今から4年前の2020年11月に、「第35回童謡こどもの歌コンクール」に2歳5ヶ月で参加し、童謡『犬のおまわりさん』を歌唱。「こども」部門の銀賞を史上最年少で獲得した「ののちゃん」をみなさんもよく覚えていると思います。腕をふりふり歌う愛らしい身振りや力強い歌声にみんなめろめろになって聞いたことでした。
その「ののちゃん」が5歳の誕生日を迎えた2023年5月31日に、作詞を荒木とよひさ、作曲を馬飼野康二の書き下ろしによる初のオリジナルシングル「ドレミのかいだん」がリリースされました。コロナ過にある日本中さらに世界中を元気にそして笑顔にしたいという渾身の思いで製作されたものだそうです。
その歌詞の一部を引用します。
「1年365日 今日はだれかのたんじょう日
1年365日 今日はだれかのうれしい日
・・・・・・ドレミのかいだん さあのぼれ
ソラシド空にとどくから」
偶然にも私はこの「ののかちゃん」の「ドレミのかいだん」を12月24日のクリスマス・イヴの日に見つけ、たちまち魅了されてしまいました。犬のおまわりさんを歌った2歳の頃よりちょっと成長していましたが、まだあどけなさの残っている5歳の「ののかちゃん」が、ドレミのかいだんを、空に向かって上っていこうと呼びかけるように歌っている姿に、私にひ孫ができたらこんな感じなのだろうかとダブらせて想像しているのでした。ののかちゃんは、さあ元気を出して希望を持って未来に向かって歩いて行こうと、私たち一人一人に語りかけ、精一杯励ましてくれているのだと思いました。
12月25日はイエス様の誕生日(クリスマス)でした。その前の21日土曜日には、のぞみ保育園の降誕劇がありました。イエスの誕生を降誕と言います。降誕とは、神様が私たちの所に降りて来られて人間としてお生まれになった出来事を表す表現です。この誕生物語を起点にして、それからのイエスの生涯は終始1本の下降線によって結ばれて行きます。あたかも、「さあ!上って行こう!」と呼びかけているののかちゃんのドレミのかいだんを降って行くかのようです。
「マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた」(ルカ2章6節~7節)とあります。
飼い葉桶とは、家畜小屋にあるものです。ここに描き出されている馬小屋は、暗い洞窟だったと思われます。飼い葉桶は羊や山羊、牛といった家畜がその鼻先を突っ込んで草を食べる汚れた桶です。動物のよだれが染みついていて、異様な匂いが漂っている。人間の社会の中の、あるいは私たちの心の中にあるそういう場所が象徴されているということでもあります。民衆が引きずっている深い悲しみの底にイエスは生まれて来られ、その人間の悲しみを自分のこととして引き受けられたのでした。
この出来事を真っ先に知らされたのが、街に居場所がなかった羊飼いたちです。当時の羊飼いは、自分の羊を飼っていたわけではなく、飼い主は別にいました。彼らは日雇い労働者であり、いつでも解雇される不安定な生活を送っていた人たちです。その仕事は過酷を極めるものでした。彼らは、家も財産もなく、多分、家族もなく暮らす落ちぶれた人たちだったと推測されます。ですから、住民登録する必要もない。住民の数にも数えられていない。ローマ帝国のアウグストスから見れば、数えるべき人間でもない人たち、ユダヤ人社会の中でも、律法に定められた生活習慣を守ることもできない汚れた罪人とされた人々です。つまりユダヤ社会では神からも人からも見捨てられた人々ということです。あらゆる意味で、全く何の役割も果たしていない人々とされていました。
その人の数にも数えられていない羊飼いたちに、真っ先に、主の天使が近づき栄光に照らされ、主の降誕が告げられるのです。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシア(救い主)である。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2章11節~12節)
ここで言われている「あなたがた」とは、「民全体」世界中の人々のことでしょうけれども、直接的には、「羊飼いたち」のことでもあります。「民全体に与えられる大きな喜び」は、まずこの羊飼いたちに告げられたのです。
「すると突然、この天使に天の大群が加わり、神を讃美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」(14節)
「この『飼い葉桶』にこそ、天において讃えられるべき神の栄光があるのだ。そしてこの飼い葉桶の中に寝かされているお方を『メシア・救い主』として信じ受け容れる者にこそ平和があるのだ」と、天使たちは羊飼いたちと世にある全ての人々に告げたのです。
羊飼いたちは世界中の人間に与えられる大きな喜びを最初に知らされた人々であり、最初にイエスに会いに行き、讃美しながら帰って行ったのも彼らです。天使によって彼らは家畜のいる洞窟に招かれました。飼い葉桶に寝かされているイエスを見つけ、彼らは自分たちの居場所をそこに見出しました。そこには、罪の赦しによる救いを与えてくださる王がいてくださったからです。その王の前にぬかずいた時、救い主を礼拝した時、彼らの心は平安に満たされました。初めて、自分の存在を丸ごと受け容れ、自分たちの汚れ、傷ついた心を清め、癒やしてくださるお方と出会うことができたのです。
イエスが洞窟の家畜小屋に生まれたという一筋の下降線は、この後、飼い葉桶の床から、ついには「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)マタイ27章46節と叫ばざるを得ない底なしの深みにおいて極まるのです。イエスは真っ直ぐにこの下降線を降って、私たちを救い取ろうとして私たちの所に来てくださったのです。
私たちがこの1年を振り返れば、悔いが残ることがたくさんあ
るかもしれません。しかし、それらのことは私たちを癒やし、新しい命に造り変えてくださる神様にお委ねしたいと思います。自分では取り返しのつかないと思う過ちであったとしても、神様には取り返すことが出来るのです。その過ちの責任を私たちが自分で負ったままでいなくてもよいのです。神は今日私たちの人生を根底において負い、責任を取っていてくださいます。今、私たちのすべきことは、この1年の守りと導きを神様に感謝すること、そして安らかに新しい1年を迎えることです。
2025年1月1日