「憐れみ深い神を仰ぐ」ルカ6:27-38 2025.2.23 大宮 陸孝 牧師 |
「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」(ルカによる福音書6章27-28節) |
日のルカ福音書日課は、6章20節から四九節の弟子たちに対するイエスの教訓を集めたもので、マタイ福音書5章から7章の山上の説教と対比されるところであります。マタイ福音書が三つの章にわたって述べていることを、ルカ福音書は短く29節でまとめています。この教訓集に先立ち17節以下の導入部に当たるところで、主イエスと弟子たちが山から下りて来て、「大勢の弟子とおびただしい群衆が」(17節)「イエスの教えを聞くため・・・来ていた」(18節)。マタイの場合は山の上での説教をルカは「山から下りて来て」となっているところから、マタイ福音書に対比して「平地の説教」と呼ばれています。 本日の日課の直前のルカ福音書20節〜26節は、マタイ福音書の五章にある「祝福の説教」の部分に当たり、「平地の説教」の序文でもありました。この地上に存在する、富こそが幸いであり、飽食が善、他から賞賛を受けることが美という、盤石の一般的価値基準を百八十度ひっくり返し、貧しき者、空腹の者、悲哀の中にある者の幸いを歌い上げた逆転の教訓が語られておりました。 27節はそれに引き続き「しかし、わたしの言葉を聞いているあなた方に言っておく」とこの部分も平地の説教の続きであること、つまりこの前の20節から26節の部分を前提にして、改めて、「しかし、聞いているあなた方に言っておく」と注意を喚起する表現で教訓が繋げられ、さらに展開されて行く形となっています。「わたしの言葉」とはすなわち「父なる神に託された言葉」のことであります。これから語られる言葉は、あなた方日常の中で語られている言葉とは全く異なるものであり、革命的と言っても過言ではない。従って、単に自分に合う教えだけを聞こうとか、興味本位で耳を傾けるというのではなく、本当に神を求めて止まない人に聞いて頂きたい。また、わたしたちの中にそのような熱意を呼び起こして語りかけようとしているということです。自分の十字架を負いキリストに従おうとする人への呼びかけであり、その内容も本当にそのような思いで「救い主キリスト」を求め、静かに神の言葉に魂を傾ける人に対して語られているのです。 イエスの許にイエスの言葉を聞こうとしてやって来た人たちは、富んでいる人たち、満腹している人たち、笑っている人たちではありません。その人たちはイエスの根源的存在の意味を了解しない限り、イエスの真実な言葉を拒否し、イエスの愛とは無縁の者であります。そうではない人たち、すなわち、金銭と豊かな食卓と贅沢な生活を持たない、貧困で苦渋の生活をし、悲哀の中に生きている人たち、イエスの言葉に活路を求めて、耳を傾けている人たちのことであります。 その人たちに向けてイエスは「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」(27節〜28節)と、その人たちが本質的に必要としている重要な教えをイエスは矢継ぎ早に語りかけているのです。その人たちに向けて直截に〈敵〉〈憎む者〉〈呪う者〉〈辱める者〉〈頬を打つ者〉〈上着を奪い取る者〉と現実に彼らが直面している、自己の存在を破壊し、抹殺する者への対応、その人たちを受容するように指示して行くのです。 敵を受容し愛するとは、パウロがエフェソの信徒への手紙2章14節から16節で「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と、証言している通りであります。〈敵を愛しなさい〉とは、このイエスの贖いの業の事実と直結し、このイエスの実践の裏付けを通して、愛には限定や条件や範囲がないこと、あらゆる敵意の壁が今や取り除かれたのだ。文化、思考、風習、性別、政治思想、党派、民族、国家、そして更に宗教上の敵も含まれていて、これらの敵意は時に命を奪うほどの猛威を振るうものでもあります。その壁が取り除かれたとの宣言であります。パウロ自身がまさにこの宗教上の敵意をもって初代教会を迫害していたのですが、イエスの無限の愛に触れて、その愛の力により百八十度の方向転換をして、イエスの愛に応答する者へと変えられて行ったということであります。 ルカ福音書はこの後の10章30節以下のサマリア人の譬(たと)えで、特に生き生きと、対象に限界がない愛の姿を描写しています。この譬(たと)えのなかでサマリア人が実はイエス御自身のことであるならば、祭司、レビ人、イスラエル人という三人の順に従って、当然三番目に出て来るであろうところでありますが、イスラエル人の代わりに、当時イスラエルの敵として憎まれていた他民族との混血種族であるサマリア人に置き換えて、このサマリア人を愛の行いの規範として立てたことは、聞いていた群衆をいたく驚かせたに違いありません。これは、ユダヤ人をもって自認している人たちにとって頂門の一針(相手の急所を押さえて教え諭すこと)となったことでありましょう。汚れた民として差別されていたこの人が、見捨てられていた者に対して実行した無私の奉仕は、愛の業に限界がないということをイエスは示されたのです。 27節から30節のところは、22節を受け止めて展開している部分です。「人々に憎まれるとき、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」ここで言われている敵とは、あくまでも「人の子のために」、またイエス・キリストの言葉に従おうとする「あなたがた」であることを理由として起こる「憎しみ」「敵対心」なのです。こういう宗教上の敵に回っている人を「愛しなさい」とイエスは言っているのです。イエスの言葉に従うと言う立場に立った上で、奪う者、求めるものに惜しみなく与えなさいと言うのです。30節の最後の「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとするな」と語られます。「持ち物」と訳されている言葉は、財産とか私物を連想させる言葉ですが、これはもっと広く「もろもろのもの」あなたにあるいろいろなもの、賜物もあれば、財産もあるそのようなあなたにあるいろいろなものすべてを、求める者から取り戻そうとするなという忠告です。 敵に憎まれ、侮辱され、打たれ、奪われるという、厳しい状況の中にあって、あなたはイエスの御言葉に立つ者として、あなたに対して求めてくる人には与え、持っているものを必要ある人にいくらでも提供しなさいと言う教えです。世の中にはいろいろなニーズを持つ人がいて、その人たちがあなたに求めて来る、期待して来るとき、自分のものは自分のものですと言って取り込もうとするな、固執するな。死守するな。与えなさい。そのように奨めているのです。この規範はどこから来ているのかといいますと、ペトロの第一の手紙2章21節を読みますと「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。23節〜24節「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」とあり、ここに明確に示されていますように、神様にすべてを委ね耐えられた主イエス・キリストの模範、このようにわたしたちもイエスの御言葉によって新しくされて、心から人を生かすような生き方が出来るように、神はわたしたちに霊の力与えてくださることを約束されているのだということです。 このことは使徒言行録5章41節に、具体的に新しくされた弟子たちの姿として描かれています。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」。ここでの「イエスの名のために辱(はずかし)めを受けるほどの者にされた」と訳されていますのは、「価値ある者と値積もられた」「イエス同等に評価された」ということで、それを喜んだ、幸いだと思ったと言うことです。キリストの名のゆえに辱めを受けののしられ、憎まれるほどにわたしは評価されたと言う喜び、幸いだと思う心の満足、幸福感を持ちながら、心の中にイエスを主と仰ぎ、崇めて生きる。その弟子たちを絶えず背後で支えておられる神の御言葉と神の憐れみを示そうとしています。そのことが語られているのが36節の「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という御言葉です。 神は義でありますから、正義と公正をもって人の罪を厳しく裁かずにはおれません。ですから、その裁きの鉄槌(てっつい)を御子イエスの上に下ろされ、十字架においてわたしたちの罪を罰せられました。しかし、神はそれ以上に愛であられ、憐れみに満ちておられますから、イエスを甦(よみがえ)らせて、わたしたちをその新しい復活の命に招いていてくださいます。イエスの御父なる神は、「情け深い」(25節)「憐れみ深い」(26節)方です。そしてご自身の憐れみをもって溢(あふ)れるばかりの恵みを与えてくださる方です。 そのことをヨハネ福音書の3章ではこのように証言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」また、ローマ書8章32節では「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」わたしたちは先ずこの憐れみと恵みに溢(あふ)れる神を仰ぐことによってこそ、ひたすら神の救いの御業のために働く器とされて行くのです。 お祈り致します。 神様あなたの憐れみを感謝致します。あなたの名のゆえに辱(はずかし)めを受けるに値するものとされたことを誇りとし、喜びとし、幸いとして、求めるものには与え、必要としている者にはわたしたちの賜物を捧げて、キリストの愛を人々に示していくことができますように。あなたの憐れみを力とし、他者を赦し、与えて行く人生を喜んで生きて行くことができるようにしてください。 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン ページの先頭へ |
「幸いを作り出す主の言葉」ルカ6:17-26 2025.2.16 大宮 陸孝 牧師 |
「すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(ルカによる福音書6章26節) |
ルカ福音書はこの6章の所まで、ずっとマルコによる福音書の順序通りに書いてきています。ところが、6章12節からの流れと構成がルカ独特の順序になっています。第一は、イエスとユダヤ教ファリサイ派とがいろいろと論争を繰り返しておりますが、ついにはその間が決裂して、6章11節で「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」という結果になり、それに対抗するようにイエスの側の陣営固めが行われると、こういう続き方になっていくのであります。もう一つのことは、6章の20節から6章の終わりまで長々と続きますイエスの説教、これはルカ福音書では「平地の説教」と呼ばれるものでありますが、この大説教を聞くためにおびただしい聴衆が集まってきたという風に繋(つな)がってゆきます。 さて「イエスは彼らと山から下りて、平らなところへお立ちになった」。(17節)とありますが、この山とは、12節にありますように、夜を徹してイエスが祈られた山であります。そこから「下りて」来られました。「彼らと一緒に」降りて来られました。この「彼ら」とは、13節から分かりますように、山上に集まっておりました大勢の「弟子たち」と、その中から選りすぐられた「十二人」の弟子たちと、この二種類の弟子たちを含めて「彼らと一緒に」とこう言っているのです。 