「神の愛の命に新しく生きる」ヨハネ6:51-59 2024.8.25 大宮 陸孝 牧師 |
「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネによる福音書6章51節) |
本日の聖書の箇所は、6章1節からのパンの奇跡のあと、22節からのイエスの「天よりのパン」という表象をもって、イエス・キリストとは誰なのかその存在の意味を明示しようとしている一連の長いパンの説話の部分であります。本日の箇所は、48節〜50節と平行していますが、この直前の箇所を新たに展開して、意味を深めて行こうとしているということが言えるかと思います。ここにはヨハネ福音書が一回だけ用いている用語「肉」という言葉が出て来ます。 ここで用いられている肉(サルクス)という言葉は、ヨハネに特徴的なより古い伝承に忠実であるということから、恐らくこれはイエス自身が用いたアラム語のビスラ(またはヘブライ語のバザール)から来ていると考えられ、「肉」と「生きた体」との両方の意味を持ち、七〇人訳ではこれがサルクスと訳されているので、イエスのこの言葉は「体」(ソーマ」とも訳せたということで、共感福音書とパウロ書簡では、この言葉の幅の広さに着目して「体」という訳を選んだと考えられます。後に共感福音書やパウロによって「体」という訳が定着していったということだろうと解釈することができます。 いずれにしても、ここで問題になっているのは、この福音書の読者である教会の会衆が、天からのまことのパンであるイエスを信じ受け入れるかどうかであり、聖餐が信仰の核心をなす正典としてまだ充分に明示されていなかった当時の教会の会衆にとっては、聖餐の礼典において、イエスがご自身をまことの体と血として与えておられることをより深く自覚する必要がありました。信仰が聖餐の前提であり、そしてまた聖餐が信仰の告白でありその確認であった、その二つの要素がヨハネ福音書において一つに結びつき、更に宣教のメッセージへと展開していったという流れが考えられます。 初代のキリスト教共同体が受け信じたこの福音の真実は、聖書の中に書き記され、それが二世紀後半以降変わることなく教会共同体の中で伝えられ、信仰の基準となってゆきます。聖書解釈は聖書の全体との調和をもって、公同の信仰に基づいて行われなければなりません。このヨハネ福音書の本日の日課の所もまた、全キリスト教共同体の公同の信仰の基準の一部をなしています。そうした視点から、初代教会がこの箇所に記されている出来事を、神様からの生きた実存的な語りかけとして読み取ったものとして、わたしたちもまた、今、わたしたちに働きかけられている出来事として読み取って行くことができるのです。 51節 この箇所の前の所を見ますと、パンが増えた奇跡を見てイエスを求める群衆に、イエスは朽ちる食べ物ではなく、永遠の生命に至る食べ物のために働きなさいと語られ、イエスご自身がこの食べ物を与えると言われました。(22節から27節)そしてさらに、自分がこの生命のパンであると宣言します。(28節〜35節)それは永遠の生命、さらに復活を保証するものであり(35節〜40節)、ユダヤ人にはわからない(41節〜43節)、しかし、この秘義は神の恵みによってのみ受け入れられるものであり、旧約のマナのように一時的に飢えをしのぐための朽ちるパンとは違って、、これを食べる人は死なない(44節〜50節)と語り、51節の前半でここまでの説話が一旦まとめられ、51節後半からさらに説明が加えられて行くという形になっています。 51節C「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」世を生かすためは直訳すると「世のいのちのため」です。「肉」とは可能性と弱さを伴った、神が創られた被造物としての人間のことです。神ご自身が自ら創造されたこの世界に、その被造性・有限性を負って降りて来られたことを「受肉」の出来事として記されているのが、ヨハネ1章の「言葉が肉となった」という見出しが付いている箇所で、その14節に「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」となっています。イエスはここで、わたしたちを生かすために、人間となって降りて来られ、ご自身を捧げられたと言っておられるのです。 52節 ヨハネ福音書ではユダヤ人たちは、神の遣わされた者に対して無理解であり、敵対的でもあり、神に対しては本質的なところで的外れを繰り返して行く者として描かれて行きます。彼らはイエスが言われた「肉を食べる」をそのままごく一般的な飲食(ファゲイン)として受け止めています。ニコデモもサマリアの女もそうでありました。そして、イエスのことを「この人は」と訳していますが、これはむしろ「こいつは」という軽蔑の意味を含めて言われている言葉です。 53節 イエスは言われます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」「アーメン、アーメン、わたしは君たちに言う」とアーメンを二回重ねて用いるのはヨハネ福音書の特徴で、25回出て来ます。公的な声明の前置きとしてアーメンを使うのはイエスご自身から来ていることで、これは旧約の預言者イザヤの「神はこう言われる」(イザヤ17章・22節)という旧約預言者の言い方を強調したものと考えられます。アーメンをこのように用いることによって、イエスはご自分が真実の神から遣わされただけではなく、自分の言葉が真実であることをも強調しているのです。 「人の子の肉」という言葉は、そこで神と人とが出会う接点のことで、肉を食べるというのは、受難と十字架の死によって神に捧げられた人の子のいのちによって、人間が神との交わりに入り、神の新しいいのちとひとつとされ、そのことによって、永遠の命を得ることを意味しているのです、しかしこうした神の真実はユダヤ人には隠されていて、ユダヤ人たちには不可解なことでありました。その理由の一つはこの「肉を食べる」(ファゲイン)は旧約的な理解では、一般に人を殺すこと、または虐げて支配することや、搾取することを意味していたからです。イエスはそういったユダヤ人の背景にある事情を一切言及せずにさらに続けて言います。 54節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」ここで食べるには「トロゲイン」が使われています。これはもともと動物について使われ、よく噛んで食べるというニュアンスです。旧約聖書の過越の食事はよく噛んで食べてしまわないといけないという規定と関係していると考えられます。つまり、人の子の十字架の受難と死の出来事とひとつになることは、新しい過越と解釈され、主の晩餐とつながっていくのです。復活の命と一つになることは単なる心的態度、あるいは信仰の姿勢を言っているのではなく、〈人の子〉の肉を食べることによって確認され、成就されるのだとの主張です。前後のつながりで言うと「そのようにしなければ、あなたたちの命はない」と語り、さらに「そのようにする人は永遠の命を得る」と展開されているのです。この食事は具体的に主イエスが与える信仰の完成への唯一の導きであると「その人を終わりの日に復活させる」と宣言されます。聖餐に信仰をもって与ることによってイエスの命とともに、終わりの日の復活、永遠の命の勝利に与ることを、主イエスは示したのです。 55節「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」まことのは「見た目とは違って真実の」という意味のアレテースが使われています。いわゆるルターが主張したリアルプレゼンスと理解すべき言葉です。聖餐のパンとぶどう酒、キリストの肉と血は、神が与えてくださる恵みの確かな事実なのだと宣言しているのです。 56節では、この宣言を踏まえてふたたび54節の主題である「食べる」ということに戻ります。「肉を食べる」「血を飲む」結果は、「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ことにつながって行きます。このイエスが定められた聖餐の礼典に信仰者が具体的に加えられて行くことによって、全人格的にイエスとの交わりに受け入れられ、またイエスの内に留まることを許されると言われています。神様との新しい命の交わりに入ることも神の恵みによることであると確認しているのです。 57節〜58節「生きておられる父が」(ホ ゾーン パテール)と、「生きている」ゾーンと言う語が用いられていますが、これは51節のイエスの言葉「わたしは天から降って来た生きたパンである」の「生きた」と同じ言葉です。ゾーンの基本的な意味は「神は命であり、命の源泉である。神が命であるというだけではなく、神がなされることはすべて命に向かっている」ということを含意している言葉です。ここの箇所を意訳すると「命である神によってイエスが生きており、さらにそのイエスによって、イエスを食べる者も生きている」となるでしょう。命の源泉である神からイエスへ、イエスから人へと命の繋がりが語られ、28節でさらにその命の繋がりが「永遠に生きる」と繋がって行きます。28節での「生きる」は未来形で、直訳すると「生きるであろう」となります。「このパンを食べる者は永遠に生きるであろう」これが信仰と聖餐を含んでいる長い説話を締めくくっている言葉です。 そして最後に、「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」と結ばれます。24節では群衆がカファルナウムに行ったことが述べられていますが、いつの間にかイエスの啓示の説話の場所は、会堂に移り、また、聞き手が群衆からユダヤ人に変わって行きます。確かに五千人が一度に会堂に入れるはずもなく、一部のユダヤ人がイエスの啓示の説話を聞いたということであり、しかもよく読むと、後で振り返りつつ語る但し書きのような形式になっています。つまり、この宣教の核心部分であるパンの説話は、イエスが会堂でくり返し語られたのだとヨハネはしめくくっていることになります。それはさらにいうならば、今日の教会が宣教の核心部分としてこれをくり返し、礼拝において聞き取って行くことが求められているということでもあります。 お祈りします。 父なる神様。わたしたちは身勝手な者です。あなたのみ心を自分に都合の良いように曲げて、あなたから離れて生活し、その自分を正当化し、いろいろと弁解を考えます。しかし、あなたはそのようなわたしたちを憐れんでくださり、忍耐強く御言葉を持って導こうとしていてくださいます。 どうかわたしたちが素直にあなたの御顔を仰ぎ、あなたの御赦しにあずかり、恵みの言葉を聞き、喜びをもってみ心を行うことができるように、聖霊によってわたしたちを導いてください。 この地にあなたが御心によって建てられた教会が多くの人々の魂の憩いの場所となりますように、あなたを礼拝し、あなたの御言葉を生きる糧としていただき、いつもあなたの新しい命の力が与えられますように 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン ページの先頭へ |
「私を真に生かす命のパン」ヨハネ6:41-51 2024.8.11 大宮 陸孝 牧師 |
「わたしは命のパンである」(ヨハネによる福音書6章41節) |
ヨハネ福音書の本日の日課は先週の続きです。イエスのパンの説話で、ここから対話の相手は、群衆から「ユダヤ人たち」に変わります。彼らは群衆以上に頑なで、イエスに対して反抗的です。イエスは「わたしが命のパンである」(35節)と語られました。これはイエスの強い宣言の言葉でありまして、イエスのこの宣言は人々の間に呟きを生じさせました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)と語られたイエスが、続いてその約束の内容を、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(39節)、また「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(40節)と具体的に説明されたことが、人々をつぶやかせた原因でありました。人々にとってその素性の知れているイエスが、このような言葉を語ることは不遜であり、受け入れることのできないことでありました。41節以下は、このような状況を受けて、32節〜40節に述べられた内容をさらに深めていくイエスの説話が続きます。 41節〜42節「ユダヤ人たちは」 このユダヤ人たちはガリラヤから来た者たちです。カファルナウム会堂司やその地の主立った人たちで、ナザレとの交通もあったので、イエスについても知っていたと思われます。「イエスのことでつぶやき始め」 このつぶやきは、エジプトを脱出したイスラエルの人々が荒れ野でつぶやいた出来事を思い起こさせます。ここでの彼らのつぶやきは、イエスの出自であるナザレの両親が知られており、それで、イエスは自分たちと同じ地域に住む住人であるのに、「わたしは天から降って来たパンである」と宣言されたことに向けられております。神の顕現様式である「わたしは・・・である」(エゴーエイミ)という主張をイエスが表明したということは、彼らに取って躓き以外の何物でもありませんでした。 「これはヨセフの息子イエスではないか。われわれはその父も母も知っている」(42節) ヨハネ福音書の背景には、イエスの神性を否定し、イエスをわたしたちと同じ普通の人間とみなし、一時的にメシアの霊が乗り移ったと言うように考えて、人間イエスと神の子キリストを分離する異端があったと考えられます。(キリスト仮現論ドケティズム等)、ヨハネはこのような主張に対して、イエスこそメシアであることを告白したのです。そういうことですから、ここでの人々のつぶやきはヨハネにとっては無視することのできないものであったのです。ヨハネの立場は、ヨハネ福音書の締めくくりの言葉、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである」(20章31節)という言葉で明確であります。この言葉はヨハネの手紙においてもくり返し主張されています。共観福音書では、この42節のユダヤ人たちのつぶやきの言葉は、イエスが郷里のナザレを訪れた時に人々が語ったとされています。 ユダヤの人たちは、イエスがヨセフの子であることに躓きます。別の言葉で言いますと、イエスがただの人間、平凡な大工の子である事実に躓いたのです。イエスが一人の人間であるにもかかわらず、「天から降って来たパンである」と語られたことは許されないことだと、つぶやき始めたのです。 イエスは一人の人間でありました。神は独子をこの世に送り、一人のユダヤ人、大工の子としてわたしたちのただ中に送り、そのイエスを通して神の御旨と神の真理を明らかにしてくださいました。ここにメシアの受肉の秘義があります。いよいよメシアとしての公生涯を歩み出すに先立つ荒れ野での誘惑で、サタンはイエスに超人であることを要求し、それによって人々の注目を集めることを迫りますが、しかし、イエスはこの誘惑を厳しく拒否して、ただの人間として、見るべき姿なく、貧しく、弱い一人の人間として歩み出すのです。イエスの生涯は飼い葉桶の誕生からゴルゴダの丘の十字架に至る人間の生涯でした。そしてそれが神の意志であり、ヨセフの子イエスの中に神は働きたもうのです。 43〜46節ここでのイエスの反論は、彼らのつぶやきを真正面から反駁するものではなく、それよりももっと深く彼らの不信仰の根源を顕わにするものでありました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」この世はイエス・キリストがどこから来るべきかを自ら規定しようとするのですが、しかし、それは人間の力の及ぶところではありません。「引く」(ヘルクエイン)は、舟とか車のような重い物を力一杯引っ張るという表現です。ヨハネ21・11にあります「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」この「引き上げる」という語が、6章の「引き寄せる」とおなじです。それは力の限りを尽くしてという表現なのです。 「父(神)が引き寄せてくださらなければ」という表現は、何よりも神の絶大な恵みと導きと選びを告白しているのです。わたしたち人間の霊的な無力さが明らかにされていると同時に、そのようなわたしたちを神がご自身の霊的な力で引き寄せてくださる時、人は誰も逃れることができないという主張があります。いかなる誘惑があろうとも、神の救いの手は、イエスにおいて力強くわたしたちをご自分に引き寄せてくださっているのです。ヨセフの子イエスが、天から降った命のパンであることに躓かない者は幸いであります。なぜなら「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父のもとに行くことはできない」(14・6)からです。 45節 主イエスは旧約の預言のことばを引用することによって、ご自分の主張を裏付けます。ユダヤ人たちは人間の教えや奨めによって、また律法学者の知識や祭司の仲介によって、神に至ると考えていました。しかし、いまや、イエス・キリストにおいて、神はすべての人のうちに直接語りかけられるのです。「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです」(第一テサロニケ4・9)神のみが真実に信仰を生み出す教師です。神に教えられ、み言葉を聞いて学んだ者は、イエスのもとに導かれ、イエスの弟子とされ、永遠の命を受けるのです。神から教えられるとは、イエスとの人格的な交わりを通して教えられることを言うのです。 46節「神のもとから来た者だけが父を見たのである」ヨハネ福音書の序文の言葉を想起させます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1・18、他14・8〜11)。 真に神を見、人々に父を知らせることができるのは独り子イエスのみであります。神は人間に、その愛する子であり、この世に遣わされた者を通してだけ、ご自分を現わされ語られることを明らかにしています。旧約聖書や預言者に啓示された神の意志は、今や、御子のうちに集中され、神の核心的な救いの働きは、イエスの地上の生涯のうちになされているのです。この世的な肉の目ではなく信仰の眼を持ってイエスの言動を見ていくのでなければ、神のこの霊的な事実はわたしたちに見えて来ないと言っておられるのです。 47節でイエスは「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(直訳は【アーメン・アーメン、わたしは言う】です。)ユダヤ人のつぶやきに対して彼らを納得させようとして説明しているのではありません。今起こっている神の真実の救いの出来事を語り、それを見ようとしない彼らの不信の根源的な問題を明らかにしているということです。 48節〜51節「わたしは命のパンである・・・わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」間に「あなたたちの先祖は荒れ野でパンを食べたが、死んでしまった」とあるのは、マナで養われたイスラエルの先祖たちは、一時的には飢えをしのぐパンで養われたが、それは朽ちるパンに過ぎないのだ。わたしの言うパンはそれとはちがう命のパンであると言われるのです。 信仰とは固定的・教条主義的に、物差しで測るような、信仰箇条や教義を知的に承認することではありません。「命のパン」はわたしたちが何か物を持つように、わたしたちの手の中に持つことの出来るものではありません。神がわたしたちの所に来てくださり、わたしたちを生かすために十字架の死を死んでご自身を捧げ、人を神に和解させ、蘇って死に勝利し、わたしたちを新しく永遠の命に生きる者としてくださいました。その死を超えて復活の命を与えるパン、それがわたしだと宣言しておられるのです。 イエスは死に対する救い主であり、ご自身が生命を持つ生きたパンであるから、命を与えることができる。そしてわたしたちは、その恵みを信じる信仰において生命のパンをいただくのです。「信じる」と「食べる」はここでは同義語です。つまり、イエスという生きた命のパンを食し、その命のパンであるイエスに身を委ねて、人格的な交わりに入ることです。神が恵み深くわたしたちを引き寄せてくださったがゆえに、わたしたちの身にそのような恵みの出来事が事実として起こっているのです。 信仰とは、今も、わたしたちの日々の生活の中で、主なる神がわたしと共にいてくださり、わたしたちの罪の全ての問題を背負って贖い続けていてくださる。それによって、わたしたちが神の前に永遠に生きることができるようにしていてくださっている。その恵みを信じ通すことです。 お祈り致します。 父なる神様。あなたはわたしたちを生かす真実の命の糧を、憐れみと愛のうちにイエスを通して与えてくださいます。わたしたちは、あなたの御子イエスを通して与えてくださる贖いの業に全てを委ねます。どうか、あなたの御言葉の糧を、新しく生きる力として信仰の歩みを歩んで行くことができますように、あなたの確かな霊によってわたしたちの魂を養ってください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン ページの先頭へ |
「永遠の命に至る糧」ヨハネ6:22-35 2024.8.4 大宮 陸孝 牧師 |
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネによる福音書6章33節) |
ヨハネ福音書6章は命に至るパンが主題となっています。まず、五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人が養われる奇跡物語から始まります。人々はイエスがなさった奇跡を体験して、イエスを王にしようとしますが、イエスはただ一人山に退かれます。そして、ガリラヤ湖で嵐に悩む弟子たちのところにガリラヤの湖を歩いて行かれて、「恐れることはない。わたしだ」と語られ、主イエスがいつもわたしたちの傍らに共にいてくださることを先週わたしたちは学びました。そして本日はパンの奇跡の深い意味を明らかにする主イエスの長い説話に入って行きます。 全体は劇的な展開によって構成され、22節から25節はイエスと群衆の再会、26節から40節はイエスと群衆の対話、41節から59節がイスとユダヤ人との対話という構成になっていて、群衆の無理解とユダヤ人の強烈な反抗による対話を通して、次第に彼らの真相を暴露しながら、イエス自身が何物なのかを明らかにして行くと言う流れになっています。冒頭で申し上げたようにその主題はまことの命のパンを与える方であり、命のパンそのものであるイエスの真相を明らかにしているのです。 わたしたちの日ごとの糧は、わたしたちの生活を支える基礎であり、主の祈りも「わたしたちに今日もこの日の糧をお与えください。」との求めを含んでいます。主イエスはそのようなわたしたちの霊的な命にとって必要不可欠の存在であることを語っているのです。イエスの真理によって生かされている初代教会の信仰者の証言によって、そのような「生命をもたらす真理」が、イエスその方であると明らかにされたということです。 22〜27節は、主イエスによる「パンの説話」の導入部とも言えるところです。群衆とイエスとの再会の物語と、説話の主題が出て来ます。「群衆が湖の向こう岸に残っていた」というのは、イエスと弟子たちとが既に到着していたカファルナウムの側から見た表現であり、パンの奇跡が行われた場所を指しています。「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た」(23節)イエスを必死に捜し回る群衆の姿が浮かび上がります。 イエスを求めてやって来た群衆に対して、主イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と批判されます。パンはしるしであって、人間を生かす本質ではない。つまり神ではないと言うことを言おうとしています。人間を生かすのは神であり、神から遣わされたイエスであることを証ししている言葉です。ところが、群衆はこのしるしが指さし示そうとしている者を見ようとせず、しるしそのものに心を奪われてしまっています。「満腹する」は元来は動物が餌を充分に食べて満足している様子を現すものであって、「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ四・四)ことを知らずに、肉の糧だけで満足している人間の「満足している動物」的な姿を現したものと思われます。神の恵みのしるしは、信仰をもって受け取られ、恵みを与えたもう神に導くものとなるとき、「恵みのしるし」となるのですが、それ自体が関心の的になるとき神への道を閉ざす躓きとなります。 そういうことで、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(27節)と教えられます。肉の糧ではなく霊の糧をもとめることが勧められるのです。「永遠の命」とは、時間的な延長という形での命の継続だけではなく、それをも含めているのですが、中心点は、生命の質の問題、つまり、「永遠者なる神との生き生きとした交わりの内にある生命」のことです。今、永遠者なる神によって生かされている命は、死を恐れません。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14・19)という恵みと力を受けているからです。これこそ、「永遠の命に至る朽ちない食べ物」であります。 この食べ物の与え主は「人の子」つまり、地上のわたしたちの内に歩まれる神です。この方は、神と人との中保者として天から降りて来られた方です。イエスは天から降りて来られた方である故に、「天からのパン」をもたらすことができるのです。「父である神が、人の子を認証されたからである」認証されたは元来「証印を押す」という意味で、信任状に証印を押すということ。ここでは、父なる神の業がイエスに委任された意味で、ヨハネではこれは具体的には、主イエスに聖霊が降ったことにより神の子と認められた出来事を指すものと考えられます。ここにイエスの救い主としての働きが示されています。キリストの与える永遠の命に至る朽ちない食べ物」を受けてキリストの香りを放つ人間に成長していく霊的成長のことを語っているのです。 27節で主イエスから「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と勧められたことから、群衆は「神の業を行うためには、何をしたらよいのでしょうか」(28節)と問います。ここに旧約聖書の律法主義的なユダヤ人の関心が表現されています。神と人との関係が問題になる時、彼らはいつでも自分が何をなしたか、何をすれば神に受け入れられるものとなるかを第一に考える律法主義的な特性があります。神と人との橋渡しをする時に、人間の方から橋を架ける発想です。これは人間の罪に対する認識不足から生じる誤解です。人間の方から神に橋渡しをすることは不可能な試みであり、バベルの塔を築くような人間の傲慢であることを認識していないのです。 これに対してイエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神のわざである」と答えられます。(29節)群衆は「神の業」を複数形で言い表していますが、イエスは単数形で答えておられます。永遠の命を受けるためには、もろもろの業を修行によって修得するような秘伝があるわけではなく、必要なことは、神と人間との間を人間の側から架橋しようとするのではなく、神からの架橋を受け止めることである。仲立ちをされるイエスを信じて受け入れることである。永遠の命に至るかどうかはこの一点にかかっているのだと、明確に語っておられるのです。この主張はパウロの信仰義認の教えと同じことが明白に示されているところであります。ルターが言うように、この信仰は教会にとって立ちも倒れもする重要な条項なのです。 このことは、信仰以外のことは無用であるとすることではありません。むしろ、この世でのわたしたちの全ての生活を、イエス・キリストに委ねるとき、わたしたちの生活と行為が、イエス・キリストの導きのもとに置かれることを意味するからです。 ですから、わたしたちの全ての行為が信仰なしに行われる時、全ての行為が自己義認の行為として神から裁かれることになり、イエス・キリストへの信仰に生きる時に、その信仰から出る全ての行為が「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝」(ローマ12・1)として神に受け入れられるということです。信仰が神のただ一つのわざと言われるのは、イエス・キリストを信じることを通して、わたしたちが神の子とされ、神からの聖霊によって導かれるようになるからです。キリスト者の生活は、自分から神への架橋ではなく、神からの架橋を恵みとして受け取り、これに感謝し、応答して行く、「応答の生活」なのです。 30〜31節では、群衆はイエス・キリストへの信仰を促されて、今度はその保証を求めます。信仰はイエスによって与えられた神の恵みに対する人格的な信頼であり、応答であり、その恵みに自らを委ねて行く決断の行為であるのに、、なお、そこで保証を求めて行くのです。これは、自己への固執であり、不信仰への安住であるということになります。群衆はモーセがシナイの荒れ野で、イスラエルの民にマナを与えた出エジプトの出来事を引き合いに出しまして、イエスにも同様の奇跡を求めます。群衆はイエスに生活の糧を求めたということになります。 イエスはそれに対して「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(32〜33節)と答えられます。ここではモーセについては「与えた」と過去形が用いられ、イエスの父なる神については「与える」と現在形が用いられている。マナはなるほど神からのパンではあるのだが、それはあくまでも肉の糧としてのパンであった。地上の食べ物に過ぎなかった。そしてそのマナは確かに恵みとして神から与えられたものではある。そういうことでそのマナは天からの真実の糧のしるしであったのだ。今はマナが指し示している真実の霊の糧をもってわたしたちを養いたもうお方イエスを、天の父が与えてくださった霊の糧として信仰をもって受け取ることが求められているのです。かつてはモーセを通して肉の糧なるパンを与えた父なる神は、今に至るまでイエスにおいて生きて働いておられ、その恵みは日々新たに与えられ養われるのです。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」(哀歌3・22節〜23節)わたしたちは過去の救いの歴史に目を奪われて、今日、今、与えられている霊の糧の恵みを見落としてはならないのです。 ヨハネ福音書では、イエスが天から降り、そして、十字架の贖いの業を通して天に上るということが強調されています。ここで、イエスが天から降り、霊的生命をこの世にもたらす神の霊的なパンであることが示されています。「命のパン」それは神を起点とする新しい命の創造の始まりを意味します。神はその起点をイエスに置いたということです。わたしたちはその神の新しい創造の業のうちに恵みのうちに入れられて、霊に溢れる命を生きる者となるのです。 お祈りします。 父なる神様。あなたはわたしたち一人一人にこの世を生きる命をお与えくださいました。わたしたちがあなたの深い憐れみの内にこの地上での命をなお感謝を持って生きて行くことができるようにお導きください。 この地上にあなたの御旨によって建てられました教会が、命と霊の糧であるあなたの御言葉を聞き、また御言葉を力強く語り続けることができますようにお導きください。また、教会がこの地の塩としての役目を果たして行くことができますように、あなたがお遣わしになった牧者と、教会に連なる一人一人に御霊による平安と喜びをお与えください。 主イエス・キリストの見名によってお祈りいたします。 アーメン ページの先頭へ |