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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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牧師メッセージバックナンバーpastor'S message


    「命への方向転換」
 
                      
大宮 陸孝 牧師    


 「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母親を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」  
         マタイ福音書2章19節~23節

 外国の人が日本の家屋をウサギ小屋だと揶揄するという話しを時折聞きますが、これは、もともとは、1970年代の公団中心の住宅事情を自嘲して「ウサギ小屋」と呼んだのが最初で、日本発の言葉であったようです。当時の公団住宅は今でもその大半が残っていますが、2K、3Kで、30~45㎡程度が一般的で、全間取りが公団規格サイズ、畳1畳も団地サイズで、小さくなっていて、「まるでウサギ小屋に詰め込まれたようだ」ということから「うさぎ小屋」という言葉が広まったということです。

 欧米、特に大陸ではマンションや団地でも80~100㎡以上の住宅が一般的であることから、中には日本の住宅事情をウサギ小屋という人もいるでしょうけれども、少子化が進んで今のマンションや新しい公団は80㎡以上の住宅も増えていますから、あえて日本の住宅がウサギ小屋だという人はいなくなってきています。今、戦争や災害によって、難民、避難民の住宅問題が恒常化しています。その規模はイエスの時代と比較にならないほど拡大し、命が危険にさらされていると言っても過言ではありません。

 私は1月29日に78歳の誕生日を迎えました。78年前に生まれたのは、中国の大連で敗戦後の混乱のただ中にあり、逆子でおまけに首にへその緒が巻き付き、身体が紫色になり、戒厳令がしかれている町中を走り回って近所に住む産婆さんを見つけてきて、あわやの危機状態をなんとか脱出できたと言うことでした。それから一年も経たないうちに今度は、日本への引き上げの大きな試練が待っておりました。日ごとの食べ物にも事欠く状況の中、栄養失調でなんとか息をしているような状態だったと聞いています。残留孤児となる可能性もありました。しかし、中国に残してどうなってしまうか分からない、それよりも途中で死んでもその方が納得出来るからと、連れて帰る決断をしたと母親は言います。このような悲劇の発端に何があったのかと言いますと、経済的な豊かさが人生の幸せの保証であるかのように、「富国強兵」のスローガンのもとに夢中になって富を求めて、国を挙げて中国に侵略して行ったことがあったのです。しかし、それは人間の真のしあわせにはつながらなかった。

 人間が自分を世界の中心に据えようとするエゴイズムは世界を不幸のどん底に突き落とします。神は、人間の最大の、人間がどうしてもそこから救われなければならない根源的な悪、それを人間のエゴイズムの中に見ています。そしてその人間のエゴイズムが渦巻いている悲劇の真ん中に自ら下りて来られます。上記した聖句がその箇所です。マリアとヨセフの庇護のもとに生まれたイエスはその誕生の時から、人間のエゴイズムの嵐の危機の中でそれに翻弄されるようにして避難生活を続け、辿り着いた所はナザレの田舎町でした。そして、そこでも貧しさが底をついた生活を送っていくのです。

 幸せの原点に富や経済的な豊かさだけを置いて自分だけ豊かになることを考え、その価値観によって紛争や戦争を起こし、逆に世界を崩壊の危機にさらしている、その人間の生き方の価値観のゆがみは必ず私たちの具体的な生活の中に深刻な陰を落として行く事になります。それは必ず人間の一番弱い部分に現れます。そして、自らを守ることの出来ない子どもの心にひずみを与えて行く事になります。それがまた家庭へ、社会へ、さらには次世代の世界へと広がって行くものでもあります。ここでもう一度、人間の価値や生き方、人間の尊厳を見直すべきであると思います。

 人間はお互い同士が神から与えられた命であるという自覚、これはマリアにとってもヨセフにとっても、そしてまた、イエスにとっても、何よりも明らかなことでありました。お互いの命と人生は神に向かったものであるということをはっきりと自覚していました。その心は、お互いのために真心から仕え合う、支え合う、生かし合うという、根本的な神の愛の光に照らし出されたものであったということです。

 イエスは、この地上に深く深く染みついて人間を支配してしまっているエゴイズム、そのようにしか生きられない人間の現実の中に、神の愛の息吹を注ごうとなさって私たちの所に来ておられるのです。この地上の全ての人間の営みの中に神の愛の炎を投ずるために、地上での人間のありのままの全てを受け止めて、そこで生きている私たちの心に、神の愛の炎を点火してくださろうとしているのです。
   
               2024年2月1日
 




「隣人への愛の力はどこから?」Ⅲ
 
                      
大宮 陸孝 牧師    


 「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
              Ⅰヨハネの手紙3章16節

 新しい年を迎えました。子供たちにとっては年度最後の学期です。昨年の秋頃から、全国各地の住宅地にクマが出没し、人に危害を与える事件が相次いでいます。「一戸建て 手が出る土地は クマも出る」との川柳がありました。世界のあちこちで戦争が多発し、自然災害も拡大する一方です。人も動物も大変な時代を迎えて、苦しみが増大しています。バーンアウトシンドロームなどと言っていられない厳しい現実とどう向き合って行くのかを考えさせられます。

 この三学期には教会歴では、キリストの顕現を覚える時から受難節へと移行して行きます。キリストがいろいろな試練を受けてお苦しみになられたこと、そして、十字架につけられて、痛ましい死を遂げられたことを覚える期間を過ごします。

 余りにも純粋で献身的な「愛と真実」に生きられたキリストは、かえってユダヤ教の指導者階級に疎んじられ、信頼していた弟子たちにも裏切られ、見捨てられるという悲痛な体験をなさいます。自業自得でそうなったのではありません。それもこれも私たち人間の自己中心による罪のゆえでした。神に従わない、エゴイストである人間、その罪を一身に引き受けられ、人間に変わってその結果を負われて、さらに、罪深い私たちのために祈ってくださっている。これがキリストの「苦しみ」の意味です。

 十字架の苦しい息の下で祈られた祈りがあります。「父よ(神よ)彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23:34)この十字架上の苦しみと祈り、そこからこんこんと溢れ流れて来るのは、キリストの私たちへの激烈な愛です。このお苦しみの意味をわかろうとせず、無知で反抗ばかりしている自分勝手な私。この自分のためにも執り成しておられる愛と慈しみが、溢れるばかり私の心に注がれているのです。主の苦しみはそこに大切な意味がある、測り知れない神の深い愛と慈しみが、あの苦しみに宿されているのです。

 そしてこの十字架に示された神の愛、キリストの愛に新しい命の力をいただいてあなた方も互いに愛し合うようにと勧告されます。

 「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12~13)

 私たちはこの世界の人間の罪の苦しみから逃れる道はありません。「生」と「苦」、それは実に生きることの表裏一体の関係なのです。しかし、その苦しみは意味の無い苦しみであろうか。神の愛に生きる者は、この神からの新しい創造のエネルギーをいただいて、この世の苦しみに燃え尽きることなく耐え、新しい命の実を結ぶのです。キリストの愛の御手にしっかり繋がっていることが大切です。そうすると不毛な大地と思われる私たちの現実の中で知らない間に愛の実が結ぶのです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)

 教会とキリストというぶどうの木に、枝となって結びついているならば、この幹から溢れてくる神の命の水に養われて、愛の実が結ばれるのです。汲めども尽きない命の源、キリストという幹につながっている所には、思いを超えた実が結ぶのです。お互いを思いやる心、忍耐強く、燃え尽きず仕え合う心が育って行くのです。
               2024年1月4日
            

 
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