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2024年7月礼拝説教


★2024.7.7 「わたしたちに託されたもの」マルコ6:6b-13

「わたしたちに託されたもの」マルコ6:6b-13
2024.7.7 大宮 陸孝 牧師
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 7そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。(マルコによる福音書6章6b-7節)
 ご自分の故郷ナザレでは福音が受け入れられませんでしたが、それからイエスは付近の村々を回って教えられました。そしてそこでも町々村々の会堂を用いる伝道ははばまれたようです。

 しかし、その一方で時が熟していることをイエスは見ておられます。十二人の弟子たちを全国に派遣する時が来ました。弟子たちは、3章14節にありますように宣教に遣わされるために召されましたが、主は弟子たちをすぐに派遣することはなされませんでした。教育がまず必要でした。しかし、その教育はゆっくり時間をかけたものではありません。主イエスはかなり早くその教育に一段落つけて彼らを派遣されます。

 マタイ福音書では、イエスはこの時収穫という言葉を使っておられます。これは「時は満ちた。~の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という宣教の言葉と関係がある言葉です。時は既に満ちている。だから、宣教はナザレの村や周囲の町々村々の局地的なことではなく、世界全体にわたってなされなければなりません。この時には、実際に、ユダヤの人々は大揺れに揺さぶられ、14節以下にもありますように、ヘロデでさえも不安と怖れに陥っていたほどでありました。

 本年度の福音書日課はマルコ福音書を中心に読んでいますが、わたしたちは、主イエスが一人一人と人格的な出会いをされたこと、ひとりの魂の中で新しい人間の誕生が徐々に行われていくこと、一人の真実に信じる信仰者からもう一人の人へと福音の証しがもたらされることを学んでおります。それは真実ですが、反面において、見過ごしてはならないことを御言葉は提示しています。それは福音の宣教が世界的な規模で行われるということです。福音が少数者に誠実に信じられ、世間は何の影響も受けない、というのではなく、福音の宣教が社会を震撼させ、王宮も動揺させるということです。しかも、そのような激動を巻き起こしたのはわずか十二人です。少数者であるので、一世を震撼させることができない、と断念することはいらないのです。

 主はまず十二人を呼びよせられます。これは3:13にもあったことばですが「召し出す」という意味になります。イエスによって宣教に派遣される者は、まず、召し出されなければなりません。そして、召し出された者は召し出されたことによって神の恵みを証しし、遣わされることによっても神の恵みを証しする勤めを果たさなければなりません。~の恵みの業であることを示すこと、それで自分が神の救いの業を証ししているのは自分の人間的な資質や功績を~によって認めて頂いたからではなく、全く~の無条件の選びであることをしっかりと受け止めなければなりません。

 そしてつぎに、イエスは弟子たちを二人一組にされました。それは弟子たちの弱さを考慮してのことであったと思われます。一方が落胆しても他方が慰めたり、一人の躓きをもうひとりがかばったり、単独ではすることができないことを協力して行い、より適切な判断をくだすというようなことだと思いますが、重要な事柄の証言は、ふたり以上の証言を必要とされます。つまり遣わされた者は単に個人的なことを語るのではなく、キリストの代理者としての公的な資格と権威において人々に接するためであったと推定されます。このことを明瞭にするために、弟子たちに汚れた霊を制する権威を与えておられます。これは個人的に力を授けられたことではありません。弟子たちのうちのあるものが、人に頼まれてやって見ましたが、悪霊を追い出すことができなかったという記事が9章にあります。彼らは宣教の使命のためにはその権威と力が与えられていましたが、自分自身、つまり個人的なことのためにはその力を行使することは許されていなかったのです。ですから、この悪霊を追い出す力を行使できたということは、弟子たちがイエスから命じられ、また託されて、この務めを行っているという徴でもあったのです。主の恵みの働きとして確認して行くことも大切なことでありました。伝道者として遣わされた者は、わたしのものではない~の権能を帯び、わたし自身のことばではなく委託された~の御言葉を語るのです。そうしてこそ、キリストの代理者として~の救いの恵みを語るものと言えるのです。

 また宣教の旅のためには何も持たないように、とイエスは命じられます。パン、袋、金銭、旅行のための必需品一切を持つなといわれます。命を危険にさらすようなものです。終末を目指して歩む私たちのこの世の信仰の旅は途上の存在なのです。宣教へと召し出されるということは終末を目指す生活をともなって呼び出されるのです。物質的な条件の整った生活からは福音は現実となって響き渡っては行かないということです。何ものにも頼らず、ただ主にのみ服従し、かつ信頼をおいて、憂い無しで生きる生活がないならば、福音の証しは立てられないのですが、しかし、イエスはそのような清貧に生きることをことさら命じられているというのではないと思います。そうではなくて、ものものしい旅支度をするまでもなく、この旅行を極めて短時間の間に行うことを考えておられるのです。不毛な地盤で宣教し続けて行くということならば、籠城の準備がいるかも知れません。しかし、主イエスは急いでおられるのです。全ての人々のために~の国を到来させなければならないのです。わたしたちはまた、すべての人間的な配慮を越えた主の配慮が、伝道者の生活を支えるのだということをここに読み取っていかなければならないと思います。御言葉を語る者自身が生活のことを憂える必要もありませんし、御言葉を聞く者が聞く責任を後回しにして伝道者の生活の責任を担うことも要らないのです。ここでわたしたちに示されているのは福音に生きる自由ということです。二枚の下着を持たない自由、財布も持たない自由、持つ者は持たない者のように分け与える自由、そのような生活が、~の国は来たという宣言にともなってなされるときに、悔い改めが呼び起こされていくのだということです。元の生活に戻らず、退路を断つという意味もあるでしょう。

 派遣されて出て行った弟子たちは、人々をイエスの元に連れて来ることは求められていません。弟子たちの行くところ、そして彼らの宣教の言葉の中に、生ける主が伴われているからです。まず、家に入ったなら、そこに留まれと言われます。ルカによる福音書では、ここは、「同じ家に留まっていて、・・・家から家へと渡り歩くなと命じられた」となっております。意味の上ではよりよいもてなしを求めて、宿を換えてはならない。という意味ですが、そんなことに時間をつぶしている暇は無い程に時間は切迫しているということと、人間関係の関わりの徹底した誠実さを要求しておられるということでもあるでしょう。誠実さとは姿勢を変えないということであります。伝道者は始めに受け入れて接待してくれた家庭に対して誠実でなければならない。もてなしが行き届かなくても、もっとよくもてなしてくれる豊かな信徒が出来たとしても、引き移るということは許されません。

 弟子たちはどこの村でも、宿を取らせてくれる家を見つけることができました。その家を本拠としてその村の伝道がなされました。しかし、宿を取らせてくれても、福音をかならずしも受け入れているわけではありません。宿を与えるという人間的行為と、福音を受け入れるという信仰的なことがらとは、余り関連性がないということも考慮に入れておく必要があるでしょう。この双方に対して伝道者は誠実でなければならないということであります。

 キリストの弟子であるがゆえに迎えられず、話を聞いてもらえない場合は、毅然(きぜん)とした態度が必要だと言われます。行われていることが公的な~の派遣によることですから私的・個人的な事柄に帰結させ、集約させることができないからです。~の国(~の支配)は既に始まっているのですから。そのときは、そこにいる人々への証しのために公然と足の塵を払い落とせといわれます。これは受け入れられなかったことへの抗議や腹いせではありません。その村への最後のつとめとして、終末が近いということを身をもって証しせよということなのです。つまり終末的な滅びによってこの村が滅びるときに、もはや自分は全く感知するものではないということを意味します。この土地と自分との間には塵一つほどの共通なものはないという意味が込められています。短気を起こしたのでも、私的制裁に走ったり、私憤に駆られたのでもないということです。弟子たちは全力を出し尽くしたのです。やって見て成果が上がらなければ、またやり方を考え直すという日常的な事柄とは次元の違う事柄なのです。

 そして足の塵を払えとの指示の中には、もう一面の意味があります。それは派遣したもうた主が、全力を尽くしてなお成果を収められなかった場合、失敗の責任を追及されないということです。端的に言って、福音を受け入れない人は滅びるのです。その人に福音を説いた使者は、責任を感じていたたまれなくなるでしょう。「福音が聞かれないのは、聞かない人が悪いのだ」と言って済ますことも出来ない。しかし、それでも、わたしたち人間は他人の救いについてどれだけの責任を取ることが出来ましょうか。責任意識がどれほど強いものであっても、果たせないものは果たせません。その責任の行方はどうなるのか。主イエスがそれを免除されるのです。「足の塵を払え、この町の滅びについて、わたしはお前をとがめたりはしない」イエスはそのように言われるのです。もしもこの段階で断固として福音を拒否する者に対しては、その現実を神さまに委ねなければならないのです。希望を恵みの~につなぐことです。

 弟子たちは出て行って、悔い改めを宣べ伝えました。真実の宣教とはこの世に妥協して世の人々の要求に応えて行くことではなく、世の人に取り入るような言葉を語ることでもありません。生きる方向を~の御言葉と御旨を求め服従することに向き直るように勧めることであるのです。どんなに厳密に、どんなにわかりやすく語られても、このような悔い改めが起こらなければ、わたしたちの人生は真に価値あるものとはならないのです。人は自己を内省したり、他の人を鏡として見ることによっては悔い改めには至ることが出来ません。宣教された真の~の言葉を聞き、それに服従し生きる時に悔い改めが成り立たつのです。要するに~の国の福音は既存の人間の精神的文化的向上の延長線上にあるのではありません。~無しに生きていたわたしたちの過去と断絶し、~の新しい永遠の命につながり生きる未来に向けて方向転換をすることであり、人間の全人格的な更新の出来事なのです。

 多くの悪霊を宣教によって追い出される出来事が起こったのも、真の~の言葉が語られるところに、主イエスが主権をもってそこにおられるからこそなのです。~の言葉を語るのではなく、悪霊が取り憑くような、逆に悪霊が~の言葉を追い出すというような、醜い事態を教会の中に起こすようなことがあってはならないのです。弟子たちはさらに病人をいやしました。「油を塗って」という言葉に注目します。これは病気に苦しむ者のために世話をし、愛の業をなしたという当時としての医療行為を意味する表現です。医療や社会福祉の領域から~の御言葉が除外されるようなことがあってはならないのです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」(イザヤ書53章4節)そのお方がわたしたちの救い主である以上、主イエスの働きを継承する教会はこの働きに本来的に関わって行く使命を与えられているのです。この世的には杖一本頼るものとてない枯渇したような状態の中で、自分も飢え求める者となったときに、~は命の力を与えて下さる。そして、主の十字架をこそ拠り頼み、支えられる一本の杖として与えて下さるのです。

 お祈りします。

 イエス・キリストの父なる神様。あなたはわたしたちのようなものをも、主イエスの恵の深い贖いの業のゆえに、喜んで受け入れて下さいます。その約束が主イエスを通して実現していることを、わざわざ僕を遣わして、あなたから遠く離れているわたしたちのもとに憐れみを持って届け、知らせてくださっています恵を感謝致します。

 どうか、この救いの知らせをいただく全ての人が、この福音の知らせを受け入れることができますように、また、遣わされた者が教会を通して語る御言葉を受け入れることができますように、憐れみ深く人々の心を動かして下さい。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

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