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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

 ルターの紋章日本福音ルーテル賀茂川教会  

牧師メッセージバックナンバーpastor'S message


          
          心を養う食べ物    

                      
大宮 陸孝 牧師    

              
 「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に帰りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」
       (旧約聖書エゼキエル書3章1節~3節)

 紀元前のイスラエルの民の歴史を導く指導者の役割を担ったのは、神の言を人々に語る預言者でありました。預言者とは、神の言を神から託され、それを人々に伝える者という意味です。旧約聖書にはその預言者の多くの「召命記事」が記されています。そして、神とその預言者との決定的な出会いが、その人の生涯を最後まで決定することが証しされています。前回に話しましたサムエルもその預言者の一人です。

 冒頭に記しましたのは預言者エゼキエルの召命の記事からの引用です。エゼキエルは、第一回のバビロン捕囚(紀元前597年)で国が破れ、主な指導者がバビロンに捕らえ移されるという破局の中で、それから5年後に捕らえ移されたケバル川の河畔で幻を見ます。神からの一方的な介入に圧倒されるという形で預言者として立てられて行きます。

 天が開かれるというのがエゼキエルの原点でした。旧約聖書では"天が開かれる"というのは、苦しんでいる者の最大の救いであるとされていました。(詩編18:10)エゼキエルはその「天が開かれる」経験をしたのですが、開かれたのは、天だけではなく、同時にエゼキエルの口が開かれるという経験が記されています。この時の神の命令は、口を開いて、神の与えてくださる「巻物を食べる」ということでした。表現としては強烈な印象を与える行為です。「巻物を胃袋に入れ、腹を満たす」とも言い換えられています。つまり、この表現は巻物に記されている神の言を、ただ読んで理解するだけではなく、その内容を噛み砕いて、自分自身の本当の栄養にすることです。ヘブライ語の「食べる」とは

、そのような意味を持っています。ですから、ここで「食べる」という言葉が何度も繰り返されているのです。エゼキエルは、神の言葉を聞き流した人ではなく、文字通り「食べた」預言者でした。

 神から食べるように言われた巻物には、救いや喜びの言葉ではなく、「哀しみの歌と、呻きと、嘆きの言葉」が記されていました。(2章10節)おそらくそこにはイスラエルがバビロン捕囚に陥った数々の困難・混乱そして、人々の苦悩が書かれていたと同時に、そうした中での人々の神への反逆の罪が列挙され、いかにイスラエルが「反逆の家」であったか、また今もそうであるかが書かれていたと想像されます。捕囚の困難が始まったばかりのイスラエルの人々にとって、それは読みたくもない、そして聞きたくもない言葉でした。しかし、神はその嘆きの言葉をあえてエゼキエルに「食べさせ」、それをイスラエルの人々に知らせようとしたのです。このことはエゼキエルにとっても厳しく辛いことであったに違いありません。

 そして、聖書はここに不思議なことを告げています。それは、その読むにも辛い巻物の言葉は、エゼキエルが食べてみると、「それは蜜のように口に甘かった」(3章3節)というのです。ここに神の言葉の不思議さが明確に証しされています。厳しく辛い言葉とは、わたしたちの現実を鋭くついた言葉のことです。その意味で聖書の言葉は「厳しい」言葉といえます。聖書を読む生活とは、決して現実から逃避することではなく、むしろ現実をありのまま見つめ、その中を深く生きることだということです。神がエゼキエルに差し出した巻物には「嘆きの言葉」が記されていたにもかかわらず、それはエゼキエルにとっては「蜜のように甘かった」のです。

 問題はやはり、巻物(=聖書=神の言)を、ただ字面だけを追って読むということではなく、その言葉を噛み砕き、それを「食べる」かどうかです。わたしたちの現実のただ中で読むかどうかです。その時、「嘆きの言葉」は「蜜のように甘く」人間の心を喜び躍らせるものに変えられていく、つまり生きる力になっていく、そのことを神は約束されているのです。その約束が本当に実現したのは、それからおよそ600年後のイエスという救い主の到来によってでした。

 「聖書に生きた人はみな聖書を読み捨てたのではなく、食べ噛み砕いて生きた。聖書は読むものではない。食べるものだ」これは若くして亡くなった旧約聖書学者左近淑氏の言葉です。

                      2021年9月1日



            祈  り  Ⅱ    

                      
大宮 陸孝 牧師    

               
 「サムエルは民に言った。『恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後はそれることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるのだからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すような事は決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を恐れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。』」(サムエル記上12章20節~24節)

 エジプトから解放されたイスラエルの民はその後モーセに率いられ40年ほどシナイの荒野を放浪した後、ヨルダン川を渡って約束の地イスラエルに入ってゆきます。そこで部族毎に入植して次第に定住生活を確立してゆく訳ですが、国家はまだ成立していません。誰が彼らを治めたのかといいますと部族毎の長十二人と十一人の士師たちでした。士師とは言うなれば司法官といった意味です。

 そうこうしているうちに時は過ぎ、しばしば外国の列強国の侵略に苦しめられ、イスラエルは滅亡の危機にさらされます。それが王というものが登場するいきさつとなり、王を任命する役割を担ったのが、預言者サムエルです。

 幼い頃神殿司に預けられ、そこで預言者として召命を受けたサムエルの生涯にわたる使命は神の民をはじめ、あらゆる人々に神の言葉を伝え導くこと、そして王を選び出し即位させ、その王を神の言葉によって指導していくことでありました。それは大変な困難を伴う仕事でした。この使命遂行に当たって重要なことは、サムエルは王としてのあるべき資質をどのように考えていたかということです。

この点に関して、サムエル記を読んでゆきますと三つのことが浮かび上がってきます。

①王となるべき人格的資質の第一は神との関係ということ。王の選びは一般的人間的評価によらないこと、わかりやすくいうと彼が神を恐れるかあるいは人を恐れるかの二者択一にあるということ、神さまとの正しい関係を問われたのです。

②王となるべき人格的資質の第二は対人関係です。神を恐れることはそれは対人関係に投影されてゆくものだということです。「神との真実なつながりはそのまま人との真実なつながりとなってゆく」ということです。

③王となるべき人格的資質の第三は対自分の関係です。自分を自分とする事はどこで成立するのか。それは神を神として恐れる事だというのです。神の前に自分を相対化しへりくだることができるかということです。人間は欠けも失敗もあります。神の御心から遠のいて、自分の欲望を満たすことに一生懸命になっている的外れな生き方をしているということもあります。その的外れを率直に認めて神を恐れる事へと方向転換できるか。神の憐れみに自分を委ねていくことができるかということです。健全な魂とはこの三つが備わっている霊的な人のことです。
 

                      2021年8月1日

          
 



             祈  り   

                      
大宮 陸孝 牧師    

               
  家庭や地域社会での人間関係をより健全にするには、どんなことでも率直に話し合い、コミュニケーションをはかる努力をする事が大切であると、聞いたことがあります。つまりタブーを作らず、虚心坦懐に何でも話し合う関係を作り上げていくことがより健全なコミュニティー(共に生きる共同体)には欠かせないということでしょう。

 主イエスは祈りを通して父なる神といつも内的な交流をはかり、信頼関係を築いておられました。その祈りが書かれているのが次の箇所です。

 「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびき軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびき軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」(マタイ11:25~30)

 主であるイエスさまは、貧しい人、弱い人、苦しんでいる人、悲しみの中を歩んでいる人、そういう人にこそ神の国(神の愛)は到来したのですからあなたがたは幸いなのです。とおっしゃったのですから当時の支配体制と正面からぶつかっていくことはやむを得ないものがあったのです。当時の人間が持っていた価値観を主イエスさまは真っ向から覆されたのです。

 知恵ある者、賢い者と自認している律法学者やファリサイ派の徒が何を言っても心配することはありません。その人たちには真理は隠されています。子である私だけが御父のご意志を知っているのです。だからあなたたちは安心していなさい。子どもが父親に全幅の信頼を寄せているように、私に信頼を寄せているあなたがたにこそ、神は真実をもって真理(愛)をお示しになるのだ。人間の世界から受けるあらゆる重圧に苦しんでいる人たちを、そこから解放することこそ神の御旨なのですよ。父なる神が本当の慈しみと恵とをお示しくださったことを感謝し、ほめたたえます。というのがここでのイエスさまのお祈りであったのです。

 私たちは相変わらず自分の力に頼り、自分の願いに流され、自分の意のままにならないことを抱え、焦り、苛立ち、あげくには希望を失い、生きる力も失い、自分の人生を否定的に見てしまうという循環に陥る危険があります。そんな時、顔を上に向け、私の命を無条件で赦し、受容し、肯定し、生かして下さっている神さまが私と共にいて下さることを思い起こしていただきたいのです。祈りとは神さまとの命のつながりを取り戻すことです。 

                      2021年6月26日

 

          
          十字架って何ですか   

                      
大宮 陸孝 牧師    

               
 今からおよそ3200年ほど前のこと、神さまがイスラエルの人たちに神さまを礼拝するための建物、施設を作るようにお命じになった話が、出エジプト記25章8節に記されています。

 「彼らにわたしのために聖所を作らせなさい。私が彼らの内に住むためである。」また同じ25章の22節には、「その所で私はあなたに会い、……イスラエルの人々のために、私が命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう」とあります。

 この時イスラエルの人たちは、つい最近までエジプトで奴隷のような生活をしていたのが、神さまの助けによってエジプトから脱出して来たばかりで、言うなれば解放奴隷の一群でした。

 まだ国土もない。住む家もない。移動式のテントで生活している。田畑山林も産業もない。政府もない。民衆を守る軍隊もない状態でしたが、神さまの恵みを覚えて礼拝することが最優先でしたから、神さまの御言に従って力一杯の努力で幕屋を建てました。幕屋とは、テント式、移動式の神殿で、転々と荒れ野を移動する彼らの居住地の真ん中に神の幕屋を建てて、神さまがいつも彼らと共にいるしるしとなりました。後に彼らがパレスチナに定住するようになり、りっぱな家に住むようになると、その彼らの努力で壮麗な神殿を造るようになりました。

 イエス様の時代になると、エルサレムの神殿は、ヘロデ王が国力を傾けて建てた贅沢で立派な神殿で、40年もかかっても細部はまだ完成していないというくらいのものでしたが、本当の礼拝の雰囲気、神さまの恵みを覚え、感謝し、祈ること、また神さまの御ことばに謙虚に耳を傾ける姿勢に欠けていました。立派である。整備されている。盛んである。賑やかに人が集まっている。しかし、祈りに欠けている。神さまの御ことばに傾聴する姿勢がありませんでした。

 今日では教会は大変シンプルに建てられ、そのシンボルは屋根の部分に十字架を建てるだけです。その十字架を仰いで、教会の十字架は、イエスという人が人間の救いのためにその罪を負われた身代わりの死をあらわしていると言います。

 そこまでは第3者でも言うことが出来ます。しかしよくよく考えてみますと、そのように言うことが出来るのは、イエスというお方が世のすべての人一人一人をこよなく愛して、共にいてくださり、私たちの神に逆らう的外れの生き方の結果起こってくる様々な問題と向き合い、その問題のしがらみを共に負ってくださったその延長線上に十字架が立っているからです。でなければ十字架はただの犠牲です。イエスの十字架の死で注目すべきなのは、その悲惨な死に方ではなくて、十字架を負うに至らざるを得なかったイエスの生き方です。十字架は、わたしたちの罪のための犠牲であるゆえに身代わりであるというよりは、人間の罪(神から離反しようとする的外れ)への神の徹底した寄り添いなのです。神さまが十字架に掛かられた真意は神さまの私たち一人一人への寄り添いです。十字架の主は今も私たち一人一人の苦しみを共に負っていてくださいます。それが十字架の意味です。


                      2021年5月8日



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