| 「イエスにすべてをかける」マタイ13:31-33, 44-52 2026.7.26 聖霊降臨後第9主日 大宮陸孝牧師 |
| 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種より小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ13章31-32) |
| マタイ福音書13章のたとえを用いたイエスの説話が先々週と先週の二回にわたって、「種を蒔く人のたとえ」から始まって、毒麦のたとえの43節までの、「種が育つ」あるいは「種が生長する」たとえと、イエスの説話が対となって日課となっていました。本日の日課は少し戻って31節から33節の「からし種」と「パン種」のたとえ、そして、それを受けるようにして対を成している四四節から52節までの「宝」のたとえ、「真珠」のたとえ、「地引き網」のたとえ、そしてこの一群のたとえのまとめとして「蔵から新しいものと古い者を取り出す」たとえであります。 31節の「からし種」は小さな存在であるけれども、成長すると、茎の高さが五メートルにも達したということです。目を見張るような成長が、神の御業を象徴するものとして、ここに語られています。32節の「木になる」というのは、事実に適合していない(木ではない)表現でありますが、ダニエル書の中にある故事との関連の連想から、この言葉が用いられているということかも知れません。そのダニエル書4章11節以下によりますとバビロン王ネブカデネザルは、地の中央の木が点に達するほど高く成長する夢を見たというのです。「その葉は美しく、その実は豊かで、すべての者がその中から食べ物を得・・・空の鳥はその枝に住み、全ての肉なる者はこれによって養われた」のでありました(ダニエル4:12)。またエゼキエル書31章には、エジプトの王パロをレバノンの香柏に見立てる言葉があり、 「その丈は野のすべての木より高くなり、 豊かに注ぐ水のゆえに 大枝は茂り、若枝は伸びた。 大枝には空のすべての鳥が巣を作り、 若枝の下では野のすべての獣が子を産み、 多くの国民が皆、その木陰に住んだ」(31:5〜6) と記されています。しかし、その後は、ネブカデネザルもパロも、その高ぶりの故に切り倒されるという宣言が続いていますから、これはただ賞賛しているだけの言葉ではありませんが、それにしても、世界帝国の隆盛を示唆している預言であることには変わりありません。そういう旧約の記事への連想が、このたとえの中にも取り入れられているとすれば、イエスにおいて神の国が到来することとの類比ならびに、その本質的な違いが、より鮮やかに押し迫って来るものとなっているということでもあります。イエスによる福音宣教が異邦世界へも広がり、諸国の民がその許に招かれようとしている現実を、信仰をもって仰ぎ望んでいたのでありました。 33節の「パン種」のたとえも、「からし種」のたとえと同じく、小さな発端が大きな結果を生むと言う趣旨の話でありますので、同一の趣旨と見えますが、新しい重要な思想が出て来ています。神の支配とは、その選民イスラエルの上に、統率する力として機能したのでしたが、種蒔きのたとえでも、それに続くからし種のたとえでも、神の国が、全体を統括するものとしてではなく、この世に宿された見えない存在として表現されているのです。そして、ここでパン種の中に天国があるという発想は、神が人となったイエスにおいて神の国が到来したという宣言の、絶妙な言い換えであると解釈されます。そして、それだけではなく、パン種とはイスラエルにおいては祭儀的に汚れたものと見做され、その故に旧約の過越の祭の時には、除去されなければならないとされていました。過越の除酵祭とはそういう意味を持っていました。イエスご自身も旧約の正統的な指導者である律法学者やファリサイ派から、神を冒涜(ぼうとく)する者として攻撃されたという事実とこのたとえは見事に一致するものとなっているのです。 そしてパン種を入れると、大きな粉のかたまりが、膨(ふく)らんで行くということは、イエスにおいて到来した神の支配は、たとえどのように見栄えのしない始まりであっても、あるいは旧約の伝統から見て異端・邪説として排除されようとも、粉の全体に浸透すると同じように、世界の内に働きかける力となり、圧倒的に広がって行くというのです。そして、イエスご自身がそうであるように、この使信を信じ受けた者もまた、その光を内に宿す者としてそこに存在するという決定的に重要な意味をも含んでいて、イエスによって始められた福音の宣教の働きは、パン種自身の力、つまり、宣教された福音の力によって、その働きは周囲へと爆発的に波及して行くであろうと、予見されているのです。 本日の日課では、13章31節から33節のたとえに続いて、44節から45節にこれと対を成す二つのたとえが配置されています。まず、何にも替えがたい宝として、天国が叙述されます。天国とは神の支配する国のことですから、本来これは、多くの人を包括する横への広がりを持つ概念でありますが、ここではそれが、個人に焦点を当ててその特質を語っています。ここでの「隠された宝」や「高価な真珠」とは、掛け替えのない生命の源として、これを得るためには、すべてを抛つ(なげうつ)に値する宝という意味に解釈され、結論として人生の真の幸福への道がここに隠されているという趣旨に傾いていくことになりかねません。しかし、マタイはこのたとえの前と後に、世の終わりの審きを示唆するたとえを配置して、その二つの審きの警告の中に、この二つのたとえを収めていることに注目しますと、終わりの日を指し示しながら、この審きにどのように耐え抜くかという文脈において、この「隠された宝」「高価な真珠」の深い核心的な意味を悟らなければならないということになります。こうして終末時の審判という展望の中でこのたとえの意味を探りますと、審判からの解放ということに思い当たります。つまり、高価な宝とは、イエスの十字架の贖いによる罪の赦しのことであるということこそ、このたとえの中にひそむ中心的な内容であるということになります。 それによって、マタイ福音書の全体的構成に着目した時に見えて来る、罪と死の呪縛から解放するために到来した「人の子」なるイエスこそ、このたとえの指し示す究極的な秘義であったという結論に到達します。わたしたちはマタイ福音書の8章以降に、イエスにおいて到来した神の国の支配の諸相を学んで来たことになります。その内容がこのたとえの中に凝縮していることを改めて知らされ、さらに、その締めくくりとして、マタイはこの後に再び終わりの審判を示すたとえをここに接続させて行くのです。 47節から50節イエスが語られる「天の国についてのたとえ」の最後の部分です。 「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める」(47節)魚を集めようとして網が投げ入れられるのが、天の国のたとえだというのですから、この網を投げ入れる主体は神であるということになります。神が何かをなさるときには常に人を用いられるので、漁師が網を投げ入れることを通して神が網を投げ入れるという表現になっています。「いろいろな魚を集める」48節には「集めた魚をより分ける」とあります。より分けるのは人々、漁師ですので、魚を集めるのも漁師であるということになり、人々を用いて、網を投げ、魚を集められるのは、神であるということになります。人々を用いて、全ての人を神の国に招かれるのは神です。この神の国への神の招きは、具体的には教会の集まりへの神の招きです。この神の国へと招かれた人々の群れ、その教会の群れには、いろいろな人が集められています。神の国に属する者も属さない者もいます。招かれた人は多いのですが、招かれた者すべてが選ばれた者であるとは限りません。49節によれば、「正しい人」も「悪いものども」もまだここにはいます。両者が混在しています。これが教会の現実です。その教会を、神が終わりの日に審かれるという締めくくりになっているのです。 13章1節から始まっているたとえ話の全体を、この審きの描写で締め括ったのは、マタイの特質を顕著に示しています。初めの種蒔きのたとえは、あらゆる障害を乗り越えて、豊かに実を結ぶ神の御業を将来に向け展望するという趣旨でありましたが、この章を締め括るたとえにおいては、終わりの審きを指し示しながら、集められた教会を起点として神の愛の御業に立ち返る、という悔い改めを促しているのです。ここでは、洗礼者ヨハネの登場と、そのヨハネによるイエスの受洗から福音宣教が開始されたことにも端的に示されていますように、神の審きということが、イエスの福音宣教の基底にあることは、正真正銘の事実でありました。 49節「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」終わりの時にはすべてが明らかにされ、分離が行われて神の国がやって来ます。神の国がやって来るとき、このような正しい人々と悪い者どもの分離が起こります。そういうことですから、わたしたちは、神のこのような御業に信頼を寄せて、神の御言葉に従う信仰の歩みをして行くのです。わたしたちは「これが正しい人」「これが悪い人」と神の御業に先立って、裁判官のようになってはならないのです。「純粋な教会」を期待して、神への信頼と忍耐を忘れて、地上での教会の不完全を解消しようと思い上がるべきではありません。 わたしたち教会の信仰者の群れは、それだからといって、教会が神の御言葉に従う正しい教会であるための努力をしなくともよいということでもありません。神に先立って審判者のようにならないことと、神の御言葉に正しく聴従して、神の御心に添う教会形成をして行くことに努力をすること、この狭い道がわたしたちに許されている道です。わたしたちは、終わりの日に、捨てられることはないことを希望するともに、正しい教会の姿を求めて努力して行くことにしましょう。 教会がイエス・キリストの教会にふさわしい教会として神の御言葉によって形成されるのは、世の救いのためであります。教会がどのように優れた制度や組織を整えたとしても、それによって神の教会となるのではありません。教会は自己目的のために存在するのではありません。イエス・キリストご自身がこの世の救いのために、わたしたちと同じ人間になり、わたしたちの罪の購いのために十字架につかれました。イエス・キリストは徹頭徹尾、この世の救いのために存在し、また働かれました。そして今も、神の右にあって、この世のために執り成しをしておられます。教会は、徹頭徹尾、神のために、このキリストの救いの働きのために存在しています。ただそのゆえに、教会は自分自身のためではなく、この世のために存在しているのです。そういうことですから、教会は、我を忘れてこの世のために存在しなければならないのです。教会にはこの世の救いのために、その他のどのような集団もすることのできない、教会だけに許されたこの世のための最高の奉仕が委ねられております。それは、この世のために生き、働かれ、かつ死なれ、今も神の御許でわたしたちの救いのために執り成しておられるイエス・キリストを、この世に指し示すことであります。キリストの救いを証することです。キリストの救いの御業を宣べ伝えることです。 最後に、イエスはいくつかの天の国のたとえを語られた後に、話を締め括るように、弟子たちに対して次のように問いかけられています。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」(51節)弟子たちが「分かりました」と答えましたので、イエスは「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の蔵から新しいものと古いもの取り出す一家の主人に似ている」(52節)と言われました。新しいものとは、いま、弟子たちが聞いたこと、すなわち、イエス・キリストがこの地上に来られたことによって、まったく新しいもの、天の国が隠れた形で既に来ていることであります。そのことにって、わたしたちの未来が開かれていることです。 天の国のたとえを理解した者は、イエスがもたらした新しいものと、この世のアダムの罪の陰のもとに立っている古いもの、過ぎゆく運命を持ったものとを、識別できるとイエスは言われます。識別できるのであれば、古いもの、滅び行く運命の下にあるものを捨てて、新しいもの、今は隠されてはいるけれどもしかし、既にここにある大切なもの、神の国、希望に満ちたこの世の未来を開くものを選び取ることができる。イエスはこのように語ることによって、弟子たちが希望に満ちた天の国の真理に従って、希望を持って生きるように招いておられるのです。今は未だ隠れた形ではあるけれども既にこの世に来ている神の国、教会の中におられ、教会の中で特別な仕方で働いておられるイエス・キリストをこのたとえは示しているのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「神の愛の配慮に信頼し委ねる」マタイ13:24-30, 36-43 2026.7.19 聖霊降臨後第8主日 大宮陸孝牧師 |
| 「主人は言った。「いや、独麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」(マタイ13章29-30節) |
| マタイ福音書13章にはいろいろなたとえ話がまとめて記してあります。同じような性質を持った事件や同じテーマ、同じ種類のイエスの言葉を一箇所に集めて記述するのは、マタイ福音書の特徴であります。本日は先週の23節までの「種を蒔く」話がさらに続いて24節には、「イエスは別のたとえを持ち出して言われた」と、同じような状況の中で「毒麦のたとえを、「群衆」に向かって話されます。そして、間に「からし種」と「パン種」のたとえを挟んで、その後に、イエスは弟子たちにこのたとえの意味を解き明かしておられます。それが36節から43節の所です。この二つの箇所が対になり、本日の日課となっていますので、この二つをつきあわせながら、本日のたとえでイエスは何を語ろうされたのかを見て行きたいと思います。 23節までのたとえには、それが何を指しているのかという点には触れておりませんでしたが、本日のたとえには、24節の冒頭で、天国についてのたとえであることが明示されています。前の19節以下の二次的な説明の部分にも、「御国の言葉」とあるにはありましたが、そのたとえの全体が神の国のたとえということではなく、御国の言葉を聞いた者のその後の反応について、「御国の言葉を聞く者」の、聞く姿勢の種々相を語るということに重点が置かれていました。そして24節以下33節まで、一貫して天国を語ることが主題となっております。そして、イエスがその時代の状況の中で、天の国そのものを主題にするということは、メシアとして到来された核心の主題でもあったということをわたしたちはまず、念頭に置く必要があります。 当時のユダヤ教においては、「天の国」とは、神の支配を意味することばであり、出エジプト以来、十二部族連合信仰共同体(アンフェクツィオニー)、そして王国の成立とその滅亡、バビロン捕囚とそこからの解放と帰還、後期ユダヤ教の成立、ハスモン王朝の成立とその崩壊など、二千年に及ぶこのイスラエルの民の歩みが、神の支配の歴史そのものであり、そして、ローマの支配下にあった当時のイスラエルにとって、神の支配とは、この異教のローマの支配を打ち破り、その圧政からこの民を救い出す力として、期待されていたのでした。そのような時代の流れを背景とし、そうした状況の中で新たにイエスの言葉に従う群れが起こり、その群れに向けてイエスはこのたとえを語られているということを考えますと、それが当時の人々にとって、いかに期待にそぐわない意表を突くたとえであるかがわかります。 マタイ福音書の成立年代は紀元七十年以後であり、当時の教会は少数者であり、迫害の状況下にあり、その社会状況の厳しさと、その厳しさを宣教の先鋭化という方法で超えようとする教会の姿勢を思わされます。教会は生き残るか消滅するかという二者択一のなかにあり、緊急に存続する策を選択してそれに存在を掛けて行かなければならない状況に置かれていました。 24節 「良い種を畑に蒔いた」という言葉は、天地創造を語る創世記の記事の中に、「神はそれを見て、良しとされた」という言葉が、何度も繰り返されています。この創世記冒頭の天地創造の物語が成立したのも、イエスの時代と同じような状況、異民族の支配下に置かれていたバビロン捕囚の時期でありましたが、ユダ王国の全面崩壊と、言葉に絶する捕囚の悲惨な状況にもかかわらず、天地万物の存在に対する根源的な肯定を、イスラエルは表明することができたのでありました。その信仰の流れがここにも受け継がれていると見ることが出来ます。しかし、それは安易な現状肯定ではなく、「敵が来て毒麦を蒔いて立ち去った」と語られ、神に真向から対立する勢力が、神の良しとされた被造の世界を攪乱し、破壊しようとしているというのです。根本的には神が創造され、良しとされたこの世界に、このような悪の悲惨な状況が出て来るのはなぜかと言う問い27節に対して、「敵の仕業だ」という28節の答えが与えられているのですが、この事態にどのように対処して行くべきかということがここでの中核的な問題でありましょう。その対策として、直接悪を根絶しようとするのが、世の常識であろうかと思いますが、しかし、その申し出に対して、意外な指示が与えられます。 「いや、毒麦を集めるとき、(良い)麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」マタイは成長の過程で毒麦の混入があることを指摘し、種が蒔かれて実を結ぶまでの間に、人知れず行われる成長の働きの中に、敵の働きが入り込むことを指摘しています。しかも芽を出し、成長を始めた若い芽の段階で、明らかに毒麦であることが判別できる形でです。種を蒔いたら後は安心して収穫の時を待てば良いという状況ではない。まだ麦が完全に実を結ばないうちに、いつの間にか毒麦も実を結びつつある。種もよく、畑にも問題は無かったにもかかわらず、「人々が眠っている間」の「敵の仕業」つまり不測の事態が起こったということです。人知れずまかれ、事前に防止できないところにこのたとえの主眼があります。 地上に出た部分だけを見ると簡単に抜けそうなのですが、しかし、土の中では根が張っていて複雑に絡み合い、良い麦を傷つけずに毒麦だけを処分することはできない。十分に育っていない麦を守るためにも、刈り入れまで毒麦も育つままにしておかなければならない。毒麦の処分は刈り入れの時というのは、神の審きを指す言葉として、古くから定着していた言葉でありました(イザヤ書17章5節ほか)。つまり、最終的には、神の裁きに委ねるというのが、このたとえの結論であるということです。 イエスの時代にあった具体的な問題で言いますと、毒麦を根絶しようと目論む一つの典型的な例としてあげる事が出来るのは、熱心党の集団の活動がありました。彼らは粛正の剣をふるい、神の民イスラエルから不純分子を実力で排除しようとしました。あるいはまた、これとは別にクムランの洞窟に隠棲したエッセネ派の人々は、敬虔な信徒だけから成る礼拝集団を形成して、救いの到来を待ち望んでいました。彼らもその集団の中に、異分子の存在を認めませんでした。しかし、イエスは、これらとは全く別の道を歩んで行かれるのです。裁きを全く神に委ねることによって、イエスご自身の存在は全ての人に開かれているということを示されたのでした。当時「主税人・罪人」と総称され、正統とされた宗教社会から締め出されていた人々を、分け隔てなく、ご自分の交わりの中に招き入れられたイエスの姿勢も、また明らかに神に敵対する人々に対しても、忍耐をもってその悔い改めを待つという姿勢もこのたとえの含蓄の一つとして読む取ることが出来るのです。しかし、それも収穫の時までであって、定められた終わりの日に、神の厳然とした裁きが貫徹される。そのことを明示しながら、麦と毒麦の共存を許容し、見守るという緊張に満ちた現在の生き方が語られているのです。 イエス以後の初代教会において、麦と毒麦がそこに混在するという事態を避けることはできないという状況の中で、このたとえ話は、この事態に対処すべき基本的な方針としての意味をも持っていたと思われますが、それも、単なる宗教的な寛容への勧めという次元に留まるものではなく、審き主なる神への確固たる信頼をその根幹としている点にわたしたちは注目していかなければなりません。そのうえでマタイの毒麦のたとえに添えられている説明の部分に読み進めます。25節から30節までのたとえの要点の一つは、良い麦も毒麦も判別が困難であるということを前提にして、純粋な共同体を現在において実現することは断念し、現在の善悪混在の状況を忍耐すべきである、というのです。それを受けるようにして36節以下のたとえの説明部分の強調点は、神の厳粛な未来の審判ということにありました。 19節では、「蒔かれた種」は「御国の言葉」と解釈されていましたが、38節では「良い種」はイエスが蒔いた種で「御国の子ら」とされ、「毒麦」は、神に反する者が蒔いた種で「悪い者の子ら」とされています。畑に蒔かれた「良い麦」も「毒麦」も人間のことであることがここでは明確になります。そのほかには多くの点で、24節からのたとえ本文との相違が見られますが、これは、終末時の審判に焦点を合わせた再解釈で、39節のイエスの説明によりますと「刈り入れは世の終わりのこと」であり、「世の終わり」と訳した原語は、これもマタイ独特の表現で、直訳すると「世の完成」となります。要するに、神の裁きにおいて地上の歴史が完結する、というのです。これらのイエスによる解釈は、元来のたとえの趣旨を正しくとらえ、掘り下げたものと見ることが出来ます。 41節から43節では、一方で、世の終わりには毒麦は集められて、火の炉に投げ込まれて泣き叫び歯ぎしりすると語られ、そして他方では、父の御国で太陽のように輝く義人があると語ることによって、最後の審判がいかに厳粛な選別であるかを強調しているのです。神の国がやって来る。その時には、すべての不条理は終わり、神に逆らう者は、もはや存在することが出来なくなる。もはや死も涙もなくなり、「毒麦」はその存在の根拠を失い、存在そのものを失う、それが「毒麦」の迎える結末であるというのです。ですので、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という、忍耐と寛容、そしてイエスの平静さは、このような神の約束への信頼から生まれているということになります。 43節 イエスによって蒔かれた種、「神の国の子ら」は、神が蒔かれたものであるので、必ず成長する。どのような妨げが「敵」によって企てられ、行われたとしても必ず成長すると、「神の国の子ら」への深い慈しみが語られて行きます。「神の子ら」が一人たりとも失われることがないようにという、イエスの熱い、きめ細かい配慮が込められています。29節〜30節で「毒麦を集めるのは良いとしても、良い麦まで一緒に抜くかも知れない。だから刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と良い麦の一株一株、一人一人の「神の子ら」の失われることを欲しない神の深い恵みの配慮。「神の国の子ら」をいとおしむイエスの心が、あのイエスの平静さを生み出しているということです。 人間的な知識や経験に頼って、万が一にも良い麦を抜いてしまうこと、「神の国の子ら」が一人でも失われることはあってはならない。毒麦の根は、麦の根よりも強く、麦と毒麦の根がからみあっているかもしれない。それならば根を残して切り取れば良いかというとそれではまた生えてくるので、根本的な解決にはならない。今は根本的な解決方法はないのだ。この問題への対処法は主人に委ねるしかないということでありましょう。その意味では「毒麦」の存在が分かった以上、種を蒔いた畑の主は「麦」の生育には注意を払い、丹念に世話をして行くだろう。そのままに捨て置くのではない。その意味で、「良い麦」はしっかりと成長して行くことになる。「そのままにしておけ」と言い切る主人の決断の奥には、最後まで「神の国の子ら」の面倒を見ようとする、主イエスの決断がある。その最終的な決断とは、イエスの十字架を指し示しているということになります。このたとえは、イエスが身代わりとなって審判を受けることによって、滅ぶべき命が神のものとして取り戻されるという、そこまでの視野で語られているのです。 わたしたちはどのような妨げにも屈することなく、それに打ち勝ちながら成長する神の国、やがてわたしたちのところに確実に来たる神の国を確信し、全ての希望を十字架と復活のキリストにおいて、御言葉を通して、今日わたしたちに示していただいたイエス・キリストの神への信頼と人々への忍耐とを持ち続け、神の恵みの許に立ち帰る信仰の歩みを歩み通して行きたいと思うものであります。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「神は豊かな実りを約束される」マタイ13:1-9,18-23 2026.7.12 聖霊降臨後第7主日 大宮陸孝牧師 |
| 「種を蒔く人が種蒔きまきに出て行った」(マタイ13章3節) |
| マタイ福音書13章は、12章から16章12節の、反対者たちとイエスの対決という枠の中に組み込まれたたとえを一括編集しているところであります。この13章では、律法学者やファリサイ派による殺意が定まり、イエスはいよいよ十字架の道を歩むほかなくなって行くイエスの、その生涯の重大な転機をここに語り、そして、今やガリラヤ湖畔が、イエスの宣教の場として選ばれたことも、新しい局面の展開であることを示しています。 12章33節には「木とその実」と題するたとえが語られています。そのメッセージは神の言葉に養われて、良い実を結ぶ木として育って欲しい。悪い言葉、悪い心で非難し、攻撃して相手をやっつける、立ち直れないようにするのではなく、神の言葉をもって互いに励まし合い、助け合い、高め合う。そのような率直さ、未来への希望へとつながる意義ある人生を、神の愛によって新しい交わりを形成し生きて行くことを勧めた言葉です。それに続けて、12章の終わりでは、神の言葉を聞いて行う者こそ、わが母、わが兄弟たちだというイエスの言葉で結ばれます。そして、そのイエスの言葉を聞こうとして、群衆が集まって来たということも、イエスを中心とする新しいつながりの始まりを予感させ13章へと続いて行くのです。 そして、13章では新しく、神の国の秘儀の教えへと続いて行きます。その教えは山上の教えのような、戒めを中心とするものではなく、「たとえ」でありました。名も知らない無数の人々の中から、新しく「弟子」として召しを受ける者がそこから出て来ることを想定して、「たとえ」をもって、神の国の奥義を語ると共に、一つの謎として、その奥義が提示されていると見ることが出来ます。イエスは舟に乗り、湖上から語られたとあります。イエスは小舟に座し、群衆は湖畔に立ってこれを聞くという構図は、ユダヤ教のラビが席に座し、聴衆が立ってこれを聞くその習慣を踏襲したものであると思われます。今や広いガリラヤ湖畔の大自然が、イエスの教場となったのでした。 このたとえは、イエスと反対者たちとの対立の枠の中に置かれ、二重の意味を持っています。弟子たちに対しては、イエスによって到来を告げられた神の国が、どうして偉大で栄光に満ちた輝きを見せないのかを説明し、もう一方では、不信仰者について、彼らが天国の奥義を見聞きすればするほど、イエスの権威を拒否する信念を固めて行くことを語ります。その民の頑迷さは、イエスがたとえによって民衆を教えて行く前提となり、イエスの問題はユダヤ民衆の頑なな不信仰という現実と取り組むことであった。福音に対する彼らの無理解ということがイエスの取り組むべき問題であったと言っているのです。そして、その状況が神の計画の一部であったと指摘します。(14節、15節)これ以後反対者との対決はさらに激しいものになって行きます。 1節の「家を出て」は、36節「家にお入りになった」で始まる13章の後半部分と対応し、3節の、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と同根とであるので、種を蒔く人の原像がイエスであるということを示しています。つまりこのたとえは最初からイエスの宣教についてのたとえであると言うことになります。 種を蒔くということは農耕のありふれた営みでありますが、道端に種が落ちるという点については、当時のユダヤにおいては、最初に土を耕し、畝を作った上で種を蒔くというのではなく、まず種を蒔いてから土を鋤き返すという方法が取られていましたので、道端に種が落ちるということも十分あり得た話であります。路上にある種を鳥が来てついばむというのも、特に目新しいことではありません。七節まで種の育成が妨げられる種々の過程が相次いで描かれています。「土が浅いのですぐに芽を出した」というのは、表土が薄いため温度の上昇が早く、発芽が早くなってしまい、根が土深く入らなかったので、すぐに枯れてしまったということでしょう。茨の中に種が落ちれば、周囲の茨に塞がれて、種は生育できない。これらのことは経験を通して誰でも知っていることです。イエスはこのような挫折の種々相を語った後に、「良い地に落ちで実を結ぶ」種に話が進んで行きます。 先ず4節「道端に落ち、鳥が食べてしまった種」です。18節から19節の説明によりますと、「悪い者が来て、心の中に巻かれたものを奪い取る」とあります。「食べてしまった」とは食べ尽くすという言葉が用いられ、暴力的に奪い取り、一粒も残さない徹底さが強調されています。根を下ろす余地が全くありません。これは福音を聞いても全く受け付けない心を閉ざした状態を言っています。福音に対して全く興味を持たない場合もあるでしょう。また意識的に反発している場合もあります。「御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」という説明が付けられています。 次に5節の「石だらけで土のない所に落ちた種」です。「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」とあります。「石ころだらけ」というのは、小石がごろごろしている砂利の所と言うのではなく、表面よりも数センチのところが岩層になっている土地のことです。見た目には他の土地と変わらず、区別が付かないのですけれども、日が照り、温度が上がると、芽をだしますが、水分や養分を得られないので、厳しい試練の中では耐えられずに、枯れてしまう状態のことです。要するに、生き方の中に福音が深く入り込んでいないということです。 このたとえの説明は20節以下です。「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐに躓いてしまう人である」と説明されます。 そして7節の「茨の間に落ちた種」です。「茨の間」というのは、初めはきちんと整えられたかのように見えた土地で、茨はまだ生えていなかったのですが、その土の中に茨の種が混じっていたり、根があった状態のことです。一見良い土地にみえるのですが、茨の生長は農作物の種よりも早く、そのために農作物の芽を「塞いでしまう」というのです。この言葉は窒息させるといった意味に用いられます。茨や雑草の種が土のなかにあり、蒔いた福音の種と一緒に芽を出し成長するのですが、やがて、茨のほうが福音の成長を阻害して行くということです。22節の説明では「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の患いや富の誘惑が御言葉を覆い塞いで、実らない人である」とあります。「世の思い患い」は心が二つに別れることを意味します。茨とは、この世のいろいろな問題に取り囲まれて、多くの興味を持ち過ぎ、一番大事なことを顧みなくなることです。 そして8節、締め括(くく)りのたとえを「ところが」と、今までの言い回しを改めるように語り出します。「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」とあります。「実を結んで」は未完了形で、今も実を結び続けているという、絶えることのない働きの継続を表しています。これを23節の説明を読みますと「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。ここで言う「御言葉を聞いて悟る」とは、旧約聖書の背景から解釈しますと、「神の主権を認識する」という意味になります。神の御言葉を聞き、その言葉に捕らえられてしまうことです。そこに神が生きて働いておられることを感知する信仰の目と耳をが与えられることです。 ここにイエスの福音宣教の受け止め方が四種類記されています。これを大きく分けますと二つになります。福音を聞いても実を結ばない人がおり、もう一方では、豊かに実を結び、百倍、六十倍、三十倍と増え広がるということです。イエスはこれまで多くの奇跡、癒やしを行い、み言葉を語り、神の国の到来を示して来られました。その宣教活動によってイエスに従う人々が大勢起こされました。10章では弟子たちを派遣し、弟子たちの宣教活動を通して福音が伝えられ、福音を信じる人たちが増えて行きます。三〇倍、六〇倍、一〇〇倍と数が増えて行きます。手応えを感じ、喜びと自信がみなぎり、さらに伝道活動を活発にし、進展して行こうという気概に燃えたことであろうと思います。 しかし、その一方で、迫害、教会内部での家族の問題、イエスを受け入れず、悔い改めない町があり、当時の体制的な権力者である律法学者とファリサイ派による抵抗により、イエスの群れ(教会)が散らされ、ある者は信仰から脱落して行きます。教会内部であれだけ信仰に燃えて一生懸命にイエスに従っていた人たちが、一人去り、また一人と去って行く。このたとえの背後にそのような事情があったと思われます。イエスはそのことを承知されていて、予め戒めとしてこのたとえを語られたのだということです。 この後イエスが十字架に掛けられたときには、せっかく蒔かれた種は、みな枯れてしまったかのように、ここにいた弟子たちも一人残らずイエスのもとから去ってしまいます。イエスはこの時、そこまで見抜いておられたのだということでしょう。しかし、神は、復活という思いも寄らない仕方で、死んだ種から芽を出させ、文字通り三〇倍、六〇倍、一〇〇倍、それ以上の実を結ばせられて行くのです。イエスは他のヨハネ福音書12章24節のところで、次のように語っておられます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」わたしたちが本当に信仰の実を結ぶようになるために、イエスの命をかけた働きがあったのです。 このたとえの主体は種を蒔(ま)く人とその収穫期の実りであります。始めに申しましたように、種を蒔く人とは、イエスご自身のことであると考えてよいかと思います。イエスは弟子たちを高く評価し、実りを期待して宣教に派遣しました。しかし、弟子たちはイエスに従って行くことに不安を感じていたのです。それは今までイエスに対して好意的であった群衆までもが、イエスに敵対しはじめたからです。その弟子たちに対してこのたとえを語られました。誰が種を蒔いているのか、それは、権威ある者として舟に座って教えておられるイエスご自身である。そのことをここで明らかにしているのです。 わたしたちも弟子たちと同じように、イエスの教えを伝え語って行くことに、不安を抱き、また無力さを感じることを経験します。そのようなわたしたちにもイエスはこのたとえを語っておられるのです。イエスは、わたしたちが不信仰に陥らないようにと祈っていて下さいます。そしてそれと同時に、わたしたちが宣教の業に倦(う)み疲れを覚える時に、その働きを主イエスご自身が続けていてくださると教えて下さっているのです。イエスは今も豊かな実りをもたらそうと先頭に立って宣教の業を続けていて下さいます。このたとえは神の力強い働きを明らかにしています。ですから、わたしたちも神の力によってもたらされる収穫の豊かさを信じて宣教の業を続けて行くのです。申しましたように8節の「実を結ぶ」は未完了形です。今日もまたいかなる時代においても、イエスの種蒔きには、神の御言葉の創造の力が働き、必ずや豊かな実りがあることをわたしたちに明示しておられるのです。 そのことは、今日この説教台に於いて語る者への、そして教会に集められている者への、たゆまず神の御言葉を語り続けるようにとの促しでもあります。わたしたちの成すべき努めや戦いはそのことなのです。神はわたしたちのその働きを豊かに実らして下さるのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「来なさい私の安息の許へ」マタイ11:25-30 2026.7.5 聖霊降臨後第6主日 大宮陸孝牧師 |
| 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節) |
| 本日の福音書日課は、派遣の説教と信仰告白(10章)そしてそれに続いて、結局は傍観者となってバプテスマのヨハネをもイエスをも拒否している人々の反応を指摘し(11章16節〜19節)、悔い改めようとしないガリラヤの町々に対するイエスの激しい審きの言葉(20節〜24節)が語られ、そして、イエスとその弟子たちの宣教によって引き起こされる祝福と讃美、そして最後に疲れた者に対する招きの言葉で締め括られております。 本日の日課の少し前の11章20節の所から読み返して見ますと、「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちの所で行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。またカファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく、裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである』」(20〜24節)とあります。 ここを読みますと、主イエスは、かなり厳しい、そして激しい調子で攻撃されています。主イエスがこのような厳しい態度を取られることは滅多にないことです。マタイ23章ではファリサイ派と律法学者を徹底的に非難、攻撃されていますが、それと同じ感情の高ぶりをもって、イスラエルの町を攻撃されているのです。 ソドムとは、創世記19章で~に裁かれ、滅ぼされた町です。旧約の~の救済の歴史の上で、神の手に裁かれた町として有名です。「ソドムとゴモラ」という映画にもなりました。罪のゆえに裁かれ、滅ぼされたのです。そのソドムよりもなお、厳しい裁き、罰が~によってもたらされるというのです。まさしく感情も顕わにされ、激高した口調です。今風に言えば、「切れた」。そんな口調です。若く、青年の直接的な感情の表れと見るべきでしょうか。どうして、そんなに「切れる」ほどに激高されたのか。「数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」(20節)とあります。主イエスは寛容な方ではなかったのか。優しく、愛と赦しのお方だと思っています。すぐに結果を期待してそれができないとぶち切れる。そんな忍耐の無い方とは思いません。主イエスは奇跡を行い、~の福音を宣べ伝えたのですが、それでも悔い改めない町を叱られる。ソドムの罰の方が軽いと言われるのです。当時の教会の状況もあるのかなと考えさせられます。伝道しても、伝道しても、身を結ばない。結果が出てこない。そういう苛立ちが現れています。 コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、聖書地図を見ますと、ガリラヤ地方のことだとわかります。主イエスはガリラヤ出身ですから、まさに「預言者は生まれ故郷では受け入れられない」のです。そして、これは、主イエスの挫折であると見ることができます。福音を宣べ伝え、奇跡を行っても、信仰を勝ち取れない。悔い改めない町を厳しく咎めておられるのです。そしてその挫折にもかかわらず、25節以下の本日の日課では、「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」。とあります。 ここで本来の主イエスに立ち帰っておられる。福音を宣べ伝えることは、労が多くて、報われることが少ないことであります。ましてや、福音を告げ知らされて、すぐに受け入れ、信じることは更に少ないことでしょう。わたしたちが信仰を持った時のことを考えればわかることであります。にもかかわらず、なお教会は伝道し、福音を宣べ伝える使命を与えられています。そこに福音を宣ベ伝える者への慰めと励ましがあるのです。 福音を宣ベ伝えることは、幼子のような弟子たちへの~の特別な計画であります。知恵ある者や賢い者には隠されているのです。ですから、幼子のように素直になった時に、福音が~の言葉として受け入れられるようになるのです。頑(かたく)ななままでは、~を受け入れ信じることはできません。同時にそれは、福音を伝える者に対しても同じです。人間的な知恵や賢さではなく幼子のように~に対して素直で従順であることが求められるのです。 イエスのなされた恵みによる救いの御業にもかかわらず、ガリラヤの人々が悔い改めを拒否したことは、彼らの意思決定に基づく背きでありますから、そこからどのような滅びが生じたとしても、弁解の余地はありません。彼らは自分の責任において、滅びの道を選び取ったのであります。しかし、それにもかかわらず、実は神ご自身の意思が、このような形を取って実現したというのが、26節の断定であります。「そうです。父よこれは御心に適(かな)うことでした」神は人間の高ぶりを打ち砕くために、生命に至る真理の道を、人の目からお隠しになった。この神の経綸は、初めから一貫していて、イエスがこの世に来られた際に、特に顕著な形を取って具体化したのでした。人々のイエスに対する拒否反応は、真理の所在が見えないように神がお隠しになった結果であり、実は神ご自身による選びが、こういう形を取って進行しているのだというのです。人間的に見るならばイエスは挫折の中にあったにもかかわらず、このような神の意志の貫徹のゆえに、イエスはここで讃美の祈りを、父なる神の前に捧げることができたのでありました。 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して」いずれも複数形で、学に熟達し、知恵を備えている人々、理解力において秀でているという意味で賢い人々、これは当時のユダヤ教社会を代表する人々が、このように総括されているということで、彼らはイエスを拒否して、ついには十字架に付けてしまうのですが、それは神から霊的な信仰の眼を塞がれた結果であって、幼子のような、無学にして単純素朴な人々に、神はその真理を顕された。イエスはこの現実を神の御心として受け止め、これを感謝しているのです。そのように見ますと、この讃美の祈りは、ガリラヤの人々の拒否という、ある特定の地域に限定されるものではなく、むしろイエスの全生涯において一貫している基調であると見ることが出来ます。 この祈りにおいて、イエスは全き孤独の中にありました。この祈りはイエスがただひとり、神の御前に捧げた祈りであり、他の誰もここに参与することは出来ませんでした。天地を結ぶ単独者として、イエスは神の御前に立たれたのです。この孤独の深淵において、イエスはなおも、父なる神へ依り頼み続け、神のご経綸の成ることを是とし、無条件にこれに従われて行く、御子の従順が一貫していたのでした。ここに記されている讃美の祈りは、実はイエスの全生涯を貫く基調であったという重大な事実をわたしたちは知らされるのです。これは、父なる神と、御子なるイエスとの間に交わされた霊的な秘儀であり、そこから湧き出る喜びこそが、イエスのあらゆる活動を支える力の源泉であったということです。このように、生きる望みさえ消え果てる中で、それでもなお神を讃美するこのような祈りの内にある、イエスから使徒的宣教へと一貫する信仰の生命の流れに、わたしたちは驚嘆を覚えるのです。 一コリント1章18節、21節には「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には~の力です。・・・世は自分の知恵で~を知ることができませんでした。それは~の知恵にかなっています。そこで~は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(新約300頁)とあり、さらに、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という神の宣言を、イザヤ書29章14節から引用した後で、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(一コリント1章27節〜28節)と断定することによって、パウロは人の高ぶりを打ち砕かれる神の御業を語っています。 27節は、25節から26節のイエスの言葉に対する信徒の側の応答としての言葉とも解釈されます。ここにも、深い霊的真理がひそんでいます。すべてが父なる神から御子イエスに託されたという宣言は、両者の不離一体なる結びつきを語ると同時にイエスに対する多くの不信と拒否にもかかわらず、その権威は揺るぎないものとして確立していることを表明する言葉です。それに続き「父のほか子を知る者はいない」という言葉は、この世でのイエスの深い孤独を語っています。イエスは、父なる神のほか誰にも理解されない「隠された存在」として、この地上に立ちました。これは、父なる神が御子イエス以外に、だれにも分からない秘儀であることに対応しています。しかし、御子イエスが、父なる神を啓示するために、宣教へと選び遣わした人々は、このイエスと父なる神との秘儀に参与する恵みに与ることになります。マタイの教会の信徒たちは、この選びに与ったことを感謝しながら、これを告白しているということです。イエスに対する無理解を暴露し続けた弟子たちでありましたが、今やその秘儀に信仰の目を開かれ、イエスのこの告白に「アーメン」と応答する者となっているということです。 マタイ11章28節以下はそこから解かれているのです。イエスとはいかなる人であったかという、その存在の秘儀の前に導かれ行きます。「わたしから学べ」ということは、単なる知的な作業ではなく、イエスの恵みに与り、イエスとの歩みを共にする中でということです。つまることころ、それは、十字架を負ってイエスに従うということに他なりません。そして、それにもかかわらず、イエスはこの服従を通して、人々に真の魂の憩いを与えると約束しているのです。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは福音を伝道する宣教者だけではなく、生きるということで、重荷を持って歩んでいるすべての人に対して、主イエスは語られておられるのです。恐らく重荷を背負っていない人はいないでしょう。自分や家族の病気、子育て、親子関係、夫婦関係、事故、怪我、病、仕事上で、人間関係で、わたしたちは重荷を負っています。それは生きている限り、消え去るものではありません。無くなってしまうものではないのです。それが人生であり、生きるということです。 その人生の重荷が、主イエスの提供されるくびきによって、荷が軽くなるというのです。それは主イエスが共に担ってくださる軛だからというのです。なぜならば、イエスは愛の人格であり、そのイエスに従いイエスの軛(くびき)を共に負う歩みに恵みが籠(こ)もっているからです。このわたしたちの荷を共に担っていてくださる主イエスのもとにこそ、真の慰めと平安があると言っておられるのです。命を与え生かしてくださった方のところに、慰め、平安、安息があるからです。 主イエスは、福音を宣べ伝えられます。奇跡を行われます。悔い改めて福音を信じるようにと、しかし、多くの人、町はそれを拒否いたします。「愚かなことだ。信じられない」と背を向けます。「~の国」の恵みと祝福、永遠の命を提供されるという、その最上の約束にもかかわらずです。拒絶された時のやるせなさは、これもまた測り知ることができません。それでもなお、主イエスは失われ行く人々を追い求めて止みません。そして教会はこの主イエスの御旨によって、宣教の使命を与えられ、その使命のために派遣されているのです。迷える羊といいますか、疲れた人、弱っている人、福音を待ち望んでいる人がどこかにいる限り主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みの言葉は宣べ伝えられていかなければなりません。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |