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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年1月礼拝説教


★2022.1.30「主の救いの恵みを信じる」ルカ4:21-30
★2022.1.23「神の恵みの言葉を聞く」ルカ4:14-21
★2022.1.15「喜びの杯が尽きるとき」ヨハネ2:1-11
★2022.1.9「あなたを照らす光は上る」ルカ3:15-22
★2022.1.2「人生の折り返しは別の道」マタイ2:1〜12

「主の救いの恵みを信じる」
ルカ4:21-30
2022.1.30  大宮 陸孝 牧師
「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では、歓迎されないものだ。」(ルカによる福音書4章24節)
 先週23日の主日礼拝の福音書日課はルカ福音書四章16節から21節までを学びました。ルカは主イエスがご自分の故郷であるナザレ村の会堂で預言者イザヤの書61章1節を読み上げられたことから宣教活動を書き始めています。その内容は、そこで、主イエスが到来した「今日」イザヤが預言した聖書の言葉が成就したこと、そのことを、神から遣わされた救い主として「告知する」イエスの福音宣教は、あなたがたが耳にした時、それは耳の中で成就したということなのだから、あなたがたはその権威ある告知の証人とされてその使命を果たして行かなければならないということであるというメッセージを確認いたしました。

 本日はそれに続いて、22節以下を学んで行きます。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」。この短い文章の中に、初めは好意的であったけれども、よく考えてみると結局反発するという態度の変化がこの短い文の中に描かれているのが分かります。皆は「イエスを」ほめは「このことを」とも訳される三人称中性名詞で、「このこと」とは何か。それは、「イエスの口から出る恵み深い言葉」、これは驚嘆し、ほめた。これには皆、初めは感嘆したということなのですけれども、その言葉や知恵を語るイエスという人を見ると、この人は「マリアの息子ではないか」「ヨセフの子ではないか」「大工ではないか」、我々と何も変わりがないではないかというので、「驚いて」のところまではよかったのですけれども、そこから、「言った、『この人はヨセフの子ではないか』」というところから態度が変わってしまったということなのです。

 確かにイエスの語った教え、知恵の言葉、恵みの「言葉」そのものは歓迎なのですけれども、それを語る「この人」という人物に目を留めますと、とてもこの幼なじみのあの「ヨセフの子」イエスが、神から「油を注がれ」「遣わされ」ている神の器であるとは信じられない。こう言って「つまずいた」のです。

 そこで、23節「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナフムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うに違いない」』とイエスは言われます。ルカのいかにも医者らしい証言ではありますけれども、当時のギリシャになるほどこのような格言が流布していたようです。そういう一般的に流布していた格言を引用していますので、その趣旨、何を言いたいのかということになるとよく分かりにくいところがあります。

 「医者は他人のため。しかし自分は傷だらけ」という格言に基づいて、医者は本当は自分を治したいのだけれども、他人のために自分を犠牲にして奉仕をするという褒め言葉として捉えますと、「カファルナフム」のようなよそのところでだけではなく、「ここでも」つまりナザレでも同じしるしをやってくれと言うだろうとなります。

 そして、このことわざを、ちょうどイエス様がはりつけになった時に「他人を救ったが、自分自身を救えない」と嘲られたように、医者の無能力に対する批判や嘲りの言葉と聞くことも可能です。他人は治すが自分自身は治せないと。そうだとすると、この「自分自身」というのはイエス自身という意味で、カファルナフムでもしたというしるしをここでも行って、早く自分自身を信じてもらえるようなしるしを見せて、つまり実績を積んで自分の足場を固めよという促しの言葉になって来ます。このようにしてナザレの人たちは、ナザレという「ここで」しるしを行うようにと自分に求めているとイエスは言われていることになります。

 24節「そして言われた、『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」「はっきり言っておく」と言う言葉は、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という表現で、これはナザレのイエスしか使ったことがないと思われる表現でルカではここに始めて出てくる言葉です。

 そこでこの預言者のことですが、旧約聖書に出てくる預言者は大勢いますが、その預言者たちの中で、故郷の町や村の人から歓迎されず、尊敬されず、迫害を受けたとはっきりわかっているのは、エレミヤとアナトトの村の人との間だけです。本日の旧約聖書の日課となっているところです。ですからここで言われている「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とはどういう意味なのか、これも、先ほどの「ことわざ」と同様に非常にわかりにくい言葉なのです。

 ここで明らかなことは、第一に、イエスがご自分を「預言者」の一人であると位置づけられていることです。この場合の預言者というのは、「神から遣わされている」神からの器であるということで、メシア(救い主)と同じ意味ということです。イエスはその自覚を持っていたということです。そして他の福音書では敬われないものだとなっていて尊敬を得るかどうかが問題とされていますが、ルカでは「歓迎されないものだ」と変えられていて、「受け入れる」「受容する」と言う意味になります。これは先週の日課の19節のところで「主の恵みの年」の「恵み」と訳されているところに意図的に用いられています。つまりイザヤの預言の原文を変えてでも、「主が受容してくださる年を告知する」と言ったのです。
 
 ここでの対照は明確です。主なる神は、捕らわれ人を受容し、目の見えない人を受け入れ、虐げられている人、貧しい人、弱い人を歓迎されたのです。今それが実現しているのです。しかしナザレの人々は、この素晴らしい神様の受容をせっかく告知しに神から遣わされて来ているイエスを受容しないのです。そういう対照です。どうしてそのようなことが起こったのか。それは、同郷の人たちだからなのです。カファルナフムであれだけのことをやったというのなら、我々のところでやってもらわないわけにはいかないという同郷の人々のプライドもありますし、それから、イエスは大工じゃないか、マリアの子じゃないか、ヨセフの子じゃないかという慣れ親しい同郷人のよしみ、なじみがあるために、それを超えて、神から「遣わされ」た「メシア」というならば、それにふさわしいしるしを見せろ、と言う要求になってくるわけです。

 イザヤの預言がイエス様によって成就している。「今」あなた方がその告知を耳にしたということは、直ちに信じて証人になることだ、と主イエスは宣言します。人の噂で来ていることとは違うのです。しかし、ナザレの村人たちがせっかくこの福音の告知を耳にしながら、ついに信じることができず、受け入れることができなかった原因は、彼らがしるしを見たいと言う方向にまちがって心の目を向けてしまっているからなのです。

 25節からはルカ独特の記事で他の福音書には見当たらない記事であります。ここでイエスは何をお教えになったのか。ここでは「イスラエル」と言う問題に広げられます。「イスラエル」ではなくて、「シドン」の「サレプタのやもめ」であるとか、「シリア人ナアマン」だとか言う異邦人に恵みが注がれた例を挙げておられます。これは福音の説教を聞いて信じると言う問題を更に深める意味でイエスがなさったお話です。

 これは、たとい外国人であろうとも神様は広い関心をお持ちになっていて、その恵みにすがる者には、サレプタのやもめであれ、シリアの将軍であれ、聞いて信じる者には恵みを注いでくださるのですよと言いたかったのだと思います。この二人とも、サレプタのやもめといい、ナアマンといい、イスラエル人か外国人かというよりも、言われたその通りに、直ぐに従ってやった。その結果、瓶の油は尽きず、壺の粉は絶えない。あるいは、その結果として病の癒やしをいただいた。彼らが信じて従う前に、何かしるしをとか、何か保証を要求しなかった。言われて、その通りにしたら、後から結果がついてきたと言う点が重要なのです。

 ここのところはヨハネ福音書の4章46節以下が参考になるところではないかと思います。ガリラヤのカナでのイエス様とカファルナフムの役人のお話です。イエス様がガリラヤのカナにおられるところへ、カファルナフムの町から王の役人がやって来まして、"うちの息子が死にそうだから、ぜひ来てほしい"とすがるのです。ところが、イエス様は実にあっさりと、48節に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言うのです。「しるしや不思議な業」という証拠やしるし、これが先にないと信仰を持たないタイプの人だというのですが、すぐに続けて、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃるのです。それで役人は帰って行きます。家に着きますと、確かに息子は元気になっていて、それは、イエスさまが「あなたの息子は生きる」とおっしゃったその時刻であったということを後で知るのです。ここでは、見て信じるのではなくて、言われた言葉を信じるならば、結果として恵みがついてくるという実例になっています。

 神から遣わされた説教者が神の恵みの言葉を語っている。そこで語られた恵みの言葉が恵みの出来事となっているにもかかわらず、人々の関心が説教者の人間的側面に移ると、すぐに躓きが起こる。どうしてそのようなことが起こるのか。説教者が神から遣わされていることを忘れているからです。神から遣わされている者を人間のレベルで見ると、直ぐにその出自、能力、地位、外観、言葉遣い、自分に好意があるかないか、そういうことが問題となり、「この人はヨセフの子ではないか」という蔑み(さげすみ)が起こる。

 人々は憤慨し、総立ちになり、主イエスを町の外れに連れ出して、崖から突き落とそうとした。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)この「立ち去られた」というのは、まんまとうまく逃げおおせたという意味ではありません。ルカ福音書ではこの表現を使って、イエス様が御自分の働きを着々と進めて行かれる足取りを描いているのです。わかりやすいのが9章51節の「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう(この向かうということばです)決意を固められた」。そして53節「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられた(この進んでおられた)からである」。56節の「別の村に行った」。57節の「一行がが道を進んで行く」。そして13章の33節まで読み進めて行きますと、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」という「自分の道を進む」、これが全部同じ言葉で、ここでわざわざ「自分の道を進む」と丁寧に訳してあるのです。ただ動いた、「立ち去った」、逃げたと言うのではなくて、イエス様が使命を帯びて確かに自分の歩みを進めておられる。歓迎しないナザレの町にこだわらずに、自分の本来の進むべき福音宣教の歩みを進められたということです。

 立ち去って何処へ行かれるのか。本来の使命とは何か。それは、わたしたちに救いの恵みを与えるために十字架への道をまっすぐに進んで行かれるということです。主イエスの、恵みの救いの出来事となる、わたしたちが罪から解放されるその道をわたしたちも追って参りましょう。

 お祈りいたします。

 神様。あなたが、わたしたちのような者を喜んで受け入れてくださる深い恵みをこころより感謝いたします。そしてそのような約束が成就していることを、神様は、主イエスを遣わして、わたしたち罪人に信じがたい知らせとして告知していてくださいますことを感謝いたします。

 この告知を聞いたわたしたちが、主イエスが成就してくださった救いのみ業を受け入れ、自分の全人格をもって宣教の働きに応答して行くことができますように、わたしたちに真の信仰を与えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。      アーメン
    
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「神の恵みの言葉を聞く」
ルカ4:14-21
2022.1.23  大宮 陸孝 牧師
「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカによる福音書4章21節)
  イエスがメシアとして権威を持って人々の前にご自分を顕し、教えたり、人々に接する様子を、ルカが具体的な形で書き始めました最初の記事が、本日の日課のところであります。 これによりますと、イエスはお育ちになったナザレに来て、いつも通り安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった」とありますが、難しいのは太い巻物の終わりの方に書いてある聖書の言葉を偶然目にしたように表現されていますが、これはそうではなく、イエスがご自分でそこの聖句を開いて選んで読まれたとするのが正しいと私は思うのです。そのように理解して、この読まれた御言葉を読み返しますと、18節の最初の三行では、ルカが3章22節に伝えております聖霊が鳩のようにイエスの上に降った¥o来事の意味、聖霊によってイエスはこの時、油注がれ、キリストとしてのご自分を示されたのだ≠ニいうことを解説する聖句となっていることが分かります。そしてそれからまた18節の二行目で「福音を告げ知らせる」という言葉がでて来ます。これはイエス様の活動は基本的には福音宣教≠ネのだということをルカがここで確認しているということであります。

 それからこの18,19節の中にイザヤ書やレビ記(25章)やいろいろな旧約聖書の引用をしながら、イエス様の働きとは何なのかと言うことをルカなりに苦労して纏めている所であると理解することが出来ます。これから後のイエス様の実際の働きを見てまいりますと、ここで言われている「捕らわれている人」とか「圧迫されている人」というのは、特に悪霊に捕らわれている人が目立ちますし、「目の見えない人に視力の回復を告知する」といっていますが、「目の見えない人」というのも、文字通りの盲目の人であったというのが分かってまいります。そしてこの18,19節の聖句の引用を通して、全体を貫いて強調されているイエスの、自分は何者なのか、何をする人か(つまりメシアとはどういう存在なのか)二つの自己理解が明確になってきます。

 その一つは、イエスは、自分から乗り込んできて救世主として働くボランティアなのではないということ。わたしは「油を注が」れ、任命され、「遣わされ」ているという使命感、これがいろいろな表現で繰り返されます。4章の48節にいたりましても、「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ」と言われているのです。

 第二は、この「遣わされた者」としてイエスは、特に「告げ知らせる」ということ、これを大変重く考えておられるのです。ギリシア語で「ケリュッソー」。これはただ「告げる」とか「伝える」というのではないのです。これは「王の命令を布告する」という意味の「告げる」なのです。イエス様は、父なる神から「遣わされ」「油そそがれ」て働くと自覚しておられるということです。ご自分が教えるにしても、説教するにしても、その言葉は背後にいます大王なる神のお言葉を告げ知らす≠フだと、「ケリュッソーする」のだという自覚をもって語っておられるということなのです。(端的にいうと宣告するということです。)

 このイエス様の説教から始まって今日に至るまで教会が説教しておりますのは、これもやはり、一般の講義とか宗教講話とかと違う重要な点が、遣わされて語るという点なのです。教会のこの意義がよくわかる例としまして、ローマの信徒への手紙の10章14節から使徒パウロが語っていることをお読みします。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう、聞いたことのない方を、どうして信じられよう、また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある通りです」。少し飛びまして一七節「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。このように救い主の言葉を布告する業、これが説教であり、それがキリストの言葉を聞くこととここで言われているのです。

 さて、聖書朗読による救い主としての働きの宣言の後に、20節から、「イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいる全ての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(21節)。ここで実現したと訳されている言葉は、満たされた、そしてその結果は満たされている≠ニいう表現であります。成就された、そして今、成就されている≠ニいう状態を言っているのです。そしてここにある「今日」ということばは、大変重要な言葉となります。ルカ福音書において、クリスマス物語でもこの「今日」という言葉が用いられていますが、特に神の救いの力が現れた時を表すのに選んで用いられる表現なのです。「今日……あなた方のために救い主が生まれた。この方こそメシアである」と御使いはクリスマスの夜申しました(2:11)。ルカ福音書のずっと後に読み進みますと、エリコの徴税人の頭ザアカイにイエス様が関わり合い、人々が文句を言いました時に、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」とイエスは言われました(19:9)そして、イエスがついに十字架につけられた時に、二人の強盗がそれぞれ違った関わりをし、一人の強盗が主よ、あなたが御国に入られる時、私を思い出してください=Aそのようにお願いした時に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(23:43)。「今日、この聖書の言葉が成就されたし、されている」というのは、そういう意味の「今日」なのです。メシアであるイエス様が今ここにいるということは今ここに神の力が満ちているということなのですよ、という意味であります。

 しかしこの言葉を「あなた方が耳にした時」というのは実は誤解を与えやすい翻訳でもあります。あなた方が聞いてくれた時にやっと成就したのではないのです。聞いてくれたから成就したのでもないのです。この表現は珍しい表現で、「あなたがたの耳の中で」という表現です。「今日この聖書が成就されている、あなたがたの耳の中で」と加えられて言われているということです。これは、成就したその瞬間という時を表したいわけではないのです。成就した場所、成就した形、、成就した出来事と「あなたがた」との関わりを表したかったということなのです。


 使徒言行録4章から5章を読みますと、使徒ペトロがユダヤ教議会に何度も何度も、黙っていなさい、ここで語ってはならないと口止めをされます。でもイエス・キリストの福音をペトロたちはかまわず語り続けます。そして、ペトロは最高法院の人たちに言うのです。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:20)。「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(5:32)。ペテロはこのように語ります。

 「あなたがたの耳の中に成就している」ということは、これを聞いて耳にしたあなたがたは、これを話さずにはおられない。あなたがたは証人です。そういう意味であります。イエス・キリストは「遣わされて」来ている方なのです。この遣わされている方が、御父の御言葉を朗読して、これは今日、今ここで成就されているのだと言ったことを聞いたあなたがたは、そうですか≠ナは澄ますことができない。「あなたがたの耳の中で聞いてしまった」のです。そうであるならば、信じて証言しなければならない。これが、ペトロが聞いたことのないものをどうして信じることができようか≠ニ言ったことの意味なのです。

 信仰は聞くことによる≠フであります。聞くことは、キリストの言葉を聞くことから始まるのです≠ニあります。これが、説教を「聞く」と言うことの意味です。何かうわさが聞こえて来るというような「聞く」ではないのです。わざわざ神さまがキリストを「遣わし」、「聖書」を与え、その聖書を説き明かしてこうだと語ってくださる「告知」があるのです。遣わされたイエス・キリストの言葉が説教として語られている時、それを聞く者は、信じて自ら証人となる責任を持つ。このことを本日の福音書の日課のところでしっかりと理解していただかないとこの先の福音書を読み進めても全く分からない話になります。ナザレの会堂の人たちは、そういう聞き方を出来なかったようであります。神から遣わされた方の説教として聞く、そして聞いたからにはそれを信じて自分たちも証人となるという聞き取り方をしなかったということです。

 わたしたちも同じ過ちを繰り返すことがありませんように、イエス・キリストが自らを遣わされたという意識をお持ちになって、神の言葉を告知するために来ておられるという自覚から始まりましたイエス・キリストの説教、その説教を聞く光栄を与えられておりますわたしたちは、わたしたちの「耳の中で」それが本当に成就していることを、体を張って証しする証人となる、そういう責任ある聞き方を今日からして行きたいと思います。そのように聞かれた神の言葉はわたしたちの人生を通して出来事となっていくのです

お祈りいたします。

神さま。今あなたの恵みのお言葉が成就していますことを感謝致します。また今、キリストの言葉が語られておりますことを感謝いたします。

 どうか、語られたあなたの御言葉を耳にしたすべての人たちが、表面的に聞き流すのではなくて、耳の中に収め、心に信じ、そして全身全霊をもって証言する証人となることができますように、しっかりと受け止めさせてください。

 キリスト・イエスの御名を通してお祈りします。アーメン。

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「喜びの杯が尽きるとき」ヨハネ2:1-11
2022.1.16  大宮 陸孝 牧師
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネによる福音書2章10節)
 本日はヨハネ福音書2章1節以下が福音書の日課となっております。本日の日課の少し前の1章50節51節を読みますと「もっと偉大なこと」それは人の子としてのイエス・キリストの上を、天使が上り下りすること、すなわちイエスを通して私たちが神を見る、神に触れることができる、神のなんたるかが理解できる。あるいは、イエスにおいて神が臨在されるという福音の内容そのもののことが語られている言葉に出会います。福音書記者ヨハネはイエスという存在をそのように理解しました。本日のヨハネ福音書日課2章1節からは、イエスの救い主としての公の生涯、公的生涯が開始されると言うところから始まります。

 2章1節の「ガリラヤのカナで婚礼があって・・」という言葉から始まり、4章46節で、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前に水をぶどう酒に変えられた所である」という一区切りのまとまりの結びの言葉が示していますように、イエスの最初の公生涯の〈はたらき〉はガリラヤのカナから開始され、カナに戻った形で記録されています。地理的には、イエスの育ったナザレの町の北方13キロメートルほどの所にあります、キルベト・カーナと言われる少し大きい町、そこが、本日の聖書の箇所の舞台であります。レバノンとイスラエルの国境近くのガリラヤ湖北東部のティルスにもカナと呼ばれる地がありますので、このカナと区別するために、わざわざガリラヤのカナと書いているわけです。

 2節から4節を読みます。「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。このように聖書には記されております。マタイ、マルコ、ルカ共観福音書では、マリアという固有名詞は出て来ますけれども、ヨハネ福音書では一度も出て来ません。いつでも「イエスの母」とか、あるいは呼びかけることば、「婦人よ」という呼びかけの形で出てきます。恐らくヨハネ福音書は、地上のイエスの活動、人間イエスの活動よりも、地上を歩む神としてのイエスを描いておりますので、マリアという固有名詞を使わずに、少し客観的な書き方をしていると考えられます。おめでたい祝宴で、ぶどう酒が不足するという困った事態が起こりました。イエスの母がイエスに依頼するのですけれども、イエスは直接には答えておりません。ここでは、イエスの救い主としての自意識、あるいは自覚があったと、主イエス自身がそのように言っているわけではありませんが、イエスの教えと活動を書き、同時代に生きたヨハネ福音書記者はそのように見倣しております。そこでこのような表現、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と記録されているのです。この「わたしの時」というのは、主イエスの救い主としての本来の働きの時、つまり十字架の死と、復活と昇天の栄光を受ける時を同時に意味します。つまりイエスは、十字架の死に到るまで、父なる神の意志に徹底的に従順であったということをいっているのです。

 そのイエスが、十字架の栄光を受ける時はまだ来ていないと告げています。その時まで、イエスご自身は、自らが神のご意志を体現する神の子であることに徹して、教えとその業の遂行に集中いたします。そのイエスの意志の表明は、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」ということばの中に、秘められているのです。

 5節以下を見ますと、「しかし、母は召使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が浄めに用いる石の水がめが6つ置いてあった。いずれも2ないし3メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使いたちは、かめの縁まで水を満たした」と記されています。

 本日の聖書の日課には、登場人物が、イエスの弟子たち以外に、イエスの母、召使いたち、宴会の世話役、それに花婿と、大勢の人々が登場いたします。この人たちがイエスの最初の奇跡、しるしを見た、経験したという描写になっています。そして、その中で宴会の世話役が奇跡が起こったことを確認するという展開になっています。水が味の良いぶどう酒に変わったということに気がついた、という描写です。そして不思議なのは、その奇跡によって信じたのは、あたかも弟子たちだけであったような描写がここになされていることです。この書き方は、めざましいこと、驚くべきこと、病気が癒されたとか、あるいは水がぶどう酒に変わったと言うことを見て、すなわち人々が奇跡を見て驚いて信じたということを強調する構成にはなっていないということです。

 ここには、婚礼の祝宴のためのぶどう酒が足りなくなったという、困ったことになったことが報告されております。母マリアがイエスに依頼して、イエスが大量の水を、優れた味のぶどう酒に変えたという自然奇跡が生じたという出来事が、至って単純に物語られています。石の水がめ、いずれも2から3メトレテス入りが6つ置いてあったと記されます。1メトレテスというのはおよそ40リットルですので、80リットルから120リットル。ロングサイズの牛乳が80本から120本入る量だとお考えいただければよいと思います。

 8節から10節に「イエスは『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召使いたちは運んで行った。世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも始めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました』」と記されています。ここで重要な点は、「あなたは良いぶどう酒を『今まで』取っておかれました」という表現の中の「今まで」という記述です。

 11節に、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちは信じた」と記されています。要するに宴会の世話役の人は、奇跡に気づいたわけです。弟子たちも気づきました。その弟子たちのうちに、イエスの奇跡的な行為が信仰を生んだという、そういう単純な物語として描かれているのです。つまり、ここではイエスと~との関係の中でのイエスの本質を明らかにしようとしてなされたしるしであるということを強調しようとしているのです。

 先程申しましたように、「わたしの時」というのは、ヨハネ福音書においては、「十字架の死と栄光をイエス・キリストが受ける時」を意味します。
 その時は未だ来ていない。このようにイエスは母マリヤに言ったのです。そのイエスの時に至るまで、イエス御自身は、自らが神の意志を体現する者、神の子であることに徹底して集中して、教えと業を行います。つまりヨハネはこの奇跡物語によって、私たちと神さまとの間を取り持つ仲保者の役目、神の僕としての役割を担う救い主としての姿がこれから描かれていくということを紹介しているのです。

 本日の日課の頂点となる句は11節にあります。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」というこの箇所です。ここでは、水をぶどう酒に変える奇跡が、イエスの栄光を現した、と告げております。この点が大事なところです。ここには、旧約聖書の預言の言葉が背景にあります。わたしたちは新約聖書を読む時に、旧約聖書から学んでその福音の本質を汲み取ると言う作業をします。このカナの婚礼の背景となっている旧約聖書イザヤ書の25章6節〜9節に次のように記されております。

 「万軍の主はこの山で祝宴を開き
 すべての民に良い肉と古い酒を供される。
 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
 主はこの山で
 すべての民の顔を包んでいた布と
 すべての国を覆っていた布を滅ぼし
 死を永久に滅ぼしてくださる。
 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
 御自分の民の恥を
   地上からぬぐい去ってくださる。
 これは主が語られたことである。
 その日には、人は言う。
 見よ、この方こそわたしたちの神
 わたしたちは待ち望んでいた。
 この方がわたしたちを救ってくださる。
 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
 その救いを祝って喜び踊ろう」。

 人々が、本当の救い主、メシア、キリスト、主、「あってある者」の、わたしたちの歴史への到来を待ち望んでいたことを旧約聖書は伝えています。その方の到来を待ちに待っていたのです。その人々にとっては、奇跡を行うイエスの振る舞いから、イエスこそ待望のメシアにほかならないとの確信を得たのです。それがイエスに対する信仰へと進んで行くのです。今朝の聖書の中心点はここにあります。

 ヨハネ福音書がわたしたちに伝えたい福音書執筆の意図は、あのナザレのイエスが、ユダヤ教の浄めの儀式に用いられていた水を、言い代えるならば、古い秩序を、イエスが奇跡的にぶどう酒に変えられた、言い代えるならば新しい秩序に代えられた、これをイエスはカナで行ったとの理解が込められているということです。イエスは水をぶどう酒に変えるという奇跡を通して、人々に、古い秩序から新しい秩序を、この世界に樹立されるのだ、ということを伝えているのです。ヨハネ福音書1章18節〜19節で語られているように、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通してあらわれたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と告知しています。このことを再確認をしようとしているのです。

 この事実を、人間の祝いのときの祝宴、すなわち婚礼の宴会のときに、イエスは奇跡を遂行することによって、この時代の人々に、そして書かれた神の言葉である聖書を通して、また語られる聖書の言葉である説教を通して、現代の私たちにも告げ知らせているのです。

 新約聖書の主イエスの教えの中心は神の国であり、神がこの世を直接支配される時が目の前に近づいていると教えられ、この神の国を婚礼にたとえられ、神の国は神の愛の支配が完全に成就する状態でありますから、そこでの神と人間との愛の喜びに満ちた交わりが、結婚の喜びにたとえられています。しかしここではたとえではなく、カナでの実際の婚礼に主イエスも実際に同席して、人間の喜びが尽き、結婚式という喜びの営みが危機に陥り、焦りと絶望の中に投げ込まれているときに、その人間の一つ一つの欠乏、必要に心をとめ、尽きてしまう人間的な喜びを補い、取り戻してくださる。そのように主イエスは人類全体の救いのために自分の命を捧げることを自分の使命と捉えそのために来たのだ。そしてイエスをそのように突き動かす原動力、それこそ神の意志であり、神の愛と命の力なのだと言うことをこの奇跡の事実を通して私たちに示しているのです。

お祈りします。

父なる神さま。あなたの新しい命と光が「人となって私たちの間に宿られました。」そのことを主イエスはしるしを通して私たちにお示しくださいました。ですから私たちが、来てくださったイエス様の生涯と十字架と復活の出来事に目を向け、その働きの中に与えられている恵みの喜びをしっかりと受けとめて、この世の信仰の生涯を歩んで行くことができますように私たちを導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「あなたを照らす光は上る」ルカ3:15-22
2022.1.9  大宮 陸孝 牧師
「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(ルカによる福音書3章22節)
 本日のルカ福音書3章のところは、イエス・キリストに先立って遣わされた預言者ヨハネが登場して参ります。そのヨハネは人々に次のようなことを説教いたします。一つは、差し迫った終末的な、「神の怒り」に備えなさいということ、第二には、「悔い改めにふさわしい実」とは何かということ、そして第三には来たるべき方「メシア」についての証言であります。それに続いて21節以下は、バプテスマのヨハネからイエス・キリストの物語、本論へと移って行きます。短い文章ですが、このところで、一つにはイエスの受洗、二つ目は聖霊の降臨、そして三つ目には天からの御声と三つの事柄が手際よく報告されています。今週はそれについて順番に考えていきたいと思います。

 21節の前半「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とこのように言われています。聖なる神の御子イエスがなぜ「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を受けなければならないかいう疑問は、早くからありました。そこでたとえばマタイ福音書ですと、実はバプテスマのヨハネが辞退したのだけれども、たつてのイエスの願いだからやむなく洗礼を授けましたと、弁明しております。ヨハネ福音書では、もう洗礼のことは一切省きまして、ただ聖霊が降ったことだけをヨハネが語る、そういう形にしてあります。

 それで、その点、ルカは、独特な手法を使って、実はここの「イエスも洗礼を受けて」という文章は従属節になっていまして、文章の中で本当に報告したいことは、天が開けた、聖霊が降った、天からの声がしたという三点になっているということです。いかにも超自然的なこの三つのことを報告したい。ただ、そのことの状況を描く従属節として、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と、こういうふうにさらっと受洗の事実を語るだけであります。しかもこのイエスの受洗は、「民衆が皆」受けているのに混じって、その一人として当然のように「イエス」も受けられましたというのです。

 ルカ福音書は既にクリスマス物語で、あれほど天使たちが晴れがましく紹介した神の御子イエス・キリストが「四日目には割礼を受けた」、そしてまた一カ月ほど経ちますと、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた」ので神殿に連れて来られたというふうに、当然のことのように、イスラエルの一般の民と同じように、生まれながらの汚れを清める割礼だとか清めの儀式だとか、だから大人になると洗礼だと、こういうふうに描いているということになります。ルカにとってイエス様が、神の御子ではあられますけれども、民と汚れに満ちた民衆と全く同じ者としてこの世に来られたということははじめから繰り返し繰り返し語ってきたことなのです。

 パウロは第二コリントの信徒への手紙5章21節で、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」、こう言います。「罪と何のかかわりもない方」だったのだけれども、「わたしたちのために罪と」されました。ですから、イエスはわたしたちと同じように、罪の許しを得させる悔い改めの洗礼もお受けになりました。

 ルカの独特な点は、さらに「祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という点です。ルカ福音書は昔から祈りの福音書≠ニか、あるいは聖霊の福音書≠ナあるとか言われてまいりましたが、その特色が本日の日課のところにもよく出ております。「イエスが祈っておられると・・聖霊が・・降った」。

 福音書の中でもルカ福音書は、イエスを特別に祈りの人であるというふうに描いている福音書です。ほかの福音書が語っていない場面で、ルカ福音書は、イエスが祈っておられる、祈っておられるということを丹念に記しています。特に重要な節目の時にあたっては、祈り深く事に当たられた方であることが記されています。

 「天が開ける」というのは、神さまの代わりに、人間の目に見えるように顕現するものが、実は神から出ている、神的な起源があるのだということを示す決まり文句でありまして、旧約聖書ではエゼキエル書の1章1節に、「わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々」の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」といって有名なエゼキエルの幻がずっと一章に描かれています(旧約1296頁)。

 どうして鳩がここで出てくるのか、いろいろ議論があります。鳩はイスラエルのシンボルだからとか、あるいは聖霊の象徴だからと言われたものであります。しかし、イエスの時代に鳩が特別な象徴の約束事があったどうか、全くわかりません。ただ大切なことはイエス様がこの時、聖霊の降臨をお受けになったということであります。これには二つの大きな意味があります。

 ひとつは、ルカが後ほど使徒言行録の10章38節に書かれておりますこと、ペトロが福音の説明をするくだりの中で、「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」と、このように記されています。「油注がれた者となさいました」と廻りくどい訳し方をしているのですが、この「油注がれた」という言葉の名詞が「クリストス」で、つまり、イエスがクリストスとなられたのは、ここで聖霊をお受けになったからだということなのです。早々とクリスマスの夜に御使いは、「この方こそ主メシア?キリストです」とは言いましたけれども、実際にこの方が油を注がれてクリストスと神から示される場面は、本日学んでいるこの聖霊が降られたという場面なのです。

 第二番目に大事な意味は、実はこのイエスの登場の前にバプテスマのヨハネが16節で民衆に語ったことにあります。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。こう紹介されていたとおり、ヨハネに続いて登場しますイエスは、聖霊の洗礼を授ける働きをなさる方であるということです。これを強調しているのです。民衆に聖霊を授けるために、自ら限りなく聖霊をお受けになるということ、これを強調しているのです。ご自身がキリストとしての働きをなさるために父なる神の命の力を受けていることを示されたのだと言うことです。

 22節の後半「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。これは、イエスが祈っておられた祈りに対する神さまからのお応えであります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」。こういうご返事を祈りに対してしていただくことができたならばわたしたちにとってもなんと幸いな祈りの生活であろうと思わされます。

 この天からの神さまの御声は、マタイ福音書では、「これはわたしの愛する子」というふうに皆にイエスを紹介する体裁の文章になっています。しかしマルコ福音書やルカ福音書では、祈っている主イエス御自身に直接語りかける声になっているのです。この短い言葉によって主イエスについて二つのことがわかります。

 第一は、イエスが神の子であられる、神の愛児、独り子であられるということです。このことは、既に一章に描かれましたクリスマス物語で、読者にあらかじめ念入りに紹介されていたことです。

 第二にイエスは、イザヤが預言する主の受難の僕≠ナあられるということです。このことについては2章のクリスマスの物語で、ルカは既に読者に予告を念入りにしていることです。それを受けて、今神さまの御声は、間違いなくあなたは神の愛児、独り子なんだけれども、同時に、苦しみながら主の御用をはたす僕であると、この両面を確認しておられるのです。

 これが、イエスの公の仕事をスタートさせるイエスの祈りに応えてイエスに向かって語られたということ、そのことをわたしたちはずっと考え続けなければならないのです。わたしたちがイエスをどう見るか、わたしたちがこの言葉から何を学ぶのかということとは別に、神さまは「あなた」と言われます。それはどういうことなのでしょうか。
 
 今、イエスは父なる神のみもとから遠く離れてわたしたちのところに来ておられます。割礼を受け、汚れを清められ、洗礼を受けるという、神の世界から遠く離れた全く的外れな罪ある世界へ我が子が行っている、その子に対して神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う」、そういう確認をしておられるのだということです。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4 新約347頁)これは、神さまのほうから言うと、ほんとに断腸の思いで遠い遠い世界へ御子をお遣わしになったのだと思うのです。そしてこれから着手する、やれるかやれないかわからない、どんなことが立ちはだかるかわからないというところで、もう既に、「あなたはわたしの心に適う」と言い切られるということは、これはまた、どういうことなのか。これはすごい信頼といいますか、全幅の信頼を与え、そしてまた、うらぎられることのない期待を父が我が子に寄せている言葉にほかならないということです。

 イエス様がとらえられる直前、ユダヤ教の神殿当局から、あなたは何の権威でこれらのことをするのか≠ニ問い詰められた時に、有名なぶどう園の悪しき農夫のたとえ話≠なさいました。ぶどう園の主人が、収穫の時が来たというので僕を送った。でも、ぶどう園の農夫たちは僕を袋だたきにし、侮辱を加えて追い出してしまって全然年貢を納めない。何度も何度も僕を送ったのだけれどもだめだ。そこで主人は最後に20章13節でどう言ったかといますと、「そこでぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならだぶん敬ってくれるだろう』」と、こう言います。それで、独り息子を送ってみると、その独り子を農夫たちは殺してしまった。これは明らかに、父から送られたイエス御自身のたとえです。この時、独り子を送り出すぶどう園の主人は、今日聞いたこの言葉を使うのです。「わたしの愛する子」、これを送ろう。敬ってくれる=Bこのように言っているのです。つまりイエス様はずっと公の仕事をして来られて、今もうその最後という受難の極みに達する時にも、このお声をきちんと覚えておられるのです。わたしは父から「愛する子」として遣わされている。十字架への道を、父の「愛する子」として歩むのだ。そういう父の愛、父の信頼、父の期待、これをイエスはしっかりと受け止め自覚なさったのです。

 そして、そのイエス・キリストが自ら受け、わたしたちにも授けてくださる聖霊は、神の子たる身分を授ける聖霊であると聖書は教えています。ですから、わたしたちもまた、イエス・キリストと同じように、どのような罪の中、汚れの中、苦難の中にあっても、神の子として愛されているという恵みに、自覚と信頼を寄せて行きたいと思うのです。祈って、祈りの中で、神さまの私たちへの愛と、わたしたちも、洗礼を受けて祈っていると天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という御声を聞きたいと思うのです。
 
 お祈りいたします。

 神さま。罪と汚れに満ちた中で、わたしたちは自分のいる場所も見失い、自分の生活の原点も見失う事が度々です。そうした中で、祈りによって神さまとの交わりを取り戻し、わたしたちには御子の霊が授けられており、父なる神が絶えずわたしたちを「愛する子」として呼びかけていてくださいますことをしっかり祈りの中で聞き取ることができ、自分の位置を取り戻して、神の子として新しい一週間を、この世に遣わされて生きることができますように、わたしたち一人一人に励ましを与え、力を与え、霊に満たしてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「人生の折り返しは別の道」マタイ2:1〜12
2022.1.2  大宮 陸孝 牧師
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイによる福音書2章12節)
 ~の御子が救い主としてわたしたちの世界にお生まれになったできごとは、わたしたちの全存在を引き込む神さまの圧倒的な力を示す出来事です。季節のように過ぎ去りまた巡ってくるというものではなく、いつもこの私の今の中で息づいていて、わたしのこれからの生きる方向を示され、この私にとってのっぴきならないこととして迫り、そのことを除いては私が自分の人生も世界の未来も考えられないこととして受けとめさせられます。

 「イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」、マタイ福音書2章1節は、このようにお生まれになられた御子イエスの誕生の時期と場所を大まかに報告し、わたしたちの歴史のただ中に~の子が確かに生まれたことを述べ、それに続いて御子イエスをユダヤ人の王として最初に拝んだのは、東の方から来た占星術の学者たちであった、と記しています。東の方からやって来た占星術の学者たちとは一体どういう人たちだったのでしょうか。東の方とはエルサレムから見て東に位置する地方ということですから、バビロンあるいはアッスリアとかペルシャといった異教の地と考えることができます。そこは数百年前に、ユダヤの人々が捕らわれとなっていた土地であり、ユダヤの人たちから見れば偶像崇拝や魔術や占いなどが盛んに行われていた土地でありました。そのような中で、星の運行を探求し、それによって運勢を占うことを専門的に行っていた人たちが占星術の学者たちであったと考えられます。彼らは天体に関して多くの知識を持っており、それに基づいて人類や世界に関しても、いろいろな洞察を持っていたと思われます。

 そして、あるとき、特別な星の動きによって、ユダヤ人たちの王となるべき方がお生まれになったことを知ったのでした。彼らはユダヤ教の知識も持っており、ユダヤ人が新しい王、救い主を待ち望んでいることを知っていました。その知識と、天体の観測とが一致して、ユダヤ人の王の誕生を確信したのでしょう。彼らは彼らの知識や観察に基づいてエルサレムまでやって来ました。星に導かれてというよりも、「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです」(2節)といっていますように、東の地で特別の星を見て、それに関する知識と経験に基づいて、エルサレムにやって来た、と言うのが正しいでありましょう。先程申しましたように、この東方の地というのは、イスラエル人が長い間捕囚になっていたところでしたので、イスラエルの人々がどんなにかメシア〔救い主〕の到来を待ち望んで来たかということはかなり知っていたと考えられます。そして最も注目すべきは、彼らがたとえ何人であったとしても、確実なことは彼らがユダヤ人ではなかったこと、つまり、ユダヤ人からは~とか救いにはほんとうに縁なき人々であると考えられて来た外国人であったことです。自分には救い主の到来などとは全く関係がない、と考えていた人々に対して~の救いの出来事が及んで行ったということです。彼らの目には、新しい王はユダヤ人の王としてお生まれになるのだから、その誕生の地は、ユダヤの都エルサレムであるという、彼らなりの解釈でエルサレムにやって来ています。最初は彼らの態度は第三者的な客観的な立場でありました。

 学者たちがエルサレムにやって来ても、そこには、新しい王が生まれたとの喜びも興奮も、なにもありませんでした。この状況をルターは、「ここには子犬が生まれたほどのさわぎもない」と記しています。学者たちは、ユダヤ人の王の誕生の地はエルサレムではないことを知って、そこで自分たちがはるばる東の方からやって来たことの理由と目的を説明しています。(2節)そして、そのことを聞いた人々の反応が次に描かれます(3節)。まずヘロデ王ですが、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」と記されています。ユダヤ人ではなかったヘロデは、自分の地位に関して常に不安を抱いていたのですが、今また新らしく王となるべき男の子の誕生を聞かされて、新たな不安を抱いています。

 またエルサレムの住民たちはどうかと言いますと、「エルサレムの人々も皆、同様」でありました。新しい王の誕生と言うことが自分たちにとってどういう意味を持っているのかを悟らず、新たな騒動が起こることへの不安が住民たちの間に広がって行きます。喜びと期待とを持って、ユダヤ人の王となるべき方を探し求める東方の学者たちとの対照的な姿が描き出されています。そのような描写を通して、御子イエス・キリストがお生まれになった時代が、いかにそのお方をお迎えするにはふさわしくない暗い状況であったかを示そうとしているのか。いや、そうではなく、そのような闇の中にこそ、光としての御子イエス・キリストはお生まれになるのにふさわしい方である、ということを強調しているのではないかと思われます。

 さて、ヘロデはその不安の中で、祭司長たちや律法学者たちを呼び集めて、メシア、救い主はどこに生まれることになっているのかと問い正します。旧約聖書の中にそのことが語られているはずだと考え、ヘロデは、宗教の専門家たちの知識を総動員させていますが、これは、ヘロデの不安の大きさと焦りとを示すものでありましょう。それによって、律法学者たちが探し当てたのが、旧約聖書ミカ書5章1節のことばでした。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」。古い名でエフラタと呼ばれたベツレヘムの町は小さな町でした。しかしその町から、イスラエルの民を治める指導者、王が出る、という内容の預言がなされていました。そこはイスラエルの偉大な王ダビデの出生地として知られているところです。その町こそが、新しい王の誕生の地だと宗教家たちは言い当てます。そして、事実、~の御子は、この小さな町でお生まれになったのです。

 ~の御子は、大きな都エルサレムではなく、小さな町で生まれることを通して、~は小ささを大切にされるお方であることが示されています。聖書に現れる神は、イスラエルの~は、そして、わたしたちすべての者の~は、この世においては小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではなく、かえって、それらを用いてご自身の業を進められるお方であります。人間の世界のその小ささや貧しさや卑しさは、~にとっては何の妨げにもならないのです。むしろ、逆に、人間的な大きさや豊かさや強さは、~の御業の道具としては、妨げになることがあります。ですから、わたしたちは、自分の小ささや貧しさ、弱さを恥じる必要はないのです。~はそこに目を留めてくださり、恵みと憐れみとを注いでくださるからです。

 さて、律法学者たちによって、新しい王の誕生の地がベツレヘムであることを知ったヘロデは、八節によりますと占星術の学者たちに、ベツレヘムで御子の誕生のことが詳しく分かったら帰りに知らせてくれ、「わたしも行って拝もう」と言いますがこれはもちろん偽りであることは16節からも分かります。2節に学者たちが「拝みに来たのです」と言っていることと、ヘロデが「私も行って拝もう」といっていることの間には決定的な違いがあります。

 学者たちは、聖書の言葉が指し示すことを疑うことなく、ベツレヘムに向かって旅を再開します。その時に東方で見た星が、再び現れて、彼らを導いて行きます。彼らは新しい王が都エルサレムで生まれなかったことや、小さな町ベツレヘムこそがその誕生の地であると示されたことに躓きませんでした。また自分たちの知識や体験に限界があることが明らかになったときにも、素直に~の指示に従う生き方へと自分を修正することができました。その結果、彼らは、星によってあらかじめ示され、預言によってより確かに示されたユダヤ人の王に出会うことができたのです。マタイ福音書に記されていませんけれども、たとえばルカ福音書にあるように、赤子の主イエスが、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かせてあったとしても、学者たちはそれにつまづくことはなかっただろうと思います。~がこの世に送られた救い主が、どのような低さ、貧しさ、卑しさのなかにあったとしても、~のなさることへの疑いをいささかも抱かずに、彼らは幼子をひれ伏して拝み、彼らの宝物を幼子に捧げたのです。エルサレムの住民がただ不安を抱くだけで、学者たちと共にベツレヘムまで出かけて行くことをしなかったのに比べて、学者たちが示す~への従順な姿は際立っています。こうして異邦の学者たちとエルサレムにいる様々な人々との対比を通して、主イエス・キリストに対する人としてのあるべき姿を明らかに示そうとしているのです。

 学者たちは、帰るとき夢で、~によって、「ヘロデの所へ帰るな」と告げられることによって、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行きます(12節)。これは何を示しているのでしょうか。クリスマスと新年を迎えて、わたしたちは御言葉によって一つの変革を求められているということではないでしょうか。今の時はわたしたちの生活が根こそぎ揺るがされるだけでなく、新しい方向を与えられる時なのだと言うことでありましょう。学者たちがキリストとの出会いの後の姿はそのことを指し示しているということなのです。

 パウロは一コリント15章10節でこのように言っています。「~の恵みによって、今日のわたしがあるのです」。この小さく貧しく、そして卑しくさえある自分に、あふれるばかりの~の恵みと愛が注がれ、それによって生かされて来たことを覚えるときに、そしてこの新しい年にも生かされていることを畏れをもって受けとめるときに、そこから新しい感謝と応答の生活が、それぞれに始まるのです。主イエス・キリストとの新しい出会いによって人生の大きな転換がわたしたち一人一人に起ころうとしています。それが本日から始まるのです。

お祈りいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。
わたしたちにあなたの御子イエス・キリストを与えてくださって心から感謝いたします。どうか、この主イエス・キリストとの出会いが、わたしたちの人生を根底から変えてしまうような新しい命の力となりますように。暗さに閉じこもり、不安におののいておりますわたしたちが、あなたの大きな贈り物に対して、わたしたち自身を捧げだして、あなたしか与えることのできない喜びに満たされて、しっかりと自分の足で恵みに応える信仰の歩みをしていくことができますように、力と導きをお与えください。

この世界の真実の希望であります主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン


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