「求む!神の働き人」ルカ10:1-12 2025.7.6 大宮 陸孝 牧師 |
「行きなさい。わたしはあながたがを遣わす」(ルカによる福音書10章3節) |
本日の福音書の日課は先週の続きです。ルカはイエスのガリラヤ伝道を9章50節まで記し、それから後、51節で「エルサレムへ向かう」決意をイエスは固められたと語り、19章27節まで、エルサレムへの旅路を語って行きます。先週にはその旅路の途上での三人の人をイエスが招かれることをきっかけとして、招きに応じ従うとはどういうことなのか、その意味をイエスは教示されました。本日の日課はそれを受けるようにして、イエスが一二使徒とは別に七二人を選び、町や村に派遣するという記事であります。 ルカは使徒派遣の記事を二箇所に記しています。9章1節〜6節には一二人の使徒の派遣、もう一つは本日の日課「七二人」の派遣です。使徒派遣についてはマルコ福音書に基づいて書かれています。本日の日課はルカ独自の記事ですが、両者は内容的に重複している所が多くあり、違いがあっても相補い合っているものとして読むことが出来ます。そして、この二つの派遣の記事の中で語られるイエスの言葉を理解するに際しては、その語られた状況の違いをも考慮しながら真の意味を汲み取って行かなければなりません。先週も申し上げましたように、この場面はエルサレムへ向かう途上の一層切迫した状況の中での七二人の派遣であり、イエスのエルサレムへの旅の先導隊でもあったと見ることが出来ます。9章1節以下の一二人の弟子たちの派遣との違いはここにあります。 七二人の派遣は17節以下に七二人が帰って来て報告する記事がありますので、20節までひと続きの記事と見ることができます。それを三つに分けますと一、七二人に対するイエスの教え(1節〜一2節)、二、使徒たちを拒絶する町への災い(13節〜16節)、三、七二人の報告(17節〜20節)となります。日課はその第一の部分となります。 1節 「ご自分が行くつもりのすべての町や村に」イエスは福音宣教業をご自分でなされるのではなく、ある人たちを任命して、その人たちに託されます。「任命する」は新約聖書では、ここと、使徒言行録1章24節マッテヤが一二使徒の補充として選ばれた記事の二箇所に出て来ます。ある職務への任命を表し、七二人は「全ての町や村へ」遣わされるのですが、文字通り福音が「全ての町や村へ」伝えられるのがイエスの意思であると言うことを言っているのです。「二人ずつ」の派遣により、神の国宣教がなされる。それは、キリストのことばと業の宣教を表し、癒やしを行い、神の国を宣べ伝える役割分担のことであろうと思われます。使徒言行録によれば初代の教会も信仰の証人を二人ずつ派遣して福音宣教を行っております。 2節「収穫は多いが働き手が少ない」マタイ福音書では、この言葉は、イエスが飼うもののない羊のように弱り果てている群衆をご覧になって言った言葉です。イエスは、弱り果てている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人、そのような一人一人の魂が、主イエスの憐れみを必要としている人の現実を「収穫」と見ています。ヨハネ4章35節「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われています。わたしたちが活気のあるとき、満ち足りている時、何の悩みもない時、調子の良い時が収穫の時ではなく、悩み、苦しみ、弱り果て、主の憐れみを必要としている時が、収穫の時である。まさに、今、現代のわたしたちのこの世界は心病み、神の憐れみを待ち望む収穫の時であるのだということです。そしてこのような時に人間の魂をわたしたち自らが収穫するのではなく、わたしたちは収穫の主なるイエスに「働き人」を送ってもらうように熱心に祈ることを求められているのです。 3節〜4節 「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」これは旧約聖書で預言者を遣わされる時の定型句でありました。「行け。この民に言うがよい」(イザヤ書6章9節)等。遣わされる者の任務は、人々の所へ行って、神の言葉を語ることでした。しかし、人々は彼らに託された神の言葉を快く聞くとは限りません。旧約の預言者の場合、多くの人は受け入れず遣わされた者を迫害します。後のイエスの弟子ステファノは、殉教の際「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました」(使徒言行録7章52節)と語りましたが、これは歴史的な事実でありました。イエスは七二人を遣わすに当たってこのことを予想していました。遣わされた者の聴衆が「おおかみ」に喩えられています。キリストの証人は命がけで、キリスト教の歴史においても、多くの殉教者が出ています。 4節前半のイエスの奨めの言葉は、最後の晩餐の席で再び想起されています。「財布も、袋も、履き物も持って行くな」と言われます。袋は食べ物を入れる袋のこと、靴は履いているものの他に余分に持って行くなという意味と推測されます。思い患わなくとも日常必要なものは必ず与えられるとの約束の言葉とも受け取れます。「先ず、神の国と神の義を求めよ」との弟子たる者の覚悟と決断を求めた言葉であります。「途中で挨拶するな」は5節の目的地に着いたなら挨拶しなさいとありますので、急を要する旅であるから、途上での長々とした挨拶をして無駄な時間を費やすなとの意味と取れます。 5節〜9節 目的地に着くと、途中では禁じられていた挨拶を「まず最初にしなければならない」とあります。ここでは、神の平安が与えられるようにとの祝福の言葉で、遣わされた者がまず宣べ伝えるべきものは、神よりの祝福である。人間は、神より祝福されるべき者として創造され(創世記1章28節)。また、神は、アブラハムを全人類の祝福の基として召し出されたということが祝福の源にあります。「この家に平和があるように」この「平和」は、神の正義が実現し、民が安全に守られているという意味の平和で、それはまた、神の賜物として与えられる愛による支配のことでありました。 「働く者が報酬を受けるのは当然だから・・」遣わされた者がもてなしを受けることを認められた言葉です。パウロも「働く者が報酬をうけるのは当然である」(第一テモテ5章18節)と、宣教と教えとのために労している長老に対して、このイエスの言葉を適用しています。「家から家へとわたり歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ・・・」福音の宣教に当たって、環境が悪いからとか、あの家が良いとか、市場調査でもするように、自分の判断や世間的な基準で場所や環境を選定するということではなく、場所や環境がどうであったとしても、ただひたすら主を信頼して主の命じられるように、病人を癒やし神の国が近づいたことを語る宣教の業に励みなさい。わたしたちの人生の究極の目標は、神の国と神の義を求めて行くことです。とイエスは語られます。 10節〜12節 しかし、この、人々の魂を神の国に勝ち取っていく偉大なる事業を推進して行くイエスの熱意にもかかわらず、福音が必ずしも喜んで、迎え入れられるとは限りません。イエスは遣わされた者を受け入れない町に対する対処の仕方を次に述べられます。「町の人に言いなさい『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国は近づいたことを知れ』と。」これは裁きのしるしとしてなされた旧約の時代の預言者の行動です。(イザヤ書20章1節〜4節)「神の国は近づいた」は完了形ですので、近づいてしまっているから、今既にここにあるのだとの宣言として理解すべき言葉です。イエスが活動し話しをしている今、神の国は、ここに、もう現存しているということは間違えようのない明確な事実だと言っているのです。「拒んだとしても"神の国は近づいた"ということは否定しようのない事実であることを知りなさい、とはっきりと宣言しなさい」とイエスは語っておられます。確実で客観的な出来事であることを知りなさいと言っておられます。厳然として神の支配は来ていると言う事実があるのです。黙りようがない。撤回しようがない。変えようがない。否定しようがない。その厳然たる事実・出来事とは、イエスにおいて神の支配が来たという出来事なのです。 派遣された者に、病人を癒やすことと、「神の国の接近」を告げることを使命として要求されていますが、現代では病人を癒やすというのは、牧師の仕事ではなく、医者の仕事であります。A・シュバイツァーのようにその両方のキャリアを持つ者もいるが、そのような賜物を与えられている者は希であります。牧師が祈りによって病人を癒やすと言う魔術的な行為は、医学の進歩した現代では、非科学的であり、また違法な行為でもあります。現代に於いてはイエスがなしたような病人の癒やしは出来ないし、してはならない行為でもある。しかし、現代は複雑な人間関係や社会の状況の中で、深刻な心の病に苦しむ人も多い。このような人にも専門の医師やカウンセラーがいるのですが、魂の配慮をする牧師や教会の群れにもなすべき仕事があるように思います。現代社会そのものが病んで人々の心の病の原因となっていて、そのような社会の状況から、鬱病や、いじめ、あるいは老人の孤独といったさまざまな病が起こって来ている。現代社会が人間を真に解放する神の国ー神の愛の支配ーを知らず、人間の知恵と力、果てはお金と物質に支配されて、暴利をむさぼる手段と化しているありさまです。このような状況下で、説教者が「神の愛の支配の接近」を知らせることは大きな意味を持っているのではないでしょうか。 そこで、説教者が語るみことばが人々に受け入れられないという問題が出て来ます。キリストの福音は必ずしも人々に歓迎されるとは限りません。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方に逸れていくようになります。(第二テモテ4章3節〜4節)と言われています。そういう場合にも、教会の宣教する姿勢は、テモテのこの言葉の前後を読みますと、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くとも悪くとも励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。(2節)・・・しかしあなたは、どんな場合にも身をつつしみ、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の勤めを果たしなさい」(5節)と勧められています。神の愛の支配に身を委ねて、恵みに感謝し喜び、絶えず祈りつつ、与えられた使命に生きること、これこそがヤコブ書で言われている信仰の業なのだとわたしは確信しています。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなた方を満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |