「できる限り謙遜と柔和と寛容な心をもってふるまい、愛において互いに忍び会い
なさい」
新約聖書エフェソ書4章2節
ボンヘッフアーの「共に生きる生活」について先週からの続きです。キリスト教の信仰者としての主体は、神との関係を回復することによって、神と共に生きる命となり、この生ける神を間において初めて、そのまま「この世界や他者と向き合い共に生きる生活」成立して行くということを先週申し上げました。
それで、ホンヘッファーの説く「キリスト教の信仰者の生活」は、「弱き羊の群れ」ではなく「孤立を恐れない牧者(羊飼い)の群れ」だと考えられています。キリスト信仰者は、必要であれば、たった一人で行動できるものでなければならない。しかし、それが可能となるのは、彼にはいつも「神が共にいる」からにほかならない。その確信こそ信仰なのだ、とボンヘッファーは言います。
『 人は、それぞれが深い淵と危険とを内蔵している。だから、一人でいることなしに交わりを望むものは、言葉と感情の空虚さに陥り、交わりなしに一人でいることを求めるものは、虚無と自己幻想と絶望の深みに滅びる。
一人でいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。交わりの中にいない者は、一人でいることを用心しなさい。
キリスト者の家の交わりにおいて他者と共にいる日に続くのは、それぞれが一人でいる日である。これはそうでなければならない。一人でいる日がなければ、他者と共にいる日は、交わりにとっても個人にとっても実りのないものとなる』
キリスト者が「ひとりでいる」ことの必要性とその自覚とは、実はキリスト者が「神と共にあるかぎり、決してひとりではない」のだということが大前提です。ですから、彼はひとりでいても「孤独」にはなりませんし、「人恋しさ」に捕らわれて交わりを求めたりもしないというのです。その一方で、「神と共にある」信仰者は、当然のことですけれども、他者との交わりを求めるのです。神が信仰者を、人々の間へと派遣するのですから、彼ひとりでいることに「引きこもる」ことなどできないということになります。ですから信仰者は「他者との連帯を求め、且つ孤独を恐れない者となる」のです。
「一人でいる日」の末尾でボンヘッファーは言います。『一日の戦いを終えてキリスト者の家の交わりに帰ってくる人は、ひとりでいることの祝福を携えてくるが、彼自身は同時に交わりの祝福を新たに受け取る。交わりに支えられて一人でいる者はさいわいである。ひとりでいることに支えられて交わりを持つ者はさいわいである。しかし、一人でいることの力と交わりの力とは、ただ神の言葉の力であり、それを交わりにおいて生きるひとひとりに向けられているのである』
ここに大変重要なことが語られています。神を間において私たちが相互に生きることができるようになるには、神の新しい命の創造の力が必要であり、その創造の力とは、神の言葉の力のことだと明言されています。言い換えるならば、「あなたがたは神の命の言葉によってこそ新たにされ、あなたがた相互に仕える者とされ、相互に仕え合う新しい生活に押し出されて行くのだ」と結んでいるのです。
神の言葉の力によって押し出され、真摯に「この世界」と向き合って生きるキリスト者と信仰を持たない非キリスト者とは、そこでこそ、「神」という意識を持つか持たないかにかかわりなく、「神」を挟んでお互いに向き合っている者どうしなのだとボンヘッファーは言うのです。
それで、第Ⅳ部の「仕えること」へと展開していくことになります。真摯なキリスト者は、「神」を通して現実社会と向き合い、真摯な非キリスト者は、「社会」を通して、知らずに「神」と向き合っている。この世を、「現実社会」を真摯に生きる者としてのキリスト者と非キリスト者は、神を挟んで、反対側から「現実社会」と向き合っているのだ。
このように、ボンヘッファーは、わたしたちに現実社会に目覚めよ。そして、神の霊の力をもってこの世に仕えよ、それが救いの神の意思であると語りかけているのです。
2024年11月1日
「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。」
旧約聖書詩編65篇1節
3月から一つのテーマを取り上げ、いろいろな角度からお話ししてきました。今回で七回目です。3月の初回で申し上げましたが、まとめとして、デートリッヒ・ボンへファーの「共に生きる生活」を紹介することとしていましたので、今回はそれを取り上げます。
ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ドイツの古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人です。反ナチの抵抗運動に参加して逮捕され、ベルリン陥落一週間前に三九歳で処刑されました。ボンヘッファーは第二次大戦当時のナチ党の思想下による国民の影響については、国民の良心は葛藤を避けるために自立を放棄して他律に陥り、それが当時のドイツではヒトラー崇拝という形をとった、との見方をしています。
ボンヘッフアーの神学の中心的なテーマは「キリストのからだ、イエスに従う共同体、この世に連帯する神から託された共同体としての教会」で、「信仰生活」と「現実的な社会生活」の分断をいかに乗り越えるかという、切実な問題意識に貫かれています。つまり、「現実からの逃避としての信仰」生活ではなく、真に「神の御旨」に沿った社会生活者としてのキリスト者の信仰生活とはどのようなものなのか、という単純な、しかしかなりの難問に立ち向かった神学者でありました。
「共に生きる生活」もそうした神学の延長線上にあって、決してキリスト者だけの共同生活のあり方を論じたものではなく、ボンヘッファー自身の序言の言葉によれば、「キリスト者の交わりの問題は、私的なサークルに関わることがらとしてではなく、教会に与えられた課題としてとりあげられなければならない」と明確に語られています。キリスト者の交わりは、閉鎖的なセクトではなく、また単に人間的な友好団体でもなく、カルト的集団であってもならない。「共に生きる生活」においてボンヘッファーが追求しているキリスト者の交わりは、世界に対して開かれた、多様性における一致を目指す、エキュメニカル(世界教会一致運動)的な交わり、つまり、「すべての人びとのための、キリスト者による、キリスト者の生活」とはどのようなものであらねばならないかを示したものです。
そこで、ボンヘッファーは、「すべての人間関係において第一に必要なのは、人と人との直接的なつながりではなく、「神を介したつながり」である、と説き、「キリスト者の兄弟(信徒)間においても、私とあなたが直接つながるのではなく、神を間に挟んで、つながり、交わるのだ。それが出来てこそ、キリスト者は、非キリスト者とのつながりにおいても、当たり前に「神を通してのつながり」を持つことができる。ここでの「神を通してのつながり」というのは、他者との関係は「神を通しての関係」以外にはあり得ないのが「キリスト者」だ、という意味でもあります。
私たちはまず、ひとり神の前に立ち、神と和解し、神との関係で自分が自分であることを初めて確立することができる。それが出来た上で、すべてにおいて「神を通して」世界や他者と向き合う「実存的信仰の実態」を確立して行くことが可能となる。これが重要なのです。キリスト教信仰は形式主義ではなく、「神とつながり、神を通して、神と共にある」主体的な実存があり、それがそのまま「全ての人と、共に生きる生活」へと展開していくものでなければならないのです。
次回は「共に生きる生活」のⅡ「共にいる日」とⅢ「一人でいる日」についてお話しします。
2024年10月1日
「キリストの言葉が、あなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい」
新約聖書書コロサイの信徒への手紙3章16節
今、フランスのパリではオリンピックに引き続きパラリンピックが開催されています。1896年、ギリシャ・アテネで第一回が開催された近代オリンピック競技会は、その理念「オリンピズム」の実現に向けて、一世紀以上の歴史を刻んで来ました。IOCのオリンピック憲章では、オリンピズムを「肉体と意思と精神の全ての資質を高め、バランス良く結合させる生き方の哲学」、また「スポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」と定めて、その目的を「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」としています。
そして1948年の英国・ストークマンデビル病院で開催されたアーチェリー大会にルーツを持つパラリンピックは1960年のローマ大会を第一回として、現在では世界最高峰の障碍者スポーツ大会となっています。パラリンピックでは、そのゴールを「パラリンピックムーブメントの推進を通してインクルーシブ(包摂的)な社会を創出すること」として、全ての人が共生する社会の構築を目指し、その実現に向けて、オリンピックとパラリンピックはそれぞれ以下のような理念を追求しています。
オリンピック
①卓越(Excellence)スポーツに限らず人生に於いてベストを尽くすこと。大切なのは 勝利することではなく、目標に向かって全力で取り組むことであり、体と頭と心の健全な調和を育むことである。
②友情(Frienndship)スポーツでの喜びやチームスピリット、対戦相手との交流は人と 人とを結びつけ、互いの理解を深める。そのことは平和でより良い世界の構築に寄与する。
③敬意・尊重(Respect)互いに敬意を払い、ルールを尊重することはフェアプレー精 神を育む。これはオリンピック・ムーブメントに参加する全ての人にとっての原則である。
パラリンピック
①勇気(Courage)マイナスな感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力
②強い意志(Determination)困難があっても、諦めず限界を突破しようとする力
③インスピレーション(inspiration)人の心を揺さ振り、駆り立てる力
④公平(Equality)多様性を認め、相違工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力
パラリンピックの意義は、様々な障碍のあるアスリートたちが創意工夫を懲らして限界に挑むこと、また、多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し活躍できる公正な機会が与えられている場であるということです。そして、ここに共生社会を具現化していくための重要なヒントが詰まっています。また、社会の中にあるバリアを減らして行くことの必要や、発想の転換が必要であることにも気づかせてくれます。パラアスリートの魅力を通して、社会の人たちにこうした気づきを与え、より良い社会を作るための社会変革を起こそうとするあらゆる活動を指して、パラリンピックムーブメントと呼んでいるのです。
今、企業や自治体によってバリアフリーと共生社会を目指す具体的な取り組みがなされています。私たちがお互いの人権や尊厳を大切にし、誰もが生き生きとした人生を送ることができる社会、共に支え合い、様々な人々の能力が発揮されている活力ある社会を目指すために、私たち一人一人が健全な心と体と精神をもって、障碍者や高齢者の抱える困難を自分のこととして捉え、積極的に行動する主体を形成することがまず大切なことであります。次回に「共に生きる」ための本質的人格形成について述べてみたいと思います。
2024年9月1日
「キリストの言葉が、あなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい」
新約聖書書コロサイの信徒への手紙3章16節
70数年前の日本は、敗戦の困難の中からなんとか抜け出そうと必死になって働いて復興に向けて努力し、そして、少しずつ豊かさを取り戻し、ようやく先進国の仲間入りを果たし今では、経済大国と呼ばれるようになって来ましたが、果たしてその豊かさは、私たちの人生に、毎日を生き生きと生きる真の喜びを与えていると言えるのだろうか。
冷えて行く人間関係、教師に対する不信感を持つ生徒、自分の地位を守るために相手を蹴落として行く企業内の人間関係、政治不信、社会の不正や凶悪犯罪の増加等々殺伐とした社会の現実を見るときに、こんな筈ではと思わずつぶやいてしまう現実があります。どんなに物質的に豊かな暮らしが保証されていてもそこに本当の生きる喜びはないという経験を多くの人がしています。
そして、多くの人が、人生の本当の意味、また喜びは何処にあるのかを探して、生き方を模索し始めている時代であるようにも思います。災害に遭った人、孤独なお年寄り、社会の弱い立場の人たちを進んで助けようとするボランティアの奉仕活動をする人々が増えています。これらの奉仕活動を通して、物やお金では得ることのできない素晴らしいものがあることを人々は経験しています。そして、そうした活動から改めて、親子の愛、夫婦の愛、兄弟愛等を始め、友情、働く仲間、地域コミュニティーなど、他者との関わりの内に、お金や物によっては、決して得ることのできない真の喜びがあることを体験的に感じています。
真の友は人生の宝と言われます。よい友、心から信頼できる友人に恵まれた人は幸いです。師弟や上司・部下といった上下関係でもなく、先輩と後輩の間柄でもなく、互いが対等に、お互いの人格を尊重し、尊敬し、互いに心を開いてどんなことでも話し合えるタブーのない信頼に基づいた人間関係が築ければどんなにすばらしいことでしょう。「ひとりでいる時も大切」というテーマで連続しておたよりを書いてきましたが、それは決して、「自分の中に閉じこもって、自分のことだけを考えていればいいよ」と言おうとしているのではありません。
人と人との関わりを豊かに生きるために私たちに求められる基本的な能力は何でしょうか。それは上記しました、他者の命を「尊重する」「尊敬する」「受容する」という言葉で表現することができます。一言で言うと「お互いを大切にする」「互いに愛し合う」ということです。誰もがそのようにしてお互いに仕え合い、支え合い、助け合い、励まし合い、うれしいことや心から喜べるようなことをたくさん分かち合って生きて行きたい、と思うのですが、なかなかそうはなりません。あまりやりたくないと思うことを、人から頼まれた時、素直に「はい」と言って引き受けることはとても難しいことです。たとえ自分が望まないことでも、みんなのために必要であると思えば、それを黙って引き受け実行して行くには、勇気と愛が必要です。
そのような特性を私たちがほんとうに得て、これまでとは違う新しい生き方を始めるためには、ただ単にこれまでの生き方を反省したり悔いることだけではなく、もっと根本的な生き方の転換をして行く必要があります。その克服しなければならない根本的な問題とは、私たちの人間が持つ相互の疎外と分裂です。人間の支配欲、利己主義、嫉み、不和、暴力、敵意、嘘、戦争など、私たちの現実にはこのような数え切れない罪の現実が連鎖的に広がっています。お互いの信頼関係を破るだけではなく、お互いの一致も損なってしまうその破壊力は最早人間の志しや努力の域を超えてしまって、自己回復は不可能になっています。ここで私たちは一旦沈黙しましょう。真実の癒やしの力を持つ方に聴くことにしましょう。そのために一人になって静寂の時を持ちましょう、ということです。
2024年7月1日
「キリストの言葉が、あなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい」
新約聖書書コロサイの信徒への手紙3章16節
3月からの主題で、今回で4回目になります。前回は大人にも一人でいることに重要な意味があること、生活をシンプルにすること、そして充実させ、豊かで意味のある人生を歩んで行くことを目指すという、シンプル・ライフについて考えましたが、その目的は全能なる神との生き生きとした新しい命の関係を取り戻すということです。私たちは神の語りかけを聞くためにまず沈黙することが必要になります。
神に祈るということは、私と神との対話であるとはよく言われることであります。私の方から神に語りかけ、いろいろ願いごとを申し上げてよいのですけれも、こちらの願いに対して神が何とお答えになるか、神が自分に何をお求めになっておられるのかを、耳を澄ましてよく聞き取るために、神の前に沈黙し、静まる必要があります。そうでなければ、祈りはこちらからの一方通行の語りかけとなり、自問自答しているだけのことになります。そこから導き出される答えは結局は自己中心的で独善的なものになってしまうでしょう。
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」(詩編62:1)静まりの時をじっくり持たないでは、神とより深く、またより親しく交わることは決してできません。この静まりの時は私たちの最も尊い経験となるでしょう。静まって神に心を向けるとは、「神と対話するために時間を取り、その時間を何よりも大切にする」ということです。じっと静まり、神の御前に耳を澄まし、御言葉を聞き取ることに心を注ぐということです。
私たちは日常の喧噪の中で、また、超過密なスケジュールの中で、心の感覚が鈍り、神の御声が聞こえなくなって、神の触れて下さる御手に対しても無感覚になってしまっているのです。そのような私たちが、ゆっくりとした時間を沈黙のうちに過ごすことは、霊的な感覚を取り戻し、憐れみの内に共にいてくださる神と、その恵みを深く深く覚える経験ができるようになる。つまり、沈黙は霊的な深まりの経験となるのです。現代の社会の中では、私たちは黙って待つことはなかなかできなくなっているのですけれども、だからこそ、沈黙の中で心を静めることは極めて重要なのです。
マザー・テレサが沈黙について次のように語っています。「私たちは神を見出す必要があります。神を騒がしく落ち着きのない所で見出すことはできません。神は静けさの友なのです。自然をご覧なさい。木や花、そして草は静かに成長して行きます。星や月や太陽をご覧なさい。なんと静かに動いているのでしょう。沈黙の祈りのうちに、多くを受ければ受けるほど、私たちの活動においてもっと多くを与えることができるのです。」
静まること沈黙することは何もしないということではありません。普段の生活の中で聞き取ることができない神の声をしっかりと受け止める時なのです。しばらく沈黙の時を持って、私たちに向けられた神の語りかけを心に刻むことができれば、豊かな心と魂の深さを取り戻すことができるのです。
2024年5月1日
「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』」
エレミヤ書6章16節
3月からの主題で、今回で3回目になります。前回は子どもにとっての一人でいることの重要さを考えて見ました。今回は大人にも一人でいることに重要な意味があることを考えて見たいと思います。
シンプルライフとよく言われています。端的に言えば、生活をシンプルにすること、そして充実させ、豊かで意味のある人生を歩んで行くことを目指すということでしょうか。シンプルライフとはまとめてみますと以下のようになるかと思います。
1.質素で、贅沢をしない生活をすること。
2.無駄のない生活をすること。
3.1本のしっかりした筋の通った生活を送ること。
4.何が最も大切なことなのかを知って、そのことに集中して生きること。
5.満ち足りた心をもっていること。
私たちの生活に多くの浪費がないかを点検し、金銭だけではなく、時間、食事、衣服、住居、家具、旅行、余暇等において、それはどこまで必要なのかを的確に判断していく必要がある、ということです。私たちは目で見るものを欲しくなり、ついつい追い求めてしまいます。それが無くても生きていけるものに、・・・やらなくてもいいことに心を煩わせ、しなくてもよい労苦をしてはいないか。実際、心を貧しくし、飢えてくると、余計なものをたくさん買ってしまうという傾向があります。「人はパンだけで生きるのではない」とは、「パンよりももっと大切なものがある。それに心を向けよ」ということです。簡素なライフスタイルの目的は、倹約し、蓄えることが目的なのではなく、本当の意味で豊かで、満ち足りた人生を送るということです。
マタイ福音書16章24節以下で「人はたとい全世界を手に入れても決して満足することはない。今、私たちに必要なものはもっと多くのものではなく、神と共に生きることを通して〈満ち足りる心〉をもって生きることだ」と言われます。また「必要なことは多くはない。いや1つだけです。」と言われます。その一つの必要なことというのは、神との新しい豊かな命に繋がって生きるということを言っているのです。
私たちは社会の中での毎日の仕事の忙しさの中でストレスが増大し緊張しています。そして、そのストレスを解放するために、更に多くのものを求めるようになるのです。その行き着く先は行き止まりです。つまり、本当の心のケアを忘れて生活しているのです。今、私たちに必要なことは、全能なる神と命の交わりを深めるために、生活を整えていくことです。私たちにとって、今、問題となるのは、神の前に一人で立つことです。私たちが神との深く親しい交わりを持つためには、次のような決断と訓練が必要になります。
1.生活を整理しなおす決断
2.静まる決断。沈黙し黙想する決断。
3.静謐を培う(魂の静まりを培う)という決断。
4.神に信頼し、人生を明け渡し、神の言葉に信頼し導かれるという決断です。
つまり、基本的にこの四つの条件が整うのが礼拝という場なのです。
「あなたたちの父アブラハム あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び 彼を祝福して子孫を増やした。」
イザヤ書51章2節
3月のお便りの続きです。子どもが一人でいることの重要な意味を考えると言うテーマで、今回はエリーズ・ボールディングの「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」 副題―孤独が子どもの創造性を育む―〈小泉文子訳〉を紹介します。
エリーズ・ボールディングは、ノルウェー・オスロ生まれの平和学者、社会学者で、アメリカ・ニュージャージー州在住で在りました。経済学者のケネス・E・ボールディングと結婚後5人の子どもを育てながら、平和研究に取り組み、1969年、ミシガン大学で社会学の博士号を取得、ダートマス大学の名誉教授。国際平和研究学会(IPRA)の事務局長、国際連合大学の理事などを務めました。20世紀後半の最も重要な平和運動家の独りとも言われる人物です。この名著を日本語に最初に翻訳したのが、日本の幼児教育の第一人者でもある小泉文子氏です。
否定的にしか論じられない"孤独"が実は子どもの内的成長には欠かせない必要なものであると著者は述べます。アイデンティティの認識、独創性、その他人間には一人でいる時にしか起こらないある種の内的な成長があるのだ、と著者は言います。寂しさや孤立というマイナスイメージのゆえに、子どもと結びつけて考えない孤独の、積極的な意味、"一人でいる時間"にもたらされる豊かな実りに気づかされます。
今のこどもは、内的な成長のために必要な『一人でいる時間』『自分と向かい合う時間』を確保できているだろうか。その時間は、外的世界と子どもの内なる世界とを意識的に一つに統合させ、予想も付かないような内的成長を告げる大切な時間(とき)なのだと、ボールディングは言います。この孤独は寂しい孤独なのではない。あくまで孤独(ひとり)で自らいる時間である。ケースバイケースと言うこともあろうかとは思いますが、両親やおとながスマホばかりいじっていて、子どもを一人にさせている時間は、ここで言う孤独(ひとり)ではない。それは寂しい孤独(こどく)であるということになるでしょう。
それとは対照的に、外界の世界に反応する事に多大なエネルギーを費やしていると、人間は刺激に溺れ、内面生活や、そこから生じる創造力、また、創造性の成長を阻止し、萎縮させることになるだろう、と著者は言います。その具体的な例として上げられるのがコンピューターであります。(スマホはまだ普及していなかった時代でした。)
「子どもの心は世界で最も肥沃な土地であり、知らず知らずのうちに蒔かれた種は、思いもよらない花を咲かせる」目に見えないものを洞察していくという心の動きが、人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かは言うまでもありません。後に、崇高なものを宿すかもしれない心の場所はひとりでいる時に作られて行くものだと改めて認識させられます。 以下次号
2024年4月1日
「ひとりでいる時も大切だよ」Ⅰ
大宮 陸孝 牧師
「あなたたちの父アブラハム あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び 彼を祝福して子孫を増やした。」
イザヤ書51章2節
昨年(2023年)10月に埼玉県の自民党県議団が、小学3年生以下の子どもだけで、公園で遊ばせたり留守番をさせたりすることを、子どもを放置する虐待行為とみなして禁止する、「埼玉県虐待禁止条例案を県議会に提出したところ、保護者などから「子育てをしている人の立場を理解していない」「現実的ではない」「子どもを一人で行動させることに制限をかけられるようでは日々の生活に支障をきたす」という声が多く寄せられ、この条例案は波紋を呼び、結局県議団は取り下げを決めました。
埼玉県の条例改正案に反対するオンラインサイトには、「ニユージーランドやアメリカの一部の州などでは、14歳以下の子どもだけで留守番させたり、大人の付き添いなしで公園で遊ばせたりすると「児童虐待だ」として通報されるというようなことがある。しかし、その国の治安や、チャイルドシッターの普及率の高さ、またそれに関わる金額の違い、そもそも行政サポートが圧倒的に充実しているなど、背景が日本と大きく異なっています」とあります。
福祉が充実しているドイツなどはどうなのかをさらに見てみますと、「子どもは未熟な存在」と考え、大人(保護者を含む)が監護義務を負うというのが基本的な考え方で、この監護(アウフジッヒトシュプフリッヒト)という言葉は日常生活でもよく使われているということです。「子どもが自分自身や他人に対して危険な行為をしないための責任は大人にある」という共通認識があるために、基本的に子どもが幼稚園や学校に通っている以外の時間帯については保護者が監護義務を負うということです。但し罰則規定はありません。あくまでも保護者が主体的な自覚を持って子どもを監護して行くという原則です。
同じ年齢であっても、「独りにしておくと危険な事をする傾向のある子ども」と「そうでない子ども」がいるので、その人格や成長過程によって、親が臨機応変に対応することは許されているけれども、ドイツでは「ひとりで行動する子ども」について、親に対して厳しい視線が注がれているようです。ただし、ドイツでは福祉全般で手厚い公的な支援がなされていることを見逃してはならないでしょう。
それで、私は上記したように、子どもがひとりでいる時には、大人の配慮が必要であることをふまえた上で、信仰という面においては、大人も子どもも共通して、ひとりでいることには重要な意味があるということを、二人の人の著書を紹介しつつ考えて見たいと思うのです。そのひとりはエリーズ・ボールディングの「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」と、もうひとりはディートリッヒ・ボンヘッファーで、その著書「共に生きる生活」です。
以下次号
2024年3月1日
「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母親を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」
マタイ福音書2章19節~23節
外国の人が日本の家屋をウサギ小屋だと揶揄するという話しを時折聞きますが、これは、もともとは、1970年代の公団中心の住宅事情を自嘲して「ウサギ小屋」と呼んだのが最初で、日本発の言葉であったようです。当時の公団住宅は今でもその大半が残っていますが、2K、3Kで、30~45㎡程度が一般的で、全間取りが公団規格サイズ、畳1畳も団地サイズで、小さくなっていて、「まるでウサギ小屋に詰め込まれたようだ」ということから「うさぎ小屋」という言葉が広まったということです。
欧米、特に大陸ではマンションや団地でも80~100㎡以上の住宅が一般的であることから、中には日本の住宅事情をウサギ小屋という人もいるでしょうけれども、少子化が進んで今のマンションや新しい公団は80㎡以上の住宅も増えていますから、あえて日本の住宅がウサギ小屋だという人はいなくなってきています。今、戦争や災害によって、難民、避難民の住宅問題が恒常化しています。その規模はイエスの時代と比較にならないほど拡大し、命が危険にさらされていると言っても過言ではありません。
私は1月29日に78歳の誕生日を迎えました。78年前に生まれたのは、中国の大連で敗戦後の混乱のただ中にあり、逆子でおまけに首にへその緒が巻き付き、身体が紫色になり、戒厳令がしかれている町中を走り回って近所に住む産婆さんを見つけてきて、あわやの危機状態をなんとか脱出できたと言うことでした。それから一年も経たないうちに今度は、日本への引き上げの大きな試練が待っておりました。日ごとの食べ物にも事欠く状況の中、栄養失調でなんとか息をしているような状態だったと聞いています。残留孤児となる可能性もありました。しかし、中国に残してどうなってしまうか分からない、それよりも途中で死んでもその方が納得出来るからと、連れて帰る決断をしたと母親は言います。このような悲劇の発端に何があったのかと言いますと、経済的な豊かさが人生の幸せの保証であるかのように、「富国強兵」のスローガンのもとに夢中になって富を求めて、国を挙げて中国に侵略して行ったことがあったのです。しかし、それは人間の真のしあわせにはつながらなかった。
人間が自分を世界の中心に据えようとするエゴイズムは世界を不幸のどん底に突き落とします。神は、人間の最大の、人間がどうしてもそこから救われなければならない根源的な悪、それを人間のエゴイズムの中に見ています。そしてその人間のエゴイズムが渦巻いている悲劇の真ん中に自ら下りて来られます。上記した聖句がその箇所です。マリアとヨセフの庇護のもとに生まれたイエスはその誕生の時から、人間のエゴイズムの嵐の危機の中でそれに翻弄されるようにして避難生活を続け、辿り着いた所はナザレの田舎町でした。そして、そこでも貧しさが底をついた生活を送っていくのです。
幸せの原点に富や経済的な豊かさだけを置いて自分だけ豊かになることを考え、その価値観によって紛争や戦争を起こし、逆に世界を崩壊の危機にさらしている、その人間の生き方の価値観のゆがみは必ず私たちの具体的な生活の中に深刻な陰を落として行く事になります。それは必ず人間の一番弱い部分に現れます。そして、自らを守ることの出来ない子どもの心にひずみを与えて行く事になります。それがまた家庭へ、社会へ、さらには次世代の世界へと広がって行くものでもあります。ここでもう一度、人間の価値や生き方、人間の尊厳を見直すべきであると思います。
人間はお互い同士が神から与えられた命であるという自覚、これはマリアにとってもヨセフにとっても、そしてまた、イエスにとっても、何よりも明らかなことでありました。お互いの命と人生は神に向かったものであるということをはっきりと自覚していました。その心は、お互いのために真心から仕え合う、支え合う、生かし合うという、根本的な神の愛の光に照らし出されたものであったということです。
イエスは、この地上に深く深く染みついて人間を支配してしまっているエゴイズム、そのようにしか生きられない人間の現実の中に、神の愛の息吹を注ごうとなさって私たちの所に来ておられるのです。この地上の全ての人間の営みの中に神の愛の炎を投ずるために、地上での人間のありのままの全てを受け止めて、そこで生きている私たちの心に、神の愛の炎を点火してくださろうとしているのです。
2024年2月1日
「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
Ⅰヨハネの手紙3章16節
新しい年を迎えました。子供たちにとっては年度最後の学期です。昨年の秋頃から、全国各地の住宅地にクマが出没し、人に危害を与える事件が相次いでいます。「一戸建て 手が出る土地は クマも出る」との川柳がありました。世界のあちこちで戦争が多発し、自然災害も拡大する一方です。人も動物も大変な時代を迎えて、苦しみが増大しています。バーンアウトシンドロームなどと言っていられない厳しい現実とどう向き合って行くのかを考えさせられます。
この三学期には教会歴では、キリストの顕現を覚える時から受難節へと移行して行きます。キリストがいろいろな試練を受けてお苦しみになられたこと、そして、十字架につけられて、痛ましい死を遂げられたことを覚える期間を過ごします。
余りにも純粋で献身的な「愛と真実」に生きられたキリストは、かえってユダヤ教の指導者階級に疎んじられ、信頼していた弟子たちにも裏切られ、見捨てられるという悲痛な体験をなさいます。自業自得でそうなったのではありません。それもこれも私たち人間の自己中心による罪のゆえでした。神に従わない、エゴイストである人間、その罪を一身に引き受けられ、人間に変わってその結果を負われて、さらに、罪深い私たちのために祈ってくださっている。これがキリストの「苦しみ」の意味です。
十字架の苦しい息の下で祈られた祈りがあります。「父よ(神よ)彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23:34)この十字架上の苦しみと祈り、そこからこんこんと溢れ流れて来るのは、キリストの私たちへの激烈な愛です。このお苦しみの意味をわかろうとせず、無知で反抗ばかりしている自分勝手な私。この自分のためにも執り成しておられる愛と慈しみが、溢れるばかり私の心に注がれているのです。主の苦しみはそこに大切な意味がある、測り知れない神の深い愛と慈しみが、あの苦しみに宿されているのです。
そしてこの十字架に示された神の愛、キリストの愛に新しい命の力をいただいてあなた方も互いに愛し合うようにと勧告されます。
「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12~13)
私たちはこの世界の人間の罪の苦しみから逃れる道はありません。「生」と「苦」、それは実に生きることの表裏一体の関係なのです。しかし、その苦しみは意味の無い苦しみであろうか。神の愛に生きる者は、この神からの新しい創造のエネルギーをいただいて、この世の苦しみに燃え尽きることなく耐え、新しい命の実を結ぶのです。キリストの愛の御手にしっかり繋がっていることが大切です。そうすると不毛な大地と思われる私たちの現実の中で知らない間に愛の実が結ぶのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)
教会とキリストというぶどうの木に、枝となって結びついているならば、この幹から溢れてくる神の命の水に養われて、愛の実が結ばれるのです。汲めども尽きない命の源、キリストという幹につながっている所には、思いを超えた実が結ぶのです。お互いを思いやる心、忍耐強く、燃え尽きず仕え合う心が育って行くのです。
2024年1月4日