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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 日本福音ルーテル賀茂川教会  

夕礼拝のメッセージ 「ペトロの手紙T」より
petorono
petoronotegami  今週の聖句バックナンバー
weekly message

2017年9月〜

「ののしり返さず」2018.5.6
「主のために」2018.3.4
「恵み深い方」2018.2.4
「深く愛し合いなさい」2018.1.7
「キリストの尊い血によって」2017.12.3
「新たに生まれさせ」2017.11.5
「喜びに満ちあふれて」2017.10.1
「仮住まいをしている選ばれた人たちへ」2017.9.5

ののしり返さず
神ア 伸 牧師  2018.5.6
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
(ペトロの手紙一 第2章23節)


きょうのみ言葉は、使徒パウロが生涯を賭して語り続けたただひとつの福音と、ふかく共鳴し合っています。(コリントの信徒への手紙一 第2章2節)

わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知ろうとは思わない。何も語ろうとは思わない――。

このパウロと共に、私どもは生涯、十字架のイエス・キリストを見つめ続ける。生活のすべての局面で、十字架の主の前に立ち、その言葉を聴き続けます。

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず――。

きょうのみ言葉のとおり、すべてのひとが、主を罵りました。そこを通りがかった人たち、民を代表する指導者たち、それまで主に従ってきた多くの人たち、そして主イエスと共に十字架につけられることになったふたりのうちのひとりもまた、このお方を罵り続けたのです。

"お前神の子だってなぁ…。他人を救ったじゃないか。だったら今自分を救ってみたらどうなんだ。十字架から降りて来い、そうしたら信じてやる。そうしたら認めてやるよ。"

人びとの罵りの声だけが聞こえているような、その中で、かすかに聞こえてきた主イエスの祈りを、福音書記者ルカはこう記録しています。(第23章34節)

父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているのか知らないのです。正しくお裁きになる神よ。しかしどうかこの人たちのことを、裁かないでください…!

私どもの、私のためにこのように祈ってくださった主 キリスト――。そしてペトロの手紙は語るのです。十字架にかけられた主がお受けになった傷によって、あなたたちは癒された…!(第2章24節)

ここでペトロの手紙ははっきりと言う。我々もまた、癒されなければならない傷を負っていたのだ――と。主は、そのような私どもの傷を、よくご存じであったのです。そのような私どものこころを、主イエスはご存じいてくださったのです。

このわたしの魂の監督者は、主イエス・キリストであると信じます。このわたしの魂の牧者は、十字架につけられた、主 キリストであると信じます。

ここに私どもの帰るべき場所がある! そして、今すでに帰るべきところに帰らせて頂いていることを畏れつつ、感謝をもって受け入れ直したいと祈ります。

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主のために
神ア 伸 牧師  2018.3.4
主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。そうすれば、彼らは………あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります
(ペトロの手紙一 第2章12-13節)

きょうの聖句はなんと厳しく強烈で、複雑な抵抗のこころを呼び起こすものであることでしょう! そして、これほど誤解されてきた聖書の言葉もありません。

この手紙は、私どもが〈美しく(立派に)〉生きるとは、人間的なこの世の制度に従うことだと言います。しかも、ローマ皇帝への崇拝を拒否して迫害されたキリスト者たちのことを念頭に置きながら、私どものこころを揺さぶるようにして、いま、呼びかけるのです。

あなたがたは、主のために生きるのだ――。

けれども、わが国の教会は〈主のために〉と高らかに謳いながら、この聖句を歪曲し誤って受けとめ、先の戦争に協力するという、取り返しのつかない過ちを犯しました。かけがえのない〈神の作品〉であるいのちが、十把一からげにして失われたのです。主がいとおしみ、養ってくださるいのちが――。決して過去のことではない。今なお、神が愛しておられるこの世界で繰り返されている過ちです。

主イエスは、実にやわらかで、しなやかなこころを持ったお方です。このお方こそ、まことの慰め主です。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と説かれ、ご自身そのようになさったお方です。決して自らが暴力に訴えることをなさらなかった。

けれど、それは国家の批判をするなとか、悪を黙認せよということではありません。ほんとうは、このお方ほど激しく人びとを批判なさった方もないのです。ひとりの存在が、たとえ少しでも傷つけられることに対して、またそのような過ちに加わってしまう人びとに対しては、そこにいかなる理由があろうと断固たる〈否!〉を突きつけられた方――。それが私どもの主です。

人間の立てた制度というものが、本来欠陥だらけだということは、誰よりも神ご自身がよくご存じでした。けれども、その誤った、欠陥だらけの、人びとの立てた制度の中で、間違った判断によってご自身の愛する独り子が殺されることを神は良しとなさり、そのただ中で、ひたすら祈る主イエスのお姿を私どもに示してくださいました。

父よ、どうかこの人たちをお赦しください…! どうかこの人たちを、あなたが訪れてください――。このお方が私どもの主です

このイエス・キリストに従って歩む、すべての者たちのうちに、〈美しさ〉があるのです! 正しいか正しくないか、間違っているかいないか、ということではない。神がご覧になり、良しとしてくださる〈美しさ〉です。キリストに従う私どもの美しい生き方が、私どものすべての隣り人に、この日本に、この世界に、神の訪れの日が与えられる証しとして、必ず用いられてゆく――。

この確かな約束、確かな希望の中を、今日も新たに、ご一緒に歩み出したい。こころからそう祈ります。

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恵み深い方
神ア 伸 牧師  2018.2.4
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
(ペトロの手紙一 第2章3節)

この「恵み深い」という言葉の意味は広く、たとえば食べ物について用いられると、「おいしい」という意味になる。「ああ、あの時のごちそうはおいしかったな……」と、理屈ではなく身体で覚えてしまうのです。「あなたがたは、主のおいしさを味わいました」。そう訳してもよいかもしれません。

かつて、詩編詩人もこう歌いました。

味わい、見よ、主の恵み深さを。主の恵みは、わたしのこころと身体と魂の全霊をもって〈味わう〉ものなんだ…! そのようにして、神の恵みの味わいを忘れることができなくなった私たちは、何と幸いなことだろう…!(詩編第34編9節)

「恵み深い」という言葉はしかし、私はほんとうにびっくりしたのですが、「あの人は単純でばか正直だ。お人好しだ」。「だからあの人は愚かだ」。そういう意味で使われることもある、というのです。

「主は恵み深い」。そうだ、神はばか正直だ。

私はうなだれ、そして打たれました。"ああ…ほんとうにその通りだ…!"と――。悲しいことですけれども、私どもの内側からは時に、自分でもどうしようもないほどの、悪意にもとづく偽りと偽善、ねたみや悪口が顔を出してしまうことがあります(第2章1節)。本意ではないのだけれども、傷つけ、傷つき、痛む中で、自分を守ろう、守ろうとするからです。

そのような私どもに向かって、神は、ただ神だけが、ただひとり、ばか正直な生き方を貫かれた――。そこに主の十字架が立ったのです!

キリストは、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(第2章23節)

ののしり返さず、人を脅さず、あらゆる悪意と偽りを捨てて、ばか正直を貫かれた神の愛は、この主イエスの十字架のお姿に現れている! ペトロは、こころを込めて呼びかけます。

あなたたちは神のもの。キリストがお召しになり、光の中を歩んでいる者。どうか、主イエスの生き方に倣ってほしい。いや、もうすでに、あなたたちの存在そのものが、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」という主の愛のお姿を、そのままに映し出しているんだ――。

こころを高くあげて、今、再び歩み出したいと願います。

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深く愛し合いなさい
神ア 伸 牧師  2018.1.7
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
(ペトロの手紙一 第1 章22節)

ここに出てくる「魂を清め」という言葉は、人間の存在すべて、この私の存在が丸ごと新しくなることを語っています。また「真理を受け入れて」というのは、口語訳聖書では「真理に従うことによって」と訳されておりました。

真理に従う――。聴いて、受け入れ、そして従う。真理を学ぶとか、探究するとか、それだけでは足りない。

神が、主イエス・キリストを通してこの私を愛してくださっている…! ただ、その真理を受け入れ、その事実に聴き従って、生きるのです。そのとき、私の生活そのものが新しくなる。必ず、新しく生まれ変わるのです。

ある説教者の、次の言葉を忘れたことはありません。

人間が新しくなるというのは、そのひとが、人を愛するようになることだ…!

私は、ほんとうに身震いするような思いがしました。

人が新しくなるということは、相手を愛するようになることだ――。

私どもは、愛の理屈や概念ではなく、「愛すること」に伴う喜びを、楽しみを、またその困難さも、悲しみ痛みもよく承知していると思います。

その私たちに、ここでペトロが伝えてくれている愛は、たいへん具体的です。「偽りのない兄弟愛」。偽りのない兄弟愛を、あなたがたは抱くようになった。いや、もうすでに抱いている…!

私どもはただ、神の愛という真理を受け入れ、聴き従う中で、神の子とされた。兄弟、姉妹とされたのです。私だけじゃない。この人も、あの人も、神にゆるされ愛された、神のこどもとして受け入れられた人ではないか――。

たとえ、口に出して呼ぶことはなくても、私は、その神の愛の事実に根ざして、教会に連なる仲間と、これまでに出会った一人ひとりは、兄弟姉妹なのだと信じています。そして、その先頭に立つのは、私どものために命を棄ててくださった、神の独り子、主イエス・キリストです。

私とあの人とは、兄弟同士なんだ、姉妹同士なんだ。神に愛され、そのような者として神に愛され、受け入れられたのだ…!

まさに、私どもの存在を、丸ごとつくり変える神の言葉です。私どもの教会が、ここで聴き続け、運び届けている神の言葉です。この神の言葉の力を知ろう。この神の言葉の力を信じよう…!

ペトロは今も、私どもに語りかけてくれます。
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キリストの尊い血によって
神ア 伸 牧師  2017.12.3
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
(ペトロの手紙一 第1章18、19節)

私は、今日、ある教会改革者が語った〈神の前に〉、より丁寧には〈神のみ顔の前に〉という表現を想い起こしました。

神を信じて生きる我々の生活のかなめは、このひと言に尽きる! 誰かに、あなたはなぜそういう生き方を、そういう考え方をするのですか、と問われたら、いつも答えは同じ。

神のみ顔の前に、私は生き、生かされているからです。

この〈神の前に〉という一点に、私どもの存在、人生、生活がかかっているのです。

そのことを、ペトロの手紙は「あなたがたは先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのだ」と改めて語り直します。

私どもの先祖は、聖書の理解に従うならば、アダムとエバというパートナー、そしてそこから生まれたカインとアベルという、二人の兄弟に遡ります。この最初の兄弟がそれぞれに、神へ献げものをした。ところが、弟のアベルの献げものを神は省みてくださったのに、兄のカインの献げものには目を留められなかった。それがなぜであったかはよくわかりません。

そこでカインは――創世記第4章がたいへん印象深く伝えるところによれば――「顔を伏せた」という。神から目をそむけ、顔をそむけた。しかし、そのようなカインに向かってなお、神は語りかけてくださいました。

なぜ顔をそむけるのか。正しいことをしているのであれば、顔を上げるかよい。もう一度まっすぐに、わたしの顔の前に立ちなさい…!

けれどもカインは、その神の呼びかけに応えぬまま、おそろしい行動に出てしまった。そしてまさにそこから、私どもの先祖伝来の生活が始まったのです。やられたらやり返す、と。しかしペトロの手紙は明確に語ります。

あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは………きずや汚れのない、小羊のような、キリストの尊い血によるのです。

キリストが、血を流してくださったのです。

かつては、カインのようであった私どもが、しかし今はもう一度、神のみ顔の前に、立たせて頂いているのです。古い生き方ではなく、新しい生き方へと召し出されたのだ。十字架のキリストの血潮によって――。
ここに、私どもの存在が明確になります。私どもの教会の、伝道の使命も、明確にされると信じます。
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新たに生まれさせ
神ア 伸 牧師  2017.11.5  
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神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ……。   (ペトロの手紙一 第1章3節)
この手紙は、私どもキリスト者のことを、新しく生まれた存在、もう一度生まれ変わった、それまでの自分ではない新しい自分に生まれ直した存在として語ります。

ほんとうに新しくなれたらどんなにいいことでしょう。人生は一度かぎり。やり直しはできない。そのことを私どもはよく承知している筈ですけれども、生まれ変わりたい、というのはまことに自然で、素朴な憧れではないかと思います。

しかし、私がこの説教の備えの中で出会い、ほとんど冷や水を浴びせられたような思いで立ちすくんでしまった、福音の説教者の言葉があるのです!

当然、この聖句が示す道筋から言えば、キリスト者はむしろ新しく生まれ変わらなければならないのではないかと思うところで、この福音の説教者ははっきりとこう言う。

一度生まれた人間が、生まれ変わりたいと思うことは、悲惨なことであります。

強烈な言葉です。が、この「新しい生まれ変わり」というのは、既に起こったことだ。もうこれ以上新しくなる必要はない、とこの説教者は訴えるのです。そのことを、この手紙は3節の後半で「生き生きとした希望を与え」という言葉で語ります。これは「生きた希望のただ中へと向かって」という意味の言葉です。

神が示してくださる、明確な希望の中に入りなさい!この希望は死んではいない。神は生きておられるのだ。そう言うのです。

そうです! 私どもは、主イエス・キリストの復活によって、新しい希望、決して朽ちず、汚れず、しぼむことのない命を与えていただきました。

あの2000年前に、神が主イエス・キリストをよみがえらせてくださったとき、すでに神はそこで、私ども一人ひとりのことを、確かに覚えていてくださったのです。あのキリストの復活が起こったときに、もうすでに、この私が、生きた希望の中へと引きずり込まれていたのです! だから8節で言うのです。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

このお方に愛され、このお方を愛して生きる私どもは、もう、死んだ希望に取りすがることはありません。ただひたすらに、この〈私のため〉の主 キリストを愛し、終わりまで愛し抜いて人生の旅路を歩みたい。
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喜びに満ちあふれて
神ア 伸 牧師  2017.10.1 
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あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
(ペトロの手紙一 第1章8節)
 
今日、共に聴いた福音で、たいへん興味深いのは、信仰と(5節)、希望と(3節)、愛という(8節)、三つの言葉が出てくることです。

これを、あの伝道者パウロが書いた『コリントの信徒への手紙一』、第13章の「信仰と、希望と、愛。この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉と重ねあわせて聴くことが、今日はよりふさわしいと信じます。「神の愛は永遠。キリストの愛は決して滅びない…!」という、あの胸を打つ言葉を――。

ペトロは、ここで、死の力にうち勝つ生き生きとした希望に歩むのが信仰であること、そしてその信仰の具体的な内容を、8節で改めて、こう語ります。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

ペトロは、驚きをもって、目を見張るような思いで、この言葉を語りかけていると、私は思います。

1節のところにある、今日で言えば小アジアと呼ばれる諸地域の、当時の世界では経済的にも政治的にも、さして気にも留められず、ほとんど影響をもたないような、小さな小さな群れに向かって語りかける。しかも迫害の危機にある教会に向かって、

何ということだろう…。あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じている…!

これは、主イエスの弟子、ペトロの言葉です。この目で主イエスを見、もっとも主イエスのおそばにいた者の言葉です。同時に弱さも脆さも十分すぎるほど併せ持つペトロが、なお、教会の伝道者として立たされたときに、

この人たちはキリストを見たこともないのに愛しているではないか…!

そうだ――主イエスがこの人たちに、このような愛を与えてくださったのだ。主イエスが希望を、信仰を与えてくださったのだ。これこそ神の賜物だ…! ほかの何が滅びても、神がこの人たちに与えてくださった信仰と希望と愛は滅びない!

目を見張るような思いで、その同信の友たちを見ていたのではないかと思います。

このようなキリストの教会が、今日まで、至るところに存在してあるということを、私どもも今、驚きをもって受け入れ直したい。こころからそう願います。


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仮住まいをしている選ばれた人たちへ
神ア 伸 牧師  2017.9.6

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
(ペトロの手紙一 第1章1節)
『ペトロの手紙一』。これは、主イエスの12弟子のひとりペトロが、信頼する「シルワノ」という助け手と共に、身の危険、迫害の危機を肌で感じつつ、自らの信仰の言葉を伝えた手紙です。(第5章12、13節)。

ペトロは、ガリラヤの漁師でした。ある日、漁の仕事をしていたとき、主イエスに突然声をかけられた。

わたしについて来なさい…!

すると、彼はすぐに舟を捨て、網を捨て、家族を捨て、そして故郷を捨てて、主イエスに従って行った。そのペトロの言葉を、今私どもは改めて聴き取り直したいと願います。

離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

こう呼びかけるペトロ自身が、既に深い感慨に捕らえられ、同信の友たちへ呼びかけていたに違いないと私は信じます。どうして自分は、故郷のガリラヤを離れ、言葉も十分でないのに、今ローマに住んでいるのだろう。――それは、〈神に選ばれたからだ〉としか言いようがない。
わたしは、主イエスに声をかけていただいた。「あなたはこっちに来なさい…!」。漁の仕事中に声をかけられ、突然、まるで引き抜かれるようにして、このお方に従う者とされたのだ――。

ペトロ。主イエスが十字架にかけられようとするあの夜、「わたしは知らない」と、明確に三度この方を否んでしまった弟子です。そして、およみがえりのキリストに三度、「あなたはわたしを愛しているか」と問われたひとです。この手紙を書きながら彼は、あの夜の出来事を、絶えず想い起こしていたに違いない。

「主よ、わたしを選んでくださったのはあなたです。わたしが、あなたを選んだのではありません。あなたが、わたしを選んでくださった。だから、わたしがあなたを愛していることをいちばんよくご存じであるのも、主よ、あなたであるはずです…!」。

私どもは皆、ペトロと同じです。主イエスに声をかけられたから、主イエスがこの私を選んで、まなざしを注いでくださったから――。だから、私どもは今、この教会に生き、生かされている!

この教会の存在そのもの、あなたの存在そのものが、神の切なる思いの結晶のような存在なのです。

今、改めて、新しくその事実に立ち戻りたい。

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