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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2025年2月礼拝説教


★2025.2.9 「人を生き生きと生かす者になる」ルカ5:1-11
★2025.2.2 「神から遣わされたイエス」ルカ4:21-30


「人を生き生きと生かす者になる」ルカ5:1-11
2025.2.9 大宮 陸孝 牧師
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカによる福音書5章10節)
 先週までの日課ルカ福音書四章の所を二回に分けて読みました。イエスが神の国の福音を宣教するために遣わされたメシアであること、この神の国の福音の宣教の権威ある言葉に基づき、それに根ざして信仰者が召し出され、信徒の群れ、初代教会が形成され、その教会の信徒の群れが、神の権威ある御言葉に養われて、さらに世界に向けての福音宣教をなしていく群れへと押し出されて行くということが語られました。権威ある神の言葉の宣教は、その本質からして、いままで、神ならぬ運命の力や、偶像の神々の力に取り押さえられていた人間社会の中で、そういう力を打ち破って神の愛による力強い支配が確立しつつある、ということをイエスは宣言されたのでした。

 本日の日課は5章1節以下11節までです。ここは、6章16節まで、このイエス・キリストが宣べ伝える神の国の権威ある言葉に対して、個々別々に様々な人たちが反応して行く姿が描き出されて行きます。その最初に出て来ますのが、シモンペトロたちがイエスの言葉に応答して、全てを捨てて従うようになったという所であります。

 1節〜3節 「イエスがゲネサレト(ガリラヤ)の湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から岸にあがって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」。わざわざ「舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」のは、岸辺に押し寄せる群衆から少し距離を置いて説教するためでした。この情景を背景として「人間を取る漁師にする」というペテロたちの召し出しの出来事が起こって行きます。

 その弟子を召し出す前に、群衆がイエスのもとに押し寄せて来るという状況設定を描いているのは、それほどの群衆がイエスのもとに押し寄せたのは何によるのか、それほどのおびただしい群衆をイエスのもとに引きつける力は何なのか、ルカはそれを「神の言葉」ホ・ロゴス・トゥ・セウー≠聞こうとしてなのだというのです。他の福音書では神の国の福音の宣教のメッセージのことをただ単にホ・ロゴス=u言葉」と記しておりますところを、ロゴス・セウー=u神の言葉」という丁寧な表現にしているのはルカだけであります。ルカは、ただ単に神について語る言葉ではなく、神から来た言葉、神から出た言葉という意味で「ロゴス・セウー」と言っているのです。神から出た言葉がイエスの口を経て聞こえる。イエスを通して語られる神の御国の福音は神からの言葉なのだ、「神の言葉」なのだとルカは言っているのです。

 イエスを通してこの神の言葉が語られました。すると、この「神の言葉」におびただしい群衆が反応し、聞こうとしてイエスのもとにやって来ました。「神の言葉」が語られると、人々の中から押し寄せるような聞き手が生まれて来るとルカは言うのです。そして、舟の上から群衆に「神の言葉」を語るそのイエスの言葉を、その傍らで否応なく聞いたペトロ始め漁師仲間の反応が次に描き出されて行くという展開になって行きます。

 4節 説教を終えたイエスは、今度はペトロに、「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。さっきからずっと舟の中でイエスの話しを聞いていたペトロの反応は、まず「わたしたちは夜通し苦労しましたが何もとれませんでした」(5節)というものでした。夜、ガリラヤ湖の入り江で、漁に最適な時間、最適な場所で、一晩中漁をして何も取れなかった。ペトロは実りのない仕事に疲れて網を洗っているところへイエスが突然現れ、舟に乗せろと言われてイエスを乗せたら、イエスの説教が始まった。長いイエスの説教が終わったと思ったら今度は、落胆し疲労の極限にあるペトロにむかって、沖へ漕ぎ出して漁をしなさいとのイエスの言葉。理性のある人ならば漁をしない、成果を全く期待できない、なにかがとれるという希望など持ちようのない、不都合な状況の時と場所で、それに逆らうイエスの言葉です。ペトロは内心「今は何をやっても獲れはしないのだ」と思いつつ、「あなたのお言葉ですから」とイエスに全てを委ねて行くのです。

 「先生・・・お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。「先生」はエピスタテース(上に立つ人)という表現です。単なる先生(ラビ=律法教師)ではなくそれ以上の方として見ています。それは、ペトロがいままでずっと舟の中で、イエスの口から出る権威ある「神の言葉」を聞いたことによる反応です。「このような権威ある言葉を語るあなたの御言葉ですから」ということなのです。イエスの口から出る言葉一つ一つを「神の権威ある言葉」として聞いたからなのです。つまり、ペトロはここで「あなたの語る言葉は『神のことば』ですから」と応じたということです。疲れ切っている上になお、洗って干してある網をもう一度取り込んで舟に戻しての漁ですから大変な作業です。「お言葉ですから」にはそれ相当の自分を放棄し、これから起こってくる新たな事態を受け止め取り組む覚悟を決断しての応答の言葉であったということです。

 わたしたちが「神の言葉」を聞くというのは、自分の価値観、知恵、判断を保留しながらイエスの言葉に耳を傾け、なおかつイエスの言葉に聞き従うことで起こってくる新たな事態を引き受けていくということに他なりません。イエスの言葉が一人の人に向けられ、具体的な生き方の指示となり、聴く者が信頼してその指示を受け入れ、指示にしたがう決意をして行く、その先で神の言葉が成る出来事が起こるという事実確認がなされ、イエスが神から来た権威ある者であり、人間を超え、人間が置かれている状況をも超えるお方であることが示されて行くのです。

 6節〜7節「漁師たちがその通りにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」ここには、単なる奇跡物語が語られているのではありません。神の言葉が語られ、神の言葉の指示に従いその通りにすると、神の言葉による新たな出来事が起こったとたたみ掛けるように語られています。創世記1章3節の「神は言われた。光りあれ。すると光りがあった」との聖句を思い起こします。ここに改めて、神の言葉の形成力が強調されているのです。神の言葉であればこそ、一旦語られればその通りになる。このことを象徴的にこの出来事は示しているのです。主の言葉が語られたならば、誰もそんなことが起ころうとは思っていなかったような驚くべきことが起こるのだということが示されるのです。

 8節〜9節 漁師仲間で手分けして二そうの舟を大漁の魚でいっぱいにしたところ、舟は沈みそうになった。この予想を超えた事態にペトロは驚いてイエスの足もとにひれ伏して、「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言うのです。ペトロはここで自分のどんな的外れに気づいたのか。本日の日課の最初からの主題となっているのは神の言葉であります。それがずっとこの直前の5節のところまで続いて来ていました。5節にはペトロ本人の言葉で「(あなたの)お言葉ですから」とイエスの言葉に従うようにして漁を始めたのですが、そこには自分の心に不本意な気持ちがありました。つまり心の底からイエスの言葉に説得され、納得し、信頼を置き、従ったわけではなかったのです。自分の主体は相変わらず自己本位の自分のまま、イエスと言う人物と自分とは関わりのない第三者のまま、イエスの言葉と自分との間を突き放したまま、ことの成り行きを離れた所から眺めるようにしてイエスの言うなりにことを運んでいたということ、そのことに気づいたのです。一言で言いますと、ここまではペトロは信仰を持ってイエスに従っていたわけではなかった。事が終わればただの通りすがりの人としてイエスの前を通り過ぎていたかも知れなかったのです。

 それがここで、ペトロたちがイエスに出会うことによって、規範の逆転という大転換が起こって行くこととなるのです。今まではペトロの人生の主人公は自分自身でありました。それが、自分が自分の主人公である筈のペトロの口から突然「主よ、わたしから離れてください」という思いがけない言葉が語られるのです。自分の人生の主人公は自分自身であると自己理解し、ことがらの最終的な判断と決断は自分がすると決めていたであろうペトロがイエスを「主」と呼ぶ大転換です。つまり、ペトロは自己中心の大きな的外れに気づかされたのです。ペトロは、神の権威ある言葉がイエスの口から語られ、その言葉が成るのを目の前で目撃し、自分の命が本来のあるべき永遠の命から逸れていたことに気づかされたのです。「わたしは罪深い者なのです」はそういう意味です。主から離れていた、聞くべき神の言葉を聞きそびれていた。それで、神の言葉を権威をもって実行される主を前にして恐れを感じて、わたしから離れてくださいと言ったのです。

 そのペトロとその漁師仲間たちの前に今度は、イエスが主として立たれ、そして言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)「あなたは」とイエスはシモン・ペトロにスポットライトを当てて一人称で語りかけていますが、シモン一人だけに語りかけている言葉なのだろうかと改めてこの場面を丁寧に見てみますと、五節のペトロの応答も「先生、わたしたちは・・・」と複数になっていまして、イエスに言われて網を降ろし漁をするのもペトロ一人ではなく他の仲間との共同作業であり、わざわざ他のもう一そうの舟のことも語っています。そして、10節になるときちんと「シモンの仲間」恐らくアンデレであろうと思います。そして「ゼベダイの子ヤコブも同様だった」と断りを入れていますので、内容的にはアンデレもゼベダイの子ヤコブもヨハネもここで出会ってイエスの弟子になって行く、また他の者にも「あなたは」と語りかけて、約束されているのだと言うことが分かります。

 それで、「あなたは人間をとる漁師になる」という表現ですが、原文には「漁師」という言葉は書いてありません。言葉通りに訳すと「人間をとる者になる」とあるのです。その「とる」という動詞がルカ独特なのです。「ゾーグレオー」という珍しい言葉で、新約聖書ではもう一度だけ第二テモテ2章26節に「こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつの日か醒めてその罠から逃れるようになるでしょう」。とここに「生け捕りにされる」と受け身で訳されているのが「ゾーグレオー」という表現なのです。名詞のゾーグレオンは、魚であれば生け簀を意味し、現代ですと養殖ですとか「水族館」といった意味に、また羊や牛と言った家畜であれば牧場と取れる言葉になります。つまりここでイエスはシモンペトロに「人間をとって養う者になる」「人間を養い生き生きと生かす者になる」と語っているのです。どうしたら人間を生き生きと生かす者になれるのか、ルカはその答えを二四章四八節に記しています。「あなたはこれらのことの証人となる。わたしは、父から約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」または使徒言行録の1章8節では「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というのです。結論的に言いますと、「あなたは人を集めて、イエス・キリストを証する証人になる」のです。わたしたちがそうなるために、イエスはわたしたちに権威ある神の言葉を語り、神の霊を送り、力を与えてくださるのです。そして次の11節の結論へと話しは進みます。

 11節「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」ペトロや仲間たちの方から、それであるならばと、自主的・主体的に、イエスに従い、献身していく表現になっています。「人間を集めて生き生きと生かす」ということであれば、今しがた彼らがイエスの言葉を聞いて従った結果、驚くべきことを経験してよく分かったことでありました。人間を本当に生き生きと生かす方はこの目の前にいるイエス一人をおいて他にはないことを彼らは思い知らされたばかりでした。ですから「すべてを捨ててイエスに従う」献身が結果として起こったのです。

 ヨハネ福音書15章4節から5節でイエスはこう言われています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れてはあなたがたは何もできないからである」。とあり、16節には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである」と明確に語られました。「実を結ぶ」「人を生き生きと生かす」ためには、イエス・キリストにつながる以外にないということです。他のものは無力なのです。罪ある者に神が御言葉を持って臨まれるのは、罪人を神の新たな命のことばをもって生かすためなのです。わたしたち人間が今日あるのは、その神の命の言葉によるのです。神はわたしたちの証しを通して、すべての人をこの神の命の言葉へ招いておられるのです。

 お祈りをします。
 わたしたちを生かす命の言葉を語ってくださる恵み深い神様。このわたしたちの世界は、人の思い計り、人の言葉と人の知恵と人の計画だけが先行している中で、人が力によって人を支配し、そのゆえに人は真の命を生きられなくなって、闇に支配され、命を失い、「神の言葉」に飢え渇く多くの魂があなたの真の命の言葉を求めています。どうか生ける主であるあなた自身が、教会を通して一人一人の魂に語りかけ、働きかけてあなたの生ける言葉でわたしたち一人一人を生き生きと生きるあなたの永遠の命に導いてください。
このお祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。 アーメン

      
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「神から遣わされたイエス」ルカ4:21-30
2025.2.2 大宮 陸孝 牧師
「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(ルカによる福音書4章24節)
 本日は先週の日課に続く4章21節から30節までを学んで参ります。イエスは故郷のナザレに戻り会堂で権威をもって、メシアが到来した「今日」、イザヤの預言が成就したこと、それを神から「遣わされた」メシアとして「告知する」イエスの宣教は、あなたがたが「耳」にした今ここで成就しているのだとお語りになりました。神から遣わされ、委託されて語られた神の言葉は必ず成就するのだとの宣言でありました。

 22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」イエスの言葉を聴いて、初めはその恵み深い言葉に驚嘆したそこまではよかったのですけれども、その言葉や知恵を語るイエスという人物を見ると、この人はあの幼なじみの「マリアの息子ではないか」「大工ではないか」我々と何も変わりがないあのイエスが、神から「油注がれ」「遣わされ」ている神の器であるというのか。とつぶやき始めます。「イエスをほめ」は原文では「このことをほめ」で、「このこと」とは何かと言いますと、「イエスの口から出る恵み深い言葉」のことです。そのことは評価する。歓迎するということであり、こんなすばらしい人が我々の同郷人であるという誇りを表していると見做すことが出来ます。この同郷の人たちの反応のうちに隠されている議題・含みを次の節以降でイエスは明らかにして行きます。

 23節〜27節「医者よ自分自身を治せ」と言う格言は現実にいろいろあるのですけれども、イエスがどのような趣旨でこの格言を持ち出し、何を言いたいのかはっきりと分かりにくい面があります。医者は本当は自分を治したいのだけれども、他人のために滅私奉公で自己犠牲的に他者に奉仕をするという意味に理解しますと「カファルナフム」のようなよそのところでばかりやってないで、「ここでも」という「ここ」ナザレが、医者の自分自身に相当しますので、「ここ」ナザレで同じしるしをやってくれと言うだろうという意味になります。

 このことわざを、丁度イエスが十字架で貼り付けになった時に「他人を救ったが、自分自身を救えない」と嘲られたように、医者の無能力に対する批判や嘲りのことわざと聞くことも出来ます。他人は治すが自分自身は治せない、この「自分自身」というのはイエスご自身という意味で、カファルナフムでもしたというしるしをここでも行って、早く自分自身の言うことを信じてもらえるようなしるしを見せて、自分の足場固めをしろという促しの言葉と理解することもできます。どちらにしても、このようにしてナザレの村人たちは、ナザレのここでもしるしを行うように自分に求めているとイエスは言われます。

 24節「そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」ここに、イエスしか使ったことのない独特の言葉とされる「アーメン」という言葉を最初の頭に出して、それから「わたしは言う」と続ける語り方、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」これはイエス独特の言い回しであると言われます。ルカ福音書では、その最初がここに出て来ています。そして、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」という御言葉も四つの全ての福音書に出てくる印象深い言葉であります。

 旧約時代に出た多くの預言者たちのことを考えますと、とりわけ、その人の故郷の町や村の人から歓迎されず、尊敬されず、迫害を受けたことが明らかに書かれているのは、エレミヤとアナトトの村の人との間だけですので、一体ここに書かれている「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とは、旧約の事例から意味を探ってもどういう意味なのかははっきりしません。明らかなことは、第一に、イエスがご自分を「預言者」の一人であると位置づけておられるということです。この場合の預言者というのは、ただの預言者か、「油注がれた」メシアかという比較ではなく、「神から遣わされている」神の器であるということでは、預言者もメシアもどちらも神から遣わされた者であるという自覚を言おうとしているのです。

 そしてもう一つのことは、ルカ以外の三つの福音書ではすべて、預言者は自分の故郷では敬われないものだ≠ニ言う言い方をしているのに対してルカは「敬われる」という言い方ではなく、「歓迎する」という言葉に変えています。「受容する、受け入れる」という言葉ですが、これは実は先週の日課19節「主の恵みの年を告げるため」とありました、イザヤ書61章2節からの引用文のところでも用いられていました。イザヤ書61章2節では「主が恵みをお与えになる年」と訳されている言葉は、神様の喜びの年≠ワたは神様の受け入れの年≠ニ言う表現で、喜び受け入れてくださる≠ニいう表現なのです。ここで主なる神は、捕らわれ人を受容し、目の見えない人を受け入れ、虐げられている人、貧しい人、弱い人を歓迎されたのです。いまそれが実現しているのです。そしてこの素晴らしい神様の受容をせっかく告知(宣教)しに遣わされて来たイエスを、故郷であるナザレの人たちは受容しないと対照して言われているのです。

 そのような不合理なことがどうして起こるのか、それはこの人たちがイエスと同郷の人たちだからだと言っているのです。カファルナフムであれだけのことをやったというのならば、イエスの故郷ナザレでもやらさないわけにはいかないという同郷の人たちのプライドもあるでしょうし、そしてなまじ、彼は所詮大工じゃないか、マリアの子じゃないか、ヨセフの子じゃないかという同郷のよしみ、イエスが同郷の人であるというなじみがありすぎるために、それを超えて、神から「遣わされ」た「メシア」であるというのであるならば、それに相応しいしるしを見せろ、こういう要求になってくるということです。そしてそれがなければ受け入れない、歓迎しないそういう反応なのです。イエスの主張ははっきりしています。聖書が成就している「今日」、あなた方はその告知を「耳にした」、神の使信を聴いた。そこで神の新しい創造の働きが始まっている。だから、あなたがたはこの神の新しい創造の使信の体現者であり、証言者なのだということです。そして、ナザレの村の人たちはせっかくこの福音の告知を耳にしながら、しかし、信じることができず、受け入れることができなかった。その原因は、彼らはしるしを見たい≠ニいう違った方向に目を向けていたからだと指摘されているのです。

 25節から26節「エリヤの時代に三年六ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イエスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」これは、旧約聖書の列王記上17章に書かれている、紀元前九世紀の出来事です。飢饉があり、次の18章では「三年目」にやっと雨が降り始めますが、イエスの説教では「三年六ヶ月」という年月になっています。これは、ヤコブの手紙5章17節にも同じように「三年半」となっています。その大飢饉の時に「イスラエルには多くのやもめがいた」とありますが、旧約聖書の列王記に、当時やもめが大勢いたということが特に書いてある訳ではありません。当時イゼベル王妃が主の預言者たちをたくさん殺したという大迫害の時代でしたので、預言者の未亡人たちは確かに大勢いたのではないかと推定はされます。

 その「大飢饉」のために、エリヤが水を飲んでおりましたケリトの川の水が尽きた時、神様は、遠くシドンのサレプタの一人のやもめのもとに身を寄せるようにとお命じになりました。エリヤはそこに参りまして、薪を拾っている一人のやもめにパンをください≠ニ言いました。しかし、彼女は、一人の息子と自分が食べれば、もう後は死を待つばかりというほどの、わずかの粉が壺にあり、油があるだけだと言うのです。そしてエリヤはかまわない、大丈夫、わたしの言う通り、まずわたしのためにパン菓子を作って出しなさい。必ず、壺の粉は尽きず、瓶の油は絶えることがない≠ニ言って、やもめはその通りにしましたところ、本当に雨が降るまで彼女の家の壺の粉は尽きず、瓶の油は絶えなかったというのです。

 さてそれで、その次の27節ですが、これも同じく列王記下5章に詳しく書かれている物語であります。「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」預言者エリヤの評判を聴いて、遠くシリアの国の将軍でありましたナアマンは、王様の手紙を添えていただきまして、はるばるとエリシャのもとへと病を癒やしてもらいにやってきたのです。ところがエリシャは、玄関に出て来もしないで、使いの者をよこして、ヨルダンの川で身を七度沈めなさい≠ニ、これだけ言ったのです。それでナアマンは怒りまして、もっと仰々しく何か儀式をやってくれると思ったのに、それに、川の水なら故郷の川の方がきれいだから≠ニ一端は帰りかけるのですけれども、部下の者たちに、預言者が言ったことはたやすいことだから、とにかく一度やってみたら≠ニ勧められて、欺されたつもりでヨルダン川に身を七度沈めますと、重い皮膚病は「清くされ」ていたと言うのです。

 神の恵みの年を実現するために、イエスがその使命を負って神のもとから派遣されて来た。その派遣先はカファルナフムであり、ナザレであり、さらに広く異邦人の世界にまで及ぶものであることをたとえて、サレプタのやもめや、シリア人のナアマンだとかいう異邦人に神の無条件の恵みを注がれた例を挙げ、たとえ外国人であっても神様は広い関心をおはらいになっていて、神の恵みにすがる者には、サレプタのやもめであれ、シリアの将軍であれ、恵みを注がれるのだとイエスは語られているのです。

 ナザレの人々はイエスの言葉を聞いて激高します。イエスが神から遣わされて来たことが見えませんでした。それどころか彼らの生活感覚から見ると、イエスの出自、能力、地位、外観、言葉遣い、自分に好意をもっているかいないか、そういった思いに捕らわれていて、この人はヨセフの子ではないかという人間的な次元での評価しか出来ませんでした。このナザレの人々の本質的な問題は神がもたらそうとしているすばらしい無条件の受容を自分たちは受け入れないと言うことでした。

 29節「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」ユダヤ教の規則によりますと、石を撃って処刑する死刑というのは、先ず囚人を、人の倍以上の高さから突き落として、それから石を投げつけるという規則なっています。(ミシュナー)しかし、この日は安息日であり、死刑を執行する日ではありません。人々は激高してイエスをリンチしようとしたということだったのでしょう。

 30節しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られます。この立ち去られたというのはまんまと逃げおおせたと言う意味ではありません。ルカ福音書はこの表現を使って、イエスが着々と神の御計画を進めて行かれる足取りを描いているのです。ルカはそのことを13章33節に「わたしは今日も明日も、その次ぎの日も自分の道を進まねばならない」と、ただ立ち去った。動いた、逃げたというのではなくて、「自分の道を進む」という、決意を固められ、使命を帯びて自分の道を進めておられる、イエスを歓迎しなかったナザレを去ってエルサレムへの本来の歩むべき道を目指して歩み出したと語っているのです。それは、告知された恵みの年を徹底して実現するためでもありました。

 お祈りします。

 恵みの主なる神様。あなたはわたしのような者を無条件で喜んで受け入れてくださり、しかも、その主の恵みの年を告知するために御子イエスを遣わし、わたしたちに熱心に語りかけていてくださいますことを感謝申し上げます。この恵みに対して、わたしたちが自分たちの全身全霊、全人格をもって、あなたが遣わしてくださった御子イエスを受け入れ、イエスの言葉に聞き従い、あなたに答え、信頼を寄せ、繋がり、和解し、祈り、応答を捧げて行くことが出来ますように、わたしたちに本当の信仰をお与えください。

 イエス・キリストの御名によってお祈りします。   アーメン
      
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