| 「世界の希望はここにある」 マタイ2:13-23 2025.12.28 大牧陸孝牧師 |
| 「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(マタイ2章15節) |
| 待降節からクリスマスまでの期間に、わたしたちは、マタイ福音書1章1節〜17節の系図によって、神の御子が旧約の時代に約束された救い主として、ダビデの末裔からお生まれになったことを確認しました。そして、続いて、1章18節から25節で、御子キリストが、神の御霊の特別な介入と働きによって、マリアよりお生まれになったことを聴きました。そして、前後しますが一月の四日の顕現主日には、2章1節から12節で、救い主イエスの誕生に際して、本来、そのことを喜ぶべきユダヤの人々、エルサレムの人々には歓迎されず、ただ、異邦の世界の占星術の学者だけが、御子に礼拝を捧げ、大きな喜びを示したということを学ぶことになっています。本日の日課はその直後の箇所で、エジプトへの避難ヘロデによるベツレヘムでの幼児虐殺、ガリラヤのナザレでの滞在という、イエスの誕生から成長に至る過程での、大変な困難と危険を伴う状況が語られている所であります。 夢による神のお告げが、12節と13節に相次いで出て来ます。これは、幼子イエスの生命を守るための神の介入であります。そして、この支持に、東方の博士たちも、マリアの夫ヨセフも、直ちに従います。ヨセフにとっては、自分の郷里を捨て、遠い未知なる異郷に落ち延びて行くことは、大変な犠牲であったでありましょう。この神の不条理とも思える指示をヨセフが甘受する姿勢によって、神の救いの計画はさらに前進して行くことを、ここにも描き出されていると見ることが出来るように思われます。 マタイ福音書には旧約聖書の引用が多くあるのですが、本日の日課の部分は特にそれが顕著です。これらの引用されている旧約聖書と幼児イエスの誕生物語とを関連させる意味は何なのかを見て行く必要があります。そうすることによってひとつ浮かび上がってくるのがイスラエルの民であり、そこで重要となるのが15節のホセア書第11章1節の引用であります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」この引用の言葉と同時に同時に記憶されるべきこととして、出エジプト記4章22節で、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と述べられていることです。また18節の引用文、「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き嘆く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(エゼキエル31章15節)という預言にしても、むしろ、そこに預言されているのは、こうした旧約聖書において、モーセがイスラエルの民を危機から救い出す出エジプト記のはじめの部分の、モーセが危機を脱出して行く姿と、バビロン捕囚という悲劇と苦難からの解放とを、イエスの幼少期と重ねる形を取って、さらにそれを超える神の新しい契約の希望が語られ、神の約束と導きのもとに危機から脱出する、それが、神の民を救う計画の成就であることを語ろうとしているのです。 イスラエルの民がエジプトやバビロンの手による囚われの体験を繰り返しながら、イザヤ、エレミヤの預言した神の解放の約束に生きたその歴史を、幼子イエスが追体験されるそのイエスの姿にメシア性、神の民の救いの成就を見ているということなのです。 そのような預言と神の救済の歴史との関連で、最後の23節に引用される「彼はナザレ人と呼ばれる」との預言のことばは、旧約聖書の中には見出すことができません。この引用は何を意味しているのかということですが、この「ナザレ人」という言葉に言語的に近い言葉としてよく指摘されますのが、イザヤ書11章1節の「若枝」という言葉です。イエスが「ナザレ」の出身であるという事実に、このイザヤ書に基づくメシア信仰を重ね合わせたと解釈されます。また、ヨハネ8章48節に見られる「ユダヤ人たちが、あなたはサマリヤ人で悪霊に取り憑かれていると、我々がいうのも当然ではないか」との指摘に対して、イエスがサマリヤ出身ではないとの反論の意味もあるとも考えられます。 ボンヘッファーは、「マタイが逐一旧約聖書を引用して、それが『成就するために』これらのことが起こったと述べているのを、われわれが軽視することは、このテキストにおいて特別に重要なこと、つまり、イエスにおいて起こることは、神ご自身があらかじめ決意し成そうとしておられたことであるということを読み落とすことになる」。と警告しています。それはまた、「我々においても、我々がイエスと主にある限り、神が計画し、約束されたこと以外のことは起こらないということでもある」。とも述べています。それは、わたしたちの歴史上で、たとえヘロデの暴虐が行われるというようなことがあったとしても、そのような人間の罪の暗黒の現実の中において、神がその支配を止めてしまうというようなことはないという宣言でもあるのです。それこそ、力ある慰めであります。「神はご自身が約束されたことを成就されるだけである。聖書を手にし、その心にこれを刻む者は、このような慰めが常に新しく確証されるのを知るのである」。このようにボンヘッファーは語り示します。 イエスがその幼い時、暴君ヘロデの暴力を逃れてエジプトへ逃れたという事実を巡って、聖書の告げる神のみ業の歴史がここにある、ここにこそその意味を明らかに示されているということは、驚くべきことと見なければなりません。苦しむ者、弱きものが、その行く先の保証のないまま、エジプトへの避難の旅に出ることはよくよくのことであります。ボンヘッファーは、「この出来事そのものが神の御旨を成就するものであることに心を動かすことなく、そのことを読み過ごして、幼児虐殺に人道主義的な反応を示すだけであるならば、重要な神の救済の出来事を看過することになるであろう。人間の救いに関するこの出来事は、人間の歴史に即して見るならば、ヘロデといえども、いささか狡猾で権勢欲に捕らわれ、疑い深いしかし結局はローマの権力に取り入ることで自己の勢力をようやく保持し得ていたに過ぎない。そして、ここでこの悲劇を生んだのはほかでもない、王ヘロデのイエスに対する畏れであった。そのヘロデがもたらす危機の中で、この救いをもたらす神の子は、ようやくわが身をヨセフとマリアに委ねて異邦の地エジプトにしばらく安住の地を求める幼子でしかない。このささやかで惨めなできごとに神の救いの実現を見ることはわたしたち人間には至難の業である。聖書によって神の意志と約束を確かめ得ない者には、この物語はむしろ躓きである」と語ります。 マタイは、ただ単に旧約聖書にこの出来事の予見を見ていたに留まりません。この出来事そのものに、これからイエスの身に起こることを指し示すしるしを見てもいたとも考えられます。イエスがここで死を免れることができたのは、ほかの何事でもなく、それから30余年の後の日の、あの十字架の出来事のためでありました。イエスは無力な幼子であったから逃れたのではありません。イエスは仕えるために生き、そして死なれます。その神の意志への服従が既にこの幼子イエスにおいて成されていたということでした。 本日の日課はクリスマスの直後の日曜日の説教のテキストとして用いられます。そこで、クリスマスの大いなる喜びがなお生き生きと語られるべきこの主日に、このテキストはむしろわたしたちを困惑させるのではないかと問わざるを得ません。ここではむしろ喜びの貧しさが全面に出て来ています。ヨセフもマリアもその人生を神に全く服従してその全生涯をイエスに結びつけてしまいましたけれども、その決断は自然なる人間が単純に喜ぶことが出来るものではありませんでした。その上、イエスと結びつけたヨセフとマリアを受け入れる世界もありませんでした。長年に亘って神殿再建に努力してきた王ヘロデが、ここでは不倶戴天の敵として登場しています。イエスはこのヘロデにも喜びをもたらすためにこの夜に来られたはずであった。だが、ヘロデはこれを拒否しました。 そして、マタイは幼子イエスに対して、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵の関係にあるのはヘロデに留まるものではなく、わたしたちもそうなのだと言おうとしています。この認識に立つとき、幼児虐殺の不条理とわたしたちの罪の事実とが深く絡み合っているのを知るのです。クリスマスの喜びを打ち消すかのごとき、この喜びなき現実・悲劇を生んだのはわたしたちの罪であるとマタイは宣言しているのです。ですから、イエスが幼い時から味わわれた苦しい旅を、わたしたちは自分自身の罪の告白の中で思い起こすことが求められるのです。何か遠い国での、童話の世界での出来事であるかのように考察しているうちに、わたしたち自分自身の罪への痛切な思いを伴う洞察が始まるのです。真実のクリスマスの喜びも、ここを突き抜けたところにしかありません。ここでの悲しみの黙想は、わたしたちの罪を巡る悲しみの黙想となる。そしてそのわたしたちの罪の悲しみの現実の中で、神の側ではご自分の約束に対する真実を貫かれたことを内容としているのだと言うことです。 異邦の地イドマヤ出身のヘロデは、いつも危機感に身をさいなまれていました。それだけではなく、実は自分を神のごときものとしようとする人間の執念が必然的に神ご自身と対立せざるを得ないという人類の普遍的な罪の実態を、最も典型的にここに現れていると見ることが出来るのです。そして、絶大な権力の保持者であるヘロデがいかに荒れ狂ったとしても、ヘロデが自己保身のために陥った狂暴な殺意を超えた神の見えざるご経綸の働きが、時至るまで続いて行くという神の愛と恵みの支配の奥深さに胸打たれる思いがしますと同時に、人間の傲慢がもたらす惨禍のむごさを併せて思わされるのです。この光りと闇の鮮烈な対比の中に、「悔い改めよ。神の国は近づいた」との使信が、既に鳴り響いているのを聴くのです。 以上申し上げましたように、本日のイエスの誕生直後の物語は、モーセあるいはイスラエルの民の物語と重なり合い、神の民イスラエルの神の恵み対する頑(かたく)なな叛逆と、神の側での御自分の民との間の契約に対する真実を貫かれたことを内容としていて、特にホセア書11章1節から四節の引用は特別な意味を持つこととなります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行き、バールに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。・・・わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛(くびき)を取り去り、身をかがめて食べさせた」神が身をかがめて、わたしたちが真実に生きる霊の糧を与えてくださっている。それをこの幼子イエスに見なさいとの呼びかけです。 ここまでの考察によって、改めてわたしたちの心を捕らえるのは、ヘロデよりも、ヨセフとマリアかもしれません。ここでは、母マリアとともに幼子イエスの生命を託され、その保護者としての全責任を負ったヨセフに改めて注目しなければなりません。このヨセフが、完全に忠実に主の御使いの言葉に従って歩んだこと、ほかに何も頼るべきものがなかったとしても、この主の使いが語った神のことばに依り頼んで生き続けた姿が心に強く残って行きます。エジプトへ行くとき、イスラエルに帰るとき、そしてナザレへ行くとき、いずれもヨセフは神の指示に従って行くのみでした。ヨセフは幼子イエスに成そうとしている神のご計画を、初めから終わりまで見通していたかどうかはわかりませんが、しかし、ヨセフは常に神の言葉を尋ね、それを待ち、それに従ったのでした。わたしたちの生きているこの時代も、ヘロデのような罪深き人たちが相も変わらずうごめいている時代です。ヘロデもヨセフもこの時代のわたしたちの姿です。このヨセフの旅の歩みに、わたしたちの信仰の旅の歩み、クリスマスに生きる者の歩みが重ねられて行くことをマタイは期待してこの物語をここに書いているのです。新しい年も神の御ことばの導きの下に歩んで参りたいと思います。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「キリストの誕生」 マタイ1:18-25 2025.12.21 大牧陸孝牧師 |
