「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」 ルカによる福音書10章27節
いろいろな友だちと遊ばせようとしても、現代は遊ぶ仲間がいない、遊ぶ場所がない、遊ぶ時間がないとよく言われます。だからといって、時間を与えて場所を与えて仲間を与えてみても、それで遊べるかというと、それでも遊べないのが現代っ子だと言われます。ちゃんと遊べるようになるには、一定のサポートが必要になっているのが現代っ子の特徴のようです。
十年ほど前になりますが、フインランドに研修旅行に行きましたときに、放課後に子どもたちはどのように過ごしているのかを尋ねましたら、地域毎に子どもたちが集まる公園や遊び場に児童館のような施設が設置され、国家資格を持つ教師が(公務員として)その施設に配置されていて、集まって来る子どもたちをカリキュラムを作成して指導しているのだそうです。なるほど、塾もないのに子どもの学力が高い(十数年ほど前には世界第一位の時もありました)理由はそういうことであったかと納得したことでした。
遊ぶ場所、仲間、時間が与えられても遊べない理由、それは想像力と創造力が欠けている、育っていないからだと考えられます。ヴィゴツキーは言います。「こどもは竹箒に乗っていても馬に乗っている、手を広げればトンボになっている、ある空間が掘っ立て小屋にも、お城にもなる、ある空間が、ある物体が、ある人物が子どもの想像の中で何にでも変化する。子どもはそういう想像力を持っている」と。がしかし、今の子どもたちにはそのような想像力が発達していないということです。
ひどいいじめをするのは、相手の悲しみを想像する力が無いからで、同時に、相手の悲しみや痛みを思いやれるのは、自分の生活の中で、自分の悲しみを両親や祖父母、あるいは周囲の人たちに充分思いやられてきたという生い立ちがかかわってくるのです。自分が思いやられる前に自分が相手を思いやれることは、子どもには決してないのです。思いやられた子が人を思いやることができる。同時に遊びの中で想像力・創造力を豊かに育ててきた子どもが、他者の苦しみや悲しみを想像することができるということです。
ヴィゴツキーはそのように遊びの意味と人格形成に及ぼす本当の意味を研究した人物です。「僕の先生は学校の先生じゃない。僕の先生は山と川なんだ」と言ったのは「釣りキチ三平」を書いた漫画家矢口高雄ですが、そのように自然の中で創造力・想像力を働かせて思いっきり遊ぶ中で、善も悪もみんな仕入れて、いろいろな能力や個性や資質を身につけて行って総合的な人間形成・人格形成をし、そしてそれを応用する能力、つまり将来の社会性、働くことあるいは人と関わる力として身につけていくのだということでしょう。わたしたち自身にもそういうふうに育てられた人格形成のプロセスが沈んでいるのだし、私もそうなのだということです。
要するにビヴィゴツキーは、自分一人で出来ることばかりに取り組んでいても効果的な成長や発達は望めない、自力ではむずかしいが、誰かのサポートがあれば出来るようになることの領域を、「発達の最近接領域」としてその領域に取り組むことが成長・発達を促す上で重要であると提唱しているのです。今の時点で自力で課題を解決できる、現下の発達水準に対して、他者の助けを借りれば解決できる水準の差、つまり、既に一人で出来ることと、まだできないことの間にある、一人では出来ないけど、外部の助けがあればできる領域のことを指し、この領域での学習が効果的な成長・発達を促すとされます。
ヴィゴツキーは、子どもは他者との関わりを通じて発達を遂げるとして、出来るようになるまで発達を待つのではなく、発達の最近接領域に対して働きかけることが重要であると提言しています。具体的には、現時点で解決できる内容よりも多少難しい課題を与えた上で、助言を与えたり、自分より高い発達水準にある仲間と共同して取り組ませたりすることで課題を達成させるプロセスを踏むことになります。そこでさらに重要になってくるのが、子どもの解決を促すサポートをどのようにして行くかということです。そのようなサポート理論として「足場かけ」という理論が提唱されています。 以下次号
2023年11月1日