日本福音ルーテル賀茂川教会 |
聴こう、聖書の言葉に!
ガラテヤの信徒への手紙に聴く
第10回 new |
2017年3月8日(水) 午後7時〜 4章1〜20節 新共同訳聖書 新約347頁 |
主題は「わたしたちは神の子」。パウロは、わたしたちが神にどれほど大切にされているかを語り、それゆえに「信仰のおとな」になるとはどういうことか、この二つはどう結びつくのか―ーということを思いめぐらしつつ、福音に聴きましょう。初めての方もどうぞ遠慮なくご参加ください。 |
第9回 |
2016年12月14日(水) 午後7時〜 3章15〜20節 新共同訳聖書 新約346頁 |
参加をお待ちしています。はじめての方もどうぞ遠慮なくご参加ください。 |
第8回 |
2016年5月25日(水) 午前10時30分〜 3章7〜14節 新共同訳聖書 新約345頁 |
「キリストはわたしたちのために呪われて死んでくださった」という、ほんとうにショッキングな出来事が伝えられていますけれども、読み飛ばすことなく、福音を共に聴きましょう。 参加をお待ちしています。はじめての方もどうぞ遠慮なくご参加ください。 |
第7回 |
2016年4月27日(水) 午前10時30分〜 3章1〜6節 新共同訳聖書 新約345頁 |
パウロはここで、怒りのことばを投げつけています。 1節と、3節に繰り返されている「物分かりの悪い」というのは、当然分かること、分かるべきことを意固地に・頑固に認めないでいるということです。受け手の鈍さ・かたくなさを、はげしく嘆いている言葉です。と同時に、パウロ自身の深いところから出てくる、ガラテヤの人びとへの「愛ゆえの悲しみ」であるに違いないのです。 「分かって欲しいんだ…! あなたがたには、ほんとうは分かっている筈ではないか。キリストの福音とは何かということが…!」 「十字架につけられた(あるいは「つけられたままの」)主イエス・キリスト」。 このお方を信じる、しかも〈聞いて〉信じることは――前回ご一緒に聴いた第2章19節からのことばに明らかなように――ガラテヤの人たちの〈いのち〉にかかわることですから、何とか彼らを、誤ったほかの福音から(それは本来「福音」とは呼べないものであるのだけれども)、いのちの滅びの危機から救い出そうと必死なのです。だから、ことばも荒くなる。 ガラテヤ教会の愛する一人、ひとりに、伝道者・牧会者としての自分自身をすべてぶつけるようにしてアッピールしているパウロの熱情に、いいえ、パウロがそれほどまでして伝えたい〈キリストの福音〉そのものに、ご一緒に聴き入ろうではありませんか。 参加をお待ちしています。はじめての方もどうぞ遠慮なくご参加ください。 |
第6回 |
2016年3月23日(水) 午前10時30分〜 2章15〜21節 新共同訳聖書 新約344頁 |
この手紙には集中的な<キリストの福音表現>ともよびうるものを見ることができますが、今回共に聴こうとする箇所はことにそうです。ご期待ください。 ご一緒に祈りつつ、み言葉の深みに沈むようにして聴き入りましょう。 はじめての方もどうぞ遠慮なく参加ください。 |
第5回 |
2016年2月24日(水) 午前10時30分〜 2章11〜14節 新共同訳聖書 新約344頁 |
このようなパウロの言葉を読むと、わたしたちは少々驚きます。 パウロにとっては、自分の先輩であり、また尊敬すべき教会の指導者であったケファ(ペトロ)に面と向かって反対して「あなたはまっすぐ歩いていないので(14節)」まっすぐ歩きなさいと言ったのだと、あるのです。 ずいぶん大胆な、率直なひとだと思います。しかし、パウロのこうした率直さのおかげで、福音の真理に「まっすぐに」歩こうとする真剣な姿勢によって、キリストの教会は「まっすぐ」歩くことができたのだと、改めて思わずにはおれません。 ここでの「まっすぐ」ということばは、元の字では、「オルトー」ということばが入っているのです。ここから始まって、「オルソドックス」、「オーソドックス」、「正統的」という教会の用語が生まれてきました。 この「まっすぐ歩く」ということばの元の意味は、「足がまっすぐしている」という意味のことばなのです。まっすぐな足で歩くと言うのです。興味深いことばだと思います。つまり〈教会〉というものそれ自体が、まっすぐな足をもって・まっすぐな道を歩かなければいけない――。 けれども、この〈正統的な信仰・正統的な生き方〉というものは、必ずしも、教会の中で評判がいいとは言えないのです。何故かと言うと、教会というのはしばしば、昔の頑なな者と同じように保守的になってしまうことがあるから。正統的な、これこそ教会の正しい信仰のあり方だと一所懸命に言うひとほど、保守的になってしまうことがある。だから、これに対して教会をいつも新しくしようと考えているひとたちは、正統的という言葉を、あまり喜んで用いないところがある。 しかし〈正統的な信仰に生きる・生活に生きる〉。あるいは〈正統的な福音の真理に生きる〉ということは、このパウロの言葉から言えば、そうしないとまっすぐ歩けないから、大切なことになるのです。横道に行ってしまうような、足ではない。すぐに何かというと立ち止まったり、道草を食ったり、脇道のほうへ行ってしまったりする足ではない。パウロは火を吐くように、しかしこころを込めて訴えるのです。 まっすぐ歩こう…! ご一緒に祈りつつ、み言葉の深みに沈むようにして聴き入りましょう。 はじめての方もどうぞ遠慮なく参加ください。 |
第4回 |
2015年6月26日(金) 午前10時30分〜 2章1〜10節 新共同訳聖書 新約343頁 |
使徒言行録の第15章に「エルサレム会議」と呼ばれている会議の様子が記されていますけれども、この箇所は、おそらく、それと同じ出来事を語っているのではないかと言われます。エルサレム会議での問題と同じことが、ここでも問われている。 パウロは言います。 わたしは十四年間、キリストの使徒として伝道をしてきた。しかしその伝道してきた人びとの中に、「割礼を受けていない人びとがたくさんいる」ということを、エルサレムの教会で問題にする人たちがいた。割礼を受けていないひとに洗礼だけ授けることはおかしい、と――。(そのひとたちのことをパウロは「潜り込んできた偽の兄弟たち」と、たいへん厳しい表現で指しています) しかし、神の働きの中に、神の力に信頼をもって立ち続けることのなかで、「一つのこころになることができた」。 割礼を受けていないひとも、割礼を受けているひとも、同じキリストの弟子であるということが明確となったのだ、と。 もしかすると、こういう事情は、今日のキリストの教会に生きる私たちにはなかなかピンとこないところがあるかもしれない。けれども、案外私どもにとって身近な問題であると私は思っているのです。 ご一緒にゆっくり、じっくり、祈りつつみ言葉に学び、聴き入りましょう。 はじめての方もどうぞ遠慮なくご参加ください。 |
第3回 |
2015年6月12日(金) 午前10時30分〜 1章11〜24節 新共同訳聖書 新約342~343頁 |
「わたしが告げ知らせた福音」。 「わたしが…」「わたしは…」と、11節以下でパウロは強調しています。本来、神のこと、主イエス・キリストのことをこそ告げるのに、「わたし」を前面に出すのはあまり相応しくないかもしれませんけれども パウロは「わたし」ということを、ここではクッキリと浮かび上がらせるのです。言い換えると、彼がうったえたいのは、他の誰でもない自分が生かされてきた福音、自分が救われた福音にほかならないからです。 そしてそれは、「人によるものではない」。 自分が使徒として召されたこと、今、生きているその生活と自分が語っている言葉とは、「いずれも神からのものであり、神によってのみ生かされているものだ」と言う。 はげしい言葉のなかから溢れ出る、パウロの神への感謝を聴き取りたい。 参加をお待ちしています。はじめての方もどうぞご遠慮なくご参加ください。 |
第2回 |
2015年5月29日(金) 午前10時30分〜 1章6〜10節 新共同訳聖書 新約342頁 |
「わたしはあきれ果てている」。 第1章の6節から、この手紙の本文が始まると考えてよいのですけれども、5節まででいわゆる挨拶・序文が終わり、さあ、いよいよ本題だ…というときに 「わたしはあきれ果てている…!」。 と書き始める。 この独特な響き、厳しさはいったいどこから来るのでしょう。自分の思いを叩きつけるようにして、彼には、何としてでも伝えなければならないことがあるのです。 教会が、どんなときも決して福音から離れることのないために――。 ご一緒にゆっくり、じっくり、み言葉を学び、味わいましょう。 はじめての方もどうぞご遠慮なくご参加ください。 |
第1回 |
2015年5月15日(金) 午前10時30分〜 ガラテヤの信徒への手紙 1章1〜5節 |
パウロによる手紙の いわば「序文」にあたりますけれども、 ここにすでにパウロの信仰と神学が、 「我はここに立ち」 今からこの手紙を書き進めてゆくのだ…! というあふれんばかりの熱情が充ち満ちています。 "パウロを、そして私たちを支えるものは何か" ということに思いを致しながら、 ご一緒に福音を聴きましょう。 はじめての方もどうぞご遠慮なくご参加ください。 |