| 「神は豊かな実りを約束される」マタイ13:1-9,18-23 2026.7.12 聖霊降臨後第7主日 大宮陸孝牧師 |
| 「種を蒔く人が種蒔きまきに出て行った」(マタイ13章3節) |
| マタイ福音書13章は、12章から16章12節の、反対者たちとイエスの対決という枠の中に組み込まれたたとえを一括編集しているところであります。この13章では、律法学者やファリサイ派による殺意が定まり、イエスはいよいよ十字架の道を歩むほかなくなって行くイエスの、その生涯の重大な転機をここに語り、そして、今やガリラヤ湖畔が、イエスの宣教の場として選ばれたことも、新しい局面の展開であることを示しています。 12章33節には「木とその実」と題するたとえが語られています。そのメッセージは神の言葉に養われて、良い実を結ぶ木として育って欲しい。悪い言葉、悪い心で非難し、攻撃して相手をやっつける、立ち直れないようにするのではなく、神の言葉をもって互いに励まし合い、助け合い、高め合う。そのような率直さ、未来への希望へとつながる意義ある人生を、神の愛によって新しい交わりを形成し生きて行くことを勧めた言葉です。それに続けて、12章の終わりでは、神の言葉を聞いて行う者こそ、わが母、わが兄弟たちだというイエスの言葉で結ばれます。そして、そのイエスの言葉を聞こうとして、群衆が集まって来たということも、イエスを中心とする新しいつながりの始まりを予感させ13章へと続いて行くのです。 そして、13章では新しく、神の国の秘儀の教えへと続いて行きます。その教えは山上の教えのような、戒めを中心とするものではなく、「たとえ」でありました。名も知らない無数の人々の中から、新しく「弟子」として召しを受ける者がそこから出て来ることを想定して、「たとえ」をもって、神の国の奥義を語ると共に、一つの謎として、その奥義が提示されていると見ることが出来ます。イエスは舟に乗り、湖上から語られたとあります。イエスは小舟に座し、群衆は湖畔に立ってこれを聞くという構図は、ユダヤ教のラビが席に座し、聴衆が立ってこれを聞くその習慣を踏襲したものであると思われます。今や広いガリラヤ湖畔の大自然が、イエスの教場となったのでした。 このたとえは、イエスと反対者たちとの対立の枠の中に置かれ、二重の意味を持っています。弟子たちに対しては、イエスによって到来を告げられた神の国が、どうして偉大で栄光に満ちた輝きを見せないのかを説明し、もう一方では、不信仰者について、彼らが天国の奥義を見聞きすればするほど、イエスの権威を拒否する信念を固めて行くことを語ります。その民の頑迷さは、イエスがたとえによって民衆を教えて行く前提となり、イエスの問題はユダヤ民衆の頑なな不信仰という現実と取り組むことであった。福音に対する彼らの無理解ということがイエスの取り組むべき問題であったと言っているのです。そして、その状況が神の計画の一部であったと指摘します。(14節、15節)これ以後反対者との対決はさらに激しいものになって行きます。 1節の「家を出て」は、36節「家にお入りになった」で始まる13章の後半部分と対応し、3節の、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と同根とであるので、種を蒔く人の原像がイエスであるということを示しています。つまりこのたとえは最初からイエスの宣教についてのたとえであると言うことになります。 種を蒔くということは農耕のありふれた営みでありますが、道端に種が落ちるという点については、当時のユダヤにおいては、最初に土を耕し、畝を作った上で種を蒔くというのではなく、まず種を蒔いてから土を鋤き返すという方法が取られていましたので、道端に種が落ちるということも十分あり得た話であります。路上にある種を鳥が来てついばむというのも、特に目新しいことではありません。七節まで種の育成が妨げられる種々の過程が相次いで描かれています。「土が浅いのですぐに芽を出した」というのは、表土が薄いため温度の上昇が早く、発芽が早くなってしまい、根が土深く入らなかったので、すぐに枯れてしまったということでしょう。茨の中に種が落ちれば、周囲の茨に塞がれて、種は生育できない。これらのことは経験を通して誰でも知っていることです。イエスはこのような挫折の種々相を語った後に、「良い地に落ちで実を結ぶ」種に話が進んで行きます。 先ず4節「道端に落ち、鳥が食べてしまった種」です。18節から19節の説明によりますと、「悪い者が来て、心の中に巻かれたものを奪い取る」とあります。「食べてしまった」とは食べ尽くすという言葉が用いられ、暴力的に奪い取り、一粒も残さない徹底さが強調されています。根を下ろす余地が全くありません。これは福音を聞いても全く受け付けない心を閉ざした状態を言っています。福音に対して全く興味を持たない場合もあるでしょう。また意識的に反発している場合もあります。「御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」という説明が付けられています。 次に5節の「石だらけで土のない所に落ちた種」です。「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」とあります。「石ころだらけ」というのは、小石がごろごろしている砂利の所と言うのではなく、表面よりも数センチのところが岩層になっている土地のことです。見た目には他の土地と変わらず、区別が付かないのですけれども、日が照り、温度が上がると、芽をだしますが、水分や養分を得られないので、厳しい試練の中では耐えられずに、枯れてしまう状態のことです。要するに、生き方の中に福音が深く入り込んでいないということです。 このたとえの説明は20節以下です。「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐに躓いてしまう人である」と説明されます。 そして7節の「茨の間に落ちた種」です。「茨の間」というのは、初めはきちんと整えられたかのように見えた土地で、茨はまだ生えていなかったのですが、その土の中に茨の種が混じっていたり、根があった状態のことです。一見良い土地にみえるのですが、茨の生長は農作物の種よりも早く、そのために農作物の芽を「塞いでしまう」というのです。この言葉は窒息させるといった意味に用いられます。茨や雑草の種が土のなかにあり、蒔いた福音の種と一緒に芽を出し成長するのですが、やがて、茨のほうが福音の成長を阻害して行くということです。22節の説明では「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の患いや富の誘惑が御言葉を覆い塞いで、実らない人である」とあります。「世の思い患い」は心が二つに別れることを意味します。茨とは、この世のいろいろな問題に取り囲まれて、多くの興味を持ち過ぎ、一番大事なことを顧みなくなることです。 そして8節、締め括(くく)りのたとえを「ところが」と、今までの言い回しを改めるように語り出します。「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」とあります。「実を結んで」は未完了形で、今も実を結び続けているという、絶えることのない働きの継続を表しています。これを23節の説明を読みますと「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。ここで言う「御言葉を聞いて悟る」とは、旧約聖書の背景から解釈しますと、「神の主権を認識する」という意味になります。神の御言葉を聞き、その言葉に捕らえられてしまうことです。そこに神が生きて働いておられることを感知する信仰の目と耳をが与えられることです。 ここにイエスの福音宣教の受け止め方が四種類記されています。これを大きく分けますと二つになります。福音を聞いても実を結ばない人がおり、もう一方では、豊かに実を結び、百倍、六十倍、三十倍と増え広がるということです。イエスはこれまで多くの奇跡、癒やしを行い、み言葉を語り、神の国の到来を示して来られました。その宣教活動によってイエスに従う人々が大勢起こされました。10章では弟子たちを派遣し、弟子たちの宣教活動を通して福音が伝えられ、福音を信じる人たちが増えて行きます。三〇倍、六〇倍、一〇〇倍と数が増えて行きます。手応えを感じ、喜びと自信がみなぎり、さらに伝道活動を活発にし、進展して行こうという気概に燃えたことであろうと思います。 しかし、その一方で、迫害、教会内部での家族の問題、イエスを受け入れず、悔い改めない町があり、当時の体制的な権力者である律法学者とファリサイ派による抵抗により、イエスの群れ(教会)が散らされ、ある者は信仰から脱落して行きます。教会内部であれだけ信仰に燃えて一生懸命にイエスに従っていた人たちが、一人去り、また一人と去って行く。このたとえの背後にそのような事情があったと思われます。イエスはそのことを承知されていて、予め戒めとしてこのたとえを語られたのだということです。 この後イエスが十字架に掛けられたときには、せっかく蒔かれた種は、みな枯れてしまったかのように、ここにいた弟子たちも一人残らずイエスのもとから去ってしまいます。イエスはこの時、そこまで見抜いておられたのだということでしょう。しかし、神は、復活という思いも寄らない仕方で、死んだ種から芽を出させ、文字通り三〇倍、六〇倍、一〇〇倍、それ以上の実を結ばせられて行くのです。イエスは他のヨハネ福音書12章24節のところで、次のように語っておられます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」わたしたちが本当に信仰の実を結ぶようになるために、イエスの命をかけた働きがあったのです。 このたとえの主体は種を蒔(ま)く人とその収穫期の実りであります。始めに申しましたように、種を蒔く人とは、イエスご自身のことであると考えてよいかと思います。イエスは弟子たちを高く評価し、実りを期待して宣教に派遣しました。しかし、弟子たちはイエスに従って行くことに不安を感じていたのです。それは今までイエスに対して好意的であった群衆までもが、イエスに敵対しはじめたからです。その弟子たちに対してこのたとえを語られました。誰が種を蒔いているのか、それは、権威ある者として舟に座って教えておられるイエスご自身である。そのことをここで明らかにしているのです。 わたしたちも弟子たちと同じように、イエスの教えを伝え語って行くことに、不安を抱き、また無力さを感じることを経験します。そのようなわたしたちにもイエスはこのたとえを語っておられるのです。イエスは、わたしたちが不信仰に陥らないようにと祈っていて下さいます。そしてそれと同時に、わたしたちが宣教の業に倦(う)み疲れを覚える時に、その働きを主イエスご自身が続けていてくださると教えて下さっているのです。イエスは今も豊かな実りをもたらそうと先頭に立って宣教の業を続けていて下さいます。このたとえは神の力強い働きを明らかにしています。ですから、わたしたちも神の力によってもたらされる収穫の豊かさを信じて宣教の業を続けて行くのです。申しましたように8節の「実を結ぶ」は未完了形です。今日もまたいかなる時代においても、イエスの種蒔きには、神の御言葉の創造の力が働き、必ずや豊かな実りがあることをわたしたちに明示しておられるのです。 そのことは、今日この説教台に於いて語る者への、そして教会に集められている者への、たゆまず神の御言葉を語り続けるようにとの促しでもあります。わたしたちの成すべき努めや戦いはそのことなのです。神はわたしたちのその働きを豊かに実らして下さるのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 |
| 「来なさい私の安息の許へ」マタイ11:25-30 2026.7.5 聖霊降臨後第6主日 大宮陸孝牧師 |
| 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節) |
| 本日の福音書日課は、派遣の説教と信仰告白(10章)そしてそれに続いて、結局は傍観者となってバプテスマのヨハネをもイエスをも拒否している人々の反応を指摘し(11章16節〜19節)、悔い改めようとしないガリラヤの町々に対するイエスの激しい審きの言葉(20節〜24節)が語られ、そして、イエスとその弟子たちの宣教によって引き起こされる祝福と讃美、そして最後に疲れた者に対する招きの言葉で締め括られております。 本日の日課の少し前の11章20節の所から読み返して見ますと、「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちの所で行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。またカファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく、裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである』」(20〜24節)とあります。 ここを読みますと、主イエスは、かなり厳しい、そして激しい調子で攻撃されています。主イエスがこのような厳しい態度を取られることは滅多にないことです。マタイ23章ではファリサイ派と律法学者を徹底的に非難、攻撃されていますが、それと同じ感情の高ぶりをもって、イスラエルの町を攻撃されているのです。 ソドムとは、創世記19章で~に裁かれ、滅ぼされた町です。旧約の~の救済の歴史の上で、神の手に裁かれた町として有名です。「ソドムとゴモラ」という映画にもなりました。罪のゆえに裁かれ、滅ぼされたのです。そのソドムよりもなお、厳しい裁き、罰が~によってもたらされるというのです。まさしく感情も顕わにされ、激高した口調です。今風に言えば、「切れた」。そんな口調です。若く、青年の直接的な感情の表れと見るべきでしょうか。どうして、そんなに「切れる」ほどに激高されたのか。「数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」(20節)とあります。主イエスは寛容な方ではなかったのか。優しく、愛と赦しのお方だと思っています。すぐに結果を期待してそれができないとぶち切れる。そんな忍耐の無い方とは思いません。主イエスは奇跡を行い、~の福音を宣べ伝えたのですが、それでも悔い改めない町を叱られる。ソドムの罰の方が軽いと言われるのです。当時の教会の状況もあるのかなと考えさせられます。伝道しても、伝道しても、身を結ばない。結果が出てこない。そういう苛立ちが現れています。 コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、聖書地図を見ますと、ガリラヤ地方のことだとわかります。主イエスはガリラヤ出身ですから、まさに「預言者は生まれ故郷では受け入れられない」のです。そして、これは、主イエスの挫折であると見ることができます。福音を宣べ伝え、奇跡を行っても、信仰を勝ち取れない。悔い改めない町を厳しく咎めておられるのです。そしてその挫折にもかかわらず、25節以下の本日の日課では、「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」。とあります。 ここで本来の主イエスに立ち帰っておられる。福音を宣べ伝えることは、労が多くて、報われることが少ないことであります。ましてや、福音を告げ知らされて、すぐに受け入れ、信じることは更に少ないことでしょう。わたしたちが信仰を持った時のことを考えればわかることであります。にもかかわらず、なお教会は伝道し、福音を宣べ伝える使命を与えられています。そこに福音を宣ベ伝える者への慰めと励ましがあるのです。 福音を宣ベ伝えることは、幼子のような弟子たちへの~の特別な計画であります。知恵ある者や賢い者には隠されているのです。ですから、幼子のように素直になった時に、福音が~の言葉として受け入れられるようになるのです。頑(かたく)ななままでは、~を受け入れ信じることはできません。同時にそれは、福音を伝える者に対しても同じです。人間的な知恵や賢さではなく幼子のように~に対して素直で従順であることが求められるのです。 イエスのなされた恵みによる救いの御業にもかかわらず、ガリラヤの人々が悔い改めを拒否したことは、彼らの意思決定に基づく背きでありますから、そこからどのような滅びが生じたとしても、弁解の余地はありません。彼らは自分の責任において、滅びの道を選び取ったのであります。しかし、それにもかかわらず、実は神ご自身の意思が、このような形を取って実現したというのが、26節の断定であります。「そうです。父よこれは御心に適(かな)うことでした」神は人間の高ぶりを打ち砕くために、生命に至る真理の道を、人の目からお隠しになった。この神の経綸は、初めから一貫していて、イエスがこの世に来られた際に、特に顕著な形を取って具体化したのでした。人々のイエスに対する拒否反応は、真理の所在が見えないように神がお隠しになった結果であり、実は神ご自身による選びが、こういう形を取って進行しているのだというのです。人間的に見るならばイエスは挫折の中にあったにもかかわらず、このような神の意志の貫徹のゆえに、イエスはここで讃美の祈りを、父なる神の前に捧げることができたのでありました。 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して」いずれも複数形で、学に熟達し、知恵を備えている人々、理解力において秀でているという意味で賢い人々、これは当時のユダヤ教社会を代表する人々が、このように総括されているということで、彼らはイエスを拒否して、ついには十字架に付けてしまうのですが、それは神から霊的な信仰の眼を塞がれた結果であって、幼子のような、無学にして単純素朴な人々に、神はその真理を顕された。イエスはこの現実を神の御心として受け止め、これを感謝しているのです。そのように見ますと、この讃美の祈りは、ガリラヤの人々の拒否という、ある特定の地域に限定されるものではなく、むしろイエスの全生涯において一貫している基調であると見ることが出来ます。 この祈りにおいて、イエスは全き孤独の中にありました。この祈りはイエスがただひとり、神の御前に捧げた祈りであり、他の誰もここに参与することは出来ませんでした。天地を結ぶ単独者として、イエスは神の御前に立たれたのです。この孤独の深淵において、イエスはなおも、父なる神へ依り頼み続け、神のご経綸の成ることを是とし、無条件にこれに従われて行く、御子の従順が一貫していたのでした。ここに記されている讃美の祈りは、実はイエスの全生涯を貫く基調であったという重大な事実をわたしたちは知らされるのです。これは、父なる神と、御子なるイエスとの間に交わされた霊的な秘儀であり、そこから湧き出る喜びこそが、イエスのあらゆる活動を支える力の源泉であったということです。このように、生きる望みさえ消え果てる中で、それでもなお神を讃美するこのような祈りの内にある、イエスから使徒的宣教へと一貫する信仰の生命の流れに、わたしたちは驚嘆を覚えるのです。 一コリント1章18節、21節には「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には~の力です。・・・世は自分の知恵で~を知ることができませんでした。それは~の知恵にかなっています。そこで~は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(新約300頁)とあり、さらに、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という神の宣言を、イザヤ書29章14節から引用した後で、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(一コリント1章27節〜28節)と断定することによって、パウロは人の高ぶりを打ち砕かれる神の御業を語っています。 27節は、25節から26節のイエスの言葉に対する信徒の側の応答としての言葉とも解釈されます。ここにも、深い霊的真理がひそんでいます。すべてが父なる神から御子イエスに託されたという宣言は、両者の不離一体なる結びつきを語ると同時にイエスに対する多くの不信と拒否にもかかわらず、その権威は揺るぎないものとして確立していることを表明する言葉です。それに続き「父のほか子を知る者はいない」という言葉は、この世でのイエスの深い孤独を語っています。イエスは、父なる神のほか誰にも理解されない「隠された存在」として、この地上に立ちました。これは、父なる神が御子イエス以外に、だれにも分からない秘儀であることに対応しています。しかし、御子イエスが、父なる神を啓示するために、宣教へと選び遣わした人々は、このイエスと父なる神との秘儀に参与する恵みに与ることになります。マタイの教会の信徒たちは、この選びに与ったことを感謝しながら、これを告白しているということです。イエスに対する無理解を暴露し続けた弟子たちでありましたが、今やその秘儀に信仰の目を開かれ、イエスのこの告白に「アーメン」と応答する者となっているということです。 マタイ11章28節以下はそこから解かれているのです。イエスとはいかなる人であったかという、その存在の秘儀の前に導かれ行きます。「わたしから学べ」ということは、単なる知的な作業ではなく、イエスの恵みに与り、イエスとの歩みを共にする中でということです。つまることころ、それは、十字架を負ってイエスに従うということに他なりません。そして、それにもかかわらず、イエスはこの服従を通して、人々に真の魂の憩いを与えると約束しているのです。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは福音を伝道する宣教者だけではなく、生きるということで、重荷を持って歩んでいるすべての人に対して、主イエスは語られておられるのです。恐らく重荷を背負っていない人はいないでしょう。自分や家族の病気、子育て、親子関係、夫婦関係、事故、怪我、病、仕事上で、人間関係で、わたしたちは重荷を負っています。それは生きている限り、消え去るものではありません。無くなってしまうものではないのです。それが人生であり、生きるということです。 その人生の重荷が、主イエスの提供されるくびきによって、荷が軽くなるというのです。それは主イエスが共に担ってくださる軛だからというのです。なぜならば、イエスは愛の人格であり、そのイエスに従いイエスの軛(くびき)を共に負う歩みに恵みが籠(こ)もっているからです。このわたしたちの荷を共に担っていてくださる主イエスのもとにこそ、真の慰めと平安があると言っておられるのです。命を与え生かしてくださった方のところに、慰め、平安、安息があるからです。 主イエスは、福音を宣べ伝えられます。奇跡を行われます。悔い改めて福音を信じるようにと、しかし、多くの人、町はそれを拒否いたします。「愚かなことだ。信じられない」と背を向けます。「~の国」の恵みと祝福、永遠の命を提供されるという、その最上の約束にもかかわらずです。拒絶された時のやるせなさは、これもまた測り知ることができません。それでもなお、主イエスは失われ行く人々を追い求めて止みません。そして教会はこの主イエスの御旨によって、宣教の使命を与えられ、その使命のために派遣されているのです。迷える羊といいますか、疲れた人、弱っている人、福音を待ち望んでいる人がどこかにいる限り主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みの言葉は宣べ伝えられていかなければなりません。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 |