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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2025年11月礼拝説教


★2025.11.30 「キリスト再臨の希望」 マタイ24:36-44
★2025.11.23 「イエスと一緒に神の国に」 ルカ23:33-43
★2025.11.16 「忍耐によって命を勝ち取る」 ルカ21:5-19
★2025.11.9 「神に生きる群れ」 ルカ20:27-38
★2025.11.2 「神が私たちに託されたもの」 ルカ19:11-27

「キリスト再臨の希望」 マタイ24:36-44
2025.11.30 大牧陸孝牧師
「だから、目を覚ましていなさい。。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(マタイによる福音書24章42 節)
 待降節を迎え本日から教会歴は新しい年度が始まり、聖書日課は三年周期のA年の日課になります。福音書は主にマタイ福音書を読んで参ります。本日はマタイ福音書24章の小黙示録と言われる世の終わり、最後の審判の時、キリストの再臨の時をめぐる記事のところです。

 小黙示録と呼ばれるものがマタイ、マルコ、ルカの三つの共観福音書に共通に記されています。その背後には、それを取り扱う共通の問題性がそれぞれの福音書成立過程の中にあったということです。それは、初代の教会においての終末遅延を巡る問題でした。この問題はそれぞれの福音書が成立して後にも論議が続いて行く問題でありました。

 本日の日課の部分を含むマタイ福音書24章32節から25章46節までは、合計七つのたとえをもって構成され、「終末遅延」の問題のさまざまの局面を多様に浮かび上がらせ、マタイ独自の解答の試みを示している部分です。

 マタイ24章の小黙示録の内容を概観しますと、神殿崩壊の預言から始まって、ユダヤ教徒だけではなく、全地の上に恐るべき破壊が到来することを語ります。人間の力ではもはや阻止することのできないこの危機を前にして、信仰者はどこに救いを仰ぐべきかを語るのが小黙示録の趣旨でありますが、31節にはその中心的内容として、人の子が「大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」という約束が記載されています。救いはイスラエルという地域的な枠組みを超えて、全地の上に臨むということと、信仰者は完全に受け身の立場でこの救いに与るということが、このマタイの小黙示録の特質であります。

 そしてこれを「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」という16節の指示と結びつけて見るときに、救いの約束にいかに深い含蓄が込められているかを知ることが出来ます。逃亡へのすすめは、神殿の奪還と粛正を目指して立ち上がることを放棄せよとの指示でもあるのです。それだけではなく、組織的行動に向けて勢力を結集することを放棄すべきことをも指示していて、一見それは、ひとり、身の安全を求める逃避とも見えるのですが、しかし意外なことに、エルサレムの聖所を放棄し、地の果てにまで散らされ、落ち延びて行く信徒の群れを通して、福音は地の果てにまでもたらされ、「神の民」の歴史は新しい展開をして行くこととなるのでありますが、そのことはまだこの時点では神の御旨の奥深くに秘められている奥義として伏せられているのですけれども、「選ばれた人たちを四方から呼び集める」という約束がここに明記されています。

 「新しい神の民の結集」の約束には、人の側からの組織的行動を起こせという指示は一切なされてはおりません。信仰者は全く受け身の形でこの救いに与るのですが、しかし、何もしなくてよいというのではなく、「目を覚ましていなさい」(36節)という指示が24章の終わりまで、一貫して流れています。36節に出て来る「子」とは、神の子イエスのことでありますが、終わりの「時」については「父なる神だけがご存知である」とされています。このイエスの語られる言葉の趣旨は、「終わりの時」をめぐって、様々な予測や計算が行われていた当時の浮き足立った熱狂的終末待望論に、歯止めをかけるためでもありました。この「主の来臨」を待つ待望論は、堅実に生きることを放棄し、自分の人生に自分で責任を持つ生き方を棚に挙げてしまって、自己抑制を失い熱狂的に終末を待望して行くことにのめり込む危険が伴っています。そういう生き方に対して、堅実な日常の営みを継続しつつ「目を覚まして」一人のひとの来臨を待ちなさいとすすめているのです。

 24章1節から35節までの流れで、「人の子の到来」こそ真の神の救いの出来事なのであるから、現在起こっている世界中の様々なこの世の出来事と同質におくことはできない、というのが35節の「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない」というイエスの言葉の真意であります。わたしたち人間の発想としては、困難な壁に突き当たり、世界が逼塞(ひっそく)状態に陥った場合、わたしたちは、むしろ衆知を集めて協議し、互いに力を合わせて難局を乗り切ろうと計るのが常であります。そして、一人のカリスマ的人物の登場によって困難を乗り切ろうとして、かえってさらに危機的な状況に追い込まれ、致命的な破滅に終わるという繰り返しがわたしたちの歴史でありました。ですから、この種の英雄待望論に対しては、現代においては極めて懐疑的であります。そして冷静で理性的な各人の判断をより重視するあり方は、歴史的な教訓の生み出した貴重な実りということができましょう。だとすれば、福音書が語るイエス再臨待望とこの世的な英雄待望論と何が違うのか、その本質的な違いをしっかり確認しておく必要があります。

 37節 「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからだ」とイエスは謎めいた言葉を語られます。イスラエルの歴史を回顧してみますと、モーセの指導下に行われました出エジプトを手始めとして、イスラエルの民の陥った絶望的な困窮の中から、民は神による救いを繰り返し経験して来ました。イエスはその神による救済の出来事をノアにまで遡(さかのぼ)らせて神の救いの本質を語ろうとします。ユダヤ教のメシア待望論は、救いへの期待を根幹とするものでありました。しかし、イエスはここでは、審判と滅びを警告します。ここに決定的で本質的な違いがあるのです。ノアの時大洪水が襲来して、あらゆる生命を絶滅したように、人の子の来臨も恐るべき審きとして臨むとすれば、ユダヤ教徒全体の救いという視点は、放棄されていて、ただ選びに与った人だけが救いに与ることになります。そしてノアが箱船に入った時まで、世の人が飲み食いや結婚という日常性の中に埋没し、日々の生活にのみ気を取られて、神よりの「時」の到来に気づかないで、神の「時」が来た時に不意を突かれて滅びに至ったときのように、来たるべき「人の子の来臨の時」にも、不意を突かれることがないように、との警告がずっと41節まで続きます。

 40節以下 わたしたちがこの世界の日常生活において身近に結び合わされている人々の絆が、思いもかけない形で分離されて行くことが語られます。この世でのあらゆる共同体の枠組みが解体させられ、人間の救いは、集団や共同体としての選びではなく、純然とした「個々人の選び」に置換されるというのです。今まで「神の民」として歩んで来たイスラエルの民の統一は廃棄されるのであるけれども、しかし、単に個人の救済論で終わり、個人主義がそれに変わるというのではなく、全く新しい「神の民」の再構成、選びに与(あずか)った人々の再結集が約束されています。しかもそれは、わたしたちの血縁・地縁、民族、国家といった人間的な枠組みを超えたところで、神の業として成し遂げられるというのです。

 マタイ福音書の語るメシア待望とは、神ご自身の来臨を待ち望むということであり、単なる人間・英雄待望論とは次元を異にしているということに気付かされます。端的に言って、メシアはヤハウエなる神であって、単なる人ではない。これが本質的な違いです。

 ここのたとえ話に登場してくる一人一人はユダヤ人であることが前提となっています。その生活は、地上において「神の民」と呼ばれ、何ら問題なく生活していた人たちを指しています。誰かが誰かを虐げたり悪事を働いたりしていたわけでもなく、普段通りに働いている様子です。畑も臼も日常生活の一コマを表しているに過ぎません。どちらかが一生懸命働いて、もう一人が怠けていたということでもありません。それにもかかわらず、一方は連れて行かれ、もう一方は残されるということが「その日」に起こります。明らかに罪を犯しているということであれば「悔い改めなさい」と勧告されるであろうところをここでは、「目を覚ましていなさい」と繰り返し命じられます。違いがあるとすればそれは、「目を覚ましているか眠りこけているか」の違いだと言うことです。

 「だから目を覚ましていなさい」マタイはこの言葉によって、人の子の再臨の時は審判の時でもあるということを特に強調しようとしているのです。ノアの故事をここに結びつけた所に、その意味がよく表されています。メシアの到来がノアの洪水の襲来になぞらえたことも、その次の泥棒の侵入になぞらえていることも、審判の意味が極限まで強調されているたとえです。賊から家を守るために、起きて目覚めているということは、イエスが処刑される前夜に、ゲッセマネの園で一人祈られたとき、眠りこける三人の弟子に向かって、「目を覚まして祈っていなさい」と言われた記事(26章41節)を思い起こします。目を覚ますと言う具体的な内容として、霊的な覚醒と祈るということがここに含まれていると見ることができます。マタイにとって人の子の再臨という決定的な「時」に救われるか裁かれるかの分かれ目は、どこまでも神を仰ぎ信頼して信仰と霊性を持って生きるというわたしたち自らの信仰的な生き方であります。

 「目を覚ます」というのは再臨のキリストを待望し見ることであります。その日はいつ来るのかと言うことに関心を寄せるよりも、イエスはわたしたち一人一人に臨まれることに気付かなければなりません。同じ暮らしをしていても、目を覚ましている人は「人の子」が来る日を待ち望んで、思いが主をお迎えすることに集中し、そして、イエスが人の子としてこの世をどのように生き、どのようにこの世と関わりを持たれたかにいつも思いを馳せて、そして、このわたしたちの生活のただ中にあって、イエスへの視線が逸れてしまわないように、礼拝や祈りを怠らず、日々イエスの言葉に聴き従って生きる。これがわたしたちの信仰者としての「目を覚ました」生き方なのだということです。

 確かに今の世界は厳しい状況にあります。しかし、神の子イエスは必ずわたしたちに臨んでくださり、全てを完全なものとする日がかならず来るのです。アドベント、主を待ち望む期間を迎えました。キリストはすでに一度おいでになっています。わたしたちはそのおいでになった神の子を地上に迎えた降誕の出来事を感謝しながら、主の再び来られる日を希望をもって待ち望んで信仰の歩みを続けて行きたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「イエスと一緒に神の国に」 ルカ23:33-43
2025.11.23 大牧陸孝牧師
「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」」(ルカによる福音書23章34 節)
 22章1節から始まりました「イエスの受難と死」の物語は、議会においての審問の後、ピラトの前に訴えられたイエスについての記事(23章1節〜5節)と、ヘロデの前でのイエスについての記事(23章6節〜12節)と再び送り返されたピラトの前でのイエス(13節〜25節)と十字架を負うクレネ人シモンの記事とエルサレムの婦人たちの嘆きについて語られる十字架への道(26〜31節)そして二人の犯罪人の記事に続いて嘲られる十字架上のイエスの記事(32節〜43節)これが本日の日課の部分となっています。

 22章1節以下23章49節の全体にわたって、イエスの受難と十字架の出来事の意味を、この出来事に関わる周囲の人々の姿を通して浮き彫りにしようとのルカの意図が見えます。シモンに十字架を背負わせ、イエスを十字架につけ、その服をくじを引いて分け合う「人々」(26、33、34節)、イエスを嘲笑(あざわら)うユダヤの「議員たち」(35節)とローマの兵士たち(36節)、それに混じって、「嘆き悲しむ婦人たち」(27、49節)と十字架を「立って見つめ」やがて「胸を打ちながら」帰って行った「民衆」「群衆」(35、48節)の姿が印象深く心に残ります。

 そしてもう一つ重要なことは、イエスを嘲笑(あざわら)うユダヤ社会の中心部にいた人々よりも、その周囲あるいはその外にいた人たちの中に、イエスへの同情や正しい認識が見られたということです。「シモンというキレネ人」(26節)、二人の犯罪人のうちの一人」(40節)、「百人隊長」(四七節)など。

 そしてさらに、十字架の出来事の意味を、部分的には周囲の人々の振る舞いによって明らかにされてはいますが、イエスとは誰か、それを決定的に明らかにするイエス自身の言葉と行為をも、ルカは印象深くここに描いているのです。28節から31節のイエスの言葉は、イエスがなお預言者の役割を果たしていることを示しています。また、十字架から語られる執り成し(34節)、一人の犯罪人にかけられた約束の言葉(43節)などは、これまでの福音書の記述と変わらず、イエスをキリストとして明らかにしています。ここで「神」(35、40、47節)、「父」(34、46節)という呼びかけの言葉が何度も使われていることは、いまここで起こっているこの出来事、イエスの十字架の死が神の救いの計画の中に位置づけられていることを明らかにしているのです。