するとそこへ「大勢の弟子とおびただしい民衆が」来ました。イエスの弟子群には三種類ありまして、一番身近には「十二弟子」という選りすぐられた弟子集団があります。その外には、出家してイエスと共に旅をしている弟子たちがあります。そしてさらには、町々村々の在家の信者、普段は家で生活しているのですけれども、イエスが来られると喜んで教えを聞こうという人たちがおります。今、山からその十二弟子と出家の弟子とがイエスと共に下りてきますと、村々町々の在家の信者たちが大勢集まって来ました。そこへ更に「おびただしい民衆」が、いまでいえば求道者と言うことになるでしょうか。イエスが来たというので集まって来て人々が群がったのであります。それは「ユダヤ全土とエルサレムから」でありました。イエス様の評判はパレスティナ全体に拡がって伝わっていたということです。さらに「ティルスやシドン」というパレスティナの北方、地中海沿岸にあります外国の町々にまでイエス様の働きと評判は波及していてここからも人々がイエスを求めて殺到していたというのです。 18節後半の文章でありますが、「汚れた霊に悩まされていた人々も癒(いや)していただいた」とあります。種々の病気の苦しみや病気の悩みが「癒され、治される」ということの中に汚れた霊に悩まされていた人々も組み入れられて一つにされています。この人々が「何とかしてイエスに触れようと求め続けていた」。「イエスに触れることを追求し続けていた」。それを「何とか触れようとした」と共同訳は翻訳したのだと思います。それは、「イエスから力が出て、全ての人の病気を癒していたからである」と、イエスという方の中に神の御力が宿っていて、そしてこのイエスからいやしの力が出て、病と悩みを癒したという、主の力が働いて、つまり神さまの力がイエス様を通して働いてイエス様は病気を治しておられたということであります。大勢の群衆がイエス様の話を聞こうとして押し寄せ、「何とかしてイエスに触れたい」「神の御言葉の威力を経験したい」というほどに群衆は熱意をもってイエス様の御言葉にすが縋っていくのであります。イエス様からの恵みであるとか力であるとか御言葉であるとかいうことに対して、人々の方から熱心に「イエスに触れることを求め続ける」という、人々の方からのイエスへのアプローチがここでは強調されているのです。説教を聞いて実を結びたいと思う思いであるとか、イエスに触れて病や悩みやそういう心身両面のいろいろな欠け、いろいろな不満、いろいろな悩みを解決していただこうとして何とかイエスに近づきたいというそういう人の側の熱心、それをルカはここで強調しているのです。 そのようにしてイエスのもとに群れている人々に向ってイエス様は神の国について話しを始められます。あなた方は神の国へと召し出された神の民になったのですおめでとう。神さまはあなたがたを恵みによって本当の祝福へと招き入れて下さるために、今も顧みていてくださいますよ。ですからこの世にあって今はどのような状態に置かれているにせよ、そのことに一喜一憂する生き方ではなく、あなたがたのものになった神の国を仰いで神の救いと祝福の確かな約束と神さまの顧みを信じて信仰をもって生きて行ってください。何が幸いなことかと言えば、それは、このわたしたちを救おうとなさる神の愛の御旨を追い求め従って行くことです。とイエスは呼びかけて下さったのです。 そして、その後に四つの非常に否定的な、してはいけないことばかり並べておりますが、その中から重要なことを一つだけ申し上げておきます。二六節であります。「すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」。とあります。この場合、もちろん人から「ほめられる」ことそのことではなくて、「すべての人からほめられる」という「すべての人」というのが重要な言葉として強調されているのです。誰からも受けがいいという時には、要注意ですよ。という趣旨であると思います。イエス様がここで「すべての人にほめられるとき、災いだ」と言われました理由は「この人々の先祖も、偽預言者達に同じことをした」のですから、つまりあなたがたは偽預言者の後継者であるということになるのだからと、こういう理由付けで「災いだ」と言っておられるのです。 これは、23節のあなたがたは預言者の後継者である≠ニいわれたのと言葉の上では対のようでありますが、しかし内容的には違います。23節でイエスの弟子たちが預言者であるといわれましたのは、決して皆が説教をするとか預言を語るからという意味ではなかったのです。ただ神から遣わされた者である、この世に属さない者である≠ニいうことを比喩的に言った表現でした。それに対して26節の所で「偽預言者」であると言われますと、これはそういう一般的な表現ではない、プロの話し手、説教者、預言者の偽物という意味であります。 この「偽預言者」は旧約聖書にたくさん出て来ますけれども、決してバールの神の偽預言者≠ニかアッシュタロテの女神に仕える偽預言者≠ツまり異教の神々に仕えるというのではなくて、ヤハウエの神の名によって語る偽預言者≠ナあります。旧約聖書ではとりわけエレミヤ書とエゼキエル書にこの偽預言者のことがたくさん取り上げられています。教会の時代になりましても、キリストの教会に真の預言者も出ましたが、でも偽預言者たちも出ましたし、また出ると警告もなされています。場合によっては偽教師とよばれています。なぜ、偽預言者、偽教師がわざわいなのか、そういうたくさんの旧・新約聖書の教えを総合しますと、三つの点がはっきりして来ます。 第一は、神さまが遣わしもしないのに、神さまから幻を与えられてもいないのに、「自分の夢」を語り、「自分の幻」を語る、ということです。 第二に、真理や真実を語るのではなくて、人の聞きたがること、耳触りの良い話しをすることです。 そして、第三は、そうすることによって人々を自分自身に引き寄せる、自分自身の弟子としてしまって、イエス。キリストの体なる教会を立て上げる事を目標にしない。総合するとそういう大きな点で、「災い」なのだとそのように断罪しているのであります。 このように四つの災いが語られているのですけれども、内容的には三つのことが戒められていると纏(まと)めてよろしいかと思います。 一つは、現世ではもう慰めは全額領収済み、必要なものは何一つないという思いから、終末に対する希望を持たない、天国に思いが行かない、そういう地上だけの、今、目先のことだけで生きているという現世御利益主義的な生き方や考え方であります。 第二番目は、自分自身のことだけしか視野にない人たちの生き方、自分以外のことに思いが至らないそういう生き方や考え方であります。 第三番目は、全ての人の受けが良いように語り、行動することによって、自分に人の気を引きつけて喜んでいる、その実は非常に独善的な生き方をしている、こういう生き方、考え方を災いだと言われているのです。 考えて見ますと、わたしたちの日常生活は、すべて神の顧みと恵みの中に保たれています。その日常というのは悲しみ、憎しみ、あるいは憎まれ、喜んだり、悲しんだり、泣いたり、叫んだり、あるいは恐れおののいたりという経験の繰り返しかも知れません。しかし、そういう繰り返しの日常の中で生きているわたしの赤裸々な部分も見逃されることなく神さまの愛と恵みの眼差しに捕らえられています。そしてその愛の御言葉の力によってわたしたちを内面から新しくしようとして御言葉をもってわたしたち一人一人に臨んでいてくださるのです。この神さまが憐れみと恵みの内に導いてくださっている御言葉への聴従と、恵みへの感謝をもって生活の場を受け止めなさい。これがイエスご自身からのわたしたちへのメッセージであるとわたしは受け止めました。 お祈りします。 神さま。わたしたちは、あなたが備えて下さった天の御国に向って地上の旅をしている者でありますが、その旅の中で思いがけない艱難があり、また現にいろいろな境遇に運命のように翻弄されながら生きております。そういう中にあって、わたしたちが、自分の満足と自分自身の事ばかりに気を取られ、またそれを中心にして生きたり考えたりすることが多い者であります。そのようなわたしたちがあなたの恵みと愛の顧みの中に置かれていること、そしてあなたが愛と恵みによってわたしたちを御言葉をもって導いてくださっている事を喜び感謝して生きる者となりますようにわたしたちを導いて下さい。 主イエス・キリストの御名にょってお祈りいたします。 アーメン ページの先頭へ |
「人を生き生きと生かす者になる」ルカ5:1-11 2025.2.9 大宮 陸孝 牧師 |
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカによる福音書5章10節) |
先週までの日課ルカ福音書四章の所を二回に分けて読みました。イエスが神の国の福音を宣教するために遣わされたメシアであること、この神の国の福音の宣教の権威ある言葉に基づき、それに根ざして信仰者が召し出され、信徒の群れ、初代教会が形成され、その教会の信徒の群れが、神の権威ある御言葉に養われて、さらに世界に向けての福音宣教をなしていく群れへと押し出されて行くということが語られました。権威ある神の言葉の宣教は、その本質からして、いままで、神ならぬ運命の力や、偶像の神々の力に取り押さえられていた人間社会の中で、そういう力を打ち破って神の愛による力強い支配が確立しつつある、ということをイエスは宣言されたのでした。 本日の日課は5章1節以下11節までです。ここは、6章16節まで、このイエス・キリストが宣べ伝える神の国の権威ある言葉に対して、個々別々に様々な人たちが反応して行く姿が描き出されて行きます。その最初に出て来ますのが、シモンペトロたちがイエスの言葉に応答して、全てを捨てて従うようになったという所であります。 1節〜3節 「イエスがゲネサレト(ガリラヤ)の湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から岸にあがって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」。わざわざ「舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」のは、岸辺に押し寄せる群衆から少し距離を置いて説教するためでした。この情景を背景として「人間を取る漁師にする」というペテロたちの召し出しの出来事が起こって行きます。 その弟子を召し出す前に、群衆がイエスのもとに押し寄せて来るという状況設定を描いているのは、それほどの群衆がイエスのもとに押し寄せたのは何によるのか、それほどのおびただしい群衆をイエスのもとに引きつける力は何なのか、ルカはそれを「神の言葉」ホ・ロゴス・トゥ・セウー≠聞こうとしてなのだというのです。他の福音書では神の国の福音の宣教のメッセージのことをただ単にホ・ロゴス=u言葉」と記しておりますところを、ロゴス・セウー=u神の言葉」という丁寧な表現にしているのはルカだけであります。ルカは、ただ単に神について語る言葉ではなく、神から来た言葉、神から出た言葉という意味で「ロゴス・セウー」と言っているのです。神から出た言葉がイエスの口を経て聞こえる。イエスを通して語られる神の御国の福音は神からの言葉なのだ、「神の言葉」なのだとルカは言っているのです。 イエスを通してこの神の言葉が語られました。すると、この「神の言葉」におびただしい群衆が反応し、聞こうとしてイエスのもとにやって来ました。「神の言葉」が語られると、人々の中から押し寄せるような聞き手が生まれて来るとルカは言うのです。そして、舟の上から群衆に「神の言葉」を語るそのイエスの言葉を、その傍らで否応なく聞いたペトロ始め漁師仲間の反応が次に描き出されて行くという展開になって行きます。 4節 説教を終えたイエスは、今度はペトロに、「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。さっきからずっと舟の中でイエスの話しを聞いていたペトロの反応は、まず「わたしたちは夜通し苦労しましたが何もとれませんでした」(5節)というものでした。夜、ガリラヤ湖の入り江で、漁に最適な時間、最適な場所で、一晩中漁をして何も取れなかった。ペトロは実りのない仕事に疲れて網を洗っているところへイエスが突然現れ、舟に乗せろと言われてイエスを乗せたら、イエスの説教が始まった。長いイエスの説教が終わったと思ったら今度は、落胆し疲労の極限にあるペトロにむかって、沖へ漕ぎ出して漁をしなさいとのイエスの言葉。理性のある人ならば漁をしない、成果を全く期待できない、なにかがとれるという希望など持ちようのない、不都合な状況の時と場所で、それに逆らうイエスの言葉です。ペトロは内心「今は何をやっても獲れはしないのだ」と思いつつ、「あなたのお言葉ですから」とイエスに全てを委ねて行くのです。 「先生・・・お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。「先生」はエピスタテース(上に立つ人)という表現です。単なる先生(ラビ=律法教師)ではなくそれ以上の方として見ています。それは、ペトロがいままでずっと舟の中で、イエスの口から出る権威ある「神の言葉」を聞いたことによる反応です。「このような権威ある言葉を語るあなたの御言葉ですから」ということなのです。イエスの口から出る言葉一つ一つを「神の権威ある言葉」として聞いたからなのです。つまり、ペトロはここで「あなたの語る言葉は『神のことば』ですから」と応じたということです。疲れ切っている上になお、洗って干してある網をもう一度取り込んで舟に戻しての漁ですから大変な作業です。「お言葉ですから」にはそれ相当の自分を放棄し、これから起こってくる新たな事態を受け止め取り組む覚悟を決断しての応答の言葉であったということです。 わたしたちが「神の言葉」を聞くというのは、自分の価値観、知恵、判断を保留しながらイエスの言葉に耳を傾け、なおかつイエスの言葉に聞き従うことで起こってくる新たな事態を引き受けていくということに他なりません。イエスの言葉が一人の人に向けられ、具体的な生き方の指示となり、聴く者が信頼してその指示を受け入れ、指示にしたがう決意をして行く、その先で神の言葉が成る出来事が起こるという事実確認がなされ、イエスが神から来た権威ある者であり、人間を超え、人間が置かれている状況をも超えるお方であることが示されて行くのです。 6節〜7節「漁師たちがその通りにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」ここには、単なる奇跡物語が語られているのではありません。神の言葉が語られ、神の言葉の指示に従いその通りにすると、神の言葉による新たな出来事が起こったとたたみ掛けるように語られています。創世記1章3節の「神は言われた。光りあれ。すると光りがあった」との聖句を思い起こします。ここに改めて、神の言葉の形成力が強調されているのです。神の言葉であればこそ、一旦語られればその通りになる。このことを象徴的にこの出来事は示しているのです。主の言葉が語られたならば、誰もそんなことが起ころうとは思っていなかったような驚くべきことが起こるのだということが示されるのです。 8節〜9節 漁師仲間で手分けして二そうの舟を大漁の魚でいっぱいにしたところ、舟は沈みそうになった。この予想を超えた事態にペトロは驚いてイエスの足もとにひれ伏して、「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言うのです。ペトロはここで自分のどんな的外れに気づいたのか。本日の日課の最初からの主題となっているのは神の言葉であります。それがずっとこの直前の5節のところまで続いて来ていました。5節にはペトロ本人の言葉で「(あなたの)お言葉ですから」とイエスの言葉に従うようにして漁を始めたのですが、そこには自分の心に不本意な気持ちがありました。つまり心の底からイエスの言葉に説得され、納得し、信頼を置き、従ったわけではなかったのです。自分の主体は相変わらず自己本位の自分のまま、イエスと言う人物と自分とは関わりのない第三者のまま、イエスの言葉と自分との間を突き放したまま、ことの成り行きを離れた所から眺めるようにしてイエスの言うなりにことを運んでいたということ、そのことに気づいたのです。一言で言いますと、ここまではペトロは信仰を持ってイエスに従っていたわけではなかった。事が終わればただの通りすがりの人としてイエスの前を通り過ぎていたかも知れなかったのです。 それがここで、ペトロたちがイエスに出会うことによって、規範の逆転という大転換が起こって行くこととなるのです。今まではペトロの人生の主人公は自分自身でありました。それが、自分が自分の主人公である筈のペトロの口から突然「主よ、わたしから離れてください」という思いがけない言葉が語られるのです。自分の人生の主人公は自分自身であると自己理解し、ことがらの最終的な判断と決断は自分がすると決めていたであろうペトロがイエスを「主」と呼ぶ大転換です。つまり、ペトロは自己中心の大きな的外れに気づかされたのです。ペトロは、神の権威ある言葉がイエスの口から語られ、その言葉が成るのを目の前で目撃し、自分の命が本来のあるべき永遠の命から逸れていたことに気づかされたのです。「わたしは罪深い者なのです」はそういう意味です。主から離れていた、聞くべき神の言葉を聞きそびれていた。それで、神の言葉を権威をもって実行される主を前にして恐れを感じて、わたしから離れてくださいと言ったのです。 そのペトロとその漁師仲間たちの前に今度は、イエスが主として立たれ、そして言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)「あなたは」とイエスはシモン・ペトロにスポットライトを当てて一人称で語りかけていますが、シモン一人だけに語りかけている言葉なのだろうかと改めてこの場面を丁寧に見てみますと、五節のペトロの応答も「先生、わたしたちは・・・」と複数になっていまして、イエスに言われて網を降ろし漁をするのもペトロ一人ではなく他の仲間との共同作業であり、わざわざ他のもう一そうの舟のことも語っています。そして、10節になるときちんと「シモンの仲間」恐らくアンデレであろうと思います。そして「ゼベダイの子ヤコブも同様だった」と断りを入れていますので、内容的にはアンデレもゼベダイの子ヤコブもヨハネもここで出会ってイエスの弟子になって行く、また他の者にも「あなたは」と語りかけて、約束されているのだと言うことが分かります。 それで、「あなたは人間をとる漁師になる」という表現ですが、原文には「漁師」という言葉は書いてありません。言葉通りに訳すと「人間をとる者になる」とあるのです。その「とる」という動詞がルカ独特なのです。「ゾーグレオー」という珍しい言葉で、新約聖書ではもう一度だけ第二テモテ2章26節に「こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつの日か醒めてその罠から逃れるようになるでしょう」。とここに「生け捕りにされる」と受け身で訳されているのが「ゾーグレオー」という表現なのです。名詞のゾーグレオンは、魚であれば生け簀を意味し、現代ですと養殖ですとか「水族館」といった意味に、また羊や牛と言った家畜であれば牧場と取れる言葉になります。つまりここでイエスはシモンペトロに「人間をとって養う者になる」「人間を養い生き生きと生かす者になる」と語っているのです。どうしたら人間を生き生きと生かす者になれるのか、ルカはその答えを二四章四八節に記しています。「あなたはこれらのことの証人となる。わたしは、父から約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」または使徒言行録の1章8節では「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というのです。結論的に言いますと、「あなたは人を集めて、イエス・キリストを証する証人になる」のです。わたしたちがそうなるために、イエスはわたしたちに権威ある神の言葉を語り、神の霊を送り、力を与えてくださるのです。そして次の11節の結論へと話しは進みます。 11節「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」ペトロや仲間たちの方から、それであるならばと、自主的・主体的に、イエスに従い、献身していく表現になっています。「人間を集めて生き生きと生かす」ということであれば、今しがた彼らがイエスの言葉を聞いて従った結果、驚くべきことを経験してよく分かったことでありました。人間を本当に生き生きと生かす方はこの目の前にいるイエス一人をおいて他にはないことを彼らは思い知らされたばかりでした。ですから「すべてを捨ててイエスに従う」献身が結果として起こったのです。 ヨハネ福音書15章4節から5節でイエスはこう言われています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れてはあなたがたは何もできないからである」。とあり、16節には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである」と明確に語られました。「実を結ぶ」「人を生き生きと生かす」ためには、イエス・キリストにつながる以外にないということです。他のものは無力なのです。罪ある者に神が御言葉を持って臨まれるのは、罪人を神の新たな命のことばをもって生かすためなのです。わたしたち人間が今日あるのは、その神の命の言葉によるのです。神はわたしたちの証しを通して、すべての人をこの神の命の言葉へ招いておられるのです。 お祈りをします。 わたしたちを生かす命の言葉を語ってくださる恵み深い神様。このわたしたちの世界は、人の思い計り、人の言葉と人の知恵と人の計画だけが先行している中で、人が力によって人を支配し、そのゆえに人は真の命を生きられなくなって、闇に支配され、命を失い、「神の言葉」に飢え渇く多くの魂があなたの真の命の言葉を求めています。どうか生ける主であるあなた自身が、教会を通して一人一人の魂に語りかけ、働きかけてあなたの生ける言葉でわたしたち一人一人を生き生きと生きるあなたの永遠の命に導いてください。 このお祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン ページの先頭へ |
「神から遣わされたイエス」ルカ4:21-30 2025.2.2 大宮 陸孝 牧師 |
「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(ルカによる福音書4章24節) |
本日は先週の日課に続く4章21節から30節までを学んで参ります。イエスは故郷のナザレに戻り会堂で権威をもって、メシアが到来した「今日」、イザヤの預言が成就したこと、それを神から「遣わされた」メシアとして「告知する」イエスの宣教は、あなたがたが「耳」にした今ここで成就しているのだとお語りになりました。神から遣わされ、委託されて語られた神の言葉は必ず成就するのだとの宣言でありました。 22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」イエスの言葉を聴いて、初めはその恵み深い言葉に驚嘆したそこまではよかったのですけれども、その言葉や知恵を語るイエスという人物を見ると、この人はあの幼なじみの「マリアの息子ではないか」「大工ではないか」我々と何も変わりがないあのイエスが、神から「油注がれ」「遣わされ」ている神の器であるというのか。とつぶやき始めます。「イエスをほめ」は原文では「このことをほめ」で、「このこと」とは何かと言いますと、「イエスの口から出る恵み深い言葉」のことです。そのことは評価する。歓迎するということであり、こんなすばらしい人が我々の同郷人であるという誇りを表していると見做すことが出来ます。この同郷の人たちの反応のうちに隠されている議題・含みを次の節以降でイエスは明らかにして行きます。 23節〜27節「医者よ自分自身を治せ」と言う格言は現実にいろいろあるのですけれども、イエスがどのような趣旨でこの格言を持ち出し、何を言いたいのかはっきりと分かりにくい面があります。医者は本当は自分を治したいのだけれども、他人のために滅私奉公で自己犠牲的に他者に奉仕をするという意味に理解しますと「カファルナフム」のようなよそのところでばかりやってないで、「ここでも」という「ここ」ナザレが、医者の自分自身に相当しますので、「ここ」ナザレで同じしるしをやってくれと言うだろうという意味になります。 このことわざを、丁度イエスが十字架で貼り付けになった時に「他人を救ったが、自分自身を救えない」と嘲られたように、医者の無能力に対する批判や嘲りのことわざと聞くことも出来ます。他人は治すが自分自身は治せない、この「自分自身」というのはイエスご自身という意味で、カファルナフムでもしたというしるしをここでも行って、早く自分自身の言うことを信じてもらえるようなしるしを見せて、自分の足場固めをしろという促しの言葉と理解することもできます。どちらにしても、このようにしてナザレの村人たちは、ナザレのここでもしるしを行うように自分に求めているとイエスは言われます。 24節「そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」ここに、イエスしか使ったことのない独特の言葉とされる「アーメン」という言葉を最初の頭に出して、それから「わたしは言う」と続ける語り方、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」これはイエス独特の言い回しであると言われます。ルカ福音書では、その最初がここに出て来ています。そして、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」という御言葉も四つの全ての福音書に出てくる印象深い言葉であります。 旧約時代に出た多くの預言者たちのことを考えますと、とりわけ、その人の故郷の町や村の人から歓迎されず、尊敬されず、迫害を受けたことが明らかに書かれているのは、エレミヤとアナトトの村の人との間だけですので、一体ここに書かれている「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とは、旧約の事例から意味を探ってもどういう意味なのかははっきりしません。明らかなことは、第一に、イエスがご自分を「預言者」の一人であると位置づけておられるということです。この場合の預言者というのは、ただの預言者か、「油注がれた」メシアかという比較ではなく、「神から遣わされている」神の器であるということでは、預言者もメシアもどちらも神から遣わされた者であるという自覚を言おうとしているのです。 そしてもう一つのことは、ルカ以外の三つの福音書ではすべて、預言者は自分の故郷では敬われないものだ≠ニ言う言い方をしているのに対してルカは「敬われる」という言い方ではなく、「歓迎する」という言葉に変えています。「受容する、受け入れる」という言葉ですが、これは実は先週の日課19節「主の恵みの年を告げるため」とありました、イザヤ書61章2節からの引用文のところでも用いられていました。イザヤ書61章2節では「主が恵みをお与えになる年」と訳されている言葉は、神様の喜びの年≠ワたは神様の受け入れの年≠ニ言う表現で、喜び受け入れてくださる≠ニいう表現なのです。ここで主なる神は、捕らわれ人を受容し、目の見えない人を受け入れ、虐げられている人、貧しい人、弱い人を歓迎されたのです。いまそれが実現しているのです。そしてこの素晴らしい神様の受容をせっかく告知(宣教)しに遣わされて来たイエスを、故郷であるナザレの人たちは受容しないと対照して言われているのです。 そのような不合理なことがどうして起こるのか、それはこの人たちがイエスと同郷の人たちだからだと言っているのです。カファルナフムであれだけのことをやったというのならば、イエスの故郷ナザレでもやらさないわけにはいかないという同郷の人たちのプライドもあるでしょうし、そしてなまじ、彼は所詮大工じゃないか、マリアの子じゃないか、ヨセフの子じゃないかという同郷のよしみ、イエスが同郷の人であるというなじみがありすぎるために、それを超えて、神から「遣わされ」た「メシア」であるというのであるならば、それに相応しいしるしを見せろ、こういう要求になってくるということです。そしてそれがなければ受け入れない、歓迎しないそういう反応なのです。イエスの主張ははっきりしています。聖書が成就している「今日」、あなた方はその告知を「耳にした」、神の使信を聴いた。そこで神の新しい創造の働きが始まっている。だから、あなたがたはこの神の新しい創造の使信の体現者であり、証言者なのだということです。そして、ナザレの村の人たちはせっかくこの福音の告知を耳にしながら、しかし、信じることができず、受け入れることができなかった。その原因は、彼らはしるしを見たい≠ニいう違った方向に目を向けていたからだと指摘されているのです。 25節から26節「エリヤの時代に三年六ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イエスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」これは、旧約聖書の列王記上17章に書かれている、紀元前九世紀の出来事です。飢饉があり、次の18章では「三年目」にやっと雨が降り始めますが、イエスの説教では「三年六ヶ月」という年月になっています。これは、ヤコブの手紙5章17節にも同じように「三年半」となっています。その大飢饉の時に「イスラエルには多くのやもめがいた」とありますが、旧約聖書の列王記に、当時やもめが大勢いたということが特に書いてある訳ではありません。当時イゼベル王妃が主の預言者たちをたくさん殺したという大迫害の時代でしたので、預言者の未亡人たちは確かに大勢いたのではないかと推定はされます。 その「大飢饉」のために、エリヤが水を飲んでおりましたケリトの川の水が尽きた時、神様は、遠くシドンのサレプタの一人のやもめのもとに身を寄せるようにとお命じになりました。エリヤはそこに参りまして、薪を拾っている一人のやもめにパンをください≠ニ言いました。しかし、彼女は、一人の息子と自分が食べれば、もう後は死を待つばかりというほどの、わずかの粉が壺にあり、油があるだけだと言うのです。そしてエリヤはかまわない、大丈夫、わたしの言う通り、まずわたしのためにパン菓子を作って出しなさい。必ず、壺の粉は尽きず、瓶の油は絶えることがない≠ニ言って、やもめはその通りにしましたところ、本当に雨が降るまで彼女の家の壺の粉は尽きず、瓶の油は絶えなかったというのです。 さてそれで、その次の27節ですが、これも同じく列王記下5章に詳しく書かれている物語であります。「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」預言者エリヤの評判を聴いて、遠くシリアの国の将軍でありましたナアマンは、王様の手紙を添えていただきまして、はるばるとエリシャのもとへと病を癒やしてもらいにやってきたのです。ところがエリシャは、玄関に出て来もしないで、使いの者をよこして、ヨルダンの川で身を七度沈めなさい≠ニ、これだけ言ったのです。それでナアマンは怒りまして、もっと仰々しく何か儀式をやってくれると思ったのに、それに、川の水なら故郷の川の方がきれいだから≠ニ一端は帰りかけるのですけれども、部下の者たちに、預言者が言ったことはたやすいことだから、とにかく一度やってみたら≠ニ勧められて、欺されたつもりでヨルダン川に身を七度沈めますと、重い皮膚病は「清くされ」ていたと言うのです。 神の恵みの年を実現するために、イエスがその使命を負って神のもとから派遣されて来た。その派遣先はカファルナフムであり、ナザレであり、さらに広く異邦人の世界にまで及ぶものであることをたとえて、サレプタのやもめや、シリア人のナアマンだとかいう異邦人に神の無条件の恵みを注がれた例を挙げ、たとえ外国人であっても神様は広い関心をおはらいになっていて、神の恵みにすがる者には、サレプタのやもめであれ、シリアの将軍であれ、恵みを注がれるのだとイエスは語られているのです。 ナザレの人々はイエスの言葉を聞いて激高します。イエスが神から遣わされて来たことが見えませんでした。それどころか彼らの生活感覚から見ると、イエスの出自、能力、地位、外観、言葉遣い、自分に好意をもっているかいないか、そういった思いに捕らわれていて、この人はヨセフの子ではないかという人間的な次元での評価しか出来ませんでした。このナザレの人々の本質的な問題は神がもたらそうとしているすばらしい無条件の受容を自分たちは受け入れないと言うことでした。 29節「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」ユダヤ教の規則によりますと、石を撃って処刑する死刑というのは、先ず囚人を、人の倍以上の高さから突き落として、それから石を投げつけるという規則なっています。(ミシュナー)しかし、この日は安息日であり、死刑を執行する日ではありません。人々は激高してイエスをリンチしようとしたということだったのでしょう。 30節しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られます。この立ち去られたというのはまんまと逃げおおせたと言う意味ではありません。ルカ福音書はこの表現を使って、イエスが着々と神の御計画を進めて行かれる足取りを描いているのです。ルカはそのことを13章33節に「わたしは今日も明日も、その次ぎの日も自分の道を進まねばならない」と、ただ立ち去った。動いた、逃げたというのではなくて、「自分の道を進む」という、決意を固められ、使命を帯びて自分の道を進めておられる、イエスを歓迎しなかったナザレを去ってエルサレムへの本来の歩むべき道を目指して歩み出したと語っているのです。それは、告知された恵みの年を徹底して実現するためでもありました。 お祈りします。 恵みの主なる神様。あなたはわたしのような者を無条件で喜んで受け入れてくださり、しかも、その主の恵みの年を告知するために御子イエスを遣わし、わたしたちに熱心に語りかけていてくださいますことを感謝申し上げます。この恵みに対して、わたしたちが自分たちの全身全霊、全人格をもって、あなたが遣わしてくださった御子イエスを受け入れ、イエスの言葉に聞き従い、あなたに答え、信頼を寄せ、繋がり、和解し、祈り、応答を捧げて行くことが出来ますように、わたしたちに本当の信仰をお与えください。 イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン ページの先頭へ |