「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』」
エレミヤ書6章16節
3月からの主題で、今回で3回目になります。前回は子どもにとっての一人でいることの重要さを考えて見ました。今回は大人にも一人でいることに重要な意味があることを考えて見たいと思います。
シンプルライフとよく言われています。端的に言えば、生活をシンプルにすること、そして充実させ、豊かで意味のある人生を歩んで行くことを目指すということでしょうか。シンプルライフとはまとめてみますと以下のようになるかと思います。
1.質素で、贅沢をしない生活をすること。
2.無駄のない生活をすること。
3.1本のしっかりした筋の通った生活を送ること。
4.何が最も大切なことなのかを知って、そのことに集中して生きること。
5.満ち足りた心をもっていること。
私たちの生活に多くの浪費がないかを点検し、金銭だけではなく、時間、食事、衣服、住居、家具、旅行、余暇等において、それはどこまで必要なのかを的確に判断していく必要がある、ということです。私たちは目で見るものを欲しくなり、ついつい追い求めてしまいます。それが無くても生きていけるものに、・・・やらなくてもいいことに心を煩わせ、しなくてもよい労苦をしてはいないか。実際、心を貧しくし、飢えてくると、余計なものをたくさん買ってしまうという傾向があります。「人はパンだけで生きるのではない」とは、「パンよりももっと大切なものがある。それに心を向けよ」ということです。簡素なライフスタイルの目的は、倹約し、蓄えることが目的なのではなく、本当の意味で豊かで、満ち足りた人生を送るということです。
マタイ福音書16章24節以下で「人はたとい全世界を手に入れても決して満足することはない。今、私たちに必要なものはもっと多くのものではなく、神と共に生きることを通して〈満ち足りる心〉をもって生きることだ」と言われます。また「必要なことは多くはない。いや1つだけです。」と言われます。その一つの必要なことというのは、神との新しい豊かな命に繋がって生きるということを言っているのです。
私たちは社会の中での毎日の仕事の忙しさの中でストレスが増大し緊張しています。そして、そのストレスを解放するために、更に多くのものを求めるようになるのです。その行き着く先は行き止まりです。つまり、本当の心のケアを忘れて生活しているのです。今、私たちに必要なことは、全能なる神と命の交わりを深めるために、生活を整えていくことです。私たちにとって、今、問題となるのは、神の前に一人で立つことです。私たちが神との深く親しい交わりを持つためには、次のような決断と訓練が必要になります。
1.生活を整理しなおす決断
2.静まる決断。沈黙し黙想する決断。
3.静謐を培う(魂の静まりを培う)という決断。
4.神に信頼し、人生を明け渡し、神の言葉に信頼し導かれるという決断です。
つまり、基本的にこの四つの条件が整うのが礼拝という場なのです。
「あなたたちの父アブラハム あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び 彼を祝福して子孫を増やした。」
イザヤ書51章2節
3月のお便りの続きです。子どもが一人でいることの重要な意味を考えると言うテーマで、今回はエリーズ・ボールディングの「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」 副題―孤独が子どもの創造性を育む―〈小泉文子訳〉を紹介します。
エリーズ・ボールディングは、ノルウェー・オスロ生まれの平和学者、社会学者で、アメリカ・ニュージャージー州在住で在りました。経済学者のケネス・E・ボールディングと結婚後5人の子どもを育てながら、平和研究に取り組み、1969年、ミシガン大学で社会学の博士号を取得、ダートマス大学の名誉教授。国際平和研究学会(IPRA)の事務局長、国際連合大学の理事などを務めました。20世紀後半の最も重要な平和運動家の独りとも言われる人物です。この名著を日本語に最初に翻訳したのが、日本の幼児教育の第一人者でもある小泉文子氏です。
否定的にしか論じられない"孤独"が実は子どもの内的成長には欠かせない必要なものであると著者は述べます。アイデンティティの認識、独創性、その他人間には一人でいる時にしか起こらないある種の内的な成長があるのだ、と著者は言います。寂しさや孤立というマイナスイメージのゆえに、子どもと結びつけて考えない孤独の、積極的な意味、"一人でいる時間"にもたらされる豊かな実りに気づかされます。
今のこどもは、内的な成長のために必要な『一人でいる時間』『自分と向かい合う時間』を確保できているだろうか。その時間は、外的世界と子どもの内なる世界とを意識的に一つに統合させ、予想も付かないような内的成長を告げる大切な時間(とき)なのだと、ボールディングは言います。この孤独は寂しい孤独なのではない。あくまで孤独(ひとり)で自らいる時間である。ケースバイケースと言うこともあろうかとは思いますが、両親やおとながスマホばかりいじっていて、子どもを一人にさせている時間は、ここで言う孤独(ひとり)ではない。それは寂しい孤独(こどく)であるということになるでしょう。
それとは対照的に、外界の世界に反応する事に多大なエネルギーを費やしていると、人間は刺激に溺れ、内面生活や、そこから生じる創造力、また、創造性の成長を阻止し、萎縮させることになるだろう、と著者は言います。その具体的な例として上げられるのがコンピューターであります。(スマホはまだ普及していなかった時代でした。)
「子どもの心は世界で最も肥沃な土地であり、知らず知らずのうちに蒔かれた種は、思いもよらない花を咲かせる」目に見えないものを洞察していくという心の動きが、人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かは言うまでもありません。後に、崇高なものを宿すかもしれない心の場所はひとりでいる時に作られて行くものだと改めて認識させられます。 以下次号
2024年4月1日
「ひとりでいる時も大切だよ」Ⅰ
大宮 陸孝 牧師
「あなたたちの父アブラハム あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び 彼を祝福して子孫を増やした。」
イザヤ書51章2節
昨年(2023年)10月に埼玉県の自民党県議団が、小学3年生以下の子どもだけで、公園で遊ばせたり留守番をさせたりすることを、子どもを放置する虐待行為とみなして禁止する、「埼玉県虐待禁止条例案を県議会に提出したところ、保護者などから「子育てをしている人の立場を理解していない」「現実的ではない」「子どもを一人で行動させることに制限をかけられるようでは日々の生活に支障をきたす」という声が多く寄せられ、この条例案は波紋を呼び、結局県議団は取り下げを決めました。
埼玉県の条例改正案に反対するオンラインサイトには、「ニユージーランドやアメリカの一部の州などでは、14歳以下の子どもだけで留守番させたり、大人の付き添いなしで公園で遊ばせたりすると「児童虐待だ」として通報されるというようなことがある。しかし、その国の治安や、チャイルドシッターの普及率の高さ、またそれに関わる金額の違い、そもそも行政サポートが圧倒的に充実しているなど、背景が日本と大きく異なっています」とあります。
福祉が充実しているドイツなどはどうなのかをさらに見てみますと、「子どもは未熟な存在」と考え、大人(保護者を含む)が監護義務を負うというのが基本的な考え方で、この監護(アウフジッヒトシュプフリッヒト)という言葉は日常生活でもよく使われているということです。「子どもが自分自身や他人に対して危険な行為をしないための責任は大人にある」という共通認識があるために、基本的に子どもが幼稚園や学校に通っている以外の時間帯については保護者が監護義務を負うということです。但し罰則規定はありません。あくまでも保護者が主体的な自覚を持って子どもを監護して行くという原則です。
同じ年齢であっても、「独りにしておくと危険な事をする傾向のある子ども」と「そうでない子ども」がいるので、その人格や成長過程によって、親が臨機応変に対応することは許されているけれども、ドイツでは「ひとりで行動する子ども」について、親に対して厳しい視線が注がれているようです。ただし、ドイツでは福祉全般で手厚い公的な支援がなされていることを見逃してはならないでしょう。
それで、私は上記したように、子どもがひとりでいる時には、大人の配慮が必要であることをふまえた上で、信仰という面においては、大人も子どもも共通して、ひとりでいることには重要な意味があるということを、二人の人の著書を紹介しつつ考えて見たいと思うのです。そのひとりはエリーズ・ボールディングの「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」と、もうひとりはディートリッヒ・ボンヘッファーで、その著書「共に生きる生活」です。
以下次号
2024年3月1日
「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母親を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」
マタイ福音書2章19節~23節
外国の人が日本の家屋をウサギ小屋だと揶揄するという話しを時折聞きますが、これは、もともとは、1970年代の公団中心の住宅事情を自嘲して「ウサギ小屋」と呼んだのが最初で、日本発の言葉であったようです。当時の公団住宅は今でもその大半が残っていますが、2K、3Kで、30~45㎡程度が一般的で、全間取りが公団規格サイズ、畳1畳も団地サイズで、小さくなっていて、「まるでウサギ小屋に詰め込まれたようだ」ということから「うさぎ小屋」という言葉が広まったということです。
欧米、特に大陸ではマンションや団地でも80~100㎡以上の住宅が一般的であることから、中には日本の住宅事情をウサギ小屋という人もいるでしょうけれども、少子化が進んで今のマンションや新しい公団は80㎡以上の住宅も増えていますから、あえて日本の住宅がウサギ小屋だという人はいなくなってきています。今、戦争や災害によって、難民、避難民の住宅問題が恒常化しています。その規模はイエスの時代と比較にならないほど拡大し、命が危険にさらされていると言っても過言ではありません。
私は1月29日に78歳の誕生日を迎えました。78年前に生まれたのは、中国の大連で敗戦後の混乱のただ中にあり、逆子でおまけに首にへその緒が巻き付き、身体が紫色になり、戒厳令がしかれている町中を走り回って近所に住む産婆さんを見つけてきて、あわやの危機状態をなんとか脱出できたと言うことでした。それから一年も経たないうちに今度は、日本への引き上げの大きな試練が待っておりました。日ごとの食べ物にも事欠く状況の中、栄養失調でなんとか息をしているような状態だったと聞いています。残留孤児となる可能性もありました。しかし、中国に残してどうなってしまうか分からない、それよりも途中で死んでもその方が納得出来るからと、連れて帰る決断をしたと母親は言います。このような悲劇の発端に何があったのかと言いますと、経済的な豊かさが人生の幸せの保証であるかのように、「富国強兵」のスローガンのもとに夢中になって富を求めて、国を挙げて中国に侵略して行ったことがあったのです。しかし、それは人間の真のしあわせにはつながらなかった。
人間が自分を世界の中心に据えようとするエゴイズムは世界を不幸のどん底に突き落とします。神は、人間の最大の、人間がどうしてもそこから救われなければならない根源的な悪、それを人間のエゴイズムの中に見ています。そしてその人間のエゴイズムが渦巻いている悲劇の真ん中に自ら下りて来られます。上記した聖句がその箇所です。マリアとヨセフの庇護のもとに生まれたイエスはその誕生の時から、人間のエゴイズムの嵐の危機の中でそれに翻弄されるようにして避難生活を続け、辿り着いた所はナザレの田舎町でした。そして、そこでも貧しさが底をついた生活を送っていくのです。
幸せの原点に富や経済的な豊かさだけを置いて自分だけ豊かになることを考え、その価値観によって紛争や戦争を起こし、逆に世界を崩壊の危機にさらしている、その人間の生き方の価値観のゆがみは必ず私たちの具体的な生活の中に深刻な陰を落として行く事になります。それは必ず人間の一番弱い部分に現れます。そして、自らを守ることの出来ない子どもの心にひずみを与えて行く事になります。それがまた家庭へ、社会へ、さらには次世代の世界へと広がって行くものでもあります。ここでもう一度、人間の価値や生き方、人間の尊厳を見直すべきであると思います。
人間はお互い同士が神から与えられた命であるという自覚、これはマリアにとってもヨセフにとっても、そしてまた、イエスにとっても、何よりも明らかなことでありました。お互いの命と人生は神に向かったものであるということをはっきりと自覚していました。その心は、お互いのために真心から仕え合う、支え合う、生かし合うという、根本的な神の愛の光に照らし出されたものであったということです。
イエスは、この地上に深く深く染みついて人間を支配してしまっているエゴイズム、そのようにしか生きられない人間の現実の中に、神の愛の息吹を注ごうとなさって私たちの所に来ておられるのです。この地上の全ての人間の営みの中に神の愛の炎を投ずるために、地上での人間のありのままの全てを受け止めて、そこで生きている私たちの心に、神の愛の炎を点火してくださろうとしているのです。
2024年2月1日
「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
Ⅰヨハネの手紙3章16節
新しい年を迎えました。子供たちにとっては年度最後の学期です。昨年の秋頃から、全国各地の住宅地にクマが出没し、人に危害を与える事件が相次いでいます。「一戸建て 手が出る土地は クマも出る」との川柳がありました。世界のあちこちで戦争が多発し、自然災害も拡大する一方です。人も動物も大変な時代を迎えて、苦しみが増大しています。バーンアウトシンドロームなどと言っていられない厳しい現実とどう向き合って行くのかを考えさせられます。
この三学期には教会歴では、キリストの顕現を覚える時から受難節へと移行して行きます。キリストがいろいろな試練を受けてお苦しみになられたこと、そして、十字架につけられて、痛ましい死を遂げられたことを覚える期間を過ごします。
余りにも純粋で献身的な「愛と真実」に生きられたキリストは、かえってユダヤ教の指導者階級に疎んじられ、信頼していた弟子たちにも裏切られ、見捨てられるという悲痛な体験をなさいます。自業自得でそうなったのではありません。それもこれも私たち人間の自己中心による罪のゆえでした。神に従わない、エゴイストである人間、その罪を一身に引き受けられ、人間に変わってその結果を負われて、さらに、罪深い私たちのために祈ってくださっている。これがキリストの「苦しみ」の意味です。
十字架の苦しい息の下で祈られた祈りがあります。「父よ(神よ)彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23:34)この十字架上の苦しみと祈り、そこからこんこんと溢れ流れて来るのは、キリストの私たちへの激烈な愛です。このお苦しみの意味をわかろうとせず、無知で反抗ばかりしている自分勝手な私。この自分のためにも執り成しておられる愛と慈しみが、溢れるばかり私の心に注がれているのです。主の苦しみはそこに大切な意味がある、測り知れない神の深い愛と慈しみが、あの苦しみに宿されているのです。
そしてこの十字架に示された神の愛、キリストの愛に新しい命の力をいただいてあなた方も互いに愛し合うようにと勧告されます。
「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12~13)
私たちはこの世界の人間の罪の苦しみから逃れる道はありません。「生」と「苦」、それは実に生きることの表裏一体の関係なのです。しかし、その苦しみは意味の無い苦しみであろうか。神の愛に生きる者は、この神からの新しい創造のエネルギーをいただいて、この世の苦しみに燃え尽きることなく耐え、新しい命の実を結ぶのです。キリストの愛の御手にしっかり繋がっていることが大切です。そうすると不毛な大地と思われる私たちの現実の中で知らない間に愛の実が結ぶのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)
教会とキリストというぶどうの木に、枝となって結びついているならば、この幹から溢れてくる神の命の水に養われて、愛の実が結ばれるのです。汲めども尽きない命の源、キリストという幹につながっている所には、思いを超えた実が結ぶのです。お互いを思いやる心、忍耐強く、燃え尽きず仕え合う心が育って行くのです。
2024年1月4日