| 「神に生きる群れ」 ルカ20:27-38 2025.11.9 大牧陸孝牧師 |
| 「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(ルカによる福音書20章36 節) |
| ルカ福音書20章は1節〜26節までのところでは、エルサレム神殿とユダヤ教の権力者達がイエスを捉えようと敵対心むき出しでイエスと渡り合っている話しが綴(つづ)られています。まず1節から8節では、イエスの権威を問題にすることによって、民衆にイエスへの不信を抱かせようとします。第二に19節から26節では、イエスがどう答えたとしても、時の為政者または民衆の怒りを買うように罠(わな)をしかけてきました。それに対してイエスは神の民イスラエルを預かっている指導者たち、長老たち、支配者たちが、本当に目をかけなければならない貧しい者、やもめや、孤児を虐げて、民衆を支配するために、神殿を権力を握る手段として用い、イスラエルを乗っ取っている罪を暴いて行きます。 そして本日の日課は、サドカイ派による復活についての論争であります。ここでのサドカイ派の真意は、自分たちの用意した質問にイエスが答えられなければ、イエスを嘲笑(あざわら)おうとする悪意があることには変わりはありません。その時には、イエスもその支持者たちも、立場を失うことになります。復活問答の一連の流れは明瞭です。第一に27節から33節は復活をめぐるサドカイ派の質問、第二に34節から38節はそれに対するイエスの答え、そして第三に39節から40節は結論となります。 復活が問題とされた背景について、当時のユダヤ教の派閥間の相違を考慮に入れておく必要があります。サドカイ派は、当時のユダヤ教の一派で、政治権力を握っていて、神殿を経営し、神殿関連の収入を独占している貴族でした。旧約聖書の成文律法のうちの最初の五巻モーセ五書だけを正典として認めていました。そしてモーセ五書の著者はモーセであると考えていました。(28節)モーセ五書の中には、「世界の終わりには神が世界全体を審判して統治する」いう終末論がありません。人間が復活するという記事もありません。その立場からサドカイ派は、正典ではない部分に書かれている人間復活も、霊も、天使も否定し、人間の存在全体は死の際に滅びてしまうと考えていました。彼らは現世に集中している現実主義者だったのです。 サドカイ派のこのような考え方に対してファリサイ派は、世の終わりにメシアが到来してユダヤ民族の支配と統治が始まること、その時に死者が復活することを信じていました。五書以外の書物も正典とし、さらには五書には書いていない「口伝律法」も正典並に重視しています。こうしたファリサイ派の正典に対する態度を、サドカイ派は受け入れませんでした。 ローマ帝国がユダヤを支配する前の紀元前63年までは、ファリサイ派とサドカイ派は激しく対立していました。しかし、ローマ帝国が支配するようになると、ローマ帝国に妥協して、それぞれ最高法院(サンヘドリン)の議席をサドカイ派が三分の二、ファリサイ派が三分の一を分け合い、ローマ帝国に逆らわない政府を構成することとなります。サドカイ派は要するに世俗的な宗教団体です。現世に集中した教理も世俗化を後押しすることとなって行きます。この世の利権に敏感で、権力の維持のためならば何でもする人たちでした。そのためにサドカイ派の神殿貴族は、貧しい人たちや権力を持っていない人たち、一般の民衆を、強く軽蔑していました。 こうした状況のなかで、イエスに対して復活の問題を問うているのです。サドカイ派の人たちは「世の終わりに死者が復活するという教理がいかにばからしいか」を証明しようとして、ファリサイ派が主張する復活の論点の持っている矛盾をイエスにぶつけます。ファリサイ派の来世に対する期待は、根本的にはこの世で満たされない願望を、未来に持ち込み、復活の世界はこの世を投影し、かつ完全にしたものであり、連続性を持つものと考えていました。ファリサイ派のこのような主張のために、復活の教えは様々な矛盾を抱えていました。サドカイ派の問いは、そのような矛盾を巧みについているものでした。 サドカイ派はまずモーセ五書の一部である申命記25章5節から6節にある「家名の存続規定」(レビラート婚)を取り上げます。これは古代西アジア社会に広くありました風習が、ユダヤ社会の正典・律法にも規定されたものです。この主張のために、おそらくサドカイ派の律法学者がこの場面に登場しているとも考えられます。(39節)「七人の兄弟が次々に子供を授からないまま死んで、結果として子供を一人も授からないで七人とも死んだ場合」のことを取り上げて、二つのことを主張しているのです。その一つはもし復活ということがあるのならば、何もこの世でその未亡人と結婚をしてまで跡継ぎを残し、家名と家系を存続させることに執着する必要はないという点がひとつです。 そして第二の論点は、「死者全員が復活した世界の終わりの時に、女性は複数の夫を持てない。いったい、七人の内のだれがこの女性と婚縁関係にあることになるのか。このような重要な論点が曖昧であり、ファリサイ派が主張するように、復活の世界がこの世の延長線上にあり、この世の理想の世界の実現であるとするならば、実際には様々な問題に直面することになるのだから、死者の復活の教えそのものが不合理であり、あるはずがない」と、サドカイ派は言いたかったのです。 34節〜36節 サドカイ派の問題提起に対するイエスの答えの部分です。まず、「神の国の現実」を知らない無知を正す言葉が語られます。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。34節に「この世」といわれ、35節に「次の世」と訳されていますが原文ではむしろ「あの世」と訳すべき言葉で、その通り「この世」と「あの世」と訳した方がすっきりと意味が通るところであります。「この世の子ら」というのは、地上の人生を生きている全ての人間のことで、この世の様々な制度の上に生きている現世の人たちのことです。 それに対する「あの世」は復活の世界のことで、その世界の生活を描きますのに、わざわざ「めとることも嫁ぐこともない」という点をイエスは取り上げていますが、サドカイ派の人たちが結婚の話しと律法を持ち出して来たので、「あの世」では結婚ということはない「この人たちはもはや死ぬことがない」そこでは一人一人の個人の命は「天使に等しい者」あるいは「神の子」であるとして、申命記25章5節〜6節のレビラート婚の規定を、不要なものであるとしてばっさりと切り落としているのです。旧約の聖典ではあっても、イエスにとっては廃棄すべきものと見做されています。なぜなら、「文字は殺し、霊は生かす」(Uコリント3:6)からです。 レビラート婚はイエスの時代より遡(さかのぼ)ること数世紀前の話です。女性の人権は全く認められていなかった時代の話しです。一夫多妻は許されても一妻多夫は認められていませんでした。女性は自立して職業を持つことは許されないで貧困の中に置かれていました。聖書の中では「結婚する」「めとる」「嫁ぐ」などと翻訳されていますが、ヘブライ語まで遡ると「取る」「取られる」という言葉で表現されています。申命記25章の規定は正規の婚姻ではありません。「家」を存続させることを目的とした「略取」です。実に非人道的な制度による、女性に対する人権侵害です。イエスはこの点に論点を拡大して、現在の律法だけを重んじ、論じているサドカイ派の根本的な問題をついているのです。現実世界での利権ばかりを追って、あるべき社会を追求しない態度を批判しているのです。権力ゲームのへり屈の応酬をイエスは一言でへし折っているのです。 神の国においては、その人が女性であると言う理由で「とること・とられること」がなくなるのです。「神の国」においては、人はみな永遠に個人として尊重され、「神の像」(創世記1章26節〜27節)を取り戻し、神からの使い(使徒)とされます。そのような本来の人間回復をイエスは「復活」と表現しているのです。このイエスによる人間回復と相互尊重の「神の国」においては、隣人を社会維持の犠牲にするような行為は廃棄されます。ですから、自分たちの権力と権威を維持するためにイエスを殺そうとする陰謀に至ってはなおさらのこと廃棄されなければならない。イエスはそのことをも含めて、改めて権力者による人権侵害の横暴をここで問題にしているということです。 イエスは37節以下でさらに神の国のイメージを拡大して行きます。「聖書について知らない人」を教育し啓蒙する実に独特な教えが続きます。「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主を(ヤハウエを)アブラハムの神、イサクの神、ヤクブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」イエスはこれらの人物は今も生きており神を中心にした祝宴を囲んでいると考えています。人の目には何百年か前に死んだと見えるのですが、実は存在と命の源である神と結びついている限り、今「生きている者」と結論づけられているのです。 38節の後半の「すべての人は、神によって生きている」という「すべての人」とは「全人類」という意味なのか「アブラハム、イサク、ヤコブ・・・」と続く信仰の系列での「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」の「皆」のことなのか、はっきりしないのですけれども、この場合やはり「復活するのにふさわしいとされた人々は皆」(35節)という意味に取るのが自然です。その「皆」が「神によって生きる」。「神によって」はパウロ書簡では一貫して「神に対して」と訳されている表現で「神との関係のうちに生きる」と表現すべきところです。 イエスは、かつて神との関係の中に生きた者は今も生きており、神を中心にした交わりの中にいると考えています。イエスの聖餐の食卓に連なる人々は、既に死んだ人々・今、あの世で神の祝宴に出席している人々と一緒にいます。すべての人が生きている者として、生ける神と共にいます。ここにイエスはファリサイ派とは異なる、独自の復活の生命観を持っています。世の終わりまで待たなくても、今・ここで先に亡くなった人たちも復活して共にいるのだと言う主張です。 紀元後一世紀ごろの初代教会では毎週行われる主の聖餐には、イエスの贖(あがな)いの死だけではなく、すべての信徒たちの死が思い起こされて、先に召された人々は、復活の主と共に、主の聖餐において生きていること・復活させられていることが確認されました。その根拠となったのが、「生きているアブラハム・イサク・ヤコブと共に食卓を囲むことができる」という信仰でした。 わたしたちはすでに、イエス・キリストの十字架の購(あがな)いと復活の救いによって、罪を赦され、主にある新しい生に生きる者とされて、神との新しい関係に生きる者とされ、現在の教会生活・信仰生活を与えられています。わたしたちは神との交わりに生きる生の現実、つまり教会の信仰の交わりをこれからも生き続け、この世に対して証しして行く使命を与えられているのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |
| 「神が私たちに託されたもの」 ルカ19:11-27 2025.11.2 大宮 陸孝 牧師 |
| 「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」(ルカによる福音書19章28節) |
| ルカ福音書19章11節から27節は、イエスさまがガリラヤからエルサレムへ向けて旅をする「ルカ旅行記」と呼ばれています、第9章51節〜第19章27節までのところで、最後のところで、「エルサレムに近づいて来られた」となるのであります。本日の日課は、エリコの町でザーカイが改心をしたその後の話とされています。主イエスはエルサレムを目指してエリコまで来てエルサレムまで二、三十キロ、あと一歩という場所に来ています。イエスがエルサレムに近づいたので、弟子たちや民衆の間に一種の緊張が生まれた。エルサレムに入るとなれば、そこで主イエスはいよいよ王の位に就く、そして神の国がすぐにも現れると人々は考えていました。11節に「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とある通りです。 そしてこのエルサレムへの接近が、本日の主イエスが人々にこのたとえを語られたきっかけとなっていまして、主イエスのエルサレムへの入城のこの時は、直ちに~の国の到来を意味するものではなく、なおしばらく救いの完成の日を待たねばならないのであり、イエス様が終末の日に王として再び来たりたもうまでの間、弟子たちがどのように生きて行かねばならないかを語ろうとしたものであると見ることができます。 話しの内容は、「ある高貴な人が王位を受けて帰るため、遠い所へ旅立つ」というのです。このたとえには、歴史的な背景があると言われています。紀元前四年にヘロデの息子アケラオ(マタイ2:20)は、ローマ皇帝よりユダヤを治める王権を認めてもらうためにローマに旅をします。ところが時を同じくして、ユダヤ人の代表者50人がローマを訪れ、彼の任命を妨げようと陳情しますが、アケラオは王位を受けて帰り、彼に敵対して陳情した50人を殺したと伝えられております。このことはユダヤ国民にとっていつまでも忘れられないことであり、イエス様のこのたとえは聴衆に現実感をもって聞かれたことでありましょう。かつて思いがけずアケラオの帰還と復讐が人々を襲ったように、いつまた思いがけない滅びが~に敵対する者の上に襲うかもしれないという警告として受け取られる可能性がありましたが、むしろ、王位を受けて帰って来るために遠い所に旅立つということが強調され、且つこの旅立つのは誰かと言うと主イエス御自身のことであると見ることができます。 アケラオは王位を受けるために、はるばるローマへ旅した。そのことが起こったのはちょうど主イエスご自身がわたしたちの所に救い主としてお生まれになった時のこと。そのように、主であるイエス様も「遠い所」へ旅立つ。つまりエルサレムへの旅であり、更に十字架の死を遂げて三日目に甦(よみがえ)って昇天する。まさに父なる~のもとにおもむいて王位を受ける。「主なる~は彼に父ダビデの王位をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(1:32・33)と御使が言ったことが実現します。そのためにイエスは弟子たちのもとから不在となるのですが、しかしそれは、「わたしが帰ってくるまで」の期間ということであります。イエスと共に十字架につけられた犯罪人も「あなたが御国の権威をもっておいでになる」ことを知っておりまして、それに対して主イエスは「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(23:42〜43)と約束されました。 この世のどうにもならないような絶望と行き詰まり、人間と世界の終末に際して、新しい命と愛の世界への突破口を切り開く救い主、まさに来たるべき方(ホ・エルコメノス)として、王位を受けて来ることが約束されているのです。このようにして主イエスのエルサレムへの旅の結果起こるイエスの受難と十字架の死は不条理な避けることの出来ない運命・悲劇なのではなく、父なる~のもとへの旅立ちであり、それ故に昇天は長い間イエスが弟子たちのもとを留守にして、不在となることを意味しているということでした。 主人は旅立ちに際して僕たちに10ミナを賜物として与えます。ミナとは百日分の給与に相当するお金の単位でありますが、これは単にお金を意味するだけではなくて、いろいろな賜物について考えることができるでしょう。体力や知力や能力にしてもすべて賜物であります。そしてこの世の現実は、すべての人に一ミナずつではなく、マタイのタラントンのたとえのように(マタイ25:14以下)それぞれ違っていて、むしろ不平等、不公平であるのですが、一ミナずつとはどういう意味をもって語られているのでしょうか。 わたしたちは一人一人それぞれの自分の人生を生きていかなければなりません。そのわたしたちの人生が、どこに結びつくことによってかけがえのないものになってゆくのか。もと聖ルカ病院院長の日野原重明先生は「生の選択」という本の中でこのようなことを言っておられます。「もし平等ということがありうるとすれば、与えられた人生の中で、与えられた各人の『宝』を最高度に社会の中で生かす、あるいは社会に還元する機会が、すべての人に与えられているということです。言い換えると、どうして自己を生かすかという自由とその機会が与えられていると言う意味では、平等はすべての人の上にあるように思われます」。 しかしここで言う一ミナとは、単に一般的な賜物を言っているのではないように思われます。26節の「だれでも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」。この言葉は、8章4節以下の「種蒔きのたとえ」と「ともし火のたとえ」の最後18節「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」と言われていることと意味は同じです。この8章で「蒔かれる種」、と「部屋中を照らすともし火」、「持っているもの」というのは、「神の言葉」「神の知識」です。8章10節でイエスは特に弟子たちに、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人にはたとえを用いて話すのだ」と言われました。これは、主の僕(しもべ)とされた者が皆、公平に与えられています「一ムナ」という特別な恵みの賜物を「持っている」というのは何かと言いますと、神の国の知識、神の国の福音の知識のことであると解釈できます。 