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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年11月礼拝説教


★2023.11.26 「神をわたしの前に置いて生きる」マタイ25:31-45
★2023.11.19 「世界の危機を真実の愛をもって乗り越える」マタイ25:14-30
★2023.11.12 「神の愛に応答して生きる」マタイ25:1-13
★2023.11.5 「幸いなるかな、神の恵みの下に招かれる人」マタイ5:1-12


「神をわたしの前に置いて生きる」マタイ25:31-45
2023.11.26 大宮 陸孝 牧師
 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25:40)
 本日の福音書の日課は、十字架を前にして、主イエス・キリストが語ってくださった「キリストの再臨」と「最後の審判」について記しています。それはこの世の終わりに起こることです。それですから、未だ当分はわたしたちに関係のないことと考えてはなりません。それは今のわたしたちの生き方を根本的に問われているのです。個人的に見ても、わたしたちは誰一人例外もなく、生の終わりを、つまり死を迎えます。それがいつであるのかわたしたちにはわかりません。しかし、その日が何時か必ず来ることは知っています。わたしたちは死ぬべき人間として今を生きています。死ぬとは、どのようなことでしょうか、生きるとは、どのようなことなのでしょうか。死は、わたしたちにそのような根本的に大切なことを問いかけています。死は、生の意味と生のあり方を問うているのです。生は死を、しかしまた、死は生を規定しています。今は終わりを、しかしまた、終わりは今を規定しています。最後の死を思うことは、今を真剣に問うことです。そのことをよく心得て世の最後に起こること、キリストの再臨と 最後の審判について、御言葉の語るところを、わたしたちは今、真剣に聞くことが大切であります。

 この世の終わりに~によって最後の審判がなされる「主の日」は、旧約聖書の人々にとっては、恐るべき「暗黒の日」でありました。たとえば、アモスは次のように叫びました。「災いだ、主の日を待ち望む者は、主の日はお前たちにとって何か、それは闇であって、光ではない。人は獅子の前から逃れても熊に会い、家にたどりついても、壁に手で寄りかかると、その手を蛇に?まれるようなものだ。主の日は闇であって、光ではない。暗黒であって、輝きではない」(アモス5章18〜20節)。(旧約1435頁)

 それに対して、新約聖書は「終わりの日」を「目を覚まして待つ」こと(マタイ24:36節以下)、「油の用意をして待つ」こと(マタイ25:1節以下)は求めていますが、それは主の日がいつ来るかわからない(マタイ24:36節)からであって、「花婿が来るのを迎えに出る花嫁」のなすべき用意のように書かれています。(マタイ25章1節以下)。この旧約新約の間の違いの理由は、新約聖書の人々が「終わりの日に裁きのために来られる」「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来られる」方が、人の子であることを知っていたことにあります。今日の日課のところでも、その冒頭で「人の子は、栄光に輝いて天使たちを従えて来るとき、その栄光の座に着く」(31節)と書いてあります。「人の子」とは、地上を歩まれる神、すなわちイエス・キリストのことです。終わりの時に栄光に輝いてわたしたちのところに来られるのは、イエス・キリストです。飼い葉桶の中に生まれた、枕するところもない貧困と誹謗中傷にさらされながら、貧しい者、病人・罪人の友となって生き、わたしたちの罪の呪いを身に引き受けて十字架の上で死に、わたしたちの復活の初穂として三日目に死人の中からよみがえり、いま、神の右に座してすべてのものを支配しておられるイエス・キリストです。このお方が栄光の座にお着きになる。それは暗黒の日ではなく、「暗闇」ではなく、むしろ「喜びの日」であり、「希望の日」であることを主張しています。

 しかし、このお方が栄光の座に着かれます。「栄光の座につく」のはすべての者を裁くためです。すべての人をです。32節、このお方の前に、「すべての国民が集められ」ます。このお方の前で、わたしたちは誰一人の例外もなく、皆申し開きをしなければなりません。終わりの日は審判の日であり、一切のものに最後の決着がつけられる日です。裁くというのは、元来、物事をはっきりと分けることです。物事に白黒をつけることです。終わりの日に全能の神によって、すべての人に白黒がつけられます。

 主イエスはこのことを人々に教えるに当たって、いつものように、それを聴く人が皆良く知っている情景に訴えて、目の前に描き出すような仕方で、抽象的な言葉ではなく具体的なイメージで伝えようとされました。32節と33節、
 「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。

 当時のパレスチナの地方では、通常、羊と山羊は昼間は一緒にして飼われていましたが、夜は別々の部屋に入れられていました。羊は白い色をしており、毛も深く、新鮮な空気を好みます。それに対して、山羊は茶褐色をしており、羊よりも温かい場所で夜を過ごす必要があったからです。そのように最後の審判においては、白と黒をより分けるように判然と、すべての人が右と左に分けられるというのです。「右側に」置かれるのは、34節、「父なる~に祝福された人々」「~の国を受け継ぐ人々」です。「左側にいる人たち」は、41節、「呪われた者ども」であって、「永遠の火に渡される」と言われています。この分離峻別には、まことに峻厳なものがあります。新共同訳には一部訳してありませんが、審判者である王は右側の人々には、「こちらに来なさい」と呼びかけますが、左側に置かれる者たちには、「わたしから離れ去れ」と宣言します。このようにして、終わりの日に~の正義は貫徹される、と主イエスは言われます。

 このような裁き、分離の基準あるいは尺度は、一体何なのかが問題になります。~による祝福と排斥の基準は何でしょうか。それは、もちろん、~に対するわたしたちの態度です。信仰と言っても同じことです。しかし、良く注意しなければなりませんが、この尺度は~に対するわたしたちの直接的な態度ではありません。直接的な~への祈りとか礼拝とか、毎週欠かさず教会で礼拝を献げ、神の御業が促進されるために献金に励んだといったことが、ここでは問われていないのです。これらのことが神に嘉せられる特別な良い行いであることはいうまでもありません。しかし不思議に思われるかもしれませんが、審判の席に着いた王が人々に問うのは、「あなたは何をしてきたのか」「あなたはどのような生き方をしてきたか」と言うわたしたちの行いについてです。この王、すなわち栄光のキリストは、右に置かれた人々には、35節、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・・裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれた」と言われ、左側の人には「そのようにしてくれなかった」(四一節以下)といわれます。

 ここでは確かに、わたしたちの主キリストに対する、神に対する良い行為と良くない行為が問われています。しかし、その行為はわたしたちが毎日一緒に生きている隣人に対する行動の中で問われているのです。隣人との共同の生活の中で、キリストに対してどのような行動をしていたかが問われています。詩篇16編の詩人は「わたしは絶えず主に相対しています」(8節 旧約846頁)とうたいました。絶えず、いつも、常にです。日常の生活の中で、隣人との共同生活の中で、いつでも、常に「主に相対して生きている」「主をわが前において生きている」というのです。裁きの座に於いて、栄光のキリストが問われるのは「あなたが隣人との日常生活の中で『絶えず主に相対して生きたか』、『常に主を前に置いて生きて来たか』」ということです。

 きょうのマタイ福音書の日課に出て来る人々は、右にいる人々も左にいる人々も、このことを理解していなかったために、大変驚いて、栄光のキリストに問います。37節以下、「正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て、食べ者を差し上げ、のどが乾いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。・・・いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』」。左側にいる人たちは、もっと驚いて、言います。44節、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。それは本当でしょう。もしあなたが飢えておられる、喉が渇いておられるのを見て、どうしてわたしたちは知らぬ存ぜぬで、お世話をしないなどということがあるでしょうか。しかし、わたしたちは飢えておられるあなたにも、乾いておられるあなたにも、病気になっておられるあなたにもお会いしたことはありません。もしそのようなあなたにお会いしていれば、言うまでもなく、わたしたちは喜んで、どんなことをしてでも、お世話をしたことでしょう。しかし、一度もそのようなあなたにお会いしたことはございません。この人たちはそのように言いたいのです。それには嘘はないに違いありません。この人たちも~に対する敬虔を失っていたわけではありません。

 もし主が困窮の中におられたら、何はさておいても主のためにできる限りのことはする用意を持っています。しかし、日常生活の中で、そのような主に会うことはありませんでした。あの詩人のように、「絶えず主に相対して生きる」ことをしなかったのですから。自分の前に「常に主をおいて生きる」ことをしなかったからです。

 そこで、審判の座についておられるキリストは、右側に座っている「正しい人々」にこう言われます。40節、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。同様に、左側に座っている者たちに対してはこう言われます。45節、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」。

 ここにはキリストの「最も小さい者」との、さまざまな原因で困窮している者、助けを必要としている弱い者・貧しい者との「恵みによる同一化」が語られています。ここに「最も小さい者」に対して「した」あるいは「しなかった」わたしたちの行為が、~の最後の審判の尺度とされる第一の理由があります。もちろん、小さい者、弱い者、貧しい者、困窮している者そのものに何か特別な価値があるというのではありません。小さい者はそれ自体どこまでも小さい者です。困窮している者はただ弱り切っているだけのものです。そのような人々がキリストであるというのでもありません。この同一化は自然の同一化ではなく、恵みの同一化、存在の同一化ではなく、~の憐れみの意志による同一化であり、ただキリストの恵みと憐れみによって起こっている同一化です。キリストが、自由な恵みによって、この小さな者と御自身を同一化されるのです。

 あるいはまた、このキリストの言葉は小さい者に対するあなたがたの良い行いを「まるで、自分は小さい者であるから自分に対する他者の行いのことである」と考えるというのでもありません。あるユダヤ教のラビは、「わたしの子たちよ。あなたがたが貧しい人々に食べ物を与えるなら、わたしはわたしに食べ者を与えたかのように考える」という言葉を残しています。「まるで、・・かのように」ではなく、イエスは「小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」と言われます。事実として起こっている、キリストによる小さい者との自己同一化が語られているのです。貧しい、弱い、小さい人間が、ルターの言葉を借りて言うならば、「小さい一人のキリスト」としてあなたの前に立っていると言われるのです。この小さい者、困窮の中にある者において、わたしたちはキリストと関わっているのです。神を前にしているのです。人々の困窮の中に、神が共におられるのです。

 「最も小さい者」に対して「した」、あるいは「しなかった」わたしたちの行為が、神の最後の審判の 尺度とされる理由は、小さい者、弱い者、困窮の中にいる者に対する助けの行為こそが、「キリストに従う」信仰者の生き方であるからです。なぜならキリストご自身のそのご生涯は、いつも小さい者、虐げられた人、苦境の中にいる人の隣で、その人たちと一緒に、一つになって生きるご生涯であったからです。キリストは誕生の時から既に「飼い葉桶の中」という人生の「どん底」を選ばれ、闇に悩む人々に手を差し伸べ、貧しい人に福音を宣べ伝えて生きられました。イエス・キリストは、悪霊に悩む者からは悪霊を追い出し、医者を必要としている病人の医者として生きられ、迷い出た一匹の羊を見つかるまで探し求めて歩く羊飼いのように罪人を愛して捜し、そして、最後には十字架の上で「罪人の一人」に数えられることを厭わないだけではなく、喜んで罪人の立場に立たれます。神の御子は、人々に仕えられるためではなく、喜んで罪人の立場に立たれました。神の御子は、人々に仕えられるためではなく、仕えるために人となり、その御生涯を送られ、十字架上で死ぬことを選ばれ、事実そのように死んでくださいました。病める人が癒され、罪人が赦されて、神の民となるためです。主イエスは今も憐れみの眼差しをわたしたち一人一人にいつも向けていてくださり、恵みの御手を差し伸べていてくださる。わたしたちの方からもその恵みの手に自分を委ねて、神との生きた関係を取り戻し、神の新しい命を生きる者とされたい、主をわが前において生きる者でありたいと思います。

 お祈りします。

 最も小さい者をも愛して、御子をおつかわしになった父なる神さま。

今日の聖日もまたあなたの御前にこのように召し集められて、御名を讃美し、御言葉の豊かな養いにあずかることができましたことを感謝いたします。どうかわたしたちの信仰があなたとの生き生きとした恵みの御業にしっかりと繋がって、愛の奉仕を行うまでになることができますように、わたしたちが主イエスが愛された最も小さな者を、報いを全く期待しないで愛する日々を通して、主のおいでになることを待ち望む歩みをさせてください。

 主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。     アーメン

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「世界の危機を真実の愛をもって乗り越える」マタイ25:14-30
2023.11.19 大宮 陸孝 牧師
 「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くんものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイによる福音書25:21)
 エルサレムに入られた主イエスは、神殿の境内に於いてユダヤ教の指導者たちと論争に入られ、彼らの偽善的なあり方を鋭く批判されたことが21章23節〜23章39節に記されております。その論争が終わり、主は神殿を出られて、弟子たちだけを相手に終末に関する長い説教をされる、それが次の24章3節から25章46節までに書かれています。その後半部分24章32節〜25章46節に本日の日課であります「タラントンのたとえ」が置かれています。主は、終末は突然主イエスの再臨と共にやって来ると語られ、その時に備えて、主の再臨までの中間期を心して生きるように、終末のことを常に注意深く自覚して生きるようにと語られています。特に24章45節からの三つのたとえは、一貫してこの中間期をどのように生きるか、その信仰の歩みについて語られているところです。このたとえは弟子たちに語られていますので、マタイは同時にこの中間期を生きる教会に対しての勧告の言葉として語られたのだと訴えていることになります。。

 マタイは本日のたとえの冒頭にホースペル・ガルという言葉で書き始めます。この「ガル」という言葉は「なぜならば」という意味の接続詞ですので、前の記事の理由を説明し、その内容を敷衍(ふえん)する、つまり、詳しく説明する趣旨で語られているということであり、以下のたとえは前の「十人の乙女のたとえ」をさらに補足するために、マタイがここに配置したと解釈できます。その内容について見ますと24章45節以下の記事と同様に、主人の不在中僕たちはどうしていたかということが、共通の主題となっています。つまり、僕たちが主人の不在によって与えられた自由をどのように用いて生きていたかということが、主題として一貫しているということです。

 そこで、この主人は「それぞれの力に応じて」一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン与えたというのでありますが、注意深く吟味してみますとここに既に一つの隠れた主題が伏せられていることに気付かされます。常識的に考えますと、五タラントン、二タラントン、一タラントンというふうに、与えられた額に従って能力の差が生じるというのが、自然の成り行きであろうと思われますが、しかし、ここでは逆に「それぞれの力に応じて」異なる金額が与えられたとされています。その場合の「能力」とは、何を指しているのだろうかという疑問が生じてきます。

 この問題を突き詰めて行きますと、「それぞれの力」というのは、量的に測定できるような力の多少という意味ではなく、与えられた賜物(タラント)を十全に用いようとする心のあり方、熱意、というほどの意味に解釈され、そういう意味に於いての各人の処理能力に応じて、主人は僕たちにタラントンを託して行ったという話しの筋になるということです。タラントンという言葉は元来重さの単位でありましたが、ここでは通貨の単位として用いられています。銀貨一タラントンは六千デナリです。当時の労働者一日分の賃金またはローマの兵卒一日分の給与がほぼ一デナリであったということでしたから、仮にこれを一万円として置き換えて換算してみますと、一タラントンは六千万円、五タラントンでは三億円もの巨額に達します。これは一つには、いかに絶大なる賜物を神から授かっているかと言うことを暗示する趣旨も含んでいるということでもあります。

 それで、五タラントンを託された僕は、早速出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけたというのですから、積極的で行動的に、与ったものを活用したということです。それだけではなく、一タラントンを地中に隠した僕との対比で見ますと、主人に対する愛に燃えていたと言う含みが、ここに前提されていると見ることが出来ます。つまり主人の期待に進んで応じようとする姿勢があったということです。別に五タラントンを設けるためには、身を挺してリスクを冒さなければならなかったに違いありません。その熱誠に対して、僕は「忠実な良い僕」として評価されたのでした。さらに、ここでは「良い」ということと「忠実」ということが、同義語のように並んでいる事に注目して見ますと、忠実とは、主人の意思に従い、託された任務を忠実に果たすことでありますが、それが同時に善悪の判断の基準にもなっているのです。そしてまた、この主人に忠実であることの報いとして、より多くの課題が与えられたという点にも注目することが重要です。何らかのご褒美をいただくというのではなく、さらに多くの責務を与えられ、力を込めて主人のために働くことを通して味わう命の充実を、恵みの賜物とするそういう価値観がここにはあるのです。そして、次ぎに二タラントンを託された僕が登場しますが、この僕にも五タラントンを託された僕同様のことが起こります。このことから、五タラントンあるいは二タラントンという数自体に意味があるのではなく、問題はただ、託された賜物をいかに忠実かつ賢明に活用するかという点にあることを示しているということです。

 そして最後に、一タラントンを託された僕が登場します。このたとえの中心はここにあることがはっきりと覗われます。この僕は「恐ろしくなり」託された一タラントンを地中に埋めるのですが、これは思わぬ事故や失敗による損失を防ぎ、絶対的な安全を計ろうとしたと言う趣旨であります。僕はこれに対して「怠け者の悪い僕」という叱責を受けます。先に「忠実」が「良い」と等値されていたと同じように、、ここでは「怠け者」が「悪い」とされているのです。そしてここで言う「怠け者」とは、主人の意思に対する不忠実という趣旨で言われているのです。本当に主人の心をわが心としていたならば、託されたタラントンの活用に当然心がけた筈であります。事業にまつわるリスクを避けたいというならば、せめて銀行に預金して利子を挙げる配慮ぐらいは出来ただろうに、それすらしなかった。ということが「怠け者」として叱られた理由です。こういう結果を招いた原因は何かを、この僕自ら次のように語っています。

 「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」(24節)

 「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める」というのは、種子を蒔くこともしないで収穫だけをを得ようとする、または羊の群れを野に連れ出すこともしないで、多くを集めようとすることで、つまり自分では何もしないで収益だけを求める強欲な人間という意味になります。主人に対するこの僕の理解あるいは無理解がこういうものであったとすれば、僕としては不安に陥り、恐れを抱くのも無理からぬことでありましょう。タラントンを地中に埋めたのは、単なる無精のせいではなく、この恐れの結果だということが、このたとえの要点であるということになります。そしてまた、身の安全を求めてタラントンを地中に隠したのは、主人の意思を洞察してそれに従おうとするのではなく、自分の事しか考えない自己愛の結果でもあることがここで明確になります。

 主人に対する不信と自己愛という二つの要因が、この僕の行動を生み出したのです。これに対して主人の叱責を受けたのは当然の結果でありますが、「そのタラントンをこの男から取り上げて、一〇タラントン持っている者に与えよ」というのは、意外な処置であります。通常の処置ではありません。この僕は預かったタラントンを誤魔化したというのでもなく、積極的に悪事にそれを用いたわけでもありません。それを素直に返却しただけですから、処罰に値しない。無罪であると見做されるのが当然の処置でありましょう。よくよく考えて見ますと主人はそのように判断したからこそ、宝の持ち腐れとならぬように、より有効に活用できる人の手にそのタラントンを渡したのは、きわめて合理的な処置とも見ることができます。「何かものを頼むときには忙しい人に頼め」とはよく言われる格言であります。積極的に他者のために働く人は当然のことながら忙しくなります。このたとえは本来はここで終わっていたものと思われますが、マタイはこの後に、この処置についての解説的記述をさらに続けています。

 29節〜30節 このたとえの結びの部分です。経済上の原則として、多くの資本を持つ者はその資本によってますます富を蓄積するが、貧しい者は競争に負けるので、持っている僅かな資産まで取られてしまうという非情な現実がありますが、信仰の世界にも同様のことが起こるという衝撃的な発言です。そしてこの語録は、他のマルコ資料にも出て来ますので、新約時代にかなり流布していたイエス語録と見ることが出来ます。その含蓄は、神の恵みは全ての人に臨むという意味では万人平等ではあるけれども、それは機会均等という人類に臨む均等化を意味するものではなく、富む者はますます豊かになり、持たない者は持っているものまで取られるという、平等とは一見矛盾する現象が、信仰の世界にも見られるという趣旨になり、教会の現実的な状況の認識がここにあると見受けられます。教会のそうした状況になることを、「神への不従順に対する裁きの結果」として受け止める極めて重要な視点がここにはあるのだということであります。

 一見して分かりますように、マタイ福音書においては一タラントンを活用しなかった僕に対する叱責は、28節で既に明言されていますが、24章51節にこれと同じ言葉が出て来て、さらに、本日の日課に続く31節以下に壮大な裁きの場面が続いているその文脈の流れに沿って見ますときに、この一連のたとえが常に「裁き」を巡って展開していることは明らかであります。

 わたしたちはここに立ち止まって、24章の冒頭の「神殿崩壊の預言」以下ここまで、終末時についての叙述がどのように展開して来ているのかという消息を、もう一度振り返って見る必要があるかと思います。神殿と律法による古い秩序が崩れ去って、天変地異がこれに伴い、信徒の群れは前途への展望のない混沌の中に突き落とされる経験をするのですが、人の子が天の果てから天の果てに至るまで、散らされた神のものとされた信仰者の群れを集めてくださるというこの一点に集約されているメッセージにこそ、初代教会の人々は唯一の希望を置いていたのだということです。それゆえにこそ、この救い主なる「人の子」地上を歩まれる神に対する信仰と忠誠をいかに守り抜くかということが、文字通り生きるか死ぬかの問題となったということであります。「目を覚ましていなさい」という戒めを中核にした三つのこのたとえを、マタイがここに一括して配置したのはまさにこの問題の重要さのためであろうと思われます。

 ここでは「裁き」と「救い」が不分離一体の関係にあるということであり、マタイは教会の危機的な状況の中で、一方では救いを語りながら、同時に裁きの厳粛さをも併せて表明せざるを得なかったということです。一見唐突に見える30節の言葉も、前後の文脈に即するものとして受け止めることができるのです。

 そしてそれに併せて、「愛」ということが、これまでの文脈の底流をなしていることにも、わたしたちは注目していかなければならないでしょう。「一〇人の乙女のたとえ」においても、花婿に対する彼女たちの愛が、その備えを左右する要因となっていたと見られます。続くタラントンのたとえにおいても、単なる資産運用の能力ということだけではない、主人に対する熱愛と主人の意思への洞察と忠実が、明暗を分ける分岐点となっている。全てが揺れ動いている闇の時代の試練に耐える道を、「神の救済愛」への応答を基準として叙述するマタイの筆致は、極めて深い含蓄を持っているということです。

 以上を踏まえてタラントンを生かし用いて行くとは、具体的には何を言い表したのかということをさらに吟味していく必要があります。これは勿論わたしたちの世界の経済的な利殖の意味ではないでしょう。24章以下の文脈に当て嵌めて考えますならば、主イエスより賜る霊的な力に支えられて生きること、中でもその神の愛の力に新たに生かされているわたしたちの恵み溢れる命を、世界に向けて証する生き方をして行くことによって、神の国を推し進めて行くことであるということが示唆されているのではないでしょうか。しかもこれは、わたしたちの命をかけ、存在を掛けた神の愛への応答でなけれならない。そこに身を挺して行くこを求める勧告であり、厳粛な決断への招きでもあると、わたしたち一人一人が受け止めて行くことが大切です。

 お祈りいたします。

 この世のわたしたち一人一人を愛しておられ、そのあなたご自身の愛の故にわたしたちのもとに、御子をおつかわしくださった父なる神様。

 本日の主日もまたあなたの御前にわたしたち一人一人を召し出して、御名を賛美し、御言葉の豊かな養いに預からせていただきました事を感謝致します。

 わたしたちはかなり長い期間にわたって24章のところからずっと救い主が再びこの世においでになって、最後の審判がなされる、世の終わり、終末を迎えるということを告げ知らされて来ました。

 毎日の生活に追われて過ごしているわたしたちにとって終末や救い主の再臨ということは余り現実性をもってとらえることのできないことがらですが、しかし、この聖書の御言葉を通して、それが、わたしたちの毎日の生活に深く大きく関わっていることを何度も指摘されました。わたしたちが「目をさまして」いつその時を迎えても後悔しないように、日々あなたの御言葉によって導かれて、あなたの生命にしっかりと繋がり、あなたの愛に応答して生きて行くことが出来ますように、御言葉をしっかりと聞き取り、生命の力としていくことが出来ますように、わたしたちをあなたの霊の力によって支えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「神の愛に応答して生きる」マタイ25:1-13
2023.11.12 大宮 陸孝 牧師
 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイによる福音書25:13)
 教会の暦は、一般の暦と少し違うところがあります。一年の歩みがクリスマスの四週前の待降節、アドベントから始まります。今年の待降節は12月3日から始まりますので、わたしたちは今教会暦の一番最後の時期を過ごしていることになります。

 この教会暦の最後の時期には世の終わり、そうしてまた、わたしたち一人一人の人生の終わりについて特に心を向ける時節として守られて来ています。教会で昔から行われている神のもとに召された信徒の方々を特別に記念する礼拝も、この教会暦の最後の部分で成されて来ています。11月の最初の日曜日つまり先週がその日に当たる召天者記念礼拝を守る日とされ、先週わたしたちはその召天者記念の礼拝を守りました。これは、わたしたちの信仰は神の国を目指すものであること、また、主の前に最後の審判が行われることを厳かに覚える時でもあります。ヨハネ黙示録にもありますように、初代教会の祈り「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)と主イエスの再び来たりたもう、再臨を待ち望む待望・希望の時節なのです。

 このような時にわたしたちに与えられている福音書の日課は、マタイ福音書の25章の始めのところです。このところは、他の福音書にはないマタイの独自の記事です。マタイはこの前の24章42節に「目を覚ましていなさい」という警告のことばをしるし、不在中の主人がいつ帰って来るかわからないというたとえを用いて、財産の管理を託された僕たちの心構えを語りましたが、続く25章にも、同じ主題を巡るたとえを更に二つ追加して記して行くのです。(1節〜3節)これはいずれもマタイの特別な資料です。花嫁の到来を待つ乙女たちの心構え(1節〜13節)、そして、来週の日課となっています、主人不在中の僕の心構え(14節以下)という流れですが、何か首尾一貫していない印象を受けるのです。それは、この1節から13節の部分が後から付け加えられ結語とされたという事情によるのではないかとも推察されます。と言いますのは、このたとえのもともとの本体はイエスに遡るとしても、その語録が流布していた当時の状況を考えて見ると、今にも実現するかと期待されていたイエスの再臨が思いの外遅れて、再臨はすぐには実現しないという初代教会が直面している事態の中で、このたとえが語られているという教会の様子が覗われるのです。そういう状況の中でこのたとえは何を語ろうとしたのか、その趣旨を汲み取るのがわたしたちのすべきことであろうと思います。

 天国を婚宴に擬える(なぞらえる)たとえは、22章にもありましたし、ルカもその福音書の中に、主人が夜遅く婚宴から帰ってくるたとえや(12:36以下)、婚宴においての席順についてのたとえを収録しています。(14:8)そればかりではなく、ヨハネの黙示録でも天国が「子羊の婚宴」になぞらえられている(19:9)。これはユダヤ人の慣習として、婚宴がきわめて重要視されたという事情もありますが、神あるいは王の「聖なる結婚」という考え方が旧約時代以来存在していたということが歴史的背景になっていると考えられます。そういう背景の中で、天国を神の救済愛の完成の場所として表現するのに、結婚という比喩を用いるのは適切な表現であったということのようです。

 本日の日課のたとえの中では、愚かな乙女と、思慮深い、あるいは賢い乙女とが対置されていて、この対置がこのたとえの主題であることは明らかでありますが、この両者の賢愚の差は、量的に見た知性の多少ということではなく、来たるべき事態に向けて準備をしていたかいなかったか、という一点に焦点が当てられています。「目を覚ましていなさい」という最後の勧めも、この文脈の筋を捉えて見れば、「備えをしていなさい」という趣旨であることは明確であります。ですからこそ、十人の乙女がみな寝込んだということ自体は、咎められていないということなのです。

 花嫁がまず新郎の家に導かれ、そこへ後から花婿が来るという状況でこのたとえの具体的な展開が設定されます。その花婿の到来を迎えるために、十人の乙女がともし火を手にして待機するというのがこのたとえの筋であります。この「ともし火」と訳した言葉(ランパス)は、たいまつの意味にもなりますし、ランプの意味にもなるのですが、、いずれにしても、これが燃え続けるには、油の補給が必要なのですが、愚かな乙女たちは、その準備を怠ったのでした。ですからいざ花婿登場というときに及んで、困り果てた彼女たちは、事前に油を用意していた「賢い」乙女たちに分けて欲しいと願い出たのですが断られてしまいます。このすげない拒絶を、無慈悲な行いとして非難すべきことではなく、これはことがらの性質上、油の分与は不可能であると解釈すべきことが、次の「分けてあげる分はありません。つまり、わたしたちとあなたがたの両方には足りません」という言葉に暗示されていると見ることができます。

 そして断られた乙女たちは、店に買いに行ったというのですから、これは不可能なことを皮肉で言われて拒絶されたということでもないようです。いったい夜中に店が開いているのかという問いも出て来ますが、婚宴の賑わいの中で店は開いていた、という含みがあるようにも見えます。しかし、そのような付帯事項は余計な詮索であり、このたとえの主眼点はただ一つ、花婿の到来を迎えるのに間に合わず、婚宴に連なることができない人々が出る、という一点であり、そして、「ご主人様、ご主人様開けてください」という懇願に対して、「はっきり言っておく(アーメン)わたしはお前たちを知らない」(12節)という厳しい拒絶を受けているのです。この言葉は、先週の日課のマタイ5章の山上の説教の終わりの7章23節「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と記されている拒絶を想起させます。

 天国を婚宴に擬える(なぞらえる)比喩的な表現がマタイ9:15、マルコ2:19、ルカ5:34にあり、そこでは、花婿が一緒にいる間は婚礼の客は断食できない、とされています。この婚礼の客(男性複数名詩)はイエスの弟子たちを指していると見られますが、25章のたとえでは、これが花婿の到着を待つ乙女たちに変わっています。この二つの用言形式を対比させながら、さらにパウロの発言に目を向けますと、重大な展開がそこに見られます。パウロはコリントの信徒に宛てて、「わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに捧げたからです。」(Uコリント11:2)と書き送っています。つまり、キリストと信徒との繋がりを、婚約の間柄として述べているのです。当時コリントの信徒たちがあらぬ方向に迷い出て、「キリストに対する純粋な信仰と貞潔を失いはしないか」とパウロは憂慮しているのです。

 そしてこのように、婚約関係として信仰を叙述する表現形式は、ヨハネ黙示録にも踏襲されて、天国が「子羊の婚宴」として描かれております。このような所見を踏まえた上で改めてマタイの語るたとえに戻って見ると、花婿の到来を待つ乙女たちの姿は、このマタイのたとえでは侍女として描かれているのですが、実は花嫁に擬える(なぞらえる)べきものではないかとも思うのですが、しかし、花嫁としたのでは、それは一人に限ってしまい、そのことによって、多くの信徒を代表することはできない。それで、花婿を待つ侍女たちがここに登場していると考えられます。そのことを鑑みるときに、ともし火のため油を準備するかしないかの配慮の相違は、花婿なるキリストへの熱愛が、信徒一人一人の生活を現実に規定するものとなっているかいないかという点での相違であるという含みを持っていると理解できるのです。

 マタイ福音書24章の冒頭に戻って読み直して見ますと、ここは終末時の預言を一括編集しているマタイの構想の文脈であることを確認できます。そこには神殿崩壊の預言から始まり、恐るべき艱難が予見されています。そればかりではなく、、星は空から落ち、天体が揺れ動くという事態さえ、予見されているのです。つまり、生命の基盤を支える確かさが、全て崩れ落ちるという予見がなされているのです。そのような全面崩壊の中にあって、人の子、この世界においでになったイエスが、御使いたちを遣わし、選びに与った人々を呼び集めてくださるということが、救いの唯一の根拠として示されています。(24:31)本日の日課をこの文脈の中において見るときに、信徒個人個人がいかにして救いに与ることができるのかという問いが、焦眉の急を告げる問いとして押し迫って来ることになります。

 そして24章45節以下のたとえでは、終末の日を無視し、この世の享楽にのめり込む者にいかなる裁きが臨むかという警告が主眼となっているのですが、続く第二のたとえでは、重点の置き方が変わってきて、主の再臨を待ち望み終末待望に生きるとは言うものの、日ごとの生活への配慮を欠くという、逆の欠陥に対する警告を主眼としているのです。ここで求められている配慮あるいは備えとは、具体的にどうすることなのか、その内容についての指示はありません。指示はないのですけれども、ここで問題にされている「ともし火」とは「信仰」のこと、「油」とは「聖霊」のことと言った具合に、象徴的な意味に捉えることも可能ですが、油を備えるとは具体的にどうすることなのかこの問いに対しては、続く一四節以下のたとえをもって答えようとした、というのがマタイの編集上の意図なのではないかと思います。14節以下は次週の日課ですのでそこで掘り下げて参ります。

 以上のことを踏まえた上で、わたしたちはここでのたとえの中から何を汲み取るべきなのか。ここで花婿と言われているのは明らかに再臨のキリストのことです。教会は昔から繰り返し再臨のキリストという花婿を待ち望む花嫁というようにたとえられて来ました。教会は、つまりわたしたち信仰者の群れは、再臨の主を待ち望む心をしっかり持ち続けなくてはならない、それで最後に勧められていることが、「だから、目を覚ましていなさい」という結論になっていることに注目すべきなのです。単純に言えば、「目を覚ましている」ことは賢さの条件ではありません。賢い乙女もまた愚かな乙女と同様に眠り込んでしまっていたのです。だとすれば、目を覚ますということは身体的な意味というよりは、霊的な意味で目を覚ます、つまり、再臨の主を自覚的に待ち続けることだと言えるでしょう。

 うっかり主の到来が遅れた時のことまでは考えていなかったというのでは、目を覚ましていたとは言えないのです。「あなたがたはその日、その時を知らない」という主の言葉は重みのある言葉です。まさかまだだろうという心の緩みは許されないのです。愚かな乙女たちは決して投げやりな生き方をしていたわけではありません。彼女たちもまた花婿を待つという希望に生きていました。しかし、希望によってこそいかに堕落しうるかということをイエスは、弟子たちに示そうとしたのだということです。愚かな乙女たちは確かに希望を持っていました。わたしたちだってと、教会もまた声を大きくして胸を張って主張しうるのですが、しかし、中途半端な希望、油までは用意していない希望は、それによってこそわたしたちを堕落させてしまうこともありうるのです。わたしたちはそうならないように、主の助けを仰ぎ望みながら、中途半端な希望ではなく、油を用意する賢い希望を持って、「主よ来てください」と、心から主を持ち望む信仰の歩みを続けて行きたいと思います。

 お祈りいたします

 主イエス・キリストの父なる神様。一年の教会の歩みもあと二週間と迫る中で、あなたを礼拝し、御言葉の養いを受けるためにこの礼拝にお招きいただいておりますことを感謝致します。教会暦の最後の時に、主イエス・キリストの再臨によって、あなたの救いの御業が完成し、御国が到来する日のことを思いを寄せて過ごすことができますように導いてください。わたしたちはその日その時がいつ来るのか、全く知りません。わたしたちの人生がいつ終わり、あなたの御もとに召されるのかもわたしたちの思いを遙かに超えています。どうかその時をいつ迎えてもいいように、わたしたちの主を待つ心の油を、充分に備えることができますように、一人一人に聖霊の導きを与えてください。

 これからクリスマスを迎えようとしています。その備えも、「目を覚ましている」思いを持って、教会でなければ出来ない備えをし、その備えを持って、まだあなたを知らない、この世の多くの人々と共に、主をお迎えする喜びを共に感謝し、喜び、あなたの御栄えを著していく良き備えをさせてください。

 健康を害し闘病の生活を送っておられる方々、また家族の病人の看取りのために労して日々を送っておられる方々をどうか顧みてください。人生の厳しい戦いの中におられる方々に力と希望を与えてください。この教会の群れを離れて遠くの地にある人たちを守り、主にあって一つとされている恵みを感謝することが出来ますように、わたしたちの国の中でも、国際社会においても、御心が天で行われるように、この地でも行われますように導き、わたしたち教会に召された者たちがあなたの御旨に従って、御栄えを現す歩みをすることができますように、一人一人を導いてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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「幸いなるかな、神の恵みの下に招かれる人」マタイ5:1-12
2023.11.5 大宮 陸孝 牧師
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:3)
 本日は全聖徒主日で、それに合わせて、マタイ福音書5章1節から12節までが福音書日課となっております。ここは「幸いである」という八つの呼びかけがなされているところであります。一節「イエスはこの群衆をみて、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた」とあります。ここで言う「群衆」とは、4章25節に記されております、各地からやって来た大勢の群衆のことでありましょう。「イエスが山に登られた」という言葉には、定冠詞がついていますので、「その山」という特定の山という趣旨になるのですが、それがどこかは明らかではありません。そして3節から7章の終わりまで「山上の説教」と称される説教が続いて行くのですが、このマタイの編集では、イエスがこの山の上で、この一連の教えを語られたことになっています。しかし、これだけの教えを一挙に語ったとは考えにくいことで、実際には、イエスはこれらの教えを公生涯を通して、折に触れて教えられたのではないか、それをマタイが後で一括編集したのではないかと見るのが自然なように思います。この教えの中には、イエス昇天以後に、御霊によって伝達された預言に属する言葉も含まれています。

 「山に登られた」という記述は、特定の場所への移動を語るというよりも、象徴的な意味を持つ言葉という視点で見たときに、この山がどこにあるかということにはあまり意味がなく、「山」ということで想起されますことは、モーセが十戒を授かるために、シナイ山に登ったという故事であります。イエスの生涯がモーセと対比されていることは、2章の誕生物語でも既に見られるところであります。実はマタイ福音書全体が、モーセ五書とよく似た構造をしているということが指摘されています。マタイ5章21節以下には「しかしわたしは言っておく」という書き出しで、モーセ以来の伝承にイエスの言葉を対置しているこの言葉が六回も繰り返されていることからも、ここでイエスが「山に登られた」と記述している背後に、シナイの山に登って神の十戒を受けたモーセが想起されていたとみることは極めて自然な推定であるということです。つまり、モーセによる旧約律法に対して、神の子イエスによる新しい福音がここに宣言されているのだとうことになります。

 それで、このイエスの説教でありますが、前述のようにイエスが公生涯に亘って折々に人々に教えられたものであり、内容も濃厚であり、一度の説教でこれを語り尽くすなど、とても出来ないことでもあります。全体を概観すると3節からの祝福を宣言する「さいわいである」の四つの言葉はそのいずれも、困窮にあえぐ人々に対する救いの約束という点で一致しております。これは、単なる幸福追求の是認ということではなく、人間の罪の脅威の下に、危急に晒されていた人々の生命を、神の恵みと愛の支配の下に奪還するという趣旨であったろうと思います。それがやがてこの世の罪の困窮からの解放に留まらず、神の前に低く頭を垂れ、罪深き自己の根源的な空しさを知り、「心の貧しさ」という含蓄に深められていったということではなかっただろうか。そして、「義に飢え渇く」という言葉も、ただ単にこの世の社会的な正義の危急に留まらず、神の御前に義とされんことを慕い求め、人間が自ら義人たることのできない罪人の内的な苦悶の表現を読み取り、そこへ、イエスの祝福への招きを受け、その恵みの御手のなかに抱かれた信仰者の中に、神の超越的な創造の御業が行われることを宣言しているということなのだと理解できます。

 後半の7節「憐れみ深い人々は、幸いである」「憐れむ」ということは、本来神がその被造物に対して示す、心の痛みを内に秘めた、愛の発露です。人が人を憐れむということもありますがその表現の中には、一段高い所から他を見下ろしている趣がありますので、人については余り用いられません。新約聖書の中では「憐れみ深い」(エレエーモン)という形容詞は二箇所にだけ出て来る言葉です。これは神を信じる信仰者は、神の憐れみにすがる以外に、生の基盤を持たないということであり、わたしたちの礼拝式文でも「主よ憐れんでください」と繰り返し神に祈願している言葉です。その憐れみは、罪の赦しに極まっていて、その恵みに与った者は、その喜びと感謝を隣人に対する愛として捧げていく者へと、変えられてゆくことになります。こうして人は、隣人の悲しみや苦しみを、我がこととして共に担う者に変えられて行くのです。神のこのような、救いの恵みによる創造の御業に与るように招かれている人々を「幸いである」とイエスは祝福されているのです。

 8節 ここでいう「心の清い人々」とはどういう人たちのことか、何を基準とした清さなのかと問うときに思い起こすのは、礼拝式文の中で唱和する奉献唱です。

 「神よわたしのために清い心を創り、ゆるがぬ霊をわたしの内に、新しくしてください。」これは旧約聖書詩編51篇12節以下からの引用です。また、同じく詩編24篇3節以下にある次の聖句も思い浮かびます。
 「どのような人が主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは潔白な手と清い心を持つ人。空しいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し救いの神は恵みをお与えになる。」

 「心の清い人」とは「空しいものに魂を奪われることなく」とありますように、偶像礼拝に心汚されることなく、真なる神ヤハウエのみをひたすら信じ仰ぐ者という意味であり、そういう人こそ、神が現臨する聖所に入ることを許され、神の義に与ることができるとうたわれているのです。そして51篇では、冒頭の附言で言われているように、ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たときになされた悔い改めの祈りであるとなっています。とすれば、ここでいう「心の清い人」とはイスラエルの歴史において、神に対する霊的姦淫としての偶像礼拝と、肉における性的姦淫とが、根を同じくする同質の罪として糾弾されていることを考えると、山上の説教の「心の清さ」も、詩編に示されている二つの含蓄を併せ持つと考えてよいと思います。ひたすら真の神にだけ寄り頼み、純粋なまことの信仰の人へと新しくされていくことを、この主イエスの御言葉は約束し、その創造の神の恵みの御許に身を寄せ来る者に祝福を語りかけているのです。

 8節後半の「神を見る」は詩編17篇の15節の「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。」という義を願い求める祈りからの引用と考えられます。詩編17篇では「御顔を仰ぎ望む」ことが、究極の救いとされています。そして、神を慕い求めて喘ぐ詩人の苦しい心の内を吐露する詩編42篇2節〜3節「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」という問いかけをしています。そのほか苦難の人ヨブは、長い苦しみを重ねた後に、最後に与えられた救いは、「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」ということでありました。(42篇5節〜6節)さらには、神の国の成る終わりの時の祝福を語るヨハネ黙示録22章3節〜4節では、「もはや、呪われるものは何一つない。神と子羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている」ということばに人間救済がまとめられています。

 このような所見を総合しますと、山上の説教のこの「神を見る」という約束も、旧約聖書と新約聖書に一貫している神と人間の和解の約束を語っているということは明らかであります。つまり、主イエスの招きによって、純粋な信頼と服従を捧げる者とされた人々は、「心の清い者」とされ、それによって、生ける神を仰ぎ見ることができるという、究極の祝福に与ることができる。だからおめでとう!というのがこのイエスの呼びかけの趣旨です。そしてここでも、イエス以外の媒介が全て排除されている事に注意すべきです。つまり、旧約の祭司による神託も、律法に定められた清めの儀式もすべてここで廃止され、主イエスからの人格的な呼びかけだけが、神を見ることのできる心清い者を生み出すという宣言でもあるのです。神の子イエスの現臨は驚くべき事態であったということです。

 そして、9節以下では「幸いである」という主イエスの呼びかけが、さらに驚くべき創造の秘儀を宿しているかを「平和」と「迫害」という主題に集中して明らかにして行きます。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。ここでいう平和を実現する」とは、恐らくローマ支配時代のパレスティナで暴虐と敵意の充ち満ちているこの世界に、平和をもたらすために武力によって「神の国」をもたらす運動を展開していた熱心党の活動との関連で述べられていると見ることができます。そのような運動は圧政に虐げられている人々の中に絶え間なく起こっていた試みでもありました。そのような中で、しかし、イエスは、神の御国は人々の努力の結果とは全く異なる次元から、敵意という人間の自分の罪の現実を取り除き(エフェソ2:14)愛の命に満たさなければならないけれども、そのためには、まず自分の内にこの平和が充ち満ちていなければならないが、しかし、生身の人間にはそれはとうていできることではありません。

 「平和を実現する人」はここにしか出てこない特殊な合成語で、その動詞形は、コロサイの信徒への手紙1章19節から20節に一度だけ出て来ます。「神は、御心のままに満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」。つまり、「平和を実現する」ということは、神の子イエスにだけ可能な業であることを、告白している言葉だということです。イエスの罪の購いの業によって、神と人との間に真の平和が実現したという信仰告白です。この「平和」の中に、イエスの招きによって導かれた信仰者は、この救いの業に基づいて「平和を実現して行く人」とされて行く。またそういう存在となった人々をイエスはここで祝福されているということになります。そのように神の新しい業によって、教会の群れは創り出されているのだという宣言でもあるのです。

 そして次の10節ですが、教会がそのように神の新しい命の創造によって創り出されてはいるのですが、その群れは絶えずこの罪の世の憎悪と迫害に晒されてもいる。この過酷な現実を克服するための基盤は何であるのかを語っています。「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」ここには前に話しましたように、イエスが復活の後昇天されてから以後の事態が語られています。イエスの死と復活を経た後、教会の上に、迫害が臨んだのです。しかもそれは、ユダヤ教の中核を成している最高法院(サンヘドリン)による迫害でありましたから、それは地獄への断罪という意味をも含んだ残酷なものでありました。その断罪に対して語られているのが、この「天の国はかれらのものだ」という宣言なのです。それは言い換えるならば、「神と神の子イエスが義としてくださる」ということでした。誕生して間もない初代教会に対する迫害は、単なる苦難ということだけではなく、この地上から抹殺すべく襲いかかった恐るべき脅威でありました。それだけに、この迫害にどう対処すべきかは急を告げる問題であったのです。

 そうした事態の展開に対してさらに11節〜12節が続きます。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」10節では「義」のためにとなっていたのが、ここで、「わたし」イエスのためという言葉で具体化されて、ただ一般的な義と不義の相対的な対立を問題にしているのではなく、イエスを信じる群れつまり、教会に迫害が臨んでいる状況が明らかにされています。教会に対する攻撃を叙述する言葉の中で「ののしる」とは対人関係での悪罵であるのですが、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」は、法廷での偽証のことと考えられます。あらゆる罪状を数え上げ、その偽証によって有罪の判決を引き出そうと企むことであろうと考えられます。このように社会的にも法廷でも、あらゆる手段を尽くして責め立てられるとき、信仰者は、その生存の根底を奪われる危機に直面することになりますが、このような苦境の時に彼らの生存を支えた力は、天に新しい命を約束されているということでありました。

 「天には大きな報いがある」という10節の言葉がそれです。「報い」という言葉そのものは、一定の功徳に対して褒美が与えられるという、ユダヤ教の報恩思想の用語でありましたが、ここでの報いには、この世での個々の善行に対して、天においてたくさんのご褒美がいただけるというような善行については何一つ記されておりません。ただただ、イエスのためにののしられ、迫害され、告発されているという事実だけが記され、そのような中にあっても神の救いを信じ、イエスを救い主と告白する信仰を守り通す人々とイエスとの命をかけた結びつきが、天において受け止められるということが「天には大きな報いがある」という言葉で言い表されているのです。イエスと人間との人格的な結びつきが、絶対的な価値として示されているのだということです。

 最後に付け加えられている「あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」という言及は、旧訳聖書伝統への接続を語るものです。イエスは旧訳聖書とどのように結びついているのか。今ここで、迫害者として迫る人々は、自分こそ聖書の伝統を保持する者として、教会を断罪しているが、それは根本的な倒錯であって、実は今迫害されている教会の信仰者こそ、旧約の預言者の伝統に正しく接続する人たちであるとの宣言なのです。それ故に「神によって正しく神の民とされることを約束された者よ。躍り上がって喜べ」とイエスは「幸いである」との呼びかけの中で言われているのです。

 お祈りいたします。

 平和の主イエス・キリストの父なる神様。今、世界の情勢は不安に満ちています。どうか、わたしたちの自己中心による、自己主張と争いを打ち砕き、あなたとの間にまことの和解を確立してくださったキリストの贖いによる救いの業を全ての人々が受け止めて、わたしたちが隣人とのまことの平和を実現するものとなりますように、わたしたちに霊の導きを与えて、あなたの御心に沿う平和の実現へと導いてください。

 わたしたちの教会の群れの中に、体と心の健康を損ない、不安と苦しみの中におられる方々をどうか癒やし、慰め、励ましてください。

 天に召された召天者を覚える記念礼拝をしております。どうか世界の全ての信仰者にあなたの御前で、永遠の命に繋がれ、あなたの御顔を仰ぐ幸いをお与えくださって、あなたの御栄えを表す器となることができますように導いてください。

 存在の全てを掛けて、わたしたちがあなたのものとなる幸いと祝福を与えてくださったイエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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