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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2024年5月礼拝説教


★2024.5.26 「キリストによる新生」ヨハネ3:1-17
★2024.5.18 「生きる喜びへの転換」ヨハネ16:4b-15
★2024.5.12 「私のために祈られる主イエス」ヨハネ17:6-19
★2024.5.5 
「キリストの愛を共に生きる」ヨハネ15:9-17

「キリストによる新生」ヨハネ3:1-17
2024.5.26 大宮 陸孝 牧師
 イエスは答えて言われた「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)
 本日の福音書の日課の前の2章で、カナの婚礼での水をぶどう酒に変える奇跡、宮清めの出来事を語ることによって、神の新しい人間創造が開始されたことをヨハネは語っています。これらの出来事を通して、弟子たちのうちに信仰が芽生え始めます。(2章22節)また23節では、それらの奇跡を見た多くの人々が、その奇跡によってイエスを信じたとあります。しかしイエスはそのような信仰が、目に見えるものに頼る信仰であるゆえに不十分なものと判断しています。

 3章の本日の日課では、そのような状況の中で登場するニコデモは、不十分な信仰の持ち主として描かれて行きます。ニコデモはユダヤ教の教師であり、最高法院の議員でもありました。ニコデモはイエスの行った奇跡に接し、イエスに心引かれて行きますが、信仰には至らず、ヨハネの語る神の真実の光と闇の間にとどまっている曖昧な人物でした。

 1節〜3節「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議院であった」この人物は新約聖書の中では、ヨハネ福音書だけにしか登場して来ません。この箇所の他には、7章50節に出てきますが、そこでは、自分の仲間のファリサイ派の人々のイエスに対する軽はずみな判断を戒めている、良識派の一人として登場しています。一番決定的なのは、19章39節に、イエスが十字架につけられた後、墓に葬られたときにイエスの遺体を受け取りに、しかも没薬と乳香を持って来た一人として描写されています。ニコデモが登場するのは新約聖書中この三箇所だけです。イエスに同情的ですが、煮えきらない態度の善良な人物として描かれております。イエスに対する信仰はその程度の人物として描かれているのですけれども、これは実は初代の教会の時代の話しというよりも、現代人であるわたしたちにも通じる内容を持っています。

 イエスの時代のサンヘドリンは、紀元前五世紀のユダヤ教成立から、紀元70年にユダヤ社会が崩壊して現在にいたるまでの歴史と密接に関係します。離散のユダヤ人たちを産んだ共通年代、紀元70年代にユダヤ社会が国家を失うのですけれども、その時代まで、紀元前五世紀から紀元70年まで続いたエルサレム最高議会で、そこでは、民事・刑事の裁判をするだけではなくて宗教裁判も行った最高議会(グレート・サンヘドリン)で、七一人の議員から構成されています。ファリサイ派は、その七一人の構成の中の一つの派として代表者が加わっておりました。そのまま現代のイエスラエル国家の国会の原型となっています。

 その指導者の一人がここに登場しているのです。つまり、ニコデモは個人的には、イエスに対しては非常に親しい感情を抱いてはいましたけれども、結局は、ユダヤ人社会、あるいはユダヤ教の枠内に留まった人物として、ヨハネ福音書記者は紹介しているのです。この人物が2節で「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです』」と2章のイエスの奇跡の業を受けてそのように言ったのでした。

 ヨハネ福音書9章22節を読みますと、イエスが生まれつきの盲人をいやす記事の中で、ユダヤ人たちによる両親への訊問がなされ、両親は「本人にお聞きください」と返答しています。ヨハネは「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と説明します。ヨハネがここで言いたいことは、そのように背景にある歴史的な事情で、「ある夜、ひそかにニコデモがイエスのもとを訪ねた」という表現になっていると見ることができます。つまり、ニコデモはどんなにイエスに対して好意的であったとしても、結局は闇に属する勢力を代表する人物として描いているということです。もっと言うならば、ニコデモは、どんなに良心的でありたいと思っていたとしても、当時のユダヤ社会の、習慣とか、古い宗教的な枠組みから、脱出できない人物として、描かれているということです。これはつまり、初代キリスト教教会が誕生したときに、新しく生まれた教会に移行できなかった人物を意味していることになります。つまり、紀元70年以降に、ファリサイ派の指導するシナゴーグ(会堂)に帰属することになった、「キリスト教的なユダヤ人」に留まった人物を意味していると理解するのが現実的です。彼らは自らは信仰告白はしませんけれども、キリスト教のことは解る、という類いの現代人と共通している立場であったということです。結局はイエスにおいて顕現された神、イエスにおいて顕現された歴史的神の啓示は認めないという立場です。これはイエスの時代でも現代に於いても同じです。

 2節以下のイエスとの対話において明確になるのは、一方では、ニコデモはイエスを「モーセのような預言者」と見做して尊敬しているという、当時一般的にその到来が待ち望まれ期待されていた権威ある教師像を表現しているのに対して、イエスは、イスラエルの預言者の系譜に立つ偉大な預言者の一人であるならばあなたを認めましょうという信仰―現代の宗教の多元化の思想、「たくさん偉大な者が並んでいるうちの一つであり、それ故にどの宗教も結局はひとつであるに過ぎない。そのうちのひとつであるならば認めましょう。しかし並列しているだけですからわたしにとってはどちらでもいいです。」と言うような信仰に留まっていてはならないと言われているのです。

 3節を見ますと、「イエスは答えて言われた『はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』」とあります。ここでそういう状況の中で「新たに生まれなければ」というのです。これは、神の側から、根源から、根本的に生まれ変わらなくては・・・」というニュアンスで訳すべき言葉です。「新しい神の創造を体験しなければ」神の国に入ることはできない」と言っているのです。

 神はわたしたちを新しい命の創造へと招いておられます。旧約聖書のアダムとエバの物語においては、神に向き合う生活から、神に背を向け自分に顔を向ける生活へと移った時から、人間自らの歴史に悲惨と分裂をもたらしたことを、象徴的に語られているのですが、今改めてわたしたちが神に顔を向ける生、神の新しい命の創造、そういう生を自ら指向して行くことが出来るかどうかということを、イエスは真剣にわたしたちに問うておられるのです。これは、神が具体的に新しく起こされた創造の業としての教会形成の原動力のことを言おうとしています。それはすなわち「礼拝を中心とした生」に生きることです。人はこの礼拝に生きることで新たに神と向き合い、本来の人間性を回復し、「成熟した人間」とされていくのです。

 「新たに生まれる」とは根本的に変えられなければ、上から変えられなければ、わたしたちは自分から神に向きを変えるということはできない。自分では変えられないということでもあります。神の国はわたしたちの生のただ中にあるとイエスは言われます。わたしたちの歴史のただ中に働いておられる神をわたしたちが見るためには、わたしたちの今までの自分中心のものの見方や考え方が根底から変えられる必要がある。見直す必要がある、とイエスはニコデモとの対話を通して語っておられるのです。

 使徒パウロはコリント第二の手紙4章16節〜18節でそのことを指摘しています。

 「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 イエスを神から来た救い主と信じる信仰と、そうではない、イエスは偉大な人ではあるとしても、神から来た救い主としては信じないと言う人との違いはこの点にあるのだということです。この世の見えるものは過ぎ去ります。しかし見えないものは永遠に存続するのです。わたしたちの信仰の確かさは、この世の歴史の中で、この世を新しくしようと、愛による再創造の働きをしておられる、歴史を超えた方と出会う経験をするかしないかで決定されていくということです。

 4節「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」自分の経験とか、知識とか、あるいは法則化できることにしか目を注ごうとしない現代人はこのニコデモと同じような質問をするでしょう。理性を誇る人であればあるほど、自然にそのように言うでしょう。イエスが「新たに生まれなさい。そうしなければ神の国に入ることはできません」と言われるとき、「わたしたちが母の胎内にもう一度入って、また生まれることなどできません」という応答は現代人の生物学的な考え方であるのです。わたしたちは教育機関でそういう教育を受けてきたのです。ですから当然そのように考えます。それでなければ納得しませんと言っているのです。イエスの時代に既にそのような考え方をしていたということです。

 5節〜6節に進みます。「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。(アーメン)だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である』と言われます。これはことがらを神の側から見る謙遜を呼びかけた言葉です。

 ヨハネ3章の終わりの部分に進みますとモーセとの比較で主イエスが論じられて行きます。このモーセがエジプトを脱出した際の様々な苦難の中で、荒れ野で食料がなくなった時に、神はマナを降らせ、うずらを降らせ、荒れ野に水を湧かせます。モーセはその神の救済の計画を遂行していく指導者でありました。モーセが神に祈って、マナ、つまり身体を養う食べ物を与えられたことは、旧訳聖書に記されている事実です。しかし、イエスはここで、「わたしは、命の食物そのものである」と自らを人々に示そうとしておられるのです。

 ニコデモはイエスを「モーセのような偉大な預言者」と見做そうとします。しかし、イエスはそのニコデモの信仰を「肉から生まれたもの」と言っているのです。人間の世俗的な領域でしかイエスを理解できないということなのです。

 新たに生まれるの「新たに」アノーセンと言うギリシャ語は「上から」「神から」という意味を持っています。つまりイエスは霊的な再生のことを言っているのです。「霊から生まれたものは霊である」とは、イエスを自分の救い主キリストと告白できる者、そういう信仰を与えられた者のこと、そのような神の霊的な力、働きに心を開いているあり方を言っているのです。

 ニコデモはどれほど熱心にイエスに教えを請うたとしても、自分の経験や知識の範囲を抜け出ることができませんでした。この意味でニコデモは、大変生真面目ではありましたが、結局自分を捨てることができなかった、あの富める青年と同じ領域にいるのです。信仰に飛躍できなかった理由は、ニコデモはユダヤ社会の中で高い社会的な地位を有した人であり、知識人でもありました。そうした地位を失うことを恐れて信仰に踏み切れなかったと思われます。夜こっそりとイエスを訪れた理由もここにあると思われます。

 イエスはさらに霊の現実を風にたとえて説明します。人間は風を受けることはできても、捉えることはできない。風と同様に、霊もまた実態はあるのだけれども捉えることができない神秘である。もう一度人間を創造された時のことに戻って考えると、鼻の穴に神の息を吹き入れられて、生きたものになった(創世記2:7)。ですから人間は本来霊的な存在として創造されたのですけれども、同時にわたしたちにはそのような神秘とか霊とかいう世界は理解できないという心情もあります。そこでニコデモは「どうしてそんなことがありえましょう」(9節)と否認とも問いともつかない言葉を発することになるのです。

 10節の「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか」は、ニコデモの無知を非難しているというよりも、自分の力で霊的な現実を捉えようと奮闘している空しさを強調しているのです。霊の神性は、神から人間に直接示されるのではなく、11節にありますように「証し」を通して示されることを改めて確認しています。教会以前の旧約の時代には、神は、預言者あるいはある特定の人物に働きかけ、その人物を通してご自身を啓示されたのですが、12節から13節は、神の真の啓示は、天から降りそして天に登ったイエス以外にはいないと宣言しているところです。ここでわたしたちが注意しなければならないことは、キリストは先ず天から降った、人間と同じ所に立った、ということが強調されている点です。人間と同じ所に立ったイエスだけが、人間のために天と地を繋ぐ者になった。そして、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、「人間の的外れを裁くと同時にそれを癒やし、生かし、それで、人間が滅びを免れた」ように、ここでは、イエスは「民を裁き、同時に生かす力を持った方である」と十字架の主、救い主としてのご自身を啓示していると同時に、神と人間との関係を回復しつなぐ存在でもあるといっているのです。

 十字架のイエスは、罪なき神の子羊として、その身に人間の罪、破れ、的外れを担い、人間と神との間の絆を保ち、神と人間との関係の破れ、そしてまた人間同士の関係の破れそのものであるわたしたちの罪と苦しみの現実を、ご自身の苦しみとするという仕方でわたしたちから取り去ってくださいました。「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた」(イザヤ書53・5)のです。そして、永遠の命である霊は、この十字架のキリストから人間に注がれます。傷を負った姿のまま復活したキリストは、弟子たちに息を吹きかけ、罪の赦しの証人となるよう命じます。(ヨハネ20・22節〜23節)復活のキリストから霊を受けるとは、他者の苦しみを担う力が与えられると言うことです。

 このように天から来られた十字架のキリストという具体的な存在のうちに神の愛が現され、この方によって教会が形成されて後は、神のものとされた教会の交わりの中で、教会の信徒の証言、神の言葉の解き明かしと、神の愛による奉仕の生き方を通して、そこで働いておられる神に出会う道が備えられました。つまり教会共同体の中心にある礼拝を通して、神は新しい創造の働きをされている。そこで神はわたしたちに神の霊を注いでおられるのだとの宣言をしているのです。わたしたちは自分自身の愛の足りなさを自覚しつつ、神のこの真実の愛に導かれて信仰の歩みを続けて行きたいと思います。

 お祈りします。
 父なる神様。あなたは、あなたから離れ、「命の息」が吹き込まれていない、真の命を失っている状態にいるわたしたちを、「新たに生まれさせる」ために、この世にイエス・キリストを送ってくださいました。そして、主の十字架を通して、あなたから離れている人間の罪の壁を、御自分の身を砕いて突き崩し、わたしたちにあなたの命と、愛と、力とを吹き込んでくださいました。イエスの救いの業を信じる者が一人も滅びないように、独り子をお与え下さって、わたしたちに永遠の命を与えて下さいました。
 わたしたちの心にあなたを愛する愛を燃え上がらせ、心を尽くしてあなたを愛し、また、隣人を愛して生きることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。    アーメン。

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「生きる喜びへの転換」ヨハネ16:4b-15
2024.5.19 大宮 陸孝 牧師
 「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネによる福音書16章13節)
 先週主日には、わたしたちはヨハネ福音書17章の主イエスの執り成しの祈りの所を読みました。本日はそこから逆戻りするかたちで、16章4節後半から15節までの所を日課としています。ヨハネ福音書16章のこの箇所を理解するためには、まずこれが占めている位置と前後の関係、そして論旨の流れを見ておかなくてはなりません。

 ヨハネ福音書は第13章1節で新しい局面に入ります。この節でイエスの「時」が来たことをはっきりと打ち出します。ここに至るまでにユダヤ教指導者たちは再三イエスを捕らえようとしますが、その度に主イエスは切り抜けて宣教活動を続けることが出来るのでありますが、それはイエスの「時」がまだ来ていないからだと説明されます。(7:30、8:2参照)。この説明はユダヤ教指導者たちによる度重なる妨害にもかかわらずイエスが語り続けることができた理由を述べていると同時に、イエスの宣教にいずれ終止符が打たれることをも予め示しています。そして来たるべきその「時」に向って進む主イエスの歩みを描きながら、次第に緊張の度を高めて行くのです。

 第13章1節で、イエスの時とはイエスがこの世の悪の力と対決して苦難の死を遂げ、父なる神のもとに帰るという、イエスの生の最も重要で厳粛な時、つまり苦難と栄光の時であることが示されるのです。その後イエスは迫り来る危機を目前にしながら、世に残されて戸惑い不安に陥るであろう弟子たちに心をこめた別れの言葉を与えます。これが13章31節から第16章33節までの長きに亘る別れの説教であり、語り終えた後、17章1節「父よ時が来ました」と~に祈るのであります。

 ですから13章1節〜17章1節は一つの囲みをなしているということがわかります。「イエスの時」を語るこの囲みの中で、第16章2節と四節は「彼らの時」について語ります。「彼ら」とはユダヤの指導者であります。この二つの箇所によればイエスを苦しめた者たちは主イエスが世を去ったのち更に力をふるって弟子たちを圧迫して、殉教の死にまで追い込むことになるということですから、主イエスが弟子たち(信仰者たち)のもとを離れ去ることは、弟子たちにとってただちに苦難の事態となるのでありますが、しかしそのことがかえって「益となるのだ」といいます。なぜならば主イエスが去ることによって、助け主(聖霊)が信仰者のもとに来るからである(16章7節)と。

 主イエスの時が苦難と栄光の時であるように、「ユダヤ教指導者たちの時」も信仰者にとって、イエス不在と苦難のときでありながら、助け主を与えられるという二重の意味を持つ時であると、「時」を媒介にして、イエスの最後の場面と教会の場面とを重ね合わせているのです。

 そして苦難を受け、助け主に支えられることになる弟子とは、イエスの生と死を直接に経験した弟子たちだけをいうのではなく、ユダヤ教の弾圧の中でイエスへの信仰を貫く当時のキリスト者たちのことであって、その教会の人たちの苦難の状況を描きながら、進むべき道を描き出し、信仰者に語りかけ励ましているのであります。

 ということで、主イエスは今不安に沈む弟子たちに対して、ご自身の別離と助け主の到来を告げるのですが、この二つのことは表と裏の関係になっていて、一方がなければ他方も存在しないということであります。イエス様が十字架の苦難と死を通り父のもとに帰ることが人々を救うための必然であれば、主イエスが去られてから後弟子たちのところへ助け主が遣わされて来るのも必然なのだ、つまり~の御心なのだと主イエスは言っておられるのです。

 この宣言をわたしたちがこの福音書の中に読むということは、イエスも助け主も今はもう過去のものとなった出来事を振り返ってみるというのではなく、確かにかつて2000年前に起こった出来事でありながら、しかも「今」信仰者がイエスの言葉を聴く時点に起こることでもあるということです。~の御言葉はわたしたちの歴史を貫いて永遠に出来事となる。そういう~の御心なのですから、この言葉を聞いているわたしたちの中でも、いままさに起こりつつある出来事なのです。~の救いの時とは、今を生きて働く~の創造のときのことです。十字架の死・復活・昇天・再臨という伝統的な時間空間の枠を超え、歴史的な制約を超えて助け主は今、わたしたちのただ中で、~の愛の力をもって生きて働いておられると、イエスは御自分を証ししておられるのです。

 助け主は「真理の御霊」、「聖霊」とも言われておりますが、イエスが去ったのち信仰者と共にいて彼らを導き助ける御霊のことでありますが、それは大きく分けて二つの働きをすることが述べられます。一つは信仰者に対する助けの働きと、二つにはこの世に対する働きであります。8節から11節はこの世に対して働く聖霊の働きについて語られております。それによりますと、助け主はこの世の罪を仮借なく暴き告発します。8節に「世の人々の過ちを明らかにする」とありますが、含みの多い言葉でありまして、第一に有罪の判定を下すことと、それに伴う処罰を加えることを意味する言葉です。聖霊の働きとは、この世、これを全世界と言い換えてもよろしいかと思います。この世界の全ての人を~の法廷に引き出し、裁くと言われているのです。14章17節によりますと、それはこの世界がイエスを拒否し聖霊を知ろうともしないからだと言われています。

 第二には正しく納得させる、という意味合いが含まれています。それは聖霊が世界を裁くときに、この世が自らの罪を認めざるを得ないところまで徹底的に追い込まれるということです。そして、この裁きは決して罪人の滅亡を目的として裁くのではなく、この世が罪の赦しという~の恵みを受けとるための裁きであるのです。罪の本当の深刻さは実はその先にあります。~に逆らう罪について言葉の上では知っていても、イエスが十字架の贖いによってもたらそうとしておられる救いを信じないで、かえってイエスを罪人として拒否したことであります。

 この世が、そしてわたしたちがイエスを罪ありとして断定するためには、わたしたちが何が正しいことか、何が正義であり、何を行うべきか知っているという自負が根底になければなりません。まさにその自負にこそ、イエスを裁き、罪に定める正義を持っていると考えるところにこそ、この世の罪がある。その彼らが正義としたことが逆に罪であることを知らせるのが聖霊であるということです。この認識を徹底的にたたき込まれることによって、わたしたちは悔い改めへの戸口に立つのであります。

 そして助け主は、更に十字架の死を遂げて父のもとへ行くイエスにこそ義(~の御旨・~の肯定)があることを知らせてくれるということです。さらにさらに助け主は、十字架に於いて本当は何が裁かれたのかをも明らかにしてくれるということです。イエスの十字架上での死は犯罪人としての処刑でありました。~の御心を現すイエスの言葉も行為も結局はこの世の人々を回心に至らせることはできませんでした。かえって権力者の手に落ちた無力な反逆者に見えました。しかし、イエスが人間によって受けた裁きは~の栄光(~の御心)に直結していたのです。そして逆にこの世の力が~によって裁かれることになる。聖霊はこうした働きをなすのであります。ですから、信仰者は迫害と苦しみの中にあっても、平安のうちに~と共にあることができるものなのです。

 ヨハネ福音書が書かれた時代は、教会がユダヤ教から異端宣言をされたということが背景になっています。その宣言のもとで、ユダヤ教は教会への迫害と弾圧を行いました。そしてその迫害をユダヤ教は「~への奉仕」と信じて疑わなかったのです。そうした中で教会は、何が罪で、何が義で、どこに裁きが現れるのか、ユダヤ教の基準と教会の基準との違いを明らかにしているのです。主イエスを救い主と信じ、霊において主イエスと共に生きる教会こそが、~が働いておられるところと信仰告白しているのです。弁護者なる~の霊の働きに導かれる中でわたしたち一人一人は救いとられ、そして信仰の共同体である教会が形成されているそのことをしっかりと認識することが一番重要なことであろうと思います。

 お祈りします。

 神さま。わたしたちはすべてあなたの御心に生きることを知らない罪人であります。あなたの裁きの前に堪えることの出来ないものであります。

 しかしあなたが、そのようなわたしたちを憐れみ、わたしたちを赦してくださるために御子イエス・キリストをわたしたちのところに送ってくださいましたこと、そして、わたしたちの罪を贖ってくださいました大いなる救いの恵みを感謝いたします。わたしたちがそのようなものとして自分自身を謙り(へりくだり)、悔い砕けた心をもってあなたの前にひれふし、主キリストの霊を通して注がれておりますあなたの豊かな慈しみと憐れみに拠り頼んで、新しい人生を生きる事ができますように、信仰による喜びと望みと力をお与えください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン。

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「私のために祈られる主イエス」ヨハネ17:6-19
2024.5.12 大宮 陸孝 牧師
 「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネによる福音書17章17節)
 本日はヨハネによる福音書17章6節から19節までを先程ご一緒に朗読いたしました。この17章は大祭司の祈り、つまり、主イエスが父なる神に対して行ったわたしたちを執り成す、執り成しの祈りです。新約聖書ではここにしか出て来ない貴重な内容をわたしたちに伝えております。その17章1節から11節までを、主イエス・キリストの父なる神に対する祈りとして区分されます。そして17章の12節から19節までの「聖なる父なる神」に対して、主イエス・キリストが呼びかけた祈りとなっております。

 12節以下の大祭司としてのイエスの祈りは、弟子たちと世との関係に移ります。父から世に遣わされて、世にいる時を過ごし、父の栄光を顕す務めを果たし終え、完成して世を去ろうとするイエスが、世にいる間に、世に残される弟子たちのために祈る祈りです。弟子たちの、世との関係は短く四つ示されています、前提は、弟子たちは世から出たものであるということです。しかし、今世は弟子たちを憎んでいる。イエスを憎み、御言葉を憎み、神を憎むゆえです。この事実はまた、弟子たちがもはや世に属していないことの証しです。父とみ子の一致につながる以上、弟子たちは世のものであり続けることはできません。もちろん、イエスの祈りがなくてはならないように、イエスとのつながりなしには、またこれを忘れては、弟子たちは再びいつでも「世に属する」ものに逆戻りし、墜ちる危険を常に自分自身の内に持っているものでもあります。それは神を忘れ、神に背き、神に逆らう形で起こるのですが、最も危険なのは、自分は神に仕えていると言う形で起こるときです。しかし、イエスのこの祈りに支えられている限り、彼らは世に属さず、世のものではありません。そのような弟子たちを、イエスは更に世に遣わすのです。

 弟子たちの、世からの選び、聖別と、世に向かわせる派遣とを同時に含んだ祈りです。イエスを中心として、二つの相反する方向の働きかけが弟子たちに対して起こるということです。世から選ばれ、聖別されながら、弟子たちの生は、隠遁修道士の生ではない「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではない」。なお翻って、世に派遣される生であります。父の栄光を現すために世に遣わされたイエスの場合と同様に、弟子たちは、今新しく御言葉の真理を、真理である御言葉を伝えるために、世に遣わされるのです。イエスの祈りに示された、弟子たちとこの世とのこのダイナミックな働きと関係に注目するところから、キリスト者とはなにか、教会とは何か、宣教とは何かがあらためて問われなくてはならないのです。同時にこの祈りは、世のための祈りを含んでいるものでもあります。「世は言葉を認めなかった」(1:10)、キリストを憎み、弟子たちも憎む世であるのに、それにもかかわらず、その世のために、弟子たちを遣わして世を救おうとする神のみこころに基礎づけられた祈りでありますから、「この世が救われるように」との祈りに他ならないのです。

 本日の日課の後も大祭司としての祈りはなお続きます。代々の信仰者のための祈り(20節以下)と、世の反対にもかかわらず、ご自身と弟子たちの密接な繋がりの確認の祈りです。ここに執り成しの祈りの基本があります。これが大祭司としてのイエス独自の執り成しの祈りという大切な面があることはもとより、執り成しの祈り一般の基本が示されているとも言えると思います。

 第一に、祈る自分のその時々の確認です。自分のアイデンティティの確認です。単なる存在の確認であると言うよりも、関係の確認ということです。祈りとは、先ず自己の存在の根源である神との関係で確認されるものです。弱い人間であるわたしたちでありますから、神との関係がわたしたちの側でいつも断固として確立しているということは言えない。「その時々」というのは、わたしたちの側では常に弱々しく、変わりやすく、移ろい易く、破れやすいということです。神の前での、そのありのままの姿の確認ということです。神はそのあるがままのわたしを、キリストにあって既に受け入れてくださっているのです。

 第二に祈る自分ととりなしの祈りの他者との関係の確認です。これはまた単に人間同士としての関係の確認ではなく。神を仲立ちにした関係の確認です。キリストを頭とする教会の「聖徒の交わり」の中での確認です。キリストがご自分を献げて既に受け入れてくださっているわたしと隣人との確認です。

 第三に差し迫った危難、緊迫した急務のための祈りです。それは大きなこと、深遠なこともあると同時に、小さな、個人的な、しかし切羽詰まった事柄であることもあります。あれもこれもと、この際だからというように並べ立てることもありません。肝心なことを祈る。今欠かせない祈りを祈るのです。その意味で執り成しの祈りは狭いとも言えます。

 しかし、同時にとりなしの祈りは広い。第四は、執り成しの祈りの射程がどれほどなのかということです。弟子たちのために祈ったイエスの祈りは、世の執り成しを含んでいます。特定の他者の、特定の祈りの課題は同時に、広く人間全般のための課題を含んでいるのです。祈りは、固有でありながら、普遍的でもあるのです。

 信仰者は皆祭司であることをルターは主張しましたが、それは、キリストと共に、他の人々のために執り成しの祈りを許される幸いを言おうとしたものです。教会は信徒のために建てられたものでありながら、同時にこの町のために立てられた、この町のための教会とも言うこともできます。この町のために祈る教会。教会も、牧師も、教会員も、「小さなキリスト」になって、宣教のために教会が建てられたその町、その村のために執り成しの祈りを続けるところから、教会の宣教は始まるのです。

 ルーテル教会が持っております伝統的な礼拝式文では、礼拝の始めの部分に、「特別の祈り」と呼んでいる祈りがありました。これは「特祷」とも「集祷」とも呼ばれた祈りで、本来「コレクトの祈り」でありました。由来を辿りますと、礼拝に集まる信徒一人一人がその日の自分の祈り、個人的な願いを一つずつ持ち寄り、牧師がそれを集めて、それらの祈りをまとめて祈ったものでした。礼拝の始めに個人的な祈りを祈る。御言葉を聞いた後に、教会は「総祷」として、執り成しの祈りを祈る。しかし、これが自由祈祷の形になり、自分の祈り、自分たちの祈りになって、執り成しの性格が失われてしまう事実に直面しています。どの教会でも結びの部分に来る祈りに、執り成しの祈りを回復しなければならない課題があるとわたしは思います。

 500年ほど前のルターが書いたほとんどどの手紙にも「あなたのために、またはあなたがたのために祈っています」とあるそうですが、それだけではなく、それに加えて、さらに殆どどの手紙にも「わたしのために祈ってください」とあったそうです。他者のために執り成しの祈りをする自分が、同時に他者の祈りを必要としている自分でもあるということです。執り成しの祈りをする者はまた、他者の執り成しの祈りにも心を開いていなければならないということです。執り成しの祈りはわたしたち人間の間では一方通行なのではなく、双方通行なのだということを忘れてはなりません。また、それを目指さなければならないと思います。隣人のために祈るわたしがおり、また、隣人に祈られるわたしもいるのです。教会の信仰共同体の具体的な姿のひとつです。

 わたしたちのこうした執り成しの祈りの脈絡に、切り込み、介入する形で、イエスの大祭司としての祈りの姿があるからこそ、わたしたちの間の執り成しの祈りは成立しているのだということです。主イエスの大祭司の祈りに支えられ、導かれて、執り成しの祈りを許される幸いの中を歩んで行きたいと思います。

 お祈りをします。

 父なる神さま。わたしたちが本当に神さまと繋がって新しい命の道を歩むことができますように、それぞれのおかれた場所で、いつも神さまに祈り、また、他者のために執り成しの祈りをして行くことができますように、一人一人を導いてください。普段の生活の中であなたを仰いで、あなたの僕としての生活をし、また、公同の礼拝においてもあなたを主として仰ぎのぞみ、救いの恵みをほめ讃えて信仰の歩みを歩んでいくことができますようにわたしたちを導いてください。

 イエスキリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン

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「キリストの愛を共に生きる」ヨハネ15:9-17
2024.5.5 大宮 陸孝 牧師
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15章12節)
 本日の日課の直前の8節を読みますと、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」とあります。イエスに従う者が、主イエスの御言葉にしっかりと結びついて、多くの実を結ぶ時に、栄光をお受けになるのは、父なる神であり、豊かな収穫は農夫に名誉と喜びをもたらすように、キリストの御業の実りは、父なる神の栄光に他ならないと語ります。「主イエスに連なる新しい生命共同体の活動の終局の目標は神の栄光を表すことにある」と大変重要なことを語ります。主イエスに連なり、キリストの体の枝とされたわたしたちは、一日一日を生かされるその生が、神の栄光を表す業となる。ここにキリスト者の栄光があると言うのです

 パウロが「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」と言い表した「主にある歩み」と同じことであります。

 これを受けて、本日の日課15章9節から11節では、1節から4節、5節から8節に二度繰り返して強調されている内容が、さらに展開され、イエスと弟子との関係は、父なる神と子なるイエスとの関係に基づいて、父なる神が子なるイエスを愛されたように、主イエスは弟子たちを愛された。そして、「わたしの愛のうちにいなさい」と弟子たちに呼びかけられ、継続的な愛の交わりの関係へ招いておられます。この愛の関係は具体的には、主イエスのいましめを守ることによって生きてくるものであり、主が父の戒めを守り、父の愛の中に生きられたように、キリスト者もキリストのいましめに服従することが求められています。

 キリストの戒めを守るということは、わたしたちのキリストへの愛を証明するだけではなく、わたしたちへのキリストの愛を確証しているということでもあります。戒めを守る者は主の愛の内にあると同時に、主の愛の内にある者が主の戒めを守るのであり、この二つは密接に結合していると言うことになります。つまり、17節の「互いに愛し合いなさい。」との戒めは、9節の「わたしの愛に留まりなさい」と言う命令を具体化したものとして理解できます。

 コロサイの信徒への手紙2章にはキリストに結ばれた生活について書かれていまして、9節から10節で「キリストの内には、満ち溢れる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされている(プレローマ)のです。」とあります。父なる神と子なるキリストの間に交わされている愛の充満(プレローマ)の中に、わたしたちも加えられて、命に与らせていただいている。そのプレローマ〈溢れる愛〉によって具体的な教会の交わりを生きなさいというのです。

 そしてこの愛は、ヨハネ15章13節では「友のために命を捨てる」こととして規定され、これは、イエスご自身が父なる神の御意志を忠実に守り、その愛の中に留まりたもうたのと同じように、弟子たちもこれにならって、イエスの愛の掟を守り、その愛の中に留まることを求めるという趣旨であります。主イエスのわたしたちに対する愛は、十字架にかかり、文字通り自分の命を捨てることを通して表されました。ですからその後に従って行く弟子たちの愛も、同じく死を通して表明されるいうこと、たとえば、殉教の死を遂げるとか、友の身代わりとなって死ぬということが初代教会では事実としてあった。そういう歴史的背景を覗わせるとしましても、しかし、わたしたちが生きている現実の生活において、そのように生命を捨てることが要求される愛の掟を、どういう生き方を指し示すものとして理解したらよいのでしょうか。

 その正しい理解への手がかりとなるのが、「捨てる」と訳されている言葉をもう一度解釈しなおすことではないかと思います。この言葉は原語では「置く」「差し出す」「託す」といった広義の豊かな玩味を持つた言葉です。そこから、自分の生命を、自分ひとりのものとして、自分だけのためにではなく、隣人に捧げられたものとして、隣人のために生きて行くことを、わたしたちの人生の基調としなさい、という意味がこの言葉に含まれていると解釈することができます。

 わたしたちの現実の生活は、自分の健康を守り、自分の成長を計り、自分の収入を確保するなど、考えられる限りにおいて自分を守るということを離れては生きて行くということは成り立ちません。もしそういうことを完全に放棄することが、この「自分を捨てる」という言葉の意味であるとするならば、それは自己破滅をもたらし、そもそも極めて無責任な人生態度を奨励するものでしかないと言うことになるだろうと思います。

 イエスが語っておられるのは、そのような意味での自己放棄への奨めではありません。そうではなく、友のために捧げること、それを通して究極的には神に捧げることを生活の中心とせよ、という趣旨で言われていると見ることが正しい理解であると思います。現実の生活に即して考えれば、キリストを信じる信仰者も、健全な家計を守り、健康に留意し、一生懸命仕事に励み、また勉学に励んで、自分の成長のための努力をするなど、やはり自分を中心とした(または少なくともそのように見える)生活をしています。しかし、そのように自分を大切にし、生活を守っている自分は、自分自身を究極の目的として生きるのではなく、そのようにして成り立たせている自分の命を他に捧げ、他に役立たせるための営みでなければならない。それを核に据えて人生を歩んで行くことが、「友のために命を差し出す」者の生き方だと言おうとしているように思えるのです。

 ドイツ語で職業をベルーフ(召命)と表現するのも、ただ収入を得るための手段として職業を見るのではなく、職業そのものの中に自分のなすべき使命を見出し、その仕事に自分を捧げて生きて行く場とする。そういう決断的な生き方の問題として捉えているということを表しています。これは現代社会の中で、キリストの愛に生きていこうとする者の直面する、最も切実な一つの問題でありましょう。この神の愛の業に参与することを通して、わたしたちのこの朽ち行く生命であっても、神とキリストの溢れる愛の交流の中に、堅く抱かれ、守られて行くというのが、キリストへの愛の従順に対して与えられている約束であり、そのように神の愛に繋がって行くわたしたちを、神は「友」と呼んでくださり、そしてさらに15節の驚くべき約束の言葉へと続いて行きます。

 15節のことばについては、旧約聖書の中に、印象深く連想させる一つの言葉があります。『わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ』(イザヤ書41章8節、)『わたしたちの先祖の神、主よ。・・・あなたは・・・この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになったではありませんか。』(歴代誌下20章6〜7節)あの一人の偉大な信仰の祖として仰がれたアブラハムに与えられていた特権が、今や信ずる全ての人に与えられようとしている。わたしたちの自覚としては、わたしたちはどこまでも『神の僕』であり、神の命令のままに動くものに過ぎないのですが、しかし、イエスの方では、わたしたちを『友』と呼び、神からお聞きになったことをすべて告げ、神が何をなさろうとしておられるのか、その意味を説き明かしてくださる、というのです。その結果、わたしたちは神の御業の意味を知り、大きく言いますと、神がこの世界でなさっておられる救いの働きを知り、この世界の歴史の背後にどのような神の御心があるのかを教えていただくという絶大な恩恵が語られます。

 そして16節では、このようにイエスとの親しい交わりに導かれるのは、弟子たちの方で自らイエスをわが救い主と認め、これを選び取った結果であるというのではなく、反対に、イエスが弟子たちを選んで、ご自分の使命を託すべき器とされた結果である。弟子たちの救いはこの『選び』に依ったのであり、それは完全に受け身の立場に立つことによって与えられる恵みなのだと言っているのです。表面的に見るといかにも弟子たちは無責任、無応答のままであるかのような印象を受けますが、しかし、実際には、神の選びの恵みを受けた者は、その後にいかに驚くべき積極的活動を展開し、いかに豊かな実りを生み出して行くことになるか。その背後にはやはり、神の愛の絶大な力と、イエスの執り成しの祈りの力とが確固たる基盤となっているということを認識せざるを得ないのです。

 17節は15章前半の結論です。つまるところ、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」初代の教会共同体に発せられた神の決定的な命令であります。極めて単純で、しかし、かぎりなく深い父と子と教会の共同体の交わりが、神の大きな愛の内に力強く働き推進して行く力、そこに生命の樹液がかよい、愛の歌が奏でられるという、ぶどうの木と枝のたとえの結論でもあるのです。

 キリストの福音は、この愛の生命の力を約束するものであって、この世の世俗的な意味での幸福を約束するものではないということがはっきりします。世俗的な意味での幸福とは、徹底的に自己中心的な生き方をする者が追求して止まないものであるのに対して、イエスは、友のために自分の命を捧げる愛の道を指し示されます。ここにこの世の御利益宗教との決定的な違いがあるのです。真に永遠に値する生命とは、父なる神と子なるイエスとの間に流れている愛の交流にわたしたちも、恵みによって招き入れられることであります。キリストの贖いの救いの業が、このように本当に深い意味で、わたしたちのお互いの人格関係に実現するよう祈り求めて行きたいと思います。

 自己愛の延長としてではなく、価値のない者、背く者に注がれる「神の愛」を恵みとして、驚きと喜びの内に受け止め、その愛の力に押し出され、その愛に応えて生きる「互いに愛し合う」道がわたしたちの信仰の歩みとして始まって行く、これが教会共同体を生きるということなのです。

 お祈りいたします。

 父なる神様。わたしたちは自分の心を自分の焦りや自尊心で満たすとき、あなたが語りかけて下さる御声に耳を傾けることができません。どうか、わたしたちを自分の重荷から解き放ち、あなたの御声を聞き取ることができるように、心を整えてください。あなたの恵みに感謝し、教会の群れの中であなたの愛に満たされて共に生きる喜びを大きくしてください。

 あなたがこの地に建てたもう御教会が福音に生きる喜びと希望の溢れる所となるようにわたしたちを導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン


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