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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年2月礼拝説教


★2022.2.27「低き所に来たりたもう主」ルカ9:28-36
★2022.2.20 「神さまが喜んでくださる」ルカ6:27-36
★2022.2.13 「神の祝福を喜んで受ける」ルカ6:17-26
★2022.2.6「神の恵みに打ち砕かれる」ルカ5:1-11

「低き所に来たりたもう主」ルカ9:28-36
2022.2.27  大宮 陸孝 牧師
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
(ルカによる福音書6章29節)
 本日の福音書の日課は、教会では一般的に「イエスの山上の変貌」と呼ばれているところです。つまり、イエス様の顔が急に変わって太陽のように輝き、服が光のように白くなったということです。口語訳の聖書で読みますと、この出来事は昼間に起こったこととなっているのですが、共同訳ではそれは真夜中の出来事となっています。これは翻訳をする人たちの理解の仕方というものがここに大きな相違を生み出しているということでしょう。ここは共同訳の方が原文で読む雰囲気に即しているのではないかと思われます。口語訳の方では、イエスが光の主であると言うことを強調しようとして、語調の中にたえず光という雰囲気を表現しようとしているのに対して、共同訳の方ではルカ福音書の全体から見て、イエスは昼に輝く光であるよりも、むしろ夜の闇の中に輝く光であるという聖書の理解が背景としてあると思われます。

 それで、この山上の変貌の物語をルカ福音書に沿って前後の関係の中で見て行きますと、二つの大切な印象深い言葉に気付かされます。

 一つはこの山上の変貌の後にイエス様が山を下って、悪霊につかれた子どもを癒されたという話です。ひどい痙攣を起こす病にとりつかれて苦しんでいる子どもに対して、イエスが手を差し伸べて、その子を癒された後で、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」(43節)と書かれております。

 そしてもう一つは、人々が神の偉大さに心を打たれたということがあって後に、イエスが弟子たちに御自分の十字架の死について予告をなさるのですが、その時に「弟子たちはその言葉が分からなかった」(45節)と書かれているところです。弟子たちには理解できないように隠されているというのです。

 人々が神の力に驚いたということと、イエスが語られた十字架の予告が弟子たちには理解できなかった、というその二つのことが、山上の変貌の物語の中に反映していると見ることができるのです。神の偉大な力に驚くというのは、非常に光り輝いている明るい方の部分で、それに対してイエスが十字架の予告をなさるというのは、イエスの働きの暗い悲しみの部分です。その暗い部分については弟子たちは理解できなかったのです。

 山上の変貌の物語は栄光のうちにイエスが立たれ、旧約聖書を代表する預言者モーセとエリヤがイエスと一緒に話し合っていて、姿そのものは映像的には光り輝いているのですけれども、そこで語られている事柄は栄光ではなくて、それとは反対に彼らが話していることは、イエスがエルサレムで遂げようとしている最後についての事柄です。つまり、ここで眼に見える形では光輝く檜舞台のような晴れがましい有様が示されていますけれど、内容はまるっきり逆で、凄惨なイエスの最期が語られていたということです。わたしたちは普通、山上の変貌と言う物語をイエスが栄光の神の子であることを弟子たちに示される出来事として読むのですが、それは厳密には正しい読み方とは言えません。そこで語られているのは、むしろイエスの生涯の中で神の栄光という、言うなれば、神の権威とか偉大さというものが踏みつぶされるようなことがらなのです。それが、また、この物語が、イエス様が死を覚悟してエルサレムへ上って行かれる、その出発のところに置かれている理由でもあるのです。

 そこで、共同訳の聖書の翻訳者たちがこの場面を夜の情景として表現しようと努めたというのは全体の文章、流れ、文脈からいいますと正しい解釈であると言うことができると思います。ここにはさらにあのゲッセマネの園のイエスの祈りの場面の反映があります。山上の変貌の物語は暗い世界の中の出来事ですが、ゲッセマネの園で主イエスが祈ったのも夜の物語で、そこに描かれている情景は「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。・・・イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(22:42節〜44節)というイエスの祈りが描かれているのですから、暗い悲しみの夜であるということなのです。しかしそのように祈られるイエスの姿の中に、実は神の偉大な光が差し込んでいたのだとルカは主張しているのです。そして、このことを弟子たちが理解できなかった、というのが本日の福音書の流れの全体の姿です。

 わたしたちはイエスに対しても、また神に対しても大きな偉大さの期待を持ちます。キリスト教の表現だけではなく、あらゆるところで神という名が語られる時、神は上にある権威として考えられます。神という日本語の言葉も上という意味でありまして、上にあるものが神なのです。キリスト教の用語でも神学の用語でも、神というのは上にある存在、力ある存在として、天にいます神というような表現を用いて、神というものを高い所に考えます。

 しかし、そのような神についての考え方に対して聖書が語る神は、上にあると同時に下にあるというまことに矛盾した存在として語られているのです。わたしたちは一般に、人間が光と闇との間に行き交ってさ迷っているのに、神は絶えず影のない光そのものであるという理解の仕方をしがちです。しかし、ルカによる福音書の著者は、神は、光と闇との矛盾の中に御自分を置きたもうたのだと言います。

 マルコによる福音書の9章9節以下の山上の変貌の直後の所を読みますと、イエスは弟子たちにエリヤについて語られています。イエスはこのエリヤという人物を光輝く神の人として弟子たちにお教えになりませんでした。そこではエリヤについて「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」と語られております(9:13)。(新約78頁)

 つまり、エリヤという人は誰もが認める旧約聖書の偉大な人物として描かれているのではなくて、人々からいいようにあしらわれ翻弄された、悲劇的な存在であると語られているのです。同じようなことがモーセについても言えます。人々はモーセは偉大な自分たちの先達だと考えています。しかしモーセもまた、あの四〇年のシナイの荒野の旅を通して、神から託されたイスラエルの民から絶えず裏切られ、最期にはその民の裏切りを身に負うて、約束の地であるカナンに入ろうとした時に、神によって妨げられて約束の地に入ることはできませんでした。これが旧約聖書に書かれているモーセです。彼はイスラエルの民全体の罪を負って、神から約束の地に入ることを禁じられた存在でした。

 そして、この二人の旧約の人物と共に語るイエスもまた、人々からあしらわれて、エルサレムで十字架にかけられて殺されるのです。こうしてみると、この三人で語り合っているという物語は大変象徴的です。つまりここで起こっていることは、よく眼を凝らしてみますと、光輝く偉大な栄光に満ちた偉人の姿であるよりは、むしろ人々から勝手にあしらわれて、悪し様に言われて、つばきをかけられるという、言ってみればこの世の中で最も悲しい最期を遂げた人々の対話であったということです。

 ここに描かれているイエスは高い存在として、栄光に輝く存在として、天にいます神として顕現されたのではなく、むしろ、神はこの世の中の最も無力な者として、あるいはこの世の中のあらゆる恥辱が投げつけられる、その地の底にある存在としてわたしたちの前に現れているのだということになります。

 このことは、たとえば神の国を理解することにおいても同じです。神の国というのはどこか高い所にあるもの、たとえば神の国を理解するのに、マタイ福音書では天国という言葉を使っておりますが、天にあるすばらしい極楽のような世界のことを天国という風にわたしたちは理解しがちです。しかし、天国あるいは神の国というのは高い所にあるのではなくて、光と闇の行き交っているわたしたちの日常の世界の中の影の部分として神の国がある。ここで大切なことはわたしたちの影の部分、低い所、そこに神の祝福が及んでいるのだということです。そのことは先週の日課であります6章27節以下の学びで申し上げた通りです。

 イエスがモーセやエリヤと共に山の上に立っておられるというその栄光の姿は、人間的に見ればまさしく悲劇の三人の対話であり、それは闇に包まれた夜の情景です。しかしさらによく眼を凝らして見るならば、その三人の悲劇というのは、実はそのことを通して神が人間の闇の世界の中に、神のまことの祝福をもたらしておられるということなのです。

 つまり、わたしたちが最も悲劇だと思うような時にこそ、わたしたちは神に出会うということです。ですから病が癒された子どもの父親を中心にして、周囲の人々が「神の偉大な力に非常に驚いた」といいますけれども、ほんとうに偉大なのはその困難に出会いながら、その困難の中で神の祝福を受け止めようとする生き方、そこで神と出会い、神の偉大さを理解するということではないかと思うのです。

 弟子たちはそのことを理解できませんでした。弟子たちに理解できなかったということは象徴的なことです。わたしたちもまた、このことはしばしば理解できないのです。わたしたちは単純に栄光に輝く姿を見て、それによってわたしたちがまるで勝利を得たかのように思い上がってしまいます。わたしたちの持っている権威主義へのあこがれです。

 しかし、そういうものに一切目を向けないで、ただひたすらに、このイエスの低さに従う人々が教会の中にあり、そのような人々が絶えなかったと言うことは感謝すべきことであったと思います。たとえばマザー・テレサのように、ほんとうにこの世の中の最も低いところへ身を挺して生涯を捧げた人々がいました。わたしたちの教会も、その意味では教会というもののほんとうの姿、ほんとうのありようというものに心して行かなければならないと思います。また教会のみならず、わたしたち一人一人の日常の生き方の中においても、何か幸福なこと、何か晴れがましいこと、何か偉大なことという趣きをもって信仰を考えようとする時に、むしろ神はそれに先だって、自らこの世の中の全く無力な、全く不幸な者と共にあり給うというそのことを繰り返し、繰り返し覚えて行きたいと思います。

 主イエスがわたしたちの世界で本来おられるところは、ペトロが言いましたような三つの庵を建てて、居心地よく山の上にいることではなく、わたしたちが希望を失ったり、あるいはわたしたちの健康が損なわれるという悲劇の体験をするときに、わたしたちはそのときにこそ、神さまがここにおいてわたしたちに祝福を与えようと、恵み深く、憐れみ深くいてくださるということに希望を置きたい。それが信仰と言うことであろうと思います。わたしたちが受け継いだ信仰は、信じることが困難な中においてこそ信じ抜く、にもかかわらずの信仰なのです。

 お祈りいたします。

 父なる神さま。罪深いこの世にあって、あなたはいつも人から捨てられ、数々の辱めや苦しみを受けて来られましたが、それにもかかわらず、憐れみ深くその罪深い世を愛し救おうとして独り子をお遣わしくださいました。

 その御子について行きますわたしたちもまた、同じ道を歩むことを通して神の子らしくなって行くことができます光栄と幸いを喜びとすることができますように。そして、日々、喜んで自分を捨て、自分の十字架を背負ってついて行くことができますように、私たちを導いてください。

 御子イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン

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「神さまが喜んでくださる」ルカ6:27-36
2022.2.20  大宮 陸孝 牧師
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」
(ルカによる福音書6章27-28節)
  先週の福音書の日課ルカ6章の平地の説教序論に続きまして、本日の日課は6章27節から36節まで、平地の説教の本論の部分です。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と主イエスは語り出します。主は、祝福と呪いの言葉を述べられた序言の後で、「聞いているあなた方に言っておく」と注意を喚起される言葉で語り始められます。

 この説教の部分は38節まで続いていて、さらに、構文や内容を見てみますと、三つの区分に分けることが出来る、伝統的な説教の構造としては典型的なものであります。

 第一は、27節から30節まで、これは攻撃的な敵に対してわたしたちが受け身で善き業をするという勧めです。

 第二は、31節から36節までで、広く人に対してキリスト教信仰者が積極的になすべき善なる生活の勧めです。

 第三が、37節から38節の、非常に特殊な、人に対して裁くか赦すかという、対人関係の生活を教えるところです。

 第一の27節〜30節ですが、愛敵の教えといわれるところです。「聞いているあなた方に言っておく」と語り始めておられます。主イエスは語りかけている相手をどういう人たちと見なしているかを伺い知ることが出来る言葉でもあります。それは、本当に神を愛し求めて止まない人たちに聞いてもらいたい、あるいは、わたしたちの中にそのような心を呼び起こすように語り掛けておられるという語り口です。自分を捨て、自分の十字架を背負ってキリストに従おうとする人に対する教えであります。

 まず27節から28節の後半に、敵に対して「愛せよ」、「親切にせよ」、「祝福せよ」、「祈れ」という四つの命令の言葉で敵を積極的に愛する命令がなされます。そして、29節から30節では、【自分を与える】教えが語られます。ここでも四つの文章になっています。29節前半では「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けよ」という積極的な命令です。それに続いて29節後半では「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」という、ここは禁止になって、次の30節の前半は、「求めるものには、だれにでも与えよ」。これはまた積極的な命令になっていて、後半では「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」と禁止になっています。命令と禁止、命令と禁止という構造になっていますが、これは最後の四つ目を強調する文学的な手法で、旧約聖書でもしばしば用いられているものです。

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」同じことをパウロがローマ書12章14節に語っていまして、「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」こういうふうに語っています。

 元々の戒めはマタイの5章43節の方で見るとよく分かりますが、「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛しなさい」という文脈です。昔から"隣人は愛し、敵は憎め"と言われて来たという昔からの言い伝えは、「隣人」つまり同胞を愛し、「敵」国は憎めという戦争の命令であったということです。こういう旧約時代以来の民族抗争が行われてきた背景で語られて来たものに対して、今主イエスは訂正しておられるということです。

 そしてここで注意しておかなければならないのは、主イエスはこの教えを、ただ単に一般的な教えとして人との付き合いの問題を言っているのではありません。ルカがわざわざ「敵を愛し、あなた方を憎む者に・・・」という表現に変えていますように、これは22節を受け止めて言っているということです。「人々に憎まれるとき、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」つまりこれは宗教的な敵意、迫害です。ここで言う「敵」とは、あくまでも「人の子のために」、またイエス・キリストの言葉に従おうとする「あなた方」であるから憎み、敵視して来るという「敵」なのです。その迫害の中での敵を愛しなさいと言っているのです。

 これは重要なことです。人間としてのわたし自身に敵対している、わたし自身を憎んでいるという敵意と、わたしが信じている「人の子」イエス様、わたしが従おうとしている人の子キリストの御言葉の故にわたしに敵してくるということとは違うことなのです。こういう宗教上の敵に回っている人を「愛しなさい」とイエス様は言っているということです。ですから、そういう迫害者に対しては、先ず自分の方から敵を愛し、親切にし、祝福し、祈りなさい、と言っているのです。敵になっているという関係をわたしのほうから変えて、私の方から愛し、その者のために祈ることを始めるならば、やがていつか相手の中にも神様が働いてくださって変えられるそういう希望と約束を与えてくださっていると解釈することができます。

 ペトロの第一の手紙2章21節を読みますと、「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。さらに23節「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」ここにはっきりと書かれていますように、神様にすべてをお委ねになって耐えられたキリストの模範、これにわたしたちが従うということがここで求められていることなのです。

 そしてキリストの模範に倣ってその御足の跡に従うとしても、それが、ただ形の上でだけ行うというのではなく、22節で言われているように「人々に憎まれるとき、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には喜び踊りなさい」つまり心から喜んでそれをしなさいというのです。

 初代教会の人たちは、激しい迫害の中で神様の救いの出来事を人々に伝える活動をして行きました。たとえば使徒言行録の5章41節以下、ペトロをはじめ大勢の使徒たちがユダヤ教の最高法院に逮捕され、むち打たれ、『この名によって語ってはならない』とイエス・キリストの業を宣教することを禁止されても、それでもキリストを宣べ伝える。それでまた捕らえられては鞭打たれて、釈放されるということを繰り返していました。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」とあります。キリストの名のゆえに辱めを受け、ののしられ、憎まれるほどにわたしは価値ある者とされたという喜び、そういう心の満足、神様のものにされて、神様の愛に生きる者となった喜びがあって、敵を愛し、ののしりに耐えるそういう生き方であります。

 31節から36節は神の愛に生きることと、人間の自己愛との根本的な違いを明らかにしようとしたものです。ここに「罪人でも同じようなことをしている」と繰り返し言われていますことは、神への信仰あるなしにかかわらず、一般の人々でもそのくらいの礼儀やそのくらいのエチケットは守っております。愛されたら愛する。挨拶されたら挨拶を返す。そういうことは信仰あるなしとは関係なしに、外の世界でも守られていますよと言いまして、さらに、「どんな恵みがあろうか」と三回繰り返されます。そして、この文脈のなかの35節の「たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と言われている点に集約されて行く形になっています。つまり、世間一般のルールやエチケット慣習から行動するのではなくて、神様が喜んでくださる、喜んでくださってさらに恵みと祝福を与えてくださる。そういう神の愛に生きる信仰の歩みをしなさいと言いたいのです。

 誰でも生きる励みになる報いというものを欲しいと願っているというのが本音です。主イエスも人間のその願いはご存知であるということです。マタイ福音書では繰り返して、「そうすれば、隠れたことを見ておられる父があなたがたに報いてくださる」と明言なさっておられます。そういう神様からの報い、その中で重要なのは、神様が「あなたの父」となってくださる、わたしたちはその神様の「いと高き方の子となる」ということであります。

 新約聖書のヨハネの第一の手紙3章1節から3節を読みますと「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人はみな、御子が清いように、自分を清めます」とあります。

 私たちは既に神の子なのですけれども、さらにまことの神の独り子であられる御子イエス・キリストに似た者となっていくことを願って、「御子が清いように」わたしたちも「自分を清め」、父が憐れみ深いように、私たちも憐れみを表していく者でありたい。「いと高き方の子」と呼ばれることを光栄と思い、神の子らしく神の愛を生きて行きたいと願うのです。

お祈りいたします。

神様。わたしたちをあなたの子としてくださっておりますことを喜び感謝いたします。わたしたちがさらに神様の聖なる御性質と御子イエス・キリストの模範に従って、わたしたちがあなたの子として信仰の歩みを歩んで行く中で、わたしたちを変え、またわたしたちを清め、聖徒となることが出来ますようにわたしたちを導いてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン
   
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「神の祝福を喜んで受ける」ルカ6:17-26
2022.2.13  大宮 陸孝 牧師
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである」
(ルカによる福音書6章20-21節)
 マタイによる福音書には、「山上の説教」と呼ばれる主イエスの訓話が、五章から七章にかけて集められています。ルカによる福音書ではそれが短縮されて、本日の日課のところから、もう少し後まで続いて語られています。そのとらえ方は、マタイ福音書とはずいぶん異なっています。

 まず第一に、マタイではそこに集まって来たすべての人に向かって、イエスが語られた格好になっていて、内容はどちらかと言うと、かなり倫理的になっています。ところがルカ福音書では、主が弟子たちだけを集めて、信仰者の歩むべき道を、指し示しています。形の上でも大きく違っています。マタイの方は、九つの「祝福」(幸い)で始まっています。ところがルカは、四つの「祝福」(幸い)の後に、四つの「呪い」(不幸)になっています。つまり四つの「祝福」と四つの「呪い」を、対照的に述べています。

 ルカは、主イエスに従う者、つまり信仰の道を歩む者は、このように神の恵みに与っているのだから、たとえどのような状況にあっても、この神の祝福を選び、永遠の命に与るようにと主張しています。

 本日の日課のところで「幸い」と「不幸」と訳されているこの訳は、実は「祝福」と「呪い」という組み合わせで、たくさんの例が旧約聖書にあります。そしてその組み合わせを用いて、ルカが、イエスの言葉として、四つの「祝福」と四つの「呪い」を書いています。

 旧約聖書の中の一つの例は、イザヤ書3章10節〜11節です。これは、厳密に言えば、預言者イザヤが書いた箇所ではなくて、後世の人が付け加えた所とされています。(旧約聖書1065頁)「しかし言え。主に従う人は幸い、と」ここにも「幸い」と訳していますが、「祝福」です。「主に従う人は祝福。彼らは、自分の行いの実を食べることができる。」「主に逆らう悪人は災いだ。これは、呪いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。」このように、祝福と呪いとのとても厳しい対照が示されています。これがギリシャ語訳になった時に、この「祝福」は、「マカリオス」、「呪い」は「オーアイ」となりました。

 「マカリオス」(祝福)とは、いまそこにいるあなたが、「なんと神から祝福されていることでしょう」という意味です。それに対して、「オーアイ」(呪われる者)は、「より悪い」とか、「そっちはだめですよ」という意味です。ここで注意しなければならないことは、祝福を受ける人と、呪われる人とが二分されるのではなくて、私たち一人一人は、その両方を行き来しているということです。そして、全体として、誰もが祝福されるように招かれていると言うことです。ですから祝福を見落とさないようにという主張です。そういう観点から、この箇所を見ていく必要があろうかと思います。

 6章20節から23節までには、祝福されて、貧しい人々にとっては、神の国はあなた方のものであり、今飢えている人々にとっては、満たされるのであり、今泣いている人々にとっては、笑うようになると記されています。今を生きる歩みから、心を永遠に向けた時、つまり地上の水平面から、目を垂直(永遠)に向けた時、その人はそのままで、永遠の神からの豊かな祝福に包まれていることを発見するという意味です。

 主イエスはそこに集まっている一人一人、、特に主に従っている人々に対して、あなたは、いま永遠の神からなんと祝福されていることでしょうと語り始められたのです。今、主体的に、永遠の神の前に立つ時、そこに神からの祝福に満たされていることがまず主張されています。そうすると、その逆はどうなるのでしょう。それが24節から26節までに書かれているところです。もし、ここで地上の水平面だけを見て、今富んでいる、今満足している、いま笑っているとすれば、そこだけに集中して、永遠に眼を向けなくなっているので、残念ながら、その人たちは、祝福から離れ、より悪い状態になってしまうのです。

 この聖句を、まるで二種類の人間があるかのように理解する傾向があります。そこで富んでいるといけない。満足してはいけない。笑ってもいけないのだと理解してしまうのです。しかしそのようなことはありえないのです。私たちは、やはり貧しいよりは、富んでいる方がいいのです。戦後のあの困窮した状況と比べれば、今私たちはなんと豊かであるかと感じます。また、ほんとに飢えていた時もありました。今は、逆にあまりにも満足した形になってしまって、このごろでは、逆にダイエットが強調される時代になりました。ここには、そのような二種類の人間がいるのではなくて、私たちの人生の中では、富んでいる時もあれば、そうでない時もある。笑っている時もあるけれど、泣いている時もある、こういう組み合わせにして言っているのです。

 もし私たちが富み、満足し、笑っていると、目を永遠に向けなくなってしまいます。そのようにならないようにと言っています。私たちが眼を永遠に向ける時、そこでほんとに祝福されている次元を見いだすことができるのであって、この災いだと言われいることがらを排除することが信仰であるというのではないのです。

 キリスト教信仰は、人生を聖と俗に分断して収縮させていくというのではなくて、豊かにしていくものでなければなりません。それを証しするかのように、ルカはとても面白い言葉を用いています。21節「あなた方は満たされる」の「満たされる」は、「コルタゾー」というあまり用いられないめずらしいギリシャ語の動詞です。この語源は、「野原一面が緑に覆われる」です。イスラエルの荒野が一面に緑に覆われるということです。私たちがどのような状態になっても、そこが緑で満たされるように、神の恵みに満たされると言うのが、ルカの主張しようとしているところです。

 さて、ルカがこの祝福と呪いという形を、このように展開した元になっている聖句は、どこかと言いますと。その一つが「旧約聖書」申命記30章19節です。(旧約329頁)「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神主を愛し、み声を聞き、主につき従いなさい。それがまさしくあなたの命であり、あなたが長く生きて、・・・」ここで、この申命記の著者は、私たちの歩みの前には、いつも生と死、祝福と呪いがあると言うのです。でも、そこで私たちは、死ではなくて命、それも永遠のいのちを選ぶ必要があり、呪いではなくて、祝福を選ぶ必要があるのです。しかも死ではなく命をと言った時に、死んで終わる命ではなく、死を超えるいのちを選びなさい、「呪い」ではなくて、神からの「祝福」を選びなさい、ということになります。

 ここで、この「選ぶ」と言う動詞ですが、これはヘブライ語では、「バッハール」という語が原語です。これは「選び取る」とか、あるいは、「心を尽くして選び取る」という意味をもっています。この心を尽くして選び取ると言うことが私たちにとっては、大切な言葉となります。

 祝福されている人と呪われている人とが分けられているのではなくて、一人の人の前に、祝福と呪いがいつも置かれています。生と死とが、いつもおかれています。その中で私たちは、思いを馳せながら、何度も躓きながら、心を込めて死を超える命を選び、呪いではなくて祝福を選ぶことが大切なのです。ですから、心を込めて選び取るということは、どの時代にあってもまた、どういう状況にあっても、そしてそれは、牧師であろうが、信徒であろうが、日々必要なのです。経済の問題や健康の問題や生活上のあらゆる問題を見ても、今生きてここにいる命を大切にしなければなりません。しかし、その命は、いすれ死を迎えるのです。そして、だからこそ、死を超える永遠の命を、心を尽くして選び取らなければならないのです。

  教会も、そこに連なる私たちも、いままでこうして歴史を積み上げて来ました。それは、その時代、時代に、一人一人が心を込めて選び取って来た道でありますし、これからもそうなのです。ですから、私たちも、日々の生活、特に心の営みの中で、日々新しく心を尽くして、選び取ることが必要です。それぞれに生きる道に応じて、心を尽くして選び取っていくのです。永遠の命といっても決していつもと同じように理解することはできません。日ごとに、その度に、もう一度心を尽くして、死ではなくて永遠の命を、呪いではなくて祝福を選び取って行くのです。新しい命、新しい祝福を、心から選びつつ、力いっぱい信仰の道を歩んで行くことが求められています。

お祈りいたします。

父なる神さま。わたしたちは、あなたが私たちのためにお備えくださっております、神の国に向かって旅をしている者ですが、その旅の中で思いがけない浮き沈みがあり、また現に身の周りにいろいろな境遇の人々が人生の旅を進めております。

 そういう中にあって、主イエス・キリストの歩みに倣ってあなたの御前に歩む旅人であり得ますように、お導きください。心から悔い改めて、あなたの尊い永遠の命を目指して歩むことができますように導いてください。

キリスト・イエスの御名を通してお祈りいたします。    アーメン   
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「神の恵みに打ち砕かれる」ルカ5:1-11
2022.2.6  大宮 陸孝 牧師
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。(ルカによる福音書5章8節)
 先週に引き続いて、ルカ福音書5章1節から11節のところを学びます。5章1節から、いよいよ主イエスのガリラヤ伝道が始まり、9章50節まで続きます。このルカによる福音書に語られていることは、断片的に読んでいくだけでは捕えることができないところがあります。連続した読み方をして初めて理解できる面があります。

 先週読みました四章で主イエスは、故郷ナザレの会堂で、ご自分のことを、罪に囚われている人々の解放者であると宣言されました。そして、先週の日課の後の箇所で、故郷ナザレを去って大きな町カファルナウムに戻り、そこで悪霊にとりつかれた人の癒しをされました。これは広い意味で精神的な圧迫と苦しみとそれから来る障害に悩まされていたと見るべきでしょう。

 この精神的な障害は、いわゆる病気にととまらず、広くあらゆる精神的な苦しみ、人を捕えて苦しめている人間の現実を指していると思います。現代は昔のような迷信はありませんが、個人的、社会的、国家的、世界的に人間を苦しめ、捕えている多くの苦しみがあることには変わりありません。主イエスは言葉を通して悪霊を追い出されましたが、ここで確認をしておくべき重要なことは、神の言葉、言い換えると神の言葉そのものであるイエス・キリストの存在と出来事は、人を拘束する一切の悪から人間を解放する力を持っている方であるということです。この前提をもって5章に入っていきましょう。

 さて、それで本日の日課5章に入ります。ここにイエスの十二弟子の筆頭ペトロの召命が記されています。大体イエスが弟子を選ばれるとき決まってすぐに一切を捨てて従って来るという風に書かれています。しかしこれを私たち現代人の感覚で捉えると誤解しやすいのではないかと思われます。決して、彼らはイエスの奇跡を見て驚いて、あるいはそれに引きつけられるようにイエスに従ったのではないということです。

 まず1節でありますが、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」と書かれていますが、ゲネサレトは地名です。「ゲネサレ」とも言われています。現在は「ゲノッサ」と言いまして、そこでキブツの人たちが生活をしていますが、イエスの時代から、ここは美しい町でした。そこにある湖ということで、ゲネサレト湖と言っていますが、言うまでもなくこれは、ガリラヤ湖のことです。

 そして、そのガリラヤ湖畔で「イエスは二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」とあります。シモンというのはペトロのことです。たくさんの人々が熱狂してイエスのところにやって来て、わいわい言っているのに、この二そうの小舟の漁師、シモン・ペトロとアンデレ、それからヨハネというような数人の人たちは、舟の側で一所懸命に生業のために働いているわけです。ここでは、イエスに従って行こうなどとは思ってもいませんし、イエスには見向きもしていないのです。いささかペトロは、自分の姑の病気を癒してもらったということがありますから、この人物には恩義を感じていますけれども、その程度のことであって、それ以上何か熱狂的になるというようなこともないという状況で、この物語は描かれているのです。

 しかしあんまりたくさんの人が集まって来たので、イエスは自分の立っている場所が岸にはなくなった、しょうがないからペトロに頼んで、そしてペトロも恩義を感じていましたから、イエスがおっしゃるように、舟に乗せて少し湖の沖まで行き、声が届くぐらいの距離に離れて、そしてイエスはペトロの舟からお話になります。

 そのペトロの舟の上でイエスがお話になった話が、いかに感動的であってペトロが感激したか、だからペトロが従って行った、これなら話としては分かります。ところが、「イエスは群衆に教え始められた」とはいうのですが、その肝心の話の内容が書いていないのです。

 これはつまり、イエスが話した事なんてペトロの記憶には全く残らなかった。何も感動はなかったということと推測されます。その後に続いて起こったことがどういうことかと言いますと、魚がいっぱい捕れたということです。ペトロがイエスの話に感動してついて行ったわけではなくて、魚がいっぱい獲れたからついて行ったと言いたいわけでもないでしょう。イエスがどんな話をなさったかを、聖書では知ることもできませんし、イエスがどんな見事な奇跡をやってのけたか、そんな話はちっとも私たちの心にも響くものでもありません。

 このような出来事の過程の中で、ペトロが体験したものは何であったのか。イエスという人がやって来て、みんながそのイエスの周りに集まっているのに、暇な連中がいるものだというふうに少し白けた気持ちでいるペトロ。網をおろしてごらんと言われた時には、その白けが頂点に達します。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした」「お言葉ですけれど、私たちは夜通し働いたのだ。私たちは魚取りのプロです。魚のことは、少なくともほかの人たちよりはよく知っている。これで生業を立てているんですから。けれども、あなたがそう言われるんだったらまあ一つやってみましょうか。姑の熱を癒してくれた恩義もありますから。」とこんな具合だったのでしょう。「どうせ、獲やしない、やっても無駄でしょうが」という思いもあるのでしょう。ペトロは、その悲しいことをイエスの前でやって見せようとするわけです。ところが、魚が捕れたということです。魚が獲れても捕れなくてもどうってことはないのです。しかし、その間にペトロの心の中に何か非常に大きな変化が起こったのです。その変化というのは、どういうことなんだろうか。これはペトロが網を入れた瞬間に何か閃いて変化が起こったということではないと思います。この物語の中には、ペトロという人が、イエスと付かず離れずの関係の中で、イエスという人と出会う度ごとに、彼の心の中に、強く彼の心を打つような変化があった。それがこの物語の中に象徴的に凝縮して、エピソードとして語られているのだということではないかと思います。

 それはどういうことかと言いますと、ペトロは、魚を獲るくらいのことは自分はよく知っている、魚のことは俺に任せろ、というような気持ちを持っている。あるいはもう少し言いますと、これは聖書の背後にある物語ですけれども、シモン・ペトロという人は、単なる漁師ではありません。ペトロは漁師でしたから無学文盲の人物だ、とよく誇張した言い方をされますけれども、ペトロという人はそんな人ではなかったようです。彼自身はユダヤの政治問題に首を突っ込んで、イエスの時代にガリラヤ地方で横行しておりました熱心党という、今で言う左翼運動のようなものに少し染まっているような人物です。ですから、多少知的なエリートの面を持っています。その彼がイエスとの接触の中で、自分の中に懲り固まっている自分に対する確信、あるいは自分の持っている思想、あるいは「魚のことくらいは俺は知っている」といったプロとしてのプライド、そういうものがぶち壊されていくような経験をしたのだろうと思うのです。私たちも、大なり小なり何らかのプライドを持っております。何らかのプロ意識をもっております。それを、いろいろな人たちから時々ガツンとやられるとプロ意識が強く出てきまして、自分を抑えるのに苦労します。そういうことは、皆さんそれぞれにおありだろうと思います。私には私なりのプライドがあると。

 ここで私は聖書の言葉をプロとして語る者にとっては、「聖書のことは聖書に聞け」という謙虚さが本当にないといけないのだと、教えられたように思います。ペトロがイエスに出会った時に経験したのはそれです。ですから、魚が獲れようが獲れまいが構わないのです。イエスが何か奇術でも使って魚が獲れたのかもしれない。そういうことにしても構わない。大事なことは、ここでペトロの中にわだかまっていたものが一挙にぶち壊された、そういう経験をしたということです。その時に彼には、イエスに従うということが必然的に起こってしまったのです。「聖書のことは聖書に聞け」という言葉、それが本当に分かった人は、神の御言葉を本当に大切にして愛するようになる。聖書の言葉に傾聴することができるようになるというのです。これがペトロの心の中に起こったことです。

 私たちは、自ら罪人である事を認め、主の前に己を虚しくして主の憐れみを請うという姿勢が求められているのです。それこそが、主イエスが繰り返して人々に教えられた神の言葉の力であろうと思います。人を神の恵みのもとに謙虚な者とするということです。主イエスが対決なされたファリサイ人の過ちは、その謙虚さを知らないで、自らの信奉しているところの独善によって、自分を義とし、イエスを断罪し、十字架につけたということです。

 それに対して主イエスは、放蕩もせず忠実に父親に仕えた息子よりも、むしろ身を持ち崩して、もう息子と呼ばれる資格はないと、うちしおれて帰って来た息子を歓迎して迎えたたとえ話を通して、あるいはまた、罪人ザアカイに対する愛によって、あるいは目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら罪人である私をお許しくださいと祈った取税人の例を通して、人間の高慢という悪しき性を正そうとされました。
 イエス御自身が、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」と言われているのです。(フィリピ2:6 新約263頁)

 サタンの働きというのは、人間を高慢にし、自己を絶対化し、自分の考えや狭い立場に同意同化しない者を断罪し、人をも世をも滅ぼす仕方で、この世でイエス様が示される豊かな神の恵みの前に関所を設けて、それを阻止する力です。大切なことは、他者の考え方を断罪することで自分を正当化するのではなく、自らの罪を謙虚に認めて、神の前で小さくされ、神の赦し、恵みの御業に自らを委ねる、そのような謙虚さであると思います。ペトロは自分が砕かれる経験をして、イエスの前に跪いて「主よ、私から離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。その時に主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われます。

 このペトロの弟子召命の記事の背後には旧約聖書イザヤ書6章のイザヤの預言者としての召命の出来事があるように思われます。イザヤは聖なる神に出会った時に、自分の深い罪に気付かされます。イザヤ書6章5節には次のように記されています。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかもわたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」この時イザヤはこの世の者とは全く区別された。聖なるお方に出会って、自分の汚れに気付かされたのです。罪を自覚するというのは大変深い宗教体験です。イザヤはその深い宗教体験をしたのです。「わたしは滅ぼされる」と言っています。自分の汚れに気付かされて、もう生きていけない、死ぬしかないと思ったのです。しかし、神は、自分の罪を告白するならば、その罪を赦されるのです。赦しのもとに生かしてくださるのです。そしてその罪人を神のご用に用いられるのです。神の前に汚れたものであり、ふさわしくない者であるにもかかわらず用いたもうのです。

 この出来事はペトロにとっておそらく生涯忘れることのできない体験であったはずです。罪人で何の役にも立たないような者である、ということを自覚したペトロが、主イエスの福音を人々に伝える役割を負わされたという感動が、ペトロのそれから後生涯に亘る忘れることのできない出来事としてこのガリラヤ湖の光景を思い浮かべたことだろうと想像します。福音とは何か、この自分が打ち砕かれて、主イエスが与えてくださった神の赦しと愛の恵みを豊かに受け取って、それを自分の喜びとし、またその喜びを他者と共に分かち合うことです。神様はペトロのみならずわたしたち一人一人をもそのような神の愛の奉仕者として働くことへと招いておられるのです。わたしたちがふさわしいからではありません。ふさわしくない者を、神はあえて召し、神ご自身がわたしたちを、奉仕する愛に生きる者としてくださる。愛の力を与えてくださるのです。その神の愛の力によって、罪を許してくださった神のご用に立ちたいと思います。

お祈りいたします。

父なる神さま。あなたは主イエスキリストのお言葉を通して親しく私たちに語りかけてくださり、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と、力ある言葉をもってわたしたちに保証していてくださいますので心から感謝を申し上げます。

 この恵み深い主イエスの御言葉に応えて、わたしたちも「すべてを捨ててイエスに従う」ことができますように、献身の志を新たにし、わたしたちの信仰と生活の姿勢をもう一度、きっぱりとイエス・キリストに従う歩みへと整えてくださいますようにお願いいたします。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン

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