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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年礼拝説教


★2022.11.27 「目を覚ましていなさい」マタイ24:36-44
★2022.11.20 「神の命の祝福に与る」ルカ23:32-43
★2022.11.13  「神の愛と痛みと忍耐と」ルカ21:5-19
★2022.11.6 「豊かな~の命を生きる」マタイ5:1−12

「目を覚ましていなさい」マタイ24:36-44
2022.11.27 大宮 陸孝 牧師
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(マタイによる福音書24:42)
 本日は待降節第一主日で、新しい年度になります。本日のテーマは約束された救いの日(終わりの時)の到来を待ち望むということです。初代教会では、様々な予測や計算が行われ、浮き足だって熱狂的に終末を待望している人々は、自分自身の生き様を棚に上げて、自己抑制を失った病的熱狂主義にのめり込み日常の生活から離脱している人々がいました。その一方で、そういうことには全く何の関心も持たずに日常生活に没頭している人たちもいました。その人たちに対して主イエスは「目をさましていなさい」との御言葉を語られています。日常生活から離脱している人たちも、堅実な日常の営みに没頭している人にも「目を醒ましていなさい」と勧めることが本日の日課の眼目です。

 わたしたちはこの言葉に立ち止まって、一人の人の来臨にかくも期待を掛けた終末待望の意味を考えて見たいと思います。36節「その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも、子も知らない。ただ父だけがご存知である。」ここで「その日、その時」と言われているのは、終末の日、最後の審判の時、キリストの再臨の日時のことです。その特定の日時については、ただ父なる神だけがこれをお決めになるのだと主イエスは明確に語っておられます。ここに言われる 「子」とは、神の御子なるイエスのことであることが定冠詞がついていることから判ります。35節の「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」という宣言には「神の言」に比肩する重さが与えられていますが、この終わりの「時」については、父なる神だけがご存知だとされています。その限りで、「子」には父に対して従属的位置が与えられているということになります。

 この終わりの時について、そのような日時をあたかも知っているかのように振る舞う人々がいます。もう過ぎてしまいましたが、それは1999年の7月であるとか、ものみの塔(エホバの証人ともいいますが)では1914年がそのときであると人々に告げて、人心を欺いていたこともありました。しかし主イエスははっきりと「その日、その時は、だれも知らない」と語っておられます。たとえ天使であっても、また子である主イエスであっても関与しないのだ、ということがここでは明確にされています。ただ神のみが知っておられる事柄なのです。天使たちも子も知らないといわれているそれをあたかも自分たちが知っているかのように考えるのは傲慢としか言いようがありません。

 世界が困難な壁に突き当たり、逼塞(ひっそく)状態に陥った場合、現代の人たちの発想としては、衆知を集めて協議し、互いに力を合わせて難局を乗り切ろうと計るのがわたしたち国際社会の常識であろうと思いますが、他方で一人のカリスマ的人物の登場によって困難を乗り切ろうとする企てもあり、それが世界の致命的な破局をもたらす怖れも出て来ていることから、この種の英雄待望論に対しては、国際社会は極めて懐疑的で、冷静で理性的な各人の判断と自己抑制をより重要視する流れになって来ています。そうだとすれば、福音書が語る待望論が英雄待望論とどう違うのか、その本質的相違を確認しておくことは、緊急にして不可欠の課題であろうと思います。

 イスラエルの歴史を遡ってみますと、モーセの指導下に行われた出エジプトを手始めとして、イスラエルの民が陥った絶望的困窮の中から、民はヤハウェなる神による奇跡的救出の出来事を繰り返し経験して来ました。ですから、イエスの時代にも今までと全く同じように、前途の全く見通しのない逼塞(ひっそく)状態からの救済者として、メシアの到来を民衆が待ち望んだのは当然といえば当然のことだったと言えます。そして、だからこそ、にせ預言者やにせキリストが現れて、民を惑わす事態に対する警告を、繰り返す必要があったのです。しかしながら、問題は、このユダヤ教的メシア待望と、キリストの来臨に対する待ち望みの間には、大変重大な質的相違があったという点に注目しなければなりません。その違いは、ユダヤ教的メシア待望においては、ユダヤ教徒という民族共同体の救いが希求されていたのに対して、キリストの来臨に於いては、ユダヤ教的な民族的救済論は放棄されて、救いは各人の選びの問題として捉え直され、そして「選び」とは、救いへ、そして滅びへの二方向へと選別されると同時に裁きでもあったということです。

 こういうわけで、福音書の語るメシア待望は、単なる救いへの展望だけではなく、審判の警告をも伴うものとなったことを次の節にて語るのです。37〜39節 前記しましたように、ユダヤ教的メシア待望論は、ユダヤ民族の救いの到来を待望することを根幹とするものでありましたが、ここでは審判と滅びが警告されている点に、決定的な質的相違があります。ノアのとき大洪水が襲来して、あらゆる生命を絶滅させたように、人の子の来臨も恐るべき審判として臨むとすれば、ユダヤ教徒全体の救いという視点は、放棄されていることになります。ただ選びに与った人々だけが、救いに与ることになります。そしてノアが箱船に入った時まで、世の人々が飲み食いや結婚という日常的生活の中にのめり込み、この世の生活の充足にのみ気を取られて、神よりの「時」の到来に気付かなかったように、来たるべき選別の時にも、不意を突かれて滅びに至ることがないように、との警告がさらに続いているのです。突然に終末がやって来てすべての人が裁きの座につくことになるのだから、あなた方は終末がいつ来るにしても、備えをしていなさいというのです。

 旧約聖書の創世記六章以下に出てくる、あのノアの洪水の例を挙げて、人の子、キリストの再臨がいつ起こるのかはまったく予測出来ないことが説明されます。ノアは洪水がやがて起こることを声を大にして当時の人々に訴えましたが、人々はそれを聞く耳を持ちませんでした。最後の最後まで、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりするような日常生活を継続していて、いよいよ洪水が実際に起こるまで、そのような日常生活が断ち切られることを全く気付きませんでした。日常性に気を取られて、日常性を超えたことに対しては全く関心を持とうとしなかったノアの時代の人々の姿は、あるいは今日のわたしたちの姿でもあるのだということです。わたしたちにとってもめとったり嫁いだりする日常性の継続の方が、神の国のことよりも一層、大切なことのように思われ、神の国を後回しにする当然の口実としているのではないだろうか。そのわたしたちの日常性を断絶させるような出来事が全く思いがけなく起こった、それがノアの洪水というできごとだった。「人の子の再来の時にもこのようである」と主イエスは言われるのです。

 40〜41節 ここでは、共同の作業をしている日常生活において結ばれているパートナー、いわゆるこの世俗の共同体の家族の絆の中にある人々の間に、思いもよらない選別のメスが入り、以後各人は全く別の世界に分けられてゆくということが語られています。あらゆる共同体の枠組みが解体させられ、救いは全くの「個の選び」になっていくというのです。それでは、今まで「神の民」として歩んできたイスラエルの統一は廃棄され、純然とした個人主義がこれに代わるということなのかといいますと、少し前の31節では、すでに選びに与った人々の再結集について語られていますので、これは単なる個人的救済論ではなく、全く新しい「神の民」の再構成が、約束されていると見るべきでしょう。この世の共同体の日常性は決してそのまま神の国へとつながって行くものではなくて、神の国は全く新しく創られた新しい世界の秩序であるということです。新しい天と新しい地の創造なのです。しかもそれは、神の業として成し遂げられるというのです。ここでは、古い天地に残る者と、新しい天地に入る者とが分別されるというのです。そうであるならば、わたしたちは全く受け身の立場に置かれることになります。そこでわたしたち人間のなすべきことは何であるのか。この問いに対する答えが次の42節です。

 42節 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」マタイはこの節を、審判の到来ということを特に強調するために、ノアの故事をここに結びつけているのです。「目を覚ましている」とは具体的にはどうすることなのか、その内容を、マタイは25章の終わりに至るまで、言葉を重ねて詳しく説明していくのです。

 キリストの再臨が一体いつの日に起こるのかはわたしたちには、全く予測が付かない事柄であるので、いつどのような時にそれが起こったとしても決してうろたえて、慌てるようなことにならないように「絶えず目を覚ましていなさい」と主は勧められます。ここではキリストの再臨は家の主人が帰って来ることにたとえられています。当時の人々には理解しやすい状況だったのでしょう。召使いたちが、家の主人がどこかに出かけて行って留守をしている間に、ついつい気を許して、まだまだ主人は帰って来ないだろうと安心して昼寝などをして羽目をはずしていたところ、思いがけなく主人のお帰りとなって大慌てをするといった状況を考えますと、キリストの再臨に際してはそのような失態をしないように目を覚まして準備を怠らないようにしなさいというのは理解しやすい事柄であったのでしょう。

 43〜44節 メシアの到来が、ノアの洪水の襲来に関連づけられていることは衝撃的でありますが、さらにここで泥棒の侵入になぞらえられているのも、意表を突く意外な類比であります。これは神の審判ということを極限まで強調しているということです。そして盗賊から家を守るために、起きて目覚めているということは、事実としてはわかりやすい表現ではありますが、これが指し示す霊的な内容はどういうことかという点は、明瞭ではありません。この関連で思い起こしますのは、イエスが十字架へ赴く前夜、ゲッセマネの園で一人祈られたとき、眠りこける三人の弟子たちに向かって、「目を覚まして祈っていなさい」と言われた記事を思い起こします(26・41)。目を覚ますということの具体的な内容として、祈るということが、ここでも当然含まれると見てよいと思います。またそのほか、「他の人々のように眠っていないで、目を覚まして慎んでいよう」(一テサロニケ5・6)。「目を覚ましていなさい。信仰に立ちなさい」(一コリント16・13)など、パウロの手紙の中でも、同じ勧めが繰り返されています。初代の信徒に共通する問題の自覚が示されているのです。

 結論を申し上げます。主イエス・キリストが再びわたしたちの所に来られるのを、わたしたちが迎える心の準備をすることは、まだ来ていない未来の一点だけの問題ではなくて、信仰を持って今を生きるわたしたちの一日一日の生きざまにかかわる事柄なのだということをここで明瞭にしているのです。日常性の中に埋没しがちなわたしたちです。主の再臨の日に向かって、日ごとに目をさまして信仰の歩みを歩んで行く者になる、それが聖徒(神のもの)とされるということです。主イエスは御言葉をもってわたしたちを日ごとに励まし導こうとしてくださっているのです。

 お祈りいたします。

 かつて来られ、また再びおいでになる主イエス・キリストの父なる神様。過ぐる一週間のわたしたちの歩みは、たどたどしい多くの誤りと罪に満ちたものでありましたが、あなたはこのようなわたしたちを憐れみ、主の日にあなたの御前に集めて、礼拝を捧げ、御言葉の糧をもって霊の渇きを癒やし、慰めと希望とを与えてくださいましたことを心から感謝いたします。日常の生活の営みの中にどっぷりとつかりきって、何が大切か、何が大切でないかについての判断をすることさえも出来ないで、神の国にかかわるよりもこの世の国にかかわることの方が大切であるかのように錯覚をして、めとり、嫁ぎ、飲み食いして箱船に入る機会を失ってしまうような愚かなわたしたちですが、あなたはこのようなわたしたちに御言葉を通して「目を覚ましていなさい」と諭し、キリストの日に向かって、心の備えをさせてくださいますことを感謝致します。どうか一日一日をあなたの救いの恵みを新たに受け止めて、喜びと感謝のうちにあなたの愛に応える生活をして行く者とならせてください。わたしたちの群れにあって、病の戦い、生活の苦闘、、家族の看取りのための配慮に心身を労しております一人一人を、あなたが慰め、力づけてください。教会があなたの救いの御業の器として用いられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「神の命の祝福に与る」ルカ23:32-43
2022.11.20 大宮 陸孝 牧師
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書21:34)
 ルカ福音書23章26節からは新共同訳の小見出しは「十字架につけられる」という見出しで、長く43節までを一括しております。大きく三つに分けられます。十字架への道(26〜31節)、あざけられる十字架上のイエス(32〜43節)、そしてイエスの死(44〜49節)です。本日の日課部分を理解する上で、まず、この部分全体にかかる三つの諸点を確認しておくことが重要であろうかと思います。

 第一は、ここでの主イエスの十字架の出来事、またその意味が、この十字架の出来事に関わる周囲の人々の姿を通して明らかにされていくことです。シモンに十字架を負わせ、主イエスを十字架につけ、その服をくじで引いて分け合う「人々」(26、33、34節)、主イエスをあざ笑うユダヤの「議員たち」(35節)、それに「ローマの兵士たち」(36節)、兵士たちに混じって、「嘆き悲しむ婦人たち」(27、49節)、と十字架を「立って見つめ」、やがて「胸を打ちながら」帰って行った「民衆」「群衆」(35、48節)の印象深い姿を通して読む者に迫ってくるものがあります。

 第二の点はユダヤ社会の中心ではなく周辺にいた、またはその外にいた人々の中に、主イエスへの同情や正しい認識が見られることです。「シモンというキレネ人」(26節)、「二人の犯罪人のうちの一人」(40節)、「百人隊長」(47節)を挙げることができます。

 第三の点は、十字架の出来事の意味の一端は、なるほど周辺の人々によって明らかにされていますが、イエスとは誰か、それを決定的に明らかにするイエス自身の言葉と行為もまた、ここに印象深く伝えられています。28〜31節のイエスの言葉は、イエスがなお預言者としての役割を果たしていることを示していますし、十字架から語られる執り成し(34節)、一人の犯罪人にかけられた約束の言葉(43節)は、ここまでの福音書の記述と変わらす、イエスをキリストとして明らかにしています。この箇所で「神」(35、40、47節)、「父」(34、46節)という言葉が何度も用いられていることは、一つ一つの事柄が詩編やイザヤ書との関連の中で語られていることと併せて、イエスの十字架の死が神の救いの計画の中に位置づけられていることを示しています。

 32節「二人の犯罪人」についてルカは「犯罪人」と呼んでいますが、マルコは彼らを「強盗」と呼んでいます(マルコ15・27)。しかしヨハネではこの点について詳しい説明がなされていません。彼らは死刑という極刑を受けるのですから、普通の犯罪人というより、むしろローマからの解放のために戦っていた「熱心党」の政治犯たちであったと思われます。彼らはユダヤ人でありました。なぜならユダヤ人でなければ、キリストと言う言葉を理解することはできなかったと思われます。イエスと一緒に彼らも十字架につけられたことは、「「罪人の一人に数えられた」というイザヤの預言をわたしたちに思い起こさせます。(イザヤ53・12、ルカ22・37)

 33節「イエスを十字架につけた」 人々はイエスを十字架につけ、他の二人をもイエスの右と左に同様に十字架につけます。十字架の刑がどのように執行されたかは、マルコ福音書15章14節以下に詳しく記されています。十字架の刑には、縛り付けと、釘づけとの二種類があり、イエスの場合は、復活後のイエスの言葉によって判りますように、釘づけの十字架刑でありました(ルカ24・39〜40)。死が苦痛を終わらせるまでには二四時間かかることがよくあったということです。この間、麻酔のかかったぶどう酒を囚人に与えるのを常としたようです。

 34節 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」この前半のイエスの祈りは、ルカにしか記されていません。「赦し」の言葉は、ルカの福音理解と一致しています(7・47〜50)。このイエスの祈りがステファノの殉教の祈り(使徒7・60)に反映していることは、この祈りがイエスの実際の祈りであったことの確かさを示しています。この祈りの言葉は主イエスの十字架上での七つの言葉の第一番目のもので、執り成しの祈りであります。十字架上の主イエスの眼前には、主イエスを十字架につけて、罵るローマの兵士たち、あざ笑う役人等、主イエスを悲惨な目に遭わせて苦しめている人々がいる。現在自分をこのような目に遭わせている人々を前にして、主イエスは彼らをおゆるしくださいと言われるのです。しかし主イエスはそれらの人々だけを指して、「彼ら」と言っておられるのではありません。主イエスを十字架につけた時実際に手を下した、十字架の主イエスの眼前にいる彼らでしたが、その背後には人間の罪があります。人は一瞬たりとも神を裏切る罪を犯さずにあることはできないほどに罪深い者です。その人間の罪の神に対する執り成しとして、主イエスは十字架にかからねばならなかったのです。つまり、「彼ら」とは、主イエスを実際に十字架につけた者だけではなく、神の御心が判らず、神に対して罪を犯しているわたしたち人間すべてを指しているということです(ローマ書7・16)。

 34節後半はこの出来事が神の御計画によることであることを示そうとしています。罪なくしてわたしたちの罪を負い十字架にかかってくださったイエス・キリスト、しかもその十字架の上から「彼らをお赦しください」と祈られたイエス・キリストこそが、この方のみが本当に神の前に、わたしたちの罪を負い、わたしたちが赦される道を備えてくださった方であり、それは、初めから神様の計画によってなされたことであると、次の「人々はくじ引いて、イエスの服を分け合った」と言う言葉で明らかにしているのです。

 死刑執行人は処刑された人が残した遺留品を処分する権利を持っていました。そこで刑の執行を命じられた兵卒たちは、十字架に釘づけにする前に、イエスを裸にし、着物を自分たちで分け合ったということですが、この記述はただ単に当時そのようなことが行われていたという史実を伝えようとしているのではなく、ルカはこのことの中に、詩編22編18節の成就を見ています。「『わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く』という聖書の言葉が成就するためで、兵卒たちはそのようにした」、つまり、主イエスの十字架の受難は旧約以来の神のご計画の中になされていることを証明したということです。

 35節 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」主イエスが十字架につけられるとき、そこにはいろいろな人たちがでてきます。1節には「群衆」が、彼らは恐らく何日か前にはイエスを「ホサナ、主のみ名によって来る方に祝福あれ」と熱狂的に叫んで、イエスを迎えた人の一部であったかもしれません。しかし、35節では、民衆は手の平を返したようにイエスを偽物だ、詐欺師だと訴えています。次に11節には「ローマの兵卒たち」が出て来て、群衆と一緒になってイエスを嘲笑しています。この群衆と兵卒たちの背後には4節と10節を見ますと、「祭司長たち、律法学者たち」がいました。彼らは宗教的な権力、あるいは政治的な権力を持っていました。彼らは自分たちが正しいのだという立場をとっています。さらには、その背後には3節と7節にはローマの総督とピラト、ユダヤ人の王ヘロデなどがいました。彼らは地上の、最高の軍事的、政治的権力・権威を一手に握って、自分は偉いのだという立場を取っています。これらの他に、ここには26節「キレネ人シモン」というアフリカから丁度エルサレムに来ていて、イエスの行列に行き会って、見物していた時、イエスが彼の前で倒れたために、イエスに代わって無理に十字架を背負わされた外国人も出て来ます。二七節にはイエスが捉えられたことを聞いて、悲しみ嘆く「アンナたち」の群れも出て来ます。このようにルカによる福音書23章には、権力に逆らっては生きてはいけないという考えのもとに、その命令のままに生きる者、あるいは無理に荷物を担がされる者、女たちのようにどうしようもなく涙を流して泣いている者といった具合に、罪の困窮の中にある人々の生き方の実相が実によく描かれています。

 人々はそれぞれの立場で、イエスの受難に立ち会い、民衆はイエスを見上げ、指導者たちはあざ笑い、兵卒たちは軽蔑し、二人の犯罪人たちの内の一人は、イエスに向かって冒涜の言葉をはき、もう一人は救われることを願っています。35節の「神のメシアで、選ばれた者」はイザヤ書42章1節の引用で、イエスが旧約聖書に預言されていたメシアであることを彼らは信じることはありませんでした。イエスのために用意された「酸いぶどう酒」これは、ローマ兵卒が飲むぶどう酒に水と卵を混ぜたポスカと呼ばれる大変強いもので、十字架刑に処せられる者ののどの渇きを大きくし、苦しみを長引かせるためにイエスに飲ませようとしたとも考えられます。そのような中でイエスは最後まで苦痛を堪え忍ばれます。それは、神の御心にしたがって人類のために苦しみ、杯を飲む決意をなさっておられたということでした。このように人々から拒絶される中で、十字架に掛けられたまま、ご自身がメシアであることを証ししておられるのです。

 「されこうべ」という場所で、人々は主イエスを十字架につけました。主イエスはそのままでいたら権威ある言葉と業とその愛によって歴史にその名を残し、多くの人に尊敬されたはずであったであろうと思うのです。にもかかわらず、このようなどん底でただ黙って、苦しまれ、見捨てられ、辱められ、そして十字架の死に追いやられたのでした。ここに登場している「彼ら」はなんという人たちでありましょうか。しかし無知で、無理解、高慢で不信仰、嫉妬と争い、不安、貪欲と悪意、愛に欠けた、そして、神への畏れすら失っている「彼ら」は、決してわたしたちと無縁な者ではありません。わたしたちはこの十字架のイエスという聖なる場所に立っている者の一人である、いや、イエスの十字架のかたわらにも寄りつくこともしないで無関心でいる点に於いて、「彼ら」よりも神との関係断絶の深い谷の淵にある者であると認識させられます。

 もはやわたしたちは神との断絶の深い淵を埋めて、自分たちの方から神との関係を修復することはできない絶望的な状況に立ち至っています。「自分で自分を救え」と語ったその呪いの言葉が自分たちに跳ね返って来ています。そのようなわたしたちを「思い出してください」と願っている42節の言葉は、旧約聖書時代からの言い回しで、これは「神の契約の交わりの中に置いてください」という神に向けられた祈りの言葉であります(士師記16・28、詩編115・12)神の方から断絶を超えて関係回復の橋渡しをしてくださることに一縷の望みを掛けているのです。

 そして、主イエスは43節で決定的な言葉を語られます。「あなたはきょうわたしと一緒に楽園にいる」ルカは主イエスが繰り返し語られる「きょう」という言葉を、ここ十字架の上でも記しています。ルカにとってイエスが語る「きょう」は神の支配の時、永遠の時の「きょう」を意味しています。罪に滅び行く人間の時の「きょう」ではありません。そしてまた、楽園は神の庭園、神の支配の場を意味します。十字架上で人間の罪の死を通り抜け、新しい命に復活なさった主イエスと共に在る今を生きることです。神との断絶の罪から解放され、神の愛の支配の中に在るという約束の言葉です。わたしはただただ罪人でありながら、主の命の祝福の約束に与る恵みに喜び打ち震え感謝するのみであります。

 お祈りいたします。

 天の父なる神様。イエス・キリストをわたしたちの罪の購い(あがない)のためにお遣わしくださったあなたの深い御愛を心から感謝いたします。わたしたちのあなたから離れ自分勝手に生きている罪と強情さがこうまでしなければならないほどに、どうしようもなく大きいことを改めて示され、ただただみ前に心砕かれます。わたしたちが自己中心を捨てて、あなたのこの御愛に心からお応えする感謝の生涯を送ることができますように、御言葉をもって導いてください。逃げ出したくなるような人生の試練の谷間にある時にも、最後まであなたの十字架の贖いによる救いを信じる信仰に留まり、その十字架に支えられて信仰の歩みを続けることができますように導いてください。特に病床に闘病の日々を送って折られる方々に慰めと癒やしをお与えください。

 十字架の主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「神の愛と痛みと忍耐と」ルカ21:5-19
2022.11.13 大宮 陸孝 牧師
「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」(ルカによる福音書21:19)
 主イエスが弟子たちを伴って、目指していたエルサレムに入られたことは、ルカ福音書では19章に伝えられています。ここからいよいよ受難の死と復活という主イエスの人々を救う本来の業が始まるのですが、その出来事の前に、エルサレム滅亡と世の終わりを示す「主イエスの小黙示録」と呼ばれる主イエスの預言が語られます。これはマタイ、マルコ、ルカ共感福音書に共通しています。ルカ福音書では、21章5節から38節がその部分に当たります。本日の日課はその前半部分です。

 わたしたちは、主イエスの受難と復活という出来事に最大の関心を持ち、福音書全体の中心と受け止めて主イエスによる救いの出来事に着目するのですが、その直前にこの小黙示録が伝えられていることにあまり注意を向けて来なかったように思います。この部分は「主イエスの公的宣教活動の最終的なまとめ」(あるいは別れの説教)に当たるものとして受け止められます。

 ルカ福音書では、主イエスのわたしたちの所に来られた救い主としての働きは、徹底して神様の天地創造から始まり、最終的に救いが成就する終末まで一貫して流れている時間の中で、その「時」の中心「神の救済の歴史の中心」に位置づけられています。つまり、わたしたちの実際の歴史の過去から現在そして未来にわたる歴史の中に、主イエスが救い主として来られた出来事が重要な位置を占めていて、そこから主イエス以前の神の歴史の意味が解明され、さらに主イエスの出来事以後に展開されている神の救いの歴史、つまり教会の歴史につながり、そしてさらに未来へとつながった歴史の中で意味をもっているものとして捉えて行かなければならないという壮大な神の救いの歴史を語ろうとしているのです。それが主イエスがなしてくださった救いの出来事の真の意味ですよと言っているのです。

 そういうことで、ルカ福音書21章に伝えられている小黙示録も内容的には、5〜7節が序文、8〜11節は週末の徴、12〜19節は弟子たちの迫害、これに続いて20〜24節はエルサレム滅亡、25〜28節は人の子の到来、29〜33節はいちじくの木のたとえ、34〜36節は目を覚ませとの警告で終わっています。それぞれの区分を超えて、これらの主イエスの語りかけは、これまでの行動も、この後にエルサレムで起こるであろう受難と復活の出来事も、歴史の終わりの救いの成就の出来事に方向付けられているのです。つまり、主イエスは十字架直前のここで、世界に向かって、そしてすべての時代の信仰者に向かって呼びかけられているのです。その内容は大きく分けて二つにまとめられます。一つは、エルサレム神殿が「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」という預言と、もう一つは「世の終わりは直ぐには来ない」という預言です。

 21章5節「ある人たち」は「神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していた」。これに対する、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることがない日が来る」との主イエスの預言者的な滅びの宣言は、ここに居合わせていた人々が、直前に登場している「有り余る中から献金した」「金持ち」たちであったとしたならば、宗教的指導者たちと同様に当時のユダヤ社会の秩序を堅持していることを自負していた人々であると見ることが出来ますが、これらの人々に終末的な信仰心があったかどうかは、はなはだ疑問であります。現状維持と現状肯定に心を労している者にとって、主イエスの終末的な言葉は受け入れられるものではなく、恐らく拒絶反応を起こしたであろうと推測されます。

 7節以降に「そこで彼らはイエスに尋ねた」と続いて行きます。弟子たちと明記されていない「彼ら」とはどういう人たちのことか、本日の日課で「わたしの名のために」(12節、17節)迫害され、「すべての人に憎まれる」ことが預言されていることを考え合わせると、「彼ら」とは、一般の市民ではなく、弟子たちへの言葉と理解されます。ルカが「弟子たち」と明記することを避けたのは、時下の弟子たちの事情を伝えようとしたのではなく、初代教会の信仰者たちを視野に入れていたと考えられます。

 主イエスの時代の前に「ユダヤ教黙示思想」が流布していました。この思想は神の民とされている自分たちがやがてメシアという王が到来し、激しく迫害されるただ中で敵対する諸力を圧倒的な力をもって打ち破り、神の民を中心にした秩序を樹立し、民はその支配の中に守られる、という信仰でした。ルカ福音書21章27節でも「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に載ってくるのを、人々は見る」とダニエル書が引用され共通した黙示的な表現を見ることができ、主イエスが度々ご自分のことを「人の子」と表現していることも、ご自身の働きをこの世界の歴史の中に見ておられることを示しています。

 しかし、主イエスはユダヤ教黙示思想と明確に一線を画しています。それは、世界の終わりを思わせるような大波乱を経て、栄光の中に自らがメシアだと名乗る者たちが登場しても「世の終わりは直ぐには来ない」ということです。この終末時に登場する預言されていた「人の子」に関しては、主イエスはすでに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9章21節〜22節)と、栄光の中に出現するのではなく苦難を受け、殺されるメシアであることを預言しているのです。これはユダヤ教の黙示思想を超えたものでした。

 主イエスは既にエルサレムに入られてから宮清めをなさいました。(19章45節〜48節)エルサレム神殿を中心にした民のあり方を根本的に正されたのです。そしてさらに破壊的と受け止められる神殿崩壊の預言をなさった。ユダヤ黙示思想の中には、大きな困難がメシア到来の前に起こることは受け入れられていましたが、その中に神殿さえも徹底的に破壊されてしまうということは含まれていませんでした。この衝撃的といってよい預言を直接聞いていた「ある人たち」は、自分たちの現状に問題を感じていない人々、「祭司長、律法学者、民の指導者たち」は、宮清めの後「イエスを殺そうと謀った」と伝えられていますが、さらに主イエスに強い殺意を抱いたことでしょう。しかし、主イエスはここで、ただ単に人間の築き挙げたユダヤ社会の一時代の栄枯盛衰を預言しているというのではなく、旧約時代のイスラエルの民を裁く預言者の伝統の上に立ち、さらにその厳しい裁きを終末的な視点にまで引き上げて信仰のあり方を語っておられるのです。

 主イエスの神殿崩壊預言に続いて七節以下に登場する「彼ら」は5節の「ある人たち」とは異なり、弟子たちを中心とした人々であろうと思われますが、福音書を記しているルカは同時代の教会の信仰者たちをこの中に位置づけていると見ることが出来ます。これらの人々の関心は、「そのことはいつ起こるのですか」ということであり、また「そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」でありました。これらの質問は確かに終末に起こる出来事に関わるものではありますが、いささか表面的な関心からの質問で、なによりも主イエスのこれまでの宣教活動とこれから主イエスに起こる出来事とが、どう結びつくのかという関心は見出すことができません。主イエスがメシアを預言された時にも(9章18〜20節)弟子たちは、圧倒的な力をもってメシアが到来するというユダヤ教の黙示思想の枠内にとどまって、自分たちの都合のいいように受け止めています。

 苦しみを受け殺されていくメシア預言は自分たちの都合で消し去り、圧倒的な力をもったメシアを待望する。このすべての時代の人々に共通して内在している期待、願望を主イエスは打ち砕かれたのです。もしも神殿が破壊されるようなことが現実に起こったら、それは神の民の崩壊であり、自分たちイスラエルの民の消滅である。主イエスはそのように預言しましたが、人々は「いつ」とか「どんな徴があるのか」を問うことはあっても、この主イエスの身に起こる深い意味での重大性、決定性そのものを受け止めることはできませんでした。

 マルコ福音書では、歴史的に紀元七〇年にエルサレム神殿がローマ帝国によって崩壊させられた歴史的出来事が終末的出来事と受け止められていたのに対して、ルカではそれは実際終末ではなく、なお歴史が続いている中で主イエスの意味を問うことに方向付けられて行くのです。11節の後半の「疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に表れる」という言葉は、エルサレム崩壊後にもさらに大きな出来事が起こることを予兆しています。

 現代に於いても大きな天変地異と思われる出来事が発生すると、「世の終わり」が取り沙汰されます。この場合の「世の終わり」は世界が大破局(カタストローフ)に襲われ、世界が破滅してしまうかもしれないという不安のことです。こういう不安現象は時代を超え、民族文化を超えて、しばしば起こっていることです。近年ではノストラダムスの預言がその一つと言えましょう。わたしたちは社会の中に起こる特定の出来事を世界の終わり・終末的出来事として喧伝する声を聞くことがあり、時に少なからず多くの人に影響力を及ぼすことがあります。

 マルコ福音書ではローマ帝国との緊張が高まりユダヤ社会とエルサレムが崩壊に向かっていることを、まさに終末に向かっていると受け止める人がいたと思われます。当時のユダヤ人一般にも黙示的な考え方が行き渡っていたので、エルサレムに主イエスと一緒に入った弟子たちの多くは、入場の歓喜を経験し、これまで見たことのない主イエスの宮清めの行動に驚き、そしてユダヤ教の伝統の中から生まれた黙示思想でもそこまでは語られていない、エルサレム神殿の完全な崩壊預言を聞くこととなったのです。その意味は、マルコでは世の終わりが今にでも到来する緊迫感をもって書かれていますけれども、一方ルカでは、マルコを踏襲しながらも終末が遅延している中で、信仰者がどのような姿勢で生きていくかが、喫緊の課題となっているということなのです。

 そこでわたしたちが考えなくてはならないことは、さまざまな地上に起こる災いはそれ自体神による最終的な出来事ではない、と主イエスが言われた意味です。天災であっても、人災であっても、それを運命論や宿命論で片付けてはならないという強烈な主イエスのメッセージを聞き取っていかなければなりません。わたしたちが運命論や宿命論から解放され、目を向けていかなければならないのは、その中になお働いている神の救いの業なのです。今ここで起こっているいろいろなこの世の事象の中で、不条理としか思えないようなこの世の罪の現実のただ中で、なお恵みの主に信頼して、「神の救いの御心がどのように注がれ働いているのか」その御心を尋ね求める信仰の歩みが重要なのです。

 19節には「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」とルカ特有の言葉で結ばれています。これをわたしは、地上に生きる信仰者一人一人に語りかけておられる主イエスの言葉として受け止めました。この小黙示録の直前で、名も無い貧しいやもめがすべてを捧げている姿を、主イエスが見ていてくださり、知っていてくださるように、主イエスはたとい困難に襲われていても神の命に生きようとするわたしたち信仰者一人一人を見ていてくださり、知っていてくださるのです。

 わたしたちは艱難の中に放置されているのではありません。神の救いの歴史の中でわたしたち一人一人は他の人に変わることが出来ない固有の命を与えられ、神の救いの働きの中に結ばれて、救いの完成がわたしの命において起こる、そういう神の救いの歴史の中で意味ある存在なのだと主イエスは見てくださっているのです。

 お祈り致します。

 わたしたちの創造主なる神様。地上の歴史の中で平和な時もあれば激動の時もあります。わたしたちはそのような中で木の葉のように揺れ動かされるほかない者のように見えますが、しかし、あなたに知られ、あなたはわたしたち一人一人をあなたの子として恵みと憐れみの内に導いていてくださいます。わたしたちがどのような事態に直面しても命の主であられるあなたが共にいてくださることを信じて、堪え忍び、自分自身の真の命を勝ち取ることができる、そのような約束を信じて、いつも主と共に生きることができますように、わたしたちに忍耐と勇気とを与えてください。

 わたしたちの主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。                     アーメン

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「豊かな~の命を生きる」マタイ5:1−12
2022.11.6 大宮 陸孝 牧師
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:3)
  今日の時代、自分の老いと死を思う時、家族や親族・そして隣人などにいつも大勢に囲まれて、~の恵みに活かされて来たことに感謝しつつこの世の生涯を終わりたいと誰しもが改めて思うのではないでしょうか。そのような時に思いますのは、主イエスが言われた「子供のように~の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というみ言葉です。主われを愛す、主われを愛すと歌いながら、幼子のように生きたということがやはりわたしたち信仰者には相応しいのではないかと思うのです。

 主イエスは未来を生きていく子どもたちを抱き上げて手を置いて祝福されましたが、それと同時に、そのご自分の祝福の手の元に、わたしたちをも、また、この世を去ろうとしている者をも、既にわたしたちの元を去って行った者をもすべてを招いていてくださる。どんなに歳を取っても、幼子のようにすべてをキリストに委ね、ただただ信頼して、その祝福の中に身を置く者、それを主イエス・キリストも、父なる~も心から喜んで受け入れてくださっているのです。

 わたしたち一人一人にこの世の人生の幕を閉じる最後の時が来る、しかし、その時、人間のその痛みに苛まれた(さいなまれた)肉体も含めて、その存在のすべてが、み子主イエスの手にもう一度受けとめられていることを、わたしたちが信じることができる。そこには確かに深い悲しみがあるけれども、それと同時に、安らかな思いで、主イエス・キリストの祝福の手の中で、痛みに耐えながら、悲しみに耐えながら、安らかに招かれている~の国へ入るのを待望する、それが、子どものように~の国を受け入れるということなのではないかと思うのです。

 わたしたちは主イエス・キリストの大きな祝福、確かな祝福のみ手の中に生を受け、しかしながら決して平坦な人生ではなかった、時には~を恨みたくもなる厳しい体験もして来た。しかし、それだけに、~の激しい愛をも知ることができたと、~の救いの恵みを明確に語ることもできるのだと思います。この世の罪の深刻な現実にも拘わらず、キリストの愛によって、その人生をどれほど慰められ、励まされ、力を与えられてきたことであろうかと思います。神さまのみ言葉がそのようにしてわたしたち一人一人の人生を支えてくださっていること、~の恵みがそのようにしてわたしたちの人生を勝利に導いてくださっていること、改めて~の祝福と深いなぐさめとがわたしたちの一人ひとりの人生のすべてに及んでいることに気づかされます。わたしたちの教会に連なる一人一人がそのように祝福されている群れであることがますます確かなものとなります。

 ルーテル教会の歴史は1517年に始まりました、改革者ルターの問いかけから始まっております。この改革者ルターが死んだのは、1546年の2月18日であります。ちょうど、ルターが亡くなりまして400年が経ちましたときに、ドイツの各地において、ルター没後400年の記念の催しがありました。その一つで、あるドイツの優れた神学者が説教をいたしました。その説教の最後の言葉を紹介します。「ルターの死はわたしたちに何を教えてくれているのであろうか。それは正しく死ぬこと、そして真実に生きること」。ただ生きるとか死ぬとかいうのではなくて、与えられた命を正しく生き、真実に生き、正しく死に、真実の死に方をするということは、容易ならないことであります。そして近年わたしたちが取り組み始めているのは死の備えをするということです。死の備えをする中で次第に明らかになって来ているのが、死の備えに真剣に取り組むことによって、本当に良く生きる、正しく生きる事ができるということです。死の備えと言うときにわたしが思い出しますことは、ローマ書6章3節のみことばです。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを」。

 洗礼を受けるということは、キリストとともに死にキリストとともに生きることである。洗礼を受けて以来わたしたちはどんな時にもひとりではなかった。イエス・キリストとともに生きることができ、そしてやがて死の瞬間が来た時にはキリストとともに死ぬ。死の瞬間にも主イエス・キリストの救いの御手にしっかりと捕まえられている。十字架の主と共に死に復活の主とともに復活する。18歳の時に洗礼を受けたことが既に高齢になった時の自分の死の備えになっていた。その意味から言いますと、わたしが信仰を与えられた時からの人生の中で、ずっとわたしの人生の伴侶として共にいてくださった恵みの主イエスから、~の愛と祝福をずっと受けていた、そしてその愛に生きることができたのだと、改めて思います。教会で一人の信仰者として生きる一番心の深い所で、~と向かい合い、自分の魂の奥深くに主イエスを迎え入れて、主イエスとの人格的な交わりの内に真実に生きることを求め続けていくことが一番大切なことであると思います。宗教改革者ルターは、生涯をかけてそのことをわたしたちに語ろうとしているのです。真実の信仰とはわたしたちを一人一人その永遠の命に繋いでくださるために、わたしたちに呼びかけ、救いの恵みの御手を差し伸べていてくださる~に全幅の信頼をおいて応答していくことであります。

 ルターはこの和解の福音に立ち、~に応答し、~の救いの働きに参与することによって、~のために生きる者へと変えられて行きましたが、それは、同時に同胞から迫害され、攻撃されることになりました。~の「憐れみ」「清さ」「平和」のために生きることによって同胞からの迫害を受ける、これは同じく~の人間の救いの働きに参与する者が、忍ばなければならないことでした。真の信仰とは選択であり、決断であります。ですから、信仰者は八方美人的に何に対しても「はい」「はい」と返事をするわけには行きません。~の御言葉に立つ、そこから人々の意見や要求に抵抗して、主の道を歩む場合も出て来ます。それによって非難や迫害が生じたとしましてもわたしたちは「人間に従うよりも、~に従うべきである」(使徒言行録5:29)と心を決して、その苦しみを忍んで、~の人間を救う働きに応答して行く、そのような人生を歩んでいくこと、すなわち「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことであると思います。

 ルターは~の名を呼ぶことを自分のよろこびとし、またそれを支えとして、~の名を呼び続けて生涯を終えた人です。そしてその生涯の間、聖書の御言葉をいつも仲立ちして語り、聴き、理解し、そこで~は生きておられると声高らかに証し続けたのです。わたしたちもルーテル教会に連なる者として、この幸いな~との深い絆の中で生きた信仰の生涯の後を歩んで行きたいと思います。

 お祈りをします。

 主イエス・キリストをわたしたちの贖いのための供えものとし、またその主を甦らされた父なる神さま。

 いま、わたしたちはわたしたちの教会に連なるあなたの元に召された兄弟姉妹の方々を覚えて礼拝を献げております。わたしたちの教会の歩みはこの方々と共に今の教会の群れの中にいる一人一人が、信仰の仲間として、慕い、愛し、励まし合って来た者、みんなが生死を超えてあなたの前に集っております。わたしたち一人一人が、すべてをあなたの救いの業に委ねて讃美の歌を歌うことができる恵みを感謝いたします。どうぞこの後のわたしたち一人一人の生活に於いて、わたしたちが真実のあなたのいのちの希望に生きることが出来ますようにあなたの御言葉を聞かせてください。

 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。   アーメン。

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