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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年5月礼拝説教


★2023.5.28 「満たされる心の渇き」ヨハネ7:37-39
★2023.5.21 「キリストの祈り」ヨハネ17:1-11
★2023.5.14 聖霊ーわたしの命を生かす力」ヨハネ14:15-21
★2023.5.7 
「確かな希望への道」ヨハネ14:1-14

「満たされる心の渇き」ヨハネ7:37-39
2023.5.28 大宮 陸孝 牧師
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7:37-38)
 本日の福音書の日課でありますヨハネ7章37節から39節は僅か3節ですが、主イエスがご自身のことを「生ける水」として、人々に現し示されたところです。37節から38節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」、主イエスがこのように言われたと記されています。一体これはどういうことなのでしょうか。ここで祭りのことが言われておりますが、これは仮庵の祭りのことで、ユダヤ人の祭りの中では三大祭の一つであり、しかも一年の祭りの最後の祭りであります。この仮庵祭のときに、イエスさまがその祭りの最後の最後の日に、そのように言われたということです。つまり、水と光を用いる仮庵の祭りが、七日の間行われ、そして八日目に、主イエスが宣言した言葉であるということです。「渇いている人は誰でもわたしのところに来て呑みなさい」。つまり、そのユダヤ人の祭りのシンボルである水と光が祭りが終わって取り除かれた、その日に、神殿で、主イエスが立ち上がって宣言したのがこの言葉です。「わたしが生ける水である」と主イエスは重要な宣言をなさったのです。この後8章12節以下では、「わたしは光である」と主イエスは宣言されます。これは一体何を意味しているのかということです。

 主イエスは生ける水の提供者(ブロバイダー)である。またこのように光をもたらす者に他ならない。それが自分だと人々に宣言したのですが、38節には「聖書に書いてあるとおり」という言葉がでてきます。これは旧約聖書に書いてある通りということですから、この言葉によって人々はイスラエルの歴史的な出来事を想起するように促されているのです。ですから旧約聖書の時代に一体どういうことが、この「生ける水」との関係で述べられているのかを先ず見てみなければならないと思います。沢山のことがありますが、今は時間のこともありますので四つの箇所に限って触れておきたいと思います。

 一つは出エジプト記の17章1節(旧約122頁)以下「イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった」。こういう書き出しで始まります。何が起こっているかといいますと、食べる物がない。またエジプトの軍隊が追い掛けて来たといった危機に直面しました。水がない。同じことが繰り返し起こっています。この危機の中で人々は何をしたかと言いますと、自分たちの民族の指導者モーセに対して、「民がモーセと争い、『我々に水を与えよ』と言った」(2節)と書いてあります。モーセは「なぜわたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」、「神さまをどうして試みるのか」と、こう言います。しかし民衆は何をしようとしたかと言いますと、モーセを石打ちの刑にしようとします。民衆はわたしたちの願うものを与えないならば、そういう~は不要であると叫んでいるのです。そして~の言葉を取り次ぐ者を処刑しようとするのです。これが、先の方に読み進みますと、モーセによって、岩から湧き水を出すという、モーセの杖の話につながっていきます。ただ水は与えられましたが、しかし、そういう人のありようについて、7節では「彼は、その場所をマサ(試み=神さまを試みる場所)とメリバ(争い=神さまに対して争う場所)と名付けた」。つまりわたしたち人間という存在はそういう者であることを聖書のこのような故事から知らされるのです。出エジプトにそのような記録が書いてあるのです。

 もう一つはイザヤ書44章3節以下です。ここにはすばらしいことが書いてあります。

 「わたしは渇いている地に水を注ぎ、渇いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ(水と霊が出てきました。本日の福音書の日課とぴったり一致しているところです)あなたの末にわたしの祝福を与える」。ところが少し先の方に行きますと(6節)、「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは始めであり、終わりである。わたしをおいて~はない」。こういう宣言がなされます。そして、「だから、~以外のものを~としてはならない」つまり国家元首や、宗教の指導者や、あるいは経済力でもって人々を支配しようとする者とか、軍事力で支配するような者を、~の座に祀り上げてはならないということが、9節から11節に出て参ります。「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な~を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべてその仲間と共に恥を受ける」。そして本当に神さまを神さまとする者に従いなさい。こういうイザヤの言葉です。(旧約1132頁) 

 第三にエゼキエル書47章1節から9節を読みますと、「彼はわたしを神殿の入口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた」。ずーっと水の話になります。そしてどうなるかと言いますと、9節「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」。つまりすべてのものを生き返らせる、生ける水を与える方についての、それが誰だというそういう預言との関係で、エゼキエルは書いているのです。この預言との関連で、イエスを~の子、救い主と信じた新約聖書の人々は、ナザレ出身のイエス・キリストであると告白したのです。(旧約1374頁)

 最後にゼカリヤ書を採り上げます。ゼカリヤ書14章1節です。(旧約1493頁)「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものがあなたの中で分けられる日が」。以下はちょっと読むのもはばかれるような人間のすさまじいばかりの内容が続きます。エルサレムに各民族が襲ってくる。都は陥落し、家は略奪されます。恐ろしいことが次から次へと書かれております。6から8節「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」。パレスティナの荒れ野の地域では、水がいかに大事かと言うことがおわかりだと思います。結びの言葉として、9節「主は地上をすべて治める主となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」。こういうゼカリヤ書の預言の言葉と、本日のヨハネ福音書7章37節から39節の記事は、関連しているのです。しかも、今申しました、エゼキエル書のもっと先の方では、これこそ仮庵祭を祝うため上って来た人、来ない人との関連で書かれているのです。この今四つだけ代表的な旧約の記事を上げましたけれども、これらはどれも仮庵の祭りと関係があり、主イエスが叫ばれた37節から38節の言葉の背景となっているのです。

 今、旧約聖書で申し上げましたような出来事が、主イエスを通して、しかも「いま」この地上にもたらされるという、そういう宣言、告知が本日の福音書の日課のところでなされているのです。仮庵の祭においてイスラエルの人々は、過去において~がモーセを通してイスラエルを救い、命を与えられたことを回顧し、そしてさらに未来に向かっては、世の終わりに~がイスラエルを解放し、~の国がもたらされるという約束を信じ、深い希望を持ちました。

 けれども、主イエスはその祭りの終わりに立ち上がり、人々の渇きを語り、生きた本当の命の水のことを語ります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、旧約聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。過去や未来だけではなく既に現在のこととして、旧約聖書の時代以来のイスラエルの希望がイエス・キリストにおいて成就したと言っているのです。

 自分たちのこの世の生活の都合だけを大切と考え、この世の生活の充実と満足を求めている人は、生きとし生ける者を生かす真実の命の力を知りません。そして自分がその真実の命の力に渇いていると言う認識もありません。真実の命の力に渇いていると言う認識がなければ、教会に来ていても意味がありません。自分が神さまの言葉に耳を傾ける必要がない、と思っている人にとっては、主イエスのことばは意味を持ちません。水は万物を生かす源であるように、それを人間に当て嵌めて考えますと、それは肉体だけではなく心をも根底から新しくし、つまり罪と死にまとわれ、縛られているわたしたち人間を、そこから解放し生かす力となるということです。主イエスは止むことなく、尽きることなく、わたしたちに真実の命の力を与える方です。わたしたちの信仰が強いか弱いかという問題ではありません。イエス・キリストの霊の力が問題なのです。「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。」と主イエスはわたしたち一人一人に向けて語りかけてくださっています。人間は自分の罪の悲惨な現実に対して無力で絶望的な者であります。そのような絶望のどん底に突き落とされた人々が、新しい霊の力をもって~との永遠の命の交わりに生きる者となるためにこそ主イエスは来てくださっているのです。

 お祈りいたします。

 神さま。あなたは霊に渇くものを招いてくださり、主イエスのみ言葉によってわたしたちに真実の命の力を与えてくださいます。どうか主イエスを救い主と信じる者に、自分の内から霊の働きが溢れ出るようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン。

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「キリストの祈り」ヨハネ17:1-11
2023.5.21 大宮 陸孝 牧師
 「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネによる福音書17:10)
 先々週先週と続けてヨハネによる福音書の14章で、十字架を前にしての主イエスの別れの説教を学びました。本日はそれに続いて17章1節以下のところであります。この17章は、十字架を前にしてのイエスの「大祭司の祈り」と呼ばれます。

 「イエスはその目を天に上げて」と言う表現の中に、身体の具体性に託した表現をとって、イエスにおける祈りという極めて霊的な行為を体の具体性を伴って表現されている祈りの本質を先ず私たちは汲み取っていかなければならないでしょう。ここには、基本的で具体的な祈りの姿勢が示されています。

 主イエスは目を天に向けながら、つまり視点を~に集中しながら、以下に続く祈りの中で、心を次々と祈りの課題に移してゆきます。顔は具体的に天に上げ、心は具体的に祈りの課題にと言うのがここに示される主イエスの大祭司としての祈りであります。

 「大祭司」とは、イスラエルの民のために、神さまとの間を執り成す祈りを捧げるために、特別に取り分けられた者のことです。出エジプトの時代においては、モーセの兄アロンがその務めに任ぜられました。以後、アロンの家系の者がこの大切な務めを担って来ました。しかし大祭司とはいえ、人間です。人々の中から、ある特別な務めのために取り分けられたにすぎません。罪や汚れから解放されているわけではありません。彼らもまた自らの罪や汚れについて責任が問われなければなりませんでしたし、誰かに執り成される必要がありました。何よりも不完全な人間であるということのゆえに、その罪の現実を正しく見抜いて判断することにも、また、人間の弱さを知って深い憐れみと同情の心で執り成すことにも限界がありました。そして、ここでは、主イエスは父なる~と完全に一致しておられるまことの大祭司として、神の前にまったき正しさと深い愛をもって神に執り成しの祈りをしてくださっておられるのです。

 ここで、「とりなし」という言葉の意味を少し考えたいと思います。「とりなし」とは、日本語の辞書では、「もめごとの仲裁」という意味で用いられていることばですが、聖書では、罪を犯した人間のために神が取り持つという意味で用いられています。「とりなしとは単なる祈りではなく、罪を負うことも含む」と解釈されます。つまり、本来、神から離れ、神との関係が破れてしまっていて、神のみ前に立つことが赦されない、神の審判の前に滅びるほかない人間には、神様との間を執り成してくださる存在がどうしても必要なのです。そのわたしたち人間が、主イエスという仲保者の贖いと仲立ちにより、神との和解を与えられて、交わりを赦されることを「とりなし」というのです。

 ここに祈られる祈りの本質は、先ず目が向かうところと心が向くところとの一致で始めなければならない。まず天の父への集中であります。み子の祈りはここで天の父との関係に極まり、その中心は「栄光の時の到来」ということでありました。ヨハネ福音書が十字架の出来事を「受難」という語り方をしないで、これを「栄光」と呼ぶのはよく知られていることでありますが、この「時が来た」ことが、イエスの祈りの冒頭の重要な鍵となる言葉です。父のみもとから遣わされたみ子の務めは「あなたの栄光を現す」ことでありますが、これは十字架と父の栄光を現すこととは切り離すことができないものであることを言っているのです。具体的にはどういう意味であるのかといいますと、御子には十字架においてこの世に自らの命を与えるために遣わされた、その派遣の使命を果たすこと、それと同時にこの世に於いて権能が与えられるという二つの重要なことがあります。それは「すべての人を支配する権能」であります。「世界の主、教会の主」という形での、キリストの支配のことであります。この支配の権能をもってみ子は「あなたから(父なる~から)ゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる」とあります。重要なことはここでの永遠のいのちとはこの世的に定義しているのではないということです。「永遠の命」とは、父とみ子とを「知ること」と言われます。つまり「永遠の命」とは父とみ子とに全人格的に繋がることそのものであると言っているのです。

 み子は遣わされて、果たすべき「業を成し遂げて、地上で栄光を現した」というみ子のこの働きは既に完了形になっています。これが「時が来ました」と言われている内容です。つまり主イエスは全き正しさと愛のわざをもってとりなしてくださるお方として今やわたしたちに与えられているという大きな恵みを言い表したものです。その上で、み子はさらに父のところから来るものについて祈ります。「御前でわたしに栄光を与えてください」という祈りです。それは具体的に言いますと、十字架と共に復活のこともこの栄光のできごととして示そうとしておられるということです。この祈りの部分で父と子の命の繋がりを祈り、そして、次にこの父とみ子との関係の中に、弟子たちが既に含められていることが確認される内容に移って行きます。

 弟子たちは、父が「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」であり、それだからこそ、その弟子たちに「わたしは彼らに御名を表しました」と言われるのであります。「弟子たちはあなたのもの」、しかも「あなたが与えてくださった」ものなのです。弟子たちはこのように、父とみ子との一致と連携の中に立たされています。

 この一致と連携の中に立つ弟子たちがするように召されていることは、父とみ子との切り離せない一致の関係を知り、その関係の只中から語られる主イエスの「御言葉を」聴き、「守り」、生きることであります。主イエスが弟子たちに語った御言葉は、父なる~から受けた御言葉であり、弟子たちもまたそれをそのようなものとして受け取り、その御言葉の根源を(すなわち父なる~を)全人的に「知り」、体験し、信じていくことであります。弟子たちがそうであると言うことはそれ以後の教会の歴史の中で代々の信仰者もまたそのように召され、そのように位置づけられているということになります。

 弟子たちのアイデンティティーが主イエスの中でそのように祈られているということは、わたしたちのアイデンティティーもまたそのように祈られ、イエスの祈りの中で確立されているということでもあるのです。これこそが、父とみ子からなる密接な関係の中にわたしたち教会の群れが位置づけられている根拠なのです。もう少しわかりやすく申しますならば、弟子たちを「あなた(父なる神)が世から選び出してわたしに与えて下さった人々」と位置づけていますことをわかりやすく言い換えるならば、「彼らは本来あなたのものです。でも、あなたは彼らをわたしに委ねてくださいました。ですから彼らは、あなたにとっても、わたしにとっても大切な者たちです」と読み取ることが出来ます。「ですから、このわたしの祈りは、あなたによって必ず聞き取っていただかなければなりません」と切実なとりなしとして祈られていることを表しているのです。

 こうした父とみ子との生きた繋がり、絆の中に生かされながら、なお「世に残る」弟子たちのために、主イエスは心を注いだ祈りを続けます。恵みの故に神のものとなった弟子たちには、そのような恵みに生かされ続けるために先ず以て「御名による守り」が欠かせません。ここでは「御名」は名ばかりではなく、~そのもの、~の人格総体が言われています。~の守りが目指すところは、「わたしたちがひとつであるように、彼らも一つとなること」であります。主イエスは世にいる間、弟子たちと共にいる間は、御名によって、つまり主イエスの目に見える具体的な存在によって彼らを一つに保ってきました。ユダの裏切りの危機、あるいはイエスが捕らえられるということによる弟子たち自身の危機の中でも、イエスご自身がそこにいるということによって彼らは一つに守られてきました。しかしこの時、弟子たち自身の心の中の人間的実態は、もはや一つとは言いがたいものであったことが露呈されていました。主イエスが世にいなくなるとき、彼らは一つとなりえない危機を内に必然的にもっていることを、イエスはまた既にここに見ておられます。~の秩序と人間の無秩序、~の一致と人間の不一致を主イエスは既に洞察しておられました。この洞察において主イエスは人間の罪、善きにつけても悪しきにつけても、分離と分裂に向かわざるを得ない人間の罪の姿を見通しておられたのです。「彼らも一つとなるためです」と言われている言葉の中に、「父よあなたの守りがなければ彼らは一つとなりません」という弟子たちの、またわたしたちの、教会の実際の姿の現実態が示されていることに気付かされるのです。

 教会の一致についての、大祭司としての主イエスの祈りが示すことは、主イエス御自身が教会の一致を祈ってくださった。そして今も祈ってくださっていることだけではなくて、今日の教会においても、本来、~の御前に立つことのゆるされない罪人が、この主イエスの執り成しの祈りによって~との和解を与えられて、交わりを許されているのですから、わたしたち人間もその~の恵みの御業のうちに召され、わたしたち相互の理解と受け入れが求められていることにも気付かされるのです。この主の執り成しに、信仰をもってお応えしてゆきたいと思います。

 祈ります。

 父なる神さま。あなたと御子との命の繋がりの中にわたしたちを主イエスを通して結んでくださり、あなたのものとされて、御子の手に委ねてくださって、御子を通して成し遂げられた救いが確かであることをわたしたちに示してくださいました。その祝福を受けてわたしたちもお互いに~の御言葉の働きを証しし、確かな~のご計画に基づいた群れとなって行くことができますように、これからもわたしたちを御言葉によってお導きください。

 主イエスのみ名によってお祈りいたします。   アーメン。

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「聖霊ーわたしの命を生かす力」ヨハネ14:15-21
2023.5.14 大宮 陸孝 牧師
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネによる福音書14:16)
 先週ヨハネ福音書14章1節〜14節の学びで申し上げましたように、主イエスの十字架の死は、わたしたちの現実感覚からしますならば明らかに敗北の死と見えるのですが、実はまさにこの死を通してこそ、主イエスは神の御心を成し遂げられて、父なる神のもとに帰られるのだと言われ、だから今や神と並んで、祈りを捧げまつるべき対象となられるのだから、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(13節)と言われるのです。そして、弟子たちを迎える場所を準備することも、人々を神の御許にともなうべき"『道』となることも、14節の中に含まれて、「神を信じなさい。わたしを信じなさい」と言われています。1節から14節の論旨をこのように概観して見ますと、ここで言われている真理が、いかにわたしたちの現実の信仰生活にも深く関わっているかということを、本日の日課の中でさらに考察することができます。

 わたしたちの生涯においても、幾度となく挫折と敗北の時が押し寄せて来ることがあります。しかもそれが、キリストを信じ神様に忠実であろうとすることから由来する挫折や敗北である場合には、わたしたちは失意のどん底に投げ出され、信仰さえも投げ捨てて、この世の人々と同じ妥協と迎合の道を歩もうとする誘惑に足をすくわれることすらあるだろうと思います。信仰を持って生きるというわたしたちの現実は、むしろ破滅に至る道であるかのように見え、全てが無意味に見える虚無の深淵がぽっかり口を開いてわたしたちを飲み込もうと待ち構えているということでもあります。

 そういう現実にわたしたちがぶつかったときにこそ、しかし、わたしたちは死んでよみがえりたもうたキリストにしっかり繋がっていかなければならないのです。神の勝利は、しばしば人間の挫折を通して顕されます。そしてわたしたちは、あの十字架を仰ぐ時にのみ、一切の挫折に耐えて信じ続ける勇気を与えられるのです。なぜなら、完全な敗北と見える主イエスの十字架の死すらも神の絶対的勝利の表れであり、その勝利のイエスが天にあって、わたしたちの祈りを父なる神に執り成していてくださるならば、もはや信じる者を押しつぶすもろもろの力は、天上・天下のどこにも存在しないからです。さらに言うならば、主イエスのこの力強い支えこそは、イエスを天に送った弟子たちにとって、最も必要とした支えであったということでした。この主題が本日の日課一五節以下にふたたび新たに展開されて行きます。

 主イエスの十字架刑死が弟子たちにとってどれほど致命的な挫折を意味したかということ、そしてしかし、実際には、主イエスの昇天によってこそ、まことの生命である父なる神の御許に至る道が開かれるという主題が14節まで展開されて来ました。そして、この15節に至って、決定的に重要な新しい言葉が導入されます。それは『愛』という言葉です。主イエスの死はただこの世的な意味での挫折また敗北であったばかりではなく、主イエスと弟子たちの間に結ばれた愛の絆すらも、破壊してしまうことになりはしないだろうか。それは弟子たちにとって耐え難い苦痛であったでしょう。真の生命は愛の結びつきにおいてこそ生きていると言える。愛なき生命は死であるとも言える。そのイエスの死によって、もしこの愛が敗れ去るとするならば、それは恐るべき深刻なる破綻であります。

 15節以下でこの深刻な疑問に答えます。

 15〜16節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」挫折して終わるかのように見える主イエスの十字架の死は実は新しい命の幕開けなのだと宣言されています。弁護者、助け主と共に与えられた、新しい時代への突入、新しい時代をもたらすことを意味しています。「これからは聖霊が働く時代、聖霊によってあなた方が導かれる時代になりますよ」と、イエスは宣言されたのです。神ご自身の新しい啓示です。キリストの十字架の後は、今度は聖霊のはたらき、ヨハネではその働きは弁護者、助け主としての働きだと表現されます。その働きがわたしたちの信仰生活の中で現実的な力となっていつまでも働かれますよと、イエスは言われるのです。教会の中で、眼には見えませんけれども、わたしたちが導かれたり、励まされたり、新しい信仰者が起こされたりする、そういう霊的な力が与えられるということです。永遠から永遠にいます神は、イエス・キリストの御霊の働きを通して、わたしたちといまも後も永遠に共にいるという福音がここに告げられているのです。

 ギリシャ語でいうところのパラクレートスという名詞は、パラ「傍らに」という前置詞と、クレートス「呼ぶ」という動詞から派生したもので、『その人の傍らに立つために呼ばれた者』というのが語源的な意味です。特にこれはローマ社会においては法廷用語として用いられ、「法廷弁護人」という役職を表す言葉でもありました。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、わたしたちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」と、Tヨハネの手紙2章1節に記されているのが、このパラクレートスです。わたしたちが聖なる神の前に立たされるとき、わたしたちを弁護するために立つ方がおられる。それがイエス・キリストであると、ヨハネは語ります。

 使徒信条の中でも、主イエス・キリストが最後の審判において「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白されています。しかし、キリストは、神の裁きによって有罪判決を受け、滅びるほかないわたしたちのために、身代わりとなって死んでくださいました。そして聖霊は、わたしたちの弁護者となって、わたしたちを清め、慰め、励ましてくださいます。その反対に、「サタン」は「敵する者」という意味で、わたしたちを訴え、非難中傷して有罪にし、滅ぼそうとします。それに対して、聖なる神は、わたしたち罪人をも愛し、罪を清め、わたしたちの命を新しく創り変えてくださるのです。

 三位一体の神、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、霊なる神がはっきりと言及されて、その三位一体なる神が総出でわたしたちを救う働きをなさっておられるということがここに記されています。この三者の働きを通して、わたしたちは、わたしたちの思いを超えて、思いもかけず、聖書の教えに耳を傾け、素直に聞き従い、イエス・キリストを、「わたしの救い主」と告白する信仰の道に導かれ、さらには、神様との現実的な交わり、愛の応答関係へと導かれる、そこにこの聖霊の働きがあるのだということであります。

 子なる神が仲立ちとなり、神の愛を人間のところにまで届けてくださったので、父と子なるキリストとの間に循環していた愛が、神様とわたしたちとの間にも循環するようになったのです。このようにして、父なる神と子なるキリストが深い愛の交わりの中におられるように、わたしたちも神との愛の交わりの中に入れられ、さらにわたしたち人間同士も、互いに愛し合って生きるように導かれるのです。

 このように、主イエスはご自分がこの世を去った後に、聖霊が弟子たちに与えられることを約束されました。この聖霊は弟子たちと共におり、彼らの内におられるので、弟子たちはこの世の中にあっては、孤立無援の状態に陥り、失望落胆することはないと諭されました。最初の弟子たちはその約束通りに、キリストが天に上げられた後、聖霊を注がれて立ち上がり、聖霊の宮である教会を築きました。使徒言行録はこれを聖霊降臨の出来事として使徒言行録第2章に記しました。しかも、使徒言行録によりますと、この聖霊の働きは、それ以後人々に注がれて、彼らを立ち上がらせ、教会の群れを形成し、教会としての歩みを導いて行くのです。

 本日の18節〜19節のイエスの言葉「わたしはあなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしは生きているので、あなたがたも生きることになる」これは、キリストの復活の約束でありますが、この復活のキリストは、見える姿では、短い間弟子たちと共にいて、天に登られました。しかし、霊のキリストとして、今もわたしたちと共におられます。マタイ福音書の末尾に「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われます。

 キリストは、わたしたちを救うために、死ぬべき罪人であるわたしたちに代わって十字架につき、わたしたちの救いを成し遂げてくださり、新しい命に甦って、「霊のキリスト」として、わたしたちの内に住み、豊かに働いてわたしたちを生かしてくださいます。わたしたちは、わたしたちの内に住むこのキリストの命をいただいて、命と愛に溢れて生きる者となるのです。神が真実の命であることを「見る」「知る」とはそういうことなのです。

 お祈りします。

 天の父なる神様。わたしたちは自分からあなたの許へ立ち帰ることが出来ません。そのようなわたしたちのために、あなたは聖霊をわたしたちの許に送ってくださり、あなたがわたしたちの内に住んでくださいますことを感謝いたします。どうか、わたしたちの内に住んでくださる主イエスを、新たにわたしたちの内に迎えることによって、わたしたちの内に命と愛の泉が湧き出て、力と喜びと感謝を与えられ、今日から始まるこの一週間、信仰の道を歩んで行くことが出来ますように導いてください。

 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン

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確かな希望への道」ヨハネ14:1-14
2023.5.7 大宮 陸孝 牧師
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネによる福音書14:1)
  ヨハネ福音書は、13章から後半部分に入ります。特に13章から19章には、イエスの最後の一日(日没から始まって日没に終わる一日)が詳しく描かれているところです。13章にはイエスと弟子たちの最後の晩餐の記事が記されていて、特に1節〜11節にはイエスが弟子たちの足を洗う出来事が記され、その洗足は十字架による贖罪を示していて、それを基にして、弟子たち相互に愛し合い仕え合うことが勧められ、その出来事の直後にユダの裏切りが明確になり、イエス・キリストの受難が始まっていくという展開になって行くのです。「イエスは言われた『今や、人の子は栄光を受けた』」と語ります。(13:31)今やこれまでの一切のイエスの言葉と業が目指していたイエスの時、神から定められた時が来た。と十字架に至る受難の段階に入ることを宣言され、そのうえで、ここから16章の終わりまで、イエスが世を去る前に弟子たちに語られた最後の教え、いわゆる「決別説教」へと入って行くのです。イエスが弟子たちに明らかにされたご自分の死の意味を教え、ご自分が父のもとへと帰られた後、弟子たちの生きるべき道を教えられたのです。

 このような決別の説教は他の福音書には記されていないヨハネ福音書独特のものです。これは推測ですが、恐らくイエスは十字架につけられる直前には、ご自分の死前後の詳細な展望のようなものは持っておられなかったのではないかと思われます。嵐のように襲いかかる試練の中でご自分をただ神の御手にすべて委ねる思いで死なれたと思われます。それに対してヨハネ福音書の著者は、主イエスが十字架の死のあとによみがえられて、弟子たちを立ち上がらせ、教会を立てられたことを経験し、そのことを通して、あの復活された主イエスは、十字架の死に赴くに当たって最後の晩餐の席でこのように弟子たちに語られたに違いないと、ヨハネ複音書記者自身の心に聞いた主イエスの御心を書き記したものと思われます。教会がキリストの復活後に学び知ったことを、十字架を前にしてのキリストの言葉として記していると解釈されます。

 14章から始まります決別説教の前半のところで、主イエスは、死を前にして弟子たちが動揺することがないように、ご自分の死の意味を教えておられます。「心を騒がせるな。神を信じなさい」(14・1)これから起こる十字架の悲惨さを誰よりも御存知であった主イエスは十字架の死のゆえに、つまづいてしまう弟子たちのことを案じておられます。躓(つまず)かないように、というのではありません。それは避けられないという現実認識に立ちながら、しかし、弟子たちが躓(つまず)いたままでいることのないようにと、そのあとのことに心を配り、備えをさせようとして、繰り返し繰り返し語っておられます。

 これらの言葉にわたしたちは、日々み言葉を読み、み言葉に聴き続けることの意義深さを感じます。わたしたちが日ごろからみ言葉を学び、み言葉を蓄えるように求められているのは何のためであるのかということです。それは、普段からみ言葉によって教えられ、み言葉によって養われてないならば、いざというときに、わたしたちは立ち直るきっかけを持つことができないからです。様々な試練をくぐり抜ける時に、残念ながら、躓(つまず)かないでいるというのは、容易なことではありません。だれでも躓きを経験します。だからこそ、主は日々の生活の中で、わたしたちにみ言葉を語りかけ、心にみ言葉の種を植え、「やがて」のための備えをさせてくださるのです。わたしたちが人生の様々な試練を通る時に、心に植え付けられたみ言葉が力となり、悲しみの中にある時に、癒やされ、励まされ、支えを得られるように、そして絶望から立ち直ることができるように、先回りをして語られます。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と語られるのです。弟子たちが経験するこれからの大きな試練の時を目前にして、ご自身の御心とともに、励ましの言葉を与えておられる主をここに見ることができるのです。

 「騒がす」という言葉の意味は、嵐によって荒れ狂うような状態を表します。弟子たちはこれまで、主イエスが救い主として神の国を築いてくださると信じて、主に従って来ました。それが、ガリラヤから始まった公のメシアとしての歩みはわずか数年で十字架につけられて処刑されて終わってしまったのです。この神からも人からも捨てられるような経験の中で、弟子たちは喜びの絶頂から奈落の底に突き落とされて、心は大海が暴風雨に荒れ狂うような混乱状態に陥って行くのです。しかし、主イエスはそのような中で、弟子たちに「心を騒がせるな」と、この世の困難や試練に翻弄されて心を動揺させ不安や絶望に追いやられてしまう、そのようなことにいちいちあなたの心を委ねてしまうのではなく、動揺しないで冷静に、この時を乗り越えて行くようにと命じておられるのです。そのためには、弟子たちが自分の力に依り頼むのではなく、神を信じ、主イエスを信じて、その御手に自分を委ねる信仰を求められたのです。目に見える絶望的な現実にもかかわらず、それでもなお、神を、主イエスを信じる信仰を求めたのです。

 それで、ここで主イエスは、この世の絶望を超える神の約束の言葉を語ります。この世の悲しい出来事の向こう側にある確かな神の約束にわたしたちの目を向けようとしてくださいます。「わたしの家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなた方をわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(2節〜4節)主イエスの死は、この世の生を終えて消えゆくことではなく、地上から天に移り、この世から神のもとに移ることでありました。しかもそれは、人間をこの世から神のもとに迎えるための通路を開き、人間に永遠の命を与えるためであります。主イエスにとって死とは消滅ではなく、この世的な存在から霊的な存在に移ることでありました。人間は本来そのように神のもとから来て神のもとに帰る存在として創られているのでありますけれども、この世において罪を犯し、神との関係が切れてしまったので、帰れなくなってしまっています。そのような人間の罪を主イエスが引き受け贖罪の死を遂げてくださることによって、神と人間との関係が回復され、人間は故郷に帰るように、神のもとに帰ることができるようになりました。そのために主イエスは、「あなたがたのために場所を用意しに行き、用意ができたら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と、ご自分の死の意味を説明されているのです。

 しかし、目前の主イエスの死を突きつけられて、心が騒いでいる弟子たちにはその意味を理解することができませんでした。弟子たちは生前の主イエスと本当には出会っていなかったということでもあります。この時点では弟子たちはまだ目が閉ざされていて、神の御心が分からないままでした。弟子の一人トマスは言います。「主がどこに行くのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14・5)。これに対して主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14・6)と答えられました。トマスの戸惑いはわたしたちにはよくわかるものでもあります。わたしたち自身にも心当たりのある問いだということもできます。あなたには主イエスの十字架の死の意味が充分分かっているはずだ、と言われても、神の御心を理解しなさいと言われても、それを理解するだけの余裕は今のところわたしにはないし、そこにある意味を正しく受け止められるだけの信仰はこれっぽっちもない。それを一番おわかりの筈(はず)の神が、「どうして」という戸惑いです。「主よなぜでしょうか」、「どうして、そのようなことが、わたしの身に起こるのでしょうか」、「このことの意味は、どこにあるのでしょうか」と、途方にくれ、困惑し、くずおれる、そのような経験です。

 このトマスと主イエスの対話を通して示されることがあります。それはトマスの「どうして」という問いに対して、主イエスご自身は確かなその答えを持っておられるということです。そして、そこにトマスを導こうとしておられるということも、主イエスの真実であるということです。主イエスは当惑する弟子たちが次々と正直な問いをご自分に向けて来ることを期待し、彼らの内に芽生えた真剣な問いに対して確かな答えを与えようとしておられます。ここでの主イエスと弟子たちのやりとりはそのような意義深いものであると言うことを踏まえて読まなければならないと思います。

 主イエスの答えは、「わたしの内に命の道がある」という明確な一点でした。いろいろとある選択肢の中のひとつと言うのではなく、「わたしのみが命に至る道である」と明確に答えられたのです。「この道しかない」とは行くべき所にたどり着く道はこの道だけであるということです。そのような明確な救いの道が主イエスを通して、神の憐れみの故に備えられていると主イエスはここで宣言されているのです。

 ヨハネは人間は誰も神を見たことがないと極めて強調します。(1:17・18)しかし、その一方で、あの三十数年ガリラヤとユダヤに生きて宣べ伝え、十字架にかかり、そして復活されたイエスを見た人は神を見たのであると、断言します。(1:14)さらに本日の日課では、そのイエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)と語られます。ここでの道とは人間存在のゴールである父なる神のみもとに人間を連れて行く道のことです。真理とは一人一人の人間を本当に生かすために、一人一人の人間に己の真の姿を示され、その命に至らせる真実の力のことです。そして本当の命とはわたしたちを創り、生かし支えておられる神としっかりと繋がっていること、正しい、生きた関係を保っていること、これをわたしたちの側から表現するならば、神がわたしを愛し、赦し、わたしに対して慈しみの心に溢(あふ)れておられることを知ることです。

 主イエスの弟子たちは主イエスが十字架にかかって死なれるまで、イエスが誰であるかを知ることは出来ませんでした。しかし、十字架にかかり、復活されたイエス・キリストに出会ったときに、彼らの目が開かれ、信仰が与えられ、本当の意味でキリストに出会い、自分を愛し赦してくださる神を見たのです。わたしを救ってくださる神をこの目で見たと言っているのです。

 そして復活の主イエスを見た、主イエスに出会った人々の喜びの証言を通して、わたしたちもまた内なる聖霊の働きによって、主イエス・キリストを見ているのだ、そのことによって父なる神を見ているのだと言っているのです。わたしたちは、イエス・キリストという、真の命を与え、父なる神のみもとに連れて行く道と真理を、信仰の眼をもって目の当たりに見、信じることを許されているというこの救いの恵みのもとに導かれて、道である主イエス・キリストに生涯を委ねて、神の憐れみと恵みの道を大切に歩んで行くのです。

 お祈りをいたします。

 父なる神様。この世にあって罪の不条理、暗闇の中で苦しみ、憎しみと恨み、虚無と絶望にあえぐわたしたちの心に、わたしは道であり、真理であり、命であると語りかけてくださり、わたしたち一人一人の手を取るようにして人生の歩みを導いてくださり、わたしたちを天の父なる神のみもとに連れて行く道となりたもう主イエスを、わたしたちの所に送ってくださいました。間違いなく天の御国へと導いていただけるように、この主イエスにわたしたちがしっかりと繋がり、命の道を歩み通すことができますように守り導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン


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