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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年4月礼拝説教


★2023.4.30 「豊かに生きる神の群れ」ヨハネ10:1-16
★2023.4.23 「神の溢(あふ)れる愛を受けて」ルカ24:13-35
★2023.4.16 「神との愛と信頼の絆の回復」ヨハネ20:19-31
★2023.4.9 「喜びと希望への転換」ヨハネ20:1-18
★2023.4.2 「真実の光に照らされ生かされる」マタイ21:1-11


「豊かに生きる神の群れ」ヨハネ10:1-16
2023.4.30 大宮 陸孝 牧師
 「わたしは良い羊飼いである。わたしは 自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネによる福音書10:14)
  本日の福音書の日課ヨハネ10章の前の9章で、主イエスは『世の光』としてこの世においでになり、それゆえにこの世の暗黒の勢力の反撃を挑発し、その反撃は次第に激しさを加えて行く事情を記しています。この対立がどういうものであったかを簡単に述べておく必要があろうと思います。「この世の光」つまりわたしたちを照らす神の真実として来られた主イエスに対して、この世の勢力は自分の立場を正当化し、イエスこそ神を冒涜する者であるとして、イエスを糾弾したその勢力とは直接的にはユダヤ教の人たちを意味しておりました。そしてこの自信に満ちたユダヤ教の人たちの頑なな魂に対して、主イエスは厳しい裁きを宣言しておられるのが九章三九節から四一節のところです。このように、「世の光」なるキリストと、「この世の暗黒」とが厳しく対立している九章を背景として、この対決は、いつまでも決着のつかない水掛け論に終わるようなものではなく、真理はいずれの側にあるかと言うことを明快に示している実践的な指標が展開されているのが10章のたとえ話であるということです。

 聖書では~と~の民の関係を表すのに羊飼いと羊の群れのイメージがよく使われます。イスラエルは牧畜の風土ですから、羊の放牧と荒れ野を旅する姿は、日常的に目にする状景でした。そして、~は「良い羊飼い」として、人々を羊の群れのように守り導かれると教えられます。その代表的なものは詩篇23篇です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(1〜3節)。人々は人生の折々に、この羊飼いなる~を仰いで、導きを祈りました。

 またこの「羊飼いと羊の群れ」のたとえは、国の指導者とその国の人々との関係を示すのにも用いられます。その代表的なものとしてエゼキエル書34章を取り上げてみたいと思います。これは紀元前六世紀にユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、民族が離散した時代の国の姿を描き出しています。ユダ王国の指導者たちは、群れを守り養う「牧者」であるはずなのに、その使命を果たさず、却って羊を自分の生活を豊かにするためにだけ使って、情け容赦なく虐待し、その毛で自分の服を作り、その肉を食べながら、羊に対していささかの世話もしようとしません。そこで、~ご自身が「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れをさがすように、わたしは自分の羊を探す」と、立ち上がられるのです(34章11〜12節)エゼキエルは、ユダ王国が滅亡したのは、~の民の守りと養いのために神によって立てられたユダ王国の政治的指導者が堕落したことへの審判であると教え、それによって外国に追いやられた羊たちのために、~ご自身が羊飼いとして立ち上がられると預言したのです。

 主イエスが来られたときのユダヤも、政治的・宗教的な指導者が人々をそのように扱っていると主イエスは見ておられました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)のです。エゼキエルの預言が主イエスにおいて実現することになるのです。そして主イエスはその短い御生涯において、ユダヤ人たちを呼び集め、御自分に従う人々を、良い羊飼いとなって養い導かれましたが、復活の後には世界の人々を召して教会とし、生ける羊飼いとなって世界の教会を導かれると宣言されているのです。

 日本が第二次世界大戦に敗北したとき、人々は羊飼いを失った羊の群れのような状態でありました。それまでの日本は、天皇を頂点とする~の国という建前を取り、近隣諸国への侵略もこの国の拡張として合理化していました。それが敗戦と同時に一挙に崩されて、文字通り「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれた」状態に突き落とされました。憲法によって政治と宗教の分離が明確化され、天皇が人間宣言を出し、人々は精神的な意味では「思想と信教の自由」を与えられましたけれど、それと同時に精神の空白化、霊性の空白化をも引き起こすことになりました。あれから77年が過ぎて、日本社会は外面的には大きく変わりましたけれども、内面的・霊的な面では荒廃が今も続いている状態です。一時文部省(今の文化省)の教育再生会議で、「徳育」つまり霊的な心の育成が論じられましたけれども、深まりが得られませんでした。このような時代の中で、エゼキエルが預言している「牧者としての~」の呼びかけを、わたしたちも聞かなければならないと思います。

 ヨハネ福音書10章には、良い羊飼いであるイエス・キリストが示されています。ここでは、主キリストがご自分を「羊の門」であり、また「良き羊飼い」であると教えておられます。この二つのたとえについて、初代教会の指導者(教父クリユソストモス)は、主イエスが「わたしたちを御父である神のもとに連れて行かれるとき、御自分を『門』と呼ばれ、わたしたちの世話をされるときには『羊飼い』と呼ばれるのである」と説明しています。イエス・キリストはわたしたちを父なる~のもとに導く門である(祭司的な働き)と同時に、わたしたちを養われる羊飼い(預言者的な働き)であります。

