| 「良い羊飼いと羊の群れ」ヨハネ10:1-21 2026.4.26 復活節第4主日 大宮陸孝牧師 |
| 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10章11節) |
| ヨハネ福音書6章1節以下で、五千人の人たちを養うパンの奇跡の出来事があり、それに続いて6章22節以下では、イエスは命のパンであるとの言葉がありましたように、ヨハネ九章の生まれつきの盲人の癒やしの奇跡に続いて、10章では良き羊飼いに関するイエスの御言葉が語られます。イエスの命のパンについての言葉はユダヤ人だけではなく弟子たちにも理解されず、そのためにユダの裏切りの予告で終わっていますが、本日のところでもユダヤ人たちはイエスを悪霊呼ばわりすることを止めず、ついに石を取り上げるに至っています(20節〜21節)。投石のことは八章の終わりにも記されておりましたが、5章から10章までに記されているイエスとファリサイ派との対決の全体は改めて12章37節でまとめられています。ここでのイエスの言葉は激しい論争の中で語られているということをわたしたちはまず念頭に置かなければなりません。 9章では「見る」ことが、10章では「聞く」ことが主題となっているのですが、見ることと聞くことは決してばらばらのものではなく、預言者は神の言葉を聞く者でありましたが、聞くことと幻を見ることとはしばしば一つのことでありました。イザヤ6章が伝える召命の記事によりますと、イザヤはまず神を見、そのあと神の言葉を聞いたと記されており、またヨハネ黙示録21章によれば、ヨハネはまず新しい天と地を見、そのあとで神の大声を聞いたと記されています。このように第一に見ることが与えられ、第二に聞くことが与えられるのが順序となっていて、この二つは決してバラバラではないのです。マルコ福音書では7章と8章でイエスは盲人の目を開けられ、耳の聞こえない者の耳も開けられます。生まれつきの盲人は目が開かれてイエスを見ることできましたが、もしイエスが声をかけられ、かれがその声を聞くことがなかったならば、彼は癒やされただけで終わっていたでしょう。その意味で、見ることと聞くことについて述べている9章と10章は一つであり、イエスに従う者はイエスの言葉を聞くことによって一つの信仰に生きるべきであることを述べているのです。 6節には「彼らはその話が何のことか分からなかった」とあり、このたとえは最初からファリサイ派の無理解を前提として語られていることになります。ここでは、イエスの言葉を聞いた人々はかえって心を閉ざして行くことになるのです。そのことがイザヤ書6章9節〜10節の「人々の心を頑(かたく)なにせよ」によって示されています。ヨハネ福音書はこのイザヤの預言をもう少し後で引用して、イエスが神の子であることを認めないこの世への裁きをはっきりと告げるのです(12章40節)。しかし、そのことを、ここではイエスの言葉を絶対に聞こうとしないユダヤ人に向けて言われているのです。 10章のたとえは、門、門番、羊飼いとその声、羊とその名、盗人(強盗、狼)など、多くのものを配置して出来事を活写しています。エルサレムではふつう、建物と建物の間の空き地が羊の囲い場になっていました。羊飼いは朝早く門番に門を開けてもらい、羊を連れ出して町の外の草原へ行き、夕方に帰って囲い場に入れて、強盗や狼から羊を守るのです。羊たちは飼い主の声を知っていて、聞き分けることができるといいます。話は具体的で明瞭でありますが、ファリサイ派の人々は何のことか分からなかったと記されるのです。それは、彼らが自分の名が呼ばれていることに気付かないで、それどころか最初から聞こうとしていないと言うことを現しているのです。彼らは盗人、強盗とは自分たちのことを指しているとは、思っても見ないのです。この聞き流しは、信仰とは正反対のことでありました。1節でイエスが語り出しに、「アーメン、アーメン、あなたたちに言う」という宣言で始まったイエスの言葉が彼らの頑迷さと正面衝突したと言うことです。 まずイエス・キリストは「門」であります(10:9)。門は内側と外側に隔てられている人たちを交流させます。「宗教」を言い表すレリガーレというラテン語は「結び合わせる」という意味があります。さまざまな宗教は、教師が弟子を教え指導することによって、人と~との交わりを媒介します。教祖が自分と~との交わりの経験を教えることによって、弟子にもその経験を伝えるのです。それは人間の側から~に向かって近づいて行く通路です。しかし、それは果たして向こうまで通り抜けてゆけるのか、保証はありません。 夏目漱石の作品に『門』というのがあります。主人公の宗助は学生の時、下宿をしていた家の奥さんのお米を夫から奪って逃げ出し、二人で生活を始めます。ところが長い年月が経ったある日、お米の前の夫が自分たちの住まいのすぐ近くにやってくるという知らせを耳にします。宗助は今更のように過去の自分の罪を突きつけられて、動揺します。そこから何とか解脱しようとして、鎌倉の寺に行き、禅に打ち込んで悟りを開こうとします。しかし座禅して心を鎮めようとすればするほど、雑念や不安が湧いてきて、とうとう修行を中断して家に帰ります。そのとき彼はこう述懐します。自分は平安解脱の心境を求めて寺にやって来た。そして門を叩いた。ところが門の中から声が聞こえて「自分で開けて入れ」という。しかし自分は自分の力で門を開けることができない。それなら諦めて戻れるかというと、それもできない。結局自分は、門の前に立ち続けて人生の夕暮れを待つような人間だというのです。ここには、自分の力で門を開き、通り抜けようとして、それができない人間の弱さが描き出されています。 それに対してイエスが「わたしは門である」と言われるときには、自分で門を開けて入って来いと言うのではなく、~の側から人間の内に入って来られ、人間と共に生き、人間の側から~の側へと連れて行くことによって、~と人間とを完全に結び合わせる、完全な仲立ち、中保者であるというのです。人間の宗教家が人間仲間を~に連れて行くのでなく、イエス・キリストが~であり人であって、~御自身の人格において~と人間の両方を併せ持っておられることによって、~と人間を完全に結び合わせることがおできになると言っておられるのです。 ヨハネ福音書10章には、さらに良い羊飼いであるイエス・キリストが示されています。ここでは、主キリストがご自分を「羊の門」であり、また「良き羊飼い」であると教えておられます。この二つのたとえについて、初代教会の指導者は(教父クリユソストモス)は、主イエスが「わたしたちを御父である神のもとに連れて行かれるとき、御自分を『門』と呼ばれ、わたしたちの世話をされるときには『羊飼い』と呼ばれるのである」と説明しています。イエス・キリストはわたしたちを父なる~の下に導く門であり、わたしたちを養われる羊飼いであります。 ~と人間を完全に結び合わせ、いのちの交わりを与える、この中保者としての姿を、さらに一層明確に言い表しているのが「良い羊飼い」の姿であります。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである(10〜11節)。漱石の「門」の主人公は自分の罪を突きつけられたとき、それを自分で償い、解決しなければ、罪の赦しと心の平安を得ることができないことを思い知らされました。ところが主イエスは、罪を犯した人を、人間同士として一体になり、その人のために自分が命を捨て、身代わりとなって、その人を生まれ変わらせるのです。 ~と~の民の関係を表すのに羊飼いと羊の群れのイメージがよく使われます。イスラエルは牧畜の風土ですから、羊の放牧と荒れ野を旅する姿は、日常的に目にする状景でした。そして、~は「良い羊飼い」として、人々を羊の群れのように守り導かれると教えられます。その代表的なものは詩篇23篇です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(1〜3節)。人々は人生の折々に、この羊飼いなる~を仰いで、導きを祈りました。 またこの「羊飼いと羊の群れ」のたとえは、国の指導者とその国の人々との関係を示すのにも用いられます。その代表的なものとしてエゼキエル書34章を取り上げてみたいと思います。これは紀元前六世紀にユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、民族が離散した時代の国の姿を描き出しています。ユダ王国の指導者たちは、群れを守り養う「牧者」であるはずなのに、その使命を果たさず、却って羊を自分の生活を豊かにするためにだけ使って、情け容赦なく虐待し、その毛で自分の服を作り、その肉を食べながら、羊に対していささかの世話もしようとしません。そこで、~ご自身が「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れをさがすように、わたしは自分の羊を探す」と、立ち上がられるのです(34章11〜12節)エゼキエルは、ユダ王国が滅亡したのは、~の民の守りと養いのために神によって立てられたユダ王国の政治的指導者が堕落したことへの審判であると教え、それによって外国に追いやられた羊たちのために、~ご自身が羊飼いとして立ち上がられると預言したのです。 主イエスが来られたときのユダヤも、政治的・宗教的な指導者が人々をそのように扱っていると主イエスは見ておられました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)のです。エゼキエルの預言が主イエスにおいて実現することになるのです。そして主イエスはその短い御生涯において、ユダヤ人たちを呼び集め、御自分に従う人々を、良い羊飼いとなって養い導かれましたが、復活の後には世界の人々を召して教会とし、生ける羊飼いとなって世界の教会を導かれるのです。 「わたしは良い羊飼いである。わたしは 自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10:14)聖書で「知る」というのは、ただ単に知識を持っているというのではなく、深い愛の交わりの中にあることです。夫と妻が一体となることを「夫が妻を知る」と言います(マタイ1:25)。そのように愛をもって配慮し、守り、導くことが、キリストの人間に対する羊飼いとしての働きであります。主は、わたしたち一人一人の名を知り、一人一人の存在を心に刻んでおられます。 16節の「この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない」と語っておられますが、これは直接にはユダヤ人ではない外国のキリスト者を指していて、その人たちも一つの群れとなるという意味であるのですけれども、これはヨハネ福音書が書かれた時代の教会を指していると見ることが出来ます。そして間接的には、ここは未来形で書かれていますので、ユダヤ人と異邦人とが一つとなる教会はまだ未完成で、「一つの群れとなる」のは終末での完成された教会の姿であり、それがここで約束されていると見ることが出来ます。そしてそういうことであるならば、イエスの十字架のどん底に至るまでの「罪の世に示された極みまでの愛」は全ての人に及ぶということです。それを改めていうならば、「イエス・キリストはすべての人のために死にたもうのだ」ということです。この「囲いに入っていない、ほかの羊」という恵みの言葉をわたしたちは真剣に、そして希望をもって聞き取って参りたいと思います。 聖書が伝える~は人格的な~で、ここで~は一人一人に人格的に語りかけ、働きかけて、~の共同体を築かせてくださることが語られているのです。わたしたちはイエス・キリストという門を通り、この「一人の羊飼い」に導かれることによって、心を尽くして主を愛し、また隣人を自分のように愛して、~の救いの歴史を築いて行く者とされて行くのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「受難を通して栄光に入る救い主」ルカ24:13-35 2026.4.19 復活節第3主日 大宮陸孝牧師 |
| そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24章25-26節) |
| 本日のルカ福音書の日課は24章13節からであります。ルカ福音書の19章29節から23章56節までのところで、エルサレム内外での最後の出来事が語られ、そこで次の三つの主張を繰り返されています。た。第一は、人々がイエスを何者であるかを問うということ。第二は、イエスに従おうとする人たちにとっての諸条件の提示。第三は、イエスが審問され、断罪され、十字架につけられるにつれて、このお方が何者であるのかが最終的に明らかとなり、弟子たちへの招きが生じて行きます。この三つの主張を通して、ルカはメッセージの核心をわたしたちに語ろうとしています。それはすなわち、十字架に付けられたこのお方こそ、世を贖い、イエスに従う人たちの生を劇的に変えて従順な弟子とする救い主であると言うことです。 24章に入りますとルカは、このすでに語って来た主張を繰り返し再び語るのを聞くのですが、しかし、そうは言っても、24章のルカの言葉は、ただ単にこれまでに告げ知らせた事を、最後にもう一度確認したというだけではありません。ルカがこの時点までに語って来たことは、イエスの死で終わります。そして、最後に知らされることは、イエスの死であり、イエスの処刑を目撃した人たちの離散です。イエスが予告したことであるとは言いましても、死の極みと現実が、23章の最後の場面を覆っています。24章はこの十字架につけられたお方の話を再び繰り返されることになるのですけれども、しかし、墓を訪れた女性たちの話を手始めに、なにかそれ以上のことを語ります。つまり、十字架に付けられたこのお方は、また甦(よみがえ)られたお方であると、物語がさらに先へと続くのです。 この物語の続きは、エルサレムを離れてエマオへと戻って行く二人の弟子に焦点を当てます。エマオの正確な位置を決定するのは今日では大変難しいのですが、ルカによりますとエルサレムから西に向かって七マイルほどの、だれでも歩いて十分行ける距離であると語っています。彼らはエマオへの帰路の途を歩きながら、エルサレムでこの数日間に起こった一切のことについて語り合っています。この二人の弟子は、エルサレムでのイエスの身に起こったすべての出来事の証人であったことを示しています。使徒信条が述べているように、彼らはイエスは十字架につけられ、死に、葬られたことをエルサレムからエマオに向かう間中語り合っていたのでした。 そして最初のほう16節までのところで、エマオという村へ行く二人の弟子に一人の見知らぬ人が道中に加わります。復活のイエスが道連れになられるという場面が出てまいります。ルカ福音書では復活のイエスが現れるのはここが初めてで、旅の道連れの形で登場して来られます。ところが、その息詰まるような最初の出会いの場面で、二人の旅人は「イエスだとは分からなかった」というのであります。ここにはわたしたちに訴えようとしている重要な意味が込められ、また強調されているように思います。それは、イエスの復活を信じ、そしてその証人として宣べ伝える者となるには、生前のイエスが二度も三度もわたしは復活するよ≠ニおっしゃっていた言葉を思い出すだけではなくて、「聖書の全体」がメシアの受難と栄光を証ししているということを知らされること、これが必要だと言うことであります。 27節に「そしてモーセと全ての預言者から初めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。聖書全体≠ェイエス御自身のことを証ししているとはどういうことかと言いますと、それは 旧約聖書の~の救済の歴史全体、千数百年イスラエルの~ヤハウエがイスラエルの民族をずうっと導いて来られましたその歴史が、メシアの苦難と栄光を目指しているということでありまして、一貫して変わりなく、ヤハウエの~は受難を通して栄光に入る≠ニいう道筋で民を導いて来ておられる、そういうことにほかなりません。イエスが生前二度三度そんなことを予告したというぐらいでは、とてもとても復活などということを事実として受け入れることはできないけれども、千数百年の長い歴史の中で、イスラエルの民を導かれた~様とイスラエルの民の関わりの歴史をそのように体験的に学ぶと、ヤハウエという方は確かにそういうお方だと分かってくる、そういう雄大な歴史の土台があって、わたしたちは主の復活を信じているのだと言うことを、わたしたちにも知らされるのであります。 そのことを分かりやすく申しますと、旧約聖書のあっちこっちに書いてあるメシア預言がイエスという方によって成就したというのではなくて、旧約聖書の歴史全体の主であられるイスラエルの~ヤハウエ、旧約聖書時代の歴史の中で常に語り行動してこられたヤハウエその方が受肉してわたしたちの所に来られたイエスさまにほかならないということなのです。旧約聖書全体がメシアの苦しみと栄光を語っていますということは、イスラエルと共に歩まれたイスラエルの~ヤハウエが実はイエスさまなのだということ、これをしっかりと受け止め承認するということなのです。 ルカ13章34節で「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」このようにおっしゃったイエスさまは、実は旧約聖書の昔からずっと預言者を遣わしてきたヤハウエその方として語っておられるのであります。ここにイスラエルと共に旅をされているヤハウエの民を救おうとされる苦しみが語られているのであります。 以下、主イエスが解き明かされたであろう旧約聖書の重要な箇所を幾つか取り上げて確認しておきたいと思います。イザヤ書の63章8〜9節「主は言われた、彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救いとなられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった」。イスラエルの~ヤハウエは、イスラエルの苦しみを常に御自分の苦しみとなさるそういう方。常に彼らを背負い、彼らを担い、そのようにして救いへと導いてくださるお方。こういうのです。(1165頁) そして、このことをエレミヤ書で見てみましょう。31章の20節「エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる」。ヤハウエはエフライムを罪のゆえに退けられますが、でもそうやって退ける度ごとに、「わたしは更に、彼を深く心に留め」ずにはおれない。「憐れまずにいられない」。「胸が高鳴って」くる。こういう~なのです。(1236頁) ホセア書の11章8〜9節「ああエフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは~であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者、怒りをもって臨みはしない」。こういう神なのです。~であって人ではないということは、罪を罰してそれっきりという者ではない。むしろ許す者、許さずにはおれない者、これが本当の~というものだとホセアは教えているのであります。(1416頁) このように旧約聖書全体で語り行動しておられるイスラエルの~ヤハウエは、まさしくイスラエルのゆえに苦しみ、イスラエルの罪をわがこととして悩み、思い返しては救われる神なのであります。 このヤハウエの~の苦しみを体現されたのがナザレのイエスの生と死であったーこのように悟りました時に初めて、旧約聖書は全てメシアの苦しみとわたしたちを新しい命へと救い取る栄光を語っているということが納得できるということなのです。イスラエルの~ヤハウエが千数百年にわたるイスラエルの歴史の中で神さまに背く罪を裁かれるその御苦しみーイスラエルを苦しめる罪の歴史を、そのイスラエルの苦しみと重ね合わせる形でヤハウエ御自身が苦しんで来られたのだとわたしたちが認める時に、わたしたちの心が開かれ、わたしたちの心は燃やされたではないか、そういう読み方に変わって行くのであります。つまりわたしたち自身の救済の歴史へと転換する出来事となるのであります。 神さまは聖なる方として、わたしたちから区別され、わたしたちの罪を罰して止まないというような~ではなくて、わたしたちの罪を罰しながら御自身も苦しみ給う~、そしてその苦しみを負いながらわたしたちを救うために、熱情をもって十字架の死と死の後の復活を通して、わたしたちに永遠の命を示してくださいましたお方、この方がヤハウエでありイエスさまであられる、わたしたちが、神さまの救いの働きをそのように理解出来た時、わたしたちの心が燃やされ、開かれて、~の前にひれ伏し、~の栄光を褒め称えることができるようになるのだということです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「神の命の息を受ける教会」ヨハネ20:19-31 2026.4.12 復活節第2主日 大宮陸孝牧師 |
| トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネ20章28節) |
| 先週主日の福音書の日課はヨハネ福音書の20章1節〜18節まででした。そこではマグダラのマリアが復活の主に出会い、主からの使信を忠実に弟子たちに伝えたと言うところまででした。本日はそれに続いて、復活の主が弟子たちに顕現される顕所です。ここでは、せっかくマリアの証言を聞いたのに、実りはなく、弟子たちの心が閉ざされたままで、まだ復活の主を信じないままの姿が描かれています。弟子たちがマリアの証言を受け入れなかった理由を推測しますと、ユダヤ人を恐れていたり、主イエスを失った悲しみに心が閉ざされていたり、あるいは主イエスの衝撃的な十字架の死の事実の前に圧倒されていたので、復活という未曾有の出来事を信じることがあり得なかったからであろうと思われます。人生に経験する様々な悲しみ、恐れの感情などに閉じこもっていては往々にして真実に出会っても見落としてしまうということはあり得ます。 わたしたちはあまりにも世の悲しみや苦しみの中にある時に、肝心なものを見落とすことがあるのではないか。とりわけ、復活の主は何処にでも来られて、わたしたちの人生の真ん中にさえ来られるのに、それに気がつかない。主がわたしたちと共におられることを受け入れるためには、自分の経験や知識、また感情の枠を超えて自由になる必要があります。本日の箇所は、復活の主の弟子たちへの顕現で終わらないで、さらに「見ないで信じる信仰」の重要さを教えています。 弟子たちは目が曇らされてはいても、完全に復活の出来事から見放されていたわけではなく、復活のイエスはそれでも彼らに現れます。弟子たちにはまだわずかな条件ではありますがイエスの復活を受け入れるだけの素地はありました。それは彼らの多くが一緒に集まって祈っていたということにあります。しかし、それでも、一番の理由はイエスからの一方的な訪れ、主イエスの方から彼らに現れたことによります。弟子たちは共に祈り、弱さの中にありながらも共に支え合う共同体でありました。主を信じる共同体は多くの試練を受けて、ときとして主が見えなくなることもあるにしても、しかし恐れてはならない。共に集まり、弱さを憶えつつも祈り続けることが必要なのです。 イエスは弟子たちに現れて平和を告げ、ご自身の傷ついた体を見せ、さらに弟子たちが聖霊を受けて宣教に立つことを命じられます。証人となるためにイエスに選ばれた人々を見ると、地上のイエスと生活を共にした人たちであり、その共同体です。彼らは復活の主があの地上のイエスと同一人物であったことを証することができる人々であります。はじめは同席していなかったトマスには宣教の使命の委任はなされていませんでしたが、共同体の中に再度加わった後に初めてその使命に与り、使徒としての使命を全うして行くこととなるのです。 19節で弟子たちがユダヤ人の攻撃を恐れていたと記すのは、ヨハネ福音書の特徴です。復活の主イエスは、「あなたたちをみなし子にしてはおかない。必ず来る」(14:18)と約束されたことを、今、保証されます。そして彼らが集まっているところに来て、「平和があるように」と挨拶されます。この挨拶「シャローム」はユダヤ人の日常の挨拶以上のものです。弟子たちはイエスが去った後、世の憎しみの中に投げ出されて行きます(17章14節等)。しかし、イエスの平和は、世に対する神の愛の支配の実現であり、新しい創造を表す神の力でありました。イザヤ書11章6節、ルカ10章5.6節、ローマ15章33節等)イエスは今、約束の成就である平和の到来を告げ、そして十字架の傷跡をそのままお見せになられたのです。ルカ福音書24章39節では、亡霊ではない証拠として手足をお見せになったと書いておりますが、ここでは復活者が十字架に付けられた方であり、あらゆる苦しみと侮辱を受けられた方であることを知らせているのです。弟子たちはイエスの復活をマグダラのマリアから聞いていましたが、今こうして、復活と十字架が真に一つであることを、喜びの中で知ることとなったのです。 21〜23節 イエスは「あなた方に平和があるように」と繰り返して、弟子たちに宣教を促されます。教会は自分の計画と力に頼って宣教するのではなく、宣教はイエスの命令であり、その働きは、十字架に付けられ甦られた主が全地を治められることを表すのです。そして、教会は世の憎しみと迫害の中でもそれにもかかわらず、平和と和解を宣教して行くことをやめません。22節の「彼らに息を吹きかける」は、弟子たちが聖霊を受けて神の民として立たされた事を述べています。創世記2章7節に拠っているのですが、ここでは弟子たちに福音の宣教を託すべく聖霊に立たせたことを言うのです。罪の赦しは聖霊の働きであり、人はそれによって新しい人となるということです。23節は赦される罪と赦されない罪とを並べて語られているのではなく、赦しが裁きに先行していることを意味していると解釈することが出来ます。つまり、罪が不信仰により動かされない場合には、最後の審判を受けるに至るとの宣告です。福音とは、「世の罪を取り除く神の子羊」によって人が罪の赦しを得て新しい人として生きるようにする。こうして、信じる者は聖霊によって新しくされる。信じるか信じないかが、救いに至るか滅びに至るかを分けるのだとの宣言であります。 24節以下 ディディモ(双子)というあだ名を持つトマスはこれまで二度登場しています。11章16節では、イエスがラザロを起こしに行くと言われたとき、「わたしたちも行って一緒に死のう」と言います。14章5節では、イエスが「わたしがどこへ行くか、その道をあなたがたは知っている」と言われたのに対して「主よ、どこへ行かれるのか分かりません」と言います。トマスはイエスが共にいて導かれるのでない限り迷子になりかねない人でありました。ところが今、他の弟子たちと一緒にいませんでした。イエスの復活を伝える証言の繋(つな)がりはトマスに及ばず、代わって懐疑の鎖がトマスを縛ったのです。ヨハネ福音書はこの問題に正面から答えているのです。イエスは17章12節で「わたしが保護したので、滅びの子のほかは誰も滅びない」と祈られたことの具体的な答えであったと見ることが出来ます。 26節〜27節で見ますように、イエスは一週おいて再び弟子たちに現れて、シャロームの祝福を告げ、しかもトマスに十字架の傷痕を見せることを拒まれませんでした。復活の主は十字架の主であることを、イエスはこの再度の復活の顕現において明らかにされました。これは愛弟子とペトロ、さらにマグダラのマリアを通しての証言の連なりに拠らない、イエスご自身の顕現でありました。もちろんイエスは最初の顕現においても十字架の傷痕を示されました(20節)。イエスは人となった神の言葉(ロゴス)であり、イエスご自身でこれを確証され、弟子たちもトマスも、これをはっきり受け取ることを求められたのです。 トマスは「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」とのイエスの言葉に答えて、直ちに「わが主、わが神よ」(28節)と叫びます。フィリピ書2章11節では「イエスを主と呼ぶ者はイエスの名によって神を知る」とあります。これはこのヨハネ福音書の初めの1章1節〜18節にある通りです。「いまだかつて、神を見た者はなく、父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)。イエスは今、ご自身の傷痕を示しながら、「見ないで信じる人は幸いだ」と言われました。それですから、教会はイエスの十字架の傷跡に金箔を張ったり飾り立てるような仕方で十字架を知るようなことはありません。このことは初期キリスト教に現れたキリスト仮現説(ドケチィズム)との戦いを表しているものでもあります。キリスト仮現説は、イエスの受肉、受難、復活のすべてが仮のものであるとする思想で、この教説は、イエスは真に人間となり肉体の姿を取ったのではなく、イエスの受肉と十字架は単なる見かけ、仮象であると理解した異端であります。 イエスは「わたしを見たから信じるのか。見ないで信じる人は幸いである」(29節)と言われます。「信じた」は完了形ですが、「信じる」は不定法過去形(アオリスト形)で、未来をも含めた表現になっています。イエスは時に制約されないで創造の業をなさるという含みを持っています。信仰を持ってその時その時を生きている人間一人一人を祝福してくださっているという意味になります。この祝福は、聖霊が弟子たちを福音の証人としたことと結びついて、さらにその後の弟子たちに結びついた教会が、イエスが約束された新しい命にあって生きるのであり、復活したイエスの顕現の時と、その後の時との区別・制約から解き放たれ超えられていて、どの時代にあっても復活なさったイエスがわたしたちと共にあると言うことを示しているのです。 トマスはすでに他の弟子たちの証言があるにもかかわらず信じようとしませんでした。そのトマスにイエスの方から自らを顕してくださいました。このように復活のイエス・キリストに出会ったとき、トマスの心は打ち砕かれ、「わたしの主、わたしの神よ」という告白が口を突いて出て来たのです。「主」はこれまでは先生という意味で用いられて来ました(6・68、11・12等)。しかしここでは救い主としての「主」が告白されています。イエスは単に先生、尊敬し愛してやまない先生というのではなく、わたしの罪をあがない赦してくださった救い主として告白されているのです。そして、それだけではなくさらに、復活の主に出会ったとき、トマスは自分を裁き、自分を赦し、自分を愛してくださっている父なる神に出会ったのです。イエスにおいて、イエスを通して父なる神ご自身がトマスに呼びかけ、トマスを救ったということを、トマスはここではっきりと認識したのです。この告白を通してヨハネ福音書は、復活のイエスに出会い、イエスを信じるということがどういうことであるかを語っているのです。 そしてこのトマスの信仰告白と同じことが、さらにヨハネ福音書の時代のキリスト者にも起こっているということを言おうとしているのです。初代教会の信仰者たちは直接イエスを見ることも、イエスに直接出会うこともできません。この見ないで信じるということの中には、もはや直接イエスを見ることができないということと共に、徴(しるし)や奇跡やご利益によって信じる信仰は本当の信仰ではないということが含まれています。それはわたしたちに対しても語られていることなのです。直接見ること以上に、福音を通してイエスがわたしたちに語りかけてくださる言葉と約束を信じることが一番大切であり根本的なことであるということです。その根本的なことというのは、聖書の中に証言され記され信仰告白されている福音の言葉を通し、わたしたちは復活のイエス・キリストに出会うことができるということです。22節の「聖霊を受けよ」とは御言葉を通して語られる復活の主に出会って、その命を受けることであり、そこで聖霊が働くからあなた方は新たに生かされるという極めて客観的な出来事が生起する。そしてそれが見ないで信じるということなのです。 ヨハネ福音書14章9節後半でイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われ、さらに15節以下には聖霊の授与の約束が語られています。イエスは父なる神がどなたであり、どのような方であるかを明白に示した唯一の方であるのです。そして、ヨハネ福音書は、ただ単にイエスの説教によって神が示されたというだけではなく、イエスの行為を通しても、そして最後にはその十字架の死と復活を通して、神のご意志とわたしたちに対する救いの行為をはっきりと現し出してくださったということを語っているのです。ですから、イエスが旧約の預言の成就であるメシア、キリストであり、また神の御心を明白に示した神の子であることを告白するということは、知的になにかの真理を知る、あるいは悟るということではなく、わたしたちに永遠の命、本当の命、人生の本当の基盤を与えるということなのです。わたしたちがイエスを救い主と信じるとき、わたしたちは本当の命に生かされる者となるという出来事が起こるのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「命の応答への方向転換」ヨハネ20:1-18 2026.4.5 主の復活主日 大宮陸孝牧師 |
| 「わたしは主を見ました」(ヨハネ20章18節) |
| 過ぐる受難週の日々をわたしたちは、十字架への道を歩まれたイエス・キリストを仰ぎ、その御苦しみと死とを心に刻んで、それがわたしたちの罪の赦しと救いのためであることを、深く受け止めて参りました。こうして、主と共に「死の陰の谷」を歩んだわたしたちにとって、今日、復活祭(イースター)を迎えることは、この世の闇の中に光が差し込んで来る、喜ばしく望みを新たにする出来事であります。 19章38節以下で、アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を取り下ろすことを願い出ました。祭司長たちは、イエスがユダヤ人の王とみられることを恐れていましたが、ヨセフはそれとは反対に、イエスを王として丁重に葬ることを願ったのです。アリマタヤのヨセフはニコデモと同じく最高法院の議員であり、ヨハネ福音書はこの人物をニコデモと同様にイエスの隠れた信奉者と見ています。ニコデモは高価な没薬と沈香(じんこう)を持って来ました。墓は王を葬るのにふさわしい新しい墓でありました。二人の行動は祭司長たちやローマの兵士たちとは対照的であります。安息日を避けて前日に埋葬したのは、ユダヤ教の律法に従ったという意味です。そしてそれがイエスの復活によって全く無意味になったのでした。ここでヨハネ福音書記者は、三共観福音書のように墓を石で塞いだとも、婦人たちが夜通し番をしていたとも書いていません。墓に葬ることはそもそも神の御心ではないとの思いがそこにはあったと見受けられます。それですから、ヨセフもニコデモも次の20章の復活の出来事には登場して来ないのです。 最後の晩餐から復活して弟子たちに現れるまでの時間経過は、はっきりと記されております。復活は「週の初めの日」で、最後の晩餐の翌々日でありました。そして復活なさった主イエスが弟子たちに現れたのはその翌日でした。早朝の空虚な墓から書き始めていますが、ここには天使の知らせやそれを聞いた者の恐怖あるいは喜びについては何も記されていません。ただ、復活を聖書に基づく信仰の事柄として述べています(9節)。しかし、この信仰は復活者である主イエスご自身が与えてくださるのでなければ得られないものでした。そこでヨハネ福音書は、最初に墓へ行ったが空しく帰って泣くだけであったマグダラのマリアに、イエス自ら現れて復活を告げたという特別の物語を付しています(11節以下)。マグダラのマリアはイエスの十字架のもとに立っただけではなく、さらに復活を弟子たちに伝える者とされます。天使の告知ではなく、復活者自ら復活の信仰を与えたとするヨハネ福音書の記事は大変重要な意味を持っています。 ヨハネ福音書では、朝早くに墓に来たのはマグダラのマリア一人であります。マリアは墓の入り口を塞いであった大きな石が取りのけてあるのを見ました。恐らく盗人が墓を暴いて死体を持ち去ったものと考え、大きな衝撃を受けたと思われます。マリアは墓をのぞいてみる心の余裕もなく、気が動転し、ペトロともう一人の弟子のもとに駆けつけます。二節後半「主が墓から取り去られました」は直訳すると「彼が主を墓から取って行きました」で、マタイ27章64節が伝える遺体窃盗の伝承が暗示されていると見ることが出来ます。そしてこの部分には、マリアがまだ復活の事実を知らないことが示されていて、そちらの意味のほうが重要であり、恐らくヨハネ記者はそのことを強調する意図であったと推測されます。 マリアの知らせを聞いてペトロともう一人の愛弟子が墓へと駆けつけます。そしてイエスの愛された弟子がペトロを追い抜き真っ先に墓に尽きました。彼は最初は恐れて中へは入らず、ペトロの到着を待ちます。そこで、ペトロは真っ先に墓の中に入り、亜麻布がたたんでおかれ、イエスの頭部を包んでいた覆いが別の場所に丸めておいてあることを確認しました。しかし、この状況を見て確認しながらも、二人の弟子はイエスの復活を信じることはできなかったのです(九節参照)。そして、二人はこの事態を他の弟子たちに知らせることもなく、家に帰ったままでした。 1節〜18節は、最初に来たマリアは、墓のふたがないのを見て、外に立って泣くだけでありました。しかし、イエスが現れて、彼女を復活の最初の証人とします。16章16節以下で「悲しみが喜びに変わる」とイエスは言われていますが、ここでその言葉の真意が明らかにされているのです。 ペトロと愛弟子が去った後、マリアは墓の外で泣いていました。イエスの死体が墓の中になかったからです。マリアは墓の中をのぞきこんで見ると、白い衣を着た二人の御使いが、死体の置かれていた頭の所と足の所に座っていたと言うのです。「座っていた」という表現によって、かつてはそこにあったイエスの死体が、明らかに今はそこにはないということを示しています。そして天使たちはイエスの復活をマリアに伝えたのではなく、マリアもそのことを悟ったのではないので、マリアの嘆きは続いています。マリアにはここで起こっている状況の意味を考える余裕がないのです。それほど絶望感と悲しみが彼女を圧倒していたということです。 そして「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」(13節)。といって「後ろを振り向く」と、「そこに一人の人が立っていた」(14節)そしてそれがイエスであったと劇的な展開となるのですが、マリアはそれがイエスだとは気がつかないだけでなく、イエスが「婦人よ」と声を掛けた時も、園丁だと思い、なおも「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」と言うのです。イエスに出会ってもそれがイエスだと分からないのです。18章のイエスとポンテオ・ピラトとの出会いを想起させます。ピラトはイエスという人物に興味を持ちました。しかし、その出会いは全くイエスと出会ったことにはなっていません。「真理とは何か」とイエスに尋ねますが、真理であるイエスの人格には触れようとしないで、ただ興味を持ち、何かの知識を引き出そうとしているに過ぎないのです。そして、それはこの世の多くの人のイエスに対する態度を象徴しているとも言えます。そうでありながらマリアは、心の深い所ではイエスに感謝し、イエスを深く愛し、イエスの存在を必要としていたのですが、イエスに出会ってもそれをイエスと認めることができませんでした。イエスの「誰を捜しているのか」との言葉は極めて象徴的であります。 マリアは必死でイエスを捜していながら本当には捜していないのです。ただ尊敬し愛するイエスの死体を捜しているのです。わたしたちも過去の偉大なイエス、そして過去のその生きざまを想起しているだけということが多いのではないだろうか。そこで、イエスは「マリアよ」と呼びかけられるのです。生きて名前で呼びかける主がそこにおられました。イエスはご自分の羊の名を呼ぶ羊飼いとしてマリアの前に立たれているのです。その時マリアは信仰の眼を開かれ、救い主イエスを悟り、生ける救い主イエスと出会ったのです。ちょうどこの箇所はヨハネ福音書10章14節を思い起こさせます。良い羊飼いは自分の羊を一人一人よく知り、これを愛し、これを名前で呼びかけ、そして羊のために命をも捨てるお方であるというのです。イザヤ書43章1節を思い起こします。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」。キリストは命を捨てて、一人一人の名を呼んでくださり、そのような出会いにおいて、命の存在としてわたしたちを新しく呼び出してご自分の羊としてくださるのです。わたしたちも一人一人主から名を呼ばれ、わたしたちはその声を聞き、その声に信仰の眼を、耳を開かれるのです。 ここでマリアは初めて新しく復活し生きたもうイエス・キリストと出会ったのでした。マリアは再び振り向いて、アラム語で「ラボニ」と呼びかけます。「先生」という意味だと説明が加えられます。これは生前のイエスに対するマリアの関係を表す言葉であります。つまり、マリアの前に立っているのは、未知の神秘的な存在ではなく、かつてラボニとして知っていたイエスであり、つい先日十字架に付けられて死んだ筈のイエスであるということが認識されています。しかし、イエスはそのかつてのラボニとしての存在に留まる者ではなく、ここで、イエスは復活者として、マリアの前に現れているのです。イエスは今やラボニではなく、永遠の復活者なのだと次の言葉で宣言いたします。 17節「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。イエスの復活はこの世的な存在のあり方への帰還ではありません。今やイエスとわたしたちの関係は、以前のような視覚的・感覚的に確認するような関係ではなく、信じるという信仰においての関係として、生ける復活の主と出会うということなのです。ロゴス・神の意志を表す神の言葉であるイエスは、「肉体を取り、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)顔と顔を合わせ、お互いの存在を確かめ合う者となられた。それが具体的な人間関係であるのですが、しかし、イエスは十字架に掛けられて死んで、生前の関係は終止符を打たれ、今やイエスは父なる栄光の神のもとに帰って行く、そこでのイエスとの関係は、感覚的な関係を超えた、魂の深い所で、霊的な関係や絆で深く結ばれたものになるというのです。 「まだ父のもとへ上っていないのだから」ロゴスとして「下って来た」者がまた「上って行く」、これはヨハネ福音書の主題であります。しかも父のもとへ上っていくことは、また「助け主」という形で再び弟子たちのところへ戻って来て、共に留まる備えとなる。父の元へ一旦帰らなければ、また来られない(ヨハネ福音書14章〜17章)。マリアがイエスにすがり続けるということは、このイエスの昇天と再臨を妨げることになる。イエスが「上っていく」ということは、イエスが新しい場所に移ると言うことを表し、それは単に場所の移動を意味するのではなく、イエスのあり方、存在様式が変えられることを意味しています。そうしますと、そういう復活のイエスに向き合う者も、今までとは違うあり方をもって関わって行くことが要請されます。復活されたイエスが生前のイエスの再臨ではないように、イエスに出会う者にも新しい姿勢を取ることを迫って来ます。 「マリヤよ」という呼びかけに対して「ラボニ」と答えてすがろうとした時、マリアはイエスを、生前のイエスに対するのと同じ思いで向き合おうとし、またそのようにイエスに寄りかかろうとしました。しかし、それでは、イエスの新しい命の意味も、マリアの新しい生き方も生まれては来ないのです。イエスはここで、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と語ることによって、マリア自身が新しい命のあり方へと一歩踏み出して行くことを迫っているのです。復活の主を信じるとは、イエスに依存してぶら下がって生きるということではなく、イエスの御言葉によって新しくされ、イエスの御言葉を、生きる力として聞き、その御言葉に主体的に従って生きるということこそ重要であるということです。このような方向転換をすることなくイエスに出会おうとしたり、この世のあらゆるものにしがみついたままで復活の命に与ろうとするわたしたちの都合の良さをイエスは問題にしているということなのです。 さてそれで、マリアは一つの使命が与えられます。「わたしの兄弟のところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。この言葉は地上のイエスとの最後の別れの言葉として語られ、今や地上のイエスとの決別の時であると同時に、イエスと、父なる神と信仰者たちの群れとが、天上において永遠に一つとなる命の共同体の再会への時である、とイエスは宣言されています。そして、その上にさらにその方向をこの世に向けて転換し推し進めて、地上での永遠の命の共同体の始まりになるのだと宣言され、地上においてもすべての信仰者たちが一つになるという使命を遂行するために、御子イエスも、父なる神も、これから新しい存在様式、聖なる助け主として働き続けるためにこの世に再び来られると宣言されます。復活の主が約束されていること、語っておられることは、地上で主イエスが既に繰り返して言われて来たことであります。イエスが父のもとに栄光をうけるために帰り行くことは、決別の時であると同時に、彼と父なる神と教会の信仰者の群れとの永遠の生活共同体、天上とともに地上での始まりの時となるということです。マリアの「主を(確かに)見ました」(18節)は、父なる神のみもとに帰ろうとしておられる「復活のイエスの顕現」を垣間見たことを意味する言葉です。イエスの復活の最初の証言者は、他のどんな人でもない、一人の女性マリアでありました。19節以下は次週の日課として続きます。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |