「主は今も生きて働いておられる」ヨハネ20:19-31 2025.4.27 大宮 陸孝 牧師 |
「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになられた」(ヨハネによる福音書24章19節) |
本日の日課の前の部分20章1節以下の部分では、マグダラのマリアが復活の主に出会い、その復活の主からの使信を忠実に伝えたにもかかわらず、その証言の実りはなく、弟子たちの心は閉ざされたままであったことが語られています。そしてさらに、主イエスの弟子たちへの顕現が二度も記されているにもかかわらず、それでもまだ不信仰のまま逃避行を続ける姿が描かれ、21章に至っては、ガリラヤの故郷に帰り、召命以前の状態ガリラヤの漁師に戻った弟子たちの姿が描かれてゆきます。そしてまた、この本日の日課がわたしたちの教会暦の復活祭後の日課となっていることと重ね合わせて本日の日課の意味する所を読んでいく必要があるかと思います。そこから出てくるメッセージとは、復活信仰への回復は、単なる人間的なレジリエンス(精神的な強さ、復元力、回復力、柔軟な対応力)や努力だけではそこに立ち戻ることは不可能であることを強調し、同時に復活信仰への真の復帰は、繰り返し復活の主に出会うことによってのみであることを示そうとしているのだということです。 イエスを失った弟子たちの心の内を推察しますと、そこにはユダヤ人を恐れていたり、師イエスを失った悲しみに打ちひしがれ心を閉ざされていたり、あるいは女性たちの証言を信じるには、イエスの死のあまりにも生々しい現実に触れたため、復活という未曾有の出来事を信じることがあり得なかった、その他にもいろいろと考えられる要素があるでしょう。これは復活の主にまだ出会えないでいる人々の状況をよく象徴していると言うことです。わたしたちが人生によく経験する様々な悲しみ、喜び、恐れの感情等に閉じこもっていては往々にして真実に神に出会ってもそれを見落としてしまうものです。 イエスは世界三大偉人の一人として数えられていますように、特別な尊敬に値する人物として考える人は日本にも多くいます。またキリスト教がもたらした文化や価値観に共鳴する人は多くいます。しかし、その人たちは相変わらず自分の習慣や文化の殻や価値基準、世俗の悲しみや喜び、世間の常識の枠のうちにいつまでもとどまり、それに捕らわれているために、復活の主は何処にでも来られて、わたしたちの人生の真ん中にも来られているのに、それに気づかないで、復活の主に出会うことが出来ないでいるのです。復活の主がわたしたちと共におられることを受け入れるためには、この日常的な思考や感情から自由になる必要があるのです。 19節「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになられた」弟子たちの霊の心は閉ざされていても、完全に神の新しい創造の出来事から除外されていたのではありませんでした。復活の主は彼らの前に現れます。彼らは一緒に集まって祈っていました。これらの人々は、かつてイエスと行動を共にした人たちであり、その共同体です。彼らは復活の主があの地上のイエスと同一人物であったことを証することが出来る人々でありました。そのようにイエスがご自分の復活の証人として選ばれたのは、一人一人の個人というよりも、かつてイエスのエルサレムまでの道行きを共にした弟子たち、弱いながらも共に支え合う彼らを復活の証人として選び、彼らに聖霊を注ぐために、今復活の主が彼らの真ん中に立たれているのです。 「手と脇腹をお見せになられた」のは、今弟子たちの目の前におられる方は、かつて自分たちと共にいましたもうあの方、紛れもなくあの十字架につけられて、死んだ方であり、その方が体ごと復活なさった。だから復活の主には十字架に傷つけられた跡があり、槍で脇腹を突かれた跡がある。復活のキリストは幻想や空想ではないということを強調しているのです。それだけではなく、復活の主イエスが体をもって弟子たちの前に現れたのは、わたしたちが、現実の世を生きる時にわたしたち自身も体をも無視して幻想や空想の中に抽象的に生きたりしないで、体をもって世を生き、傷つくことをも避けずに、イエスの生き方に体をもって従うことを求められているということです。 「平和があるように」弟子たちを訪れる復活の主は「平和」を宣言されます。このイエスの姿は、最後の晩餐の席上で、受難を予告し、その苦しみは喜びに変わると言われた16章20節以下のところを想起させます。そして16章33節で「これらのことを話したのは、あなた方がわたしによって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われた通り、イエスの受難の後に弟子たちには喜びがあり、その喜びは「子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦難を思い出さない」(16章21節)というほどのものだというのです。そこでいわれている本質的な喜びというのは、「イエスが父の内におり、彼らもイエスの内におり、イエスもまた彼らの内にいる」という喜びのことであります。 復活の主と共にある者の平和には苦難を経過した深い喜びが伴っています。それがキリストにある共同体の「平和」の特徴です。人間のどん底の悲しさは跡を絶つことがなく、この世に数多くあります。たとえば愛する者を失ったこと、たとえば信頼と自信を失ったことなどを想起するならば、それらが永遠に回復されることは最高の喜びでありましょう。復活の主がわたしたちと共におられて、それらを保証してくださるならば、もう何も恐れることはありませんし、どんなときにも希望を失うことはありません。今のわたしたちの日常的に出会う苦しみは復活の主の栄光への道を歩む喜びへとつながっていることをイエスは示されています。 ヨハネ福音書17章14節以下のイエスの祈りの中で、イエスが父なる神から派遣されたように、弟子たちがイエスから派遣されることが語られておりました。復活の主が弟子たちに現れたのは、弟子たちがイエスと父なる神との交わりの中に入れられ、イエスに属する者となって、イエスの復活の使信を宣べ伝えるために、イエスご自身が弟子たちを選ばれ、なおかつその派遣の際には、聖霊によって弟子たちがイエスを想起し、勇気を持って生きるようになるとも約束されています。(14章26節〜27節)まさにそのように復活されたイエスは彼らに息を吹きかけられ、「聖霊を受けなさい」と言われます。(20:22)と言われます。この息を吹きかけるイエスの姿は言うまでもなく、創世記の人を造られた創造の出来事を思い起こさせ、復活の主による新しい命の創造を意味しています。この時の息は共同体に吹きかけられていますからその新たな創造は、新しい教会の共同体の誕生を意味していて、教会はまさにイエスによって吹きかけられた息によって生かされ、導かれている共同体であり、その共同体の中心にはいつも息を吹きかける復活のイエスがおられるのです。教会は世の悲しみのあるところに出向き、そこに主の平和と喜びを伝える大切な勤めを託されたのです。 本日のヨハネ福音書20章22節では、復活の主イエスが弟子たちに息を吹きかけられたという、主イエスの復活の聖霊の付与が伴っております。ここはルカの使徒言行録2章1節以下の書記キリスト教教会誕生の聖霊降臨の出来事に類比される『ヨハネ福音書のペンテコステ』(聖霊降臨)と称されるところであります。 このことに関して、ルカ23章46節で「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を委ねます。』こう言って息を引き取られた。」とありますが、この十字架上で刑死した主イエスが父なる神に霊を委ねられたことには二重の意味があると見ることが出来ます。それは父なる神に委ねられると同時に教会に委ねられたということです。ヨハネはそういう理解でここに書いているのです。十字架上で息を引き取られた出来事を経験した初期キリスト教会に、主の霊が注がれ、宣教の使命が与えられてそこから新たな教会の歩みがスタートして行くという展開になっているのです。 イエスによって息が吹きかけられて誕生した新たな共同体・教会は、父なる神から委託された地上のイエスの使命の責任の中に組み入れられて、「わたしと父がひとつである」と同様に「父なる神のもとに一つとされた」共同体であることが語られ、宣教と結びついて教会の一致が語られて行くのです。それは教会の第一の使命は、もとより宣教の業と主の復活の証人となるということでありますが、それに伴って、16章にありますイエスの大祭司の祈りを自分の祈りとすることであります。つまり、宣教の使命と共同体の一致を一つの重要事項として父なる神に祈ることが教会の成すべき大切な要素であるとされたのです。ですから、エキュメニズムというキリスト教教派の一致運動は教会の業として本質的な部分に属していると言わなければなりません。それも教派同士の問題というだけではなく、同じ教派の様々なグループ、もろもろの国の信徒共同体の中のそれぞれのグループ間の一致への努力とその相互の文化的な背景の理解と人間同士の試行錯誤の関わりが欠かせません。復活の主を崇め、迎える喜びは、わたしたちの言葉と習慣の違いを超えて、相互の理解と協力による寛大さを生み、所属しているあらゆる信仰者の心を広げ、イエスへの信仰が全ての人に与えられ、共有されていることの喜びをももたらしてくれるのです。 ここでは、主イエスの復活こそ、わたしたちに真の一致と平和と喜びをもたらしてくれる。それは復活された方から送られる聖霊による新しい命の創造によってわたしたちが新しい命に与ったからだと宣言されています。ヨハネ第Tの手紙1章5節〜10節では、教会共同体の罪の赦しは、イエスと父なる神との間の交わりに入れられること、光りの中を歩むこと、互いに復活の主を信じる信仰共同体の交わりを持つこと、罪を言い表すことによってなされると明示されています。罪の赦しは、イエスの罪の購いの血によってなされるのですが、それは実際にはイエスを信じる教会の交わり中で生じます。イエスを信じる教会共同体は赦しが継続的に生起する群れなのです。 弟子たちに対する復活の主の顕現は、一二弟子に限らず十字架の死を遂げられたナザレのイエスのうちに神の人間に対する贖い・罪の赦しの恵みを見出す全ての者に及び、霊の息が吹きかけられ、新しい命の創造に与る者となるとヨハネはわたしたちに伝えています。与えられたわたしたちの命とこれからの人生を、この復活の新しい命の創造の光りのもとで捉え直して行かなければならないのです。この栄光ある新しい命の再創造の働きに参与するために、復活の主イエスは今も生きてわたしたちに出会いわたしたちを招かれ、喜びと勇気を持って生きるようになることを約束され、まさにそのことのためにわたしたちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言ってくださっています。 お祈り致します。 天の父なる神様。御子主イエスはあなたに霊を委ねて十字架の上で息を引き取られ、あなたの新しい命に甦られました。そして今も生きてわたしたちをあなたの新しい命に生かすために、わたしたちに命の息を吹きかけていてくださる復活の主としてお立ち下さっています。わたしたちが日々の生活をあなたにお委ねして、復活の主に付き添い、その御足の跡に従って生きて行くことができるよう、わたしたちに命の息を注いでください。 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン ページの先頭へ |
「主は生きておられる」ルカ24:1-12 2025.4.20 大宮 陸孝 牧師 |
「『なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか』」(ルカによる福音書24章5節) |
ルカ9章51節からイエスは「エルサレムへ行くべく顔を向け」歩みだしエルサレムへの日々が描かれ、さらにエルサレムでのイエスの十字架の苦しみの日々がルカ23章までで終わりました。弟子たちはイエスを捨ててちりぢりに逃げ去り、一人として姿を表しません。この弟子たちの姿は、こうした場に臨んでのわたしたち自身の姿として、イエスの死と葬りの場面が突きつけてくる冷厳なる事実でもあることを思い知らされます。 再び安息日が始まろうとする夕暮れの迫る中で、イエスの遺体を亜麻布に包んで運び、墓に横たえたヨセフとその一行の後について行った婦人たちがいた。(23章55節)ここには「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」と記されているだけで、誰であるのかは明記されていません。彼女たちは墓と、遺体が納められている有様とを「見届けた」とあります。この一週間の間にイエスの身に起こった出来事をつぶさに見、心に刻んで来た人たちであります。そして、新しい朝が来ました。安息日が明けたら、イエスの葬られている所に駆けつけて、なすべきであったことを果たしたい、果たすことの出来なかったこの葬りの備えを自分たちで果たしたいという思いに溢(あふ)れて、後追いするように安息日明けに行おうと香料と香油を携えてイエスの葬られている所へ急ぐ婦人たち、しかし彼女たちの心からは、深い悲しみと喪失とが消えることはなかったでありましょう。 24章1節「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」とルカは主イエスの復活の物語を主イエスの遺体を墓場で見失う混乱から書き始めます。このイエスの苦難と十字架、死と葬りという、人間の目に見えている厳粛な事実とそのことで途方に暮れる人間の困窮の深みに焦点を当てながら、その背後にある神の新しい出来事を暗示しているということでもありましょう。「空の墓」は一方では、神が復活という形でお示しになった新しい命と、その命を信じることができないで途方に暮れ墓の中に立ち尽くす人間の間に生じている断絶、その断絶は人間の不信仰によって造り出されているものでもあります。全能なる神が起こされた復活の事実に心を閉ざしている人間の目に映るのは、ただ途絶えたとしか見えない神への道の断絶のみであります。「途方に暮れる(アポレオー)」(4節)はそのことをあらわしています。 「途方にくれる」(アポレオー)の名詞形はアポリアで、これは、結局解決できない難問、矛盾にいたる以外にない論理に立ち止まるしかない思考停止状態のことです。ポロス(渡し、通路、手段、経過)に否定の接頭辞アが付されて、それまで連続して確認されていたことが、唐突に途絶えてしまうことを表す哲学用語です。イエスが予告されていた復活への物語が、ここで止まってしまったと思い込んでいる姿が描かれているのです。主の遺体がなくなるというのは、実は主が復活された兆しなのですけれども、死という厳然たる事実に圧倒され、説得されている彼女たちにとって、主イエスが予告されていた新しい命への甦りの事実についていくことができないでいる、あるいはそこに思い至ることが出来ないでいるのです。 確かにわたしたちの目の前に起こる死の様相は、厳粛で余りにも重く、悲しみの中に置き去りにされ打ちひしがれてしまいそうな、命のはかなさ空虚さを味わうものではあります。すなわち、それが命の意味の喪失とも言うべき断絶と言い表されるものでしょう。わたしたちは生きている現実の中で、病にかかればそれが癒やされるように祈り、生きている現実の中で救いを数えようとするぬぐいがたい生への意思があるからこそ、そこで生じた死の現実の前で途方に暮れてしまうものでもあるのです。詩編88篇12節「墓の中であなたの慈しみが 滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか」と語られている死の悲しみは、復活の予兆を示されてなお、空虚な墓の前に佇む人々の悲しみと重なってくるのです。 死の現実に閉ざされる人間の眼差し、ルカはそれを人間の不信仰の故に生じている断絶であると表現します。その断絶のこちら側で道が途絶えていると思い込み、立ち尽くしてしまっている女性たちへ、しかし、にもかかわらず神ご自身が向こう側から二人の御使いを遣わして、道が断絶していない、続いていることをお告げになります。4節「二人の人」が「そばに現れた」のです。彼女たちがいたのは墓の中、ですから二人が現れたのは墓の中にいた彼女たちの傍らであります。彼女たちが立ち尽くす墓の虚無の中に一筋の光りが差し込んできたのです。人間の中からは、死という闇に抗する光りは出て来ることはありません。復活というのはそれが命の主である神の新しい力でありますから、それは全く神の側のことがらであるのです。墓の中で死と虚無に捕らわれて途方に暮れている人間を追いかけ照らし出す光り、望みのなさに捕らえられている人間を、それに優る強さで取り戻そうとする命の光りが、この虚無の中に差し込んで来たのです。 ルカはここに至っても、女性たちがかつて主イエスが受難と甦(よみがえ)りを予告していたことを思い出したとは語っていません。つまり復活という現実は女性たちがかつて聞いたイエスの予告をしっかりと心に刻み込み、忘れないようにするという人間の側の心の物語ではなく、御使いたちが、神がその御業によって新しく起こされた現実を人間に告げるという、神の側のメッセンジャーによって届く外からの「福音」であり、出来事なのだということです。この御使いによって告げられる指針によって初めて甦りのキリストの「福音の光り」が差し込んで来たということです。ここで初めて神の新しい命の道が見えないと言う断絶は、実は人間が造りだしていた障壁であったことが明らかとなるのです。 「なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか」(5節)との御使いの言葉は、人間が神の側でのこの命の業に容易に信頼する事が出来ないで死の重さの中に捕らわれ、圧迫され、うなだれている時に、かつてあなた方に予告された事を思い出しなさいと、命の主に向かって心を上げるように促し呼びかけられる言葉です。御使いたちは力強く「人の子は・・・必ず復活することになっている、と言われたではないか」(7節)と語ります。ギリシャ語のデイは英語でいえばMUSTでこれはこの前の「罪人の手に渡され、十字架につけられ」との両方にかかることばで、イエスの死も復活も、二つとも神の御計画に根拠を持つことが示されています。光りの部分だけが神によってなされたというのではなく、闇の部分もまた神の御計画の中に数えられている。人間の死という現実を貫いて復活へと救いの道は続いているのだとの宣言であります。 人生の暗さの中で人は、神の計画が途絶えてしまっていると思い込んでしまう。しかし、その暗さの中で、たとえわたしたちが神のご意志が何処にあるか見出すことが出来なくなったとしても、それにかかわりなく、途絶することなく神の救いの道は続いて行きます。そして、イエスに従い来た弟子たちは、不信仰を一歩一歩克服して、ついに彼らが再び祝福に満ちた喜びと心の底からの感謝を持って、復活の主の前に集められて行くのです。神はそこへと本日登場している女性たちと使徒たちを連れ戻そうとされ、近づいてくださっているのです。 女性たちがこの墓の中で御使いから告げられ、外からの命の光りによって照らし出されたことによって、ただちに復活を信じられるようになったかどうかは明確ではありません。御使いに神の出来事を告げられることによってその出来事に接することが必ずしも彼女たちに復活について、感覚的に十分に把握し確信を持つに至る証拠とはなり得てはいません。しかし、ここで、御使いは「死が生に変えられた」という本質的なことを女性たちに告げ、その復活の本質をつかみきれないまま、しかしそれを女性たちは受け止めたということは間違いありません。このことは、この後の、復活の主と共にいながら、その聖書の解き明かしを聞いているにもかかわらず、それでも主のお姿に目を閉ざされていたエマオに向かう弟子たちの状況と繋(つな)がって行くのです。 ここでわたしたちが目を向けなければならないのは、そこに働き始めている神の言葉であります。わたしたちの感覚・知覚の外側で、神の甦(よみがえ)りの出来事は動いて行くということが決定的なのです。すべてを知らず、理解も曖昧なまま伝達者として知っている限りのことを、弟子たちに話す女性たち(九節)。この「一部始終」は彼女たちの知っている一部始終であり、ことがらの全体という意味ではありません。使徒たちが納得出来るように十分に復活の出来事を弟子たちに伝えることはできなかったでありましょう。「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話した」(10節)この「話した」は未完了時制で、「話し続けた」が正確な訳です。それに対応して「使徒たちは信じなかった」と展開して行くのです。「信じなかった」も未完了形で「不信仰であり続けた」あるいは「不信仰を貫いた」とも訳すことが出来ます。 女性たちと使徒たちの話しは平行線を辿(たど)ります。語り続けられる対話は主に使徒たちの側からの矢継ぎ早に子細を問う質問があったと推測されます。主イエスの復活の様子はどうだったのか、その体を見たのか、傷跡はどうだったかなどです。それにたいして、彼女たちはしどろもどろの要領を得ない返答しか出来なかったのではないだろうか。それで平行線の状態が続いた、業を煮やした弟子たちの姿を彷彿とさせます。どんなに一部始終を話したところで不十分としか言いようがない言葉が、それでも語り始められたのです。既に動き始めた神のことばが人間に伝えられるとはこういうことなのだということです。 イエスの墓で空の墓の不思議を語り始め、墓から出て、死とは逆方向の神のあたらしい復活の命のことを語り始める。人間の認識に働きかけ実証的に語ることなどそもそも出来ない次元の話しをしどろもどろになりながら、神の側から発せられた言葉を語り伝え続けて行くなかで、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(八節)のです。墓が空である。主イエスの御体が見当たらない=Bその事実だけでは復活信仰へは繋がりません。誰かが持ち出したとも考えられる。盗まれたかも知れない。何が起こったのか、その他いろいろな可能性が考えられる。しかしそこで、「イエスは生きておられる」という向こう側からの言葉を聞くことになった。その受け止めた言葉を彼女たちが他の者に繰り返し語り伝えるなかで、自分自身にも信仰の芽生えを起こさせ、目の前の障壁が乗り越えられるという不思議が体験されて行くこととなるのです。人の子は死んで後三日目に必ず甦(よみがえ)る≠ニお語りになった主イエスの御言葉が「主は生きておられる」と言う信仰を生み出すのです。 彼女たちは「思い出した」と書かれています。「思い出した」この言葉は、十字架上で囚人の一人が「イエスよ、あなたが御国へおいでになるときには、わたしを思い出してください」と言った同じ言葉です。「イエスが思い出す」とはどういうことなのか。それは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ということです。ただ忘れていたことを思い出すということではなく、ヘブライ人にとって思い出すということはもっと積極的な内容があるのです。ルカ福音書の続編使徒言行録11章16節「そのとき、わたしは、『ヨハネが水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」それで洗礼を授けたのだとペトロは弁明しています。こう言っておられた「イエスの言葉を思い出した」というのは、自分が体験した出来事の真実の意味が主イエスの言葉によって分かったということです。 「イエスは復活なさったのだ」と認める信仰は「人の子は必ず三日目に復活することになっている」と言われた主イエスの言葉から生まれるのです。このことはパウロもローマ所10章17節でこのように語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」その主キリストの言葉を受けていた女弟子たちが、イエスの復活の告知を「思い出して」、そして使徒たちに「知らせた」最初の証人になったと、ルカはイエスが甦(よみがえ)られた≠ニ言う復活信仰は、まず主イエスの御言葉によるのだと、わたしたちに伝えているのです。 復活信仰というのは、人間の業によってなるのではなく、復活の主イエスご自身がわたしたち一人一人に出会ってくださり命の御言葉を語ってくださるほかには成立しません。教会の礼拝において、神の御言葉を共に聞くときに、わたしたちはイエスの甦(よみがえ)りを共に告白する群れとなるのです。そこで、信仰告白をするわたしたちの群れに甦りの主が近づき結びついてくださり、わたしたちを新しい命へ導く通路となり、わたしたちを甦りの命へと導いてくださるのです。 お祈り致します。 神様、人の子イエス・キリストは三日目に復活するとかねがね断言しておられ、そのおことば通り、あなたはわたしたち人間の通常の判断力や知識を超えた驚くべきことを現実になさり、さらに、その信じがたいことをわたしたちが信じることができるように、証人を送り、御霊をわたしたち一人一人に注ぎ、証人たちの証言を受け入れられるようにわたしたちの心を変えてくださいます。そのようにして、今わたしたちは、イエスご自身がわたしたちに先んじて復活なさって、永遠の命を示してくださり、その命へとわたしたちを召してくださっていることを信じる信仰を与えてくださいました。その恵みを心から感謝致します。わたしたちがこの信じがたいあなたの救いのわざの証言者となり、この世に語り続けることが出来ますように、あなたの聖霊の力と勇気と希望をお与えください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン ページの先頭へ |
「救いの時を待つ」ルカ19:28-40 2025.4.13 大宮 陸孝 牧師 |
「主イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす』」(ルカによる福音書19章40節) |
マルコによる福音書の13章24節から31節のところを読みますと、主イエスがエルサレムへ入場されて二日目の火曜日に主イエスが一日掛けて終わりの日について説教なさった出来事が書いてありますが、本日はルカによる福音書の19章28節以下で、主イエスのエルサレムでの最後の一週間すなわち受難週の始まり、主イエスがエルサレムに入場されるところであります。 主イエスは、エリコからベタニヤへ、それからエルサレムの郊外にありますベトファゲという村に来られました時に、「つながれている子ろば」をほどいて来させて、それにお乗りになりました。そのことによって御自分が、創世記49章10節に預言されていました「ユダから来るシロ」、平和と繁栄をもたらす王であるということを、そのパフォーマンスで示されたのであります。 最初の28節から36節までのところでは、28節に「イエスはこのように話してから、先に立って進み」とあります。そして36節の所にも、「イエスが進んで行かれると人々は自分の服を道に敷いた」とありますが、ルカはこの表現でいつも先頭に立って前に進んで行かれる主イエスの姿を強調して描こうとしていることが分かります。物語の流れから言いますと、十字架の苦難と死に向かって、主イエスは、自ら進んで行かれるということになります。 この一つの聖句からでも、わたしたち一人一人は、生きる限り、様々な問題に遭遇しますが、主はいつもわたしたちの前に立って,先に向かって進んで行かれるというこの言葉は、大変引きつけられる言葉です。この言葉から多くの人が励まされ、力づけられて来たのではないかと思います。ルカはこの棕櫚の主日の物語を、まず最初にこの「先に立って進みゆく主イエス」の姿をもって書き始めました。 そして29節に、「オリーブ畑と呼ばれる山」とありますが、それは「オリーブ山」のことです。それに「山のふもと」というのは、この場合、山の東側を指しています。そしてベトファゲとベタニアという地名は、現在では逆で、ベタニアからベトファゲを経て、オリーブ山の頂上に至ります。でも歴史的に、どちらがベタニアで、どちらがベトファゲであるかは、正確にはわかりません。このルカの表現は、元々の台本となったマルコからの引用です。マルコもルカもイスラエル人ではなく、その上、二人とも外国でこれを書いていますので、地理に関しては不案内であったとも考えられます。少しおおざっぱではありますが、要約して言いますと、オリーブ山の東側から標高八百メートルの頂上に上り、西側には急な坂があって、キドロンの谷に下りていくことになります。頂上に立つと、西の表面に、標高七四〇メートルの上に立つエルサレムの神殿が見えたはずです。現在は、イスラムの聖地(第三のメッカ・エルサレム)にそそり立つ「金のドーム」が光り輝いています。 そこに、ろばが用意されます。この斜面では、実際には、ろばに乗って行けるようなところは殆(ほとん)どありません。もしベタニアからオリーブ山の頂上までなら、ろばに乗って行ける所は少しはありますが、頂上まで行って、エルサレムに向かい始めると、急な坂になっていて、とてもろばに乗って行けるはずがないのですが、なぜろばに乗ったと記されているのでしょうか。 「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言った。二人は、『主がお入り用なのです』と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」(33〜36節))。こう読みますと、主は堂々とエルサレムへ入って行かれたように思われるのですが、現実的ではありません。それではどうしてこの記事があるのかといいますと、それは、「旧約聖書」「ゼカリア書」9章9節の預言によっているからです。 「娘シオンよ、大いに踊れ、娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」この「あなたの王」と言う字に注目しますと、ヘブライ語では「メレク」という字で、その地方の王、勝利者という意味です。これがギリシャ語では、「バシレウス」となります。地方の王、権威ある者という意味でありますけれども。地方を治めて「救いを与える者」となり、「救い主」と言う意味が暗示されています。ですから、「救いをもたらす方」が、ろばの子に乗って入ってくる。これが「ゼカリア書」の預言です。その預言通りに、主イエスは子ろばに乗って入って来られたのです。「旧約聖書」の預言通りに、主はろばに乗って来られたと、初代教会の人たちが受け止め、それがマルコに書かれ、それを元にして、ルカもここにこの記事を書いたのです。 そして「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられた、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡の事で喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。』」(37〜38)。ルカは、「弟子たちの群れ」が、主が先に立って前に進んで行かれるときにこぞって喜び、声高らかに神を賛美したと書きました。 しかし、この弟子たちは、一週間もしないうちに、主が逮捕された途端、全員逃げ出してしまうような弱さも持っています。同じような弱さをもったわたしたちですが、その弱さの中で、主と共にいつも喜び、神を賛美しながら歩む群れ、これが教会の群れなのです。弟子たちと同じように、わたしたちも、幾度も主を裏切り、神のことを忘れますが、いま、主とともに、心から喜び、声高らかに神を賛美する、そのような信仰の歩みがここに示されています。 そして、その時に叫ぶ歌が、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(38節)です。これも、、「旧約聖書」「詩篇」118編26節の、「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」から来ています。(958頁) そして、ルカはこの後に「天には平和、いと高きところには栄光」を加えています。これは有名なクリスマス物語で、天使が語る言葉と似ています。おそらく、ルカが好きな信仰告白だったのでしょう。天に平和、いと高きところには栄光という、ルカの信仰告白が、ここに示されていると見ることができます。救いをもたらす救い主が、今ろばに乗って、預言通りにやって来た、天には平和、いと高きところには、栄光神にあれと言う見事な賛美が、ここに述べられています。 そしてこの後、ルカはイエスの弟子たちの神への賛美が歌われたとき、「ファリサイ派のある人々が群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください。』」と言ったと記します。(39節)なぜ「叱ってください」と言ったかというと、主イエスが救い主ということは、ユダヤ教の観点からいうと、とんでもないことであって、救い主は世の終わりに来ると、彼らは堅く信じていたからです。現在でも、一部のユダヤ教徒たちはそう信じています。その信仰から見ると弟子たちが、今、目の前にいる主イエスは救い主で、賛美しようと言っていることがおかしいので、ファリサイ派の人たちは怒ったというわけです。それに対して、「主イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす』」(40節)とルカは記します。 聖書の信仰にはこのような世界が示されていることを、しっかりと受け止める必要があります。賛美の声がわたしたちの口から発せられなくなったとしても、石が叫ぶ、神が創られたこの世界が叫び出すというのです。わたしたちは、神への賛美をささげています。だから信仰が成り立ち、信仰の共同体である教会が成り立っています。でも、現実的に考えて見ますと、極めて人間的な問題のために、本当の神賛美がささげられないことがあるのではないでしょうか。主の名によってできあがっている主のからだとまで言われる教会でさえ、さまざまな人間の問題のために、心から神への賛美がささげられないこともある。でもその時にこそ、ルカはいうのです。神の被造物である石が叫ぶと、言っているのです。 このことは、「詩篇」118編に(ルカ20章17節にも引用されていますが)、「家を建てるものの捨てた石が、隅の親石になった。それは主の御業、わたしたちの目にはおどろくべきこと」(22・23節)と言う聖句に結びつきます。(旧約聖書958頁)捨てられた石が真実の隅の親石になっているではないかというのです。「ルカによる福音書」が書かれたのは、紀元80年頃でした。70年にローマ軍によって、エルサレムの見事な神殿が完全に破壊されていたのです。エルサレムの神殿は崩壊しましたが、でも、あの捨てられた石が基礎になって、わたしたちの信仰があるではないか、石が叫んでいるではないかという信仰の上に、この言葉ができあがっています。 「旧約聖書」エレミヤ書18章6節に、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」(旧約1211頁)と記されていますように、わたしたちは、陶器師である神から創られた粘土のようなものです。つまり、すべてのものが神の永遠の御手のうちにあって、それが潰されようが、立派な陶器に作られようが、それは永遠の神の御手のうちにあるのです。ルカが達した「石が叫ぶ」という考え方は、わたしたちの信仰生活、精神的な営みで、極めて重要なものとなっています。 神殿の崩壊それは先ほど申しましたように、ルカがこれを書いた10年前に既に現実となっていました。人の作ったものは全て崩壊する可能性があります。そして、その崩壊するところに神の御手が示されるというのです。 わたしたちはどのような所にいても、主は共におられるのです。崩された石の上にも、それが示されるのです。わたしたちがどれほど神から離れていても、そこで神の愛、慈しみに包まれています。 ルカはこのように主イエスのエルサレム入場の出来事を記しながら、エルサレムの神殿のように、人の作り上げるものは全て崩壊していくことを示しながら、それにもかかわらず十字架の死、そしてそれを超える永遠の命の世界は、永遠に変わらないという大変力強い希望をここに示しているのです。 主の受難を思い起こすとき、ここには崩壊していく事実と、それ故に石が叫ぶように、そこに示される永遠の命の世界を受け止めながら、救いの時を喜びを待つのです。 お祈りいたします。 神さま。わたしたちの信仰の思いが、弱まったり強まったりたじろいだり、様々なことがありますけれども、わたしたちの救いはあなた自身とあなたの御子、子羊イエス・キリストのもとにあるということをわたしたちがしっかりと確信して、自分の心の波風によるのではなく、父なる神と御子イエス・キリストが成し遂げてくださいました御業にしっかりと安らぎと信頼を寄せ続けることができますように、わたしたちを導いてください。 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン ページの先頭へ |
「神の愛と真実に召し出されて」ヨハネ12:1-8 2025.4.6 大宮 陸孝 牧師 |
「i家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネによる福音書12章3節) |
本日の日課の直前11章55節〜57節は、イエスのエルサレムへの入場の序章となる部分であります。ここでイエス逮捕の機運が高まってきたことが告げられ、その流れの中で、イエスがいよいよエルサレムに近づき、その手前のベタニア村のラザロの家に立ち寄り、「香油注ぎ」(1節〜8節)そして「ラザロに対する陰謀」(9節〜11節)へと話しが進んで行くのです。 11章55節の「ユダヤ人の過越の祭り」という表現が先ず注目されます。これは次の56節の神殿境内でのユダヤ人たちの互いに問い合っている「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」と繋(つな)がっています。仮庵(かりいお)祭、五旬祭と並んで三大祭としての過越祭、ユダヤ人にとって神殿と並ぶ権威の象徴としてのその過越祭に来ないのだろうかという問いを彼らに起こさせているイエス、ーイエスは既に十分に敵対者たちに逮捕され、処刑される理由を与えています。そのような捕縛の時が近づいているという緊張の中で、本日の日課は12章1節「過越祭の六日前に」と続き、ベタニアでの香油注ぎへと連続して、イエスの「葬りの日」が近づいていることをまずこの段落は序章として告げるのです。 1節〜2節 「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」と記されます。マルタは以前にもイエスの世話をする者として描かれていましたが、ここでも給仕をする、奉仕をする者として重ねて語られています。前回の時と同じように、ここでも「給仕をしているマルタ」が同じように、イエスとのズレを演じ、マルタは給仕に熱中し、「葬りの日」を間近にしているイエスの内面には無関心でありました。ラザロの復活物語においても、外見や形態ですぐに絶望してしまうマルタの姿が描かれておりました。 そしてラザロについてでありますが、マルタとは対照的に、この僅か2節の中にラザロの名が二回も出て来ます。11章4節に「イエスはそれを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』」と記されていて、このラザロが甦(よみがえ)ったことへの言及と、そのラザロが主イエスの食事の席にいたと描かれていますのは、神の子がそれによって栄光を受けるためであると述べたことと繋(つな)げながら、迫り来る「イエスの死」に焦点を当てて行くのです。この11章4節の言葉にも、イエスは全ての迫り来る危険をご存知であるにもかかわらず、弟子たちとエルサレムに向かおうとしている様子が窺(うかが)えます。 3節 そしてマリアの登場へと進みます。このマリアは11章2節で「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった」と、今日のところを先取りして、マリアのこの香油のことが言及されていましたが、ヨハネは預言法という手法を用いて、マリアの塗油の行為をあらかじめ書いておいて、本日の12章の日課の箇所で、マリアによるイエスに対する信仰の表明である、ナルド香油の物語へと展開させているのです。この、足に香油を塗るのは、当時の習慣としては異例のことであります。どのような客に対しても、お客を歓迎して、心から家族を挙げて客を迎えるときにも、そのようにする習慣はありませんでした。そして共観福音書ではどれも香油はイエスの頭に注ぎかけられ、その行為はイエスに対するメシア(油注がれた者)としての認知として解釈され、共観福音書のマリアのイメージは確かにそのように理解されるのですが、ヨハネは敢えてこの「油注ぎ」のイメージを変えて「イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった」としたことの意味を掘り下げる必要があります。 4節〜6節 それに異論を唱えるように、収まりかけた口論を蒸し返すかのようにイスカリオテのユダが口を挟んで来ます。ヨハネの意図は再び、「イエスがいますところ」と人間のいるところ、つまりユダのいるところとのズレを指摘することにあるようです。そうすることによってこの直前のマリアの行為をクローズアップし、さらに際立たせる効果をもたせているのです。四節で「弟子の一人」という付帯文がつけられていますので、これはユダ個人だけの問題としてではなく、弟子たちもしくはそこに居合わせていた一般の人々の言葉として受け取ることができ、イエスがおられるところとのズレをさらに強調する意味で、それをユダに集約させていると見ることができます。 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」というユダを初めとする弟子たちの問いは、一見、正当であるかに思えます。常識人のマルタとは異なり、あまり経済観念は発達していないと周囲から判断されていたマリアの行為は、ブルジョア的な無駄遣い行為と彼らには映ったことでありましょう。しかし彼らのこの批判はイエスの評価を得ませんでした。弟子たちはある程度、イエスの自分たちに対する評価を期待してこのような批判をマリアに向けたのでした。彼らの一見正当と思えるこの批判はその源をたどれば、それは人間の都合・不都合を基準とした実利主義、功利主義でありました。それは単なる人間中心のヒューマニズムに過ぎません。キリストから切り離したこの人間中心主義を一人歩きして、行き詰まりを見せて最後に「裏切り」という行為に走ったのがまさにユダでありました。このユダとイエスとのズレは何であったのか。それは自分を中心に据(す)えるか、イエスを中心に据(す)えるかの違いであったということです。 7節〜8節 ユダの問いは「貧しい人々にどのように施すか」という彼自身の持つ正義感から来る問いでありました。そしてイエスの問いは「わたしを誰と言うか」との問いでありました。そしてそのイエスの問いはいつも「わたしはいつもあなた方と共にいる」という呼びかけを伴っている問いでありました。8節の言葉は旧約聖書申命記の15章11節に出てくる言葉です。そこでは「この国から貧しい者が居なくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」とあります。イエスはこの旧約聖書の言葉を取り上げているのです。ユダが言った「貧しい人に配慮した方がいいのではないか」というのも一理ある、それは旧約聖書にも出てくる大事な視点だと言っているのです。しかしその一方で、ユダの行為が「不正な行為」であると言われて、イエスから斥(しりぞ)けられているのはどうしてなのか。 申命記では、イスラエル民族の歴史においては、そういうことに対して本当にきめ細かい配慮をしています。旧約聖書のユダヤ教というと宗教による一党独裁のような支配体制を想像することが一般的にはなされていますが、そうではなくて王といえども、一寡婦(やもめ)の権利を剥奪すると王が裁かれるという、そういう法的構造が旧約聖書の中に頻繁に描かれています。それは「人の上に人が立ってはいけない。神だけが人の上に立つものだ」という、絶対者が誰かということがわかった時に、始めてこの世の権力、あるいはそれを行使する者を含めて、王や他の支配者が絶対ではなく、相対的なものであるという構造を知っている民族それがユダヤ教だということです。しかしながら、わたしたちはどこまでも相対的な人間である限り、間違いを犯します。真の絶対者を実際に認識する場を持たない時に、すなわち、自分を基準にして物事を進めようとするとき、それは信仰とは別のことがらになる。そして神の言葉から逸れて、その結果必然的に的外れな過ちを犯すことへと繋(つな)がって行くことになるのです。 ヨハネ福音書1章1節から14節に記されている「神の子の、わたしたちの人類史に対する啓示、顕現」によって、神に起源する愛と真実と自由に、直接、見、聞き、触れることのできる時代に突入したと宣言され、このイエスに啓示された神の愛の働きに基づかない限り、人類史に存在する貧しさの問題は根本的に解決することはないということをイエスは言われているのです。わたしたちの思いやり、愛、配慮、心配りが神に起源するものであるときに初めて根本的に解決するということをイエスは示されたのです。 このマリアの洗足の話しで連想される、ヨハネ福音書13章1節〜11節にもうひとつの独自なイエスご自身の「洗足物語」があります。当時は一般に足を洗う行為というのは奴隷のするべき行為として理解されていました。けれども、古代セム人の間では主人自らが旅人の足を洗ったり給仕をしたりすることはよく行われていたことで、そうすることによって同じ立場に立つ仲間として、あるいは共同体の結束を深めた者同士としての認識を確かめ合ったということでありました。イエスも、この洗足の行為の後、「お互いに足を洗わなければならない」(13章14節)として共同体の結束を固めるよう語りかけています。 そういうことで、ヨハネ福音書は、「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」というマリアの行為はただ単にイエスをメシアとして認知したと言うことを超えて、それ以上の「イエスが居ます所」居場所と同じ所に立つということ、具体的には、神の意志に添い、神の御言葉に立ち、その神の意志を行っているイエスの立っておられるところに自分も立つという意味を含んでいたということであります。イエスの居場所を共有する行為として「わたしの葬りの日のために」とイエスご自身がマリアの行為の本質的な意味を改めて喚起しているのです。イエスの本質的な存在の意味とマリアがその存在を共有して共にいるところで、その祝福の象徴として「家は香油の香りでいっぱいになった」とヨハネは表現しているのです。旧約聖書では香油のかぐわしい香りは神の祝福の象徴であり、(詩編133篇2節)また、燔祭(はんさい)の香りは天上の神への献げものでありました。マルタとの対比でマリアの行為を、真実に神に奉仕するとはこのように神の御言葉に仕えることであり、神の側でもそのことを承認されると改めて示しているのです。教会の群れは常にこの信仰の原点であるイエスのいましたもう所に一歩踏み込んで共に立つところに生まれ、そこで群れの一人一人の信仰者は、恵みによって神の愛に生きて働く者になるのです。 お祈りを致します。 父なる神様。あなたはわたしたちを愛して、あなたの独り子をわたしたちの所に遣わして、十字架の苦しみと死に渡されるほどにわたしたちを愛してくださったあなたの愛を深く受け止め、その愛にわたしたちがお答えする者となることが出来ますように、わたしたちの傲慢で自己中心的な思いで凝り固まっている心を打ち砕き、あなたの御言葉によって魂を導き、あなたの愛の力と聖霊とを与えてください。そしてわたしたちもあなたの御言葉の種を蒔(ま)く宣教の教会に使命を持つ者として召されていることを喜びとし、誇りとする者とならせてください。あなたの愛の御言葉の力によって、あなたの助けを必要としている病める兄弟姉妹を慰め、人生の転機におられる方々を導いて、あなたの御栄えを表して行く器となることが出来ますように礼拝を通してわたしたちが与えられている信仰を正しく継承していくものとなることができますように顧みてください。日本の国とアジアと世界に、あなたの喜ばれる正義と平和と美しい環境がもたらされますようにあなたの御言葉によってわたしたちをお導きください。 主イエス・キリストによってお祈り致します。 アーメン ページの先頭へ |