| 「その名をインマヌエルと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1章20節) |
| マタイは1章1節から「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とイエスを「油注がれた者」を意味する言葉で呼び、それに系図を開示することから福音書を書き始めます。それはイエスのアイデンティティーについて三つの重要な証言をしておくためでした。第一に、マタイはこの系図を、普通の人間のように見えるイエスが実は王、「ダビデの子であって、王位の正統な継承者であることを示すためです。第二に、マタイは、イエスがあらゆる意味で生粋のユダヤ人、つまり「アブラハムの子」であるということを示しています。「メシア(油注がれた者)」というのは、なによりもまず、ユダヤ教の用語であります。その人物においてイスラエルの待望は成就されることを示しています。イエスが歴史的に受け継いでいるのは、まさにユダヤの民の始まりであるアブラハムまでずっと遡り、「ダビデの子、アブラハムの子」としてユダヤの伝統であり、それらの継承者とし、イスラエルの歴史と遺産の中に立たせたのです。そして第三に、そのメシアであるイエスの中に、神が新たな始まりを成していることを示すためでありました。イエスが今までの自分の宗教的な背景がいかなるものであったとしても、これからイエスを通して新たな始まりが開始されることへと繋げる意図をもって系図を示しているということです。 イエスは昔からのユダヤの伝統の具現化したもので、その伝統とは、長い信仰の歴史のことであり、イスラエルの古くからの待望でした。イエスは、ヘブライ人が何世紀にもわたって待ちわびていたメシアなのです。イエスを信じ、従うことは、イスラエルの伝統の成就であって、否定ではありません。後にマタイ5章以下の山上の説教では、イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5章17節)と宣べています。このような歴史的な継承は、神の確固たる存在を示しているだけではなく、神の御言葉への応答に向き直ることが急を要するものであることを強調し、そのことを読む者に呼びかけているのです。 マタイは、系図からヨセフ物語へと即座に移って行きます。ここから本日の日課です。この流れには意味があります。系図の中には、実在した人間の生々しい歴史が表現されているのですが、ヨセフはその人間の歴史を負い、そういう意味でこれまでのイスラエルの歴史を負うものでありました。神とイスラエルの契約の民の歴史は、「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という神の約束の言葉から始まったのです。(創世記12章1節〜4節)神の恵みは何者にも制約されることのない全き自由をもって、その担い手を起こして来ましたが、その契約の民の最後の人として、今やヨセフがその選びにあずかり、重大な使命を託されようとしています。 しかし、そうでありながら、イエスの受胎の物語においては、ヨセフは神が行っている新しいこととの繋(つな)がりには関わりが全くない者として描かれて行きます。神の新しい約束は、ヨセフの婚約者マリアが、すでに妊娠しているという、思いもかけない事態から始まって行くのです。「マリアは聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と事柄の結果だけを淡々とマタイは述べて、いかなる筋道でこれが判明したのか、その過程は語られていません。ルカ福音書は1章26節以下でマリアに対して天使による受胎告知がなされたことを語っていますが、マタイはこの伝承を読者がすでに知っていることを前提にしているということと、マリアの受胎は聖霊によるという重大な事実が、マリアにのみ告知されたということなので、敢えてそれを掘り下げる必要はないと見ているともとれます。 問題はヨセフです。家庭生活への期待と喜びを一挙に粉砕されて、奈落の底に突き落とされた思いをしたに違いないヨセフは「正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(一九節)。ここで「正しい人」というのは旧約聖書の律法に忠実であったという意味ではありません。このマタイ福音書の五章以下に、福音的な義とはどのようなものであるかということを詳しく述べていますように、それは愛にほかならないというのが言わんとする趣旨であろうと思われます。「神と隣人に対する愛にこそ、律法の全体がかかっている」(22章37節〜39節)というイエスの言葉から見るとき、ヨセフは憐れみをもってその罪を覆い、穏便にことを収めようとしたという意味になります。ここまではごく普通の当時の善良な人としての対処のしかたであったでしょう。しかし、このヨセフの最善と思われる人間としての判断は、神の計画にとっては障害となって行くことが明らかとなります。 この「正しい人」というのはヨセフの人間的な判断のことではないことが20節で明らかとなります。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その名をインマヌエルと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』ヨセフの癒やしがたい深い魂の傷を考える時に、ヨセフの取った次なる行動は奇跡のように感じます。それは人間的な決断を超えているからです。 神の新しい約束に対しての人間の側の応答の受け皿が必要になるのですが、ヨセフは神が直接の意思として行おうとしている新しいことを見分け、そのことを従順に受け止める主役として選ばれている、これがヨセフの決定的な役割でした。ヨセフはマタイ福音書においては、一言も言葉を発していません。しかし、ヨセフの行動は、イエスを通して行われる神の救いの業の進展のためには決定的な役割を持っているのです。その役割を果たす前にマタイは、まずヨセフの役割でないものについて明確にしています。それはヨセフはイエスの生物学的な父親ではないということ、イエスは聖霊によって宿ったということです。ここで起こっていることは、人間が自分の頭で思い巡らして推論できることではありません。ヨセフの役割は、その信じるに容易ならざる神からの指信を、黙して傾聴し、信じて従うということでした。神の指信の核心は、イエスがダビデの家系に生まれることであり、その家系の一員として受け入れることでありました。神の計画が順調に進むためには、ヨセフは天使の指信に従順に従う必要があったのです。天使はヨセフがこの役割を受け入れるように働きかけます。重要なことは、天の遣いによって直接ヨセフに伝達された神の計画を、ヨセフがこれを聞いて信じ、受け入れたということです。これは古い契約のときにもアブラムに起こったことでありました。信ずべくもないこの異常な事態を、黙して信じるということは、今までの自分を全て投げ捨てて、天より与えられた指信に自分を開け渡す以外には到底不可能な決断でありました。 ヨセフは人間的な葛藤の中で、人からの救いも得ることができず、たった一人、思い巡らして神の前に立ったとき、神の御心を明らかに示されました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)神はイエスにおいてこれから先ずっと罪人であるわたしたちのもとにともにあることを決断されたのです。このことがわたしたちの福音なのです。ヨセフはこのメッセージを信じ決断し、マリアと共に、そしてマリアの胎の子と共に歩み始めます。しかし、決断してもなお、ヨセフは時に悩み、迷ったことであろう。人は弱い者であるからです。信じても迷う、信じても不安になる。恐れもする。24節と25節の間には何ヶ月もの時が流れているのですが、この間、様々なことがあったに違いないのです。神様のご意思に従うと決めても、なお、幾つもの試練に直面していったに違いありません。神様の言葉を信じて従って生きて行くことは大変なことだからです。しかし、その度ごとに、ヨセフもマリアも、神さまが天使を通して告げられた「インマヌエル」という名前を思い起こし、神が自分たちの日々の歩みを共に生きてくださっている恵みと喜びを少しずつ自覚し、主にある平安を得ていったのだということです。 神が人間を救うという神のご意志が実現して行く出来事のただ中に置かれた人間の取るべき態度は、その神の意志に従順に従うこと以外にはあり得ません。そのようにして、ヨセフはマリアを妻として迎えながら、生まれた子には命じられた通り、イエスという名をつけたのであります。ヨセフは神に従う者として、自分の力で奇跡を起こすような行為を求らめられたわけではありませんでした。神の恵みによる神の救いの出来事を受け止めることが求められたのです。旧約の律法に従うならば、ヨセフはこの結婚を無効にすべきでした。(申命記22章23節〜24節)しかし、神の新しい恵みの業を受け止める道を示され、それに従うことを、彼に与えられた使命であるとして選び取り、信じて従い、神に委ねる幸いを覚えながら、その子を「イエス」と名付け、イエスと呼んだのです。 わたしたちの人生に於いても、一人静かに黙さなければならない時があります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すこともできない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口を差し挟むことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。そういうときをわたしたちは、主にある教会の群れとの交わりの中に身を置きながら持つことがあるのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださるのです。ですから、沈黙とはただ言葉を発しないということではなく、静まって、神の言葉を聞くこと、神が語られる言葉に傾聴することなのだと悟るべきです。 暗いこの世界に神様はわたしたちと共にいるために、御子をお遣わしくださいました。今年のクリスマス、わたしたちはヨセフのように、この世の喧噪と饒舌の中に身を置くのではなく、神の御前で静まり、主の御言葉を傾聴する所へと導かれて、そこで神が語ってくださる生ける命の言葉、わたしたちを真実に生かし、救い導いてくださる約束の言葉、「わたしはあなたとともにいる」という言葉と出会い、その神の命の言葉によって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを過ごさせていただきたいと願うのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「神の国ーキリストのいますところー」 マタイ11:2-12 2025.12.14 大牧陸孝牧師 |
| 「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11章11節) |
| 先週の日課マタイ福音書3章ですでにバプテスマのヨハネについて語られている所を学びました。バプテスマのヨハネがヘロデに殺された次第は14章に書かれていますので、本日のこの11章はヨハネについての三幅対(トリアーデ)、三つの互いに独立した記事を組み合わせ、総合させて中心を成しているところです。ヨハネからイエス(キリスト)というつながりの関係と、両者の間の相違とが、ここで総括されています。 先週の3章のところでは、ヨハネの悔い改めへの呼びかけに応えて、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネの元に来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた」とありました。ヨハネに託された使命は、審判の告知を通して、人々に悔い改めを迫ることでありました。さらにヨハネは後に14章では、当時の罪の中枢部とも言うべき、ヘロデ王家の不祥事にその矛先を向け、ヘロデによってその命を失うことになりました。荒れ野で完全な独立によって、世の罪を糾弾する預言者として生きていました。そして、「自分の後から来る方」を予告し、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:11〜12)と告げて、後から来る方の到来を預言したのでした。そしてイエスは3章13節以下でこのヨハネから洗礼を受けて、荒れ野での試練を経て、ヨハネがヘロデによって捕らえられた後、公生涯へと旅立たれたのでした。 こうして活動を停止したヨハネには、自分の後から来る方として、この世の罪を決定的に審く審判者の到来を予期していたのでしたが、しかし、伝え聞くイエスの行動は、その予測とは食い違って、審判者の姿とは見えない。そこで、ヨハネは自分が担ってきた使命がイエスに正しく継承されているのかどうかを確かめるために、自分の弟子たちをイエスのもとに派遣するというのが本日の日課のところです。 3節「来たるべき方は、あなたでしょうか」3章14節のところで、ヨハネは自分のもとに洗礼を受けに来られたイエスに向かって「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか」と言っていました。その言葉からするとヨハネのこの問いは違和感を覚えざるを得ません。実はここには、後のヨハネの弟子たちが、初代教会の信徒に向けて表明した疑惑と不信も併せて表明されているのです。 「それとも、(わたしたちは)ほかの方を待たなければなりませんか」この原文にある(わたしたちは)がすっぽりと抜けているのです。ヨハネ個人の問いというよりもヨハネの弟子たちやほかの人々を含めた問いなのです。 4節〜5節 マタイ福音書記者が今まで語って来たイエスの御業が、ここに総括されているのですが、これによって、たとえばイザヤ書35章に語られているような旧約の預言が成就した、という趣旨です。イエスはガリラヤにおいて、人目に付かない隠れた御業を行って来られたのですが、この事実を見る時に、あなたがたはいかなる人物の到来を見るか、と問い返されたのです。マタイ自身は既に2節で「キリストのなさったこと」と宣べている通り、今こそ旧約の預言が成就し、救い主がここに来ておられるということをこれによって証言しようとしたのです。このさりげない表現は当時としてはきわめて特異なものであリました。この当時に人々が持っていた、世の終わりの救いの完成にひたすら望みをかける終末待望論ではなく、イエスの神の国の御業は現在既に始まっているのであり、またヨハネ教団のように、この世を避けて隠遁するのではなく、イエスは世俗の中へと進み行かれたのでした。 さらにまた、律法学者たちのように、旧約聖書の律法の教え・解釈に自己を律してゆくのではなく、神の子の自由に生き、その霊の力は悪霊の抵抗を打ち破り、その呪縛の下にある人々を救い出す。その生き方は、旧約聖書の証しする神の御心を体現するものであるのですが、しかし、その旧約聖書に書かれている文字に縛られ、これに固執するものではなかったために、聖書的な伝統の遵守を至上命令とする律法学者やファリサイ派の人たちの目には、許しがたい神を冒涜(ぼうとく)する者に見えたのでした。このように当時の背景にある状況を概観して見ますと5節に列挙されている救いの事実の宣言は、人の意表を突くキリスト宣言でありました。それは、生ける神の霊が、イエスにおいて世に臨んだという宣言であったのです。 そして、諸々の癒しの業の後に、その全てを締め括る救いの総括的表現として、「貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉が続きます。マタイ福音書はここでもう一度5章以下の山上の教えを示唆して、救済者イエスの到来が地上に何をもたらしているのかということを示したということなのです。このような救済者の到来に対して、自分の心にある幻の尺度・基準に合わないからと、これを拒否するのか、それとも神から与えられた恵みの賜物としての信仰によってこれを感謝し受け入れるのか、あれかこれかがここで問われているのです。これは、ヨハネ一人に対する問いに終わるものではなく、その使者として派遣された弟子たちに対する問いでもあり、さらに、この問いはすべての人に向けられた問いでもありました。 7節〜10節 6節までは、イエスがどのような方なのかということがヨハネの問いの関心事でありましたが、7節以下で、イエスご自身が、群衆に向かってヨハネがどういう人物か問いかけられます。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」ヨハネがヨルダン川のほとりでバプテスマを施していたとき、人々がそこへ赴いた状況を背景としています。人々は各地から「荒れ野」のヨハネのもとへと赴いたのでした。そして、「何を見に荒れ野へ行ったのか」という言葉には一つの批判が込められています。ヨハネの言葉を聞いて悔い改め、新たな生き方へと導かれるためというのではなく、好奇心にかられて、イエスという方がどんな人か見たいという傍観者的な態度が言外に指摘されているのです。自分の命を懸けた関わりではなく、観客席から相手を観察するという含みをもつことばと推測されますが、それにしても、風にそよぐ葦のように、世の風潮に押し流される無定見な人を見るためとか、あるいは柔らかい着物を着て、豪奢な生活をしている人を見に出て来たわけではなかろう、この二重の否定によって、イエスの周りにいる無数の群衆と、その上に君臨する権力者の二つの階層の本質が描き出され、洗礼者ヨハネは、そのいずれにも属さない、預言者であること、いやそれ以上の存在であることを示したのでした。次の10節で預言者マラキ書3章1節に手を加えて引用し、まさに洗礼者ヨハネこそが救い主のために道を備えるようにと派遣された預言者である、とイエスは宣べておられるのです。 ヨハネは、神ご自身の到来の前に、その道を整える偉大な働きを担う者として描かれ、ここでの「道」とは、救い主の到来というよりは、神による「新しい創造」の道を開くことであります。それでイエスはヨハネを「預言者よりもすぐれた者」と紹介し、さらに「アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤなどよりも優っている」という11節の言葉につながって行くのです。イエスをこの世に迎える受け皿として、マリアの受胎を必要とし、さらに、その公生涯の始まりには、ヨハネの先導を必要とした。この世を超える霊的な存在の到来を迎えるために、この二人は比類無き使命を託された、この事実の重みの上に、「洗礼者ヨハネ以上の者は起こらなかった」という断言の意味を始めて理解することができる。ヨハネが比類無き偉大な存在とされるのは、イエスが無比なる神の御子であることに基づいているのです。その神の御子を受け止め、世に送り出した道備えの人としてヨハネの存在は、ほかの何人にも比肩できない偉大さを持っている、とイエスは宣言しているのです。「はっきり言っておく」これは直訳すると「アーメン、わたしはあなたがたに言う」で、イエスが権威をもって語られる決まった言い回しで、ここでイエスは、御子としての権威をもって断言されているのです。 ヨハネはこの時、領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、牢の中におりました。牢の中から「来たるべきはあなたなのですか」と尋ねたのです。この問いはヨハネの生涯がかかった問いでありました。イエスはそのヨハネの問いに対して、イザヤ書40章や、マラキ書3章などを引用して、自分こそ来たるべきメシアであることを示され、さらに神の創造の業を信じる幸いに生きるよう促され、ヨハネが神から託された使命を確かに果たしたことを宣言されたのです。 そして、ここで気になりますのは、それに続く、イエスの言葉です。「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」(11節後半)イエスはヨハネを悪く言って引き下げているのではありません。むしろ、この言葉によって、ヨハネの偉大さ、大きさがどこに由来しているのかをお示しになられているのです。ヨハネの大きさや、偉大さは、ヨハネ自身の人間としての資質や能力によるものではなく、それは、神から頂いた恵みの大きさであるのです。イエスは何をもって大きいとか、小さいとか言われているのか。ヨハネは、来たるべき方であるイエスの前に遣わされた旧約の最後の預言者でありました。それまでの預言者たちは、救い主が来られることを預言しましたが、ヨハネはその救い主にお会いして、この方こそ来たるべき方であると、イエスを人々に紹介したのです。ですから、旧約聖書の中の預言者や人々の中で、最も大きな恵みに与ったのですが、しかし、「天の国で最も小さな者」でもヨハネよりも大きいと言われます。 「天の国で最も小さい者」とは、イエスを救い主として信じて、神の愛の支配の中に生かされている者のことです。イエスにおいて天の国はこの地上に到来しました。その天の国に生かされているわたしたちは、洗礼者ヨハネよりも大きな恵みをいただいているということです。わたしたちは、救い主イエスにあって、神様の御前にすべての罪が赦され、神の前に正しい者、神の子とされているのです。約束の聖霊を与えられ、神様を父と呼ぶことを赦され、祈ることを赦されている幸いに与る者とされているのです。ですから、わたしたちは洗礼者ヨハネよりも大きな者であるのです。 日課の最後の12節ですが、この言葉は解釈がたいへん難しい御言葉です。ここで、イエスは、到来した天の国に対して加えられる迫害や暴力について述べておられると解釈できます。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを捕らえ、牢の中に入れたのも、天の国を力尽くで奪い取ろうとする試みであるのです。ヘロデがヨハネを牢に入れた理由については、14章3節に、「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた」と記されていますが、それだけではなく、ヘロデはヨハネの影響力が人々にこれ以上広がることを恐れて、ヨハネを捕らえて、牢に入れたのです。このような状況のなかでヨハネは首を切られて死を迎えることとなりました。そして、イエスも十字架に掛けられてしまうのです。神様の愛の支配ではなく、自分の支配を打ち立てようとする力ある者たちが、その力によって、天の国を奪い取ろうとしている。力ある者たちは、自分を神として崇めることを求めることによって、自分に絶対な服従を求め、神の国を奪い取ろうとしている。宗教的権威と結びついた国家権力である天皇制はその最たるものであります。それに対して、イエスは世界を根本から造り変える「救い主」であることを告白することをわたしたちに促しているのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「主を迎える備えをせよ」 マタイ3:1-12 2025.12.7 大牧陸孝牧師 |
| 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(マタイ3章1ー2節) |
| 待降節に入り教会歴は新たにマタイ福音書を読んで行くこととなります。一番最初に書かれたマルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の始め」として、洗礼者ヨハネが荒れ野に出現したことから説き起こしていますが、マタイとルカもそれぞれに「イエスの前史」を語ったのち、同じくヨハネの登場から、語り始めます。 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(1節〜2節)「そのころ」は漠然とした時の表記ですが、マタイの次に書かれたルカでは「皇帝ティベリウスの治世の第一五年」として、その年が明示されています。皇帝ティベリウスの治世は紀元一四年に始まっていますから、底から起算すると、それは紀元二八年ということになります。「ユダヤの荒れ野」というのは、死海の西に隣接する地域のことで、ルカ福音書によるヨハネ誕生の記事では、「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」(ルカ1章80節)という言葉で結んでいます。 「宣べ伝え」となっていますが、ヨハネは何を宣べ伝えたのか、「宣べ伝える」という原語は「ケーリュッソー」で、これは何かの教えを教授するというのではなく、上より臨む使信を宣言する、と言う趣旨の言葉です。その内容をマタイは「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉に要約しているのですが、これは生活態度の根源的な方向転換を意味し、それに神の国が近づいたのだからと、方向転換の理由を書き添えています。これは「神の国の到来」を告げ、救いの恵みの到来を語る言葉で、千載一遇の好機が到来したという含みを持って語られています。つまり「神の命への道」を民に示そうとしたということです。 ヨハネは地の与える確かさによって生きるのではなく、「荒れ野」が与えるわずかな「いなご」と「野密」とを食物として生きていましたが、しかし、それは〈反文化主義〉や〈禁欲主義〉を意味するものではありません。「荒れ野」はヨハネにとってそこが自分が生きるべき「生の条件」そのものであり事実でありました。人の世の営みの一切を「虚妄」と断じて、この世の偽りの繁栄の中に死に至る砂漠を見抜いてしまった者が、自らをも「荒れ野」に身を置き、またこの世からも「荒れ野」に追いやられて、そこで、一見何もない、一切が荒れ果てた虚無と見える荒れ野の中にあることによってこそ、上から到来し、備えられるものを見、また語るべき使信を与えられたということなのです。 3節に引用されているイザヤ書40章は、捕囚の地バビロンに囚われの身となっていたイスラエルの民に、エルサレムへの帰還を呼びかける無名の預言者の登場を語る言葉であり、その冒頭には「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という言葉で始まるのですが、3節では「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と預言の言葉を語ります。イザヤは神がイスラエルに戻って来られて、自ら王となって支配されると言う期待を語っているのです。10節には「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」とあります。 イザヤはそのことを52章7節から8節でさらに詳しく語ります。「いかに麗しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声を上げ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る。主がシオンに帰られるのを」これがヨハネのメッセージの背後にある聖書の言葉です。要約しますと、神がエルサレムに帰って来られ、そこで王となられる。これが福音であるとなります。ヨハネは、このイザヤの預言が実現する日が近づいたと言うことを語っているのです。 このようにして、ヨハネは荒れ野にて神の使信を語る預言者としてここに登場しているということなのです。ヨハネはその来たるべきメシアのための道備えをするのが自分の使命であると考えていました。そして、ヨハネはメシアが来るという喜ばしいメッセージだけを携えて来たのではありません。彼は「悔い改めなさい」という厳粛で厳しいメッセージも伝えています。それはメシアがやってきたとしても、だれもがみな自動的に神の救いに与れるのではないからでした。神は真実に悔い改めて、神に立ち帰った者だけを救うのだというのがヨハネのメッセージの核心でありました。人々は、このヨハネの荒れ野での託宣に、絶えて久しく聞くことのなかった預言者の声を聞くことになり、イスラエル史の決定的な転換の瞬間がここに訪れたのです。 ヨハネは民の悔い改めを求めましたが、それは、人々に罪の世から離脱して、荒れ野にある修道院への遁世を求めたわけではありません。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」(八節〜九節)といわれますが、悔い改めは単なる意識の変革≠フことではなく、思考の変化とか、祭儀の改正とかでもありません。マックス・ヴェーバーのいうような趣味の交換(あるいは教派の転向)というようなことでもありません。主体の根源的な転換のことであります。 「良い実を結ばない木」破滅の危機の到来のただ中にあっても危機そのものに気づきさえしない人々、「アブラハム子」たる特権と誇りと自負にあぐらをかくサドカイ派やユダヤ教の指導者たちのような高慢だけではなく、敬虔なる人々の上にこそ神の怒りは降るとヨハネは説教しています。ヨハネの説教の激しさと徹底性とは、いまや、時代を超えて現代の荒れ野に向けられているということでもあります。 しかし、人間が自らの手で果たすことが出来る「悔い改め」は、いつも不徹底な改良主義にとどまります。「良き実」を自らの手で生み出すことができると考えるところに人間の己をたのむ律法主義的な自負と傲慢があります。自らの手で生み出し、自らの力で生命の充足を求めようとする自己拡大、自己肯定は、やがて支配を巡る闘争へと突き進み、自己を神化しようとする執念に突き進むことになります。それは「神に向かう」ことではなく、自己を拡大する道であり、命へと向かうことではなく、朽ち果てて破滅に向かう道なのだ。今、人間はその深刻な倒錯の中で破滅に向かっているとヨハネは警告します。 真実の悔い改めは「神に向かう」こと、神の新たにわたしたちをあたらしくする創造の御言葉の呼びかけに応答して行くことであります。そしてそれは神ご自身の働きかけによってのみ起こることであり、「良き実」は神の御言葉によってのみ実るのです。出来事の主体は神なのです。神がいつでも主語なのです。人間はこれを転倒させ、自己自身を主語とせずにはおれない所に罪があり、そしてこの罪人である人間は悔い改めることが出来ない。それ故にユダヤ人も異邦人も皆同じく神の前に罪人だと断定されるのです。 ヨハネは「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(10節)、「わたしの後から来る方は、・・・聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11節)、「殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)と、「火」という言葉を三回繰り返して用いています。これを順次説明しますと、まず、わたしたちは自分たちが属する流派に従って神を信じてはいるのですが、「実」がない。「実」というのは神が与えてくださろうとしている「命」のことです。神の命に真実に生きていないということです。ファリサイ派やサドカイ派の人たちは自分たちの流儀を守ることには熱心でしたが、その本来目指して行かなければならない神の恵みの言葉によって生かされる命を求め、聴き従うことはしていませんでした。そのために神の真実の命を生きるイエスと衝突を繰り返して行くこととなるのです。その罪を裁かれる神の審判を表しているのが「火」の第一の意味です。そして、その罪の現実の中に神ご自身が聖霊として臨み、罪人なる人間に救いの恵みを授けてくださると共に、火による裁きを伴い、人間の古い自己を焼き尽くしてくださるというのが第二の「火」の趣旨です。そして第三の「火」は、終末的な審判者として、この世界の粛正を貫徹し、神に義とされた人々は蔵に収められて永遠の命に至り、、籾殻は焼き尽くされて永遠の滅びに至るという、このような神の厳粛なる支配のもとに裁きと救済が行われる方が、後から来られるとヨハネは語ったのです。 ヨハネの時代のユダヤの人々の願いは、ユダヤを支配するローマ帝国からの解放でありました。それは宗教的な理由だけではなく、経済的な理由も非常に大きかったのです。彼らの生活は余りにも苦しかった。ですから彼らは救いを求めたのです。その救いは神がもたらすもので、神ご自身がエルサレムに帰って来られるということを預言者たちは語って来ました。メシアがわたしたちを救ってくれると人々は期待していました。しかし、ヨハネは、メシアがもたらすものは救いだけではなく、裁きをもたらす方でもあることを強調しました。そのような裁きに遭わないために悔い改めなさいと言うのがヨハネのメッセージでした。 「悔い改めよ。天の国は近づいた」これをわかりやすくわたしたちの言葉で言うならば「神の愛の支配がもうすぐ来ます。だから、心を集中して神さまの言葉に傾聴し、わたしたちの心を新しくしていただきましょう」となるでしょう。わたしたちは、自分の心を自分の力や努力では新しくすることが出来ません。新しくするとは、神様の命の言葉によって造り変えられることです。Uコリントの信徒への手紙5章17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく想像された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と記されています。悔い改めるとは、神の命の言葉を聴いて、神の御心と御計画を知り、その御言葉の通りになる創造の力に信頼し、その呼びかけに応答して行くことです。神は人間に呼びかける御ことばに聞き従う人によってご自身の業、ご計画を進められるのです。そのような神の愛の支配をもたらす方の到来を語り、そのような方としてイエスを迎える心の備えをせよと、ヨハネは人々に呼びかけているのです。 本日の日課の続き13節以下は1月11日主日の日課となっていますので、そこで取り上げて行きます。次週はマタイ福音書11章2節から11節が日課となっています。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |