「命の主と共に歩む人生」ヨハネ14:23-29 2025.5.25 大宮 陸孝 牧師 |
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネによる福音書14章16節) |
ヨハネ福音書13章31節から16節全体で、主イエス・キリストの弟子たちに対する別れの説教がなされ、17章では他の福音書には見られない、イエス・キリストの最後の「祈り」が長く記録されています。14章以下はその別れの説教の中心部分で、その14章18節から19節で「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしは生きているので、あなたがたも生きることになる」と記され、主イエス・キリストを見る人と見えなくなる人々とに別れると語り、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と非常に対照的な言葉をもって、弟子たちに別れの言葉を告げている所であります。これは、見えるものだけに自分の生き方の目を注いでいる人には、これは難解・不可解な言葉で、見えないものに眼を注いでいる信仰の領域に招かれている人だけが分かることだと言っておられるのです。 主イエス・キリストの十字架の死は、主イエス・キリストがこの世を去ることであるのですが、その「主イエス・キリストが去る」十字架の出来事が、主イエス・キリストが再びこの世に戻って来るという出来事を招来させる、主イエス・キリストがこの世から去るということは、戻って来るということだと語り、その後の20節から21節で「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることがわかる」とあります。この「かの日」とは「終末の出来事のときには」と理解できます。神が再びわたしたちに自らを啓示されるその時のことです。21節でその時のことを「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす」と記されております。 わたしたちの人間的な視野において見える「神の顕現」は、主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちの肉眼城の視野からは終わり告げて去ったとしか見えないのですが、しかし、そのイエス・キリストがこの世から去るということには、父なる神と共にある主イエス・キリストの命へとわたしたちを導くという、積極的、肯定的な面があるのです。それをこそ新しい命とヨハネは告げるのです。 その「新しいとは何か」、キリストにおける「新しい命」とは、「信仰の命」とは何か、その新しい命に与るとはどういうことをいうのか。それが本日の日課の所で学ぶことが出来るように思います。ドイツのルター派の教会では、このヨハネ福音書14章23節から31節の所は、古くから聖霊降臨日(ペンテコステ)の福音書テキストとして読まれているということですが、日本福音ルーテル教会の新しい日課では復活主日(イースター)から聖霊降臨(ペンテコステ)の間、聖霊降臨主日の前々週の日課に設定されています。その意味はペンテコステの出来事への備えとして本日の日課を学ぶということであるとも受け取れます。「主イエスとの別れ」に際しての「とき」と、イエスの名において、父なる神から遣わされる、パラクレートス、聖霊、真理の霊、弁護者、助け主が、あなたがた弟子たち、また、初代の教会の人々と共にいるだろうというこの二つの「とき」の問題をどう捉えるのかという問題です。 25節と26節には「わたしはあなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い出させてくださる」と記されています。近い将来、弁護者、助け主が、地上の主イエスの肉体の存在、この世におけるイエス・キリストの存在、肉の目で見ることが出来る存在、つまりナザレ人イエスという歴史上のイエスが弟子に語ったすべてのことを、聖霊があなた方に思い起こさせるであろうと、主イエスは弟子たちとの別れに際して告げているのです。ちょうど主イエスご自身が父なる神からこの地上に遣わされたように、聖霊、弁護者、助け主も父から遣わされるというのです。 今起ころうとしている主イエスが父のもとに帰ること、と同時に16節には、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている」と語られています。このようなイエスの言葉が、この14章に繰り返されています。つまりイエスが去り、新たに遣わされる霊の働きというのは、主イエスの御霊の働きであるということ、聖霊というのは、イエスの再来、イエスの名において来る存在であることを、本日の日課のところで明確に示しているのです。父なる神と、地上を歩まれる神の子なる主イエスおよびイエスの十字架・復活・昇天の後の霊なる存在としての神、すなわち父、子、聖霊の三位一体の神理解がここに示されているのです。 その上で、27節の前半の部分で「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と語られて行きます。主イエスが「わたしの平和」と語っているところが重要です。この世の支配者やこの世自体が決してわたしたちに与えることのできない真の平和を、主イエス・キリストが弟子たちや、あるいは教会に対して与えるという約束と宣言がここでなされているのです。 この平和の中身が重要なのです。わたしたちは一九世紀から二一世紀の現代にいたるまで、「平和」「平和」と繰り返し言ってきたのですけれども、そう言いながら、恣意的な平和が主張され、自分に、または自分の所属する集団、あるいは自分の部族や民族、あるいは自分の国に都合の良い「平和」を主張して、何度も何度も世界を戦禍に晒して悲惨を繰り返して来たのですけれども、そのようなわたしたちの歴史の中で、イエスが与えてくださる「平和」とは何かをしっかりと把握することが重要であります。 16節〜17節で見ましたように「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」と記されておりました。ここで言われている平和はこれと関係しています。つまり、主イエスが与える平和というのは、弁護者、助け主、真理の霊、聖霊が共にいるということです。神のもとから遣わされる霊を抜きにしては「真の平和」はないということです。 さらに17節「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからもあなたがたの内にいるからである」と語られていました。わたしたちは、死の谷の陰を歩むような経験を人生の途上でいたします。戦争の悲惨、重い病気、あるいは年齢にかかわらず愛する者を失うという出来事、思いがけない災害に遭う時もあります。あるいは長い年月、悲しみの中にある方もある。あるいは失意のうちに過ごすこともある。恐れの中で信仰を失うような経験をする事もある。いろいろな問題を抱えながら、限りある命を生きるわたしたちの人生の真ん中に神が働かれて、弱い自分が、脆弱な自分が、悲痛のうちにある自分、限りある命が「強くされる」「失意が希望に変えられる」という経験をする。信仰者とはその経験に生きる者です。人生のどこかの時点で風が吹き抜けるように、わたしたちは神の導き、聖霊の導き、働きを受けて、癒やされ、慰められ、強められ、死を超える命の世界を経験する。 17節後半の「この霊があなた方と共にいる」この『共にいる』ポイエオーは〈永遠の創造の業に生きる〉という意味で、わたしたちの命は限りあるのだけれどもその制限の中で、あなたは神と共に、神の永遠の創造の業に生かされるという意味になります。ただ単に神が一緒にいるというだけでなく、もっと積極的な意味で、わたしたちの人生にはいろいろな制限、いろいろな困難があるけれども、たとえどのような制限や困難の中にあっても、神の永遠の創造の業に与ることができるという意味を持っている言葉です。わたしたち一人一人の日々の生活の中で、神の永遠の創造の業が働いている、こういう意味をここに含められているのです。わたしたちの日々の歩みの中で、永遠の神の創造の業が生きて働いているのです。多様性ということが言われます。神の創造の業というのは、いろいろな形があり、一様ではありません。あなたなりの人生の歩みの中で、今そこに、神の創造の業が働いて、あなたの人生は神の永遠の慰めと希望の御手によって支えられ、守られ、導かれているのだとの宣言であります。真の「平和」とはこの神の霊の働きへの信頼を基盤として成り立つのです。 28節の後半から29節「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときにあなたがたが信じるようにと、今、その事が起こる前に話しておく」と記されています。この偉大さとは前の節のポイエオーとの関連で、わたしたちがどんな現実の状態において困難な状況であったとしても、そこに永遠の慰めの御手がある、そこに偉大さがあるという意味で、「事が起こる」とは、神の意志に従い、十字架の購いの業を遂行することによって神の愛を示される、その新しい命の創造の業が始められることを示しているということです。 このようにして、主イエス・キリストがわたしたちのもとから去るということは、悲痛な絶望のときではなく、弁護者、助け主のはたらきの開始のときであり、また神の愛の働きによる命の創造のとき、信仰のとき、喜びのときであり、真の平和の訪れのときである、と今日の御言葉はわたしたちに告げているのです。わたしたちはいま、この神の永遠の命の躍動を覚えながら、そこから一人一人が神の新しい命の創造の業に与り、与えられた人生に神の栄光を表わす信仰の歩みを続けて行くのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
「キリストの愛に生きる教会の群れ」ヨハネ13:31-35 2025.5.18 大宮 陸孝 牧師 |
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネによる福音書13章34節) |
ヨハネ福音書は13章で新しい段階に入ります。一節でいよいよイエスの時が来たことをはっきりと打ち出し、主イエスがいよいよエルサレムに入り、13章から19章には、イエスの最後の一日(日没から次の日没まで)が詳しく描き出されて行きます。13章には最後の晩餐の記事が記され、その席で一節から11節には洗足の出来事が記され、続いて12節から17節には、その洗足を基にして、互いに愛し合い、仕え合うことが勧められています。そして18節から30節では弟子の裏切りを預言し、そのような文脈の流れの中で、本日の日課31節から35節の主イエスの説教へと続いて行くのです。このイエスの説教は、14章の長い主イエスの決別の言葉の序章と見ることもできる部分で、この決別の説教は16章33節まで続き、17章1節で、「「父よ、時が来ました」と父なる神に祈っていますので、13章1節と17章1節は対応して一つの囲みをなし、その先でイエスの受難の道行きを辿り、神からの委託を果たして行く受難のメシアの姿を鮮やかに描き出して行くのです。 そのことを念頭に置いて本日の日課13章31節から35節までを学んで参ります。ここは、@神と人の子の栄光について(31〜32節)A「わたしは行く」との予告(33節)B『新しい掟』の提示(34〜35節)の三つに区分することが出来るイエスの説教であります。 直前の30節で、ユダはイエスからパン切れを受け取り、悪魔の支配に身を委ねるために席を立ち、夜の闇の中へと出て行きます。最後の晩餐の席からイスカリオテのユダが退出して行ったことは、一つの決定的転換点を意味する出来事でありました。ユダ自身について見ますと、これは彼が悔い改めてイエスの御許に帰り行く機会を、最終的に放棄したことを意味しています。今やユダの前には、イエスを敵の手に売り渡すという既定の方針を実行に移す以外の道は残されていない。そして、これをイエスの側から見れば、今や弟子の裏切りによって、生命を奪われる十字架への道が最終的に確定したということでありました。 そしてさらに、同時に、ユダの退席によって、イエスの周囲に初めて神に属する混じりのない集団が成立したということもできるでしょう。これも、この重大な瞬間の意味の一つとして覚えていかなければならないことであります。いままでイエスは、この世の激しい非難と攻撃の矢面に立たせられただけではなく、その弟子の一団でさえも、麦と毒麦が混交しているような集団でありました。しかし今や裏切り者が自ら出て行くことによって、神の民の雑じりなき姿が実現するのであります。ユダが出て行くと、イエスは言われます。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節) ユダがイエスのもとを去ったのは夜でありました。それはまさに神の栄光が暗くされ、あるいは隠され、この世の勢力の支配に身を委ねたユダの状況を伝えているのですが、それが、本日の31節から32節の栄光に関する宣言を必然的に導いているのです。ユダが闇の中に去ったときと、人の子が栄光を受ける、あるいは「神の栄光をあらわすとき」が文脈的に関連しているのです。 ヨハネ3章14節で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と、十字架に架かることが言われています。さらに「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章15〜16節)と記されていますが、この所と本日の日課の内容とは密接に関連しています。主イエス・キリストが上げられる時、神から栄光を受け、わたしたちは永遠の命を得る、というわたしたちには理解することが困難なことが語られ、さらに8章28節では、「イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう』」との告知が十字架との関連で語られています。そこには、わたしたち人間が神の御子を十字架に付けるときに、主イエス・キリストが「かつてあり、いまもあり、未来にもある存在」である方、つまりイエスは地上を歩まれる神にほかならないという理解が、わたしたちにできるようになるという深い意味が込められています。これがヨハネ福音書のメッセージの中核にある意味であります。 31節〜32節 ユダが出て行って、イエスの許に残された11弟子たちが残されます。その瞬間に人の子の栄光が現前する。そのことをイエスは「今や、人の子は栄光を受けた」と宣言されます。ここに「栄光」という言葉が何度も繰り返されています。31節32節を細かく区分すると五つの文があり、一番目は受動形の文で神の働きを表し、三番目の文は二番目の反復で、一番目から三番目までは完了形の文、最後の二文は未来形です。従って一番目から三番目までの時系列は、ユダが出て行った時のことではなく、イエスの十字架の時が示されていると受け取るべきところです。「今や」とは、イエスがこの世に於いて、この世の最高の権威者から神を冒涜する者として処刑されようとしている事実に照らして、そのイエスの死に対しての神の側からの評価を意味しているということです。 ここで、イエスの死をめぐって、今や正反対の二つの評価が厳しく対立しているのです。この世の評価は、イエスを極悪人として糾弾するものでありました。しかし神の評価に於いては、イエスはまさにこの屈辱の死を通して、神の栄光をお受けになった、と言うのです。この断定は、イエスが死に至るまで神の御心に従順に従い、その全生涯を通して神の真理を世に顕し給うたと言う事実を認知する者であると同時に、この世の評価に対して厳然と『偽り』の烙印を押すものでもあったということです。偽りであるこの世はイエスの全存在が真理であったからこそ、これを攻撃し糾弾したのであり、イエスはこの糾弾の矢面に立つことによって、逆に相手の虚偽を暴き出した給うたのであり、イエスの全生涯の意味は、まさにこの世のとの対決の中にあったということになります。ここでわたしたちは『栄光』という言葉の中に籠もっている、より深い含蓄へと導かれて行くことになるのです。 旧約聖書においては、『栄光』とは神の顕現を言い表す言葉でありました。旧約聖書の中に多く見られる『神の栄光』または『ヤハウエの栄光』という言葉は、いずれも神の本質(または神の実在)が人の前に顕現する様子を表現する言葉でありました。これをヨハネ福音書13章31節〜32節に重ねて読むときに、すなわち、イエスはその御業を通して神の栄光を受け、神はイエスによって栄光をお受けになったという、最も深い意味に到達することができるのです。これは、父なる神と御子イエスとが、同じ栄光を共にするということ、つまり、イエスの業を通して神の栄光が顕現するという表明のことば、神の栄光が、人間の罪に基づく神の子の受難と十字架の死を通して表されたという神の最も深い真実を明らかにしている言葉なのです。 最後の二文は未来形だと申し上げました。ここで未来形になるということは、神が人の子に栄光をお授けになるということは復活を指していると考えられます。つまり、十字架と復活という栄光化から地上のイエスが栄光のイエスとして照らし出されるということです。「しかもすぐにお与えになる」(32節)は、一つは時間的にすぐにでありますが、むしろ即座に「復活の命」を指していると取るべき言葉で、十字架と復活の間の時間的な隔たりというよりも、それは一つの出来事として捉えられての「ただちに」ということで、イエスの言葉の繋がりから言えば、これは、次の14章から始まるイエスの別れの説教が、すべて栄光化されたイエスが語るという展開になって行くということです。その意味は、この別れの説教は、もはや弟子たちだけに語られた歴史的な出来事としての言葉ではなく、それを超えて、現在のわたしたちに向かって、栄光化されたイエスが語られている言葉であることを明瞭に示しているということです。この意味で、本日の日課は別れの説教の序章となるところなのです。 33節 栄光の顕現を語られたイエスの御言葉は、一転して『別離』という主題に展開して行きます。イエスは8章21節で、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを探すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と言われました。これは厳しい断絶の宣言でありました。イエスとユダヤ人指導者たちの世界との間には超えることのできない本質的な断絶があるというのです。そして今や、その同じことを弟子たちにも言わなければならない時が来たのです。しかしながら、イエスとイエスの許に残った11人の弟子たちの心は、今や熱い愛によって結び合わされているのですから、この弟子たちへの言葉は、戦いと決定的な断絶の言葉ではないことは明らかです。それにもかかわらず、イエスは今どうしてこの断絶の言葉を言わなければならなかったのか。その理由は本日の日課の後の36節から38節で明らかとなって行きます。ここでは次の14章以下の別れに臨んでの最後の別離の説教の前提として、別離を暗示している言葉であると言及するに留めます。 31節〜32節で栄光化のことが話されましたが、ここではこの栄光化されたイエスが霊に於いて現前する者として話しておられます。それが「もう少しの間」という時間性で表されている、すなわちイエスの死までの時、弟子たちにとって地上でイエスが見えない時のことで、弟子たちは地上で世に属する者としている限り、ユダヤ人と同じ存在であっることを示し、その弟子たちにとって、霊に於いて再びイエスに出会うことは、神からの恵みの賜物として与えられるものであり、同様に復活したイエスとの出会いも、神からの与えられた賜物なのだということをあらためて示されるのです。わたしたちは自分からイエスのいる所について行くことはできないのですが、贖いと復活はわたしたちにとって未来の希望として開かれていると言うことを意味しているのです。 34節〜35節 33節で、今、そしてこの世という制約の中に生きるわたしたちが、その制約の中でイエスを見なくなる別れに臨んでイエスが願うことは、弟子たちが相互に愛するようにというただ一つのことに集中されます。後に残して行く者たちの和合一致を願う心は、わたしたちの常識的でもよく理解することができるところではありますが、しかし、イエスのこの戒めの中には、わたしたちの人間的な類推では計り知れない深い意味が込められているということを、この愛の教えが『新しい戒め』または『新しい掟』と呼ばれていることから覗われます。この戒めの新しさはどこから来るのか。互いに愛せよというだけならば、旧約聖書の人々も知っていた戒めであり、イエス自身も今までたびたび教えられて来たことでありました。しかし今特に『新しい戒め』と前置きされたからには、今までと違った点があるということであります。それは一体何か。 この問題に対して、既に多くの回答が試みられて来ています。その有力な回答のひとつは、キリストがわたしたちを愛されたようにわたしたちも愛すべきであるという愛の程度が指示されている点において、新しい戒めであるというものです。あるいはもう一つの回答ですが、キリストの愛を受けることによって、それに動かされて互いに相愛せよという愛の動機において、新しい戒めであるとの解釈などです。あるいはまた、この戒めは、イエスと天の父なる神との間に見られる愛の関係に相応している点において(父と子を顕す点において)新しい戒めである、という見方もあります。これらは一面に於いて真理を表すものであることは否定できませんが、しかし、ヨハネ福音書13章全体の構成を視野の中に収めた上でこの箇所を読みますと、このイエスの言葉にもっと深い意味を見出すことが出来るように思います。その意味は、この13章の全体の中核を成す主題であります『新しい生命共同体の成立』の基盤としてイエスの贖いの愛と、新しい命の創造である復活があるということです。 そういうことで、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)という結論はただ単に共同体内部での一致団結のスローガンとすることではなく、ここでの〈皆〉が知るようになるとある〈皆〉とは、共同体の外の世界を意味しているということなので、この相互愛の掟は、単に閉ざされた共同体の団結を促すのではなく、共同体の中でのその愛の実現が、外に向かって証しするという形で開かれているということを言いたいのであります。「まず」共同体の中で愛し合うことが求められるのは、外の愛が欠如した「世」にあって、敵に囲まれている状況の中では、「まず」愛を実現すべきは、この世の中ではなく、足下の共同体の中であらざるを得ないということです。そうであるならばわたしたちはわたしたちの教会や家庭に於いての相互愛の実現を励まされ、促されていることになります。親しい共同体の中で真に愛し合うことは、簡単なように見えて実は案外難しい課題なのではないか。親しいが故に憎み合うこともある。関係が近いが故に、争いが起こることもある。親しさが即愛に直結するとは限らない。愛が欠如している世の中にあって、わたしたちはこの世の風潮に抗して、「まず」わたしたちの共同体に於いて、「互いに愛し合いなさい」という主イエスが与えてくださった掟を尊重し、これに従うことの大切さを切実に感じます。 神の愛によって新たにされた共同体である教会の交わりで、相互に愛の現存する姿をこの世に証しし、そしてその愛の領域が少しずつ広がって行くそのようなビジョンを掲げて、「互いに愛し合いなさい」という掟を大切にして行くことを促されているのです。 ページの先頭へ |
「救い主の声を聞き分ける」ヨハネ10:22-30 2025.5.11 大宮 陸孝 牧師 |
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネによる福音書10章28節) |
ヨハネ福音書10章では、羊と羊飼いの譬えが語られていますが、これは実は単なる譬(たと)えや比喩ではなく、そのままではわたしたちには理解できない隠された言葉であることが6節に示されます。「彼らはその話が何のことか分からなかった。」それは、その後の羊の門の譬えも、良い羊飼いの譬えでも同じ隠れた理解しがたい話しという性格を持ったものとして語られていると見るべきであります。ここで考えられているのは、この譬(たと)えは、神の霊の助けと導きをもって啓示されない限り、真の意味をリアリティーをもってわたしたちに明示する方法はないと宣言しているのです。そういうことで、わたしたちはこのたとえを通して、主イエスがわたしたち一人一人に神の啓示の言葉として現在化されるということを、信仰を持って聴従して行く限りにおいてのみ、この譬(たと)えの意味が理解されると言うことであります。そのことを表しているのがここでの神の自己啓示の重要な文「わたしは・・・である」"エゴ・エイミ"文です。 ファリサイ派の人々がイエスの言葉を何一つ分からないのは、その言葉を霊の助けと導きによる想起において聞くことが出来なかった。すなわち信仰を持って聴従していく姿勢がなかったということを示しているのです。 この譬(たと)えを通して10章全体を信仰を持って聞き取って行きますときに、そこで語られていますのは、イエスが来たのは人々に永遠の命を与えるためであり、永遠の命は、イエスが己れの命を与えることを根拠として成立するということを、明らかに良い牧者の存在によって描いているのです。そしてイエスは良い牧者としてそれを達成することがこの10章で語られているということです。己れの命を与えるということは、主イエスの己が命を犠牲とするこの世での最後の献身があり、それをこの10章では中心的な主題としているのです。それは「命を捨てる」というような表現ではっきりと示されています。 22節以下の本日の日課の部分は、内容的にはイエスの羊についてでありますので、1節から18節までの羊の話しの続きのように見えますが、その前の仮庵(かりいお)祭は、何処で終わっているのかはっきりしないまま、神殿奉献記念祭に切り替わって、「時は冬であった」と舞台設定が変わってしまっています。そこではっきりしていることは、神殿奉献記念祭に、イエスが自分の羊について語っていることであります。つまり舞台が変わったにしろ、そのことが重要なのではなく、1節から21節の主要な主題が改めてここで取り上げられているということです。 神殿奉献記念祭は、神殿の清めを想起する記念行事で、現在のユダヤ教のハヌカの祭りのことです。バビロン捕囚から帰って来た人々が第二神殿を再建して奉献した日が想起され、またマカベア独立戦争の際、シリアのアンテオコス四世が神殿にゼウスの祭壇を建てて汚された神殿を清めて再奉献された記念祭で、ユダヤの人々がどんなに大きな喜びをもってこの祭りを祝ったことか想像に難くありません。しかしながら、それとともにその日から一世紀半を超えながら、待望のメシアはまだ出現しないで、イスラエルは依然として外国の支配下にあるもどかしさに、焦りの色を濃くしていたであろうことをも推察できます。これは一二月の頃の冬に行われるものでした。そのために、寒風に晒(さら)されての状況を印象づけて、「冬であった」と表現されているのであろうと思われますが、主イエスとユダヤ人との間の、いよいよ険悪の度合いを深め、迫り来るイエスの何らかの危機を暗示している言葉でもあります。 23節 ソロモンの回廊は、神殿の異邦人の庭の東側の柱廊で、ソロモンによって建てられたという言い伝えがありこう呼ばれていました。イエスが最後に神殿を去ったことが8章59節に書かれ、その時ユダヤ人はイエスに石を投げようとしたと書かれていて、ここの31節で再び「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」となっているのです。ここでイエスが歩んでいることは、光りの祭りの真の主でいますお方、全ての人を照らすまことの光りであるお方がその場所に歩み出られたもうことを表現しているとも解釈できます。 24節 こういう場所でありますから、主イエスが歩んでおられると、人々の間に、あるいは、主が立ち止まって、何かをお話になるのではないかと期待が起こったとも考えられます。ユダヤ人たちはイエスを取り囲みます。イエスを威圧し、決着をつけようと欲しています。「いつまでわたしたちに気をもませるのか(心を捉えて置くのか)」イエスがいる限り、「イエスは誰なのか」という福音書の中核的な問いから自由になれないので、ここではっきりと話したらどうかと問いかけているのですが、ユダヤ人たちに「そうだ、わたしはキリストだ」とそれを明らかに話したとしても、その真実な意味を信仰によって受け止められることはない、とここでイエスははっきりと宣言されます。彼らはせいぜい二〇節で言われていますように、「悪霊に取り憑かれている」とか、「安息日を守らないのにキリストではあり得ない」と言うであろう。キリストだと言われても否定するということなので、この問いこそが自己矛盾であり、彼らの心の不安の表現に他ならないのであり、真実を求めての問いではなく、矛盾だらけの問いで彼らの心の動揺そのままを表している。従ってイエスはその問いに答えることはないのです。 25節 「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」イエスは「世に向かってあからさまに話した」(18章20節)と言っているにもかかわらず、ヨハネ福音書で「わたしはキリストである」と、ユダヤ人に話していることはありません。「キリスト」という主題を語ったか語らなかったかは形式的なことであり、キリストという言葉を語れば済むと言う問題ではなく、イエスが己が命を与えることによって永遠の命を与えるということは、しばしばイエスによって啓示され、狭い意味の奇跡によってもそれが示されて来ていました。そのように命を与えるものがキリストなのであり、イエスをキリストとして信じるとは、イエスがそのように永遠の命を与える者であることを信じることです。「わたしが父(神)の名において行っているわざ、それがわたしについて証ししている。」とイエスはさらに懇切に答えているのです。イエスご自身が神の言葉の受肉であり、イエスの業こそが神のわたしたちへの語りかけの言葉そのものであるのです。 イエスが「わたしがキリストである」とユダヤ人に言っても、それはユダヤ人にとっては証しにならない。ユダヤ人に対しては、キリストであると自称することではなく、それがわざによって証しされなければならない。ここでのわざとは、単に奇跡のみを指すのではなく、言葉をも含めたイエスの行為さらに全人格を含む全体を指すことは明らかです。そのイエスのわざすべてが、父(神)から遣わされた者としてのわざである。父なる神からの使命が遂行されるわざのことを指している、だからそのわざ自体が証しとなるのだと主張しているのです。 26節 冒頭の「しかし」は反意接続詞で、ここで語られているイエスの言葉の意味は連続的に全否定をされることを意味しています。イエスがここで自分はキリストであると言っても信じないで、石打にしようとするだけであろう。今が冬であり、時が近づいているとはいえ、まだ来ていない。どうして彼らが信じないのか、その理由もはっきりと書かれている。それは彼らがイエスの羊ではなく、イエスの声を聞き分けることができないからである。ここでもう一度10章全体の主題で羊という語が再び用いられる。これまで羊の話しをして来たことを基にしてイエスは話しを続けます。イエスの羊ではないからイエスの話しを聞かないということは、決して決定論ではありません。誰が最初からイエスの羊であり、誰がそうではないか最初から決まっているわけではありません。イエスの羊ではないことと、声を聞かないことは同時的で、声を聞かないことによって、イエスの羊ではないことが明らかになるというのです。 27節 「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」キリストはわたしたちを知っておられる。知るとはただ単に知識があるとか、認識しているとか言うことではなく、深い交わりを持っているということです。キリストはわたしたちの所に来て、わたしたちと交わりを持たれ、ある時には師として、ある時には友として、あるときにはわたしたちの僕となって、そして、決定的には、わたしたちに命を与えられる救い主として、交わりを持たれる。ですから、わたしたちは、主イエスの声に聞き従うのです。従うとは「着いていく」という具体的な内容を持つ言葉です。彼は先立ち行かれます。また、弱く遅い人のためには、その後になりながらわたしたちと行を共になさいます。また、「従う」「ついて行く」は、道とか旅を意味する言葉で、主イエスご自身が「わたしは道である」と言われるように、主イエスはわたしたちの人生の道行きを導かれる方であるということです。 28〜29節 「わたしは彼らに永遠の命を与える」これはわたしたちの本来的な命のことで、わたしたちは主イエスと深い結びつきの中にあるので、その命はイエスによって守られ導かれているのだから、牧者であるイエスの手からわたしたちを奪い去ることは誰にも出来ないと語り、その御手の中にある命こそ永遠のいのちであるというのです。良い羊飼いであるイエスがわたしたちの命を、命を賭して守っていてくださるからと、イエスの御手の救いの絶対的な確実性を言っています。救いが絶対・確実なのは、イエスが命を捨てて守るからだと主張しているのです。主イエスの交わりの中にある平安は何者によっても奪われることはないのです。こういうわけで、父が与え、イエスの御手の中に守られている羊は何にも増して尊い、その理由は父がイエスに下さったものであるからと、絶対的な価値の根拠を父なる神の賜物に帰しているのです。主イエスのものは父なる神のもの、神のものは主イエスのものであり、わたしたちがキリストの救いの中に入れられることこそ、神のものとせられることなのであり、その全てのことを父なる神のなさることとし、さらに最終的に言おうとしていることは、イエスの十字架の死は決して無駄になることではなく、わたしたちの命を神のものとして取り戻すことなのだと言っておられるのです。 30節 「わたしと父とは一つである」ここで主イエスは24節のユダヤ人たちの問いに対して短く簡潔な答えを与えています。問いをはぐらかし、煙にまいているというのではなく、そこまでは尋ねていないことまでも答えたもの、単なる形式的な答えではなく、奥底にある真理を語ったものと捉えることが出来ます。良い牧者の話や、良い羊飼いとしてのイエスの働き、またそのわざの最後の帰結が語られています。それは「イエスの働きは父なる神の働きである」という意味で、イエスと父なる神との絶対的な同一性を示しています。イエスの命を捨てる羊への愛は、父なる神との全く同一の愛であり、またその啓示なのだと言うことを最後に確認しているのです。父から遣わされた者としてイエスが成すことは、同時に父の働きそのものなのであり、最終的に命を捨てて、わたしたちに永遠の命を与えるという命のやりとりこそが、ここで言っている愛の実質的な内容なのだとの確認をし、さらにこのイエスの業は、父のわざなのだとの言葉をもって真実の良い牧者を啓示する話しを閉じるのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
「復活の主の基に立つ」ヨハネ21:1-14 2025.5.4 大宮 陸孝 牧師 |
「シモンペテロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった」(ヨハネによる福音書21章11節) |
マルコによる福音書を見てみますと、本来16章8節で終わっていたことはその結語で明らかでありますように、本日のヨハネ福音書も元来は、20章で終わっていたことは20:30〜31節から明らかで、その点では現代の多くの学者の見解は一致しています。では21章の著者は誰であり、その執筆の目的が何であったのかについては、様々な見解があり、そのことはまたヨハネ福音書全体の総括的内容とも深い関わりがあります。つまり1章から20章までのひとまとめの福音書が書かれた後に、第一の弟子と言われるペトロと愛する弟子(この人がヨハネ福音書の殆どの伝承を担った福音書記者と想定されていますが)この二人の関係についての記録を残す趣旨で、この二人の弟子の逝去後に、ヨハネ福音書成立の基盤となったヨハネ教団教会の誰かが書き記したそれがこの21章であると見倣すことが、もっとも客観的蓋然性が高いということができるでしょう。 この21章で用いられております主イエスに関する物語、あるいは伝承自体は、1章から20章までに含まれているものと同じように、紀元70年以前の主イエスに関する早い時期に成立した奇跡伝承や復活伝承を引用し、編集したものです。ですからこの21章は後代に追加された文章とはいえ、単なる巻末につける解説文とか付録とか、「後書き」的な文として、アフターソートという言葉がありますが、あとから考え直し、手直しをして書き加えられたものではなくて、エピローグ、終章つまり最後の口上を述べた箇所と見倣すのがより正確な把握であろうと思います。 本日の21章1節以下のところで大事なことは、二人の人物の役割、ペトロとヨハネの役割が明記されていることです。ペトロは羊を飼う者となるように、すなわち教会の大牧者となるようにと、復活の主イエスから言葉を受けたと記録されています(21:15〜19)。また、主の愛する弟子は、福音書の伝承、歴史、史実を正しく担った者であって、ヨハネ福音書の背後にある初代の教会の歴史に立って、ヨハネ福音書のイエス物語伝承を担う歴史的証言者としての人物であることを、21章の後半で伝えています。 そうしたヨハネ福音書の全体の構造をおおまかに捉えて、そして本日の聖書の日課に入ります、まず、復活の朝と同様に、主イエス・キリストの愛する弟子が最初に、復活の主イエス・キリストに気付いて、復活の主を信じたとあるのですが、これは明らかに、愛する弟子ヨハネがこの福音書執筆に関わり、大きな影響を与えたことを知っている人物がこれを書いているということであります。少し後代の信仰の継承者が21章を書き、現在の聖典ギリシャ語新約聖書中のヨハネ福音書を編集したということを如実に示しているのです。そういうことであるならば、わたしたちは今朝の聖書からどのようなメッセージを聴き取る必要があるのかが、いま礼拝を献げているわたしたちの聞き方、わたしたちの聖書に聞く姿勢であると思います。 主イエス・キリストの十字架上の死の意義について、地上を歩まれる神としての存在について、「かつてあり、今もあり、未来もある」存在、つまり神がわたしたち人間の歴史に突入して来たこと、永遠の事柄とわたしたちの「今」の事柄、永遠の時と今の時とがナザレのイエスという存在において交叉する。それが神の人類救済の出来事であることを、ナザレのイエスの言葉と振る舞いからそのことを認識し、理解し、深い信仰的洞察力に基づくそのイエス理解をヨハネ福音書は1章から20章まで展開してきました。このヨハネ福音書における信仰の原点、理解の原点、信仰把握の原点は神が人としてわたしたちの世界に来られたということにあるということを、21章の編集者はヨハネ福音書記者自身がそういう信仰に立っていた方であったということを記録しているのです。その具体的な例として、ヨハネ福音書記者、つまり、あの主の愛する弟子がペトロに「主だ」と言ったと、伝えているのです。 つまり、ヨハネ福音書記者と21章の編集者の信仰告白が、本筋では同じと言うことを強調しているのです。主の愛する弟子が、復活の主イエス・キリストを「自分の主」と告白しているイエスを21章の記者も「わたしたちの主」と告白したということです。初代キリスト教会を代表する信仰告白をしたということです。この点が重要なことです。ヨハネ福音書は全体を貫いて、あのナザレのイエスが他ならないわたしたちの主である。誰かに代わる主ではなく、わたしの主である。そしてそれを受け継いだ初代の教会のわたしたちの主もまたあのナザレのイエスなのだと、このように一貫して告げているのです。何でもないことのようですが、このことは主イエス・キリストの時代のユダヤ人社会では命がけのことだったのです。 福音を地中海世界に伝えた異邦人世界への伝道者と言われる使徒パウロと、その点は同じです。ユダヤ人社会とギリシャ、ローマの世界にキリスト教宣教のために、ヨハネとかパウロという当時の教会を代表する人は打って出て行ったのです。つまり、伝道者、宣教者・神学者としての生涯を二人の使徒は送ったのです。それに対してペトロは九節以下で明らかなように、特徴として言えることは、牧会者として、教会の指導者として召されたと言えるのです。そして牧会者として召されたこのペトロを中心として初代の信徒の群れに、教会とはどのようなあり方をしなければならないかを強調しているとも言えるのです。そのことを10節から見てみます。10節には「イエスが『今取った魚を何匹か持って来なさい』と言われた」と記されております。 わたしたちは、わたしたちの収穫したものを主イエスが命じられるまま持ち寄るのです。そこに信仰の共同体が形成されるのです。わたしたちが神からわたしたち個々人に与えられている固有の賜物をもって教会に集まるのであって、教会から何か物を持ち出すことではありません。自分の物を持ち寄るのであって、隣人のものを利用することではありません。教会に求め、教会から与えられるのは信仰の確かさなのです。これをわたしたちは教会から信仰の確かさと新しい命と霊の力を与えられて、家庭に、職場に、様々な人間関係の中に出ていくのです。わたしたちが神から与えられている固有のものを再確認し、それを神の働きのために活かし用いる場所として、日常の生活を送り、一人一人に与えられている賜物を活かして家庭に職場に社会に貢献することこそが神の期待されていることなのです。 そして今日またここに、週の初めに礼拝のために集められて、わたしたち一人一人が神の使命を再確認し、神さまに起源する力を与えられることを願っているのです。信仰の確かさがわたしたちに与えられることを願うのです。今取った魚を主イエス・キリストのもとに持ち寄る。神から与えられている固有の賜物を活かして神に捧げ返し、人々に仕えていくということです。どんなに小さい子どもでも、あるいは病床にあるお年寄りでも、神さまから大きな賜物を与えられて、この世に生を受けて、その方その方独自の生き方においていつでも神の栄光を表す生き方をしていく、それが信仰というものです。神の栄光をあらわすために、わたしたちはこの世に生を受けているのです。各自に与えられている神からの賜物は一人一人違うのです。復活の主イエス・キリストが、礼拝と聖餐においてその賜物に思いを馳せるように、わたしたちを礼拝に招いておられるのです。わたしたちは神から与えられた天与の賜物を持って、神御自身が招いてくださっている礼拝と聖餐に参与することが信仰の応答なのだということをヨハネはここで言おうとしているのです。 現代社会は居心地の良い、経済的な発展とか、物質的な豊かさを讃美する主張が支配的です。そういう居心地の良い領域につかっているのが現代人の特徴的な生き方です。ヒューマニズムや博愛主義や福祉的な事業などいずれも、この聖書が示す信仰のあり方から照らすならば、世俗主義の典型であると言わざるを得ません。賜物を神の栄光のために活かして働かせ、与えることを忘れて、受けることが当たり前となった家庭、学校、社会、あるいは施設からは、時代を変革し、新しいものを創造していく業は生まれてきません。そういう機関はやがて淘汰され、縮小し、やがて消滅して行くのではないでしょうか。キリスト者は新しい創造に与った者なのです。キリストにおける新しい創造に与った人が、信仰で言う「新しい人」なのです。 そして、11節ですが「シモンペテロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった」とずいぶん丁寧な書き方で記されています。「それほど多く取れたのに網は破れていなかった」とわざわざ書いてあります。しかも「153匹」と端数まで書いてあるのです。何故でしょう。「153」と端数まで書いてあるのですから、何らかの意味があるはずです。見過ごしにはできない大事な意味がここに隠されていると思います。 この箇所も旧約の預言と結びついているところですので、先ず旧約聖書をお読みいたします。エゼキエル書47章6〜10節です。(旧約聖書1375頁)「彼はわたしに、『人の子よ、見ましたか』と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。私が戻って来ると、川岸には、こちら側にも、あちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。『これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわちよご汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚(うお)も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エンゲディからエン・エグライムに至るまで、網を拡げて干す所とする。そこの魚(うお)は、いろいろな種類に増え、大海の魚(うお)のように非常に多くなる』」。これは生ける水の流れの預言者的な幻≠ノついて語られているところです。人間の救いの希望が成就するという預言が、本日のヨハネ福音書21章11節と関係していると見ることができます。 10節に「漁師たちはエンゲディからエン・エグライムにいたるまで、網を拡げて干す所とする。そこのうお魚は、いろいろな種類に増え、大海のうお魚のように非常に多くなる」と記されています。それは水がきれいになるからです。この川が流れるところではすべてのものが生き返るからです。結論を申しますと、復活の主に出会う経験をする者、つまり、あの復活の主がナザレのイエスであったと言う信仰に生きる者はすべてが生き返るのです。ナザレのイエスにメシアの姿を見るものは新しい創造に与るのです。その数は予想を超えて全世界に拡がって行くと言っているのです。今日皆さんにお伝えしたいことはこれです。つまり復活の主が先立ち行かれる教会の伝道と牧会の業を通してすべてのものが生き返る新しい創造の業が遂行される。わたしたち信仰者、復活の主の救いの歴史を担う教会は、その神の業に関わっているのだと言う宣言です。世界のすべての人々が主のもとに立つことを、わたしたちの努力ではなく、主の恵みと約束に立ち、それを望みつつ伝道する教会となること、わたしたちの弱さ、愚かさ、鈍さ、不信仰にもかかわらず主がわたしたちを支え、導きたもうことに自分を委ねて、常に主にのみ希望の基を置き、歩んで参りたいと思います。 お祈りいたします。 天の父なる神さま。様々なこの世の闇がわたしたちを重くし、うなだれさせ、希望を奪い、展望を奪います。しかしこのような世界に、主イエス・キリストが来てくださって、お前はわたしのものだと、神さまがわたしたちに語ってくださることを感謝します。どうか、この復活の命の主を覚えつつ、わたしたちも、あなたが語りかけて下さる命の言葉によって新しくされ、世の光として生きることができますように、わたしたちを主イエスの命の言葉によって支え守り導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン ページの先頭へ |