本文へスキップ

1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

賀茂川教会タイトルロゴ  聖壇クロスの写真

2025年1月礼拝説教


★2025.1.12 「神の子として生きる」ルカ3:15-22
★2025.1.5 「闇夜を照らす希望の光」ヨハネ1:1-14

「神の子として生きる」ルカ3:15-22
2025.1.12 大宮 陸孝 牧師
すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音書3章22節)
 本日のルカ福音書3章のところは、イエス・キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネが登場して参ります。そのヨハネは人々に次のようなことを説教いたします。一つは、差し迫った終末的な、「神の怒り」に備えなさいということ、第二には、「悔い改めにふさわしい実」とは何かということ、そして第三には来たるべき方「メシア」についての証言であります。それに続いて21節以下は、バプテスマのヨハネからイエス・キリストの物語、本論へと移って行きます。短い文章ですが、このところで、一つにはイエスの受洗、二つ目は聖霊の降臨、そして三つ目には天からの御声と三つの事柄が手際よく報告されています。今週はそれについて順番に考えていきたいと思います。

 21節の前半「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とこのように言われています。聖なる神の御子イエスがなぜ「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を受けなければならないかいう疑問は、早くからありました。そこでたとえばマタイ福音書ですと、実はバプテスマのヨハネが辞退したのだけれども、たつてのイエスの願いだからやむなく洗礼を授けましたと、弁明しております。ヨハネ福音書では、もう洗礼のことは一切省きまして、ただ聖霊が降ったことだけをヨハネが語る、そういう形になっております。

 それでその点、ルカは、独特な手法を使って、ここの「イエスも洗礼を受けて」という文章は従属節になっていて、文章の中で本当に報告したいことは、天が開けた、聖霊が降った、天からの声がしたという三点になっているということです。いかにも超自然的なこの三つのことを報告したい。ただ、そのことの状況を描く従属節として、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と、こういうふうに受洗の事実を語るだけであります。しかもこのイエスの受洗は、「民衆が皆」受けているのに混じって、その一人として当然のように「イエス」も受けられましたというのです。

 ルカ福音書は既にクリスマス物語で、あれほど天使たちが晴れがましく紹介した神の御子イエス・キリストが「四日目には割礼を受けた」、そしてまた一カ月ほど経ちますと、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた」ので神殿に連れて来られたというふうに、当然のことのように、イスラエルの一般の民と同じように、生まれながらの汚れを清める割礼だとか清めの儀式だとか、そして大人になると洗礼だと、こういうふうに描いているということになります。ルカにとってイエス様が、神の御子ではあられますけれども、民と汚れに満ちた民衆と全く同じ人生を引き受けてこの世に来られたということを、はじめから繰り返し繰り返し語ってきました。

 パウロはコリントの信徒への手紙U5章21節で、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」、こう言います。「罪と何のかかわりもない方」だったのだけれども、「わたしたちのために罪と」されました。ですから、イエスはわたしたちと同じように、罪の許しを得させる悔い改めの洗礼もお受けになりました。

 ルカの独特な点は、さらに「祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という点です。ルカ福音書は昔から祈りの福音書≠ニか、あるいは聖霊の福音書≠ナあるとかいわれてまいりましたが、その特色が本日の日課のところにもよく出ております。「イエスが祈っておられると・・・聖霊が・・・降った」。

 福音書の中でもルカ福音書は、イエスを特別に祈りの人であるというふうに描いている福音書です。ほかの福音書が語っていない場面で、ルカ福音書は、イエスが祈っておられる、祈っておられるということを丹念に記しています。特に重要な節目の時にあたっては、祈り深く事に当たられた方であることが記されています。

 「天が開ける」というのは、神さまの代わりに、人間の目に見えるように顕現するものが、実は神から出ている、神的な起源があるのだということを示す決まり文句でありました。旧約聖書ではエゼキエル書の1章1節に、「わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」といって、有名なエゼキエルの幻がずっと一章に描かれています(旧約1296頁)。どうして鳩がここで出てくるのか、いろいろ議論があります。鳩はイスラエルのシンボルだからとか、あるいは聖霊の象徴だからと言われたものであります。しかし、イエスの時代に鳩が特別な象徴の約束事があったどうか、それは全くわかりません。ただ大切なことはイエス様がこの時、聖霊の降臨をお受けになったということであります。これには二つの大きな意味があります。

 ひとつは、ルカが後ほど使徒言行録の10章38節に書かれておりますこと、ペトロが福音の説明をするくだりの中で、「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」と、このように記されています。「油注がれた者となさいました」と廻りくどい言い方をしているのですが、この「油注がれた」という言葉の名詞が「クリストス」で、つまり、イエスがクリストスとなられたのは、ここで聖霊をお受けになったことによるということなのです。早々とクリスマスの夜に御使いは、「この方こそ主メシアーキリストです」とは言いましたけれども、実際にこの方が油を注がれてクリストスと神から示される場面は、本日学んでいるこの聖霊が降られたという場面なのです。

 二番目に大事な意味は、実はこのイエスの登場の前にバプテスマのヨハネが16節で民衆に語ったことにあります。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。このように紹介されていたとおり、ヨハネに続いて登場しますイエスは、聖霊の洗礼を授ける働きをなさる方であるということです。これを強調しているのです。民衆に聖霊を授けるために、自ら限りなく聖霊をお受けになるということ、これを強調しているのです。ご自身がキリストとしての働きをなさるために父なる神の命の力を受けていることを示されたのだと言うことです。

 22節の後半「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。これは、イエスが祈っておられた祈りに対する神さまからのお応えであります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」。こういうご返事を祈りに対してしていただくことができたならばわたしたちにとってもなんと幸いな祈りの生活であろうと思わされます。

 この天からの神さまの御声は、マタイ福音書では、「これはわたしの愛する子」というふうに皆にイエスを紹介する体裁の文章になっています。しかしマルコ福音書やルカ福音書では、祈っている主イエス御自身に直接語りかける声になっているのです。

 この短い言葉によって主イエスについて二つのことがわかります。
 第一は、イエスが神の子であられる、神の愛児、独り子であられるということです。このことは、既に一章に描かれましたクリスマス物語で、読者にあらかじめ念入りに紹介されていたことであります。

 第二にイエスは、イザヤが預言する主の受難の僕≠ナあられるということです。このことについては2章のクリスマスの物語で、ルカは既に読者に受難の予告を念入りにしております。それを受けて、今神さまの御声は、間違いなくあなたは神の愛児、独り子なのですけれども、同時に、苦しみながら主の御用をはたす僕であると、この両面を確認しておられるのです。

 これが、イエスの公の生涯をスタートさせる出鼻をくじくように、イエスの祈りに応えてイエスに向かって語られたのだということ、そのことをわたしたちはずっと考え続けなければならないのです。わたしたちがイエスをどう見るか、わたしたちがこの言葉から何を学ぶのかということとは別に、神さまはイエスに直接に「あなた」と言われ、語りかけておられます。それはどういうことなのでしょうか。
 
 今、イエスは父なる神のみもとから遠く離れてわたしたちのところに来ておられます。割礼を受け、汚れを清められ、洗礼を受けるという、神の世界から考えると全く想像がつかない罪ある世界へ、我が子が行っている、その子に対して神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う」、そういう確認をしておられるのだということです。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4 新約347頁)これは、神さまのほうから言うと、ほんとに断腸の思いで遠い遠い世界へ御子をお遣わしになったということでありました。そしてこれから着手する、どんなことが立ちはだかるかわからないというところで、もう既に、「あなたはわたしの心に適う」と言い切られるということは、これはまた、どういうことなのか。これは大変な信頼といいますか、全幅の信頼を与え、そしてまた、うらぎられることのない期待を、父が我が子に寄せている言葉にほかならないということです。

 イエス様がとらえられる直前、ユダヤ教の神殿当局から、あなたは何の権威でこれらのことをするのか≠ニ問い詰められた時に、有名なぶどう園の悪しき農夫のたとえ話≠なさいました。ぶどう園の主人が、収穫の時が来たというので僕を送った。でも、ぶどう園の農夫たちは僕を袋だたきにし、侮辱を加えて追い出してしまって全然年貢を納めない。何度も何度も僕を送ったのだけれどもだめだ。そこで主人は最後にルカ福音書20章13節でどう言ったかといますと、「そこでぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならだぶん敬ってくれるだろう』」と、こう言います。それで、独り息子を送ってみると、その独り子を農夫たちは殺してしまった。これは明らかに、父から送られたイエス御自身のたとえです。この時、独り子を送り出すぶどう園の主人は、今日聞いたこの言葉を使うのです。「わたしの愛する子」、これを送ろう。敬ってくれる=Bこのように言っているのです。つまりイエス様はずっと公の仕事をして来られて、今もうその最後という受難の極みに達する時にも、このお声をきちんと覚えておられるのです。わたしは父から「愛する子」として遣わされている。十字架への道を、父の「愛する子」として歩むのだ。そういう父なる神の意思と、愛、信頼、期待、これをイエスはしっかりと受け止め自覚なさって、これからその道を全うしようとしておられるということです。

 そして、そのイエス・キリストが自ら受け、わたしたちにも授けてくださる聖霊は、神の子たる身分を授ける聖霊であると聖書は教えています。ですから、わたしたちもまた、イエス・キリストとおなじように、どのような罪の中、汚れの中、苦難の中にあっても、神の子として愛されているという自覚と信頼を神さまに寄せて信仰の歩みを続けて行きたいと思うのであります。祈って、祈りの中で、神さまのわたしたちへの愛と、わたしたちも、洗礼を受けて祈っていると天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という御声を聞いて信仰の歩みを歩んで行きたいと思うのです。
 
 お祈りいたします。

 神さま。罪と汚れに満ちた中で、わたしたちは自分のいる場所も見失い、自分の生活の原点も見失うことが度々です。そうした中で、祈りによって神さまとの交わりを取り戻し、わたしたちには御子の霊が授けられており、父なる神が絶えずわたしたちを「愛する子」として呼びかけていてくださいますことをしっかり祈りの中で聞き取ることができ、自分の位置を取り戻して、神の子として新しい一年を、この世に遣わされて生きることができますように、わたしたち一人一人に励ましを与え、力を与え、霊に満たしてください。

 わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン
       
ページの先頭へ

「闇夜を照らす希望の光」ヨハネ1:1-14
2025.1.4 大宮 陸孝 牧師
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書1章1節)
 「初めに言があった」で書き始められているヨハネ福音書は大変独特な表現で救い主イエス・キリストに対する信仰告白が語られているのですが、なぜ独りの人格ある方が、「言」といわれているのか、救い主イエスが「言葉」と言われていることの意味は何なのか、この一年の礼拝を通して、わたしたちもその真理に導かれて行きたいと思います。

 ヨハネ福音書が言おうとしていることを掘り下げていく前に、わたしたちの人間関係の中での「言葉」のもっている機能とか役割やその状況について少し考えて見たいと思います。わたしたちは言葉を用いて生活しています。一般的に言葉は何らかの情報交換のために用いられます。そしてまた、言葉は話し手の心の状況とか意志とか思いなどを伝える役割を持っています。つまりそれは自己を開示する働きをするものであります。それによって他者との間に対話や人格的な関係をなり立たせる交わりの媒体の働きをするものです。そのようにして言葉によって、自分と他者との結びつきを与えられます。人を人とするもの、それは人が言葉によって自己を示すことができるということにあると言うことができますが、これは~からの特別な贈り物であります。

 しかし、わたしたちが用いている言葉は、よく考えて見ますと、そうであってはならないのに、言葉とは、最も当てにならないもの、真実の伴わないものとなっていることに気付かされるのです。わたしたちはいかにしばしば誇張や偽りや欺きを語り、現実の社会は、言葉による駆け引きやごまかし合いの場となり、人の言葉を正直に信じる者は世間知らずと嘲られたりします。そして現代はあまり意味のない言葉が流行語としてもてはやされたりして、言葉が氾濫している時代です。そのような状況は言葉の公害とかインフレーションと言われたりもしています。人間の語る言葉というものは、それを発している人間全体の世界を否応なしに背負っているもので、その人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうという言葉の持つ大切な役割が指摘されています。そうであるならば、言葉が人と人との関係を築きあげるよりも、逆にその関係を破壊する方向に働いているのは、単なる言葉だけの問題ではなくて、それを発する人間の世界か、あるいはその人の人間性が崩れていることのしるしだ、と見ることもできるのではないでしょうか。愛のない言葉は、「騒がしいどら、やかましいシンバル」(コリント13:1)に等しいものであります。そのような言葉が騒がしく響いている時代の中で、真実をもって自己を語ろうとしている言葉を、わたしたちは聞き逃さないようにしなければならないのです。

 わたしたちは~の御子イエス・キリストが「言」として、~の言として言い表されているヨハネ福音書の句に出会います。ヨハネ福音書は、「言」が初めにあり、「言」が~であったという具合に、御子キリストを言い表しています。今度は、~にとって言とは一体何であるのかを考えなければならなくなります。わたしたちがまず見なければならないのは、ヨハネ福音書と同様に、「初めに」という言葉で書き始められている創世記の1章の創造物語です。「初めに~は天地を創造された」(1節)「~は言われた。『光あれ』。こうして光があった」(2節)そこには、~が天地を創造された時の様子が描かれています。そこで主張されていることは、~が言葉を語られることによって、あらゆるものが造られた、ということです。そこには~が語られる言葉と、それによって生じる出来事との間に少しのズレも狂いもないことが分かります。神の言葉はそれが語られることによって、その内容とすることができごととして生じるような力を持ったものであることが分かります。~が語られる言葉には、~ご自身の意志や力や存在の重みが込められています。ですから~の言葉が語られる時には、そこに何事かが必ず生起するのです。詩篇33編6節には、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」と詠われています。

 つまり、~のことばとは、~の意志や力が込められたものであり、~の御心を実行する働きをするものであることがわかります。~の言葉とは、行動する~ご自身である、と言ってもよいのです。そしてヨハネ福音書では、御子キリストが、そのような~の「言」であると宣言され、告白されているのです。つまり、イエス・キリストこそ、~の意志や思いを実行する方であり、~の創造力を持ったお方である。イエス・キリストこそ、「~の言」として、~のご意志・ご計画を遂行されるお方なのだ、ということになります。御子キリストは、新しい時代の中で行動される~ご自身なのです。ですから御子イエス・キリストがこの世に送られたこと、キリストの降誕の出来事であるクリスマスは、~による新しい創造の始まりである、ということを言っているのです。ヨハネ福音書は「初めに」をもって、人間の新しい創造、新しい誕生について語ろうとしています。わたしたちは創世記とヨハネ福音書を重ねて見ることによって、世界の創造者が、同時に世界のそして人類の救済者でもあられる事実を見ているのです。「救い」とはキリストによる再創造であります。自らの罪の現実の只中で苦しんでいる世界のすべての人間は、キリストによって新たに造り変えられるのだと世界に向かって宣言されているのです。

 わたしたちの世界にイエス・キリストという形をとって来てくださった~は、再び創造の業を開始されました。~の言としてのキリストの言葉を聞くときに、つまりキリストを受け入れ、その御言葉に従順に聞き従うとき、そこに~によるわたしたちの新しい創造に関わる何事かが起こります。そのことをヨハネは「命」として示しています。四節です。「言の内に命があった」と告げています。キリストには命があった。この命について考えて見なければなりません。命とは一体何であるのか。思いつきますのは、肉体的・生物学的な命です。肉体の生き生きと躍動する姿は、間違いなく生命の力強い姿の一つです。逆に肉体の衰え、肉体の死は一つの命の終わりです。このように肉体に起こる変化という面から捉える事のできる生命というものがあります。普通私たちはこのような生命を命といっています。

 しかし、わたしたちの命はそれだけでは捉えられない面もあります。肉体的には生き生きとした人の心の中に、影のように忍び寄ってくる得体の知れない生きる事への不安や恐れというものがあります。一体自分は何のために生きているのだろうか、このような生き方でよいのだろうか、生きる事に意味などないのではないかといった生きる事への影です。何かまだ大切なものに欠けているそれを自分のものとしていないという、命の充実を味わえない生命状態というものがあります。逆に肉体的には病があったり、障碍があっても、また生活上の様々な困難や苦労があっても、なお生き生きと活力ある命を生きている人々もいます。それは何かに満たされたから、何かを手にすることができたからではなく、客観的な環境が必ずしも恵まれ、整っているとは言えない中で、その人の命が光り輝くということが起こることがあります。このことは肉体的条件や環境の状況に関わりなく、それを超えて、わたしたち人間の存在を支えるもう一つの命がある、ということを示しています。そのような命こそすべての人にとって必要としているものであるとわたしは思います。静かに心の耳を澄ましてみるとき、そのような命を求める心の叫びが自分自身の中にあるのを聞きとることができるかも知れません。さらには、生きたい、何とかして本当の命を生きたい、という激しい願いを込めた叫びが、この世界に渦巻いているのを、聞きとることができるかも知れません。真の命を求める叫びがあちこちにこだましているということです。

 苦悩している心、真の命を生きたいとの問いを聖書に投げかけるときに、「言の内に命があった」との宣告に出会うのです。「言」とはイエス・キリストのことでした。そうであるならば、この宣告はイエス・キリストには真の命がある、と宣べていることになるのであります。「命とはイエス・キリストである」、そして、イエス・キリストにある命こそ、真の命だという信仰告白に出会うことになるのです。

 ~は全能の力を持っておられます。その方が人間を愛して、人間を救おうと決心なさったときに、人間となった、それが「言は肉となった」つまり~の子イエス・キリストが人間として生まれたという出来事であります。そしてイエス・キリストは罪人である人間と連帯し、最後には十字架について、人間の罪の責任をご自分で引き受けられ、人間はそれによって罪を赦されて、新しい命を生きるように、新しく生きる命の道を開いてくださったのです。

 真の言葉とは、人を生かす言葉のことです。その言葉によって、一人りひとりが自分を生かすことができる言葉、それが真の言葉です。御子キリストには~の命が宿っていますので、人を生かし、それによって人が生きることができる言葉なのです。クリスマスは、この命をもった~の言葉であるキリストを、わたしたち一人ひとりが真に聞くべき言葉として受けとめ、この命に触れ、キリストにあって新しい命の歩みを始めるべきときなのです。わたしたちの命を求めてのこの世の旅は、このキリストから始まりキリストに達する、このことの繰り返しなのです。ルターが聖書のみ、信仰のみと言った時の信仰とは、このイエス・キリストに出会うことによってだけという意味だとわたしは改めて思いました。

 この新しい一年の歩みも、御子キリストに真剣に耳を傾けることによって、わたしたちの再創造が起こり、命の喜びを受ける者となることができますように。闇の中で生きているような人々にとっても、この命の言葉はその人の新しい光となることを確信して、その人々が、「言葉」であるこの主イエス・キリストのもとに導かれますように。

お祈りいたします。

恵みの神さま、あなたはいつもわたしたち一人一人をあなたの愛の命による創造の力によって新しくしてくださるために、あなたの満ち溢れる愛と命をもって救い主イエスとなってわたしたちのもとに来てくださいました。わたしたちが皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けて、それを人生の土台として行くことができますようにわたしたちの信仰をあなたの真理の言葉によって新にしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。     アーメン。
      
ページの先頭へ

 ◆バックナンバーはこちらへ。





information


日本福音ルーテル賀茂川教会


〒603‐8132
京都市北区小山下内河原町14

TEL.075‐491‐1402


→アクセス