「神の恵みの時の到来」ルカ4:14-21 2025.1.26 大宮 陸孝 牧師 |
「主がわたしを遣わしたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカによる福音書4章18−19節) |
本日の福音書の日課直前のルカ福音書4章1節以下において、イエスが荒れ野の中を霊≠ノよって引き回され、サタンの誘惑に遭われた後、14節で再び霊に満ちてガリラヤにお帰りになった。そして引き続き、霊と力に満ちてガリラヤの諸会堂で教えられたと報告されています。この間のサタンの誘惑の持っている意味は、一方ではイエスの働きは、神の言葉に堅く根ざしているのであり、エヴァが誘惑を受けた時のように、神の言葉から逸れて(それて)行くことはないという一つの否定としての意味があります。そしてもう一方では、この誘惑以後のイエスの生き方を通して、神の言葉に根ざし、神の意志に従うとはどういうことなのか、その確かなメシアとしての歩みを明らかに示していくことへと繋(つな)がって行くのです。 聖霊の導きを引き続き受けながら、イエスはガリラヤに戻り、引き続き、霊と力に満ちてガリラヤの諸会堂で教え、その結果、「皆から尊敬を受けられた」と報告されています。霊に満たされるとは、世の惑わしや誘惑のただ中にあり、それに晒(さら)されながらも、いつも神の霊によって導かれ、神の子として生きて行く力を神から与えられて行くことを意味しています。ガリラヤの諸会堂では、人々はイエスを「聖霊によって遣わされたメシア」として受け入れて行きます。ここでルカ福音書は、イエスというお方は永遠なる神の言葉が聖霊によってこの地上に受肉された。そして聖霊による洗礼を受け、聖霊によってこの地上で働かれる。この方をそのような神の霊の人として受け入れる所に教会が建てられていく、その歴史をこれから語ろうとしているのです。 16節以下で今度は、そのイエスをナザレの人たちも同じように受け入れるか否かが問われて行きます。ガリラヤ伝道の比較的初期の段階で、イエスはお育ちになったナザレにも福音を宣べ伝えに赴(おもむ)かれます。会堂礼拝が始まり、既にモーセ五書から一箇所が読まれていたと推測されますがそのことは書かれていません。その次に、会堂の中の礼拝に参加している者は誰でも任意に立ち上がって、預言書を読んで説教をすることができました。イエスは早速立ち上がられ、係の者からイザヤ書を手渡されると、恐らくイエス自身によって意図的に選ばれたのであろうと思われるイザヤ61章の最初の部分をお読みになりました。ルカ福音書のここまでのイエス顔語りになった言葉は、すべて聖書からの引用で在りました。その傾向はこの4章でも続いていて、さらにイスラエルに与えられた神の言葉に啓示された救いの計画にイエスご自身を結びつけています。これまで聖書からの引用で明らかにした神に対する信頼という点に立って、イエスは今やご自身の宣教のひな形となるであろう聖書の節を確信を持って読まれたのです。これまでの聖書の引用の流れを読んで行きますと、神の揺るぎない誠実さを確信を持って語り、さらにそのような神の誠実さに決然と応答して行くイエスの姿が見えてきます。 ルカ福音書は、イエスの中心的な福音は神の恵み時の到来である、と語ります。これはマルコ1章15節と重ね合わせて理解することが出来ます。「イスラエルの信仰者たちが長い間待ちに待っていた神の国が、約束の時が満ち、全ての準備が整い、今わたしイエスが地上に来たことによって、あなた方のすぐそばまで来た」との宣言であります。 18節の前半で「貧しい人に福音を知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」と、イエスは再びご自分が聖霊によって遣わされたメシアであることを強調されます。3章22節の「聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た」の聖句が彷彿(ほうふつ)として思い起こされます。イエスはここでご自分の到来によって、今までまったくなかった、新しい時、主の恵みの年が来たと語られ、18節後半から19節では、そのイエスによってもたらされる神の国がどのようなものであるかがさらに示されて行きます。 「主がわたしを遣わしたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と朗読されます。「捕らわれている人の解放」は奴隷に対して七年目ごとの解放(出エジプト記21章1節以下)を想起させ、「主の恵みの年」はヨベルの年(レビ記25章)のことで、五十年目ごとに訪れるあらゆる土地、畑、家屋、借財、奴隷関係からの解放を思い起こさせます。 ルカ福音書は、この雄牛の角笛が高らかに鳴ることによって始まるヨベルの年への言及によって、メシア到来の幕開けがどのようなものかを語ろうとしているのです。全ての負債の帳消しとは、救い主による罪の赦しとその喜びを象徴しています。罪の赦し、それは言うまでもなく、神と人間の和解のことであり、新しい神の国の創造であり、喜びの極みでもあります。全ての貧しい者、囚人(罪に捕らわれている者)、目の不自由な者(神の真理が見えなくなっている者)、圧迫されている者たちは、それらの束縛から解放され、神とのあたらしい関係に生きる喜びに満たされるというのです。 イエスはこのイザヤ書の箇所を、聖霊に満たされて、力強く、喜びに満ちて、感銘深く朗読したと想像されます。福音を告げ知らせる、あるいは宣べ伝えるというのは、もともと、時の為政者である大王の勅令(ケーリュグマ)を大王に代わって伝令が布告することを意味していて、イエスはここでそのように聖書をお読みになり、その後でなされた説教は一層のこと、霊と力に満ちたものであったと思われます。イエスが神に代わって、神の権威をもって、神がもたらす福音を宣べ伝えた場面であったということです。そのこととの関連で、「主がわたしを遣わされた」と語られているのです。イエスはわたしたちのこの世界にご自分からメシアとして乗り込んで来られたのではなく、あくまでも、父なる神に御霊を注がれて、派遣されて来た者であられる。この自己意識を徹底して最後まで、十字架の死にいたるまで持ち続けられるのであります。 20節 イエスは聖書を読み終えて係の者に返し、席に着かれます。説教をするためです。今まで聴いたことのないような力強い聖書朗読に続いて、イエスが何を話すのかと、会衆は一斉にイエスを注目します。そしてイエスはお語りになる「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」この短い説教は、少なくともしばらくの間は、人々がイエスの出自に思いを致し、一転して躓くまでは、その霊性と力強さに対する非常な驚きと賛嘆が止まなかったと21節に記されます。 ここに語られるイエスの「今日」という言葉は、ルカがよく用いる特別な含蓄を含んでいる言葉です。2章11節「今日ダビデの町で、あなたがたのため救い主がお生まれになった」というイエス降誕の記事、19章9節「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」ザーカイに対するイエスの言葉です。23章43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に対する約束の言葉です。このどれも、すくいの出来事が現に起こっている、あるいは現に起こるその時(カイロス)を現しています。使徒書簡で例を挙げますと、コリントの信徒への第二の手紙6章2節「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」の今がそれに相当します。つまり、救いの出来事が成就する「今日」であり、神の恵みと救いの言葉が語られ、聴かれた決定的な瞬間に、その神の言葉によって創造の出来事が起こる「時」のことです。 「今日、あなたがたが耳にしたとき」は直訳すれば、「わたしがこれをここで語っていることを聴いたあなた方の耳の中で成就した」となります。完了形です。「わたし(神)の口から出るわたし(神)の言葉もむなしくは、わたし(神)のもとに戻らない。それはわたし(神)の望むことを成し遂げ、わたし(神)の与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55章11節)との確証にもとづいて、神の子その方がそこに現臨され、これを語られているのです。わたしたちのもとに来られた神の子イエスその方が「今日それが成就した」と語られた。イエスの語られたその言葉が、聴く者の耳に届いた時、その時その場所で、神の御国は成就したのです。 イエスの臨在を通して神の救いの力が満ち満ちている、イエスの語られた神の恵み深い約束の言葉が実現している。神が救い主を「遣わし」、「聖書」を与え、イエスがその聖書を解き明かし、神の救いの業の実現を告知してくださった。本日の礼拝も、この二千年前のナザレの会堂でのイエスの説教そのままの繰り返しであり、継承なのです。御霊によって遣わされたイエスは、今日も御霊によってわたしたちをも導き、イエスにおいて成就した十字架の救いの業が、わたしの内にも成就し、わたしを神の救いのわざの証言者としてお立てになります。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(ローマ書10章15節)とあります通り、わたしたちはイエスにおいて成就した神の御言葉を、聖霊に導かれ深く黙想する時に、わたしたちも祝福の内に成長して行くのです。聴いたわたしの耳の中で福音の出来事が起こるのです。わたしたちがイエスを救い主キリストとして受け入れ、キリストがわたしの中に生きる事実があるところに真の御言葉の成就があるのです。 お祈り致します。 神様。今あなたの御言葉が成就していることを感謝致します。またあなたの新たな創造の御言葉がイエスによって語られていることを感謝致します。それを耳にしたわたしたち全ての人たちが、あなたの創造の御言葉を耳の中に収め、心に刻み、信じて、新しくされ、あなたの救いの業を証する証人となることができますように、わたしたちをあなたの恵み深い御言葉と聖霊によって導いてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン ページの先頭へ |
「永遠の命に満たされる」ヨハネ2:1-11 2025.1.19 大宮 陸孝 牧師 |
すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音書3章22節) |
ヨハネ福音書は、第1章ロゴス讃歌で始まり、先駆者ヨハネの登場とヨハネによるイエスについての証し、最初の弟子たちの召命に続いて、2章から12章までは、2章11節で確証されていますように、イエス顕現の奇跡、イエスの栄光を世に啓示されたイエスの働きが述べられて行きます。そこまでがヨハネ福音書の第一部となります。それに続く13章から19章までが第二部で、最後の晩餐の場面と弟子たちへの告別説教(13章から17章)、そしてイエスの世への啓示の働きと、イエスの十字架の死とその前後の関係の出来事が語られ(18章から19章)最後は、空虚な墓と復活のイエス(20章1節から29節)の叙述、そして終章20章30節から21章25節で締め括られます。本日の日課は2章1節から11節です。1章51節のイエスがなされた約束から三日後のガリラヤのカナでの最初の奇跡物語が取り上げられています。 カナはイエスの生まれ育ったナザレの村から北の方角へ一〇キロほど離れた丘陵の村で、今の「クルペート・カナ」であろうと言われています。おそらくイエスは子供の頃その辺りを遊び廻っていたのかも知れません。そしてカナの知り合いの婚礼にイエス一家が招かれ、イエスの弟子たちも、招待され出席したものと思われます。ヨハネ福音書では、イエスの公的な活動はこの「カナの婚礼におけるぶどう酒の奇跡」をもって開始され、次の「宮清めの出来事とその後の論争」の記述へと続いて行き、11節でそれが「最初のしるし」であったと述べられ、さらにもう少し先の4章46節で、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」という一区切りのまとめの結びの言葉が示しているように、イエスの最初の公生涯の働きはガリラヤのカナから開始され、カナに戻る形で記録されているということになります。このナザレの北方にあるカナは小さい村落と言うよりは少し大きい町で、レバノンとイスラエルの国境に近いガリラヤ湖北東部のティルスのカナと区別するために、ガリラヤのカナと言われています。 奇跡物語の内容を理解する上で、ナタナエルの召命記事の最後の1章51節「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に登り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と、2章11節「それで弟子たちはイエスを信じた」という前後の文脈を抑えておくことが不可欠です。 2節「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」この物語が一連の弟子召命との繋がりに立ちながら、11節の「弟子たちはイエスを信じた」で締め括られていくことで、弟子たちこそ、神が人となったイエスの顕現を受け、信じた人々であると、この物語を通してヨハネが示そうとしているということです。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた『婦人よ。わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。マタイ、マルコ、ルカの三共観福音書にはマリアという固有名詞は出てきますが、ヨハネ福音書では一度も出て来ません。いつでも「イエスの母」とか、または「婦人よ」と呼びかけの形で出てきます。恐らくヨハネ福音書記者は、地上のイエスの活動、人間イエスの活動よりも、地上を歩む神としてのイエスを描こうとして、少し客観的な表現を使用していると考えられます。 イエスの教えの本質は「神の国」であります。神がこの世を直接支配される時が目の前に近づいていると教え、その神の国をしばしば婚礼にたとえておられます。神の国は神の愛の支配が完成する状態であり、そこでの神と人間との愛と喜びに満ちた交わりは、結婚の喜びにたとえられます。ここではたとえではなく、カナにおいての実際の婚礼に、イエスが出席して、祝福を送られたのでありますが、その婚礼のさなかのお祝いの宴席で、ぶどう酒が不足するという困った事態が起こりました。台所にいる人たちは、残り少なくなったぶどう酒をすぐに補充する目処も立たず、気をもんでいました。「ぶどう酒がなくなった」。それは些細なことかもしれません。ユダヤ人社会での婚宴の風習では時には一週間も続きました。その喜びの宴席でのぶどう酒の不足と言う些細な出来事は、取るに足りないことであるにしても、人生の喜びというものがいかにそのような取るに足りない些細な困惑から崩れていくものかという、わたしたち人間の喜びのはかなさ、そして、人生の根本的な弱さがここであらわになっていると見ることができます。 そのような些細な困惑を、イエスの母マリアはイエスの前に持ち出します。息子の所に近寄って「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。なんとかしてあげられないかとの苦衷(くちゅう)を訴えたのです。およそ人間の困惑のことがらで、わたしたちが祈りにおいてイエスの前に持ち出してならないことはありません。それがいかに些細なことであれ、それが人間の困惑であるならば、それはイエスに関わることであります。人生を取りたもう神にとって、人間的なものでおよそ神ご自身に無縁なものはないのです。 しかし、そのときにイエスは母マリアに謎めいた言葉を発します。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」と、何かよそよそしい印象を与える返事でありました。「婦人よ」という呼びかけは別に軽蔑の言葉ではありませんが、どことなく不自然です。しかし、これは母に対するイエスの拒絶を意味する言葉ではなく、その直後の「わたしの時はまだ来ていません」ということばでその真意が表されて行きます。この時点での母マリアはまだイエスの存在の真の意味を理解していないことを示していると見ることが出来ます。ここで言われている「時」はギリシャ語のホーラ≠ナ、この言葉はヨハネ福音書では、すべての業は父なる神に定められているという「時」のことを現しています。同時にここでは特にイエスの十字架と復活の時が暗示されている、そういう「時」です。これからイエスを通して行われることは、神の意思に基づいて、イエスの主権的な自由において行われることであるとの宣言なのです。そういうことなので、わたしたち神の前にそれぞれの困窮を率直に祈り求めて行く者は、イエスの自由と愛に信頼して委ねること、そしてイエスに信頼し委ねて行く信仰は待機して待つ、そのような信仰を生み出すものであることを明示しているということでもあります。 「わたしの時」というのはヨハネ福音書では、十字架上の死と、栄光を受ける復活の時を同時に意味しています。イエスは、十字架の死に至るまで、父なる神の意志に徹底的に従順でありましたが、その十字架における栄光を受ける時はまだ来ていないと、ここで告げているのです。イエスご自身は、自らが神のご意志を体現する者、つまり神の子であることに徹して、教えと神の業の遂行に集中します。その意志の表明が「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」という言葉になったのです。 5節「しかし、母は召使いたちに、『この人が何か言いつけたら、その通りにしてください』と言った」とあります。母マリアがイエスに全幅の信頼を寄せている言葉です。人間は誰も、たとえ祈りによってもその「時」を決定することはできません。それはイエスの主権に委ねられていることです。人となった神の子は人性にありながらなお神性にあるのです。そして「子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(ヨハネ5:19)とありますように、イエスの主権は父に対する従順と一つなのです。ここでイエスが何かを語り、何事かを為すことはすなわち「父なる神に対する従順と人間に対する主権をもって為す」ことであると言っていることになります。 ここで奇跡が描かれて行くのですが、ヨハネ福音書1章では登場人物はまだほんの数人でしたけれども、本日の日課以降には大勢の人々が登場します。イエスの弟子以外に、イエスの母、召使いたち、宴会の世話役、花婿、この方々がイエスの最初の奇跡、しるしを見た、経験したと言う描写になっています。ここでの特徴は宴会の世話役がこのしるしの確認者となっていることです。水が味の良いぶどう酒に変わったことに気がついた、という描写がそれです。そして不思議なことにその奇跡によって信じたのは、弟子たちだけであったように記述されています。めざましいこと、驚くべきこと、病気が治ったとか、あるいは水がぶどう酒に変わったと言うことを見て、そこに居合わせた人々が驚いて信じたということを強調する構成にはなっていません。そして、このしるしがどのように行われたかについても注意が向けられていません。ただ僕たちがイエスの命じるままに清めに用いる六つの水瓶の淵まで水を汲み入れ、それをくみ分けて、宴会の世話役の所に運んで行った時、その水は宴会の世話役を驚かせるほど上等のぶどう酒に変わっていたとあるだけです。人間の喜びの祝宴が尽き、危機に陥っていたのが、尽きない喜び、尽きない祝福に変えられたというのです。 ヨハネ1章17節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と語っていました。カナでの最初のしるしには、このヨハネのメシア・キリスト観が反響していると見ることができます。ヨハネ福音書1章でバプテスマのヨハネが、キリストは神との正しい関係を喪失し、神の前から失われた人間をもう一度神に取り戻し、本来の人間に再び作り変える命の御言葉による再創造を通して、キリストの恵みを充満させると証ししています。2章でイエスが行われた最初のしるしは、この被造物の再創造を通してのキリストの恵みの充満を意味し、さらにその恵みの充満はまた人間の喜びの充満でもあるということを意味し、その溢れるほどのぶどう酒は、旧約聖書の背景から言えば、ヤコブの祝福の実現であり(創世記49章11節〜12節)、神と人との新しい永遠の契約の締結の時(ホセア2・22)を示し、救いの時のしるし(アモス9・13)でありました。そのように旧約時代に預言されていた救いの恵みの時がイエスによって今実現しようとしている、そのしるしなのだということです。 11節では、この最初のしるしをイエスがカナで行ったこと、それによって栄光を現したこと、弟子たちはそれによって信じたことを結びの言葉としています。ここに「しるし」と「栄光」と「信仰」が結合し合っていて、しるしは、信仰の眼をもって見る者に、イエスは神が人となって来られた神の子であるとの確証を与えると示されているのです。ヨハネ福音書1章14節に「わたしたちはその栄光を見た」とあります。この、わたしたちとは、直接的には初代のヨハネ教会の人々の信仰告白ではありましょうけれども、信仰の眼によってこの栄光を見、そして信仰から信仰に至るその後に続く新約時代の教会の全ての信仰者を指すということでもあります。あの時の恵みは寸分違わずこの最初のしるしの証しを信仰の眼と心をもって聞いた今日このわたしたちに示された栄光であり、与えられた恵みでもあるのです。 イエスが貧しい人の子として生まれながら、真実は神が人となってわたしたちの所に来られた方であり、すべての人々に生命と光りを与えるために来られた神の子であり、その神の子、救い主としてわたしたちを救う隠された本当の栄光を表すイエスの言葉と業を指してしるしと言っているのです。イエスの行うしるしは、信仰の眼を持ってだけ分かるわたしたちを生かす再創造の命の御言葉のことです。この自分に向けられているイエスにおいて語られる御言を通して、神との出会いが起こるのです。 お祈りをします。 天の父なる神様。はじめにあなたが天地を作り、わたしたち人間を作ってくださった恵みの現実を、今日御言葉を通して新たに示していただきました。わたしたちは土の器であり、脆い存在です。しかし、この脆い土の器にあなたご自身の愛と命を吹き込んでくださり、この地上にわたしたちを立たせてくださっていますことを感謝いたします。新しい一年のわたしたち一人一人の歩みも、主の御手より命の息吹を受けて新たに生きて行くことができますように。世界はいま凍えています。どうか世界の全ての人々にあなたの命の息吹をお与えくださって、心を真理の霊で燃やしてください。そして全ての人々に主の喜びの息吹を与えてくださって、あなたの恵みに満たされ、生かされ、与えられた人生を喜んで歩んでゆくことができますように、御言葉をもって導いてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン ページの先頭へ |
「神の子として生きる」ルカ3:15-22 2025.1.12 大宮 陸孝 牧師 |
すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音書3章22節) |
本日のルカ福音書3章のところは、イエス・キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネが登場して参ります。そのヨハネは人々に次のようなことを説教いたします。一つは、差し迫った終末的な、「神の怒り」に備えなさいということ、第二には、「悔い改めにふさわしい実」とは何かということ、そして第三には来たるべき方「メシア」についての証言であります。それに続いて21節以下は、バプテスマのヨハネからイエス・キリストの物語、本論へと移って行きます。短い文章ですが、このところで、一つにはイエスの受洗、二つ目は聖霊の降臨、そして三つ目には天からの御声と三つの事柄が手際よく報告されています。今週はそれについて順番に考えていきたいと思います。 21節の前半「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とこのように言われています。聖なる神の御子イエスがなぜ「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を受けなければならないかいう疑問は、早くからありました。そこでたとえばマタイ福音書ですと、実はバプテスマのヨハネが辞退したのだけれども、たつてのイエスの願いだからやむなく洗礼を授けましたと、弁明しております。ヨハネ福音書では、もう洗礼のことは一切省きまして、ただ聖霊が降ったことだけをヨハネが語る、そういう形になっております。 それでその点、ルカは、独特な手法を使って、ここの「イエスも洗礼を受けて」という文章は従属節になっていて、文章の中で本当に報告したいことは、天が開けた、聖霊が降った、天からの声がしたという三点になっているということです。いかにも超自然的なこの三つのことを報告したい。ただ、そのことの状況を描く従属節として、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と、こういうふうに受洗の事実を語るだけであります。しかもこのイエスの受洗は、「民衆が皆」受けているのに混じって、その一人として当然のように「イエス」も受けられましたというのです。 ルカ福音書は既にクリスマス物語で、あれほど天使たちが晴れがましく紹介した神の御子イエス・キリストが「四日目には割礼を受けた」、そしてまた一カ月ほど経ちますと、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた」ので神殿に連れて来られたというふうに、当然のことのように、イスラエルの一般の民と同じように、生まれながらの汚れを清める割礼だとか清めの儀式だとか、そして大人になると洗礼だと、こういうふうに描いているということになります。ルカにとってイエス様が、神の御子ではあられますけれども、民と汚れに満ちた民衆と全く同じ人生を引き受けてこの世に来られたということを、はじめから繰り返し繰り返し語ってきました。 パウロはコリントの信徒への手紙U5章21節で、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」、こう言います。「罪と何のかかわりもない方」だったのだけれども、「わたしたちのために罪と」されました。ですから、イエスはわたしたちと同じように、罪の許しを得させる悔い改めの洗礼もお受けになりました。 ルカの独特な点は、さらに「祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という点です。ルカ福音書は昔から祈りの福音書≠ニか、あるいは聖霊の福音書≠ナあるとかいわれてまいりましたが、その特色が本日の日課のところにもよく出ております。「イエスが祈っておられると・・・聖霊が・・・降った」。 福音書の中でもルカ福音書は、イエスを特別に祈りの人であるというふうに描いている福音書です。ほかの福音書が語っていない場面で、ルカ福音書は、イエスが祈っておられる、祈っておられるということを丹念に記しています。特に重要な節目の時にあたっては、祈り深く事に当たられた方であることが記されています。 「天が開ける」というのは、神さまの代わりに、人間の目に見えるように顕現するものが、実は神から出ている、神的な起源があるのだということを示す決まり文句でありました。旧約聖書ではエゼキエル書の1章1節に、「わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」といって、有名なエゼキエルの幻がずっと一章に描かれています(旧約1296頁)。どうして鳩がここで出てくるのか、いろいろ議論があります。鳩はイスラエルのシンボルだからとか、あるいは聖霊の象徴だからと言われたものであります。しかし、イエスの時代に鳩が特別な象徴の約束事があったどうか、それは全くわかりません。ただ大切なことはイエス様がこの時、聖霊の降臨をお受けになったということであります。これには二つの大きな意味があります。 ひとつは、ルカが後ほど使徒言行録の10章38節に書かれておりますこと、ペトロが福音の説明をするくだりの中で、「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」と、このように記されています。「油注がれた者となさいました」と廻りくどい言い方をしているのですが、この「油注がれた」という言葉の名詞が「クリストス」で、つまり、イエスがクリストスとなられたのは、ここで聖霊をお受けになったことによるということなのです。早々とクリスマスの夜に御使いは、「この方こそ主メシアーキリストです」とは言いましたけれども、実際にこの方が油を注がれてクリストスと神から示される場面は、本日学んでいるこの聖霊が降られたという場面なのです。 二番目に大事な意味は、実はこのイエスの登場の前にバプテスマのヨハネが16節で民衆に語ったことにあります。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。このように紹介されていたとおり、ヨハネに続いて登場しますイエスは、聖霊の洗礼を授ける働きをなさる方であるということです。これを強調しているのです。民衆に聖霊を授けるために、自ら限りなく聖霊をお受けになるということ、これを強調しているのです。ご自身がキリストとしての働きをなさるために父なる神の命の力を受けていることを示されたのだと言うことです。 22節の後半「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。これは、イエスが祈っておられた祈りに対する神さまからのお応えであります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」。こういうご返事を祈りに対してしていただくことができたならばわたしたちにとってもなんと幸いな祈りの生活であろうと思わされます。 この天からの神さまの御声は、マタイ福音書では、「これはわたしの愛する子」というふうに皆にイエスを紹介する体裁の文章になっています。しかしマルコ福音書やルカ福音書では、祈っている主イエス御自身に直接語りかける声になっているのです。 この短い言葉によって主イエスについて二つのことがわかります。 第一は、イエスが神の子であられる、神の愛児、独り子であられるということです。このことは、既に一章に描かれましたクリスマス物語で、読者にあらかじめ念入りに紹介されていたことであります。 第二にイエスは、イザヤが預言する主の受難の僕≠ナあられるということです。このことについては2章のクリスマスの物語で、ルカは既に読者に受難の予告を念入りにしております。それを受けて、今神さまの御声は、間違いなくあなたは神の愛児、独り子なのですけれども、同時に、苦しみながら主の御用をはたす僕であると、この両面を確認しておられるのです。 これが、イエスの公の生涯をスタートさせる出鼻をくじくように、イエスの祈りに応えてイエスに向かって語られたのだということ、そのことをわたしたちはずっと考え続けなければならないのです。わたしたちがイエスをどう見るか、わたしたちがこの言葉から何を学ぶのかということとは別に、神さまはイエスに直接に「あなた」と言われ、語りかけておられます。それはどういうことなのでしょうか。 今、イエスは父なる神のみもとから遠く離れてわたしたちのところに来ておられます。割礼を受け、汚れを清められ、洗礼を受けるという、神の世界から考えると全く想像がつかない罪ある世界へ、我が子が行っている、その子に対して神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う」、そういう確認をしておられるのだということです。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4 新約347頁)これは、神さまのほうから言うと、ほんとに断腸の思いで遠い遠い世界へ御子をお遣わしになったということでありました。そしてこれから着手する、どんなことが立ちはだかるかわからないというところで、もう既に、「あなたはわたしの心に適う」と言い切られるということは、これはまた、どういうことなのか。これは大変な信頼といいますか、全幅の信頼を与え、そしてまた、うらぎられることのない期待を、父が我が子に寄せている言葉にほかならないということです。 イエス様がとらえられる直前、ユダヤ教の神殿当局から、あなたは何の権威でこれらのことをするのか≠ニ問い詰められた時に、有名なぶどう園の悪しき農夫のたとえ話≠なさいました。ぶどう園の主人が、収穫の時が来たというので僕を送った。でも、ぶどう園の農夫たちは僕を袋だたきにし、侮辱を加えて追い出してしまって全然年貢を納めない。何度も何度も僕を送ったのだけれどもだめだ。そこで主人は最後にルカ福音書20章13節でどう言ったかといますと、「そこでぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならだぶん敬ってくれるだろう』」と、こう言います。それで、独り息子を送ってみると、その独り子を農夫たちは殺してしまった。これは明らかに、父から送られたイエス御自身のたとえです。この時、独り子を送り出すぶどう園の主人は、今日聞いたこの言葉を使うのです。「わたしの愛する子」、これを送ろう。敬ってくれる=Bこのように言っているのです。つまりイエス様はずっと公の仕事をして来られて、今もうその最後という受難の極みに達する時にも、このお声をきちんと覚えておられるのです。わたしは父から「愛する子」として遣わされている。十字架への道を、父の「愛する子」として歩むのだ。そういう父なる神の意思と、愛、信頼、期待、これをイエスはしっかりと受け止め自覚なさって、これからその道を全うしようとしておられるということです。 そして、そのイエス・キリストが自ら受け、わたしたちにも授けてくださる聖霊は、神の子たる身分を授ける聖霊であると聖書は教えています。ですから、わたしたちもまた、イエス・キリストとおなじように、どのような罪の中、汚れの中、苦難の中にあっても、神の子として愛されているという自覚と信頼を神さまに寄せて信仰の歩みを続けて行きたいと思うのであります。祈って、祈りの中で、神さまのわたしたちへの愛と、わたしたちも、洗礼を受けて祈っていると天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という御声を聞いて信仰の歩みを歩んで行きたいと思うのです。 お祈りいたします。 神さま。罪と汚れに満ちた中で、わたしたちは自分のいる場所も見失い、自分の生活の原点も見失うことが度々です。そうした中で、祈りによって神さまとの交わりを取り戻し、わたしたちには御子の霊が授けられており、父なる神が絶えずわたしたちを「愛する子」として呼びかけていてくださいますことをしっかり祈りの中で聞き取ることができ、自分の位置を取り戻して、神の子として新しい一年を、この世に遣わされて生きることができますように、わたしたち一人一人に励ましを与え、力を与え、霊に満たしてください。 わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン ページの先頭へ |
「闇夜を照らす希望の光」ヨハネ1:1-14 2025.1.4 大宮 陸孝 牧師 |
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書1章1節) |
「初めに言があった」で書き始められているヨハネ福音書は大変独特な表現で救い主イエス・キリストに対する信仰告白が語られているのですが、なぜ独りの人格ある方が、「言」といわれているのか、救い主イエスが「言葉」と言われていることの意味は何なのか、この一年の礼拝を通して、わたしたちもその真理に導かれて行きたいと思います。 ヨハネ福音書が言おうとしていることを掘り下げていく前に、わたしたちの人間関係の中での「言葉」のもっている機能とか役割やその状況について少し考えて見たいと思います。わたしたちは言葉を用いて生活しています。一般的に言葉は何らかの情報交換のために用いられます。そしてまた、言葉は話し手の心の状況とか意志とか思いなどを伝える役割を持っています。つまりそれは自己を開示する働きをするものであります。それによって他者との間に対話や人格的な関係をなり立たせる交わりの媒体の働きをするものです。そのようにして言葉によって、自分と他者との結びつきを与えられます。人を人とするもの、それは人が言葉によって自己を示すことができるということにあると言うことができますが、これは~からの特別な贈り物であります。 しかし、わたしたちが用いている言葉は、よく考えて見ますと、そうであってはならないのに、言葉とは、最も当てにならないもの、真実の伴わないものとなっていることに気付かされるのです。わたしたちはいかにしばしば誇張や偽りや欺きを語り、現実の社会は、言葉による駆け引きやごまかし合いの場となり、人の言葉を正直に信じる者は世間知らずと嘲られたりします。そして現代はあまり意味のない言葉が流行語としてもてはやされたりして、言葉が氾濫している時代です。そのような状況は言葉の公害とかインフレーションと言われたりもしています。人間の語る言葉というものは、それを発している人間全体の世界を否応なしに背負っているもので、その人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうという言葉の持つ大切な役割が指摘されています。そうであるならば、言葉が人と人との関係を築きあげるよりも、逆にその関係を破壊する方向に働いているのは、単なる言葉だけの問題ではなくて、それを発する人間の世界か、あるいはその人の人間性が崩れていることのしるしだ、と見ることもできるのではないでしょうか。愛のない言葉は、「騒がしいどら、やかましいシンバル」(コリント13:1)に等しいものであります。そのような言葉が騒がしく響いている時代の中で、真実をもって自己を語ろうとしている言葉を、わたしたちは聞き逃さないようにしなければならないのです。 わたしたちは~の御子イエス・キリストが「言」として、~の言として言い表されているヨハネ福音書の句に出会います。ヨハネ福音書は、「言」が初めにあり、「言」が~であったという具合に、御子キリストを言い表しています。今度は、~にとって言とは一体何であるのかを考えなければならなくなります。わたしたちがまず見なければならないのは、ヨハネ福音書と同様に、「初めに」という言葉で書き始められている創世記の1章の創造物語です。「初めに~は天地を創造された」(1節)「~は言われた。『光あれ』。こうして光があった」(2節)そこには、~が天地を創造された時の様子が描かれています。そこで主張されていることは、~が言葉を語られることによって、あらゆるものが造られた、ということです。そこには~が語られる言葉と、それによって生じる出来事との間に少しのズレも狂いもないことが分かります。神の言葉はそれが語られることによって、その内容とすることができごととして生じるような力を持ったものであることが分かります。~が語られる言葉には、~ご自身の意志や力や存在の重みが込められています。ですから~の言葉が語られる時には、そこに何事かが必ず生起するのです。詩篇33編6節には、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」と詠われています。 つまり、~のことばとは、~の意志や力が込められたものであり、~の御心を実行する働きをするものであることがわかります。~の言葉とは、行動する~ご自身である、と言ってもよいのです。そしてヨハネ福音書では、御子キリストが、そのような~の「言」であると宣言され、告白されているのです。つまり、イエス・キリストこそ、~の意志や思いを実行する方であり、~の創造力を持ったお方である。イエス・キリストこそ、「~の言」として、~のご意志・ご計画を遂行されるお方なのだ、ということになります。御子キリストは、新しい時代の中で行動される~ご自身なのです。ですから御子イエス・キリストがこの世に送られたこと、キリストの降誕の出来事であるクリスマスは、~による新しい創造の始まりである、ということを言っているのです。ヨハネ福音書は「初めに」をもって、人間の新しい創造、新しい誕生について語ろうとしています。わたしたちは創世記とヨハネ福音書を重ねて見ることによって、世界の創造者が、同時に世界のそして人類の救済者でもあられる事実を見ているのです。「救い」とはキリストによる再創造であります。自らの罪の現実の只中で苦しんでいる世界のすべての人間は、キリストによって新たに造り変えられるのだと世界に向かって宣言されているのです。 わたしたちの世界にイエス・キリストという形をとって来てくださった~は、再び創造の業を開始されました。~の言としてのキリストの言葉を聞くときに、つまりキリストを受け入れ、その御言葉に従順に聞き従うとき、そこに~によるわたしたちの新しい創造に関わる何事かが起こります。そのことをヨハネは「命」として示しています。四節です。「言の内に命があった」と告げています。キリストには命があった。この命について考えて見なければなりません。命とは一体何であるのか。思いつきますのは、肉体的・生物学的な命です。肉体の生き生きと躍動する姿は、間違いなく生命の力強い姿の一つです。逆に肉体の衰え、肉体の死は一つの命の終わりです。このように肉体に起こる変化という面から捉える事のできる生命というものがあります。普通私たちはこのような生命を命といっています。 しかし、わたしたちの命はそれだけでは捉えられない面もあります。肉体的には生き生きとした人の心の中に、影のように忍び寄ってくる得体の知れない生きる事への不安や恐れというものがあります。一体自分は何のために生きているのだろうか、このような生き方でよいのだろうか、生きる事に意味などないのではないかといった生きる事への影です。何かまだ大切なものに欠けているそれを自分のものとしていないという、命の充実を味わえない生命状態というものがあります。逆に肉体的には病があったり、障碍があっても、また生活上の様々な困難や苦労があっても、なお生き生きと活力ある命を生きている人々もいます。それは何かに満たされたから、何かを手にすることができたからではなく、客観的な環境が必ずしも恵まれ、整っているとは言えない中で、その人の命が光り輝くということが起こることがあります。このことは肉体的条件や環境の状況に関わりなく、それを超えて、わたしたち人間の存在を支えるもう一つの命がある、ということを示しています。そのような命こそすべての人にとって必要としているものであるとわたしは思います。静かに心の耳を澄ましてみるとき、そのような命を求める心の叫びが自分自身の中にあるのを聞きとることができるかも知れません。さらには、生きたい、何とかして本当の命を生きたい、という激しい願いを込めた叫びが、この世界に渦巻いているのを、聞きとることができるかも知れません。真の命を求める叫びがあちこちにこだましているということです。 苦悩している心、真の命を生きたいとの問いを聖書に投げかけるときに、「言の内に命があった」との宣告に出会うのです。「言」とはイエス・キリストのことでした。そうであるならば、この宣告はイエス・キリストには真の命がある、と宣べていることになるのであります。「命とはイエス・キリストである」、そして、イエス・キリストにある命こそ、真の命だという信仰告白に出会うことになるのです。 ~は全能の力を持っておられます。その方が人間を愛して、人間を救おうと決心なさったときに、人間となった、それが「言は肉となった」つまり~の子イエス・キリストが人間として生まれたという出来事であります。そしてイエス・キリストは罪人である人間と連帯し、最後には十字架について、人間の罪の責任をご自分で引き受けられ、人間はそれによって罪を赦されて、新しい命を生きるように、新しく生きる命の道を開いてくださったのです。 真の言葉とは、人を生かす言葉のことです。その言葉によって、一人りひとりが自分を生かすことができる言葉、それが真の言葉です。御子キリストには~の命が宿っていますので、人を生かし、それによって人が生きることができる言葉なのです。クリスマスは、この命をもった~の言葉であるキリストを、わたしたち一人ひとりが真に聞くべき言葉として受けとめ、この命に触れ、キリストにあって新しい命の歩みを始めるべきときなのです。わたしたちの命を求めてのこの世の旅は、このキリストから始まりキリストに達する、このことの繰り返しなのです。ルターが聖書のみ、信仰のみと言った時の信仰とは、このイエス・キリストに出会うことによってだけという意味だとわたしは改めて思いました。 この新しい一年の歩みも、御子キリストに真剣に耳を傾けることによって、わたしたちの再創造が起こり、命の喜びを受ける者となることができますように。闇の中で生きているような人々にとっても、この命の言葉はその人の新しい光となることを確信して、その人々が、「言葉」であるこの主イエス・キリストのもとに導かれますように。 お祈りいたします。 恵みの神さま、あなたはいつもわたしたち一人一人をあなたの愛の命による創造の力によって新しくしてくださるために、あなたの満ち溢れる愛と命をもって救い主イエスとなってわたしたちのもとに来てくださいました。わたしたちが皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けて、それを人生の土台として行くことができますようにわたしたちの信仰をあなたの真理の言葉によって新にしてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。 ページの先頭へ |