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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2025年3月礼拝説教


★2025.3.23 「神はあなたを待っている」ルカ13:1-9
★2025.3.16 「神に立ち帰りなさい」ルカ13:31-35
★2025.3.9 「ただ神にのみ仕える」ルカ4:1-13
★2025.3.2 「苦難の中を歩み行く力」ルカ9:28-36


「神はあなたを待っている」ルカ13:1-9
2025.3.23大宮 陸孝 牧師
「『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません』」(ルカによる福音書13章8-9節)
 本日の福音書の日課ルカによる福音書13章1節から17節のところは、他の福音書には書かれていないルカ独特のまとまりになっているところです。主題は「悔い改め」です。日本語で言う「悔い改める」という言葉には、どうしても解釈と説明が必要です。聖書の原文は、「メタノエオー」というギリシャ語です。「心を入れ替える」とか「方向を変える」という意味です。そこから日本語は「悔い改める」と訳していますが、しかし、この語源は本来戻ると言う意味です。「メタノエオー」は、ヘブライ語の「ショーブ」の訳語です。このショーブも日本語の聖書では「悔い改める」と訳していますが、本来は「立ち帰る」、「戻る」という語源です。「旧約聖書」には、この「ショーブ」という言葉が数え切れないほど頻繁に使われていますので、「立ち帰る」と言う字がいかに重要視されているかがよく分かります。それは、「あなたの中の本来の命に立ち帰る」という意味だからです.。

 さてそれで、13章の1節〜9節の本日の日課でありますが、これは、1節から5節までと6節〜9節までとは、はっきりと強調する点が違っている二つの記事であるように思われます。前半は、最後の決着が着く終末への「途中」である「今の時」、この今の時になすべきことは、「立ち帰る」ことだということが教えられています。それに対して、6節から9節までのたとえ話が訴えていることは、「今の時」というのは、神様の側での執り成し、忍耐、恵みの時、待たれている時であることを強く訴えて、それだから立ち帰るということを促すというそういった違った強調点で語られているように思われます。ルカ12章の終わりの部分から続いている一つの主題があります。それは「今」という時のしるしを見出しなさい、それは終わりの裁きに至る「途中」の今であり、ですから「あなたがたも」今という時に「立ち帰らなければ、滅びる」といわれています。「あなたがた」つまりイエスの御教えを聞く一人一人、この聖書を読む読者の一人一人が、ここで「いちじくの木」にたとえられているのだと、解釈することができます。

 さてこのたとえの七節に「主人」が、園丁にもう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない≠ニ言いました「三年」を、選民イスラエルに神様が救い主イエス・キリストを遣わして、実を探しに来られた期間が「三年」、つまり、イエス・キリストの地上のお働きの期間がざっと三年なのだと、こういうふうに解釈する人々もおりました。伝統的になんとなく、イエス・キリストが洗礼を受けて救い主の名乗りを上げてから十字架におつきなるまで、およそ三年≠ニ言われているのはこのためなのですが、これは全くの余談であり、本質的な意味がこの解釈に込められているわけではないように思われます。

 主人が、「だから切り倒せ」と言いましたのを受けて、8節に園丁は答えます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください」。直訳的に言い直しますと、「今年もいちじくの木を「ゆるしてください」。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もし、それでもだめなら、切り倒してください」(19節)。

 そのころの時代の人で、ローマのプリニウスという有名な人が、膨大な「博物誌」とか「自然誌」と呼ばれる本を著しています。そのプリニウスの「博物誌」の中に、葡萄の栽培について長々と書かれていて、実際に具体的に、ぶどう園にはあれとあれの木ならば植えるのがよろしいと、教えてありまして、その木の中にいちじくの木が一つ出てくるのです。そして葡萄やいちじくの栽培の仕方が細かく記されていて、もし残念ながらだんだん実がならなくなってきた時にはどうやって再生させるかということも記され、その中に「木の周りを掘り」、「肥やしをやり」という、全くこの園丁が言っている通りの手順が出てくるのです。ということで、この園丁がやろうとしておりますことは、当時の農業の技術、知識から言いまして、手を尽くしてやるべきことを全部やると言っているということになります。

 これは、旧約聖書では有名なイザヤ書五章にありますぶどう園の歌≠思わせるものであります。イザヤ書5章1節からお読み致します。(旧約1067頁)「わたし─預言者は歌おう、私の愛するもの─ヤハウエのために、そのぶどう畑の愛の歌を」と、こうイザヤは、ヤハウエの「ぶどう畑の愛の歌」を歌い出します。「わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(12節)。3節から、そのヤハウエが「わたし」と語りだします。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ、わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか」(14節)。まさに本日の園丁も同じことを主張しているのです。「わたしがなすべきことで、しなかったことがまだあるというのか」。もう何もない。なすべきことは全部やった。そのようにして「来年」の実りを待ちましょう。こういう執り成しをしているのであります。

 これはたとえ話なのですが、このようにして執り成されるいちじくの木の側から言いますと、自分に向かって来る御主人様の方に、「主人」と「園丁」と、たとえ話ですから二手に分かれていますけれども、とにかく自分に向って期待している側に、二つの違った態度が分裂して出て来ています。一つは、実が成らないなら「切り倒せ」、場所ふさぎだという裁きの声であります。それに対して、いやあ、もうちょっと「彼をゆるしてやってください」というもう一つの声があるわけです。この背景となっている旧約聖書の中のヤハウエの神様には、二つの面があることが書かれています。罪を罰せずにはおれないという正しさと、イスラエルを救いたい、許そうと、恵みを与えたくて、イスラエルが立ち帰って来るのを待っておられるという面と、二つながらあるのです。この二面が、本日のたとえ話では、「葡萄園の主人」と「園丁」と、この二人にきちんと区別されて登場しているということになります。

 そして、このたとえは、ぶどう園にイチジクの木が植えられていることを語っています。しかもイチジクの木は、たまたまそこにあったのではなく、ぶどう園にある日、イチジクの木が植えられたのです。そのことによってイエスは何を考えておられたのかは明らかであると思います。このイチジクのたとえは、つまり、イエス・キリストの教会、新約の教会を表しているということです。そして、教会は、この「園丁」が神の御子、主イエス・キリストという方だと読んで来たのです。

 ルカ福音書の後の方になりますと、最後の晩餐の場面が出て来ますが、ルカ福音書の22章31節、イエスはペトロに言われます。「シモン、シモン、サタンはあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(〜32節)。このように執り成される主イエス・キリスト、このかたこそ「園丁」にほかならない。どうぞ「今年も彼を許してください」、その「周りを掘り」、「肥やしをやり」、なすべきことをすべてしてやったなら、「来年は実がなるかもしれません」。このようにして、本日の御言葉は、今が「途上」だから急いで立ち帰れというただそれだけではなく、今は許されている。神が忍耐して待っておられる。救い主イエスがわたしたちの救いのために熱心に執り成しておられる時なのだ、憐れみと恵みをもって待たれている時なのだ、だから立ち帰りなさい、というもっとわたしたちの内実を持って神の命に繋がることをわたしたちに求めておられるのだということです。

 執り成しという同じ言葉をヨハネ福音書では弁護者と訳されております。ヨハネ福音書15章26節では、その「弁護者なる聖霊が、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはず」だといわれます。聖霊が父なる神の御心に従ってわたしたちを今も執り成していてくださるのです。「木の周りを掘って、肥やしをやりましょう」、実を結べるような養分、肥やし、それを更に注ぐという聖霊の豊かな恵みの執り成しの働きを示そうとしているたとえなのだとわたしたちは受け止めルことができるでしょう。

 神様が最後の審判があるとか、切り倒せとか、あるいは、そういう時が来るとか言われているのは、「今忍耐して恵み深く待っていてくださる」ということであり、「今の時」というのは、三位一体の神の働きの中で執り成しが繰り返され、何とかしてわたしたちに「実」を結ばせてくださろうと、霊の力でわたしたちを新しくしようと働きかけていてくださる時なのです。考えて見ますと、わたしたちの命は、必ず終わりを迎えます。また、生きている間にも、病気、災害、事故ということも、しばしば起こります。しかし今必要なことは、どのような時にも、自分の内側に生き生きと息づいている永遠の命に立ち帰ることだとルカはわたしたちに告げているのです。この今の恵みの時に感謝と喜びをもって、恵みの神に立ち帰りましょう。

 お祈りします。

 神様。実りのないうつろな人生をただ過ごしておりますわたしたちに、あなたは深い憐れみをかけ、また執り成しをし、養分を与えて、わたしたちそれぞれを、実を結ぶようにと待っていてくださいます。どうか、わたしたちが、今という時に、それぞれの成果のある、実りのある人生を生きる者となれますように、悔い改め、神様に立ち帰り、神様から生き生きとした命と養分とをいただける関係に立ち帰らせてください。

 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン。

      
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「神に立ち帰りなさい」ルカ13:31-35
2025.3.16 大宮 陸孝 牧師
「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」(ルカによる福音書13章33節)
 本日の福音書の日課は13章31節から35節までです。31節に「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」とあります。「ここ」とはどこか。この31節の言葉は、主イエスは今、ヘロデ・アンティパスの支配する地方におられることを前提としています。この前の同じ13章22節では、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とありますので、イエスは、すでにガリラヤを去っておられたことになりますので、もう一つのヘロデ・アンティパスの支配地であるペレアにおられたことになります。

 22節から30節までの、主が町や村々を巡りながら人々に教えておられたその直後に、あるいはその最中にファリサイ派の人々が割り込んで来て、イエスに退去を求めます。その理由についてはいろいろと考えることが出来ます。ファリサイ派はここで、真にイエスの身を案じていたのかも知れません。ヘロデがバプテスマのヨハネを恐れていたと同様に、そしてバプテスマのヨハネを殺害したがゆえにイエスをより強く恐れていたので(ルカ9章7節〜9節)イエスを殺害しようと思い謀っていたと思われます。ファリサイ派はイエスの味方にこそなりませんでしたが、明白な敵対者であったわけでもありませんので、彼らがイエスのために警告したとも考えられます。あるいはファリサイ派は、イエスをヨルダン川の西側に追いやってユダヤ教支配者の手にイエスを引き渡そうとしたのかも知れません。あるいはヘロデ自身が、イエスを自分の支配地域の外に追いやろうとしてファリサイ派を利用したとも考えられます。

 そのどれにしても、ファリサイ派は、イエスに「ここから出て行きなさい」ということによって、自分たちとイエスとの関係を絶つことになって行くのです。人はいついかなる時も、イエス・キリストと共にいることによって本来の人として生き、また平安の内に置かれるものでありますが、ファリサイ派は、ここで自ら進んで、この最も大切な神との関係を絶ち、主と共にいるという恵みの事実を捨て去ります。ファリサイ派の警告が、仮にも全き善意から出たものであるとしても、「ファリサイ派が「神のことを思わず人間のことを思っている」(マタイ16・23)ものであることが、ここで明白になります。主イエスから離れ去る者の運命は滅亡なのです。

 ここの短い箇所でいろいろなことが絡み合うようにして出て来ています。大まかに見ますと、31節から33節ファリサイ派のイエスへの進言と主イエスの返答。34節〜35節エルサレムについての嘆きという二つのことが合わさっています。ここの箇所でまず印象深く浮かび上がって来ますのが、イエスを拒絶する人間の混迷の中で、エルサレムに決然と向かわれるイエスの姿であります。それによって、この後のエルサレムについてのイエス嘆きがこの箇所と結び合わされると言う構造が見えて来ます。この結びつきの中でルカが示そうとしているのは、一言で言いますと、人間の拒絶とそれを超えて人間全体を追い求め続けられる神のお姿、すなわち人が応じなくとも神は集め続けておられるということです。以下順を追って見て参ります。

 31節〜33節ヘロデの殺意を巡るファリサイ派の人々とのやりとりに見ていますのは、福音書全体に亘って語られる地上の生涯を歩まれたメシアとしての主イエスの道行き全体に何があったのかということの一旦を示すものであります。そこにあったものの一つは、主イエスへの明らかな殺意であり、もう一つは主イエスへの少しの肯定的な関心であります。その両方ともが結果として十字架に向かわれる主イエスの後押しをする結果となっているのです。「ここを立ち去ってください」おそらくペレアであることは先ほども申し上げましたが、そこから逃れるように進言しますが、結果としてイエスはエルサレムへと向かわれることになります。勿論それはイエスご自身の意思なのですがファリサイ派の人々が主イエスに提案した安全確保のための移動さえ、主イエスを十字架に送ることになっているという点で、人間のイエスとの関わりの本質を的確に言い表しています。それは、34節の「応じようとしなかった」との嘆きの言葉に結びつくことによって、明らかにイエスの周りにいながら、イエスに関心を抱いていたにもかかわらず、そうした態度の中でも神の救いの招きへの拒絶と言うことが起こっているのだということを明らかにしているのです。

 ファリサイ派の人々がイエスを守る意図で語っているとすれば、その態度は、彼らの宗教的な本質に貫かれたものに重なっています。彼らの宗教は守りの宗教でありました。彼らが熱心に行ったのは律法の遵守でありました。ファリサイということばが分離を意味するものとされますように、世俗の汚れから分離し自分自身を守ることが彼らの宗教の内容でありました。しかしイエスがもたらしたまことの救いは反対に神の守りに自らを置き、信頼をもって神に委ねるということでありました。そのようなまことの信仰に対して、ファリサイ派の人々が描き出した自己防衛的な信仰は、神の恵み深い保護への招きを見失わせるものでした。彼らがイエスを保護するのではなく、主の守りに彼らが安んじているべきであったのです。自分で自分の信仰を守り、主イエスに保護を加えているという、仮にそれが信心深いあり方を取っていたとしても、実際のところそこで起きていることは、神の守りを意に介さない、神の救いへの招きを斥けているということだったのです。主イエスとのすれ違い、神の招きを示して立つ主イエスに出会い損ねている。しかし、そのような主イエスを通して差し出された神の守りを真に受けないところに、十字架は立てられて行くのです。

 22節と23節に主イエスは「今日も明日も・・・三日目に」と「今日も明日も、その次の日も」と似た言葉を繰り返していますが、この繰り返しによって何を強調しようとしているのか。32節では「全てを終える」と神のみわざの完成が語られています。一方33節では「自分の道を進まねばならない」という継続が語られ、この繰り返しの表現は完成と継続ということであり、単なる繰り返しではありません。32節の三日目が暗示しているのは、十字架と復活の完成であり、主イエスの悪霊を追い出すわざ、病を癒やすわざが十字架と復活によって完成されることで、そこに至るまでは継続して「その次の日も・・・進まねばならない」とまさに不退転の決意で神の救いのご計画の完成を目指して継続して進まねばならないと語っていることになります。つまりここで主イエスの地上の生涯を貫いていたものが何であったかを表し、34節で預言者たちを遣わし、御子を遣わし、人間に伝えようとしている神の譲歩のない真剣な思いが語られて行くことへと続いて行くのです。

 主イエスはここで文字通りのいのちがけの呼びかけをしているのですが、それに対してファリサイ派の醒めた心で立ち尽くしている姿が一層対象されて浮かび上がって来ます。そこで明らかにされているのは、神の恵み深い救いの呼びかけに応えようとしない。人間の罪深さであります。

 35節でその人間の罪深さに対して主イエスは「見捨てられる」と衝撃的な発言をされます。神は義でありますから、ご自分の憐れみ深い愛の救いの業に答えようとしない人々に対して、一定の厳粛なる態度決定がここで明らかにされています。わたしたちが神の呼びかけを終始無視するならば、その結果は「見捨てられる」ことになるでしょう。それは確かです。しかし、そこで主イエスの継続を支える神のご意志は尽きてしまうのでしょうか。この神の側での態度決定によって、「今日も明日も・・・神の救いの御業が完成するまでの」イエスの歩みの継続は中断されてしまうのでしょうか。神のご意志は変わってしまうのでしょうか。

 「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」(35節)つまりイエスはエルサレムが御自分をなお喜び迎える時が来るであろうことをご存知なのです。主イエスはご自分と神の愛を信じています。その愛が新しいイスラエルに信仰を呼び起こされるのです。そうなりますと、その信仰はエルサレムの敬虔から派生したもの、人間が自ら生み出したものではありません。むしろ、その信仰は神の不退転の決意により生起したものと言うことになります。このことはローマ書11章36節で、パウロがイスラエルの不信仰の問題について語り終えた後に、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と、信仰が全面的に神に帰するものであることを強調していることと重なります。

 そこで、この「見捨てられる」という言葉が何を意味するかが明らかとなります。この言葉は旧約聖書エレミヤ書12章7節「わたしはわたしの家を捨て、わたしの嗣業を見放し、わたしの愛するものを敵の手に渡した」と神の決定的な破棄、または神の鞭(むち)としての敵の手にまかされることを示す裁きを想起させますがしかし、次に続く「・・・まではわたしに会うことはない」でその意味が一変します。人々の背きに心をとめ、心を痛めて嘆きたもう神は、人々が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。人々は、神の救いの業を拒み、更に神に挑み、神の恵みの働きかけを拒絶したのですが、その彼らもまだ、神の恵みの支配のもとに置かれている。彼らが悔い改めるならば、再び、主に会うことができる道を神は憐れみの内に備えていてくださっている、とイエスは切実な神の愛の思いを訴えているのです。

 放蕩息子の譬えの中で、主イエスは、神を捨てたものが、実は神に捨てられた悲惨さの中に陥るのだが、その者もまた神の恵みの中に留め置かれ、悔い改めて帰ることができ、再び神に相まみえることができることを明らかにされています。ですから「見捨てられる」とのイエスの言葉は、永遠の滅びの中に定められたと読むことはできません。神から離れ、神を自ら捨てたと思っているが実は神から捨てられて、暗い罪の中の荒廃した状況に陥っているが、その者の悔い改めと立ち帰りを神は待っていてくださるとの宣言です。

 「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という言葉は、わたしたちに、主イエスのエルサレム入城を思い起こさせます。主の十字架の恵みという現実があり、そこで初めてわたしたちの悔い改めも現実となるのです。ご承知のように、この時にも、イスラエルの指導者たちは、この救い主を迎え入れる讃美の声には同調しませんでした。そしてまた民衆もこの直後には、イエスを「十字架につけよ」と言って叫ぶ群衆となって行くのです。イスラエルが真に主イエス・キリストを告白するに至るのは、主イエスが人々に捨てられ、十字架につけて殺され、三日後に復活なさった後のことだったと、パウロはローマ書11章25節以下で語り、最後に32節でこのように締め括ります。「神は全ての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、全ての人を憐れむため」、であったと。つまり全ての人を救い、神の愛によって生かすためであったということです。

 ルカ福音書を書いた記者は第二巻の使徒言行録で、弟子たちがエルサレム市民に呼びかけ、奨励しているメッセージを記しております。3章17節〜21節「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪を消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられたメシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」このようにイエスが再び来られる再臨の時に至るまでに「立ち帰りなさい」と呼びかけ続けておられるのです。

 イエスは「わたしはお前の子らを何度集めようと願ってきたことか」と今でもわたしたちに語りかけていてくださるのです。わたしたちはこのイエスの願い、何度も何度も願って来られたこの願いに、今度はわたしたちが感謝と喜びをもって受け止め、応答して行きたいと思うのです。

お祈り致します。

 イエスキリストの父なる神様。あなたがまことの真実の救い主、また愛に満ちた救い主をわたしたちの世にお遣わしくださり、心から感謝致します。

 あなたがお遣わしになったイエスは何度も何度もわたしたちの罪のために心を痛め、また願っていますわたしたちがあなたのもとへと立ち帰り、あなたの救いが成就することを、わたしたち自身も自らの願い、望みとして持つことができますように、悔い改めてあなたのもとに立ち帰り、イエス・キリストの招きを受けることができる者とならせてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
      
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「ただ神にのみ仕える」ルカ4:1-13
2025.3.9 大宮 陸孝 牧師
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカによる福音書4章8節)
 イエス様が救い主として公の働きに就かれる前に悪魔の試みを受けられたということ、これは、マルコ福音書によっても知られている事実でありますが、その試みの内容については、マタイ福音書とルカ福音書だけが、マルコではない別の資料によって伝えているので、試みの内容が子細にわたってしるされ、伝えられています。そのルカ福音書の第二の試みは、マタイでは順序が逆になって第三の試みになっているということ、そして、マタイで「イエスを非常に高い山に連れて行き」、全世界の国々の栄光を見せた(四:八)というところが、ルカの福音書では「高く引き上げた」と変わっております。空中高く引き上げたということを意味しているのではなくて、マタイの言うように世界中が見わたせるような、「非常に高い山」がパレスティナにあるわけでもなく、世界中のどこにもあるわけでもありません。ルカは、そういう文字通りの客観的などこか高いところというのではなくて、あくまでもこれは幻の体験であるということを言いたいために、「高く引き上げ」と書き換えているということなのです。

 そしてルカは悪魔の言葉を丁寧に書き加えています。6節の所ですが、「この国の一切の権力と繁栄―栄光とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」。こういう長い文章を付け加えています。この言葉の中に、「それはわたしに任されている」という言い回しがあります。「任されているのです。渡されています」という受け身の形を使うのは、ユダヤ人の間では、神さまの備えとか配慮を言い表す湾曲的な表現なのです。この国々の栄光と権力とはわたしに任されています、渡されていますということを積極的に言うと、実は神さまがこれをわたしに任せておられますということなのです。ですから悪魔が本当に世のすべての権威と栄光の創造者であるとか持ち主であるとかいうのではなくて、それらの本当の創造者や持ち主は神さまであられる、自分はただお許しのもとにまかせていただいているだけだということです。実質的な権限は自分には無いと認める表現になっていることに注意する必要があるでしょう。

 これは、イエス様が今受けている試みは、本当は父なる神が聖霊によってイエスを導いて試みへと連れて行っておられるという出来事であって、悪魔はその神さまのおゆるしのもとで使われているに過ぎないと確認する言葉であります。

 それでは、この悪魔の試みは、何を試みようとしているのか。6節と7節「そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる』」。原文の文章の順序は一番先に「あなたに与えよう」という言葉が出て来ます。「あなたに与えよう」。何をかと思うと、「この国々の一切の権威と権力は・・・」、という結論になるのです。七節はまた、一番始めに「あなたが」とあって、「だからもしわたしを拝むならば」という大変興味深い順序になっているのです。「あなたが、だからもしわたしを拝むなら、みんなあなたのものである」。

 このように、悪魔は口を開く第一番目には必ず、「あなた」「あなた」という言葉が口を突いて出て来ています。ですから、「あなたは神の子なのだから」という表現は使ってはおりませんけれども、この試みは、「あなた」つまりイエスだけに特別の意味がある試みとして語りかけているということであります。決して一般的な人たち、諸々の人々に通用するような誘惑ではなくて、「あなたに与え」たい、「あなたがもしわたしを拝めば、みんなあなたのものになる」。これは、「あなた」と呼ばれる「神の子イエス」に独特な挑戦であるということになります。「みんなあなたのものになる」という「みんな」で悪魔は言葉を終わります。「世界のすべての国々の一切の権力と繁栄」の「みんな」が「あなたのものになる」こんなことが問題になり、誘惑になり、試みになり得るのは、それこそ天下の大王の世界でありまして、庶民の世界の問題ではありません。ですから、これはまさに「あなたは神の子なのだから」という、イエス様独自の試練であるということを強調していることになります。

 このイエスがメシアとしての公の活動を開始される直前に試みを受けられたのは、「救い主」として、「神の子」としてわたしたちの中に入って来るに先立って、どういう神の子≠ネのか、どういう救い主≠ネのかをはっきりさせるという特別な意味を持った試練であったということだったのです。悪魔は、このイエスの神の子、あるいはメシアという方をどういう面から誘惑しようとしたのか、この試みの本当の狙いは何かをまず考えなければなりません。それはイエス様のお答えの方から理解するのが正しいと考えられます。イエス様のお答えというのは八節であります。「イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。

 どこに書いてあるかと言いますと、それが申命記の6章13節と10章20節に全く同じ言葉で「あなたの神、主を畏れ、主に仕えよ」という戒めがあります。これをルカはアレクサンドリア写本のギリシャ語訳から引用して「のみ」という言葉を付け加えているのです。これでイエス様のお答えがよくわかります。イエス様のお答えによると、悪魔が誘ってきました誘いのどの点が問題なのかと言いますと、「もしわたしを拝むなら」というところなのです。決して、何をくれるかという、そちらの方ではないのです。「わたしを拝むなら」というところに挑戦があったということなのです。イエスはそれに答えて、いや、あなたの神、主を拝み、ただ主にのみ仕えよと書いてある≠ニ主張されたと言うことでした。

 神の子ですから、神を拝むのは当たり前です。でも「わたしを拝むなら」と、悪魔は誘惑します。そんな融通の利かないことでどうするんですか。ちょっとわたしを拝むだけで事は順調にいくのですと、それに対してイエス様は、いや、そうじゃない、「神の子は神のみを拝し、~のみに仕える」。こういう主張なのです。つまり最期に到達する目標とか、ご褒美が問題なのではなくて、その最期の目標を達成するまでに神の子はどういう道筋を歩むべきか、メシアはどういう方法を取るべきか、どういう心の姿勢で働くべきかという問題なのです。イエス様によれば、それは「ただ主をのみ拝し、主にのみ仕える」という、ただひたすらに神さまに献身する道筋と方法と姿勢でもって目標を達成するんだと、こういう潔癖なお答えであったということなのです。

 イエス様にとっては、神の子であれば神にのみ仕えるのです。プラス悪魔、プラス何か、そういうバイパスはないのです。全身全霊を挙げて、ただ神にのみ仕えよこれが神の子イエスの生き方なのです。

 イエスさまは、父なる神様から独立して無関係に自分の力を自分の勝手に使うということはしない、父なる神の「心に適う者である」と言うことを立証なさいました。そして、自分の力だけで生き、それを誇示したりすることではなく、また、神ではないその他の第三者の力にひれ伏したり、助力を求めたり、妥協することもしません。ただ神にのみ仕えます。その意味でも、御父の「心に適う者」であるということを明らかに立証されたのであります。このような御父の御心に一致した神の子がわたしたちに与えられているという意義は大きなものがあると思います。

 神を見た人は一人もいないのです。イエス・キリストという方を通してだけ見えるのです。イエスと神とは一つなのです。ですから、わたしたちがイエスを知ったならば、それは神様を知ったことなのです。それ以外の神様はいないのです。わたしたちを愛し、わたしたちのために自分を捨ててもよいと言う方が、神様なのです。その意味で、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者だ≠ニ神様がおっしゃった通りにイエス様が自分を立証して見せるこの試練への勝利というものは、わたしたちにとって本当に素晴らしい福音の基礎・土台をなしているということなのです。わたしたちがこのようなイエス様をいただいているのだということを深く感謝して受け止めて行きましょう。

 お祈りします。

 神様。あなたがイエス・キリストというお方にお姿を現してくださり、ただ一人、わたしたちに神様を現す方として来てくださいました事を感謝致します。主イエス御自身、すべての試みと誘惑を退けて、父なる神の「心に適う者」としてそのお働きを貫き通してくださいました。また、神の子としてのイエス様の力も、この世のすべの栄光も、あなたの御心なしには使われなかったことを知ることが出来ました。わたしたちが、このような忠実な、神と一つである救い主によって救われておりますことを、喜びと感謝のうちにひたすら信じ通すことができますように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。  アーメン
      
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「苦難の中を歩み行く力」ルカ9:28-36
2025.3.2 大宮 陸孝 牧師
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(ルカによる福音書9章31節)
 イエスさまは「神のメシア」として御自分は必ず多くの苦しみを受け、エルサレムの最高法院から排斥され、抹殺されるけれども、しかし必ず三日目には神によって立ち上がらされるとお語りになりました。そしてその自分について来たいと思う者は、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスについて行くならば、自分の命を救うことになる、こういうふうにもお教えになりました。それが21節から27節で教えられたことであります。そしてその後およそ一週間ほどして、イエスの山上の変貌≠ニ呼ばれる出来事が起こりました。そこには特に「モーセとエリヤ」、つまり旧約聖書の預言者がイエスと一致して、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」ということ─この「最期、エクソドス、脱出」という言葉は、イエスの場合、この世から脱出する死であると同時に、三日目に神によって立ち上がらされる栄光への脱出でもある─そういう受難と栄光について、イエスと一致して旧約聖書の預言者たちも証言しているということをこの物語は証言しているのです。

 ルカはこのことを使徒言行録26章22〜23節で法廷における証言としてこのように語りました。モーセと全ての預言全体が、メシアは必ず苦しみを受けて栄光に入るべきだと語っている≠ニ述べています。このところを読みますと、今わたしたちは、当然のように教会の信仰の聖典として(信仰の基準の書として)旧約聖書の39巻を聖書だと思っていますが、このヘブライ語39巻の「聖書全体」がキリスト教の聖典であるという信仰が確立した最初の歩みが、このルカ福音書と使徒言行録の神学なのです。そういう意味で、いまわたしたちは、大変大事な所へ導かれて来ているのです。

 そこで、イエスが遂げようとしている栄光への脱出≠ノついて旧約聖書全体を通してメシアの受難と栄光を語ってきたとはどういう意味なのでしょうか。旧約聖書に書かれています神さまの人間を救おうとする救済の歴史、神さまと人間の関わりの歴史、そして人間の中でとりわけ神に近いと思われる選民イスラエルとその神さまとの関わりの歴史、これをずっと旧約聖書に沿って見てみますと、神さまの方がいつも捨てられ、神さまの方がいつも人間に足蹴にされてきた、いつも人間の方が強かった。キリスト教はそういうふうにヘブライ語の聖書を読んできたのです。いつも人は神よりも強く、神を蹴飛ばし、神を侮り、神を捨てた。つまり罪人とはそういうことであったのですが、その人間を、神さまの方ではいつもいつも思い返しては、そのイスラエルを救おう、救おうと救いの御手を繰り返し伸べて来られたのだけれども、イスラエルはかたくなにそれをはねのけた。これが旧約に書かれている歴史です。

 この神さまの受難と赦しをそのまま担うのが「神のメシア」イエスであり、このイエスは神の御子、神の独り子なる神、誰も見たことのない神をこの世に示され、旧約聖書の預言者の時代に捨てられ続けたヤハウエと同じ方、それがイエス・キリストとなってわたしたちのもとに来てくださった。これが、イエス・キリスト、まさに神を現わした独り子なる神にほかならないとわたしたちは信仰告白しているのです。

 ですから、わたしたちも、日々、自分を捨てて、世から排斥される十字架を背負ってイエスについて行くこと、実はこのことに於いて神の子になるのだということを信仰告白しているのです。「わたしについて来たい者は、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とイエスは言われたのですが、わたしたちはこの旧約聖書時代以来の神さまの苦難の歩みに組み込まれて、その御足の後に従うことによって神の子とされる、そういう信仰なのです。

 イエスの十字架の苦難の道の果てに栄光があるのだということを変貌によって示そうとされたのですが、ペテロはこれを誤解して受け止めます。33節以下ですが「その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』。わたしたち人間が「素晴らしい」と思う、あるいはこれが栄光だと思うその内容は、人によってイメージがいろいろだとは思うのですが、でも、大体おしなべて、わたしたちの憧れる「すばらしさ」とか「栄光」というのは、なるべく楽しくて、折角こんないい所にいるのならばいつまででもいたいという程度の栄光でありましょう。イエス様はそうではない道を歩もうとしているのです。それがメシアとしての自分の義務でもあり、父なる神のご計画でもあるのだと言うことを繰り返し言っているわけです。人の子は多くの苦しみを受け、最高法院から排斥されて殺される。けれども三日後に神によって立てられる♂h光、それを本当の栄光だと言っておられるのです。

 イエスについて来たいと思う者は、同じように、日々自分の十字架を負い、自分を捨て、イエスと同じ苦難の道を歩むことを通して自分の命を救うことになるという栄光、これを待つべきである、そういう意味で、「これに聞け、彼に従え」とイエス様が弟子たちに23節から27節まででお教えになっている弟子として歩むべき道≠アれを教えてくださっているイエスに聞き、従いなさいという意味でありましょう。

 この栄光への変貌という出来事は、父なる神に祈って父なる神の側のご計画をお尋ねになっているイエスに対して、苦難の末に必ず栄光を授けるということを父なる神が保証された出来事であります。そしてまた、天からの御声は、安易に栄光を求めようとか安直に栄光を抱きしめていたいと思う弟子たちに対して、本当の栄光とはキリストに従って苦しみを経て歩む神のご計画に沿う歩みをしてこそ、上から神様から授けられるのだということを教えておられるのであります。

 ヘブル人への手紙の5章7節から九節をお読みいたします。(406頁)「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その恐れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられた」神様から苦難の道を歩むべく指示され、それを御旨として受け止め、その苦難の道を従順に歩んで行かれました。神の御旨を知りこれに従うのが信仰であります。その場合にイエスはどこから神の御旨に従う力を得ることが出来たのか。それは端的に祈ることを通してであったと思うのです。神の御旨として示された十字架の道を主イエスが歩み通されたのは、それは祈りによって天からの力を与えられたからであるとそのことをここでは強調しているのだと思います。

 この主イエスの祈りの姿によって励まされて弟子たちもまた、祈りへと招かれ、苦難の道を歩みながら、主イエスに従い行くべく、主イエスは生涯の一大転換点で、ご自分だけではなく、祈ることの出来ない弟子たちを連れて一緒に山へ登られたのだと考えることが出来ます。ここにこそ将来の教会の姿があるとすれば、わたしたちにとって主イエスの変貌という不可思議なできごとは、わたしたちが礼拝と祈りの中で経験する、神様との生きた霊的な交わりと同じものであったと言うことができます。この礼拝と祈りの中でわたしたちもまた、神のみ言葉と聖霊によって、苦難の中を信仰を持って歩むことができる天からの力を与えられていくということではないかと思うのです。

 さらに、ヘブライ人への手紙12章1節後半から3節をお読み致します。(417頁)「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」イエスさまは目先の喜びなどは捨てて、むしろ十字架の道を歩むことを通して神の玉座の右に座る道を歩まれた。同じように、信仰の定められた道を歩むわたしたちも、そういう「信仰の完成者」イエスをじっと「見つめ」て、目先の喜びなどは採らないで、そんなものは捨ててでも、恥と苦難の道を歩むことを通して救いの完成に進みましょう。このようにヘブライ人への手紙は勧めているのであります。

 今日の変貌の山の出来事と、その時に頂きました神の御声とは、わたしたちにその覚悟、決断を勧めているのだと思います。目先の喜びや安直な栄光などを採らないで、そんなものは捨てて、主イエスと共に多くの苦しみを経て、耐えて、耐えに耐えて、最期に神から賜る栄光に与りましょう。これがキリストに従っていく者の道であります。

 お祈りをいたします。

 神さま、わたしたちがこの世にあって、あまりに多くの、また長い苦しみと困難とを耐えておりますと、人間的には絶望とあきらめに陥りがちであります。でも、それがあなたが定められた道であります限り、必ずあなたは栄光へと変えてくださるということを、主イエスの変貌を通して、わたしたちにも保証してくださっています。

 そして、イエスに従おうとする弟子たちすべての者に、ためらうことなく、目先の喜びを捨てて、主イエスの御足の跡に従っていくようにと促しておられますことをきょうの御言葉によって知らされました。

 世にあって様々な苦しみと悩みの中にありますわたしたちも、耐え忍んで、あなたが用意していてくださいます救いの完成に辿り着くことができますように、わたしたちを支え、またお導きください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。
      
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