本文へスキップ

1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

賀茂川教会タイトルロゴ  聖壇クロスの写真

2022年3月礼拝説教


★2022.3.27 「祝福に至る道」ルカ15:11-32
★2022.3.20 「恵みの主に立ち帰る」ルカ13:1-9
★2022.3.13 「止むことのない神の呼び声」ルカ13:31-35
★2022.3.6「人生の三つの試練」ルカ4:1-13

「祝福に至る道」ルカ15:11-32
2022.3.27  大宮 陸孝 牧師
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカによる福音書15章20節)
 本日わたしたちに与えられている御言葉は、主イエスがなさった有名なたとえ話「帰って来た放蕩息子」であります。この息子について「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言う言葉が24節と32節に二度繰り返されていまして、物語の全体を貫く主題のように響いています。つまり、これは、人生の破滅の危機をくぐり抜けて、再起・再生をした人間の物語です。

 この物語のはじめに、一人の若者が自分の人生をだめにした姿が描き出されています。若い時に父親の財産を奪い取るようにして手に入れた青年が、遠い国へと旅に出て、誰からも監視されたり、意見を言われたり、忠告されたり、引き止められたりすることなく、自分の欲望の促すままに放蕩三昧の生活を送り、気がついて見ると、再起不能のどん底生活に陥っていたという姿が書かれています。このたとえを読んでいてたいていの人の心に最初に浮かんで来る印象は、この青年自身が無計画で自制心のない人間、未熟者であるという感じを受けると同時に、父親の甘さが気になって、世の中で通用しない話という印象であろうと思います。この時代に限らず、特に古代においては、父親が生きている間に財産を相続させるということはめったになかったと言われています。この話はイエスさまの時代においても、この世離れした印象を与えたのではないかと思います。末息子が日頃からルーズなことは、父親にも分かっていたはずであります。それを何の忠告もしないで息子の言いなりになって財産を分け与え、息子が出奔(しゅっぽん)するのを黙ってそのままにしている。普通の父親ならこんなことをするはずがないと思います。

 しかし、これはたとえであり、異常なほどに甘い父親の姿を通して、神が人間に自由を与えておられることを印象深く描き出しているのです。聖書には、神が人間を未成年の状態に縛りつけてコントロールするというのではなくて、人間の自由を励まし、実現させようとしている姿がしばしば描き出されています。創世記の冒頭でも、神さまはアダムとエヴァに対してエデンの園のすべての実を食べることを許すと同時に、園の中央にある善悪を知る木の実を食べるなと命じられて、その命令に従うかどうかということを、アダムの自由意志に任せられることが書かれております。結果的にはそれによってアダムとエヴァは蛇の誘惑に負けて、禁じられた木の実を食べ、エデンの園から追われることになります。(創世記3章)放蕩息子の場合でも、父親が息子の言いなりになったばかりに、結果的には息子の人生をだめにした一面があるけれども、それほどまでに神は人間を信頼し、自分自身の意思と行動において真実をわきまえ、神さまの御心に生きることを期待しておられるということが強調されているのです。

 こういう状態から自立しようとしますと、その自由を踏み外して欲望のとりこになってしまって身の破滅を引き起こすことが起こり得ます。自由にはそのようなリスク、危険が伴うのです。神さまは人間を奴隷のように縛りつけておくのではなくて、自立した人間として造り、これに自由をお与えくださった。神は人間を呼べば答える、人格的なものとして、自分の前にお立てになり、人間に神さまの呼びかけに答えることを願われて、そのような自立した主体的な人間として尊び愛するが故に、自由を与え、ある場合にはそれに伴うリスクも覚悟されるのです。これは人間にとっては自分自身の自由をどのように用いて行くかを主体的に判断し決断していくことのリスクであると同時に、神さまにとっても賭けであったということができるでしょう。ヨブ記でサタンが忠実なヨブを誘惑しようということを申し出た時に、神さまはヨブを信じるが故に、ヨブがそのような試練に打ち勝つと信じて、あえて彼をサタンの手に渡します。神さまはわたしたちを奴隷としてではなくて、神の恵みに自由にこたえて自分の足で立つ者として歩ませてくださり、神さまご自身がわたしたちの歩みに賭けをなさっているのです。

 そして、この放蕩息子のたとえでは、神さまのそのような賭けが裏目に出て、人間が与えられた自由を乱用し、破滅の道へ転落して行く姿が、放蕩息子の没落という姿で表されています。「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人の所に身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるイナゴ豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」(14〜16節)。この地方に住むある人というのはおそらくかつて彼が羽振りのよかった時に、湯水のように金を使って楽しんでいるときにその仲間になり、彼の金で遊び興じた一人だろうと思われます。しかし、放蕩息子が落ちぶれた身を彼の所に寄せました時、かつての友人は彼をさげすんで、友人としてではなく奉公人として豚飼いをさせました。豚というのはユダヤ人にとって汚れた動物で、絶体に食べないものであり、ユダヤ人が一番身を避けるものであった。それをユダヤ人に飼わせるというのは、人間扱いをしてもらえなかったという姿であります。神さまはわたしたちを信頼をもって自由な者として立たせてくださっているけれども、それにはリスクが伴い、ある場合には取り返しのつかない代価を払うものだということがここに出ています。

 そのような悲惨と屈辱の中で、「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と』。そして、彼はそこをたち、父のもとに行った」(17〜20節)。ここで彼は、悲惨と屈辱の中で我に返った。自分を取り戻したと書かれています。それは自分には返るべきところがある、再出発する場所があるという発見をしたことが描き出されているのです。彼が再出発の場所として心に描いたのは父の家です。自分自身の中にまだやり直す力が残っているということではなくて、誰からも受け入れられない孤独な自分、放り出された自分を受け入れ、迎え入れ、再出発させてくれる父の家があることに彼は気がついたというのです。そのような発見から、かつては父の家、父の財産はことごとく自分のものであるのが当たり前のように思っていた青年が、現実の過酷さの中でそれは恵みだったと言うことに気がついて、もはや恵みを当然のことと考えるのではなくて、値なき自分をも息子として育ててくれた、そのふるさとへ帰ろうとするのであります。

 「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。父の家がやっと見えて来た時、恐らく息子の心には懐かしい故郷に帰って来たという喜びがわき上がったでしょう。ところが、その息子の目がまだ彼方の父の家に注がれていた時に、時を同じくして父の家では、はるか彼方に点のように見える息子の姿を見つけて走り出した人物がいました。年老いた父親です。家に向かって来る小さな点のような人物がようやく視野に入ってきたときに、ただちにそれに気がついていたということは、彼が絶えずこの道の彼方に目をやって待っていたということです。父親は息子の出奔(しゅっぽん)以来、しばしば家の外に出て、いつか息子が帰って来ることを信じて待ち続け、道の彼方に目を凝らしていました。それだからこそ息子の姿が浮かんで来た時に、まだ遠く離れていたのに息子の姿を見つけて走り出したのです。「息子を見つけて憐れに思い」とありますが、「憐れに思う」というギリシャ語はスプラグクナですが、これは、「はらわた」、内臓を意味する言葉です。息子の姿を目にした時に、腹の底から愛しさ、憐れみの心が沸き上がり、燃え上がって、老いた父親がじっとしていられないで走り出している姿が描かれています。このような父の憐れみが放蕩息子の再出発の原動力となったのです。

 この父の姿の中に、父なる神がイエス・キリストをこの世に遣わしたことの意味が深く出ているのです。つまりこの物語では息子が出奔(しゅっぽん)して遠い国に行った時に、父親がそこまで出て行かないで、息子が帰って来るまで、姿が認められるまで父親は待っています。しかし、現実の父なる神が人間になさったことは、人間が罪のゆえに神から離れてさまよい出て、故郷へ帰る道を失って孤立し、罪の奴隷状態にあるところへ、父なる神が自ら駆け寄るように近づくのです。神がイエス・キリストをこの世に遣わしたということは、人間が神のもとに立ち帰ってくるのをお待ちにならないで、むしろわたしたちの現実の罪の破れや問題のただ中にあって傷ついたり倒れたり、神に背を向け、その結果神との交わりを断ち切られ、生きる希望もなくしているような、失われた人間の方に、神ご自身の方から来てくださることを意味しています。そのような神の憐れみのもとに、独りでは再出発できない者の所に神が来られて共に歩んでくださることによって、再出発が可能となるのです。人生はこれで失われてしまって再起不能というのではなく、この神の憐れみのあるところ、人間は再生のチャンスが与えられていることをこの物語は語っているのです。

 さて、それで、主イエスがこのたとえを語られるきっかけとなった所に戻ってみましょう。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスのもとに徴税人や罪人という社会の中で排斥されている人間が受け入れられているのを見て非難したことでありました。社会に不満を抱き、背を向け、社会のルール違反を犯しているような、排斥されて当然な人間を中心に置いたイエスの態度は、神を恐れぬ不満分子に媚びることだとする人々の批判に対するイエスの答えでありました。自分が社会の中心にいるかのようにして、徴税人や罪人と呼ばれる律法違反者に猜疑の目で差別しようとする人々にイエスは語りかけているのです。

 それがこの兄弟の兄の言い分に対する答えであるのです。ここに描き出されている兄の姿は、父親と寝食を共にして、父親から離れたことのない、放蕩と反対の従順な息子の姿です。にもかかわらず、その心において遠く離れている人間の姿が描き出されています。つまり神との関係において、ファリサイ派の人々とか律法学者は自分は神の家にいるという自負をもって生きているのですけれども、神さまがどのような心をもって自分に触れ、家を管理しているかについての父の心を思う心がないということです。そのような、父の側におりながら、心においては遠く離れている兄に向かって、父親は子よと呼びかけておられます。この「子よ」という言葉は、ただ息子というよりも、大変親しい呼びかけだと言われます。そして自分の隣人、弟が死んでいたのに生き返り、失われていたのに発見され、再生の機会が与えられたのを共に喜ぶ人間になれと招いておられるのです。この物語は招きの言葉で終わっており、それに対して兄がどう答えたかは書いてありません。この兄の姿は、わたしたち自分自身の思い当たる姿であります。つまり、これはわたしたちに対して呼びかけ、わたしたちがその呼びかけに答えるのを持っておられるということであると思います。わたしたち自身の生活を振り返って、放蕩息子に与えられた神の恵みを心にとめると同時に、その父の子としてその恵みに答えて生きていくように神はわたしたちを促しておられるのですから、父なる神が走り寄ってわたしたちの人生を共に生き、歩んでくださる恵みを喜び感謝しながら、わたしたちも主と共に歩み出して行きたいと思います。それがわたしたちの至上の祝福となるでしょう。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたのものでありながら、あなたから迷い出、あなたを忘れ、あなたなしで生きて参りましたわたしたち失われた者を、あなたは取り戻してくださり、連れ帰ってくださり、そしてそれを何よりもあなたご自身の喜びとしていてくださいます。

 どうか、そのようなあなたの喜びの的とされておりますわたしたちが、自分自身を大切にして、与えられた信仰の道を大事に歩んで行くことができますように、あなたの恵みと愛の力によって導いてください。

 キリストイエスの御名によってお祈りいたします。  アーメン

◆ページの先頭へ

「恵みの主に立ち帰る」ルカ13:1-9
2022.3.20  大宮 陸孝 牧師
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。(ルカによる福音書13章34節)
  ルカによる福音書13章1節から17節のところは、他の福音書には書かれていないルカ独特のまとまりになっているところです。主題は「悔い改め」です。日本語で言う「悔い改める」という言葉には、どうしても解釈と説明が必要です。聖書の原文は、「メタノイア」というギリシャ語です。「心を入れ替える」とか「方向を変える」という意味です。そこから日本語は「悔い改める」と訳していますが、しかし、この語源は本来戻ると言う意味です。「メタノイア」は、ヘブライ語の「ショーブ」の訳語です。このショーブも日本語の聖書では「悔い改める」と訳していますが、本来は「立ち帰る」、「戻る」という語源です。「旧約聖書」には、この「ショーブ」という字が千回以上も使われていますので、「立ち帰る」と言う字がいかに重要視されているかがよく分かります。それは、「あなたの中の本来の命に立ち帰る」という意味だからです.。

 さてそれで、13章の1節〜9節の本日の日課でありますが、これは、1節から5節までと6節〜9節までとは、はっきりと強調する点が違っている二つの記事であるように思われます。前半は、最後の決着が着く終末への「途中」である「今の時」、この今の時になすべきことは、「立ち帰る」ことだということが教えられています。それに対して、6節から9節までのたとえ話が訴えていることは、「今の時」というのは、神様の側での執り成し、忍耐、恵みの時、待たれている時であることを強く訴えて、それだから立ち帰るということを促すというそういった違った強調点で語られているように思われます。ルカ12章の終わりの部分から続いている一つの主題があります。それは「今」という時のしるしを見出しなさい、それは終わりの裁きに至る「途中」の今であり、ですから「あなたがたも」今という時に「立ち帰らなければ、滅びる」といわれています。「あなたがた」つまりイエスの御教えを聞く一人一人、この聖書を読む読者の一人一人が、ここで「いちじくの木」にたとえられているのだと、そのように読むことが出来ますし、そのように読むべきであろうと思います。

 さてこのたとえの7節に「主人」が、園丁にもう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない≠ニ言いました「三年」を、選民イスラエルに神様が救い主イエス・キリストを遣わして、実を探しに来られた期間が「三年」、つまり、イエス・キリストの地上のお働きの期間がざっと三年なのだと、こういうふうに解釈する人々もおりました。伝統的になんとなく、イエス・キリストが洗礼を受けて救い主の名乗りを上げてから十字架におつきなるまで、およそ三年≠ニ言われているのはこのためなのですが、これは全くの余談でありまして、本質的な意味がこの解釈に込められているわけではないと私は思います。

 主人が、「だから切り倒せ」と言いましたのを受けて、8節〜9節に園丁は答えます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください」。直訳的に言い直しますと、「今年もいちじくの木を「ゆるしてください」。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もし、それでもだめなら、切り倒してください」

 そのころの時代の人で、ローマのプリニウスという有名な人が、膨大な「博物誌」と呼ばれる本を著しています。そのプリニウスの「博物誌」の中に、葡萄の栽培について長々と書かれていて、ぶどう園にはどういう木ならば植えるのがよろしいか、書いてあって、その木の中にちゃんといちじくの木が一つ出ているのです。

 その中に葡萄やいちじくの栽培の仕方が細かく記されていて、もし残念ながらだんだん実がならなくなってきた時にはどうやって再生させるかということも記されています。その中に「木の周りを掘り」、「肥やしをやり」という、全くこの園丁が言っている通りの手順が出てくるのです。この園丁がやろうとしておりますことは、当時の農業の技術、知識から言いまして、手を尽くしてやるべきことを全部やると言っているということです。

 これは、旧約聖書では有名なイザヤ書5章にありますぶどう園の歌≠思わせるものであります。イザヤ書5章1節からお読み致します。(旧約1067頁)「わたし─預言者は歌おう、わたしの愛するもの─ヤハウエのために、そのぶどう畑の愛の歌を」と、こうイザヤは、ヤハウエの「ぶどう畑の愛の歌」を歌い出します。「わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(2節)。3節から、そのヤハウエが「わたし」と語りだします。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ、わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか」(4節)。まさに本日の園丁も同じことを主張しているのです。「わたしがなすべきことで、しなかったことがまだあるというのか」。もう何もない。なすべきことは全部やった。そのようにして「来年」の実りを待ちましょう。こういう執り成しをしているのです。

 これはたとえ話なのですが、このようにして執り成されるいちじくの木の側から言いますと、自分に向かって来る御主人様の方に、「主人」と「園丁」と、たとえ話ですから二手に分かれていますけれども、でも、とにかく自分に向って期待している側に、二つの違った態度が分裂して出て来ているのです。一つは、実が成らないなら「切り倒せ」、場所ふさぎだという裁きの声であります。それにたいして、いやあ、もうちょっと「彼をゆるしてやってください」というもう一つの声があります。

 この背景となっている旧約聖書の中のヤハウエの神様には、二つの面があることが書かれています。罪を罰せずにはおれないという正しさと、イスラエルを救いたい、許そうと、恵みを与えたくて、イスラエルが立ち帰って来るのを待っておられるという面と、二つながらあるのです。この二面が、本日のたとえ話では、「葡萄園の主人」と「園丁」と、この二人にきちんと区別されて登場しているということになります。

 そして、このたとえは、ぶどう園にイチジクの木が植えられていることを語っています。しかもイチジクの木は、たまたまそこにあったのではなく、ぶどう園にある日、イチジクの木が植えられたのです。そのことによってイエスは何を考えておられたのかは明らかであると思います。このイチジクのたとえは、つまり、イエス・キリストの教会、新約の教会を表しているということです。そして、教会は、この「園丁」が神の御子、主イエス・キリストという方だと読んで来たのです。

 ルカ福音書の後の方になりますと、最後の晩餐の場面が出て来ますが、ルカ福音書の22章31節、イエスさまはペトロに言われます。「シモン、シモン、サタンはあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。このように執り成される主イエス・キリスト、このかたこそ「園丁」にほかならない。どうぞ「今年も彼を許してください」、その「周りを掘り」、「肥やしをやり」、なすべきことをすべてしてやったなら、「来年は実がなるかもしれません」。

 このようにして、本日の御言葉は、今が「途上」だから急いで立ち帰れというただそれだけではなく、今は許されている。神が忍耐して待っておられる。救い主イエスがわたしたちの救いのために熱心に執り成しておられる時なのだ、憐れみと恵みをもって待たれている時なのだ、だから立ち帰りなさい、というもっとわたしたちの内実を持って神の命に繋がることをわたしたちに求めておられるのだということです。

 執り成しという同じ言葉をヨハネ福音書では弁護者と訳されております。ヨハネ福音書15章26節では、その「弁護者なる聖霊が、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはず」だといわれます。聖霊が父なる神の御心に従ってわたしたちを今も執り成していてくださるのです。「木の周りを掘って、肥やしをやりましょう」、実を結べるような養分、肥やし、それを更に注ぐという聖霊の豊かな恵みの執り成しの働きを示そうとしているたとえなのだと受け止めることができます。

 神様が最後の審判があるとか、切り倒せとか、あるいは、そういう時が来るとか言われているのは、「今忍耐して恵み深く待っていてくださる」ということであり、「今の時」というのは、三位一体の神の働きの中で執り成しが繰り返され、何とかしてわたしたちに「実」を結ばせてくださろうと、霊の力でわたしたちを新しくしようと働きかけていてくださる時なのです。考えて見ますと、わたしたちの命は、必ず終わりを迎えます。また、生きている間にも、病気、災害、事故ということも、しばしば起こります。しかし今必要なことは、どのような時にも、自分の内側に生き生きと息づいている永遠の命に立ち帰ることだとルカはわたしたちに告げているのです。この今の恵みの時に感謝と喜びをもって、恵みの神に立ち帰りましょう。

 お祈りいたします。

 神様。あなたは人とすべての生き物をつくってこの地上に棲まわせ、今もよしとされ、祝福されるべきものとして生かしてくださいますことを感謝申し上げます。あなたは深い憐れみをかけ、また執り成しをし、養分を与えて、わたしたちそれぞれを、実を結ぶようにと待っていてくださいます。どうか、わたしたちが、今という時に、それぞれの成果のある、実りのある人生を生きる者となれますように、悔い改め、神様に立ち帰り、神様から生き生きとした命と養分とをいただける関係に立ち帰らせてください。

主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。  アーメン。

◆ページの先頭へ

「止むことのない神の呼び声」ルカ13:31-35
2022.3.13  大宮 陸孝 牧師
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。(ルカによる福音書13章34節)
 本日のルカ福音書の日課は13章31節以下でありますが、この日課の少し前の22節を読みますと、「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」と書いてあります。北のガリラヤ地方から南のユダヤ地方、ローマのポンテオ・ピラト総督が直轄統治しておりますユダヤ地方にあります都「エルサレムへ向かって」旅をしておられるその途上での出来事が書かれているのが本日の日課であります。イエスが何故「エルサレム」へ向かって旅をしているのか、その意味を明らかにしているのが本日の日課の所です。

 短い日課ですが、ここには複数の事柄が絡み合うようにして出てきていて、大きく分けて、ファリサイ派の人々のイエスへの進言と主イエスの返答(31〜33節)、ガリラヤ地方の領主ヘロデと、そこから出て旅をするイエスとの間の間接的なやりとりで、これはルカだけが伝えている逸話です。そして、これを枕にして、後半は旅の目標である「エルサレム」への嘆きの呼びかけをするイエスの御言葉(34〜35節)と二つが合わされている。そこに神の激しい愛のみ思いがほとばしるように表現されています。

 31節「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」。福音書に出てくるファリサイ派はいつもいつもイエスに敵対的でありました。この人物もやはり「ヘロデ」と同じように、イエスなどはこのガリラヤ領から「立ち去って」欲しいと、追い出そうとしているのです。イエス様御自身も、「行ってあの狐に」こう「伝えろ」と、このファリサイ人にいっていますから、ファリサイ派の人とヘロデとは結局のところは仲間であると見ておられるということです。ルカによれば、ヘロデもファリサイ派の人もやっぱり最終的には、「聖なる神の僕イエス」に対する反対者なのだということです。

 32節〜33節はイエスの答えです。「イエスは言われた。『行ってあの狐に、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も、明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ』」

 今日も明日も「悪霊を追い出し、病気をいやし」という二つのことが語られていますが、これに、既に22節で言われています「町や村を巡って教えながら」という「教え」を加えますと、「教えること」「悪霊を追い出すこと」「病気を癒やすこと」この三つがイエス様の公の働きを表す代表的なものと言うことができます。

 このイエスのお仕事を「今日も明日も」続けて、そして「三日目にすべてを終える」ということはまだしばらく続けるが、でも間もなく終わるという意味でもあります。殺すぞと脅しをかけたり、立ち去れなどということはない。間もなくわたしのなすべきことは完遂されると言われているのです。

 33節に「だが」という強い打ち消しの接続詞が入っていますが、これは、31節でファリサイ派から言われたこと、「立ち去った」方がいいとか、「ヘロデが殺そうとしている」とかいうことに対する打ち消しで、わたしはガリラヤ領から南のユダヤ領、しかも「エルサレムへ」と進んで行くけれども、それは決して、ファリサイ派が「立ち去れ」と言ったから怖くて立ち去るのでもないし、「ヘロデが殺そうとしている」から恐れて逃げるのでもない。そうではなくて、イエスの側に、「エルサレム」に行かなければならない積極的な理由があるのだということを明らかにしているということです。ここで分かりますように、33節で言う「今日も明日も、その次の日も」というのは、32節で言っている「今日も明日も」、そして「三日目にというのと同じ意味です。つまりこの期間にも「自分の道を進まねばならない」つまり「教え、悪霊を追い出し、病気を癒やす」というイエスの働きを進めなければならない、その具体的な歩みが「エルサレム」への旅であり、進み続けるのだ。なぜ、「エルサレム」まで進まなければならないのかという理由は、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」というのです。

 預言者がエルサレムで殉教を遂げた事例はいくつもあります。(歴代史下24・21、エレミヤ26・23)しかし、エルサレム以外の場所で殉教した預言者もいます。ここでは、神から遣わされた預言者を殺す神の民の罪、これは都エルサレムに集約される。都エルサレムは、神の民全体の代表としてその責めを負うという意味で、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」と言っているのです。このようにしてイエスは、そういう「エルサレム」へと一路進んで行かれるのですが、それはわたしの「進まなければならない」必然があってのことであって、ヘロデの意図がどうであろうと、イエスは御自分のお働きを進めていって、「三日後にはすべてを終える」と言われるクライマックスに「エルサレム」で迎える「死」をはっきりと自覚しておられるということなのです。

 このやりとりの後に、旅の目標であります「エルサレム」に対するイエスの嘆きの言葉が34節から記されます。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。

 「預言者」を「遣わされた人々」と言い換えて、ただ「殺す」といって、それを「石で撃ち殺す」と言い換えています。この「石打ちの死刑」というのは、神でないもの、偶像崇拝に誘惑する罪、あるいは安息日を汚す罪、ヤハウエという神の名を冒涜する罪、こういう様々な重大で明白な神冒涜罪に適用された処罰でした。ですから、「神から遣わされた」「預言者」をこともあろうに石打ちの刑で殺すということは、皮肉なことに真っ向から神の権威を冒涜する反逆罪となることを意味します。

 そのようにして神に反逆する者を「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われているのです。この「集めようとしたことか」と訳してあります文章は、「集めることを願ったか」という表現なのです。「何度」という表現は、「集める」ではなくて、「願ったか」にかかるのです。「お前の子らを集めることを何度願ったか」という文章なのです。
 ガリラヤから始まってエルサレムへ向かうイエスの宣教の働きと旅の中で、何度も何度もエルサレムの町が本当に神に立ち返るのを願ってきたことかと言っているのです。そのイエスの願いに対して「だが、お前たちは応じようとしなかった」。「お前たちは願わなかった」。そこで35節「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときが来るまで、決してわたしを見ることがない」と、エルサレムの神殿も、町の人々も見捨てられるというのです。

 エルサレムの町の人々が「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときが来るまで、決してわたしを見ることがない」この主の名によって来られる方に、祝福あれ」ということばは、詩編118篇26節の仮庵祭に歌われる詩編です。これは、神殿に巡礼をして参ります者を、神殿の内側におります祭司が迎え入れるにあたって、"祝福あれ、主の名によってくる人たち、わたしたちは主の家からあなたたちを祝福します"そう言って迎え入れる言葉です。

 本来そのように都詣での歌として使われていたのですが、時が経つにつれて、この「主の御名によって来る人」というのは、一種のメシア的な、将来訪れる人物を指す言葉となって行きました。獄中のバプテスマのヨハネから二人の使者がイエスのもとに来て、「来たるべき方は、あなたなのですか」という問いをしたことがルカ7章19節にありますが、あの「来たるべき方」、それがこの言葉です。

 「お前たち」がわたしをこう言って迎えるまでは、「わたしを見ることがない」と言われるその真意は何だろう、何を言っておられるのだろう。これにはいろいろな解釈があります。どれを採ってもそれなりに話が通じるのですが、これは、エルサレムの人々が、イエス様が再臨なさる時に、再臨して来られるイエスを「主の名によって来られる方」と認め、そして降って来られるのを「祝福あれ」と言って喜んで迎え入れるならば救われると言っていると受け止めることが出来ます。今でこそ、イエスを殺すエルサレムの人々だけれども、イエスが再びやって来られるときまでに悔い改めて、イエスを「主の名によって来られる方」だと認め、そして天から降ってこられる時を幸いな祝福された時として歓迎するならば救われます。だから。悔い改めて立ち帰りなさい。イエスが再び来られるまでに立ち帰りなさいと呼びかけておられるということです。

 ここではイエスが自分をどう理解しておられたのか、自分は何ものであると考えておられたのか、伝えようとしておられたのか、そのイエスの自己理解、イエスの自己啓示、これが非常に重要な意味を持って示されているのだと言ってよいと思います。第一に、ここでは、イエス様は、はっきりと御自分を「預言者」の系譜に立つ者と位置づけておられます。神から遣わされた者である。このように自覚しておられます。ただ単に一般のユダヤ教の巡礼者としてエルサレムに上るのではありません。神から遣わされた者としてエルサレムに臨むのだと、はっきりとした責任感と使命感をもっておられるということです。ですからイエスは「今日も明日も、その次の日も進まねばならない。進むべきである」という義務を請け負い、遂行するために日々の歩みはある。そして、それは、三日後に神の御業として必ず成し遂げられると言われ、メシアとしての働きをはっきりと人々に啓示しておられるのです。

 34節に「めん鳥が雛を集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とありますが、この言葉の主体がまさに神様であることを表す、つまり「神が集める」ことを意味するものです。この言葉は旧約聖書では、詩編107篇3節でもありますように、ヤハウエの神のお守りに入ることだけを表しています。ただ人間の、たとえば親の庇護の下に入るというような時にはこの言葉は用いません。イスラエルの神の慈しみと守りの陰に宿ること、避難すること、これを表す表現なのです。(詩編91編4節参照)

 本日のイエスの言葉は本当に旧約時代のヤハウエの神その方自身がここに姿をとって、"お前の子らを、めん鳥が翼の下に雛を集めるように、何度集めることを願ったことか"そう言われているように聞こえるのです。まさにこの時、イエスは、ヤハウエその方の顕現したお姿であったということなのです。

 また、「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることができない」と言うからには、「わたし」こそ「主の名によって来る方」なのだと言うことでもあります。要するにイエス様は9章31節で山上の変貌の時モーセとエリヤと「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について語り、次いで9章51節で「天に上げられる時期が近い」というので「エルサレムに向かい」始めたのです。つまりイエスは、「エルサレムにおいて殺され」そのことを通して「天に上げられ」、そしてやがて、「主の名によって来られる方に、祝福あれ」と皆が迎えるように再臨なさる。そういう人物であると御自分を自覚しておられるということです。

 イエス様は一方では、神様に対して、「遣わされた者」として進むべき道は進み通す非常に忠実な使命感を持って働かれ、もう一方では、人に対しては、「めん鳥が雛を羽の下に」かくまうように集めたいと何度も願う、愛と憐れみと慈しみに満ちた方として接しておられるのです。神に対してこれだけ忠実な、人に対してこれだけあたたかい愛に満ちたお方である。まさにこのかたこそ救い主、真の救い主というべきです。イエス様はこの二つのことに、生きる力をすべて注ぎ込んだのです。

 お祈りいたします。

 神様。あなたは、あなたの御旨に誠に忠実な救い主、また憐れみと、慈しみと、愛に満ちた救い主をわたしたちの世に遣わしてくださいまして、心から感謝申し上げます。

 主イエス様は何度も何度もわたしたちがこの世の悪と罪から解放されて、あなたの愛に生きるように願ってくださいました。またその愛をわたしたちに示してくださいました。私たちが悔い改めて神様に立ち帰り、救い主イエス様の招きを受けることのできる者とならせてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

◆ページの先頭へ

「人生の三つの試練」ルカ4:1-13
2022.3.6  大宮 陸孝 牧師
イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカによる福音書4章8節)
 教会の三大祝日のひとつでありますイースターの祝いの日から数えて四六日前の水曜日は、灰の水曜日アッシュウェンズディとよばれて、この日からレントと呼ばれますイエスの受難を偲ぶ季節に入ります。今年は3月2日が灰の水曜日でした。日曜日は教会の礼拝の中で祝いの喜びの日でありますので、この間に含まれる六回の日曜日は計算に入れないで、四十日がこのレントという季節に数えられます。

 レントとはアドヴェントと同じようにラテン語で、音楽をやる人ならば大変なじみ深い言葉なのですが、「ゆっくり進む」」という意味で、季節がゆっくり春に向かって進む意味で、ローマの習慣では、この季節をレントと呼んでいました。そこからレントという言葉が、この受難を偲ぶ季節に重ねられたようです。それで、キリストの受難を憶えてこの季節にいくらかの節制、たとえば断食をするというようなことが、ローマの教会で行われていたのです。それで受難節とか四旬節とかという呼び方をしました。

 四十と言う数は、聖書では特別の意味を持って出てきます。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、苦難の末に約束の地パレスティナに到着するまでの荒れ野の旅路の生活が四十年でした。おそらく、この荒野の四十年と関連させながら語られているのが、本日の福音書の日課イエスの荒野の誘惑物語です。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野を霊に≠ノよって引き回され、悪魔から誘惑を受けられた。」とありますように、イスラエルの民の荒れ野の四十年の苦難に合わせて四十日に亘って様々な試みに遭われたことを記念して、四十という数が出てきたと思われます。

 ちょうど、先週の水曜日がアッシュウェンズディでありましたので、今日はイエス・キリストの苦難の季節、レントの第一主日です。本日はルカ福音書4章の荒野の四十日に関連する日課を学びたいと思います。イースターまでのあと五回の日曜日は、ルカによる福音書をテキストとして、主の十字架の道行きを辿ることとなります。(但し4月3日の四旬節第5主日はヨハネ福音書12章1節〜8節)

 この荒れ野においてのイエス・キリストの四十日の苦難の中にある悪魔の誘惑の物語は、三つの試みの物語です。その第一は、空腹を満たすために周りに転がっている石をパンに代えてみたらどうか、という試みです。第二に、あなたが地上の栄光を受けたいと思うのだったらわたしを拝んでみたらどうか、というものです。第三に、高い所から飛び降りてみたら神さまがあなたを守ってくれるだろうと言った、というものです。これら三つの試みは、人間の欲望、つまり食欲、権威・権力、安全についての試みとまとめて言うことができると思います。三つに共通しているのは、自分というものを主張すること、自分を顕示したい、そういう人間の基本的な自己中心的な欲望、自分をいつも中心に置いておきたい、自分をトップに立たせたい、そういう欲望を描き出しているように思います。

 自分の欲望を満たしたいとか、自分が優位に立ちたいとか、あるいは、自分の安全を保ちたいという願いは、大なり小なり誰でも持っているものです。その願いそのものがいけないとは、必ずしも言い切れないと思います。人間がこの世で生きていくための基本的な生きる力としての願いや意欲、少しでも自分を向上させたいとか、自分自身を大事にして安全に保ちたいというようなことはあるわけです。しかし、もし意欲というレベルから欲望という、非常にバランスを失った形で突出して来ますと、人間同士がいがみ合うということになってゆきます。その結果として、世界は相互に滅びを経験するということにもなると思います。「もしこういう人間の欲望がバランスを失うようなことがあったら」と申しましたが、果たして「もし」という仮定のことであるのか、むしろわたしたちの現実の世界を見ますと、「もし」という過程の話ではなくて、わたしたちの現実だと言うことを実感させられます。聖書は、そういう相争う自己中心的な欲望の背後に、悪魔のそそのかしがあると、考えているのであります。確かにそれは、架空の話ではなく、今まさにわたしたちを虜にしようとわたしたちの現実に働いている力ではないでしょうか。

 人間の生存を要件づけるいろいろな欲望というものをイエスがすべて否定してしまったのか、ということがここで問題になりますが、決して人間のそういう意欲そのものを否定してしまうということではなくて、大切なことは、悪魔のそそのかしをイエスが拒絶したという点に注目しなければならないのです。つまり意欲のない、無意味な、無味乾燥な、すべての意欲を絶ってしまうような、修道僧のような存在になるということを、この物語で示唆しているのではないということです。むしろ意欲が欲望に変わる、欲望が他人を押し退け、隣人を攻撃し、隣人を征服してしまおうとする方向へと方向付けられる、そのそそのかしをイエスは拒絶されたのです。これがこの物語の深い意味であろうと思います。

 イエスはこれらの悪魔のそそのかしに対して、「人はパンだけで生きるものではない」とか、「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」とか、「主なるあなたの神を試みてはならない」といった旧約聖書の言葉を断片的に引用して、それによって悪魔を退けた、と書かれています。ここには、おそらく初代のキリスト者たちが自ら飢餓を経験した時、あるいは、偶像礼拝を強要されるような危機の時、また信仰的な懐疑を抱くといった具体的な場面で、こうした短い聖書の言葉を頼りにその危機を乗り越えようとした体験、生活ぶりが反映しているのだろうと推測されます。

 人間が神さまを引き合いに出して自分を権威づける、自分の安全を確保する、自分の欲望を確保する、そのように人間が神を利用する時に、悪魔のそそのかしと呼ばれた極端で頑固な自己主張が表れてくるという問題です。そのように自己主張を正当化したり、人々をそうした架空の権威に巻き込むために、宗教というものを利用し、宗教的な装いをもった儀式を数多く営んで来たのが人類の歴史でありました。現代のような社会になればそのようなことはないだろう、と思われるかもしれません。しかし、ナチスの時代にヒトラーが作りましたナチスの祭典、ニュールンベルク祭典と呼ばれるゲルマン民族を賛美する祭典、また、それに連なる形でベルリン・オリンピックもその目的に利用され、民族の祭典と名付けられました。そればかりではなく、ヒトラーは教会をも利用しようとしたのです。

 わたしたちの国においても、中世以来すっかり影を潜めてしまった天皇制の権威というものを民族の中に定着させるために、明治以来、創作された天皇制国家神道の祭りもまた、おそらくそういう類いの宗教的な祭りでありました。「大日本は神国なり」とか、「万世一系の天皇を奉ずる万古不易の国体」という言葉の中に、人間を神格化するもの、あの「もしあなたが神の子であるならば」と言う呼びかけが生み出す、悪しき宗教の陶酔というものがあります。そういう言葉にのめり込んでいくことによって、自分の安全、権威が保たれたり、高められたりするように感じてしまう、そういう弱さがここにあるのではないでしょうか。そしてわたしたち人間の歴史の中で幾たびもそのことが繰り返されているということです。

 つまり、宗教的な言葉でそそのかす悪魔に対して、イエスがそれを退けたというのがこの荒れ野の物語の意味であるということです。別の言葉で言えば、「イエスはそういう形の宗教的なそそのかしと、それに従ってゆく陶酔的なあり様を明確に退けた」というのがこの物語の深い意味であると思います。イエスは、人間が神を利用して自らを神格化するという形で自己の生存、名誉、安全を確認する悪しき宗教的な装いを取り払われたのです。

 そこに、イエスの福音の本質があったのです。ここでイエスは「神の子であるなら」というそそのかしを退けることによって、ただの弱いひとりの人間として、あるいは裸の人間として、誘惑にも陥る弱い人間として立っておられるということです。空腹を空腹のまま認める、それを何か他のもので陶酔的にごまかすのではなくて、空腹は空腹として立っておられるというのです。また、世界に冠たる王として立っているのではなくて、ただひとりの人間として、名誉も地位もない一人の人間として立っておられるということです。また、高い所から飛び降りれば、当然死んでしまう人間として立っておられるということです。

 主イエスは、神の子という自覚の中で陶酔して自分の権威を人々に押しつけるような仕方で、立っておられるのではありません。むしろ人間の弱さを醒めた眼でみつめ、その弱さを引き受けて生きて行かれるという仕方で、イエスは立っておられるのです。しかし、イエスはただ無意味に立っておられたというのではありません。そうではなく、人間からあらゆる神格化する要素を取り払うことによって、人間が神を従属させるという悪しき宗教から人間を解放し自由にするために、イエスは一人の人間として立っておられるということなのです。

 イエスの言われる神を信じるとは、神がかりをやめると言うことを意味しています。つまり神がかりということは、人間が神になるということですが、イエスは徹底的に人間が神になることを拒否されたのです。そのことによって神は神、わたしはわたしという明確な一線を醒めた眼でもって引かれたということです。主イエスはこの物語の中でわたしたちのことを語ろうとしておられるのです。「あなたは神の子であるというそそのかしの中で、自己陶酔してはなりません。神に従う者として立ちなさい。神を神としてあなたはその神に仕えなさい。神以外のものを神とすることがあってはなりません。また、それゆえに、あなたは神を試みてはなりません。」神を試みるということは、自分が神を支配するということです。そのような悪しき宗教的な有り様というものを断固拒絶して、「神が神であり、人間は造られた土の器である」と言うことを認めることです。

 イエス・キリストの苦難はドラマの世界の苦難ではなく、この世で、神に仮装した権力者たちから迫害されるという現実的な苦しみでした。神のみを神とし、人間が神になろうとする試みを断固として排除することによって、イエスは神なき苦難の世界を経験されました。イエスはこの苦しい四十日の窮乏の中で、この誘惑に遭われて、人間の深く底知れない罪を顕わにされたのです。そして、人を圧迫する地上の悪しき権力に苦しむ人に、真の自由と平和の道を示されたのです。

 お祈りをいたします。
 
 神さま。あなたがイエス・キリストというお方において姿を現してくださり、この地上でわたしたちが受ける誘惑を、ご自身で受けられ、そのすべての誘惑を退けて、父なる神の「御心に適う者」としてそのお働きを貫徹してくださいましたことを心から感謝いたします。
 
どうぞわたしたちが、このように忠実な、神と一つである救い主によって救われておりますことを、喜びと感謝をもってもう一度確認することができますように導いてください。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。   アーメン。

(ホームページの3月の牧師メッセージをも参照してください)

◆ページの先頭へ

 ◆バックナンバーはこちらへ。




オリーブの実 イラスト


information


日本福音ルーテル賀茂川教会


〒603‐8132
京都市北区小山下内河原町14

TEL.075‐491‐1402


→アクセス