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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2022年9月礼拝説教


★2022.9.25 「いまこそ聖書に耳を傾けよう」ルカ16:19-31
★2022.9.18 「人間の不条理と向き合う神」ルカ16:1-13
★2022.9.11 「主イエスと共にある喜び」ルカ15:1-10
★2022.9.4  「神は苦悩する人の傍らに」ルカ14:25-33
「いまこそ聖書に耳を傾けよう」ルカ16:19-31
2022.9.25 大宮 陸孝 牧師
「『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」(ルカによる福音書16:29)
 本日の福音書の日課は先週に続いて主イエスのなさったたとえ話であります。主イエスのなさったたとえ話はどう読まれなければならないのか、そのことを先週少しだけ申し上げました。原則的に言えば、先ず第一に、そのたとえ話がイエスによって語られた最初の状況、そして誰に対して語られたのか、そこでイエスはどうしてそのような表現をとられたのか、それはどういう意味であったのか、どのような期待を込めて話され、そしてそれはどのような反応を聞いている人たちの間に引き起こしたのか、を明確にする事から始めなければなりません。そのような基本的な理解をしてそのたとえ話から、当時の時と場所を超えて、今日に生きるわたしたちに向けて語られるメッセージを読み取り、引き出すようにしなければならないのです。大事なことはイエスのたとえ話を時と場所と意味を取り除いて、一般的な教訓として読むのではなく、あくまでも当時の具体的な状況と場所と問題の中に生きる人間に対する具体的な語りかけであったということを踏まえて理解していかなければならないということです。聖書をそのように読むことがつまり、~の語りかけを聞くということなのです。

 イエスにとって「たとえ話」というのは、~の国の福音の宣教のために生み出された、信仰の証しの手段であり、人々の応答を求めるための呼びかけであり、人々に対して悔い改め、~の恵みの下への立ち帰りを求める働きかけ、促しであったのだということをまず認識しなければなりません。

 さてそこで、「金持ちとラザロ」のたとえばなしでありますが、まず考えて見ていただきたいのですが、主イエスによって語られたこのたとえ話、主イエスは、人間に与えられている富そのものが悪であるとか、あるいは物質的な貧しさが天国と直接つながっていると言おうとしているのではありません。富んでいる者はすべて機械的に死後に地獄で苦しみ、貧しい者が自動的に天国に行けるのだと言おうとしているのではありません。金持ちは、自分が生前富める者であったというそれだけの理由で今苦しんでいるのではありません。そうではなくて、自分の生前の生き方、富を所有していた自分が、その富をどういうふうに用いて生きたかという生きざまを問われて、今こんなに苦しんでいるのです。それで、自分の兄弟たちが、その生きざまを問われて自分と同じような運命を辿らないようにと願って、27〜28節でラザロを遣わして警告を与えてほしい、と頼んでいるのです。

 そして、この譬えから、貧しいラザロに対しては来世の慰めを語ることによって、現世での困窮や苦しみに耐えなさいと勧めている、と解釈するのもイエス様の趣旨を全く読み間違えています。そうではなくて、このたとえ話は富める人に向けられていると同時に貧しい人たちにも向けられています。がしかし、貧しい人に来世での保証を約束することによって慰めようとしているのでもありません。その両者に向かって今ここで、~の御言葉に聞き従って信仰の歩みをするように促そうとしているのです。

 一方で、金持ちは、玄関の前に貧しいラザロが座って、でき物の傷口を犬になめられながら、金持ちの手をふいた汚れたパンを食べているこの極貧の者に気がつかなかったはずはありません。しかし、聖書は、この金持ちがラザロの存在に気がついて、ラザロに何かしてやったというようなことを、いっさい記しておりません。彼は有り余る富を自分の生活を豊かにすることにばかり用いて、ほんの一部でさえも貧しい者のために使おうとしませんでした。そういう生きざまについて彼は今責任を問われているのです。

 アルバート・シュバイツアーは、若い時に、このたとえ話を、直接に富める自分たちに向けて語られたみ言葉であると受けとめました。そしてシュバイツアーは、富めるヨーロッパと貧しいアフリカとを対照して、金持ちがラザロの訴えに耳を傾けることなく、なすべきことをなさなかったことによって、罪を犯したように、われわれヨーロッパ人も自分の玄関の前にいる貧しい者に対して負い目があるのだということを認識し、医師となって「貧しいラザロ」を助け仕えるために、アフリカに赴いていったのです。

 金持ちは、自分の玄関先に座っているラザロに対して決してラザロに関心を示しませんでした。同じ一人の人間として、自分の兄弟としてラザロに接することをしなかったゆえに、彼は裁かれます。そしてそれは、~に近づこうとしないことでもあり、そういう小さい者の一人に真剣に向き合わないことは、~に真剣に向き合わないことになるからだというのです。

 金持ちは願います。「自分の五人の兄弟たちが、こんなに苦しい所に来ることがないように、ラザロを遣わしてください。兄弟たちによく言い聞かせてください」と。しかしアブラハムはその求めには応えません。「モーセと預言者がいるではないか。たとえ死んだラザロが生き返って遣わされたとしても、決して言うことを聞き入れはしないだろう」と。死んだ金持ちとアブラハムのいる所、その間の大きな淵は埋めることはできないと断言するのです。

 他方、貧しいラザロについてですが、ラザロという名前はこれは、旧約聖書ではエレアザル「神が助けられる」という意味になります。ラザロとは神の助けが必要な人、神の助けがないと生きられない人のことなのです。そういう意味で言うならば、宗教改革を行ったマルティン・ルターが最後に記した言葉、その膨大な著作の最後の言葉「我々は神の物乞いであるこれは真実だ!自分では何も出来ない。神の恵みを受けるしかない。神の助けがないと生きることができない」という言葉を思い出すのです。

 実は、主イエスはこの両者の間を橋渡しされるためにこのたとえを語っておられるのです。アブラハムは「たとえ死者の中から生き返る者があったとしても、その言うことを聞き入れはしない。悔い改めなどはしないだろう」と言いましたが、しかし、今お通りになる主イエスは手遅れにはなさいませんでした。「悔い改める」には「手遅れ」の意味もあります。金持ちが「手遅れ」とあきらめ、アブラハムが無理だと言った。しかし主イエスは「まだ間に合う」と手遅れを手遅れにしないまことの悔い改めを呼びかけ、大きな淵を埋めてくださろうとしておられるのです。

 ~さまはわたしたち人間が一人で満ち足りていることをお喜びにはなりません。~さまは人間を共に生きる者としてお造りになりました。それゆえ~さまは人が自分だけで満ち足りることでなく他者と共に満ち足りることを望んで、すべての賜物をわたしたちに与えてくださっているのです。わたしたちは、~に喜ばれる生き方をしたいと思うなら、他人を愛さなければなりません。しかもその愛は自己愛の延長にすぎないものであってはなりません。他人を思いやり、たとい自分にとって無益で無価値なものであっても注ぐところでこそ、本当に意味を持つのです。なぜなら~の愛とはそういう愛だからです。主イエスは言われます。わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさいと。神の愛は人間の愛と違って、ご自身にとって価値あるからとか、有益であるからとか、必要であるから愛されるという愛ではありません。~の愛は、ご自分が祝福に満ち、愛に満ちておられるゆえに溢れ出る愛です。ですからその愛は、誰よりもまず、自分にとって無に等しい者、弱い者に向って溢れ出る愛なのです。そしてわたしたちが~のそのような愛を受け、そのような愛に生かされ、促されて、教会の愛の群れに連なるときに、~はそれを喜んでくださるのです。さらにまた、そうでない時、つまりわたしたちが自己追求に執心して、自分だけで満ち足りて、他者と共に生きようとしない時、~は裁きをもって臨まれると、この譬えは警告しているのです。

 その場合に、わたしたちは、自分は金持ちでないからそういう心配はない、自分の玄関先にラザロはいない、と考えてはならないのです。ラザロはわたしたちの周りにどこにでもいるのです。シュバイツアーは、この箇所を読んで、アフリカはヨーロッパの玄関先に座っているラザロだということに気がつきました。そして彼はあの生涯の大事業となったアフリカへの医療伝道を始めたのです。わたしたちのまわりには、わたしたちよりも貧しい者、わたしたちの助けを必要としている者がたくさんいます。富とはかならずしも金銭だけに限定して考える必要は無いと思います。わたしたちが他人を助けると言う場合、必ずしも金銭を差し出すという助けだけではないはずです。そして、そうでありながら、しかし助けるとはいってもわたしたちが自分の人間的な同情や、人間的な思いやりで行うというものでもありません。わたしたち人間の愛は不完全であり、それはいつも限界を伴っています。主イエスとその弟子たちの時代には、キリスト教会はなお貧しい少数者に留まっていたでありましょう。しかし今日の世界においては、事態は一変しています。富める第一世界、その大多数はキリスト者であります。その豊かな食卓のまわりには、世界人類の三分の二以上を占める貧しいラザロとしての第三世界の人たち、その大多数は非キリスト者が、貧困と饑餓に苦しみながら戸の外に立って叫んでいます。このような世界の状況を見過ごしにして、自己目的にしか生きていないとするならば、結局わたしたちは、やがては自らをも疎外し、世界の「破局」を招くことになるだろうと思います。

 今日のわたしたちに明らかになってきたことは、人間の自己中心、自己目的、自己愛と自我のわざによっては、自分をも他者をも救うことは出来ませんし、そのような利己心に生きる者は~の前に義とされないと言うことです。このたとえはわたしたちに何を語ろうとしているのか、何をたとえているのか。要するに、主イエスの十字架の贖い(あがない)による赦しがなければ、わたしたちの不完全な愛はそのまま~の前に通用するものではないと言おうとしているのだと、わたしは受けとめました。その利己心を乗り越え克服するために、~の言葉である聖書を読み、~の言葉に耳を傾け、聞き従いなさいと主イエスは語りかけておられるのです。

 アブラハムが、五人の兄弟たちには「聖書がある、聖書を持っている」と言いました時「持っている」というのはどういう意味で持っていると言ったのかというと、当時の普通のユダヤの庶民が「モーセと預言者を持っている」というのは、会堂で聖書が朗読されるのを聞いて心に暗記して「持つ」という意味なのです。聖書を持つというのはそのことです。朗読を聞いて覚えて「持っている」という意味なのです。ところがそれでも不十分であるというのですから、さらに「聖書に聞け」といわれるのはそれ以上のことであるのです。朗読を聞いて暗記するほどに一生懸命、聖書に接していても「そういう考え方もあるか」で終わってしまうのです。

 「~の言葉に聞く」というのは、何か聖書から声が発していて、その声を「聞く」ということです。~様は人の心をご存知であります。そしてその人の心の基準として「聖書」を授けていてくださいますから、この聖書を~の言葉として、これを授けてくださった~様が何とおっしゃっておられるのかという~の声を「聞こう」という心を持たない限り、文字でいくら読もうと、何頁聖書を繰ろうと、それは「~の声」に耳を傾けるという姿勢ではないのです。聖書の言葉を、~の言葉として聞く。その意味で今わたしたちは~の前にいる、今聖書が読まれ、聖書が解き明かされていることを通して~様がわたしたちに語りかけておられるのです。

 ~様は、わたしたちのこの世界に、地上のわたしたちの人生において、実に豊かな賜物を与えてくださっています。わたしたちに与えられている賜物を合わせればどんなに大きなプロジェクトの事業をも営むことも、どんなに大勢の困窮の中にある人をも助けることもできる充分な力を~様から授けられている。それがわたしたちの現実であるのです。

 そうした賜物だけではなく更に~様は、わたしたちの世界に聖書という~の言葉をお与えになり、地上の生涯で与えられた賜物を正しく管理し、~と人に仕えて行く豊かな人生を送られるように、心の糧をちゃんと与えてくださいました。それにもかかわらずわたしたちは与えられている~様の恵みの言葉に耳を傾けようとしないのであります。

 そして、お互いに助け合い生かし合うべき力を、全く逆に互いに滅ぼし合うことに用いる的外れな生き方をさえしているのです。

 わたしたちはこういう人生を誰一人として送ってはならないのです。今という地上の許された人生の中で、~様から委ねられた、どの程度の財であるか、才能であるか、力であるか、それを、忠実に管理し、~様に喜ばれる僕として生涯を全うするために、今与えられております聖書に耳を傾けなくてはならない。聖書を通して~様の御声を「聞か」なければならない。そして日ごとに「~の前にいる」僕なのだという自覚の中で、地上の生涯を~の御言葉に導かれ、方向づけられて正しく管理していく者とならなければならないのです。

 お祈りいたします。

 ~様。わたしたちは様々なものを賜物として与えられ、委ねられて、地上の生涯を送らせていただいております。そればかりではなく、そのわたしたちの魂のために~様は聖書をさえ、あなたのいのちの言葉として与えてくださっています。どうかわたしたちが改めて聖書の御言葉に耳を傾けることによって、~様の御前に生かされていることを自覚し、まだ与えられ、委ねられております賜物を忠実にあなたの救いの業のために用いて、あなたに栄光を返すことができますように導いてください。

 キリスト・イエスの御名を通してお祈り致します。    アーメン。

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「人間の不条理と向き合う神」ルカ16:1-13
2022.9.18 大宮 陸孝 牧師
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカによる福音書16:13)
 本日のルカ福音書の日課は、四つあります福音書の中でも、大変難解なところであります。主イエスはここで、誰も思いつかないような譬えを用いて、自分のメッセージを伝えようとしておられます。主イエスは15章で傲慢なファリサイ派や律法学者たちと、主イエスについて来る一般大衆に、失われたものを見つけ出す喜びについて語られた後で、今度は弟子たちに向って語られています。といいますのは、放蕩息子の犯した過ちは財産・金銭に関することがありましたので、今弟子たちがこの譬えをどのように聞いているかを確かめる必要が出てきました。そこで、弟子たちが金銭の問題にどのように対処していかなければならないかを教える必要に迫られたという事情が出て来たのです。

 ある金持ちに管理人がいました。彼は主人の財産を管理する大切な仕事を任されていました。そして、会計を任されていて、自分の意のままにできるそれだけに大きな誘惑の中にいたのです。彼は主人の金を誤魔化して自分の懐に入れていました。当然のことながら、内部告発をする者がいて、彼は主人に不正を知られてしまいました。これは彼にとって致命的なことでした。職を失うことは目に見えていたのです。ただ不思議なことに、彼が犯罪人として刑罰を受けることがここには全く書いてありません。この譬えの中心的な意味からは、そのことは重要なことではありませんでした。

 財産管理がおかしいと告げ口されまして、主人は管理人に、「会計の報告を出しなさい、もう管理を任せることはできない」と言ったのです。これは、今までの会計報告を提出したら解雇するという宣告であります。つまり、このたとえ話は、解雇する結末までは語っていないのです。尻切れトンボで終わっているのです。たとえ話の中心は、会計報告を出す前に管理人がどういうことをやったかということにあります。

 ともかくも、管理人は窮地に陥ります。職を失ったらどうして生活していこうか、と。物乞いになることは何とも恥ずかしいことだし、肉体労働をするにも体力がない。ハタと困ってしまったのです。そのとき悪賢い彼の頭に一つの途轍もないアイディアが浮かびました。それは負債者に恩を売ることでした。職を失う前の彼の立場を、彼は徹底的に利用したのです。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎え入れてくれるような人を作ればいいのだ。このような奇策は現代には通用することではありません。彼は重い負債を主人に負っている者を一人一人呼んで、先ず最初の人に『私の主人にいくら借りがあるのか』と言います。『油百バトス』(1バトスは約24リットル)と言いますと、管理人は言います。『これがあなたの証文だ。急いで、腰をかけて、50バトスと書き直しなさい』。また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』といいますと、『小麦百コロス』(1コロスは230リットル、約一石に相当)と言いますと、管理人は、『これがあなたの証文だ。80コロスと書き直しなさい』と言います。

 これを聞いた負債者たちは大喜びしたことでありましょう。そして彼らは、これは当然管理人が主人に対してそのような勧告をして、主人は管理人の勧告を受け入れて、このような想像を超えた温情によってなされたことだと受け止めたと想像することができます。主人に対しても、それから、このようなことを主人に勧告した管理人に対しても同じように深い感謝を持ったことでありましょう。管理人に対する義理から言っても、もはや管理人を粗末に扱うことはできないでありましょう。そしてもし主人が後でこの事実を知ったとしても主人はそれを再び訂正することはできないということも含んでいます。もしそんなことをすれば主人の評判と信用はがた落ちになるでありましょうから。この悪しき管理人は何とずる賢いことでしょうか。

 このような事件が実際にあったのかも知れません。その事件を主イエスは利用してたとえとして用いられたのかも知れません。主イエスはこの知恵と行動を褒めました。しかし、そのことは管理人が犯したその犯罪的な行為を是認されたということではないでしょう。

 この管理人は今や窮地に陥りすぐ目の前に迫っている破局に際し、残された貴重な時を最大限に生かし用いたのです。このやり方をイエスは弟子たちに勧めておられるのです。つまり、今や時が切迫している。~の国(支配)の到来が間近である、だからお前たちは残された短い貴重な時をあの管理人のように抜け目なく、最大限に用いて永遠の~の国に迎え入れられるようにするべきである、と。つまり主イエスの救いの働きを心から受け入れなければならない、そこにお前たちの生死の運命がかけられているのだ、と。イエスはこの一番大切で根本的なものを弟子に教えるため、この譬えを用いられたのです。

 そしてもう一つの面ももちろん考えなくてはなりません。それは弟子たちに委ねられた~の国の宝をどのように扱うかです。弟子たちに委ねられた財産は決してつまらない世俗的な富のことではありません。それは永遠の命、罪の贖いによる~の国であります。それは金銭とは比較にならないものであります。しかしわたしたちはこの世に住み、この世の経済構造の中に縛られています。この世のすべての賜物は~によって与えられ、管理を委託されているのですが、それ故に、悩みのない~の国にいるのではなく、日々あくせくし、思い煩いにまとわりつかれています。それは金銭と密接な関係にある。この神から委ねられた世界の使用と管理にルーズな者、不誠実な者、あるいはこの世の富を絶対化する者、つまり~から管理を委ねられたこの世の富を、欲に任せ、自分勝手に管理し、用いている者に、神さまはそれよりはるかに大きい、大切な賜物、~の国をまかせられるだろうか。いや小さな事に忠実でないものに、大きなことをおまかせになるだろうか。と信仰と日常の生活とを別々に切り離すことが出来ないことを主イエスはこのたとえをもって説いておられるのです。

 ルカ福音書は富の問題に敏感です。マタイ福音書の山上の説教で「心の貧しい人々は、幸いである」とあるのに対して、ルカは「貧しい人々は、幸いである」と言い、また「富んでいるあなたがたは、不幸である」と言っています。もちろんルカ福音書も富んでいることが悪いとか、金銭が悪だと言っているわけではなく、富に関する誘惑の大きいこと、金銭の使い方にその人の生き方、心が現れることを強調して、特に富める人にその誘惑が強いことを警告しているということではないかと思います。

 小さなことに忠実でない人が、どうして大きなことに忠実であるだろうか。この問いかけはわたしたちにとって誠に厳しいものであります。聖書には徹底的な赦し、寛大さと、このような厳しさとが共存しています。小ささに忠実であること、小さいものを小さいものとすること、つまり~でないものを~としないこと、それが忠実であるということとするならば、この世の富を~としてそれに支配される生き方は、~を~とする生き方とは全く相反すること、不忠実であることは明白です。信仰に於いては何が忠実・不忠実とされる事柄なのか。それは、救いをどこに見出すかということではないでしょうか。つまり、信仰のあり方を言っているのだということになります。ですから小さな事を前にしても、大きなことを前にしても自分の信仰の立脚点が変わらないということ、神さまと自分との関係で自分がどういう位置にいるかという自己理解、命の創造者なる~と被造物に過ぎないわたし「人間」という自己理解、これが忠実さといわれるものの中味だと思います。関心があるとか、熱意があるとか、熟達しているとか、そういう問題とは違います。あることには大変関心があって、非常に熱心になるけれども、別のことには全然関心が無いからいいかげんになる、これは関心の問題です。「忠実さ」というのはそうではなくて、その人が、主に対してわたしはどういう位置にあるとわきまえてことに当たっているかということ、別のわかりやすい言葉で言い換えると「忠誠」ということ、これがここで言われている忠実さということなのだと思います。

 現在、この地上でわたしたちが所有しておりますもの、使っておりますものの一切は「他人のもの」、つまり神様のもので、わたしたちのものではありません。神さまからすべてのものを与えられ、預けられて管理しているのであります。この管理する仕事、キリスト者として~から与っているものを正しく管理する仕事というのは、金銭だけの問題ではありません。油も含む、小麦も含む、あるいは土を耕し開発する力があるかないかも含む、今国際社会の中で大きな課題となっている「持続可能な開発目標」などもその中に含め、わたしたちの生活の一切合切を意識しながらいま、イエス様は語っておられるのです。

 現在、地上の生活でいろいろなものをわたしたちが預けられて管理しておりますその人生の中で「~のものを神のものとして」、忠実に扱っておれば、やがて、「本当に価値あるもの」を賜物としてわたしたちに与えてくださる、「任せて」くださる。それが「永遠の住まいに迎え入れられ」るときのことでありまして、『キリストとともに万物を相続する』と聖書が語っていることであります。

 結局、地上のわたしたちの生涯というのは、そういうふうに~様が任せられる$l間だと判定してくださり、その判定のもとに「本当に価値あるもの」、「あなたがたのもの」というものをわたしたちに与えてくださると勧告しているということです。そこで与えられるものもやっぱり、~様から「与え」られ、「任せ」られるものです。決してわたしたちが作り上げたとか磨き上げたとかいうものではなくて、本当のわたしのものとして最後に与えられるものでさえも、実は~様から「与え」られ、~様から「任せ」られる。恵みとして無条件に与えられる賜物なのだと言いたいのです。

 最後の13節で言われていることは~様から恵みとして与えられているものを、神様のものとして~様のために用いて行きなさいと言うことであるとわたしは思います。神様のものを~様のために献げ返すそれを「忠実」あるいは「忠誠」と言っているのです。~様から賜物として与えられたものに執着し、心を捉えられ、奴隷のように支配されてしまうということにならないように。主人としてはあくまでもそれを与えてくださった~様を主人とするべきなのだ、富がどんなに大きな力をもっていようとも、決してその富そのものに支配され、隷属してはならない。~としてはならないとこう言っているのです。

 わたしたちがふっと立ちどまって考えますと、確かに、この不正な管理人が独り言を言いましたように、どうしょうも、こうしようも、わたしたちは自分としては何も持っていない者であるということに気付きます。土を掘るにも力がないし、物乞いをするのも恥ずかしいという変なプライドだけはあって、そのプライドを捨てるだけの決断力もないのです。ですから結局わたしたちは何もないのです。あるように見えているものはみな、他人のもの、神様から預かったもの、それをお預かりしている。本当にわたしのものだと言える価値あるものとは、わたしたちが神様のものとされて実質的な本当の命に生きるということであろうとわたしは考えます。それはやがて永遠の世界に行きました時に与えられます。その日を仰ぎ臨みながら、わたしたちは、いまわたしたちが預かっている、委ねられているすべてのものを神様からのものと心得てやがて~様にお返しする用い方をして行く事が大切であろうと思います。わたしたちが主イエスの十字架の贖いによって神様のものとされる救いの働きに信頼して自分を委ねて行くということはそういうことなのだと思います。

 お祈りします。

 ~様。わたしたち自身は、自分では何一つ持っていない裸の者であります。そのことを謙虚に認めて、それにもかかわらず、今あなたから豊かに備えられておりますさまざまなものを、自分自身のものとしてではなくて、あなたのものとして忠実に管理していく生活を送り、あなたに栄光を返す人生を送っていくことができますように、日ごとの生活を注意深く、また「賢く行動していくことができるように」御言葉によって導いてください。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン。

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「主イエスと共にある喜び」ルカ15:1-10
2022.9.11 大宮 陸孝 牧師
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカによる福音書15:5-6)
 ルカ福音書には例えば五章の断食問答のところで、婚礼の客のたとえ=A布きれで継ぎ接ぎをするたとえ=Aぶどう酒を入れる皮袋のたとえ≠ニいうふうに、三つのたとえ話を続けて語るという特徴がありまして、本日の所も一匹の見失った羊=A一枚の無くした銀貨=Aそれからいなくなった一人の息子≠ニ三つのたとえ話を続けているのです。この一五章というところは、ここ全体で一つのまとまりを成していて、全体として一つのテーマを扱っている一章で、そのテーマは失われた者を取り戻す喜び≠ノついて語られているところであります。人によっては、この15章だけではなくて、これからずっと後の有名なファリサイ派と徴税人の祈りの話が出てまいります18章14節まで、あるいはもっと思い切って19章27節、エルサレム上りの旅が終わるまで、そこまでずっと見捨てられた者たちへの福音≠ニ呼んで、似たようなテーマが取り扱われていると見る人たちもおります。

 できごとの発端はこうです。1節〜3節まで「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。ここで「徴税人や罪人たちが話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」というのですが、正しくは「イエスに聞こうとして彼に近寄った」というのです。すぐ前の14章の終わりの所に「聞く耳のある者は聞きなさい」と呼びかけられて、それで徴税人と罪人たちは、じゃあ、「イエスに聞こう」というので近寄って来たというそのような流れになっているのです。

 1節で名付けられている「取税人や罪人たち」は、ユダヤ立法社会においては抑圧された民と見做されていた人たちです。ユダヤの社会を、その理念と実践で担い支えていたと自負するパリサイ派や律法学者たちによって、執拗にその社会から排除されていた階級を指している言葉です。ここでの「取税人たち」はより正確には「関税請け負人」で、ルカ18章11節では「貪欲な者不正な者、姦淫をする者」と同列に置かれています。徴税請負人が一定区域の徴税権をローマの政庁やヘロデ王家から買い取った富裕な階層であるのに対して、「関税請負人」はその下請人に過ぎなかったのですが、民衆の憎悪が、この下請人の方に集中したのも、その末端の徴税現場で超過税を徴収し、利益を上げていた「決まっているもの以上に取り立て」ていた現実があったことによるのです。(ルカ3:13)

 そういうことでしたので、関税請負人は、通常、市民としての当然の役職から除外され、法廷で証人として立つ資格も剥奪され、罪の償いを要する事件を起こした際には、執行猶予や依頼退職等の免責は与えられず、不当利益分に更に五分の一を加算して弁償する重い罰金刑が課せられ、一切の市民権が剥奪されていたと言う点では、窃盗犯や詐欺師初めすべての犯罪人や、道徳的に品行のいかがわしいとみなされる者と同様の範疇に加えられていたのです。「罪人たち」はそれに加えて、高利貸し、賭博師、遊女、羊飼い等でした。羊飼いの場合は、地主のような大所有者ではなく、大所有者の財産中の一定頭数を請け負って遊牧飼育に従事する零細で小単位の請負人を意味していました。彼らが「罪人」と見做された理由は、他人の土地へ不法に羊を追い込み、他人の草を無断で食べさせたりする不届き者という社会的通念と蔑視が一般化していたことによります。こういう者たちがイエスの話を聞こうとしてイエスのもとにやって来たのです。

 2節では前節とは対照的に「ファリサイ派や律法学者たち」が登場します。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した。そこで、イエスは次の譬えを話された」「徴税人や罪人」この二種類の人物が登場しますのは、5章30節で、徴税人レビがイエスによって「わたしに従いなさい」と召された後に、レビの家で食事をなさっていた時に、この二種類の人たちが話題になっています。「ファリサイ派の人々や律法学者たち」この組み合わせも、全く同じ5章30節に登場しますが、その彼らがここでも「不平を言い出した」と言うのです。彼らの「つぶやき」はずっと続いていて屈折し持続し、なおはけ口を見出してゆく不平不満の噴出としての発言であるということです。彼らはこらえかねたように「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と責め、問い詰め続けているのです。ここで描かれております状況は、ある町のある時に起こった出来事というのではなくて、イエスさまが働かれるところ、イエス様がお語りになりますときに、いつでもどこでも、徴税人や罪人が聞こうとして近寄って来たし、その都度、ファリサイ派や律法学者の人たちが不平を言い続けたというもっと一般的なイエス様の地上での生涯に亘る宣教活動全体にわたっての問題として取り上げられているのです。その不平、つぶやきの中味は何かと言いますと、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしているという不平であります。それも、「この人は」というのは「人」などという言葉は使われていません。「こいつは」というむき出しの軽蔑と敵意をこめた辛辣な表現であります。そして話を聞こうとして近寄って来たという、イエス様の説教の場面で、「食事まで一緒にしている」という不平なのです。

 非難点ははっきりしています。それは、イエス様が~の民の交わりに入れてはいけない人たちを仲間にしているということ、その彼らと飲食を共にすることによってイスラエルの聖卓を汚したということです。この問い詰めの背後には、このような事をあえて行うこの者は一体何ものなのかとの疑問と、同時に、何ほどの者とも思えないこの人物があえてこれほどの神への冒涜とも言えることをやってのけることへの強い怒りが隠されているのです。そしてそれがイエス様の生涯の間ずうっといつでも起こって来た問題でありそれを取り上げるというのです。

 これらの状況を前提とした上で、「それで言われた、彼らにこのたとえを、曰く・・・」と簡潔に明快に展開して行きます。この状況の中で主イエスはこのたとえを実際には誰に向かって語りかけておられるのかを考えますと、直接にはファリサイ派や律法学者たちへの反論のように見えるのですが、主イエスが本当に語りかけておられるのは、話を聞こうとして周りに集まってきた、差別されている人たちだったのではないかと思われます。というのは失われた羊のたとえにしても、失われた銀貨にしても、こうした問いかけ、訴えかけによって、イエスは常に相手の経験や願望に接触しながらたとえ話の場へと聞き手を誘導するという手法を採っておられるからです。失われた一匹の羊を見つける喜び、失われた一枚の銀貨を見つけた喜びを経験として分かち合うことが出来るのは「羊飼い」であり、「取税人」たちです。社会からはじき出されている人たちとこのたとえを共有しようとしておられるイエスの姿が浮かび上がっているのです。ここからいろいろなことを言うことが出来るということではありません。ここで語り告げられているのはただ一つ、「失われた者を見つけ出す喜び」であります。失われた者に対する神の愛が、すでに、今ここに、主イエスと共にある中で与えられているという喜び。そして、失われた罪人が取り戻されることは神さまにとってはまさに喜び祝うのが当然のこと(32節)であるその喜びがここに現実のものとなったということであります。

 しかし、これを認めることが出来ず、認めようともしないで、そのような神さま側の喜びに対して嫉妬し憤怒する「正しい人」がいる。彼らは医者を必要としないし、その往診も拒む、健康な人であります。しかし主であるイエスさまが来られたのは、そういう人を招くためではなく、病人をこそ探し求め招き寄せるためでありました。ルカによる福音書は、その病人をはっきり「罪人」と記すのです。(5:31・32)。そしてそういう人々が「皆イエスの話を聞こうとして近寄って来た」のです。癒しの力を求めるように。

 ここに近寄って来る者と遠く離れて立つ者とがいます。助けなしにはとうてい立つことが出来ない者と、助けなしでも自足して堂々とイエスの救いの業の前に立ちふさがる者とであります。悔い崩折れて神さまの憐れみに縋るしかない者と、それを冷然と見下しながらおのれの正しさに居直る者とであります。両者関係なく並び立つだけであるならばまだしも、そうではなくて、正しいと自認する者は、正しくない者を監視し、告発し、排除しようとしている、こういう事実がイエス様の前で堂々と行われていたということをルカは告発しているのです。「徴税人や罪人たちが皆」というこの「皆」は、この人たちは、正しいとする者たちによって社会的に排除されてひとまとめにされている「皆」だったのです。

 当時、そのような人の群れがいた。「自分を義人だと自認して、他人を見下げている人たち」が(18:9)、他方では、告発断罪などの行動には出てはいませんが、罪や汚れを恐れ、自ら俗界と関係を絶ち、選ばれた修道士的共同体を荒野に築いて世間から逃れる人たちがいました。エッセネ派の人たちであります。そしてそのエッセネ派の原理に適合していない、さらにはパリサイ派の原理からも排除されている無資格者が「徴税人や罪人たち」にほかならなかったのです。そのエッセネ派とファリサイ派の原理に真っ向から対立するかたちで立ち現れた方、これがイエスさまであります。それは無資格者とされ排除された者をこそ客として迎え入れて、正座につかせ、最上の着物を着せて、その起死回生を祝って喜びの宴を催すお方の現臨でありました。

 わたしたちは、~の救いの宣教を開始した直後のイエスのお姿を、ルカがこのように描いていることを改めて驚きをもって思い起こさなければなりません。4章18節以下であります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。そうして主は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められたのです。きょう、今ここで、既に決定的な救いの働きが開始されている。宗教的社会的慣習として祭儀などで繰り返されるのではなく、イエスというお方によって今や最終的に完成される赦しと開放・回復の年が、きょうここに来ている。こういうことですから、ここルカ15章に連記されている三つのたとえ話は、ファリサイ人や律法学者らに対するイエスの単なる権威宣言なのではありません。イエスのおられる所で、イエスとともにもっと大きな~の救いの御業が始まっている。だから喜びなさい。誰はばかることなく喜びなさい。妨げるものは何もありません。この救いの喜びに立ち帰ってきなさい。~の国にわたしたち失われた者を招くために、主イエスは、わたしたちを贖い、復活の新しい神さまの命へと真っ直ぐに進もうとしておられます。ルカはスポットライトを当てるようにこの一点を照らし出して、限りなく明るい喜びを語っているのです。

 いま、共に喜ぶことが求められています。祝宴は始まっています。拒む理由はないのに、拒む人は多い。だから主イエスは言われたのです。「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人などを招くがよい」(14:13)と。

 これがルカの救済物語の構造であります。そしてルカはこれが福音だというのです。キリストの十字架の贖いの前にわたしたちは招かれています。この恵みによってわたしたちは無条件で神さまのものになることができます。そのことを何よりも神さまが喜んで下さっているのです。教会とはこの恵みの救いに共に与った者同士の喜びの共同体なのです。

 お祈りします。

 神さま。あなたのものでありながら、あなたから迷い出て、あなたを忘れ、あなたなしで生きて参りましたわたしたち失われた者を、あなたはイエス様の十字架の贖いの働きによって取り戻してくださり、それをあなた自身の喜びとしてくださる神さまです。

 そのような喜びの対象とされておりますわたしたちが、自分自身をも教会の交わりをも大切にして、救いの喜びの中で生きることができますように導いてください。

 主イエスの名によってお祈り致します。        アーメン。

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「神は苦悩する人の傍らに」ルカ14:25-33
2022.9.4 大宮 陸孝 牧師
「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子であり続けることはできない」(ルカによる福音書14:27)
  本日の福音書の日課でありますルカ14章のところは、安息日の昼食に、あるファリサイ派の指導者にイエスが招かれて、その食卓で始まりましたシンポジウム(いわゆる卓上語録)というべきものが14章1節から長々と続いて、24節で一応終わり、本日の25節「大勢の群衆が一緒について来た」、このところから、また九章から続いていたイエスのガリラヤからエルサレムに上られる旅行の大筋に戻り、そのガリラヤからエルサレムへと向かわれるイエスの旅に大勢の群衆が同行しているという印象深い形をとっています。

 本日の25節から33節までで扱われております主題は何なのかということを、まず最初に明確に理解して読んで参りたいと思います。既にお気づきになったと思いますが、26節節と27節と33節に三度も繰り返して「私の弟子ではありえない」「私の弟子ではありえない」という言葉が出てまいります。この言葉を丁寧に言い直しますと、「わたしの弟子であることはできない」という文章になりますが、これはだれかがイエスの弟子になることができないとか、または自分は弟子だと思っていても、こちらはわたしの弟子だとは認めないとかいう意味の文章ではありません。「わたしの弟子であることをやってはいけない」という意味になる、このことをしっかり踏まえながら、本日の日課の所を読んでいかなくてはならないのです。

 26節に、「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、来たら」という表現が出て参りますが、これは主イエスが「一緒についてきた大勢の群衆」に向かって語られた言葉として理解することが出来ます。かなりの人数の人が主イエスと行動を共にしていたことが分かります。この人たちは、興味を持ってちょっとついて来たというよりは、一緒に旅をしていると言われるほど長期間にわたって、主イエスと行動を共にしていたと見ることができます。彼らなりに、主イエスに対する情熱と強い思いをもってエルサレム行きの主イエスの旅に同行していた人々であるということです。

 しかしながら主イエスは、彼らなりの熱心さを持ってついてきたこの大勢の人々と、弟子たちとを明確に区別しておられるのです。そのことは、この「わたしのもとに来る」というのは、イエスの招きに答えて先ずイエスの「もとに来る」、最初の一歩を表しますので、それから後、続いての信仰生活が、27節にいう「十字架を背負ってイエスについていく、ついて来る」という風に展開されていくわけです。これでおわかりのように、イエスさまは、「もし、だれかがわたしのもとに来るなら」と言われまして、「私のもとに来る」ことと「十字架を背負って付いてくる」ことととを区別しておられるということになります。

 大勢の群衆が主イエスのもとに来て、しかも相当の熱意を持ってエルサレムへの旅路を同行して行動を共にしている、そういう人が主イエスの周りにかなりの数いて、一緒に歩いていたのです。その群衆にむかって「十字架を背負って付いてくる」と言われたとき、その「ついて来る」は、まさしく主イエスのエルサレムへの旅路をその目的に沿って、つまり十字架への道行きをまっすぐに歩んでいる主イエスの後ろを、自分もその運命を共に担うようにして、主体的に主イエスに従って行くことを指しているのです。

 このことはただ単に歩き方の違いではなく、生き方の違いを言っているのです。群衆もまた主イエスに惹かれるものを感じていたでありましょう。あるいは人間を超えたものを、主イエスの中に見出していた者もいたかも知れません。しかしながら、彼らはなお、「自分が」興味を持ち、「自分が」惹かれるものを感じて、「自分の」判断で、主イエスと行動を共にしていた。その点で、彼らは、主イエスと共にいながら、依然として神の愛からは断絶していた。神とのつながりと信頼関係の中で主イエスに従っていたのではない。依然として人間のモノローグの中にいたのであるということになります。その点で主イエスに弟子としてついていくこととは明確に区別されているのです。

 26節を改めて読みますと、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子であり続けることはできない」また、それに続いて「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子であり続けることはできない」とこう言っていることになります。主イエスと共に信仰の歩みをして行くことは、主イエスに信仰において従い、弟子入りする入門のところを、そしてそれから後の信仰生活においても、こうこうでなければ、「わたしの弟子であり続けることはできない」といって決断を求めておられるのだということになります。

 主イエスは決して家族を否定しているのではありません。またわたしたちが親しい友人を持つことを拒否することもなさらない。むしろ家族のために温かい配慮をしたり、親しい友人を得て深く温かい交わりを持つことは許され、認められ、祝されている。イエスに従うということは、人々といがみ合ったり、対立したりすることでもなく、また人々から孤立することでもない。イエスがここで問題にされているのは、大切な身近な人々に対するわたしたちの自主性と自由の問題であり、イエスに真実に従うためには、親しい者たちへの思いや、人間的なつながりや愛をも超える勇気が必要であり、血縁・地縁・義理・人情といったこの世のものからの真実な自由を求められるのだと言えます。イエスが敵をも愛せと語りながら、近親者を憎めと言われたのは矛盾しているようであり、わたしたちはまさにその逆をとりがちであるのですが、しかし、イエスはここで、ただの愛着、ただのお人好し、追従の愛、(旧約では「骨肉に身を隠す」と言う表現で言われています。)は許されないことを明らかにし、愛の完全さと純粋さを要求しておられるのです。すべての人間的制約から自由にされ、その自由な愛のもとに「まず、神の国と神の義とを求める」真実な祈りと願いをもって、ありのままの自分をすべて捧げて決断を主体的にして行くことを求められているのです。

 弟子たる者の主に従う信仰を問われたイエスは、エルサレムでの十字架の受難を予告されます。つまり、あなた方が従おうとしているイエスはこれから、救い主としてこの世の権力や栄光の座につくことではなく、必ず人々から捨てられ、苦しめられて十字架につけられることを明らかになさいました。そしてこのイエスに従う者は、自分の十字架を負うて従わねばならないと明言なさいました。この二つは切り離して考えられてはならないのです。しかし、このことが繰り返し分離され、イエスの命令は道徳的に人道主義的に理解されてしまうことが多いのです。「自分の十字架を負う」とは、自分の時間や経済や思いや欲望を捧げて、苦しみに耐えてまじめに生きることと理解されてしまいがちです。しかし、主イエスはまず、わたしたちに先立って自ら十字架を担われた方です。その主の愛に対して応答しようとする者に、自分が歩もうとする道について充分に考え、知り、決意して従うことを求められているのです。主イエスに従う者は思慮深く、永続的に生涯をかけて従うことを求められます。そのような信仰の歩みは、人生の大事業であり、その生涯をかけるに値する充実した喜びの歩みであるのです。

 ルカ福音書の中には、失われた者を探し出される~を主題にしたイエスのたとえ話がいくつも出て参ります。そこには失われた者を見出すために自らも失われた者のようになりたもう~が語られております。それはまた、~が無力な者をお助けになるために、自ら無力になられる物語でありました。具体的にはあの放蕩息子のたとえ話の中で、その父親がこの放蕩息子を迎えるときに、まことに無力な姿で息子を迎えることによって、ただ形の上で憐れみを示すというのではなくて、この息子のまことに無力な状況に自らを同一化される、そういう神の姿が現わされているのであります。そのどこまでも憐れみ深い方であられる神さまと、自分の命までも捨てろと言われる要求と、そのどちらがイエスの真実なのか、そこにはどのような関連があるのか、本日の日課からそのことを考えさせられるのであります。

 ~が無力になられる、あるいは無きに等しい者と等しくなられるために、自らも無きに等しい者となられるということは、実はこれは本当に苛酷な現実であります。それはわたしたちの経験を考えて見ればよくわかるのです。わたしたちは本当に無きに等しい者のために共に無きに等しくなることが、果たして出来るのかと言うことを考えますと、そうはなれないわたしたちであることに気付かされます。それは決してなまやさしいことではありません。そしてまた、神さまが無きに等しいものになっておられることにわたしたちがそのまま自分の身を重ねることもまた容易ではありません。端的にいえば、わたしたちは、自分が負っている負の部分、あるいは他の人に比べるならば欠けるところのあることを、自分自身で認識することはなかなか難しいことです。自分自身の負の部分をさえ自分自身で認めることが難しいのに、ましてや他の人の負を自分のものとして負うなどということはわたしたちにできる訳がありません。ですから、わたしたちの負を~自ら負われるというのは、甘いように思われることですけれども、実は大変厳しいことなのだと思うのです。~が人間をお救いになるために、人間というこの負の存在までご自身を同化させるというこのメッセージは厳しいメッセージであります。

 様々な人生の厳しさを語るイエスの言葉にしても、自分の厳しい現実の中に突き刺さってくる言葉として聞いているかと問いかけて来るような面があります。「あなた方は人生の悲しさ、喜び、あるいは人生の厳しさをしきりに詠うけれども、しかし、人の命が落ちていくという人生の厳しい現実の中に、言葉を失ってもはや何も言うことはできないのではないか。わたしたちが障碍を負っている人の障碍を共に担うなどと言っているけれども実際に担っているのか、差別をされている人のその差別をわたしたちは理解しているなどと言うけれども、そんなことをわたしたちは言えるのか。主イエスは自分自身の生涯をそのような厳しい問いの中に置いて、わたしたちの現実を鋭く描き出しつつその現実を負って十字架に赴こうとしておられると言うことです。

 イエスには、選び出された十二人の弟子たちがおりました。彼らと日常の生活を共にし、一緒に食事をし、一緒に喜び、一緒に悲しみを味わった。しかし、その弟子たちの中からユダのような人物が出てきます、その一人をすら救うことができなかったという現実があります。~が人となられるということの中にある、本当に胸裂かれるような神の側の厳しい現実を語っておられるのです。そのような厳しい現実の中でイエスご自身はわたしたちの友となろうとしておられます。

 要するに、~が人を救うためには実は~は死ななければならなかったのだと言っているのです。そのように厳しい現実が、わたしたち人間の世界の現実です。だからこそ神さまは空しくなられて、無力になられてわたしたちの傍らにいてくださるとは何と驚くべき恵みであることか。比喩的にいいますならば、イエス様こそ、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらにご自分の命まで捨てて、虚しくなってわたしたちの傍らにいてくださるのだということです。自分の命までも捨てて従ってこなければというこの言葉の厳しさの裏に、あなたの傍らに自分の命まで捨てて佇んでいてくださる方がいらっしゃるという驚くべき事実に気付きなさい、と言われている~の真実の恵みの言葉を聞き取らざるを得ません。わたしたちのこの世の旅の中で、しっかりと~の愛の厳しさと、恵みの深さ豊かさを受け止めて歩む信仰の歩みをなお続けて行きたいと思います。

 お祈りします。

 神さま。既に洗礼を受けてあなたの救いの中にいるわたしたちが、あなたの弟子であり続けるために、何が求められているのか、何が戒められているのかをいつも弁えて、試練や困難の中でわたしたちの信仰の道を見誤ることのないように、わたしたちを聖書の御言葉によって信仰の歩みを終わりまで守り導いて全うさせてください。

 イエス・キリストの御名によってお祈り致します。    アーメン。

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