| 「新しい幸いに生かされる」 マタイ5:1-12 2026.2.1 顕現節第4主日 大牧陸孝牧師 |
| 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節) |
| マタイ四章の最初の弟子召命の記事に続きまして、本日の日課は、イエス・キリストの弟子であろうとするものがどのように生きるべきかを教えられたいわゆる「山上の説教」の最初の部分、1節から12節のところです。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座に着かれると、弟子たちがみもとに近寄って来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とあります。語られた場所はガリラヤ湖畔の小高い山であったと思われます。腰を下ろすと弟子たちが近寄って来ました。聞き手はこの弟子たちです。しかし、イエスの評判を聞いて、方々から集まって来た群衆も聞き手として加わっていたようですが、しかし、「弟子たちが身元に近寄って来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とありますので、この説教を語られたのは、「弟子たちに対して」であるということになります。直前の四章で、わたしについて来なさいと言われ、イエスに召し出された人たち、少なくとも、弟子として生きようとしてイエスの許に来ている人々に、イエスに正しく従って生きることの祝福と厳しさを教えられる、そのような目的をもって語られたのだということです。 イエスは弟子たちに開口一番「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられます。「わたしに従って来なさい」と召し出され、それに応答して、一切を捨ててイエスに従って生きようとしている人たちに、イエスはまず、「あなたがたは幸いである。神の国はあなたがたのものだから」と祝福を語られます。イエスに従って生きることによって直面する苦難、困難を覚悟している弟子たちに、祝福を語られます。イエスの弟子として生きるために「貧しくなった」弟子たち、そのために今「悲しみ」や苦難に耐え、「柔和な人」「憐れみ深い人」として人々に接し、「義に飢え渇き」「義のために迫害を受け」「平和を実現する」「心の清い」弟子となる人たちを祝福されます。 「心の貧しい人々」とは、誰のことなのか。「心の」という言葉は、マタイが付け加えた言葉で、それまでイエスが語られた言葉として伝えられていたのは、「貧しい人々は幸いである」というものでした。ルカ福音書6章20節では、そのようになっています。これにより、イエスの祝福は一般的に「貧しい人々」「悲しんでいる人々」への祝福であると考えることも出来まして、そのような理解と主張がしばしばなされ、こうした理解には根拠がないわけではありません。 旧約聖書と新約聖書を読む者に与える強い印象の一つは、「聖書の神」は貧しい者、弱い者、悲しみに打ちひしがれている者を特別に思いやる神、人間の苦しみの現実に眼を注ぐ神であると言うことです。神は最も小さく弱い民イスラエルを選んでご自身の民とされました。イザヤ書61章1節には「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と書かれています。救い主は、貧しい人に福音を知らせ、捕らわれ人には開放を告知するために来られるというのです。 新約聖書では、牢の中に捉えられていたバプテスマのヨハネが、イエスの所に来て「来たるべき方は、あなたなのでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねたときに、イエスは「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである」(マタイ11章2節〜6節)。困っている人の障害が取り除かれ、貧しい人に福音が告げ知らされていることが、キリストが来ておられることの「しるし」であるというのです。救い主なる神の目は、確かに、「貧しい人」「困窮している人」の上に注がれているのですが、しかし、聖書では福音が語られる状況とは関係のない、いつでも何処にでも当てはまる、人生をどう生きていくかという倫理の体系を語ろうとしているのではありません。特に本日の日課マタイ5章の山上の説教では、群衆を横目に見ながら、山に登って、近くに寄ってきた弟子たちに語られたのですから、これは、イエスに従おうと決意したものに与えられる「服従の道」(ナッハフォルゲ)の道を示したものであると見ることが出来ます。 イエスはこの弟子たちを見つめながら、「貧しい人々は幸いである」と語られたのは間違いありません。弟子たちは、イエスの招きに直ちにすべてを捨てて従いました。イエスに従って行くことの結果としての「貧しさ」という犠牲・損失を被ることをも意に介することはありませんでした。あるいはそこまで考え及ぶこともなかったのかもしれません。マタイ福音書19章16節以下に、イエスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問う「金持ちの青年」のことが書いてありますが、この問いに対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われ、この言葉を聞いた青年は、イエスの前から「悲しみながら立ち去った」と書かれています。青年は、イエスに従うための犠牲、損失を受ける決断が出来ませんでした。それで、どう生きて行けば良いのかと言う大変重要な問いをイエスに出しながら、イエスの前から「立ち去る」ほかはありませんでした。そして、それとともに、「天に宝を積む」すなわち、「永遠の命」を得る道を自分から失うことにもなったのです。 それに対して、使徒たちの場合は、イエスに「わたしについて来なさい」と招かれた時、すぐに網を捨て、父と雇い人と舟を残し、生活の資の何もかも捨ててイエスの後について行きました。このようにしてイエスに従って行った弟子たちは実際に貧しくなるほかはなかった、そうなのですが、しかし、マタイはただ「貧しい人」とは言わないで「心の貧しい人」と言いました。この世の富『生活の資』と栄誉とをすべて捨てて、それ故に今貧しく生きている弟子たちの姿は一途にイエスに従って生きていることの結果なのです。この当時のユダヤ教では、「心の貧しさ」とは、信仰のゆえに神に従う厳しさを受け入れ、すべての希望を神に置く「正しい人」の「しるし」と考える者もあったということです。そのことから、イエスに従い、その故に貧しくなり、すべての希望を神に置くこの弟子たちこそが、まことに「貧しい人々」であるという意味になり、このような弟子たちに対して、イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言われ、また弟子たちもすべてのものを捨てて、イエスに従って行くと言う構図が見えてきます。 「幸い」と訳されたギリシャ語「マカリオス」の本来的な意味は、「最高度の幸福と幸福感」を現します。旧約聖書の中にも、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編1章1節〜2節)とか、「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆って頂いた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない者は」(詩編32章1節〜2節)の例があります。これらは、神の掟を守る者や神に罪赦された者のさいわいというように、神との交わりがもたらすさいわいに力点が置かれています。つまり、神から与えられた「祝福」「救いの喜び」を表すもので、人格的な神との深い交わりの喜びを軸としていて、人間が幸福追求的に生きるのではなく、神とそのご意志に従って生きようと努めるときに、神から与えられるたまものとしての喜びのことであります。「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6章33節)目的として追求される幸福ではなくて、結果として与えられる幸いです。 ここに挙げられております九つの「祝福」のうち、10節までの八つは「・・・する人々は幸いである」と三人称で語られているものと、「あなたがたは幸いである」と二人称複数でいわれている一句とがありますがこれは二つの伝承がつなぎ合わされた結果生じた表現の違いです。内容的には6節までの部分では、祝福された人間の状態、その人たちの環境的側面が示されており、7節から12節では祝福された人間の態度、その人の主体的側面が示されています。 「こころ」プネウマは「霊」と訳した方が適切であろうと思われます。根源から見られた人間の全体を指していて、「その存在の内奥に至るまで徹底的に貧しい人」ということです。自分の内側によりたのみ誇りとすべき何者をも持っていない。神の祝福はこのような者に注がれるのです。ここには神の恵みの徹底的な無償性が示されています。神の愛が支配するところでは、人間の側からは何も生まれ出ないような無価値な捨てられた人間をこそ、神はご自分の民として迎え入れられる。これは旧約以来の約束でありました(イザヤ書61章1節〜3節)。 「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」への四つの祝福は絶望的な状況の中で神を待つ者に向けられています。彼らは全く不幸な人たちであります。この世で現在最も不幸な者が幸いであるというのです。これは貧しさ、悲しみ、賤しさ、虐げがそれ自体として価値があると言っているのでありません。それらはまったくわたしたちの生活から取り除かなければならない不幸であり悲惨であります。しかし、人間の闇が深ければ深いほど星の輝きは明るさを増して感じられますように、この世の罪の陰惨さと悲惨のどん底に於いてこそ、神の約束は切実さをもって受け止められ、その約束を与えたもう主イエスの力の大きさ、恵みの深さを知らされることになるのです。「彼らは、その悲惨の中にあって神の国に直面し、人間イエスによって革新さるべき世界の淵に立っているのです。彼らの悲惨において、そのような世界の破れは表れ、世界は神の恵みの内に保たれていることを発見するのだ」。それが悲惨の中でのさいわいなのである。(カール・バルト和解論) 7節から10節までは祝福を受ける人間の主体的な態度が取り上げられます。「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」は、「清い」ということばがキーワードとなるでしょう。旧約聖書では「清い」はコーデッシュ「聖」という言葉で言い表されます。汚れがないという意味であると同時に、取り分けられて神に属するものとなるという意味で、純粋に神の恵みに心を開き、依り頼んでいる人のことを表しています。ボンヘッファーは言います。「心の清い人とはだれであろうか。自分の心をイエスに全く捧げ、そうしてイエスのみが心の支配者であるような、そういう人、その心を自分自身の悪によって、さらに自分自身の善によっても汚さないような、そういう人だけである。清い心とは、善悪を知らない幼児の無邪気な心であり、堕落前のアダムの心、そこでは人間の良心ではなくてイエスのみ心が支配している心、そういう心である」 真の人間解放と人間回復のために神は憐れみと恵みをもってわたしたちの所に来てくださった。その神の働きへと神はわたしたちをも恵み深く呼び出していてくださる。マタイ5章3節〜12節に示されているのは、神の国をもたらす働きをしている主である方の御心を自らの心として生きる証人の姿であります。それは具体的には主イエス・キリストご自身の姿です。「イエスが人間に対して何を求めたもうかをわたしたちに語りたもうた時、それによってイエスは、自分がどのような道を選んだかを明らかにされたのである」(シュラッター)。主イエスは十字架の道を辿(たど)って勝利の祝福を語られた。イエスの民もまたこの道を辿(たど)ることによって、主の祝福に与る者とされるのです。 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平安とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、希望に溢れさせてくださるように。 ページの先頭へ |