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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2026年10月礼拝説教


★2026.10.4 「神の国にふさわしい実を結ぶ」マタイ21:33-46

「神の国にふさわしい実を結ぶ」マタイ21:33-46
2026.10:4 聖霊降臨後第19主日 大宮陸孝牧師
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』(マタイ21章42節)
 マタイ福音書21章には、イエスがエルサレム入城直後に、神殿の境内で語られた三つのたとえが記されています。ユダヤ教の祭司長、長老、ファリサイ派の人々がその主な聞き手とされています(21・23)。第一のたとえは「二人の息子のたとえ」(21章28章〜32節)で先週の日課となっておりました。第二のたとえがこの「ぶどう園と農夫のたとえ」(33節〜46節)で本日の日課となっているところ、第三が「婚宴のたとえ」(22章1節〜14節)で、次週の日課となっているところです。イエスはこの三つのたとえによって、神の国は、特定のイスラエルの指導者たちのものではなく、他の多くの人々に与えられることを語っておられます。33節に「もう一つのたとえを聞きなさい」とあり、また、この後のたとえでは、「また、たとえを用いて語られた」で始まります。これら一連のたとえは、セットになって、それぞれ関連し合い、イエスが宣教される指針へのユダヤ教指導たちの不信仰を非難するたとえで、前後に「権威についての問答」と「皇帝への税金についての問答」を配置し、その間にこの三つのたとえが位置づけられて、それによってユダヤ人指導者たちの責任をいっそう強く追及し、ユダヤ教最高法院との緊張をさらに高めているのです。

 33節「ある家の主人がぶどう園を造り・・・」マタイはたとえの始まりをこのように記すことによって、「主なる神」を明確に示唆しています。その「主人」が「ぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」と、ぶどう園にたとえられているイスラエルに対する神の深い愛と、細やかな配慮が描かれています。こうした表現は旧約聖書イザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」が背景となっていると見ることが出来ます。

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張り塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(イザヤ書5章1節〜2節)。ぶどうはイスラエルの象徴で、ぶどう畑は「約束の地」を意味しています。イザヤ書のこの預言の言葉は、イスラエルに対する神の愛と期待がどんなに大きなものであったかを歌ったものでありました。しかし、イスラエルはその期待に応えるような良い実を結ばず、神の選びを受け、神のぶどう園を託されているイスラエルとしてのユダヤ人が、その愛と委託に応えないで、むしろ神のぶどう園を横領し、悪い実しか結ばなかったという。

 イエスはこのイザヤの歌を念頭に置きながら、さらに、ぶどうの実の質ということよりも、ぶどう園の管理を任されている「農夫たち」に焦点を移して、その収穫を受け取るために、繰り返し遣わした神の僕たちを迫害し、最後に送った主人の息子までも打ち殺してしまうという暴虐とユダヤ人の罪の事実をそのまま鋭く突く、寓喩に展開させてイエスは語ったのでした。イエスはこの寓喩によって、イスラエルの歴史の中で繰り返されて来た民の罪、特にイスラエルの支配者や指導者たちの犯して来た罪の現実をさらに鋭く描写し、指摘しているのです。

 イスラエルの歴史は神の愛と恵みによって守られ、導かれた歴史であったにもかかわらず、その実は神に対する背信と反抗の歴史でありました。神の預言者たちの血がどれほど流されて来たことか。多くの預言者たちを犠牲にして来た上で、イエスの矛先は、その管理・指導を委ねられているにもかかわらず依然として変わることのないイスラエルの指導者たちの罪を鋭く批判することに向けられ、その延長線上に、最後の手段として、キリストの贖いの十字架があると訴えているものと見られます。39節の「息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」という表現は、「イエスもまた
、御自分の血で民を聖なる者とするために(神のものとするために)門の外で苦難に遭われたのです」(ヘブライ書13章12節)という言葉を想起させられます。これは明らかにゴルゴタでのイエスの十字架の死を印象づけるマタイの表現であったのです。

 38節「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外へ放り出して殺してしまった。」という農夫たちの言葉に、主人の息子を殺害した意図が示されています。この世界は、神の主権を拒否し、いつの間にかその主権を横取りし、人間中心の世界、人間が主権者となった文化や産業に置き換えられてしまっている。人間の罪とは、世界というぶどう園の主人であり、主権者である神を拒否し、その神の所有を奪い取り、遣わされた神の子をも拒否して十字架に掛けて殺してしまうところにあります。これはユダヤ教の指導者だけの問題ではなく、悔い改めないすべての人間に共通する頑迷な罪の姿であります。絶対主権者である神の主権を、人間が奪って自分たちのものにする等と言うことはあり得ないことなのです。息子を殺しても、所有権は依然として主人のものであるのですから。このような個人の都合や主観、欲に従って的外れな判断をするところに人間の愚かさ、浅はかさがあります。この罪は、キリスト教の歴史に於いても繰り返されます。神はユダヤ人だけを失われた人間と見ているわけではないのです。

 神はすべての人間が神の愛の対象であり、すべての人間が神の愛に応えて生きることが期待されていて、ユダヤ人は全ての人間の選びの初穂として、まず始めに選ばれたにすぎません。ですから、不従順で、イエスの勧めの言葉も、警告の言葉も聞かないで、反抗し、自分勝手に生きて行くならば、そのすべての人間が捨てられるということでもあるのです。このたとえはすべての人間を視野に入れて語られたたとえでもあるということです。ですからこの「悪い農夫たちのたとえ」が語られるところでは、ユダヤ教の支配者・指導者たちの罪が問題にされ、そのために心を痛め、身を以て抗議しているイエスの十字架があり、その十字架はまた、同様に、すべての異邦人、全人類のための十字架であることが語られているということでもあるのです。

 ユダヤ教の歴史を見ますと、繰り返し預言者たちを通して警告されたにもかかわらず、これに耳を傾けることをせず、悔い改めなかったイスラエルの歴史は、王国の分裂と滅亡へと展開してゆくこととなり、バビロン捕囚という手痛い試練を受け、バビロン捕囚から解放され帰還した後に、後期ユダヤ教を形成して行くのですけれども、それもやがて律法主義、神殿礼拝中心の形式主義になって、それを批判したイエスを十字架に付けてしまうのです。その後イエスを十字架上で処刑した彼らは、紀元七〇年には、ついにローマによって滅ぼされてしまいます。唯一神の、神中心に立つユダヤ教でさえこの状況だったのです。次週の日課となっています次の「婚宴のたとえ」では、そのことがいっそう明確になっています。

 そして、このたとえの終わりに、イエスは「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか」と言って、詩編118編22節〜23節を引用されます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える」。この聖句は、使徒言行録4章11節、第一ペトロの手紙2章7節にも引用され、初代教会ではイエスの十字架と復活を証言する言葉として用いられているのです。イエスの死が決して不慮の死、無意味な死ではなく、神のご意志によって、人間を救うために起こされた愛の業であったのだということを示すために、ここに引用されています。マタイではさらにそれが、次の43節に繋げられ、これをもって「神の国」のいしずえが築かれたのだとの主張に展開しているのです。つまり、イエスの死によって、その死と復活が「神の国」の基となって、すべての人が神の国を受け継ぐことができるようになったのだと明言されているのです。44節は、但し、すべての人とは言っても、この石は、その神の恵みの救いの業を信じて受けようとしない者には、厳しい裁きの石ともなるのだとのユダヤ教指導者たちへの警告として語られています。

 このたとえが語られている相手は直接的には、祭司長、律法学者、長老・ファリサイ派の人々です。イスラエルの民を正しく導くために立てられた指導者たちです。その彼らが悪い農夫たちに喩えられているのです。旧約の時代には、王や祭司たちが、民を正しく治める立場にあったのに、神の意志に反して、神の指針を伝えるために立てられた預言者たちを次々に迫害し、その命を奪ってきました。そして今また、民の指導者たちが、同じ過ちを繰り返し、神の子の命までも奪おうとしている。このたとえはこのように、神に仕えるべき支配者や指導者たちが、その飽くことのない所有欲や権力欲によっていかに神の意志に背き、神のものを奪って、自分勝手な生き方をしているかを指摘しているのです。そして、「神の国」は自分たちのものだと考えているようであるが、「神の国」は彼らのものではなく、「それにふさわしい実を結ぶ民」に与えられるというのです。

 そこにはユダヤ人と異邦人の句別はありません。本日の日課の前後にあるたとえ、前のたとえでは、「徴税人や娼婦たち」が、後のたとえでは、「招かれていなかった不特定多数の町の人々」が、「神の国」に招かれています。ユダヤ人異邦人の区別なく、名も無く低くされた人たちにこそ、「天の国はその人たちのものだ」(5章3節)とイエスは言われているのです。

 このたとえは、初代教会の人々に向けて語られているだけではなく、現代のわたしたち一人一人に向けて語られている言葉でもあるのです。わたしたちもそれぞれに、神からの恵みの賜物を預かって、その管理を委ねられています。このたとえが語られている射程は広く、その距離も長いのです。まず挙げられるのは、国の管理の責任を委ねられている政治家たち、これらの上に立つ権威にある者は、本来神によって立てられた者として、神を恐れ、神の御心を畏れ敬い、神の御心を行い、その義務を忠実に遂行して行く責任があります。アメリカや他のキリスト教国といわれる国々での、最高統治者や立法・司法・行政に携わる最高責任者の就任式には聖書に手を置いて宣誓する習わしがあります。

 また、このたとえの射程は、経済を動かしている財界や大企業のCEOたちにも及ぶものでもあります。金融機関や不正融資、大企業の政治家や暴力団との癒着など、一般国民や零細企業を足蹴にする、不正な利潤追求は、神のものを私物化する行為であることは論を待ちません。神に立てられている指導者は、弱い人たちのことを親身に考え、その弱さの中にある人たちに僕として仕えることを求められているのだということ、その使命を忠実に果たして行く先に神の祝福が約束されるのだということを、しかと自覚することが重要であります。

 また、このたとえの射程は、それぞれに神から善き賜物をあずかり、その管理を委ねられているわたしたち一人一人に向けられてもいると受け止めるべきです。マタイ25章14節以下にあります「タラントンを預かった人のたとえ」のように、わたしたちにはそれぞれにふさわしい賜物を、神から預かっているのです。それを正しく管理することは、自分の生活の中で十分に活用して、神に捧げ返すように用いて行かなければなりません。ペトロ第一の手紙4章10節に「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とあります。それぞれの賜物を自分の肉の欲を満足させるために用いるのではなく、神と人に仕えて、神に栄光を帰すために生かして用いて行くことがわたしたちの生きる意味なのです。神様はわたしたちがそのような生き方が出来るようになるために、一番重要な賜物をくださいました。それは命を懸けてわたしたちを生かしてくださった十字架の購いの愛です。その命の力をしっかりと受けて神の期待に添う生き方をして参りたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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