 33節「されこうべと呼ばれているところに来ると」イエスが連れて行かれたのは、エルサレムの北側の城壁の外に位置する場所で、そこは紀元四世紀以来、イエスが処刑された場所を記念して建てられた聖墳墓教会あります。なぜその場所がされこうべとよばれていたのかと言いますと、古くからその場所には処刑された人たちや他の人たちが埋められた墓所であり、死を象徴する場所としてそのように呼ばれていたと言う説があります。そこまで来ると、そこでイエスを十字架に付け、イエスと一緒に引かれていった二人の犯罪人も十字架に付けました。一人はイエスの右に、もう一人はイエスの左に、三本の十字架が立てられました。十字架の刑がどのように執行されたかはマルコ福音書15章14節以下に詳細に記されています。十字架の刑には、縛り付けと、くぎづけとの二種類ありましたが、イエスの場合は、復活後のイエスの言葉によって判りますように、釘付けの十字架刑でありました。

 34節「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」このイエスの祈りの言葉はここルカにしか出てきていないのですが、十字架上の七つの言葉の第一番目とされ、イエスの心情と神への深い信頼をあらわす言葉として知られています。これは執り成しの祈りで、イエスの眼前にはイエスを十字架に掛けて、イエスを罵るローマの兵卒たち(36節)、あざ笑う議員たち(35節)、等、イエスを悲惨な目にあわせ、苦しめている人たちがいる。今自分をこのような目に会わせている人たちを前にして、イエスはそれらの人たちだけを指して、「彼ら」と言っておられるのではありません。イエスを実際に手を掛けて十字架に付けたのは彼らでありましたが、その背後には人間の罪があります。人間は一瞬たりとも神を裏切る罪を犯さずにあることはできない程に罪深い者です。その人間の罪に対する執り成しとして、イエスは十字架にかからねばならなかったのです。つまり「彼ら」とは、イエスを実際に十字架に付けた者だけではなく、神の御心が判らない、神に対して罪を犯しているわたしたちすべての人を指しているのです。そのわたしたちを責めることなく、憐れみにより父なる神に執り成しの祈りをされたイエスこそが、真実に神の御前にわたしたちの罪を負い、わたしたちが赦される道を備えてくださる救い主キリストなのだとの新約聖書の一貫した信仰が表明されているのです。

 「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」この24節後半から38節までのイエスが十字架につけられるとき、そこにはいろいろな人たちが描かれています。23章1節には群衆、34節にはイエスの服を分け合う人々、35節には立って見ている民衆。そして、イエスを嘲笑(あざわら)うユダヤの議員たち、36節には十字架上のイエスに酸いぶどう酒を差し出すローマの兵士たち、そして「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救え」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」とそれぞれの立場でイエスの受難に立ち会いイエスをあざ笑っています。ルカはこれらのことの中に詩編22編のメシア預言の成就を見ています。議員たちとローマの兵士たちは「自分を救え」とののしります(詩編22編9節)。議員たちやローマの兵士にとっては、十字架から降りて自分で自分を救うことがメシアであることの証しでありました。しかし、その嘲(あざけ)りに対して「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか・・・」(詩編22編25節)と叫んだ人は、主なる神による救いを少しも疑うことなく神の意志通りに十字架におかかりになりました。かくて、イエスは十字架にかけられたままで、メシアであることを証ししたのでした。

 イエスは、このわたしたちの罪のどん底にまで降りて来られ、共に悩み、苦しんでくださる方、それだけでも大変な恵みの業でありますが、それだけではなく「父よ彼らをお許しください」と、執り成しの祈りを祈ります。これはもう愛の奇跡としか言いようがない御言葉です。ルカ福音書6章27節から28節で生前のイエスが「・・・敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」と言われて、真実の愛がどういうものであるのかを教えておられます。しかし、それを実行するのはどんなに困難であることかをわたしたちはよく知っています。イエスは、そのようなわたしたちの愛に破れた弱さをご存知でありました。

 そのようなわたしたちのためにイエスはご自身を犠牲にして、執り成しの祈りを祈っていてくださるのです。これは神の愛、赦しの恵みの奇跡としか言いようがないものです。神の赦しはこのように、どんな相手をも無条件にそのまま受け入れることであります。わたしたちが主イエスの赦しの言葉を聞くときにこそ、そこに神の赦しの愛を見出すのです。なぜイエスのゆるしは、十字架の苦しみという痛みを伴わなければならなかったのか、それは、それほどまでに、わたしたちの罪の根は深く、強いものであったからです。

 39節 32節に「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために引かれて行った」また、33節に「犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」とあります、その犯罪人のひとりが「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしったとあります。「ののしる」は「冒涜(ぼうとく)する」という意味です。イエスを「メシア」と呼びながら冒涜するのです。「自分自身を救え」と言った点で、この犯罪人はユダヤの議員たちやローマの兵士たちに同調しているのですが、この犯罪人の言葉はさらに悪質です。それは一つにはイエスを「我々」と同じ、犯罪人としている点と、もう一つは、他の犯罪人の言葉「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」から明らかとなっていますように、この男からは、神への「恐れ」すら、もはや失われている点です。これらの点においては、ローマの兵士たちが、見知らぬ二人の犯罪人の間にイエスの十字架を立てた意図と共通するものがあったと見ることが出来ます。それはイエスを犯罪者たちと同列に置くことによって、群衆の面前で辱(はずかし)めることでありました。ここに人間の罪が極まっているということです。

 40節〜41節 もう一人の犯罪人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と言います。そして、同じ刑を受けているイエスを無罪だと認識します。イエスが人間の罪を負い、人間の罪がイエスを覆うとき、罪の虜(とりこ)となってイエスの真の姿が見えなくなっているわたしたちはイエスを十字架へと追いやりますが、しかし、今、犯罪人の一人は、イエスの姿に罪人と共に死ぬ神、人間の罪を負って裁かれる神を見ます。この犯罪人の中に起こっていることは「自己追求」の罪からの解放であります。そして、イエスの他者のために「自己を犠牲にする」真の愛に目を開かれるのです。そして、自分がイエスをののしることを止めただけではなく、イエスをののしる者の上にくだる神の断罪を覚えて心痛み、仲間の犯罪者を「たしなめる」のです。

 42節 この犯罪人はイエスに対して「救っていただきたい」とそこまでは言えなかったのでしょう。今、彼は十字架の上で自らの罪によって裁かれ打ち砕かれて、ただ裁きに服することだけが残っている彼の真実、それは神の支配を生きる男の真実でもあります。彼にはもう時間がありません。この一刻の猶予もならない状況の中で、共に死に絶えようとする無力な「何も悪いことをしていない」一人の人を見上げ、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と切羽詰まった祈願をします。

 彼の祈願は「神に自分を覚えていただき、来たるべき救いの御国に預かる」ことを求めています。イエスを嘲(あざけ)る人たちが自分の意に反してイエスをメシアと言っているのに対して、この悔い改めた罪人は、イエスが救うことのできる方であり、本当に御国において支配するであろう、油注がれたお方メシアでありたもうという信仰を端的に言い表します。
 この点で、彼の叫びは、代々の信仰者たちの叫びであり、自分たちが神に覚えられ、神の御前から切り離されないようにと望むすべての人たちの内なる願いでした。わたしたちの人生が危機の瞬間に直面するとき、わたしたちはこの犯罪者と同様に「わたしを思い出してください」と嘆願するのです。

 43節 新約の福音の約束と希望とは、神が覚えて救いたもうということです。イエスはこの犯罪人に答えて言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。ここでイエスが語られている今日は、救いをもたらす方であるイエスの現存において、現存を通して、現存によって救いが起こることを示すものであります。その意味でこの犯罪人はここ十字架の上においてすでに救いに与っているのです。本日のイエスが約束されていることは、イエスが覚えていてくださるが故に、この犯罪者は贖(あがな)われ、救われ、神の御前にいるということです。イエスはわたしたちの全生涯を通じて最後のいまわの際にいたるまでわたしたちを見捨てず、最後の瞬間にでも、その罪を言い表しイエス・キリストに寄りすがる者に、その日、その時、イエスご自身が共にいてくださるということを輝かしく約束してくださっているのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。


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「忍耐によって命を勝ち取る」 ルカ21:5-19
2025.11.16 大牧陸孝牧師
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカによる福音書21章19 節)
 弟子たちとともにエルサレムを目指して歩んで来られたイエスがエルサレムに入られたことは、ルカ福音書では19章のところで伝えられています。これからイエスはいよいよ十字架の受難と復活の出来事へと向かうのですが、その前に、マタイ、マルコ、ルカともに共観福音書ではみなエルサレム滅亡と世の終わりを示す「イエスの小黙示録」と呼ばれる預言が伝えられています。ルカ福音書では21章5節〜38節がその部分で、本日の日課ではその中の5節〜19節の「小黙示録」の前半部分で、イエスが神殿の境内で預言を語られる形になっています。ルカ福音書にとって神殿は、イエスの「父の家」、「祈りの家」であり、最後までイエスの活動の中心的な場でありました。

 この箇所は広く終末について問題にしていて、終末に関する共感福音書と初代の教会の信仰を理解するために重要な箇所の一つです。初代教会の信仰の特徴の一つはキリストの再臨の期待がありました。しかも、歴史の中の間近い時にそれは起こると期待されていました。しかし、それは実現しませんでした。ですから、キリスト再臨は既に起こったとする見解や、遅延しているのだとする意見や、そもそもキリスト再臨はないとする意見などが交錯しておりました。これらを巡って、一、終末一般について考えなおすこと、どのように捉えるのが正しいのか。二、教会は伝道するために、福音の内容について検討しなおすこと、三、キリスト再臨が無限定の将来に遅延するのであれば、それまでの間をキリスト者はどのように生きて行くのかの再検討が求められることなどが問題とされていました。イエスの受難と復活の出来事の直前にこの「小黙示録」が伝えられていることの意味をまず、わたしたちは考えていかなければならない。

 ルカ福音書ではイエスの登場そのもの(存在そのもの)と働きは、徹底して「時」を自覚する中で受け止められています。聖書に一貫して流れているこの「時」とは、神の天地創造から始まり、世界の歴史が、神の救いが完成し、神の意志が成就する、そのような神の救済の歴史の中に意味を与えられている「時」のことであります。福音の真理を証言する福音書は、永遠の救いを無時間の世界の中で想念される理念として論述するのではなく、変化を本質とするわたしたちの歴史の中で、人々に救いの恵みを与え、その人々の救いを通して歴史を新しく作り変える力を与えるものだからです。

 初代教会の成立以後、教会にとって決定的な意味を持った出来事は、紀元六六年に始まり七〇年にエルサレム滅亡で終わったユダヤ戦争でありました。この出来事により、キリストの福音がユダヤ教的性格を脱皮し、普遍性を担って世界に展開して行く転機となったのです。ルカはその動乱の中を生き抜き、その試練を経て、この事象を落ち着いて想起する時点に立ってこの福音書と、続編の使徒言行録を編著してゆくのです。その意味で救いの時の中に十字架の受難の物語をも神の救いの歴史として繋げて、その救いの完成の時として、「終末」すなわち「世の終わり」が神によってもたらされることを告げるのです。

 内容的には5節〜7節までが序文、8節〜11節は終末の徴、12節〜19節までが弟子たちの迫害となっています。ここで注意しなければならないのは、マルコもマタイも主イエスの預言を聞いているのは弟子たちであることが明記されているのに対して、ルカでは「彼ら」となっていて、弟子たちに限定していない点であります。イエスは十字架の受難の直前のここで、世界に向かって、すべての時代の信仰者に向かって呼びかけておられるのです。そしてその内容は大きく二つにまとめることが出来ます。1、エルサレム神殿が「一つの石も崩されず他の石の上に残ることのない日が来る」という預言です。もう一つは「世の終わりはすぐには来ない」という預言です。

 本日の日課は、世の終わりそのものというよりも、それに先立つ混乱の時代について語っている箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語ります。戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢餓、疫病、などです。それらは福音書が書かれた一世紀後半には既に現実になっていたことでした。そして、それらは二一世紀に生きているわたしたちとっても、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じていることです。

 8節「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」これは偽キリストのことで、人々の不安や恐れにつけ込んで「ここに救いがある、これこそが真の救いだ」と主張する偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあります。人々の危機感を煽り立てて、信者を集め結局は人々から金品を奪い取り、命までをも奪い取るような怪しげな宗教が次々と発生しています。イエスの教えはそのような者とは無縁です。イエスはここで、人々の恐怖心を煽(あお)るためにこれらのことを語られたのではありません。イエスが語られるのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」ということです。その現実の中で、今日のわたしたちにイエスがわたしたちに語りかけておられることを聞き取って行くことが重要なのです。

 ルカ福音書の終わりについての教え、終末論は、一つには、激しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面があります。本日の箇所では特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵をあなたがたに授ける」(15節)「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)身の安全が保証されるということではありません。約束されるのは、人間の裁きの場に引き出されてもそれを証する機会」にする力が与えられること、たとえ殉教することになったとしても「命を勝ち取る」ことができるという約束です。

 「髪の毛の1本」はごく些細(ささい)なこと、ほんの小さいもののたとえで、神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。そしてそれは、危害を防いでくれるというよりも、どんなに危害が加えられようとも本当に大切なものを奪われることはない、と言う意味であります。「命を勝ち取る」(19節)「命」はギリシャ語でプシュケーで、魂とも訳される言葉です。神との生きた繋(つな)がりにある命のことを言います。この神との生きた繋(つな)がりこそが、決して傷つけられることのない「本質的な部分」だということで、あなた方を命の主である神から引き離すことはできないと言っておられるのです。

 終末論のもう一つの面は警告のメッセージと言う面です。5節の「ある人たち」は「神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話して」いました。これに対して、「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」とのイエスの預言的な滅び宣告は、ここに居合わせていた人々にどのように受け止められたか、これらの人々が直前に登場している「有り余る中から献金した人たち」あるいは「金持ち」たち(21章4節〜5節)と同じ立場にあるということであるなら、それはユダヤの宗教的な指導者たちと同様に当時のユダヤ社会の秩序を堅持していることを自負している保守的な人たちのことであろうと思います。これらの人々は現状維持と現状肯定に心を向け、そのために労している人たちであります。その人たちにとってはイエスの終末に関する言葉は、拒否反応をこそ起こしても、受け入れられることは決してなかったでありましょう。

 主イエスの時代の前から「ユダヤ教黙示思想」は流布していましたが、この思想は、神の民とされている自分たちユダヤの選民にやがてメシアという王が到来し、激しく迫害されるただ中で敵対する諸力を圧倒的な力をもって打ち破り、神の民を中心にした秩序を樹立し、民はその支配の中に守られる、という信仰でありました。しかし、イエスはこのようなユダヤ黙示思想とは明確に一線を画しています。それは、世界の終わりを思わせるような大波乱を経て、栄光の中に自らメシアだと名乗る者たちが登場しても「世の終わりはすぐには来ない」ということであって、この終末時に登場すると預言されていた「人の子」に関しては、イエスはすでに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9章21節〜22節)のであって、栄光の中に出現するのではないと明確に語られ、殺されるメシアであることを預言しておられるのです。救い主自身が苦難の中で殺されると言うのはユダヤの黙示思想を超えていることがらでした。

 イエスはエルサレム神殿を中心にした神の民のあり方を糾弾されたのです。そして、ここでさらに破壊的と受け止められる神殿崩壊の預言をなさったのです。ユダヤの黙示思想の中には、大きな困難がメシア到来の前に起こることは受け入れられていましたが、その中に神殿さえも徹底的に破壊されてしまうということは含められていませんでした。この衝撃的な発言を直接聞いていた「ある人たち」は自分たちの現状に問題を感じていない人々のことで、つまり、「祭司長、律法学者、民の指導者たち」のことです。宮清めの後「イエスを殺そうと思った」と伝えられています(19章45節〜48節)が、ここでイエスの神殿崩壊の預言の言葉を聞いてイエスにさらに強い殺意を持ったことでありましょう。ルカ福音書がここでのイエスに向けている視点は、イエスがイスラエルの民を裁く預言者の伝統の上に立ち、さらにその厳しい裁きを終末論的な視点にまで引き上げて語っていることに集中しているということです。もしも神殿が崩壊するようなことが事実として起こったならばそれは神の民の崩壊であり、自分たちイスラエルの消滅である。イエスはそのように預言されたのです。この重大性、決定性をユダヤの人々は受け止めることが出来なかったということなのです。

 ルカ福音書21章19節では、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われています。終末が遅延している中で、信仰者がどのような姿勢で生きて行くのかが課題となっています。先ほども申しましたように、わたしたちの歴史とは、神がわたしたちを救おうとしてわたしたちの罪の現実のただ中で、その罪故の苦難と滅び、最終的には破壊と破局に至る紛れもないそのわたしたちの罪の世界の結末を、神ご自身が自らに引き受けて滅んでくださった、そしてそれは厳粛な事実なのですけれども、しかし、その先に新しい命の現実を示してくださっているという壮大な世界の救済の歴史のことなのです。わたしたちはその不条理としか思えないこの世の終末的な出来事のただ中から、なお神に信頼して御心を尋ね求め、神の新しい命に生かされる救いを待ち望んで希望のうちに信仰の歩みを続けて行きたいと思います。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「神に生きる群れ」 ルカ20:27-38
2025.11.9 大牧陸孝牧師
「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(ルカによる福音書20章36 節)
 ルカ福音書20章は1節〜26節までのところでは、エルサレム神殿とユダヤ教の権力者達がイエスを捉えようと敵対心むき出しでイエスと渡り合っている話しが綴(つづ)られています。まず1節から8節では、イエスの権威を問題にすることによって、民衆にイエスへの不信を抱かせようとします。第二に19節から26節では、イエスがどう答えたとしても、時の為政者または民衆の怒りを買うように罠(わな)をしかけてきました。それに対してイエスは神の民イスラエルを預かっている指導者たち、長老たち、支配者たちが、本当に目をかけなければならない貧しい者、やもめや、孤児を虐げて、民衆を支配するために、神殿を権力を握る手段として用い、イスラエルを乗っ取っている罪を暴いて行きます。

 そして本日の日課は、サドカイ派による復活についての論争であります。ここでのサドカイ派の真意は、自分たちの用意した質問にイエスが答えられなければ、イエスを嘲笑(あざわら)おうとする悪意があることには変わりはありません。その時には、イエスもその支持者たちも、立場を失うことになります。復活問答の一連の流れは明瞭です。第一に27節から33節は復活をめぐるサドカイ派の質問、第二に34節から38節はそれに対するイエスの答え、そして第三に39節から40節は結論となります。

 復活が問題とされた背景について、当時のユダヤ教の派閥間の相違を考慮に入れておく必要があります。サドカイ派は、当時のユダヤ教の一派で、政治権力を握っていて、神殿を経営し、神殿関連の収入を独占している貴族でした。旧約聖書の成文律法のうちの最初の五巻モーセ五書だけを正典として認めていました。そしてモーセ五書の著者はモーセであると考えていました。(28節)モーセ五書の中には、「世界の終わりには神が世界全体を審判して統治する」いう終末論がありません。人間が復活するという記事もありません。その立場からサドカイ派は、正典ではない部分に書かれている人間復活も、霊も、天使も否定し、人間の存在全体は死の際に滅びてしまうと考えていました。彼らは現世に集中している現実主義者だったのです。

 サドカイ派のこのような考え方に対してファリサイ派は、世の終わりにメシアが到来してユダヤ民族の支配と統治が始まること、その時に死者が復活することを信じていました。五書以外の書物も正典とし、さらには五書には書いていない「口伝律法」も正典並に重視しています。こうしたファリサイ派の正典に対する態度を、サドカイ派は受け入れませんでした。

 ローマ帝国がユダヤを支配する前の紀元前63年までは、ファリサイ派とサドカイ派は激しく対立していました。しかし、ローマ帝国が支配するようになると、ローマ帝国に妥協して、それぞれ最高法院(サンヘドリン)の議席をサドカイ派が三分の二、ファリサイ派が三分の一を分け合い、ローマ帝国に逆らわない政府を構成することとなります。サドカイ派は要するに世俗的な宗教団体です。現世に集中した教理も世俗化を後押しすることとなって行きます。この世の利権に敏感で、権力の維持のためならば何でもする人たちでした。そのためにサドカイ派の神殿貴族は、貧しい人たちや権力を持っていない人たち、一般の民衆を、強く軽蔑していました。
 こうした状況のなかで、イエスに対して復活の問題を問うているのです。サドカイ派の人たちは「世の終わりに死者が復活するという教理がいかにばからしいか」を証明しようとして、ファリサイ派が主張する復活の論点の持っている矛盾をイエスにぶつけます。ファリサイ派の来世に対する期待は、根本的にはこの世で満たされない願望を、未来に持ち込み、復活の世界はこの世を投影し、かつ完全にしたものであり、連続性を持つものと考えていました。ファリサイ派のこのような主張のために、復活の教えは様々な矛盾を抱えていました。サドカイ派の問いは、そのような矛盾を巧みについているものでした。

 サドカイ派はまずモーセ五書の一部である申命記25章5節から6節にある「家名の存続規定」(レビラート婚)を取り上げます。これは古代西アジア社会に広くありました風習が、ユダヤ社会の正典・律法にも規定されたものです。この主張のために、おそらくサドカイ派の律法学者がこの場面に登場しているとも考えられます。(39節)「七人の兄弟が次々に子供を授からないまま死んで、結果として子供を一人も授からないで七人とも死んだ場合」のことを取り上げて、二つのことを主張しているのです。その一つはもし復活ということがあるのならば、何もこの世でその未亡人と結婚をしてまで跡継ぎを残し、家名と家系を存続させることに執着する必要はないという点がひとつです。

 そして第二の論点は、「死者全員が復活した世界の終わりの時に、女性は複数の夫を持てない。いったい、七人の内のだれがこの女性と婚縁関係にあることになるのか。このような重要な論点が曖昧であり、ファリサイ派が主張するように、復活の世界がこの世の延長線上にあり、この世の理想の世界の実現であるとするならば、実際には様々な問題に直面することになるのだから、死者の復活の教えそのものが不合理であり、あるはずがない」と、サドカイ派は言いたかったのです。

 34節〜36節 サドカイ派の問題提起に対するイエスの答えの部分です。まず、「神の国の現実」を知らない無知を正す言葉が語られます。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。34節に「この世」といわれ、35節に「次の世」と訳されていますが原文ではむしろ「あの世」と訳すべき言葉で、その通り「この世」と「あの世」と訳した方がすっきりと意味が通るところであります。「この世の子ら」というのは、地上の人生を生きている全ての人間のことで、この世の様々な制度の上に生きている現世の人たちのことです。

 それに対する「あの世」は復活の世界のことで、その世界の生活を描きますのに、わざわざ「めとることも嫁ぐこともない」という点をイエスは取り上げていますが、サドカイ派の人たちが結婚の話しと律法を持ち出して来たので、「あの世」では結婚ということはない「この人たちはもはや死ぬことがない」そこでは一人一人の個人の命は「天使に等しい者」あるいは「神の子」であるとして、申命記25章5節〜6節のレビラート婚の規定を、不要なものであるとしてばっさりと切り落としているのです。旧約の聖典ではあっても、イエスにとっては廃棄すべきものと見做されています。なぜなら、「文字は殺し、霊は生かす」(Uコリント3:6)からです。

 レビラート婚はイエスの時代より遡(さかのぼ)ること数世紀前の話です。女性の人権は全く認められていなかった時代の話しです。一夫多妻は許されても一妻多夫は認められていませんでした。女性は自立して職業を持つことは許されないで貧困の中に置かれていました。聖書の中では「結婚する」「めとる」「嫁ぐ」などと翻訳されていますが、ヘブライ語まで遡ると「取る」「取られる」という言葉で表現されています。申命記25章の規定は正規の婚姻ではありません。「家」を存続させることを目的とした「略取」です。実に非人道的な制度による、女性に対する人権侵害です。イエスはこの点に論点を拡大して、現在の律法だけを重んじ、論じているサドカイ派の根本的な問題をついているのです。現実世界での利権ばかりを追って、あるべき社会を追求しない態度を批判しているのです。権力ゲームのへり屈の応酬をイエスは一言でへし折っているのです。

 神の国においては、その人が女性であると言う理由で「とること・とられること」がなくなるのです。「神の国」においては、人はみな永遠に個人として尊重され、「神の像」(創世記1章26節〜27節)を取り戻し、神からの使い(使徒)とされます。そのような本来の人間回復をイエスは「復活」と表現しているのです。このイエスによる人間回復と相互尊重の「神の国」においては、隣人を社会維持の犠牲にするような行為は廃棄されます。ですから、自分たちの権力と権威を維持するためにイエスを殺そうとする陰謀に至ってはなおさらのこと廃棄されなければならない。イエスはそのことをも含めて、改めて権力者による人権侵害の横暴をここで問題にしているということです。

 イエスは37節以下でさらに神の国のイメージを拡大して行きます。「聖書について知らない人」を教育し啓蒙する実に独特な教えが続きます。「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主を(ヤハウエを)アブラハムの神、イサクの神、ヤクブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」イエスはこれらの人物は今も生きており神を中心にした祝宴を囲んでいると考えています。人の目には何百年か前に死んだと見えるのですが、実は存在と命の源である神と結びついている限り、今「生きている者」と結論づけられているのです。

 38節の後半の「すべての人は、神によって生きている」という「すべての人」とは「全人類」という意味なのか「アブラハム、イサク、ヤコブ・・・」と続く信仰の系列での「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」の「皆」のことなのか、はっきりしないのですけれども、この場合やはり「復活するのにふさわしいとされた人々は皆」(35節)という意味に取るのが自然です。その「皆」が「神によって生きる」。「神によって」はパウロ書簡では一貫して「神に対して」と訳されている表現で「神との関係のうちに生きる」と表現すべきところです。

 イエスは、かつて神との関係の中に生きた者は今も生きており、神を中心にした交わりの中にいると考えています。イエスの聖餐の食卓に連なる人々は、既に死んだ人々・今、あの世で神の祝宴に出席している人々と一緒にいます。すべての人が生きている者として、生ける神と共にいます。ここにイエスはファリサイ派とは異なる、独自の復活の生命観を持っています。世の終わりまで待たなくても、今・ここで先に亡くなった人たちも復活して共にいるのだと言う主張です。

 紀元後一世紀ごろの初代教会では毎週行われる主の聖餐には、イエスの贖(あがな)いの死だけではなく、すべての信徒たちの死が思い起こされて、先に召された人々は、復活の主と共に、主の聖餐において生きていること・復活させられていることが確認されました。その根拠となったのが、「生きているアブラハム・イサク・ヤコブと共に食卓を囲むことができる」という信仰でした。

 わたしたちはすでに、イエス・キリストの十字架の購(あがな)いと復活の救いによって、罪を赦され、主にある新しい生に生きる者とされて、神との新しい関係に生きる者とされ、現在の教会生活・信仰生活を与えられています。わたしたちは神との交わりに生きる生の現実、つまり教会の信仰の交わりをこれからも生き続け、この世に対して証しして行く使命を与えられているのです。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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「神が私たちに託されたもの」 ルカ19:11-27
2025.11.2 大宮 陸孝 牧師
「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」(ルカによる福音書19章28節)
 ルカ福音書19章11節から27節は、イエスさまがガリラヤからエルサレムへ向けて旅をする「ルカ旅行記」と呼ばれています、第9章51節〜第19章27節までのところで、最後のところで、「エルサレムに近づいて来られた」となるのであります。本日の日課は、エリコの町でザーカイが改心をしたその後の話とされています。主イエスはエルサレムを目指してエリコまで来てエルサレムまで二、三十キロ、あと一歩という場所に来ています。イエスがエルサレムに近づいたので、弟子たちや民衆の間に一種の緊張が生まれた。エルサレムに入るとなれば、そこで主イエスはいよいよ王の位に就く、そして神の国がすぐにも現れると人々は考えていました。11節に「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とある通りです。

 そしてこのエルサレムへの接近が、本日の主イエスが人々にこのたとえを語られたきっかけとなっていまして、主イエスのエルサレムへの入城のこの時は、直ちに~の国の到来を意味するものではなく、なおしばらく救いの完成の日を待たねばならないのであり、イエス様が終末の日に王として再び来たりたもうまでの間、弟子たちがどのように生きて行かねばならないかを語ろうとしたものであると見ることができます。

 話しの内容は、「ある高貴な人が王位を受けて帰るため、遠い所へ旅立つ」というのです。このたとえには、歴史的な背景があると言われています。紀元前四年にヘロデの息子アケラオ(マタイ2:20)は、ローマ皇帝よりユダヤを治める王権を認めてもらうためにローマに旅をします。ところが時を同じくして、ユダヤ人の代表者50人がローマを訪れ、彼の任命を妨げようと陳情しますが、アケラオは王位を受けて帰り、彼に敵対して陳情した50人を殺したと伝えられております。このことはユダヤ国民にとっていつまでも忘れられないことであり、イエス様のこのたとえは聴衆に現実感をもって聞かれたことでありましょう。かつて思いがけずアケラオの帰還と復讐が人々を襲ったように、いつまた思いがけない滅びが~に敵対する者の上に襲うかもしれないという警告として受け取られる可能性がありましたが、むしろ、王位を受けて帰って来るために遠い所に旅立つということが強調され、且つこの旅立つのは誰かと言うと主イエス御自身のことであると見ることができます。

 アケラオは王位を受けるために、はるばるローマへ旅した。そのことが起こったのはちょうど主イエスご自身がわたしたちの所に救い主としてお生まれになった時のこと。そのように、主であるイエス様も「遠い所」へ旅立つ。つまりエルサレムへの旅であり、更に十字架の死を遂げて三日目に甦(よみがえ)って昇天する。まさに父なる~のもとにおもむいて王位を受ける。「主なる~は彼に父ダビデの王位をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(1:32・33)と御使が言ったことが実現します。そのためにイエスは弟子たちのもとから不在となるのですが、しかしそれは、「わたしが帰ってくるまで」の期間ということであります。イエスと共に十字架につけられた犯罪人も「あなたが御国の権威をもっておいでになる」ことを知っておりまして、それに対して主イエスは「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(23:42〜43)と約束されました。

 この世のどうにもならないような絶望と行き詰まり、人間と世界の終末に際して、新しい命と愛の世界への突破口を切り開く救い主、まさに来たるべき方(ホ・エルコメノス)として、王位を受けて来ることが約束されているのです。このようにして主イエスのエルサレムへの旅の結果起こるイエスの受難と十字架の死は不条理な避けることの出来ない運命・悲劇なのではなく、父なる~のもとへの旅立ちであり、それ故に昇天は長い間イエスが弟子たちのもとを留守にして、不在となることを意味しているということでした。

 主人は旅立ちに際して僕たちに10ミナを賜物として与えます。ミナとは百日分の給与に相当するお金の単位でありますが、これは単にお金を意味するだけではなくて、いろいろな賜物について考えることができるでしょう。体力や知力や能力にしてもすべて賜物であります。そしてこの世の現実は、すべての人に一ミナずつではなく、マタイのタラントンのたとえのように(マタイ25:14以下)それぞれ違っていて、むしろ不平等、不公平であるのですが、一ミナずつとはどういう意味をもって語られているのでしょうか。

 わたしたちは一人一人それぞれの自分の人生を生きていかなければなりません。そのわたしたちの人生が、どこに結びつくことによってかけがえのないものになってゆくのか。もと聖ルカ病院院長の日野原重明先生は「生の選択」という本の中でこのようなことを言っておられます。「もし平等ということがありうるとすれば、与えられた人生の中で、与えられた各人の『宝』を最高度に社会の中で生かす、あるいは社会に還元する機会が、すべての人に与えられているということです。言い換えると、どうして自己を生かすかという自由とその機会が与えられていると言う意味では、平等はすべての人の上にあるように思われます」。

 しかしここで言う一ミナとは、単に一般的な賜物を言っているのではないように思われます。26節の「だれでも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」。この言葉は、8章4節以下の「種蒔きのたとえ」と「ともし火のたとえ」の最後18節「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」と言われていることと意味は同じです。この8章で「蒔かれる種」、と「部屋中を照らすともし火」、「持っているもの」というのは、「神の言葉」「神の知識」です。8章10節でイエスは特に弟子たちに、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人にはたとえを用いて話すのだ」と言われました。これは、主の僕(しもべ)とされた者が皆、公平に与えられています「一ムナ」という特別な恵みの賜物を「持っている」というのは何かと言いますと、神の国の知識、神の国の福音の知識のことであると解釈できます。

 10章42節の「なくてならないものは多くはない、いや、一つだけである」というイエス様の御ことばを想い起こします。ここでは、まさに一ミナとは~の言葉のことを言っているのです。テモテ第一の手紙6:20、テモテ第二の手紙1:12では、弟子たちが、神の言葉が委ねられているものと表現されています。このように見ると、委託されている一ミナ(すなわち~の言葉)によって弟子たちが「使徒的な」働きをすることが求められているのだと解釈するのが妥当です。

 一ムナで一〇ムナ、あるいは五ムナを稼いだ「良い僕」たちというのは、自分たちに与えられています神の国の知識を伝えて、それぞれの伝道の実りを上げた僕のことであり、宣教すると言うことは、神の御国の進展のための主の御用をお手伝いするということです。この点で良いお手伝いをした者は、再臨の主が来られた時に、「よくやった」と評価されて、今度は神の御国の春大仕事の一部を担わせていただく栄光に預かると、こう言われているのです。

 そして、次の14節「国民は彼を憎んでいたので」この言葉には、イエスの生涯、特にエルサレムでの運命を暗示していると同時に、~の言葉の宣教を委託された弟子たちが宣教の活動するこの世の現実が、どのようなところであるかを示そうとしています。「憎んでいた」は継続していることを表す動詞で、イエスに対するこの世の変わることのない、本質的な姿勢や態度を表しています。「望んでいない」は、13章34節でのイエスの悲痛な呼びかけに対して、エルサレムが「応じようとしなかった」ことと重ねられていると思われます。

 2章7節イエス誕生に際しての「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ということから始まりますイエスの生涯は、十字架の死を遂げて終わりますが、それは同時に、イエスの死後この世に生きる弟子たちの運命でもありました。「あなた方はこの世の者ではない、かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」と言われている通りであります(ヨハネ15:19)。

 イエスが生涯をかけて、受難と十字架において現そうとした~の救いとは、単に人間のこの世の生活や富の上にその摂理を働かせ、自分を崇拝する者に幸福な年月を恵む、そのような救いのことではありません。アブラハムの~、イサクの神、ヤコブの~、キリスト者の~は、愛と慰めの~であります。この~は人々の魂と心とを満たしてくださる~であります。人々自らが神のもとから失われた惨(みじ)めな者であるにもかかわらず、その惨めなわたしを主イエスは限りないご慈愛を尽くして、御言葉において、わたしの魂に新しい命の力を注ぎ込んでいてくださる~であり、一人一人の魂の奥底で、一つとなっていてくださるお方なのです。

 人は過ぎ去った過去というものを担っています。今というこの時は一人一人その過去に規定されて生きています。そのようなわたしたちの人生にとって、イエスの十字架は何を意味しているのでしょうか。それは過去の自分に死ぬと言う、今までの罪人としての自分からの開放を意味するのです。それだけではありません。十字架の死を遂げたイエスが王位を受けて来るという新しい希望の未来に向かって生きて行くことが許されるのです。地獄とは希望の喪失した世界のことと言われます。「人間が生きるためには希望が必要であります」その希望とはまさに死人より甦(よみがえ)ったイエスにこそあるのです。

 このようにして、教会の希望は究極の新しさ、キリストの復活の、~による命の新しい創造の働きにあるのです。希望を生み出す創造の神が今も生きて働いておられます。イエスは言われます。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と。一ミナを与えられているわたしたちも、復活の主、新しい創造の神に自分を委ねて働く時、人の思いを超えて、一ミナが五ミナにも十ミナにもなる世界が開かれるのです。わたしたちは自分一人で生きているのではありません。創造の神、復活の主、希望の~、慈悲深い~が生きてわたしの中に働こうとしています。この方に誠実に自分を委ねて新しい神の創造の業を豊かに体験できる信仰の歩みをしている人は幸いであります。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。

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