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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2025年9月礼拝説教


★2025.9.28 「私を見出して下さる神」 ルカ16:19-31
★2025.9.21 「神は惜しみなく与えてくださる」 ルカ16:1-13
★2025.9.14 「宝物発見の喜び」 ルカ15:1-10
★2025.9.7 「神の国を目指して」ルカ14:25-33

「私を見出して下さる神」 ルカ16:19-31
2025.9.28 大宮 陸孝 牧師
「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた」(ルカによる福音書16章20,21節)
 本日の福音書の日課は、ルカ福音書だけが伝える大変有名な「金持ちとラザロ」のたとえ話です。15章と16章に集められたいろいろなたとえ話は、その互いのつながりを見ますと内容的なつながりがとても分かりにくいのですが、この最後のたとえは、これに先立つ諸たとえで取り上げられていたもろもろの問題に解決を与えていると見ることが出来ます。本日のたとえ以前のいろいろなたとえは、話しの内容は未完結のまま、つまり結論を出さないままでありましたが、この金持ちとラザロ」のたとえの場合には結びは完結した形を取っています。30節「死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば悔い改めるでしょう。」31節「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」つまり、15章から16章にかけてのいろいろなたとえの中心的な主題は「悔い改め」ということであるとわかります。そういうことで、本日はこのルカの「悔い改め」の意味を探ってゆきたいと思います。

 たとえの中の金持ちは贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の日々を送っていました。この金持ちがどうやって金持ちになったのか、何か卑劣な方法で手に入れたものではないか。詐欺行為を犯してはいなかったか。または恐喝の常習犯ではなかったか。この前のたとえでずるい管理人のことと結びつけてそんなことがありそうだと考えてしまうのですが、そういったことは一切書かれてはいません。一方で一人の哀れな男が彼の家の戸口に寝かされています。金持ちの男が、ラザロに手を差し伸べて立たせてやり、新しい機会を得るために助力してやったりはしなかったそうした紛れもない事実のほかには、別に悪意の目では見てはおりません。その他には、ラザロについては、この窮状に至ったのはどうしてか。この金持ちと同様にその背景についての情報は全くありません。わたしたちが知りうるのはラザロという彼の名前だけです。ヘブライ名エレアザルのギリシャ語形で、〈神助けたまえり〉の意味です。つまり、この貧しい男は神に対して堅い信頼を寄せていて、その信仰によって救われていたことを表しています。

 この二人の男はその生涯の歩みでは互いに正反対の側の住民というほど違っていましたが、相次いで死に行きます。ラザロが最初でした。彼は死後真っ直ぐにアブラハムの懐(ふところ)にに向かいました。「天使たちによって・・・アブラハムのすぐそばに連れて行かれた」。ラザロという名前の通り、神が助けてくださって、神様のねんごろな配慮のもとに身元に迎え入れられたというのです。次いで金持ちが死にます。「死んで葬られた」とあります。このよにおいてはさぞかし念入りで盛大な葬儀が行われたでありましょう。しかし、それについては一言も書いてありません。この瞬間物語りは一転して「陰府」の話になり、二人の状況は反転します。ラザロはアブラハムの懐に、金持ちは死者の国に。しかも二人の間には大きな深淵があり、互いに行き来することもできないと語られます。果たして、金持ちの問題性はどこにあったのか。

 ここから対話が始まります。金持ちは熱烈にアブラハムに呼びかけ、ラザロが来てくれて、苦しみのただ中の自分をいくらかでも休らわせてくれて、一本の指を水に浸して、それで自分の舌を冷やしてほしい。と最小限の苦しみの緩和を求めています。この要求を満たすことは不可能であることは明らかでありました。金持ちが行き着いたところとラザロの居所の間には大きな裂け目が口をあけている。そちらからもこちらからも渡ることはできない。運命は永遠に決定的に分かれたというのです。

 27節〜29節 金持ちはとにもかくにも、いまさらながらではありますが、この慰めのないどん底から、天の栄光の内にいる者と意思のやり取りは出来たし、答えはもらった。アブラハムがラザロを、自分が責めさいなまれているこの苦しい地獄のようなところへ遣わすことが出来ないというならば、せめてもの、少し前に離れてきた地上へならば行ってもらえるのではないか。この二つの世界の間にはそんなに大きな裂け目はないので、ラザロは造作もなくその間を橋を渡るように行ったり来たりできるだろう。自分の五人の兄弟たちに、自分のように地獄の苦しみを味わうことのないように警告をしてくれないかと頼むのです。

 この金持ちの言葉には、彼自身の激しい非難の言葉が隠されているように思います。「神は、いつも自分勝手に気の向くままに生きている自分のような者に、もっと早めにその先にどんな運命が待ち受けているのかを、明らかにしていてくれたなら、自分はいちはやく別な生き方を選んだことだろうし、こんなところに来るはめにはならなかったはずだ」と。それに対するアブラハムの言葉は大変手厳しいものでした。「彼らにはモーセと預言者たちがいる」これは「いる」ではなく「持っている」と訳すべき言葉です。ここで持っているのは、モーセの書物と預言者の書物のこと、つまり旧約聖書を「持っている」と言っているのです。「彼らに耳を傾けるがよい」という命令です。人前では敬意を払われていた金持ちが、あの世に行って神の国には入れないということを今になって気づくより前から、地上の人間には律法と預言書が聖書の形で与えられている。それによって神様の意思を聞いていたら、死の備えをするには十分なのだと語っています。

 「モーセと預言者に耳を傾ける」あるいは「聞く」というのは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10章26節)と、ある時イエスが律法学者に質問しましたように、律法に書いてある意味を正しく読み取るということは、これを授けてくださったのは神様であり、神への信頼の心をもって神のご意志をそこから汲み取る、神は何と言っておられるのか、神の御声をそこから聞き取って行くということです。旧約聖書を通して神様がわたしたちに語りかけておられる神の声を「聞く」その意味で、わたしたちは聖書を読みながらも、実は「神の御前にいる」という姿勢これを求められているのです。

 すると、金持ちはさらに食い下がり、「いいえ」と反論します。この「いいえ」は彼らは聖書を持っていません。と打ち消すいいえではなく、彼らは聖書は持っていますが、耳を傾けてはいません、という意味の打ち消しです。聖書を持っていてもそれに聞こうとしてはいません。ですから、会堂でヘブライ語の聖書の巻物を朗読し、解き明かすのを聞くことだけでは不十分であり、もうひとつ別の要素が加わる必要がある。心に変革をもたらすよほどのことが起こり、たとえば、死んだ者の中から誰かが生き返って行ってやるインパクトのある、びっくり仰天するような事でもないと無理です。それにより、人は神に立ち帰ることができるようになると主張します。

 ラザロと金持ちの間にある大きな淵とは何なのか。金持ちの問題性はどこにあったのか。それは、「お前は生きている間に良いものをもらっていた」というアブラハムの言葉に集約されていると考えられます。ここに「お前の」という言葉が二度繰り返されています。この表現には金持ちの自分本位な態度が示されていて、金持ちは自分を楽しませることだけに没頭し、隣人となるべきラザロを顧みない金持ちの態度が批判的に指摘されています。まさに自己中心の生き方を変えることなく、貪欲に物質的な豊かさを追求し、「紫の衣や柔らかい麻布を着て毎日贅沢に暮らしている」そういう姿を通して、マモンに捕らわれた生き方を問題にしているのです。16章14節の「金に執着するファリサイ派の人々」という表現によって、ルカはファリサイ派の人々が、神にではなく金銭に(富に)仕える人々であることを既に問題にしていました。

 このことによってルカは「神よりも富を愛する者は自分だけを愛することになるので、結果として、必然的に自分を義とする生き方になる」と言っているのです。自分の利益のみを追求し、それを他者に誇示して行く独善的な生き方になる。それが神に対して富まない生き方であるとされるのは、神から愛されることを求めないで、富の力この世の力(これをルカはマモンと呼んでいる)に頼っている。それで、自分の生き方、考え方を変えることは何処までも拒むことになる。だからルカは、富を愛し頼りにする者に悔い改めを求めて、この「金持ちとラザロのたとえ」をここに編集したのだと考えられます。しかし、このたとえでは、どんな驚くべき奇跡を体験したとしても、そのことによって人間の自己を中心とした行動パターンやその心を変えるに至ることはない。依然として神との深い溝は埋まることはないと結論づけているのです。「悔い改める(メタノイア)」には「手遅れ」という意味もあります。手遅れと諦めざるを得ない金持ちは、せめて、まだ生きている自分の五人の兄弟たちには悔い改めて欲しいと願います。

 一方でラザロは悔い改めを必要としない人物であったのか。それとも悔い改めたので、アブラハムの懐に迎え入れられたのかと改めて22節を読みますと、「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」とあります。極貧のラザロは自分の行為によってではなく、神の(恵みの)行為によってアブラハムの懐に招き入れられたとなっていまして、このたとえは結局、神が失われた存在を探し求めることを描いているたとえとして決着しているのです。ラザロという名前はヘブライ語のエレアザルのギリシャ語訳で、意味は〈神助けたまえり〉です。つまり、この貧しい男は神に対して堅い信頼を寄せていたのです。その信仰によって彼は救われていたということです。この二人の間にある深い淵とは、自己愛に生きるか、それとも神の恵み深い愛に信頼を寄せ委ねて生きるかの違いだということになります。そしてその深い淵は、このわたしたちの生きている世界の状況を示す象徴でもあるということになります。

 アブラハムは力を込めて金持ちを説得します。「誰かが死人の中から甦っても彼らは悔い改めはしない」と、金持ちは「誰かが死人の中から行く」と言ったのを、アブラハムは「誰かが死人の中から甦(よみがえ)る」と言い換えています。実は今目の前にいてこのたとえを語っておられるのは、天から地上に来ている方、神の子イエスです。神の御子がわたしたちと同じ作られた人間となり今目の前にいるのです。びっくり仰天するような事が現に目の前で起きているのです。そしてまもなくもっと驚くことが起こります。彼は死に、死から立ち上がります。そしてわたしたちに復活の主としてご自身を現されます。その出来事を本人が予告しているのです。イエスが死んだ後、そこから帰って来て死と墓の彼方で起こった現実について証言してくれる人間が他にいるのではありません。イエス・キリスト御自身がその復活についての証人となってくださっているのです。

 わたしたちの手遅れの状況の中で、手遅れを手遅れにしない、まことの悔い改めを可能にし、まだ間に合うと、絶えず呼びかけてくださる方がおられる。金持ちが願い、アブラハムが無理だといった大きな淵を、埋めてくださる方がいるのです。それが復活なさったイエスであります。わたしたちは今、命の主、復活の主の前にいるのです。「聖書に耳を傾ける、聞く」とは、まさに、神の意志を伝える方として来てくださり、復活されて、今、わたしたちの前にお立ちになっているイエスに聞くことです。神はわたしたちに新しい命を約束してくださっています。そしてその命を神と人とに仕えて行く豊かな人生が送れるように、心の糧となる御言葉を語っていてくださいます。わたしたちはこの神様のおことばを聞いて従って行く僕です。日ごとに神の豊かな恵みのみ声を聞き、神の御前に生かされて信仰の歩みを続けて参りましょう。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「神は惜しみなく与えてくださる」 ルカ16:1-13
2025.9.21 大宮 陸孝 牧師
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(ルカによる福音書16章13節)
 先ほどお読みいたしました。ルカ福音書の日課は、大きく二つに分けられます。「不正な管理人のたとえ」とそのたとえから引き出される教え(1節〜9節)と「富に対する態度」(10節〜13節)です。不正な管理人のたとえは理解することが大変難しい聖書箇所の一つです。なぜかと言いますと、「不正な」管理人がほめられる話しであるためです。また富に対する態度のたとえは、その中心に「忠実さ」という主題があって、それにつながれた四つの言葉(教え)の諸断片(10節、11節、12節、13節)と見ることが出来ます。この二つのたとえは直接つながりのあるものではありませんが、二つ並べられているところに記者ルカの意図が反映していると見ることができます。

 不正な管理人は一貫して不正を行っているということですので、不正は不正なのですが、破局を前にしての管理人の「利口さ」に限定して主人がほめているという見解と、管理人の行ったことは律法に則していたやり方なので、主人にも負債者にも利益をもたらし、自らの将来をも確保した(つまり富の再配分)という賢いやり方で、すべてが賞賛に値すると言う見解とがあります。

 1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」この「弟子たちにも」と言いますのは、15章2節で、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」を相手にして15章全体にわたって語って来られたのに対しての、ここからは「弟子たちにも」話されたお話だというのです。しかし、これは弟子たちだけにという意味ではなくて、ファリサイ派や律法学者に加わえて弟子たちもと言う意味になろうかと思います。14節では「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いた」とはっきりと出て来ますので、弟子たちにもユダヤ教の人々にもという意味になることは明らかです。「弟子たちにも」聞かせようとしているのではありますけれども、背後にいるファリサイ派、律法学者たちを置いていることを見ますと、これから取り上げる問題は、弟子たちというよりもむしろ背後にいるファリサイ派や律法学者たちに当てはまる問題であることが覗われます。

 前週に学びました15章は、一口に言いますと〈失われたものを取り戻すことの大きな喜び〉という主題でまとまっていましたが、この16章では、財産、地上の富に対するわたしたちの態度・心構えを教えるという主題でまとまっています。この直前のたとえ、15章13節に、「放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たしてしまった」男が出て来ましたが、この同じ言葉が、今日の16章1節に取り上げられ「主人の財産を無駄使いしている」と告げ口された管理人が・・・と、再びたとえになり、財産の使い方、管理の仕方が具体的に語られるという流れになっているということです。

 「管理人」は当時は珍しくなかった不在地主に代わって、相当の合法的権威をもって財産管理を執行する者であり、商取引をすることも含まれていて、ときには本日のたとえにあるような取引をすることもあったと考えられ、利益分の幾分かは自分の収益とすることも決められていました。そして「告げ口をする者があった」は「訴えられた」ということです。財産管理がおかしいと告発されたのです。そして、「会計報告を出しなさい」と続きます。主人に対する釈明のためではなく、解雇を前提とし、後任に引き継ぐためのまとめをしなさいと宣告されて、その後に続くはずの解雇に至るまでの不正がどういう不正であったのかについては一切語られることはありません。話の中心はむしろ、会計報告を出す前に管理人がどういうことをしたのかということに移っています。

 3節〜7節「どうしょうか。主人はわたしから管理人の仕事を取り上げようとしている。」というよりも、もう取り上げること、免職が確定していて、それを前提にした上で、今後の対策を考えて行くという展開になっているのです。「土を掘る力もないし、物乞いをするのもはずかしい」、自分にはもう使える元手が一切ない。後は、預かっている主人のものでなんとか道を開くほかないと考えて、「そうだ、解雇されても迎えてくれるような者を作れば良いのだ」と思いついて、次々と「主人に借りのある者たち」を呼び、その負債を減額してやるのです。そうするとその人たちが恩義を感じて、自分が解雇された後に「迎えてくれる」だろうというのです。

 8節 そこで、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた。」つじつまが合いません。この譬(たと)えの難解な所はここにあります。負債者の負債をどんどん減額する管理人と負債者のやり取りを主人の目の前でやった。主人はそれをずっと見ていたということを前提にしないとこれは成り立ちません。しかし、こんな裏交渉を主人の見ている目の前でできるはずもありません。何年かの後に主人の所へ借りた人がやって来ても、おかしいと主人は気がつかないのではないか、こういう計算があってごまかしたという話です。「抜け目の無いやり方」は直訳すると、「思慮深く行った」となります。ここで注目すべきは「主人」という言葉です。ここまでの「主人」には、必ず「わたしの」(3、5節)、「彼自身の」(5節)と限定する言葉がついていました。この8節では限定されない「主」に変わっているのです。「主はこの管理人の思慮深い行いをほめた」と訳すべきことばなのです。つまり、たとえの中の主人とは切り離された主のことばとして言われているのです。これは、この後のルカ18章6節の〈不正な裁判官とやもめのたとえ〉で、「それから、主は言われた」と符合する言葉です。

 「この世の子らは、自分の仲間に対して、光りの子らよりも賢くふるまっているからである」神を信じる信仰者のことを「光りの子」と言い表すことは、ルカ福音書時代には、ユダヤ人の中に行われておりました。その場合に、そうではないこの世の信仰を持たない人たちは、「闇の子」と呼ばれました。ここで言われていることは、この世の信仰を持たない人々が自分の将来の不安に対して対処する態度と、信仰を持つ者が自分の永遠の運命について心配することを比べたら、この世の人たちは遙かに厳しく過酷である現実に直面していて、それへの対応を迫られているのだ」という意味になります。この痛烈な言葉は、ファリサイ派や律法学者だけでなく、弟子たちに対しても自分たちの生きることへの姿勢に対する厳しい警告の言葉となりました。

 9節「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。ここにある「不正にまみれた富」は11節にも出て参ります。「不正の、不義の」は「神の意思に添わない」という意味です。ヨハネ福音書12章31節にあります「サタンの支配下にある闇の世、この地上の、この世界の」と言う意味で、地上の富のことを「不正の富、不義の富」と言っています。「富」は、「マモーン」という表現です。これはアラム語で「頼りになるもの」という意味ですが、ここでは、神様に対抗するような人格を表す表現で、たとえば「この世の支配者」がそのような存在として表現されているのと一緒です。

 「友だちを作れ」は「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とありますように、明らかに神様の救いの出来事を語ろうとしています。「迎え入れてもらえるような友だちを作れ」と、つまり、「神様を友だちにするように」この世のマモンを用いなさいとそう言っていることになります。わたしたちがこの地上で預けられているマモン、富をどのように使って、どのように管理すべきかというと、神様の意向に添うように使いなさいと、このように言っておられるのです。それでは神様の意向に添うとはどういうことかと言いますと、それを次の10節以降で説明してくださっているのだということです。何に使うにしても、どんなことに財を使うにしても、10節以下に教える通り、「忠実に」使うこと、そして「この世の神に反すること」ではなく、「神に仕えるように扱うこと」このことを神は喜ばれるのだと言っているのです。

 10節以下はこれまでに語られたたとえの適用です。しかし、強調点は「賢さ」から「富への忠実さ」へと移行しています。「忠実」というのは相手とか問題によって変わるものではなく、事に当たるその人の姿勢のことを言っているのです。要するに人柄のことです。ですから小さなことにしても大きなことにしても、事を前にして変わらず事に当たることが求められているということです。結局、その人が主人との関係でどういう位置に自分を置いているのか、それが忠実ということの中身です。関心があるとか、熟達しているとかいう問題ではありません。主に対してわたしはどういう位置にいるとわきまえて事に当たっているかが問題なのです。

 11節〜12節「不正な富」を言い換えると「預かった他人の富」を預かった人の意に添わない形で誤用しているという意味です。「他人のもの」つまり、小さなものでも、大きなもの、本当に大切なものでも、わたしたちが使っているものはすべて神様のもので、わたしのものではない。神様からすべてのものを預かって管理を任されている。その管理を任されているこの世の賜物を忠実に管理することつまり、神に捧げ返すように用いる忠実さが、信仰者に求められているのだけれども、いまのところその与えられた賜物を間違った用い方をしているとの警告が「不正な富」という表現で語られ、誤用から神の意志に添う生き方へと、姿勢の転換を求めておられるということです。

 13節 地上のわたしたちの生涯というものは、結局、そういう風に神様に対して忠実に従っているかどうかが問われる、その忠実とはどういうことかその内容が13節に結論として語られます。「どんな召使いも二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない」。与えられた富に執着して富それ自体を目的とする人への警告です。神を離れて、富それ自体で生活の保証と安全・安心を得ようとすることへの誘惑です。古代においては福祉に変わる一般的な保護者と保護を受ける者との関係は、主人と奴隷の関係でありました。その場合保護者となる者は、保護を受ける者に対して与えることの出来る利得、すなわち生活物資を豊かに保有し、それを与え、奴隷の生活はそれで成り立っておりました。それに対して保護を受ける者・奴隷は主人の保護を受けると、債務状態、借りのある状態におかれ、主人に対しては忠誠と賞賛を表しました。古代から現代に至るまでのそのような社会の搾取という可能性、権力支配という威圧的な力は強烈に続いて来ております。イエスはその支配・被支配の人間関係の根幹にくさびを打ち込んだのです。

 そのような人を支配し抑圧する物質的な力を聖書ではマモン(悪魔的な力)と呼んだのです。そのようなこの世のマモンの威圧的で統制的なシステムに対して、イエスは惜しみなく与え、債務をも赦す新しい関わり合いの仕組みを提示して、この世において人々と関わる二通りのあり方を並列した後に、どのようにしてわたしたちがこの新しい実践の行動様式を取り入れるべきなのかを、6章35節に述べているのです。「そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」からであります。

 このメッセージはルカ福音書の主の祈りの一つの願いによく要約されています。「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(ルカ11章4節)この場合の「負い目」は主人と僕という枠組みの中で語られているのです。イエスは実質的にこう語っておられるのです。「あなたの隣人に対する負債の申し立てを、隣人の頭上に振りかざさないで、赦しなさい。そして互いに惜しみなく与えなさい。神ご自身があなたの申し立てを聞いてくださり、あなたに相応のものを支払ってくださる」。

 イエスはわたしたちの生活に深く根付いている社会システムから生活の重心を引き離して、神の国へと導こうとしてくださっています。同時に、神の恵み深い救いの業という根本的な動機をもわたしたちに示してくださっています。「神は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6章35節〜36節)ということです。

 このことを言い換えるならば、あなたがたの振る舞いにおいて神のようでありなさい、ということです。神は神を拒む者や、神の愛に報いない者によきものを差し控えることはありません。同様にあなたがたも、あなたがたの性質やふるまいが神ご自身の本質によって形作られるようにしなさい、ということなのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「宝物発見の喜び」 ルカ15:1-10
2025.9.14 大宮 陸孝 牧師
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカによる福音書15章5-6節)
 本日の福音書の日課15章は全体で一つのまとまりを成していて、その中で一匹の失った羊∞一枚の無くした銀貨∞いなくなった一人の息子≠フ三つのたとえ話で全体が構成されております。ルカ福音書は5章の断食問答のところでも、婚礼の客のたとえ∞布きれで継ぎをするたとえ∞ぶどう酒を入れる革袋のたとえ≠ニいうふうに、三つのたとえ話しを続けるという傾向が見受けられます。

 14章の終わりのところでイエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい」と呼びかけられていて、それに続いて一五章の始めでは、徴税人や罪人たちはそれでは「イエスに聞こう」というので「彼に近寄ってきた」という、そういう流れになっています。「近寄って来た」は未完了形で、前にも申しましたが、反復継続する行動を表す表現です。すると、律法学者やファリサイ派の者が「不平を言い出し」ます。この「不平を言う」も同じように未完了形で反復継続している状態を言い表しています。この一五章の出来事は、ある町のある時の出来事ではなく、イエスが活動している至るところで起こっているという言い方なのです。イエスが行かれるところいつでもどこでも、徴税人や罪人が聞こうとして近寄って来た。また、その都度、ファリサイ派や律法学者たちがつぶやき続けたというイエスの活動全体にわたる問題を取り上げる、そういう表現で語り出しているのです。

 そういう状況の中でのファリサイ派と律法学者の不平は「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」ということでした。「この人は」と訳されている言葉は原文では、「人」などという言葉は使われておりません。「こいつは」です。軽蔑と敵意をこめた表現です。そして、このところは徴税人や罪人たちがイエスに聞こうとして」近寄って来ているイエスの説教の場面なのです。「食事」の場面ではありません。つまり、ここで問題とされているのは徴税人や罪人のような人は、共同体の仲間入りをさせていいものか、いけないのかという問題です。その問題がずっとイエスの宣教活動の間続いているということです。

 ここで、ファリサイ派や律法学者達から「徴税人」や「罪人たち」とされている人たちのことについて説明が必要であるかと思います。「徴税人」は、ローマの関税請負人のことで、反社会的な存在として見られていました。通常、市民としての当然の役職から除外され、法廷で証人として立つ資格も奪われ、罪の償いをする場合は、免責あるいは依願退職だけでは足りず、窃盗犯と同じ、不当利得分にさらに五分の一を加算して弁証するという重さが要求されました。また、一切の市民権が剥奪されていたという点では「罪人たち」も同じで、詐欺師を始め、すべての犯罪人だけではなく、道徳的に品行のいかがわしいと見做される者までが罪人の範疇(はんちゅう)に入っていました。高利貸し、賭博師、遊女、羊飼いなどです。羊飼いの場合は、少人数の請負人を意味していて、他人の土地へ不法に羊を追い込んだり、他人の草を無断で食べさせたりする無法者という通念と蔑視が社会的に一般化していました。こういう人たちが「みな」イエスのもとに来たということです。

 非難点は明確です。社会の一員として復帰させてはならないし、食事の席などに招待することもならないこの社会から除外されている者たちを、迎え入れて、彼等と飲食を共にすることによってイスラエルの聖卓を汚したということであります。そしてこのようなことを敢(あ)えて行うイエスとは一体何ものなのかとの疑問と同時に、何者とも思えぬこの者が、神を冒涜するようなことを敢えてやってのける不遜な行為への怒りの表出です。つぶやきはただのつぶやきではありません。

 イエスはそのことへの答えをたとえをもって始めるのですが、本日の日課はイエスの初めの二つのたとえ一匹の失った羊≠ニ一枚の無くした銀貨≠フたとえの部分です。まず最初の見失った一匹の羊のたとえ話≠ナす。ルカは一匹の羊が行方不明になったことについて、その原因を「失われた存在」として描き出しています。ここではルカは羊飼いと羊との間の関係性の断絶を明確にしているのです。失われたのは両方の間の関係のことであり、その関係性の回復について語り出しているのです。神から離れ、関係性を失った人々が神に立ち帰る悔い改めの話しを始めたのだということです。

 そのたとえの結論の部分では、共同体への帰還を喜ぶということではなく、羊飼いによる喜びの言葉が一人称で語られて、ただ羊飼いと羊との関係性の回復を、喜びとして描いているのです。そして、さらにルカは「失われた羊のたとえ」を「失われた息子のたとえ」と結びつけて、罪を犯した一人の人が、神から離れて自分勝手に的外れな生き方をし、惹き起こした諸々の深刻な結果に対する自覚とともに、関係の回復へと帰還する、神に立ち帰る(悔い改める)罪人の姿を指し示して行くのです。そして同時に、ルカはここで、悔い改めを必要としない人々(九九匹の羊)の存在にも言及し、このたとえ話の背景の中に描かれているファリサイ派と律法学者たちをも指し示して行くのです。彼らは、徴税人や罪人達と共に食事をするイエスを非難する人々としてここに登場していて、最終的には救いの達成に必要な神への立ち帰り「悔い改め」を拒絶する存在として描かれているのです。

 ファリサイ派と律法学者たちはイエスとその仲間に対して「文句を言い始めた」とされていますが、この表現には自分を義人であると思い込み、イエスによる宣教の働きを否定する人々への批判を展開していると見ることが出来ます。ルカにおいては失われた一匹の羊は、除外されている社会に復帰するという問題ではなく、羊飼いの手に戻されています。そして、九九匹の羊である義人たちは「悔い改めを必要としない者たち」となっていて神から離れているという自覚を持たない人たちのことで、立ち帰る罪人との対照的な立場が明確に区別されています。ルカにとっての失われた羊、それゆえ立ち帰るべき羊とは、異邦人をも含む神から離れているすべての人間を指し、その人々一人一人の「悔い改め」そのこと自体を主題としているのです。ルカが強調しようとしているのは、「悔い改めを必要としていない」神から離れていることを自覚していない人たちの人間的な正しさに対する、神から離れている一人一人の悔い改め、神への立ち帰りの重要さであります。

 二つ目のたとえ8節から10節の失われた銀貨のたとえ≠ナは、前の失われた羊のたとえ≠ニ対をなして、二つで一つのことを語っていると考えられます。同一主題を語る二つのたとえの重なりによって、同一内容が一層強調されているということです。この二つのたとえによって、失われたものを探し求める神の愛、そして失われた者を再び見つけ出すことができた神の喜びが語られている。そういう意味で、このたとえ話の内容と、これを語るイエスとは堅く結ばれている、つまり、このたとえは、イエスの働きと、その生活、そしてその人格において何が起こっているのかを語っているたとえだということをわたしたちはしっかりと認識しなければならないのです。このたとえは常にイエスという方がどなたなのかを指し示し、そこで生起していることは神が失われた者を探し出す愛の出来事なのだということを指し示しているのです。

 8節「ドラクメ銀貨十枚を持っている女がいて、その一枚を無くした」ここに言われている銀貨一枚の価値は日本円にして百円だとして、その銀貨が十枚そろったところで、それはたいした金額ではありません。この一枚をなくして、「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで探す」と言われています。イエスはそう語ります。「ともし火をつける」というのは、それが夜のことだからではありません。窓のないパレスティナの貧しい家では、戸口から漏れる陽の光りだけでは室内は暗いので、そこで紛失したたった一枚の小さな銀貨を見出すことは容易なことではない。明かりをつける。それだけではなく、「家中を掃く」。おそらくは棕櫚(しゅろ)の箒(ほうき)をもって、家財をどかしながら探すということでしょう。家の床は石ですので、注意深く掃き、耳を澄ませて掃けば、銀貨が石に触れて音を立てます。目と手とを用いて探すだけではなく、耳を傾けて、全ての感覚を澄ませて注意深く探すということです。

 失われた銀貨とはだれのことであるのか。ここで言う失われた者とは、かつてイエスの手の中にあった者、神の民であったにもかかわらず今そこから失われた者だと考えられます。イスラエルの民、神の民から失われた者とは、元々信仰の群れにあった者が、そこから遠く離れ去った者という意味で言われています。それは、イスラエルの民に限定されるものではなく、イスラエルの民の枠を超えて、今日の教会において洗礼を受けながら群れの外に離れ去った者についても妥当すると考えられます。そしてさらにもう一歩踏み込んで、未だに教会の群れに加わったこともない人々へと一般化して解釈することもできるでしょう。人類は確かに失われた神のもの、失われた神の民である。そういう意味で、世界の一人一人一般のこととしてわたしたち一人一人に語られているのだということになります。わたしたちのこの世界のあらゆる時代、あらゆる場所において「本当はイエスのものであるのに、遠く失われている人間」を、神がその喪失を痛み、熱心に捜索し、必ずや探し出して喜ぶ。「話しを聞こうとしてイエスに近寄って来た」人々は、イエスにとってそのような人々の一人一人であったのです。

 そして、失われた者としてのわたしたち一人一人は、神から離れているにもかかわらず、自ら神のもとに帰ることが出来ないでいます。自らの力で神を見出すことが出来ない。そのわたしたちの無力がこの譬(たと)えから浮かび上がって来ています。そのわたしたちの無力を徹底的に描き出して、そのうえで、なお「罪人の悔い改め」について語られているのです。悔い改め「神への立ち帰り」とはどういうことなのでしょうか。ここではそれは、人間を探し求めて止まない神の方からの見出しとして、神がほかならない失われているわたしたちを見出して下さることとして表現されています。「悔い改め」とは神がわたしを見出して喜んでくださる。神がわたしたち一人一人を探し、見出すそのこと自体に他なりません。

 神はイエス・キリストにおいてわたしたちの所に来られます。そのイエス・キリストにおいてわたしたちは見出され、赦され、喜ばれている。そこにわたしたちの救いが成就していることを、わたしたちが恵みとして受け取るということがわたしたちの「悔い改め」なのだということです。エルサレムに向かう旅の途上でこのたとえを語られたという脈絡・配置は、十字架へと進まれるイエスとこのたとえは結びついているということです。十字架に向かわれる主イエスの姿は、わたしたち失われた者を一人一人捜しておられる神の姿なのだということです。十字架へと進まれるイエスの姿に於いてわたしたちを探しておられるということです。今日も神は、十字架にかかられた主イエス・キリストにおいてわたしたちを探し、見出し、そしてその結果としてわたしたちを見出した喜びをもってわたしたちに臨んでおられるのです。

ファリサイ派や律法学者たちの、失われた者に対する無関心は、神の民には相応しくありません。人間に対する無関心はイエス・キリストにおいて実現する神の民の群れに相応しくありません。そして、一人の人間の価値は、人間共同体の内側の人間同士相互の評価にあるのでもありません。その一人一人を失う神の喪失の痛みの大きさ、神ご自身のひとり子の喪失と等価とされるほどの大きさ、またキリストにおける神の捜索の熱意の中に明らかであります。「失われた者」の救いが神の愛の目的でありました。救われた一人の人間には神の御子と同じ価値が与えられています。神の人間を救う愛の働きが人間の価値を創造しているのです。わたしたちは今この礼拝のただなかで、神の人間発見の喜びに参与しています。ここでわたしたちは神の喜びに与って、わたしたちもまた精一杯喜びを表す集いをしているのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「神の国を目指して」 ルカ14:25‐33
2025.9.7 大宮 陸孝 牧師
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカによる福音書14章26節)
 先週に続いて、イエスがファリサイ派の議員の家での食事が終わり、そこを出ると、大勢の群衆がその後を追って来ます。そこでイエスは振り返り彼らの方を向いて言われます。対象は群衆ですが、しかし、イエスはその群れに漠然と語りかけられたのではありません。振り返り、向かい合って、弟子であろうとする者の覚悟を明確にされるのです。

 26節「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」

 イエスのもとに大勢の人が集まり、またイエスの後に大勢の人々がついて来ました。しかしイエスは、人々がイエスにあこがれイエスの弟子になることを、容易で利益になることだと考えるような風潮に対して、明確に否定を言われたのです。そしてここで、自分の弟子になるために、憎まなければならないものを数え上げておられます。この「憎む」という用語は、比較級で、対立概念で言い表す当時の人々の慣用句で、「より少なく愛する」という意味になります。

 イエスは家族の者の名をあげ、父から始まって、子供、兄弟、さらに自分の命にまで及んで、それをより少なく愛し、拒否することを要求されているのです。ここにあげられているのは家族の全員であり、一人の例外も許されていません。そして家族とは、自分を愛してくれ、自分を支えてくれ、自分が最も気楽につきあえる大切な人たちであります。その家族の中で一人残らず対立し、その人たちの願いや意思を斥けることも覚悟することであるというのです。その覚悟が出来ない程に親密な相手を持っているということは、イエスの弟子として、その後に従おうとする者にとって、ふさわしくないことであると断言されるのです。父親への服従、夫や妻への忠実、愛すべき子供の幸せを望むことなど、極めて自然な人間の情でありますが、しかし、その関係さえも、決断をもって断ち切る覚悟が求められているのです。要するに自分の生活が中心になり、それを大切に守ろうとしている人々は、結局、イエスの召命をおろそかにし、拒むことになるのであると主は語られるのです。

 これはずいぶん厳しい言葉であり、衝撃的で過激とも取れる言葉です。この言葉に躓(つまず)きを覚える人も過去には多くいたであろうと思われます。これはまさに厳粛なわたしたちの生き方の現実そのものを言い当てている言葉であるということです。それでもなお、イエスは「もし」わたしの弟子となろうと望むならば、どんな辛い犠牲を払ってでも、「イエスに従う」という無条件の決断をすることを真実に期待されているのです。言うまでもなく、イエスは出エジプト記の十戒の第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」を無効にするようなことを考えておられたのではありません。(ルカ18:19節〜20節)イエスは決して家族を否定してはいません。またわたしたちが親しい友人を持つことを否定したりはなさいません。むしろ、家族のために暖かい配慮をしたり、親しい友人を得て深く暖かい交わりを持つことを認めておられ、祝福しておられます。イエスに従うということは決して人々といがみ合ったり、対立したり、また人々から孤立することでもありません。
 イエスがここで問題にされていますことは、イエスを主としてそれに従う者の、隣人に対して持つ主体性と自由性のことです。イエスに真実に従うためには、親しい者たちへの思いや、人間的な繋がり、血縁・地縁、義理・人情といった今までの自然的なつながりや愛と、それを超えたイエスが与えるあたらしい基準との間には明確な境界線があり、その境界線を越えてイエスに聴従して行くには、この世からのきっぱりとした悔い改め、すなわちキリストの愛の完全さと純粋さにしっかりと結びつくことが求められているのです。ただ単に人間的な愛着、お人好し、ただの追従は許されないのだと、イエスはわたしたち人間の弱さ、脆さ、危うさを乗り越える道を示そうとしておられるのです。

 イエスの弟子になること、それはルカにとって郷里をはじめ一町村、一地方にとどまらず、神の国まで旅をする旅人としてのイエスに従うことであり、それは一民族や国家の法秩序や習慣を超えて人々を自由にし、人間の的外れを赦(ゆる)しながら、神の国を宣べ伝えるイエスに従うことでありました。それは結局は、神のもとから降りて来られ、この世の民族や国家や宗教の枠組みを超えた、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも他の外国のすべての民の主となる神の子に従うことに他なりません。ルカの描いているイエスをそのようにとらえた上で、イエスの弟子入りの資格または条件について理解を深めて行く必要があります。

 イエスのエルサレムへの旅の途上で、ある者がその旅にどの時点で、どのようにして加わって行くことになったかは、ルカ福音書の中でいつも明らかにされているわけではありません。5章1節から11節の場合のようにいくつかの場合では、明らかな「弟子への召し」と本人の召し出しへの応答が記されておりますが、他の場合には、たとえば7章1節から10節、36節から50節、8章43節から48節などですが、それまで明らかにされていない人々で、しかも明らかに「主の道」からほど遠い人々が、あたかもすでにその旅の途上で弟子として従ったかのようにも受け取れる曖昧とした表現になっています。そして、さらには、イエスの出会いには二つとして同じものがありません。ルカは、いろいろな形の弟子召命の出来事を一つの標準的な型に収めるような書き方をしておりません。ルカは一人一人の人生の具体的な状況においては様々であり、まさに飼うもののない失われた羊のような、統率のとれていない、生き方の上での生の曖昧さ、多様さをそのままリアルに描きながら、イエスがその失われた一人一人に出会うとはどういうことなのかをここで語ろうとしているのです。

 ルカは5章1節以下で、イエスが人々の所に行き、共に弟子に加わるように呼びかける様子を描いています。ここでは、とにもかくにもわたしたちがイエスの弟子となることができるようになるのは、イエスの方から人間の状況の中へと、憐れみをもって深く介入してくださったからであると語っているのです。イエスは唐突に、それまでのやりとりもなしに、「わたしについて来なさい」と命じられます。つまり、イエスはここで自らの主導権をもってわたしたちを招いておられるということです。そして、その主導権は、わたしたちの宗教的、社会的・文化的な境界線を超え、自らを「罪深い者」と自己表明する者(5章8節)や徴税人(5章27節)を呼び集め、女性たちをも自分の弟子の中に数えて行きます。

 イエスはご自身の主導権により、わたしたちの生の現実に踏み込んでわたしたちを自分のもとに招かれます。そして同時にわたしたちの生について真剣に問いかけ、イエスの招きに信仰を持って応答することを求められます。つまり、イエスが与えようとしている神の国という賜物を信じ受け取るか否かです。この世の絆を超えた、神の国への招きへの絶対的な応答を求めておられるのです。

 33節「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなた方のだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」この「一切を捨てる」という表現はルカ福音書では、既に5章28節に出て来ておりました。「イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従って来なさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」従ってきたという未完了形は、一切を捨てて従うことが継続性を持つものとして表現されていて、それ以前の生活様式からの決別であり、そこには戻らないことを意味しています。弟子としてイエスに従うことは、イエスの召し出し以前の生活様式とそれ以後とは全く別の、新しい状態に移行することを示しています。この徴税人の場合は、人々から税を徴収する仕事をしている〈主イエスから離れた罪人〉の状態から、イエスの福音宣教のために一切を捨てて、イエスについて行くという全く新しい生活行動を取るということを表明しているのです。

 この「一切を捨てる」という弟子として従う条件を示す表現は、九章五七節以下、14章25節以下、18章18節以下の三箇所に記されています。そのどれもエルサレムへの旅の途上の、エルサレムの旅の初めと、ほぼ真ん中と、旅の終わり近くに位置づけられています。これは、旅の流れを十分に考慮して配置され、「神の国」との関連で語られていることが分かります。その中の本日の日課の所(14章25節〜27節)の「家族と自分の命までを捨て」ですが、この部分はその後に続く二つの譬(たと)え、邸宅を建てる者の譬(たと)えと戦いを挑む王の譬(たと)えを挟んでもう一つの類似の弟子の条件についての言葉と対をなしてこの譬(たと)えの枠となっていると見ることが出来ます。イエスの招きのもとに弟子となって従う条件として、家族の絆、自分の命をも惜しまない、自分の持ち物一切を捨てるという、これは明らかにイエスの招いておられる神の国が、秩序として、価値として、すべてに優ることを強調しているのです。イエスに従う決定的な時は常に家族の縁などの一切に先行すること、イエスの招こうとしておられる神の国の秩序を先行し重んじなさいと言っているのです。

 そして「自分の命を捨てる」ことについてですが、人間には自分の命は一つしかありません。したがってイエスに従うために文字通りに自分の命を捨てるという極限状況は、具体的な生活の上では殆ど起こりえないことであります。しかし、自分の命を保持しようとしてイエスに従うことが危うくなるとするならば、生命を惜しむべきではないと言っているのです。それは家族の絆についても、他の全てについてもまったく同じであります。イエスに弟子入りするにしても、神の国への招きに応じるにしても、イエスが求めている心構えは同じ、家と家族を含めて、自分の命までをも神の国とイエスに従うことに先行させてはならないということです。

 こうしてルカは、ここでイエスに弟子入りする際の心構えとして二種類の放棄すべきものを例示するのです。資産と家族かそれとも神の国のためにイエスに従うのかの二者択一の状況に立った場合、イエスに従うことがイエスの弟子としてのあるべき姿である。その典型がペトロを初めとするイエスの弟子たちの召命に答える姿なのだとルカは語っているのです。この後実際にイエスに従って行った弟子ペトロたちはイエスの十字架の死に際して、イエスを否定したり逃げ去ったりしました。しかし彼らは自分たちの生涯の終わりにはイエスのように捉えられ、イエスのために殉教して行くこととなります。(使徒言行録12章1節〜5節)結局イエスに従った弟子たちは「自分のもの」「自分の命さえも捨てて」イエスに従ったがゆえに、ルカは弟子たちを、イエスか自分かという二者択一の危機的状況に立ち至った場合の弟子のあるべき姿の典型と見做(みな)したのでした。ルカ福音書では、人々を救うイエスの救済活動は、自由、解放、赦しということばで統一されます。つまりその解放とは、わたしたちのこの世への執着から離脱し、新しく神の国への招きに応答して行くことだったのです。

 財産や家族の絆から離脱することが弟子入りの条件であるとする場合に、そのような要求をイエスは一体だれに要求していたのか。具体的にだれのことを考えているのか。カトリックが解釈しているように、それは教会の指導者層に向けられているということなのだろうか。しかし、ルカ福音書のイエスの旅の途上での教説では、そのような教会員の類別をして教えておられるのではありません。14章25節以下では「大勢の群衆がついて来たが、イエスは振り向いて言われた。『もしだれかがわたしのもとに来るとしても・・・・だれであれ、わたしの弟子ではありえない』」と区別も類別もない表現をとっています。18章29節のペトロに対するイエスの言葉にも、「神の国のために、家、妻、・・・・子供を捨てた者はだれでも」とあります。ですから、これらは、すべての人、だれにでも当たるべき言葉として語られているということです。このような厳しい弟子入りの条件を一定の教会指導者にのみ当て嵌(は)めたものではないことは一目瞭然です。

 このように、ルカが弟子としてイエスについて行く厳しい条件をことさら、エルサレムへの旅の途上に於いて言われたとする理由は、エルサレムが受難の死の場として、その旅が十字架への道であるという特別に危機的な状況の中にあって、イエスに従って行くことはそれ相当の弟子としての心構えと、大きな決断を要する問題だからでありました。これから先イエスは、神の国、神の愛の支配の完全な実現のために、受難と死を厭(いと)わない王としてエルサレムに旅し、自らの命を掛けて行くのです。そして、その後に従おうとするすべての者に向かって、自分が歩もうとする道について十分に考え、洞察を深め、真実な祈りと願いをもって、自分の全てを捧げて、永続的に生涯を掛けて従うことを求めておられるのです。信仰の歩みは、人生の大事業であり、自分の生涯を掛けるに値する喜びの歩みである。されば真実の確かなみ言葉に聞くことを人生の土台に据えて歩んで行くことが求められているのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。
 
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