 まずイエス・キリストは「門」であります(10:9)。門は内側と外側に隔てられている人たちを交流させます。「宗教」レリガーレというラテン語は「結び合わせる」という意味があります。さまざまな宗教は、教師が弟子を教え指導することによって、人と~との交わりを媒介します。教師が自分と~との交わりの経験を教えることによって、弟子にもその経験を伝えるのです。それは人間の側から~に向かって近づいて行く通路です。しかし、それは果たして向こうまで通り抜けてゆけるのか、保証はありません。

 それに対してイエスが「わたしは門である」と言われるときには、自分で門を開けて入って来いと言うのではなく、~の側から人間の内に入って来られ、人間と共に生き、人間の側から~の側へと連れ帰ることによって、~と人間とを完全に結び合わせる、完全な仲立ち、中保者であるというのです。人間の宗教家が人間仲間を~に連れて行くのでなく、イエス・キリストが~であり人であって、~御自身の人格において~と人間の両方を併せ持っておられることによって、~と人間を完全に結び合わせることがおできになると言っておられるのです。

 ~と人間を完全に結び合わせ、いのちの交わりを与える、この中保者としての姿を、さらに一層明確に言い表しているのが「良い羊飼い」の姿であります。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである(10〜11節)。主イエスは、罪を犯した人を、人間同士として一体になり、その人のために自分が命を捨て、身代わりとなって、その人を生まれ変わらせるのです。

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは 自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10:14)聖書で「知る」というのは、ただ単に知識を持っているというのではなく、深い愛の交わりの中にあることです。夫と妻が一体となることを「夫が妻を知る」と言います(マタイ1:25)。そのように愛をもって配慮し、守り、導くことが、キリストの人間に対する羊飼いとしての働きであります。主は、わたしたち一人一人の名を知り、一人一人の存在を心に刻んでおられます。

 日本にはいろいろな宗教がありますけれども、聖書が伝える~は人格的な~で、ここで~は一人一人に人格的に語りかけ、働きかけて、ご自分がわたしたち共同体の核となって~の共同体を築かせてくださいます。わたしたちはイエス・キリストという門を通り、この「一人の羊飼い」に導かれ、養われることによって、心を尽くして主を愛し、また隣人を自分のように愛して、~の救いの歴史を築いてゆく者となってゆくのです。

 お祈りいたします。

 父なる神さま。わたしたちの生涯は死の危険が迫ってくる罪の只中にあります。けれども主はわたしたちがどのような苦境の中にあっても、決してお見捨てにならず、わたしたち一人一人の人生の同伴者として共に歩んでいてくださいます。羊のために命を捨てるという情熱を注ぎ、十字架に付けられて罪を赦し、罪人のために祈られた愛をもって、この地上の旅を終える時においてさえわたしたちと一緒に歩み、わたしたちを肩に背負い、そして~のみもとに迎え入れると約束してくださっています。どうかわたしたちが生涯を懸けてこの「良い羊飼い」と共に命と祝福の道を歩み通して信仰を全うすることが出来ますようにお守りください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。   アーメン

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「神の溢(あふ)れる愛を受けて」ルカ24:13-35
2023.4.23 大宮 陸孝 牧師
 話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。(ルカによる福音書24:15)
  本日のルカ福音書の日課は24章13節からでありますが、最初のほう16節までに、エマオという村へ行く二人の弟子に復活のイエスが道連れになられるという場面が出てまいります。ルカ福音書では復活のイエスさまが現れるのはここが初めてで、旅の道連れの形で登場して来られます。ところが、その息詰まるような最初の出会いの場面で、二人の旅人は「イエスだとは分からなかった」というのであります。ここにはわたしたちに訴えようとしている重要な意味が込められ、また強調されているように思います。それは、イエスの復活を信じ、そしてその証人として宣べ伝えるものとなるには、生前のイエスが二度も三度もわたしは復活するよ≠ニおっしゃっていた言葉を思い出すだけではなくて、「聖書の全体」がメシアの受難と栄光を証ししているということを知らされ、認識すること、これが必要だと言うことです。

27節に「そしてモーセと全ての預言者から初めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。聖書全体≠ェイエス御自身のことを証ししているとはどういうことかと言いますと、それは 旧約聖書の~の救済の歴史全体、千数百年イスラエルの~ヤハウエがイスラエルの民族をずうっと導いて来られたその歴史が、メシアの苦難と栄光を目指しているということでありまして、一貫して変わりなく、ヤハウエの~は受難を通して栄光に入る≠ニいう道筋で民を導いて来ておられる、そういうことにほかなりません。イエスが生前二度三度そんなことを予告したというぐらいでは、とてもとても復活などということを事実として受け入れることはできないけれども、千数百年の長い歴史の中で、イスラエルの民を導かれた~様とイスラエルの民の関わりの歴史をそのように体験的に学ぶと、ヤハウエという方は確かにそういうお方だと分かってくる、そういう雄大な歴史の土台があって、わたしたちは主の復活を信じているのだと言うことを、わたしたちにも知らされるのです。

 そのことを分かりやすく申しますと、旧約聖書のあっちこっちに書いてあるメシア預言がイエスというお方によって成就したというのではなくて、旧約聖書全体の主であられるイスラエルの~ヤハウエ、旧約聖書時代の歴史の中で常に語り行動し、イスラエルを愛によって導いて来られたヤハウエその方が、受肉してわたしたちの所に来られたイエスさまにほかならないということなのです。旧約聖書全体がメシアの苦しみと栄光を語っていますということは、イスラエルと共に歩まれたイスラエルの~ヤハウエが実はイエスさまなのだということ、これをしっかりと受け止め承認するということなのです。

 ルカ13章34節で「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」このようにおっしゃったイエスさまは、実は旧約聖書の昔からずっと預言者を遣わしてきたヤハウエその方として語っておられるのです。ここにイスラエルと共に旅をされているヤハウエの、民を救おうとされる苦しみが語られているのです。

 以下イエスさまが解き明かされたであろう旧約聖書の重要な箇所を幾つか取り上げて確認しておきたいと思います。

 イザヤ書の63章8、9節「主は言われた、彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救いとなられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった」。イスラエルの~ヤハウエは、イスラエルの苦しみを常に御自分の苦しみとなさるそういう方。常に彼らを背負い、彼らを担い、そのようにして救いへと導いてくださるお方。こう言っているのです。(1165頁)

 そして、このことをエレミヤ書で見てみましょう。31章の20節「エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる」。ヤハウエはエフライムを罪のゆえに退けられますが、でもそうやって退ける度ごとに、「わたしは更に、彼を深く心に留め」ずにはおれない。「憐れまずにいられない」。「胸が高鳴って」くる。こういう~なのです。(1236頁)

 ホセア書の11章8節9節「ああエフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことがでわたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは~であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者、怒りをもって臨みはしない」。こういう神なのです。~であって人ではないということは、罪を罰してそれっきりという者ではない。むしろ許す者、許さずにはおれない者、これが本当の~という者だとホセアは教えているのです。(1416頁)

 このように旧約聖書全体で語り行動しておられるイスラエルの~ヤハウエは、まさしくイスラエルのゆえに苦しみ、イスラエルの罪をわがこととして悩み、愛するゆえに思い返しては救われる神なのです。

 このヤハウエの~の苦しみを体現されたのがナザレのイエスの生と死であった。このように悟りました時に初めて、旧約聖書は全てメシアの苦しみとわたしたちを新しい命へと救い取る栄光を語っているということが納得できるということなのです。イスラエルの~ヤハウエが千数百年にわたるイスラエルの歴史の中で神さまに背く罪を裁かれるその御苦しみ─イスラエルを苦しめる罪の歴史を、そのイスラエルの苦しみと重ね合わせる形でヤハウエ御自身が苦しんで来られたのだとわたしたちが認める時に、わたしたちの心が開かれ、わたしたちの心は燃やされたではないか、そういう読み方に変わって行くのであります。つまりわたしたち自身の救済の歴史へと転換する出来事となるのです。

 神さまは聖なる方として、わたしたちから区別され、わたしたちの罪を罰して止まないというような~ではなくて、わたしたちの罪を罰しながら御自身も苦しみ給う~、そしてその苦しみを負いながらわたしたちを救うために、熱情を以て十字架の死と死の後の復活を通して、わたしたちに永遠の命を示してくださるお方、この方がヤハウエでありイエスさまであられる、わたしたちが、神さまの救いの働きをそのように理解出来た時、わたしたちの心が燃やされて、開かれて、~の前にひれ伏し、~の栄光を褒めたたえることができるようになる。神を信じるとはそういうことだというのです。

 人生の旅の途中で絶望したり、虚無に陥ったり、悲嘆に暮れたりしているわたしたちに、目に見えない同伴者がついていて、共に歩み、語りかけていてくださる。求めるならば、その同伴者は喜んでわたしたちと食卓を共にしてくださる。その食卓が豊かであろうと貧しかろうとそれに関係なく。そして、そのときにわたしたちの閉ざされた目が開かれ、心の目、霊の目も開かれ、今まで気づかなかった大変重要なことに気づかされるのです。それは、自分の命と人生は与えられたもの、備えられたもの、それを与え、備えてくださった方によって生かされ、守られてきたことに気づかされるのです。共にいてくださる同伴者に目が開かれるとは、そのことをいうのではないでしょうか。

 それが分かったとき、世の中が、世界が、それまでとは違って見えてくる。空しかった日々の生に、初めて鮮やかな現実感がよみがえり、見るもの聞くものすべてが生き生きと語りかけてくるのに感動する。今、この瞬間に生きている、生かされていることが、驚きであり喜びとなる。それが、復活の意味するものに他なりません。もはや生も死も大いなる神の生命に呑まれ、神はその溢れる愛の命をわたしたちと分かち合い、共に生きてくださっているのです。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたがわたしたちを強く深く愛してくださって、わたしたちを退けることに御自らが苦しみ給い、わたしたちを罰するその痛みを自らの身に負うてくださって、わたしたちを罪と滅びの中から御自身の苦しみを通して救って下さいました恵みを、心から感謝いたします。

 この神さまの愛と憐れみの働きを、旧約聖書全体が千何百年の年月を掛けてわたしたちに証ししております。そのことがまさしくイエスさま御自身の生と死と復活に現されたことを信じて、感謝いたします。どうぞ、わたしたちのこの聖書全体に基づく信仰を、更に強く深めてくださいますようにお願いいたします。

 イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。    アーメン。

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「神との愛と信頼の絆の回復」ヨハネ20:19-31
2023.4.16 大宮 陸孝 牧師
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書20:17)
  本日の福音書の日課は復活の主が弟子たちのもとに現れたということが記されております。この直前の18節では「マグダラのマリヤは弟子たちの所へ行って、「わたしたちは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを報告した。と記して、19節への復活の主の顕現物語の橋渡しをしています。マルコ福音書16章8節によれば、マグダラのマリアと同行の女たちは「恐ろしさの余り、誰にも何も言わなかった」と語ります。また、ルカ福音書24章10節から11節では、、かのじょたちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった。と記されています。そういう状態の所へ、いきなりイエスが現れたとするならば、弟子たちはそれを受け止める準備が全くできていないということになります。これに反してヨハネ福音書では、あらかじめマリアの報告によって、復活の事実を知らされていて、イエスの顕現に対する心の備えが既に与えられている、という風に物語が構成されています。そこに19節以下が続くのです。

 19節〜20節イエスを失った弟子たちの心は、恐怖に満たされていました。完全な挫折と恐怖の中に、置き去りにされていた弟子たちの、この恐怖を克服し、真の平安を与える方は、イエスのほかにはありません。ですから、復活されて、弟子たちの前に姿を現されたイエスが、「あなた方に平和があるように」と言われたのは、弟子たちにとって最も必要としていた言葉でした。ヨハネ福音書16章33節の決別の説教を思い起こします。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」最後の晩餐の席で語られたこの言葉が、今こそその真価が発揮されるべき時を迎えているのです。

 21節〜23節 復活の主の顕現は弟子たちの心に喜びと平安を満たしただけではなく、新しい使命を与えるものでした。『息を吹きかける』という行動は、15章26節の「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しなさるはずである」という言葉と関連しています。ヨハネ福音書では『聖霊』という言葉はパラクレートスという独特のことば、これは「弁護者」とか「助け主」とか、「慰め主」とか、「励ましを与える者」という意味内容を持つ言葉が用いられています。「聖霊・パラクレートス」つまり聖霊派遣の約束が、今や主イエスの復活後の弟子たちの派遣で遂行され、成就するとヨハネは宣言しているのです。

 そしてこのことは、イエスの弟子たちの共同体であるわたしたちの教会の創設と、イエスが弟子たちを派遣すること、つまり神の新しい創造の働きの基礎になっているということです。つまり、教会において、父なる神が御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今や復活の主によって、教会に委託されたと告げているのです。これが本日の日課の主な内容です。教会が宣べ伝えていることは御子イエス・キリストの宣教の継承、受け継ぎなのです。教会を構成する一人一人が、そのような光栄ある使命を与えられて、光栄ある業を遂行して行くのだという主イエスの派遣の言葉が本日の日課の核心なのです。

 主イエスのこの世での救いの働きの生涯を、父なる神が共におられ導かれたように、教会の宣教の働きを担い働くわたしたち信仰者の歩みのうちに、復活の主イエス・キリストが共におられ、共に働かれ、教会の働きの一切を導かれている。人々はこの教会の働きの内に復活の主を見ることになる。つまり、教会を構成しているわたしたちは、復活されたイエスから生命の息吹を吹き込まれることによって、聖霊の導きと助けを受け、神のものとして新しくされ、それぞれが自分たちの置かれている場所で信仰生活と奉仕と証しの生活をして行くことを通して、人々に復活の主が伝えられ、人々は復活の主に出会って行くのだと主イエスは言っておられるのです。そういう神の壮大な新しい創造の業があなた方を通して始まったと弟子たちと教会に告げられているのです。

 教会の宣教というのは、わたしたち一人一人が「この人を見なさい」とイエス・キリストを指し示すことです。イエス・キリストのご生涯、イエス・キリストの教え、イエス・キリストの贖(あがな)いの業、それに注目してくださいと言えばいいのです。そのことは聖書に記されていますから、聖書を読んでくださいと言えばよいのです。あのナザレのイエスが復活なさった主、わたしたちの救い主、キリストであると指し示すために、主はわたしたちをこの世に遣わしておられるのです。そのようにして弟子たち、そしてわたしたちは神からの権威を委託された者として、勇躍新しい前進を開始することになるのです。

 「聖霊を受けなさい」という言葉と罪の赦しの権威が続けて語られています。(22節〜23節)これは、わたしたち人間の権威ではなくて、主イエス・キリストの十字架の贖いによる神との関係の回復のことを言おうとしています。わたしたちの立ち帰るべき所は「神に権威を与えられた」ということではなくて、神との和解です。「神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなくて、御子イエス・キリストによってこの世が救われるためである。主イエス・キリストを信じる者は裁かれない」(ヨハネ3章17節)と、同じ福音書に書かれていますように、主イエス・キリストから遣わされるわたしたちキリスト者の務めは、主イエス・キリストの十字架の贖いに裏打ちされた神の愛を人々に伝え、神様との愛の絆、結びつき、人格関係の回復の道を明らかにし、示すことです。わたしたちの未来にそのような光の道が示されています。

 24節〜27節 主イエスが復活され、顕現された場所に、十二人の弟子の一人であるトマスだけが居合わせなかったのですが、そのトマスは、容易にイエスの復活を信じることができなかった人物でした。「トマスが復活の主の手と脇腹を見る」という表現が出てきますが、これは初代教会の現実的な復活の主との出会いの強烈な経験が反映されている言葉であっただろうと思われます。トマスはそのような弟子たちの強烈なリアルな体験を聞いたのです。そしてその言葉を繰り返すように「わたしも復活の主の手と脇腹を見、また、触らなければ決して信じない」と弟子たちの体験を追体験することを望んだのです。

 ここには初代教会から現代に至るまでのこの世の懐疑が表明されています。それは、そもそも人間が蘇るなどということが、事実としてあり得る筈はない、という合理主義の声です。トマスはこの疑惑と不信を代弁して、イエスの生きておられる姿を自分で確認しない限り、人づての言葉だけでは、イエスの復活を信じることはできない、と言い放ったのです。

 28節〜29節そのトマスに八日後に復活の主が顕現されます。復活された主イエスの身体は、霊体の身体であるので、戸がみな閉まっていても、部屋の中に現れることができたという表現になっていますが、同時に、生前十字架に釘付けにされ、槍で脇腹を突かれた跡も、身体にははっきりと残っていたとも語られます。そのご自分の身体を示すことによって、主イエスはトマスに、信じることをお求めになりました。ここで主を信じるとはどういうことなのか、わたしたちの救いとは何なのかその基準が明確になります。

 これまでイエスについてきた弟子たちは自分たちが期待するメシア像、自分たちが思い描いている神観念、自らの神観、自分の内側で形成していたキリスト理解をイエスに当てはめようとしていたのですけれども、自分たちが思いもしなかったイエスの十字架の死の結末の出来事を経験することによって、自分たちが確かなものとして思い描き、イエスに期待し、それ故に執着し、是非成し遂げたいと考えていた救いの理想像が揺さ振られ、脆(もろ)くも破れ去って、絶望状況の中で、部屋に閉じこもっていた弟子たちに「あなたがたに平和があるように」といって現れた。懐疑を持つトマスにも「同じ平和の挨拶とともに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と復活なさった姿を見せてくださいました。

 トマスは復活なさった主イエスに接して、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白します。トマスはただイエスが復活したという事実を信じただけではなく、もっと深く、イエスが神から来られた方であること、十字架の上で処刑されたあのイエスと、今わたしたちに本当の平和をもたらす復活の主との連続性を復活経験によって見出すことができたということ、そしてこれは初代教会の初期の信仰者たちのリアルな経験であったということも意味します。

 弟子たちの真ん中に、つまり教会の真ん中に傷跡が残る手を広げて立つ復活の主イエスが、十字架の上で現実に死なれた方なのだとヨハネは証言します。初代教会の群れの信仰とは、十字架上で死なれ、復活なさった主イエスの手と脇腹の傷跡に、わたしたち個々人の命を購う神の贖罪の業を見出し、そこに真実の救いを見出した者たちのことだと確認し宣言しているのです。神に起源する救いとは、それはわたしたち神から離れている者をご自分のものとして取り戻してくださった贖いの業と、わたしたちを神の新しい命に繋げてくださった復活の約束と希望のことだったのです。

 ヨハネ福音書の11章で、ラザロの復活の出来事が起こった時に、トマスが、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、(主イエスと)一緒に死のうではないか」と言ったと書かれています。(16節)そして14章5節では、「主よどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりませんどうしてその道を知ることができるでしょうか」と言います。トマスは「わたしにはイエス様の教えは分かりません」と正直に表現したのです。そこには真実を追究しよとするトマスの姿があります。そのトマスに復活の主は言われます。「あなたの指をここに当ててみなさい。触れなさい。手を入れなさい」と言われます。証拠は充分そろった。事実をしっかり確認しなさい。と主は丁寧に言ってくださったのです。しかし、トマスは指も手も差し入れることはしませんでした。トマスはもはや確かめる必要はなかった。自分の目で、自分の手で確かめる必要がなくなりました。『信じないものではなく、信じる者になりなさい』というイエスの言葉がトマスの霊の目を開かれたのです。

 そしてイエスの信仰の奇跡はさらに続きます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)

 初代教会の人たちも、その後に続く人たちも、キリスト教の歴史を築く現代のわたしたち教会員も直ちに立派な、確かな信仰に導かれるのではないということを認識しなければなりません。わたしたちは一人一人それぞれが自分に与えられた人生を歩む中で神の息吹によって徐々に一歩一歩信仰を培われ、形成されていくのです。わたしたちの中に信仰を形成していくのは神様の霊の働きです。トマスはこのような教会の群れの中に戻って来たのです。信仰の共同体の中に戻って来たのです。その共同体の真ん中におられる復活の主を仰ぎ礼拝をすることで一つになっている群れの中にトマスは帰ってきたのです。トマスはそこで見ないで信じる新たな信仰を与えられた者となったのです。わたしたちが帰るべき場所はそこです。

 お祈りします。

 命の主イエス・キリストの父なる神様。

 先週わたしたちは、主イエスの復活の喜びの内にイースターの礼拝を捧げました。今朝改めて復活の主イエスの派遣の御言葉を与えられました。わたしたちの教会がどのような中にありましても、わたしたちの主が天と地の一切の権能をさずけられている復活の主であることを告白し続けていく教会となることできますようにわたしたち一人一人を導いて下さい。世の終わりまでわたしたちとともにいて下さる復活の主の御手に信頼して、主の派遣に応答していくことができますように、特に本日洗礼を受け、新たに教会の群れに加えられる方を顧みてくださり、これからの信仰生活と生涯の信仰の旅路を恵みをもって導いてください。病の中にある方に癒やしと平安を、厳しい戦いの中にあり、心身の疲れを覚えておられる方々にあなたの平安と希望を与えてください。世界にあなたの正義と愛と平和が実現し、あなたの御こころがこの地でもなされますように

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン


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「喜びと希望への転換」ヨハネ20:1-18
2023.4.9 大宮 陸孝 牧師
 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの~であり、あなたがたの~である方のことろへわたしは上る』(ヨハネによる福音書20:17)
  最初の主イエスの復活の出来事が起こった朝、マグダラのマリアが主イエスの墓に行って見ると、墓を塞いでいた大きな石が転がされ、その奥に納められていたはずの主イエスの遺体が消え去っていました。マグダラのマリアは激しい衝撃を受けたことでありましょう。愛する人が死んだとき、わたしたちは深い喪失感に圧倒され、その遺体に触れたり、遺品を取り出して眺めたりしながら、思い出の中で故人に触れ、喪失の傷を癒そうとします。ところが主イエスの墓には、思い出の絆となる遺体がなくなっていたのです。これはマリアにとって死を蔽い隠す一切のものをすべて取り去って、その厳しい現実を直視させるものでした。マリアは、死とは人間が無に帰ることであることを突きつけられたのでした。人間は~によって無から創造されました。ですから~が「人の子よ、帰れ」と人間を呼び返されるとき、無に帰ります。主イエスが墓に遺体も残さずに取り去られたとき、主イエスは死ぬべき人間の運命を自分の運命として引き受け、無に帰られたことが、ここに生々しく示されています。

 この厳しい現実を突きつけられて、マグダラのマリアは、墓の外で声を上げて泣いたのですが、ふと自分の背後に人の気配を感じて振り向くと、一人の人が立っていました。彼女はこのような早朝にやって来るのは、この墓場を管理している墓守・園丁であろうと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」(20:15)と尋ねました。マリアは今、死の壁のこちら側にいて、自分の方から手を伸ばしてイエスの遺体に触れ、自分の方に引き寄せようとしたのです。復活のことをわたしたちは「よみがえり」、「陰府から帰って来る」と言います。しかし死からの復活ということは、死の世界からこの世に戻って来ることではなくて、死の世界を打ち砕いて、死が飲み込むことのできない、永遠の生命を与えられることであります。「陰府(死の世界)から帰る」のではなくて、「陰府砕き」陰府そのものを砕くことなのです。マリアはこのような驚くべき事態が起こっていることに気づかずに、死の彼方に行ってしまった主イエスが残した遺体だけでも取り戻そうとしたのです。

 これに対して主イエスはマリアに向かって「マリア」と名を呼ばれました。聞き覚えのある懐かしい声を耳にして、マリアは「振り向いた」(20:16)のであります。自分の名を呼ぶ、その声に気付いて振り返り、方向転換をしました。このことからわたしたちが復活の主に出会うということは生物的な次元での接触ではなく、人格的な次元での命の向き合いへと転換することであると言うことが示されています。そのためにはわたしたちが~の呼びかけに気づき、~の語りかけに聞いて、それに応えるということが必要となってきます。

 自分の名を呼んで近づいてくださる主イエスが、今、自分の背後で声をかけて下さっていることに気付いたマリアは、「振り返って」「ラボニ(わたしの先生)」と、主イエスにすがりつこうとします。もう決して主から離れたくないとの、切実な思いで取りすがろうとしたのでありましょう。それに対して主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから、わたしの兄弟たち(弟子たち)のところへ行ってこう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの~であり、あなたがたの~である方のことろへわたしは上る』」(20:17)と告げられました。

 これはマリアが主イエスを、昔のままの人間イエスとして、自分のところに引き止めておこうとしたのに対して、主イエスご自身は今や地上生活を終えて、天に上り、父なる~のもとに帰られることを教えられたのです。

 しかしそれは、弟子たちを離れ、弟子たちと分かれることではありません。父なる~は「わたしの父」つまりイエス・キリストの父であるだけではなく、「あなたがたの父」つまり人間にとっての真の父となってくださるのですよ、と言っておられるのです。それは、イエス・キリストが十字架についてくださって、わたしたちが~から離れてしまって罪の現実に奴隷のように捕らえられている状態から、買い戻して解放してくださった、そればかりではなく、復活してその聖なる命を人間に与えて人間と一つになってくださったからであります。

 旧約聖書イザヤ書43章1節にこのように記されています。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよあなたを造られた主は、今、こう言われる。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。イエス・キリストが「わたしの父はあなたがたの父」、「わたしの~はあなたがたの~」と言われたとき、キリストのこのとりなしの言葉によって、わたしたちは放蕩息子が父のもとに帰るように、天の父なる~のもとに連れ帰っていただいた、切れていた~との人格的な関係を再び回復されたのです。~はわたしたちの名を呼んでくださって、わたしたちが本来帰属すべき所を指し示して、「恐れるなわたしはあなたを贖う」と宣言してくださいます。そして、わたしたち人間は復活して、神さまとの新しい永遠の命に結び合わされ、人格的な交わりという新しい命の姿を与えられます。今なお神さまはわたしたち一人一人の名を呼び続けておられます。わたしたちは、神さまに呼びかけられて、父なる~と呼び返すわたしたち一人ひとりが、~とお互いに呼びかけ合う人格的交わりの中に生きるものとされるのです。

 どんな挫折や失望に打ちひしがれようとも、それですべての終わりなのではありません。主イエス・キリストがその現実の中から命がけで救い出してくださり、復活の命と愛とをもって、「あなたはわたしのものだ」と呼びかけてくださいます。

 墓穴を見つめていたマリア、死と滅びの支配に身も魂も引き込まれそうになっていたマリアや、失意の弟子たちをそこから解放し、そしてわたしたちを解放し、世界を解放して、~の愛と希望の光の中へと引き戻すことが、主の十字架と復活の目的だったのです。そのことを信じる信仰と信頼を回復して、今日からの与えられた日々を喜びと希望の歩みに転換していくことが神さまの恵みに応答して生きることなのです。

 お祈りいたします。

 神さま。~の子イエス・キリストは、三日目に復活なさるとかねがね断言しておられましたし、その御言葉通りに、主イエスは生きておられ、復活を実現してくださいました。

 どうぞ、この復活の信仰をわたしたちがしっかりも持つことができるようになるために、わたしたちの名を呼んでくださり、呼びかけてくださる復活の主の呼び声を聞きとることが出来る霊の息吹を与えてください。

 復活の主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン。

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「真実の光に照らされ生かされる」マタイ21:1-11
2023.4.2 大宮 陸孝 牧師
 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ 主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイによる福音書21:9)
  主イエスのガリラヤで開始された宣教活動は、その後エルサレムへの旅として展開されて行きました。わたしたちは、その旅の道行きをルカによる福音書の日課によって今までずっと読んできたのですが、本日はマタイによる福音書によって、その主イエスがいよいよエルサレムに入城なさる所を読むことになります。主イエスが救い主としてわたしたちの所に来てくださった、それがどのようにわたしたちの救いになって行くのかをエルサレムに集約して行くわけです。「主がお入り用なのです」と3節にあります。この一言で子ろばが提供された、と言われていますが、実は、エルサレムのすべて、その背景をなす一切が、主の救いの業を今や遅しと待っていたということを表しているということでしょう。主イエス・キリストのエルサレム入城は、まさに、このようにあるべきように備えられ、なさるべきように行われたのです。

 マタイ福音書は、主イエスのエルサレム入城を、イザヤ書62章11節とゼカリヤ書9章9節を引用して柔和な王が入城されると告げています。この人物はどういう王であったか、その王の装いは、普通に予想されるものとは、全くちがったものでありました。たくましい軍馬の代わりに用いられたのは、小さなみすぼらしい子ろばでありました。つき従う者たちは、勇ましい軍隊ではなくて、旅に疲れ果てた十二人の弟子たちであります。ただ群衆だけは、王への礼をもって主イエスを歓迎したのでした。

 エルサレム入城の主イエスの姿は、ある意味で大変滑稽にさえ見えます。それは、王として歓迎されながら、その乗物も、服装も、行列も、それとは全く反対に見えるからです。しかし、そこに、この王の柔和さの強調があったと見ることができます。

 その柔和さとは何だったのでしょうか。柔和という言葉は、低いとか、敬虔なという意味であることには違いありませんが、マタイによる福音書の柔和とは、むしろ、仇をする者に傷をつけられることが中心的な意味となっています。そうであるならばイザヤ書53章4・5節の「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた ~の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり、 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」。さらに「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる」(イザヤ書53章10節)これが柔和の最も適切な説明となるのであります。主イエスが洗礼を受けられてからの確固たる意志、三度に及ぶ受難の予告などに示された使命と決意とは、この柔和な王に結実したのだと宣言されているのです。それは、やがて「顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて」嘲弄されたことによって、徹底的に「柔和にされ」その柔和は、十字架において完成されることにつながってゆきます。

 このように見ますと、人々の目には奇異なこと、怪しいとさえ見えたエルサレム入城は明らかに、十字架を目指すものであったことがわかります。柔和は主イエスの人徳の一つなのではなくて、主イエスの人類を救う使命と救いの業そのものを表していたことになります。

 エルサレム入城を迎える民衆は、彼らの王ダビデに希望をつないで、歓迎しましたが、それは、子ろばに乗った「柔和なる」王ではありませんでした。しかし、ここには、もはや、ダビデのような誇り高きイスラエルを救う王はいません。それに変わって謙遜の限りをつくして、奴隷にまで身を落として、~の業を行おうとする救い主イエス・キリストがいるだけなのです。

 民衆の歓呼の声は「ダビデの子にホサナ」でありました。ホサナは「どうぞ、助けてください」ということから、救い、祝福を求める言葉となり、さらに、すべて、喜び迎える者に対する祝いの言葉となりました。ですからここで群衆が、ホサナと呼んだ時に、それが、そのまま、「救ってください」という意味を込めていたとは思えないのですが、マタイが、この言葉を民衆のことばとしたのには、それだけの理由があったのでしょう。これは大勝利を収めた、強力な王、将軍への讃美の言葉ではなくて、貧しく望みなき者たちのために、自らも貧しくなり「柔和」になって、柔和な王でなければ、なしえない救いを待ち望む民衆の声としたということであります。

 ここにあるのは、自ら、人の罪のために打たれ、ののしられてののしり返さず、ひたすらに、~の意志と計画とに従って、十字架への道を進む、救い主、王の姿であります。

 さて、そこで今わたしは水野源三さんのことを皆さんに紹介したいと思います。1月1日のお便りでも瞬き(まばたき)の詩人として紹介させていただきましたが、源三さんは九歳の時に赤痢による高熱のために脳性麻痺となり、手足の自由、言葉の自由を奪われました。最初は少しだけ話せる時期もあったようですが、その時に口から出た言葉は「死ぬ、死ぬ」という言葉だったそうです。「こんなんだったらもう僕は、死にたい」という意味の「死ぬ、死ぬ」という言葉でした。でも、その同じ源三さんが後に、「苦しいときも、悲しいときも、心からほほえむ」「有り難うのかわりに、ほほえむ」というふうに変わって行くのです。まず、その「有り難う」の詩をご紹介しましょう。 「物が言えない わたしは 有り難うの かわりに ほほえむ 悲しいときも 心から ほほえむ」という衝撃的な詩です。自分の在りようが根本から問われるような詩です。なぜそんなことが言えるようになったのでしょうか。

 ある時、水野源三さんのもとに、宮尾隆邦という牧師が訪れます。宮尾牧師は自分自身が進行性の筋萎縮症だとわかった時に郷里に伝道をしようと、源三さんが住む長野県坂城町に戻って来た人です。その宮尾牧師が足を引きずりながら、杖をついて水野家を訪れます。源三さんの家はその頃、お母さんがパンの委託販売をしていました。最初はパンを買いに寄っただけでした。そして二回目に来た時に、源三さんに、小さな黒皮表紙の聖書を置いていきました。源三さんはそれをむさぼるように読んだと言います。そして変わって行きます。そんな中で読んだ詩があります。「先生」という題です。「からだが不自由になり 赤とんぼを悲しく見ていたわたしに 聖書を読み 御言葉を説いてくれた先生 大きな活字の 大きな聖書も読めないほどに 視力がおとろえた先生 28年間 わたしのために 父なる神さまに 祈り続けてくれた先生」 宮尾牧師は、晩年には心臓が悪くなって、目も見えなくなっていきました。そして1979年4月に天に召されます。

 それからまた、源三さんは「わたしがいる」という詩を作っています。「ナザレのイエスを 十字架にかけよと 要求した人 許可した人 執行した人 それらの中にわたしがいる」源三さんは九歳で脳性麻痺となり、手足で罪を犯すことも、口で罪を犯すことも、一切なかった人です。その人がそれにもかかわらず、イエス様を十字架に掛けよと要求し、許可し、執行したのはわたしですと告白するのです。このことから、源三さんがどんなに深い痛みをもって聖書の言葉を捉えていたかということがわかります。源三さんは重い障碍者です。しかし、障碍が源三さんを砕いたのではなく、聖書が源三さんを砕いたのです。「砕いて砕いて砕きたまえ」という詩があります。

 「御~のうちに生きているのに 自分ひとりで生きていると 思い続ける心を 砕いて砕いて砕きたまえ 御~に深く愛されているのに 共に生きる人を真実に 愛せられない心を砕いて砕いて砕きたまえ 御~に罪を赦されているのに 人の小さな過ちさえも 赦せない心を 砕いて砕いて砕きたまえ」 どんな人の中にも「わたしは悪くない」「悔い改めなんか必要ない」と思う頑なな心と、もうひとつ、「全部砕かれて新しくなれたら、どんなにいいだろうか」と思う心とふたつあるのだと思います。

 最初、源三さんは、「死にたい死にたい」という言葉が一杯詰まった心の持ち主でした。苦難の中にある時、もう道が見いだせないと思えるときに、人はそういう言葉に耳を傾けてしまうのです。でも、神さまはそんな絶望に沈む一人ひとりを生かしてくださっている。神さまに生かされている限り一人一人に必ず道はある、希望はある、奇跡は起こるということを源三さんは証明してくれたのです。御言葉を通して主イエスに出会った後には、「有り難う」「砕きたまえ」で一杯の心になってゆきました。源三さんは本当の心の暗闇を知り、その中で真実の光を知った人だったといえると思います。「生きている生かされている歯が痛き手足がかゆき咳が苦しき」 歯が痛くても手を歯にあてることもできない、手足がかゆくてもかくことができない、咳が苦しくても水を飲んだりマスクをしたりすることができない源三さんです。でも、その自分の置かれている日々の生活を通して「生きている生かされている」というのです。一つ一つの小さないのちに神さまはどんな風に目をかけて生かしてくださっているか、その神さまの恵の業を深い感動をもって源三さんは歌い上げ、それを証ししながら、そしてやがて来てくださる方への喜びと期待を込めながら詩を書き綴る生涯を送って行くのです。これが、柔和な方がわたしたちに約束される救いなのです。

 お祈りいたします。

 神さま。今わたしたちは主イエスがどのようにしてわたしたちの救い主となってくださったのかを聖書を通して知らされました。そして主イエス・キリストの王の権威に服従するということはどういうことなのかを知らされました。恵みの主の救いをただひたすら信じ、その主の救いの中に生かされている喜びでわたしたちの心を満たしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン。


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