし、病む者に癒やしを与え、悲しむ者に慰めをお与えください。

 主イエス・キリスト御名によってお祈りいたします。  アーメン
  
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「命の主であるイエスに従いなさい」マルコ10:17-22
2024.10.13 大宮 陸孝 牧師
イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある」(マルコによる福音書10章21-22節)
 マルコ福音書10章はフィリポ・カイザリヤから始まりエルサレムの十字架へと向かう旅が次第に南下し、エルサレムへと近づいて行きます。その旅の途上で、行く道々弟子たちへの教えが続けられます。結婚・離婚(1節〜12節)、幼子((13節〜16節)、財産の問題について論じ(17節〜31節)、三回目の受難予告を行います(32節〜34節)弟子たちは依然としてそれを理解できず、高い地位への野心を抱き続けています。しかし、イエスと弟子たちの存在は仕えるための存在である(35節〜45節)、そうした中で、イエスによって癒やされ、イエスに従って行く盲人の物語は、弟子たちのあるべき姿を象徴したものでありました。

 結婚・離婚、財産、地位の問題は信仰を持つ者の日常生活の大きな問題であり、弟子たちだけではなく、その後の教会の信徒を指導する上でも、教会が大きな関心を持たざるを得ない、教会の共同生活にとっても重要な問題でありました。ですから、これらの伝承はマルコ福音書が成立する以前に早くから集められ、信徒の教育に役立てていた資料であったと考えられますが、本日は、この独立したイエス語録、いわゆるアポフテグマの財産の教えの部分、17節から31節を学びます。

 17節「イエスが旅に出ようされると」この旅はイエスの受難への道のりのことであることは再三再四語られ、この旅がエルサレムに近づいているというイエスの緊迫感と、弟子たちにはそれが理解できないでいるという不安と恐れがありました。その道行きの途上で、「ある人が走り寄って、ひざまずいて」イエスに問いかけるのです。彼が何事かを尋ねるために走ってきたという表現に、この人物の熱意が表わされています。恐らく彼は自分が質問する機会を逃さぬように、また一刻も早く質問に答えてもらいたいという思いで、息せき切って駆けつけたということだったのでしょう。一つのことを思い詰めるように、集中して取り組む一途な姿が見られます。

 そして、「ひざまずく」ということも特別なこと、つまり、彼のイエスに対する尊敬の念と、どうしても教えていただきたいというひたすらな思いとが相俟って、彼はひざまずいたと思われます。彼は非常に謙遜であり、資産家としてはめずらしく好感の持てる人物であり、なおかつ、物事を本質的に追求していく熱心な求道心を持ち合わせていたようであります。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この先を読むと分かりますが、この問いを出した人には多くの財産がありました。それで、ここでは「救いと富との関連が問題になって行きます。多くの人が真面目な富める者となる可能性があり、またそうありたいと願ってもいる。人は裕福で人柄もよく礼儀正しい者となることを願っている。その意味でこの人は申し分なく自己実現した人物と言うことが出来ます。そして、彼はここで自分を高めるさらなるものを求めて行くのです。自分には何か決定的なものが欠けているのではないかと確かさの確信を持てないでいたということでしょう。彼の願いは永遠の命の後継者になることでした。しかし、それは神の国の到来を求めるというよりも、自分の欠けているものの一つを補う形で自分を満たそうとする貪りであることをイエスは明らかにされるのです。

 それで、この問いに対してイエスは、「なぜ、わたしを善いというのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えます。一般的な敬称としては丁寧な表現である「善い」をイエスは本来の用い方に当て嵌めます。「善い」はただ神に対する呼称として用いられなければならないと答えます。これは十戒の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に関わることとして、十戒の前半部分の精神である神の面前に立つことをわきまえるべき教えを改めて示したものであります。「みだりに」は空しいこと、あるいは実質のないことを意味します。

 別の言い方をすると「あなたはわたしが神であることを知って善いと言っているのか」との切り返しです。自分から求めるこの人物を、改めて神であるご自分の前に、つまり神の前に立たせようとしたということです。今、彼の前にはまさに彼が求める永遠の命である方が立っているからです。彼はこの「善き方」の前に立たされ、ただイエスが与える救いの恵みを受け、その恵みに応えて仕えて行くことによって永遠の命に至る道を見出すべきであったのです。そして、イエスは続けて「掟(十戒)をあなたは知っているはずだ」と、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」と十戒の後半部分を示しますが、それは、この人の問いに対する直接の答えではありませんでした。

 マルコ12章28節以下の一人の律法学者との対話の中でイエスご自身が十戒の内容の重要性を二つの掟にまとめてお答えになり、律法学者は「先生おっしゃる通りです。『神は唯一である。他に神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を憑くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています」という答えに対して「あなたは、神の国から遠くない」(29節〜34節)と言われています。神の国の近接に生きること、そして、永遠の命を受け継ぐことは、この二つの掟に生きることと深い関わりがあることを示されます。

 イエスの前にひざまずく人物は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言い、この戒めの遵守が身に着いていることを自認しています。これは、この前にある15節「子どものように神の国を受け入れる」ことを念頭においているとも考えられます。あの子どもは自分を開き、イエスを受け入れ、イエスに委ねることを示していたのですが、この人物はあくまでも彼自身が自分のためにずっとできてきたことを積み重ねてきた子どもの頃の延長線上で、欠落しているものを求め、手に入れ、自分を高めることを目指し続けているのです。

 この人の姿はパウロになぞらえることができます。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イエスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」(フィリピ書3・5以下)。そしてパウロは言います。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです」パウロがイエスに出会ったことは大きな転換点になったのですが、しかしこの男にはそれがありません。あくまでも律法を子どもの時から守っており、それでもなお、救いの確信が得られないとすれば、「何が足りないのか」と問います。

 21節「イエスは彼を見つめ慈しんで言われた」この「見つめる」という表現はこのほかに三度用いられています。(8・25、10・27、14・67)それぞれ集中してみる、それがなんであるか本質を見分けるような強い眼差しで探求すること、また、イエスが「御覧になる」ことは弟子たちの召命の出来事に関わっています。弟子たちの召命の出来事はこのイエスの眼差しが自分に向けられていることを知り、それに向き合うことで、その眼差しの中で弟子たちはイエスに従って行くことになるのです。

 「慈しんで」は原文からすると「彼を愛して」でイエスが彼を愛しておられることが断言されています。ここでイエスが愛しておられることはイエスの言葉によるのではなくて、その眼差しから見て取られます。イエスの眼差しが彼を愛していることを語っているのです。イエスがなぜ彼を愛するのか、彼が愛される理由があるのかは何も説明がありません。彼には何も愛される理由はない、イエスの一方的な愛なのか、それとも彼が愛されるべきところがあったのか、何か見所があり、それをイエスは評価したのかは何も分かりません。

 しかし、それに続くイエスの言葉は衝撃的であります。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」それがイエスの答えでありました。この人にとって、イエスのこの命令は到底実行不可能なことでありました。イエスはこれによって、十戒の戒めを実行すると言うことがどんなことなのかを示したのです。彼が子どもの頃から守って来たとする戒めを実質的には守って来てはいないことを示され、彼の本当の欠乏を指摘したのです。

 この人の決定的な欠乏それは彼の全ての欠乏の根底にあるものでした。つまりそれは、彼が生ける神の前に立たされているのに、その神に自分を明け渡すことをしないでいることです。神の愛の眼差しに捕らえられているのに、その神の愛に応答することができないでいるそれが彼の決定的な欠乏でした。彼は神の前にも、人に対しても自分を明け渡すことをしないままで、自分を高め確保することに終始しています。彼が永遠の命を受け継ぐことを求めているとはつまり、自分の命を保証するものとしての意味で、それを彼は善良な仕方で求めていたということです。このような自分で自分を豊かにして行こうとする道は常に欠乏を生み出していくものに過ぎません。富が富を求めるように、自分への善なるものを得ようとする道は際限なく続く自己追求になってしまうのです。イエスはこの人に自己追求の深みにおいてたどり着く欠乏、すなわち生ける主からの逃避を明らかにしたのです。

 パウロは言います。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ7章18節)と語ります。自分の内に自分で善なるものを築くことはできない。むしろ、真実に自分の深奥にあるものを見つめるならば、そこには、深い矛盾と破れを見出すほかにはない。パウロは律法に生きることがまさにこの矛盾と神に自分を明け渡すことができないという自分の的外れをあぶり出しているのです。

 この真の命を生きる豊かさから目を背けていた人に対して、イエスは真実に律法に生きるとは、神と隣人を愛することであり、自分のすべてを神と人に明け渡すことでなければならないと、律法の本質的な精神を示し、この言葉によって、彼が子どもの頃から守って来たと自認してきたことがはっきりと打ち砕かれたのです。

 「それから、わたしに従いなさい」イエスは、この人が善き師としている神であるイエスに対してイエスから得られるものを期待し、求めて自分のものにするというのではなくて、自分を捨てて、自己執着を捨てて、ただ神に従うことだけが必要なのだと語り、自己に執着することは、結局は戒めが真に求めていることに対して違反していることになり、永遠の命に至る妨げにもなっているのだと指摘しているのです。

 22節「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」主イエスの言葉はこの男に悲しみをもたらします。彼の心の深いところで危機が生じています。その危機は自分の真相を明らかにされた危機であります。その真相とは、自分がこだわっていたものを捨てることなしには、真に自分が求めていた「永遠の命」に至ることができないということでした。永遠の命は自分に生きることを捨てて、「神と人を愛する」という二つの愛に生きることであり、人を愛する実際の課題として、「持っている物を全部売り払い、貧しい人々に施す」ということを言われたのでした。それが生ける神にもう一度向き合うことで実現するのだという真理に目を開かれたのです。そのようには生きていない自分の惨めさ、またそこに向かって決断することもできない自分の弱さに気づいた悲しみでした。結局この人はイエスの許を立ち去り、戻って来ることはありませんでした。

 コリント第二の手紙7章10節に「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」とありますが、この人の悲しみは一つの大いなる命への道を開く可能性を持っていました。悲しむこと、涙することなしには愛するということを知ることはできないとよく言われます。どうしたら自分の罪に悲しみ、絶望へと迷い出すことから、真の悔い改めに転換していくことができるのか。ここでイエスはその答えを「命の主であるわたしに従ってくることだ」と真に救いに至る道を明確に答えておられるのです。

 この物語はイエスの召命物語と共通の枠組みを持っています。イエスに召されることと、この世の罪に悲しんでいることとは深く関わっていることなのです。この世の罪の現実の悲しみに堪えることができるのは、その悲しみの先に開かれる道があることを知る時です。わたしたちが罪の現実に打ちのめされて悲しんでいる中で、わたしたち一人一人を慈しみ愛されるイエスの眼差しに支えられ、希望を与えられて、愛なる主イエスに従って行く新しい命の道への招きとは、主イエスの十字架の悲しみの道のりと、その道の歩みの先に、わたしたちの贖(あがな)いと新しい命の希望が与えられている、この到達点に向けてイエスは「わたしに従って来なさい」と言われているのです。つまり、十字架の贖(あがな)いの愛に裏付けられた言葉だったということです。この物語を通して、イエスが弟子たちと教会に対して語りたかったことはそのことだったとわたしは思います。

 お祈りをいたします。

 わたしたちの主イエス・キリストの父なる神様。あなたはご自身が持っておられる充実した永遠の命を、あなたの御子イエス・キリストを通して恵み深くわたしたちに注いでくださいますからその恵みを心から感謝致します。

 どうか、わたしたちが、あなたが与えてくださった救い主イエスに信頼し、付き従って行くことが出来ますように、わたしたち一人一人に信仰の決断を与えてください。

 イエス‥キリスト御名によってお祈りいたします。   アーメン
 
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「神の招きのもとに立つ」マルコ10:1-16
2024.10.6 大宮 陸孝 牧師
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14節〜15節)(マルコによる福音書10章14-15節)
 1節で「イエスはそこを立ち去って」とあります。少し前の9章33節に「カファルナウムと記されてありますので、「そこ」とは、このカファルナウムのことで、イエスのガリラヤでの活動が終わり、ここからはエルサレムへ上る途上」(10章32節)の記事となるということになります。イエスは彼自身が予告した受難の地、ユダヤの権力が集中する都エルサレムへの道を歩み出します。ガリラヤのユダヤの人々がエルサレムへ向かう経路は、敵対関係にあったサマリアを避け、ヨルダン河の向こう(ペレア)を通ってユダヤに入るのですが、マルコの記述はユダヤが先になっています。ごく少数の弟子たちがイエスに随行して行くのですが、時あたかも過越の祭が近づいていて、大勢のユダヤ人のエルサレム詣でが始まる時期でもありました。ですから、イエスと弟子集団が特に目立っていたわけでもなかったでしょう。そのエルサレムへ上る途上で、今までと同じようにイエスの行く所には大勢の群衆が集まって来ました。そこでイエスは様々な人間の的外れな罪と不信仰の現実に向き合い、2節以降結婚・離婚(2節〜12節)、幼子(13節〜16節)、財産(17節〜31節)の問題について論じ、三回目の受難予告(32節〜34節)を行い、理解することの鈍い弟子たちに忍耐強く教えて行く最後の章となります。

 2節〜4節 群衆に教えているイエスにファリサイ派の人々が近づき、イエスを試そうとして「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」と質問をします。ファリサイ派は、ユダヤ教では離婚が律法で認められているのを知った上でこの質問をしています。「離婚は認められない」との答えをイエスから引き出そうとしたのです。そうすることによって、イエスの教えとモーセの律法との矛盾を指摘し、さらには、王ヘロデが自分の兄弟フィリポの妻ヘロデヤをめとり、これを批判したバプテスマのヨハネが斬首された事件と関連させて、イエスを窮地に立たせ、訴える口実にしようとしたのです。申命記24章1節には、次のような規定がありました「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」

 この規定の離婚理由については、イエスの時代の律法学者の二大学派、シャンマイ派とヒレル派との間で意見が二つに分かれていました。シャンマイ派はこの規定を厳格に理解し、結婚前の不品行と妻の姦淫に限って離婚を認めましたが、ヒレル派は、些細なことでも「恥ずべきこと」に含めて、離婚を容認しました。「恥ずべきこと」を具体的にどう理解するかで、この申命記の規定は、どうにでも解釈が可能であったのです。イエスを罠にかけようとする質問に対して、イエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と逆に問います。それに対してファリサイ派は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と、申命記の規定を持ち出して答えたのです。

 この答えを聞いたイエスは、「離婚」問題は、「結婚」についてそもそも本質的にどのように理解するかにかかっていることを明らかにします。離婚規定は頑なな罪人(つみびと)、人間への譲歩として設けられたものに過ぎないと語ります。結婚は本来、神が定めた秩序なので、人間の都合で左右されるものではない、というのがイエスの答えでありました。

 モーセは確かに離婚を認めました。しかしそれは本来は神の意図ではなく、神の側の寛大な「譲歩」である。ファリサイ派は「離婚」を問題にしたけれどもイエスはその前提である「結婚」とはそもそもなんであるのか、その本質を示しているのです。結婚が本来どういうものであるかが分かった時に、離婚に対する態度も決定されるということです。

 申命記の規定は本来弱い立場の女性を保護する目的を持っていたもので、離婚に際しては「有効な離縁状」を必ず提出するように夫に命じたものであったのです。当時のユダヤ人の間では、結婚の当事者は対等ではありませんでした。女性は自分の意思で結婚するのではなく、父親の意思で「結婚させられた」のです。そのような一方的な慣習の中で、男性の身勝手さを幾分かでも緩和させようとしたのがこの規定でありました。ファリサイ派は「離婚」を問題にしましたが、イエスは「離婚」ではなく、「結婚」を問題にして、その本来の姿を創世記の記事まで遡って明らかにされたのでした。イエスによれば、「離婚」は神が定めた「結婚」の秩序を破ることであり、あるべき姿の失われた状態だからです。このようにして、イエスの答えはファリサイ派の結婚観を逆に問い直し、問題なのはファリサイ派の「結婚」に対する本質的な理解の欠如であることを明らかにされ、ファリサイ派は、ここでさらに発言する余地を失ったのでした。

 イエスは創世記2章24節「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」を引用し、それに付け加えるように「従って、神が結び合わせくださったものを、人は離してはならない」と語ります。結婚は神が定めてくださった秩序である以上、人間の都合によって簡単に解消してはならないものであることを示されます。

 ファリサイ派は、イエスが離婚を否定するという予測をもって、イエスに尋ねていました。そして、イエスの答えと、離婚を容認する申命記の規定との矛盾を指摘して、イエスを板挟みに追い込む目算をしていたのです。しかし、ファリサイ派はイエスが結婚の本来のあり方にまで遡って、結婚の本来の意義を確認するしかたで答えていますので、彼らの目的を果たすことができなくなってしまったのです。逆に、当時のユダヤ人の間では実際には、しばしば身勝手な離婚が安易になされ、結婚が神の定めとして真剣に受け取られずに、人間同士の出来事としてしか考えられていなかったことが暴露されることとなったのです。

 10節〜12節マルコ記者は、これまでのイエスの教えに、さらに新たなイエスの言葉を付加するために、弟子たちに質問をさせるという手法を採っています。イエスの結婚に関する本来の意味の宣言にもかかわらず、それによって明らかにされた人間の罪の現実がなお残るからです。11節では、妻を離婚した夫が再度結婚した場合には、夫は、先に離婚した妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。妻を離婚することを当然と考えていた人々にとっては、そのようなことは考えも及ばなかったことでしょう。マタイ19章3節〜12節はこのマルコと平行している箇所ですが、その箇所では、イエスの言葉を聞いた弟子たちは「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」(10節)と反応しています。弟子たちですらその程度の理解でしかなかったのです。

 ファリサイ派の悪意ある質問から始まったこの物語の中で、イエスは当時の人々が結婚について持っていた理解、実際に行われていた慣習に対して厳しい反省を促していますが、それは、結婚の本来の「神聖さ」を回復するため、すなわち結婚は神によって定められた秩序であることを認識することによって、離婚が神の意志に反したものであることを明確にするためであります。ルターの宗教改革以後の教会の結婚に関する理解においても、「結婚は神の定めた秩序であり、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」この原則は根本的には変わりはありません。

 この討論がファリサイ派からの質問によって始められたことの意義は大きい。結婚・離婚は、社会的な約束事や風潮、また、法的な規定、また当事者の感覚としてではなく、神の前で、捕らえなければならないということをわたしたちは改めて示されたのです。結婚の基礎は男女相互の愛でも感情・情欲でもなく、神の愛の選びなのだということです。ですから、たとえ人間的な愛が冷めることがあっても、それは離婚の理由にはなりません。神の選びを信じ、主の十字架の光に照らされ、自分とは異なる他者と相向き合い立つ時に、罪人のために示された神の愛を新しく生きる力としてお互いに受け止めて、共に生き合うことができるようになることが大切です。

 相互に最も近い隣人として、神に与えられた人と共に生きる結婚生活は、隣人を愛する愛が試され、育てられる場でもあります。罪のこの世では、キリストの十字架の贖いのもとでなければ、神に与えられた真実の助け手としてお互いを受け止めることはできません。また、十字架においてこそ、お互いに恥ずべきこと、好ましくないことを見た時に、その罪をあげつらうのではなく、互いの罪を負い合い、赦し合う一体化が可能となるのです。離婚が法的に許されているからうまく行かなければ解消すればよいと安易に考えることは罪の誘惑であります。神の選びの前に二人で立つ信仰が重要なのです。

 さて、結婚・離婚の問題の後に子どもたちに関する教えが続き、さらに財産の問題が続きます。これらは教会の共同体にとっては基本的な日常の問題であり、関心事でもあります。マルコ福音書の読者はすでに9章36節〜37節でイエスが子どもを抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と語られたことを知っております。そこでは子どもは「小さい者」をあらわす譬えとしての意味をもっておりましたが、ここでは、文字通り実際の子どもに対する態度が問題とされています。弟子たちは祝福を求めて子どもたちをイエスのもとに連れて来る人々を制止します。弟子たちは、こういう親たちの願いは切実なものとはいえ、それ自体は利己的なもので、親たちの中には、イエスについての正しい理解があったわけではありません。神の国が来ていることについても、それだから自分たちは悔い改めて福音を信じ、救いに入れられるべきであることをも、真剣に受け止めていたわけでもありませんでした。その救いの道を開くために、イエスが十字架への道を歩んでおられることをも、理解してはいなかったでしょう。ただ自分の子どもたちの幸せだけを願い。そのために高名な先生の一人であるイエスに触れていただきたいその思いに駆られて、親たちはイエスの許にやって来たのでした。

 そういうことで、この時に弟子たちが親たちを叱ったことは、弟子たちに取っては、当然の判断であったのでしょう。そのような者たちによって、集会が妨げられることは、弟子たちにとっては許されることではないと思えたのです。またそれは、イエスご自身にとっても不本意なことであると、彼らは信じたということです。だから、自分勝手な願いをもってやって来て集会の妨げになった親たちを叱ったのです。イエスは、弟子たちのそのような行為に憤られます。それは弟子たちにとっては意外なことでありました。親たちを叱りつけた弟子たちが、今度はイエスに叱られることになりました。それだけではなく、この時イエスは次のように言われます。

 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14節〜15節)。子どもたちの邪魔をするなと言われ、さらに、「神の国はこのような者たちのものである」と付け加えられました。これは、弟子たちにとっては大きな衝撃であったろうと推測されます。その時、弟子たちは一体何を言われているのか理解できずに、心は動揺したのではないかと思われます。

 弟子たちが子供を連れて来た親を叱った時、考えていたことはどんなことであったのか。

弟子たちは直前の9章34節で、「誰がいちばん偉いか」と議論し合っていました。それは言い換えれば、「誰がいちばん先に天国に入るのか」あるいは「誰がいちばん天国にふさわしいのか」ということでもありました。そして、その議論には、天国に入るには「一定の条件」が前提されていて、その条件をクリアしている者が天国に入る「資格」がある、という一つの前提があります。律法学者やファリサイ派は、その前提に対して大変明快な判断を持っておりました。それは、律法の規定を完璧に守っている、ということであります。彼らは断食、施しなどを含む律法の規定をぬかりなく守ろうとし、それができない力のない人や、その意思のない人を「地の民」(アムハーアーレツ)あるいはもっと露骨に「罪人」と呼んだのです。ファリサイ派とは「分離」という意味ですが、それは、そのような「地の民」や「罪人」から分離された者という自己理解から来た名前だと思われます。弟子たちにしても、「誰が一番偉いか」という問いの中にそのような一定の条件を前提にして天国に入ることを考えていたことに変わりはないように思われます。自分たちは主の教えを聞こうとしてイエスの許に来ているという思いが弟子たちの中にはあったのだと思います。

 ですから、子供の祝福だけを求めてやって来たような親たちにとっても、このイエスの言葉とその後に続く子供一人一人を抱き上げて、手を置いて祝福された行為は、驚きであったに違いありません。そこまでのことを求めもしなかったし、、考えてもいなかったでしょう。そのようにして、イエスは、そこにいた全ての者たちが予想も期待もしていなかったような丁寧さでもって、子どもたちを祝福され、そうすることによって、神の国が、まさしく子どもたちのものとなり、それ以外の大人たちには、弟子たちをも含めて、子どもたちのように神の国を受け入れることによってのみ、神の国に入ることができることを明らかにされた行為でありました。

 ここで、イエスが明らかにされたことは、わたしたちにとってどのような意味をもっているのでしょうか。その問いは、「子どもたちがイエスの最も近く、また神の国に最も近い存在であるのは、なぜか」という問いと同じです。このイエスの言葉を誤解しやすいのは、この子どもたちの純粋さや、無邪気さをイエスは評価されたのだ、と思い込むことです。そして、大人たちがこの時のイエスの言葉に動かされて、子どもらしさを求め、それを競うようになることです。それは大きな誤解であります。確かにイエスは、子どもたちに、神の国はこのような者たちのものだと言われました。しかし、同時にイエスは子どもたちだけを重んじ、子どもたちの中だけで過ごされているのではありません。イエスはその同じ時間を大人たちのために大部分を使い過ごされているのです。このイエスの言葉も大人たちに向けて話されているのです。その中心にいたのは、変わらず弟子たちでした。この弟子たちを導くために時間を費やされておられるのです。弟子たちもまた、確かにイエスの近くにいたということです。この子どもたちを祝福された出来事は、つまり弟子たちに向けてこのようなことをなさったのであり、そしてこの出来事が代々教会に伝えられたのは、弟子たちの後を継いでイエスの弟子となった人々のためでもあったのです。

 弟子たちが子どもたちを連れてきた親を退けようとしたのは、親たちがイエスの言葉を聞くためにではなく、イエスの教えを受けるためでもなく、ただ自分たちの子どもの幸せを願って、イエスのもとにやって来たからでした。そのような者たちはイエスに近づくのにふさわしくない、と彼らは考えました。しかし、ここで問われなければならないのは、それでは、そのように考えて親たちを退けようとした弟子たち自身は、どうだったのか、ということです。弟子たちもまた、親たちのように、利己的な理由でイエスに近づいた人たちではなかっただろうか。このように考えた時に、弟子たち自身の、そしてわたしたち自身の真実の姿が見えてくるのではないでしょうか。

 自分の願いを第一に考え、そのような利己的な理由でイエスに近づいたのは、親たちだけではなかったのです。弟子たち自身もまた、心の奥深くに、そのような理由を抱え込んだまま、イエスの近くにいたのでした。弟子たちもその本質において、この親たちと変わることはなかったのです。この出来事を通して明らかとなったのはそのこと、つまり弟子たちもまたイエスの弟子としてふさわしいものではなかったのだということでした。イエスはそのことを明らかにしつつさらに、そのような相応しくない者をも、子どもたちと同じように、イエスが呼び寄せてくださり、主の近くにいる者としてくださる、そして、弟子たちに対しては、後に一人一人の足を洗い、このように祝福されている子どもたちこそあなたがたなのだと示されたのです。神の国を受け入れるとは、一番遠いところにいる自分たちを呼び寄せてくださっているイエスを受け入れることであります。そしてそのようにして、イエスに一番近い者とされた自分を受け入れることであります。主の弟子たち、神の子どもとされた者たちとは、ただただ、このことを感謝し、喜び生きる者たちのことです。

 お祈りいたします。

 わたしたちの主イエス・キリストの父なる神様。新しい一週間の歩みに先立ちあなたの御言葉の導きをいただいて感謝致します。たとえわたしたちが的外れで、あなたの御心を悟らない者であっても、あなたはわたしたちを新しくしてくださる創造のご意思を貫いて、主イエスをわたしたちの救い主としてわたしたちの許に遣わしてくださり、わたしたちを十字架の購(あがな)いによって、罪の頑(かたく)なさから救い出してくださいます。どうかわたしたちがあなたの救いの業である十字架の主を仰ぎ、信頼し、自分を委ねて行くことができますように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン
 
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