10章42節の「なくてならないものは多くはない、いや、一つだけである」というイエス様の御ことばを想い起こします。ここでは、まさに一ミナとは~の言葉のことを言っているのです。テモテ第一の手紙6:20、テモテ第二の手紙1:12では、弟子たちが、神の言葉が委ねられているものと表現されています。このように見ると、委託されている一ミナ(すなわち~の言葉)によって弟子たちが「使徒的な」働きをすることが求められているのだと解釈するのが妥当です。 一ムナで一〇ムナ、あるいは五ムナを稼いだ「良い僕」たちというのは、自分たちに与えられています神の国の知識を伝えて、それぞれの伝道の実りを上げた僕のことであり、宣教すると言うことは、神の御国の進展のための主の御用をお手伝いするということです。この点で良いお手伝いをした者は、再臨の主が来られた時に、「よくやった」と評価されて、今度は神の御国の春大仕事の一部を担わせていただく栄光に預かると、こう言われているのです。 そして、次の14節「国民は彼を憎んでいたので」この言葉には、イエスの生涯、特にエルサレムでの運命を暗示していると同時に、~の言葉の宣教を委託された弟子たちが宣教の活動するこの世の現実が、どのようなところであるかを示そうとしています。「憎んでいた」は継続していることを表す動詞で、イエスに対するこの世の変わることのない、本質的な姿勢や態度を表しています。「望んでいない」は、13章34節でのイエスの悲痛な呼びかけに対して、エルサレムが「応じようとしなかった」ことと重ねられていると思われます。 2章7節イエス誕生に際しての「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ということから始まりますイエスの生涯は、十字架の死を遂げて終わりますが、それは同時に、イエスの死後この世に生きる弟子たちの運命でもありました。「あなた方はこの世の者ではない、かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」と言われている通りであります(ヨハネ15:19)。 イエスが生涯をかけて、受難と十字架において現そうとした~の救いとは、単に人間のこの世の生活や富の上にその摂理を働かせ、自分を崇拝する者に幸福な年月を恵む、そのような救いのことではありません。アブラハムの~、イサクの神、ヤコブの~、キリスト者の~は、愛と慰めの~であります。この~は人々の魂と心とを満たしてくださる~であります。人々自らが神のもとから失われた惨(みじ)めな者であるにもかかわらず、その惨めなわたしを主イエスは限りないご慈愛を尽くして、御言葉において、わたしの魂に新しい命の力を注ぎ込んでいてくださる~であり、一人一人の魂の奥底で、一つとなっていてくださるお方なのです。 人は過ぎ去った過去というものを担っています。今というこの時は一人一人その過去に規定されて生きています。そのようなわたしたちの人生にとって、イエスの十字架は何を意味しているのでしょうか。それは過去の自分に死ぬと言う、今までの罪人としての自分からの開放を意味するのです。それだけではありません。十字架の死を遂げたイエスが王位を受けて来るという新しい希望の未来に向かって生きて行くことが許されるのです。地獄とは希望の喪失した世界のことと言われます。「人間が生きるためには希望が必要であります」その希望とはまさに死人より甦(よみがえ)ったイエスにこそあるのです。 このようにして、教会の希望は究極の新しさ、キリストの復活の、~による命の新しい創造の働きにあるのです。希望を生み出す創造の神が今も生きて働いておられます。イエスは言われます。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と。一ミナを与えられているわたしたちも、復活の主、新しい創造の神に自分を委ねて働く時、人の思いを超えて、一ミナが五ミナにも十ミナにもなる世界が開かれるのです。わたしたちは自分一人で生きているのではありません。創造の神、復活の主、希望の~、慈悲深い~が生きてわたしの中に働こうとしています。この方に誠実に自分を委ねて新しい神の創造の業を豊かに体験できる信仰の歩みをしている人は幸いであります。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |