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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2025年6月礼拝説教


★2025.6.8 「神は生きる力を与えてくださる」ヨハネ14:8-17
★2025.6.1 
「祈っていてくださる主イエス」ヨハネ17:20-26

「神は生きる力を与えてくださる」ヨハネ14:8-17
2025.6.8 大宮 陸孝 牧師
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネによる福音書14章16節)
 先々週の復活節第6主日の福音書の日課はヨハネ福音書14章23節から29節で、そこで申し上げましたが、ドイツのルター派の教会では、この箇所は古くから聖霊降臨主日の福音書テキストとして読まれているところでした。本日聖霊降臨日にわたしたちに与えられております福音書の日課はその直前の箇所に戻る形になっています。

 先々週に13章終わりの部分から17章までの大まかな構成をお話しし、この14章の部分については告別説教の中心部分に当たることを申し上げました。告別説教そのものは14章から16章まで続いて、17章で主イエス・キリストの最後の祈り【執り成しの祈り】となります。イエスの執り成しの祈りですので、【大祭司の祈り】とも呼ばれているところで、先週の復活節第七主日の福音書の日課になっていて、順序が不規則に前後して少し分かりにくくなっているので、流れを再度確認しながら内容を把握していくことが大事かと思います。

 それで、14章8節以下の本日の日課でありますが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」という、弟子たちを代表したフィリポの質問から始まっています。これまでにイエスに従ってきた弟子たちには、実はイエス・キリストがわたしたちの所に、父なる神から遣わされて来た神の子であることは分かっていませんでしたし、そのような方として本当の意味でイエスに真に出会ってもいませんでした。それもそのはずです。これまで、人間はすっと神から断絶したまま、神の栄光を失った存在だったのですから、それで、ヨハネは、人間は誰も神を見たことがない、ということを極めて強調しています。

 旧約聖書の創世記は、神は天と地と人間を創った創造主として、すべての自然界と人間を超越した存在であることが主張されています。そして神はご自分の意思を人間に伝えるのに、嵐や雷雨や雲の中で人に語りかけるとあり、また預言者イザヤは幻の中で神の衣の裾を見たとあります。旧約聖書には神は預言者などの口を通して語りかけ、人間に意思を伝えるとありました。そして後期ユダヤ教では神は律法を通して民に語りかけている、だから律法を知ることが神の御心を知ることだと主張していました。

 フィリポの質問に対して、主イエスは「わたしを見た者は、父(神)を見たのだ」と明言されます。ヨハネ福音書は、三十数年ガリラヤとユダヤに生きて宣べ伝え、十字架に掛かり、そして復活されたイエス、明らかに一人の人間としてこの地上を歩まれたイエスを見た人は父なる神を見たのであるとここで断言しているのです。

 9節以下12節までに「信じる」という言葉が繰り返し出て来ます。少し前の7節には「あなたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」とありました。「知る」ことと「信じる」こととの関連性が強調されているのですが、簡単に言いますと、イエスを神から来た方として知ることによって、信じることが出来るようになるということを言っているのです。
 ここでいう「知る」「認識する」ということばは、旧約聖書ヘブライ語のヤーダーが背景になっているのですが、これは、人間の「見る」「聞く」という、視覚、聴覚、他の感覚を通して認識するということではなくて、相互の交流を通して認識すること、主体と客体が相互に関わり合いを持つことを通して、相互に認知していく、理解して行くことを言っているのです。つまり人格的に関わり合いを持ち、理解を深めて行くことを言っています。「人は神と何らかの関係を持って、その関係の中で神を理解して行く」ということなのです。

 そしてさらには、神を知るということは、わたしたちの方から神を究明して行くのではなく、神がわたしたちに働きかけてくださる、それをわたしたちが全人格をあげて受け止めて行くことを通して神を理解し、把握して行くということであります。神はわたしたちの人類の歴史の現実の中に来てくださいました。わたしたちはわたしたち人類の歴史の中で働く神の実際の出来事を通して神を理解して行く、それが神を知るということなのです。ミカ書6章5節「主の恵みの御業を知るがよい」とありますように、神の存在を認識する、あるいは神の御業を認めること、神を知ることと繋がって、さらにそれが神を神として崇める行為になる。「神を神として知る」ことは「礼拝する」「神を讃える」ことなのです。あるいは「信仰の告白をする」ということを言うのです。

 神を知るということは信仰の具体的な生活の経験の中で、生き生きとした感性を伴って、自分の実存の全存在をかけて、情熱を込めて対象と関わることの内に認識させられて行くということに他なりません。ヨハネ福音書の中には、「信仰」という言葉が名詞形で出て来ることは一回もありません。動詞の形(ピステューオー)【信仰する・信じる】でしか出て来ません。「神を知る」ということは大変ダイナミックなわたしたち信仰者と神との関係をあらわしています。活力と成長を伴った命を生き生きと生きる動的な応答関係を現しています。

 7節にありました「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」これは、イエス・キリストの誕生に於いて、わたしたちは歴史における神の働き、歴史を歩まれる神を認識できるということを語っておられたのです。つまり神の認識、神の知識はイエスに啓示されている。それ以外では、聖書において、キリスト教において神を認識することは出来ないということです。主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」と言い、さらに「それを除いて神に至る道はない」言ったのは、そういうことなのです。わたしたちは「神様がいるのか、いないのか」ということを思念的に考えても分かりません。しかし、イエスというお方において、わたしたちは神を見ることが出来る。神を認識することが出来る。神に出会うことが出来る。こうして共同の礼拝を持ち、神の御前に召し出され、神を讃美し、神に祈り、聖書の御言葉に触れることを通して、わたしたちは神との人格的な交わりを生き、また命を支えられるのだ、あなた方が本来帰属すべき場所はそこだとイエスは宣言されているのです。

 15節以下の所は、この前の10節から14節の「信じる」という言葉に代わって、突然「愛する」という言葉が表れ、それと同時に何の説明も前置きもなしにいきなり、パラクレートス「助け主」「弁護者」の到来がイエスによって告げられます。

 15節〜16節 主イエス・キリストは今この世から去ろうとしています。十字架にかけられて死を遂げようとしています。その十字架の死の出来事は、弟子たちを当惑の内に生きる目標を失ったままの状態に放置するのではなく、パラクレートス「助け主」を与えてくださり、永遠にあなた方と共にいて、共に新しい時代を生み出して行くのだと語られます。信仰のない人から見て、イエスの十字架はイエスの死を意味するだけでありますが、その先にパラクレートスを与えられて新しい状況へと突入して行くのだ。つまり聖霊の働く時代、聖霊が導く時代へと突入して行くと告げています。そのようにして聖霊は助け主として、永遠に生きる信仰者と共にいると告げられるのです。

 この世に降誕したイエスのこの世での働きと御言葉、そして、十字架の死と復活によって、神がどのような方であるのかその本質が啓示され、イエスの十字架と復活の出来事の後に、今度は聖霊の働きによって、あなた方を導くと語られます。神の働きはイエスの十字架と復活の出来事をもって終了したのではないということです。復活とイエスの高挙の出来事の後の聖霊降臨以降は、教会の歴史を導かれる聖霊の働きにおいて、わたしたちを導き、励まし、また新しい信仰を起こされるということです。

 17節「この方は真理の霊である・・・この霊があなた方と共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」1節から17節を通して見ますと、これは別離に際しての言葉ではありますが、しかし、強調点は別離にあるのではなく、むしろ、今まで以上に強く、イエスが「一緒にいる」ことを説いていることに気づかされます。わたしは行くが、あなた方と無関係になるのではなく、「また戻って来る」それは、「わたしのいる所に、あなた方もいることになる」と語られます。

 3節では「戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と語られ、12節で「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と語られていました。わたしたちのもとを去るイエスがまた戻るが、その戻るのは終末の時、世の終わりの時ではなく、別な形で、つまり「助け主」「真理の御霊」「聖霊」として現れる、それはいつか分からない遠い先のことではなく、今既に現れて、「あなた方を導いて、あなた方を信じる者へと押し出している。そしてわたしの命に繋げられて、あなたがたはわたしといつも共にいる者とされている。そしてわたしの聖霊の力を受けて、イエスと同じ業、あるいはもっと大きな神の働きの担い手とされる」というのです。

 「助け主」は「傍らに呼び出す」という言葉に由来しています。弁護士という職業はわたしたちの手に負えない法律上の問題を解決するために助力してくれる専門家ですが、そのように、わたしたちの手に負えない、一人では立ち向かえず、処理できない問題に助力を与える者として呼び出された者のことです。「助け主」の力は、何も持ち合わせのない者、無力でこの世の罪の現実の中で立ち往生している者に、それでも新たに生きる展望と希望を与えてくれる者、恐れ、迷い、怖じ気づいてしまっている人間が持ち合わせていない、命の回復力、復元力を与えて、継続的に命を保持して行く力と言うよりも、むしろ命を揺り動かし、新しく造り変え、積極的な姿勢をもって問題に取り組ませる力のことを言っているのです。そのような力としてイエスは「いつまでも」わたしたちと共にいてくださる。「いつまでも」は単なる時間の長さをいうのではなく、状況の広がり、いつでも、どこでも、どんな状況の中でもという関係の密度の濃さを示しています。天の父なる神のもとにおいてと同時に、既にこの地上のわたしたちの生においてであります。天と地が直接に結びつけられているのです。天国はあなたがたとともにあるのです。イエスが働いているところ、そしてイエスを信じている者がイエスと共におるところが天国なのです。わたしたちはここに立って、与えられた命を信仰を持ってイエスと共に歩み始めたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。
  
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「祈っていてくださる主イエス」ヨハネ17:20-26
2025.6.1 大宮 陸孝 牧師
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」(ヨハネによる福音書17章21節)
 ヨハネ福音書17章は、全体が主イエスの祈りになっているところです。他の共観福音書では「主の祈り」を始めイエスの祈りはいくつかありますが、この箇所のように1章全体にわたって祈りが記されている所は、ほかにはありません。この祈りの後18章からは、イエスがいよいよキドロンの谷に向かう、主イエスの受難物語に展開して行くところです。共観福音書でのこの箇所のイエスの祈りは、谷の下方に降ったところにあるゲッセマネの園での祈り、迫り来る受難と死という現実に対して、この苦い杯をわたしから取り除いて欲しい、しかし、父なる神の御旨のままになるようにというイエスの切実さが伝わって来る祈りに相当するところです。

 しかしながら、この17章の祈りは、ゲッセマネの祈りと同じような位置に置かれてはいますが、その内容は全く違っています。ここにはイエスの切迫した危機感とか、絶望とかの叫びはありません。神とイエスとの聖別された永遠の交わりがにじみ出て来る、神とイエスとの深い絆が静かに、そして豊かに表現されている祈りとなっている。しかもその祈りの背後に、主の十字架への道があるという構造になっているのです。この祈りは一六世紀以来イエスの「大祭司の祈り」、あるいはこの世との「主イエス・キリストの決別の祈り」と呼ばれているところであります。

 主イエスは「これらのことを話してから、天を仰いで言われた」(17章1節)という描写を挿入して、12章からずっと続けて来られたご自身の話を中断して、しかも、今まで話しを聞いて来ている弟子たちをそのまま祈りの聴衆者として、天を仰いで祈り始めるのです。

 17章のこの長いイエス・キリストの大祭司としての祈りは、内容的に三つに区分することが出来ます。一番目が、1節から8節、主イエスの・キリストの、父なる神に対する祈り、二番目が、9節から19節で、主イエス・キリストの、聖なる父に対する祈り、第三番目が、20節から26節で、また戻って主イエス・キリストの、父なる神に対する祈りが記されています。それぞれの区分の冒頭に「天を仰いで言われた」、「彼らのためにお願いします」、「彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします(つまり福音に触れた人たちのためにもお願いします)」という区切りの言葉から、17章が三部構成で成っていることがわかります。

 主イエスが誰のために祈っているのかによって区分されています。その一つには、彼ら(6節、7節、9節)と呼ばれ、神によって特別に「世」から選別されてイエスに賜った者、すなわち直接の弟子たちのことで、主イエスとの独自な信頼関係にあった者のための祈りと、その弟子たちが負っている宣教の使命のための祈りであります。その祈りの第三の区切りである20節から26節までのところが本日の日課となっているのです。その20節は「また彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と祈っていますので、弟子たちの宣べ伝える福音の言葉によって、わたしを信じる人々のためにもお願いしますと記されているのだということです。主イエス・キリストのその後の福音宣教、伝道の業に触れたわたしたち、わたしたち教会を構成している者、その人々のためにも「お願いします」と主イエス・キリストは祈っているということです。この大祭司としてのイエスの執り成しの祈りが、この後、この部分を読むすべての人々、そしてまた、主イエス・キリストを信じる信仰に於いて、礼拝に参加しているわたしたち自身にも向けられている祈りであるということを意味しているということなのです。

 20節「お願いします」とありますので、祈りの趣旨が執り成しであることが分かります。しかし、内容は新しいことがらへ展開しています。19節までは、執り成しを受ける人たちは直弟子のみに限られていましたが、ここでは、その弟子たちによる福音の真理の護持とそこに生まれる信仰者たちの一致が勧められます。弟子たちが宣教の使命をもって、この世に遣わされ、その「彼らの宣教の言葉」によって、そこに新しく「わたしを信じる人々」つまり教会が永続的に生まれて来る、その人々の福音の真理による一致を祈り求めているということです。主イエスの執り成しの祈りの射程は将来に向かい、終末の時点にも及んでいくのです。

 21節は20節の従属の文で、文章の上では一つの文を構成しています。宣教によって「キリストを信じる人々」は増大し、やがて「すべての人」を含むに至ります。これは父なる神からイエスに委託された「全ての人を支配する権能」(2節)に基づいているものです。こうして将来にわたり、新たに教会に加わる信仰者が生まれて来ます。その人々は既存の信仰者と一つにならなければなりません。このことが21節から23節に「全ての人を一つにしてください」「彼らが完全に一つとなるためです」と三回繰り返されているのです。そしてこのことが強調されているのは、父なる神と子なるイエスが独一な一体性の中に信仰者たちをも加えること、それこそイエス・キリストのの固有な権能・責務であり、その神の与えたもう責務を全うするためにこそ、これから十字架に向かおうとしているということになります。

 この宣教による教会の群れの広がりは、すでに 10章16節で表現されていました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいるその羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」この主題が「彼らが完全に一つになる」と、この23節でも繰り返されているのです。ここを直訳しますと、「彼らは一つに向かって完成する」となります。つまり終末論的な意味合いをもって表現されているのです。つまり彼らの一体性の基底には何があるのかといいますと、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたのうちにいるように」(21節)「あなたがわたしの内におられる」(23節)という、父なる神と子なるイエスとの人格的な関係、信仰者がこの人格的な一体性の関係の中に加えられ、「永遠の命を授けられ(2節)、「真理によって聖別され」(17節)るということを繰り返し語っているのです。

 教会の一体性とはどのようなものなのか、その具体的な言質が「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」という言葉です。(22節)「栄光」はヘブル語〈カーボード〉に由来していて、神が神であることの威光と輝き、存在と働き、その全性質と全職能の顕現を意味し、その神の栄光を、父のひとり子として神から遣わされたイエスの存在を通して「恵みと真理」において人間の目に見える形で啓示されたというその栄光とは、イエスの十字架の死と復活という究極的に顕現された出来事のことであります。イエスの言葉を神の言葉として受け入れ、この事実を信仰体験した弟子たち、そしてまたその弟子たちの証しによって教会が生まれて、その人々がこの十字架の死を共にし、復活という究極の神の勝利に与ることによって、さらにこの世全体がその十字架と復活の栄光に包まれて行く、神はこのようにして、この世を御子において徹底的に愛し抜かれ、その救いのために御子イエスをこの世に遣わされ、神の恵みの賜物として信仰者が父なる神と御子との交わりに与り、そこで神の賜物としての一体性が信仰者の群れ全体を包み込んで行くと言われているのです。この世への広がりの視野で栄光が言われています。ヨハネはその世について、「神はこの世を御子において極みまで愛し、その救いのためにイエスを遣わされた」と繰り返し語っております。(3・16〜17等)

 24節〜26節 ここは17章全体の締めくくりの祈りです。父への願いの祈りではなく、「こうしたい」というイエスの最後の強い祈願と意思が示されます。それは、「わたしの栄光を彼らに見せる」ことです。イエスの永遠の栄光を「彼らが見る」ことです。わたしたちが天的な栄光を「見る」ことが可能となる「わたしのいる所に、共におらせてください」との弟子たちの天における交わりを祈るこの祈りが実現する、終末の時のことを意味しています。そしてその次にそれが実現するまで弟子たちを守り導くことを祈るのです。

 「世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています」(25節)この人々とはイエスの直弟子たちのことで、この節の祈りは、イエスの派遣の意味を知らされた弟子たちをこの世で守ってくださいという祈りです。この人々を守る具体的な施策として「わたしは御名を・・・これからも知らせます」(26節)と展開しているのです。イエスはこの後すぐに十字架への道を歩まれてこの世を去ったのですから、この言葉は「聖霊の働きをこれからもこの人々に送る」と祈っているということになります。イエスが地上の生涯を終えた後もイエスご自身が、聖霊において、主として教会に現存し、御名をわたしたちに啓示し続けるとの祈りをもって、世を去るイエスの地上に残される弟子たちのための執り成し、特に直弟子たちの宣教によって生まれる後の教会への真実の執り成しの祈りがなされてゆきます。

 このように、主イエスはこの世を去ろうとしている今、目の前にいる弟子たちを神に執り成しつつ、この弟子たちの宣教によってわたし(派遣された御子イエス)を信じる人々、つまり、その後の教会のために祈られるイエスを知ることはわたしたちの大きな励ましとなります。この祈りの中に既にわたしたちも包まれているのですから。現代のアジアの片隅に生きるわたしたち一人びとりがイエスの祈りの中にある。初代教会から二千年の教会の歴史に生きた一人びとりと関わりを持たれる、それだけではなく、未来の、今日の教会の宣教の言葉によってイエスを信じる人びとにもそれは及んで行く。宣教によって生じる新しい教会もあの初代の教会の人びとと違った状況にあるわけではありません。世に遣わされた教会は、世の只中で「苦難」を背負いつつ生きています。弟子たちへの執り成しの祈りはそのまま今日のわたしたちにも妥当します。わたしたちも、今イエスによって「御名によって・・・守ってください」とイエスの絶えざる執り成しを受けているのです。

 弟子たちに関して、またわたしたちに関して、イエスは父なる神に何を願い祈ったのか。イエスの究極の「意思」とは何であったのか。それは「彼らが一つになる」こと、彼らだけでなく「全ての人びと」が一つになることでありました。教会が一つになることは、人間的な次元での一致が考えられているのではありません。また、そうした人間的な一致への努力が求められているのでもありません。父なる神と御子と弟子たち、そして教会の一致は、教会の内におられるイエスによってもたらされる、そのことによってわたしたちに御子と父なる神との愛の交わりの内にいることが赦されるということですから、イエスが「います所に、共にいる」ことが、教会が一つであることの最終的な目標となるということです。イエスご自身を通してのみ一つであることが成立するということです。

 終末以前の教会の一致は確かにこの世の只中で恵みにより与えられているものです。キリストが、御言葉と聖礼典とにおいて、聖霊によって、教会の主として現臨し、共にいてくださるイエスの命にわたしたちが与るとき、教会は一つとなり、そのように教会がイエス・キリストにおいて一つとされて存在することによって、この世は、イエスが神から派遣されて来た方であることを信じ、またイエスの現臨の内に神の愛を知るようになる。神との交わりの道が回復され、開かれ、イエスの派遣の目的が達成されていくその働きが終末に至るまで続けられて行くのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

  
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