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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2023年9月礼拝説教


★2023.9.24 「救いの恵みはすべての人に臨む」マタイ20:1-16
★2023.9.17 「神の赦しの恵みに生かされて」マタイ18:21-35
★2023.9.10 「イエスの愛に繋がって」マタイ18:15-20
★2023.9.3 「再臨の約束」マタイ16:21-28

「救いの恵みはすべての人に臨む」マタイ20:1-16
2023.9.24 大宮 陸孝 牧師
 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイによる福音書20:14)
 本日の福音書日課マタイによる福音書20章1節以下は、イエスが語られた一つの「天の国のたとえ」を記しています。話しの内容は明瞭であり、理解するのにそれほど難しくありませんが、その内容には一読して意外に思うところがあり、少し立ちどまってよく考えなければならないところもあります。深い意味が隠されているということであります。まずこの譬えの筋を追いながら、~さまがわたしたちに今何を語ろうとしておられるのか聞き取って行くことが大切です。

 1節、「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」。この譬えの背景には、イエス様の時代のパレスティナの厳しい労働環境があります。職を求め探しても得られない状況がありました。多くの労働者が、毎朝、その日の働き場所を求めて決められた場所に集まって来ます。しかし、働き場所を見つけることはなかなか困難でした。

 今日のわたしたちの世界の労働環境も決して良好であるとは言えません。失業者の数は、先進国と言われている国々でも、相当の数に上っています。そしてわたしたちの国の社会的な状況だけをとってみても、ここ三〇年ほどの労働環境は厳しさを増し、臨時社員、嘱託社員、派遣労働者などの正社員でない労働者が多くなっています。同じような仕事をしても、賃金は正社員と比べて劣悪であり、社会保障等に入れない人すらあります。同一労働同一賃金の原則は、事実上なくなってしまいました。これらの契約社員はこれまでは一応契約期間は一年ごとの更新で三年を超える場合は、その企業にとってその労働は必要と考えられるので、正社員として採用するように求められていました。しかし、こうした考えも「規則緩和」の美名のもとに、6年目から自動契約という内容に変更されました。逆の立場からいいますと、それほどに大部分の会社は厳しい状況に置かれているということも言えるのであります。しかし、働く人の立場からすれば、この種の改正は働く人々の生活をいっそう厳しくするものであることは、間違いありません。今日のわたしたちの社会の労働環境も正常といえるものではありません。しかし、きょうの譬えの背景をなす労働環境はもっと厳しいものでした。働きたくても働く場所がなくて、毎朝職を求めて広場に立たなければならない人も決して少なくなかったのです。

 こうした状況の中で、きょうの譬えに出て来る「家の主人」は、つまり~は、自分から働き人を求めて、広場を訪ねて来られます。当時の一日の労働時間は、十一時間にも及んでいました。詩篇14篇22節以下に書いてありますように、「太陽が輝き上ると彼らは(野獣は)森に帰って行き、それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く」。この詩は、~が人間を野獣の攻撃から守っていてくださることを歌ったものですが、この詩にあるとおり、人が仕事に出かけるのは「太陽が輝き昇る」ころ、だいたい朝の六時ごろであり、「夕べになる」のは、午後の六時ごろですから、朝の七時ごろから夕方の六時ごろまで人々は働いていたことになります。そのために、この主人は「夜明けに」、朝早く五時か六時ごろには家を出て、日雇い労働者が職を求めて集まっている広場に出かけます。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、2節、「一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送り」ました。「一日につき一デナリオン」という賃金は、当時の平均的な賃金でした。本人とその家族が、贅沢をしなければ、何とか一日食べていけるだけの金額です。主人はそれだけの賃金を約束して、口頭で労働契約を結びました。広場でその日の職を求めていた人々は、喜んでぶどう園に働きに行きます。

 それでもぶどう園で働く人の数は足りません。それで、3節から5節a、「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相応しい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った」。更に、この主人は一二時ごろと三時ごろ、労働することができるわずか一時間ばかり前の五時ごろにも、広場を訪ねましたが、その時間になっても未だ働き場所を見つけることができないで、広場にたむろしている人々がいました。6節以下、「五時頃にも行ってみると、他の人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。

 「何もしないで一日中広場に立っている」。ハローワークに行って、提供される仕事が自分の気に入らないから働かないというのではありません。この人々は働いて、家族を養い、社会的な責任も果たしたいのです。だから働き場所を求めて来ているのです。しかし、雇ってくれる人がいない。暗い思いをもって、一日中空しく「何もしない」で日を過ごすしかできないのです。このような人々にも、この主人は職を与え、彼らをぶどう園に送ります。後一時間ほどしか働く時間がないときに、人を雇う。これは、わたしたちの常識では考えられないことです。なぜ、この主人が敢えてそのようにしたのかは、この譬えを最後まで考えていくとよく分かりますが、それは主人の憐れみ深い思いから出ていたのです。

 さて、労働の時間が終わりました。賃金の支払いが始まります。この主人は律法をきちんと守って、一人ひとりにその日の賃金を支払います。レビ記19章13節や申命記24章15節には、このように規定されています。「賃金はその日のうちに日没前に支払わなければならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい」(申命記24章15節)。この規定は古代社会には珍しく、聖書の命令の人道的な特質をよく示しています。賃金の支払いを遅らせて、労働した人が食べて行けないなどということがないようにというのです。この主人は、その趣旨をよく理解して掟どおりに、「日没前に」その日の賃金を払います。きょう働いた人々が皆、集まって来ました。しかし、賃金の支払い方も、その額も、人々を驚かせました。8節、働きに「最後に来た者から初めて、最初に来た者まで順に賃金を支払った」からです。これは順序が逆ではないでしょうか。この事実がすでに、主人、つまり~の考えておられる事が人間の常識と大きく違っていることを示しています。

 さらに、もっと人々が驚いたのは、賃金の額でした。支払われる賃金は、最初に来て一〇時間以上にも及び労働した者にも、最後に来て一時間ばかりしか働かなかった者にも皆、等しく一デナリオンの賃金が払われました。これは、いかにも不可解な不公平であり、不平等ではないでしょうか。最初から働いた人々は、自分は最後に来た人々の十倍も働いたのだから、一〇デナリオンか、それに近い賃金はもらえるものと考えました。無理もありません。しかし、もらった賃金は、やはり一デナリオンでしかありませんでした。この裏切られた期待は「不満」「不平」となって爆発します。最初から来て働いた人々は、このように言って不満を爆発させます。12節、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。彼らの主張は当然のようにも思えます。この不満は、二つの根拠を持っています。一つは労働時間の違いが無視されていることです。一時間の労働と一〇時間の労働を同じに扱うのは、不当ではないか。この不平のもう一つの根拠は、労働の厳しさの差が考慮されていないことにありました。われわれは日が照りつける暑い日中に辛抱しながら一所懸命働いたのに、あの連中は夕方涼しくなってやってきて、暑さ知らずに働いたのではないか。それを同じように扱うのは不当というものではないか。この不平は、当然の根拠に基づいているようにも思えます。

 しかし、この不満を聞いた主人は少しも動じないで、彼らの不満に少しも同意しないで、平然と答えます。その理由はまず第一に、この主人は少しも契約違反はしていないことにありました。13節、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。それだから、他人の事をとやかく言わないで、自分の分を受け取って帰りなさい」。それは確かに契約違反ではありません。しかし、だからと言って不平等な扱いをしてもよい理由にはならないでしょう。そのように、最初から働いた人は考えました。恐らくわたしたちもそう考えます。人の目は自分自身と他の人とを見比べます。そしてそこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され自分が不当に扱われていると思って、不満を抱きます。あるいは、他人が不満であっても、自分に良い扱いがなされているのを見たら、不満は抱かないかもしれません。このようにして、わたしたちの心の底に潜んでいる自己中心の「原罪」が頭を持ち上げてくるのです。それですから、そのことをよく承知している主人は、心の底にあるものを見抜いて、あの不平を言っている人々に対して、15節b「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と、皮肉混じりに問い返したのです。

 さらにこの主人の第二の主張が続きます。15節「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。もちろん、この自由は個々人との契約に反していない限り「恣意的」であってよいということはできません。それでは本当に不平等、不適切ということになるでしょう。ここで主人が言っている自由は、「憐れみの自由」です。~は憐れみにおいて自由であり、恵みにおいて自由であります。~はわたしたちを自由に憐れまれ、自由に恵まれます。ユダヤ教ラビの文献には、きょうのイエスの譬え話によく似た話しがありますが、そこでは一時間しか働かなかった人は有能で長時間働いた人と変わらない貢献をしたからだと説明されています。これは一つの合理的な納得のいく説明ではありますが、イエスのたとえのような深みを欠いた業績主義による見解でしかありません。それに対して、イエスの譬えはきっぱりと業績主義を排除しています。ここには、何の能力主義も、業績主義もありません。~はわたしたちを功績のないままに自由に憐れみ、わたしたちに自由に恵みを与えられます。

 さらに、この主人の第三の、そして最も深い、本当の主張が述べられます。それは、まことの自由は恣意的でないだけではなく、「人間が生きて行く権利を保障する自由」であることにあります。14節b「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。一デナリオンは当時の日雇い労働者の一日分の平均賃金です。少なくとも一デナリオンの金銭がなければ、誰も生きて行くことはできません。不幸にしてわずかな時間しか働くことのできなかった「最後の者」も、生きていかなければならない。~の良い被造物に相応しく、生きていくべきであります。それだから、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。一時間の労働には一単位の賃金、一〇時間の労働にはその十倍という形式的な平等を求める形式的合理主義に対して、~の恵みは人が人として生きていくことができると言う内容的な平等を求めるのです。人の目は目に見える形式的な平等を求めます。しかし、~の目は内容的・実質的な平等を見つめています。人の思いは互いを見比べて自己の幸福を追求し、他人の幸福をねたむ「形式的な平等」を考えます。しかし、~の思いは何人も~の被造物に相応しく生きることができるかどうか、「内容的な平等」を追い求めます。

 人の思いは、形式的な平等性に釘付けになっています。しかし、そこで、~の思いは、内容的な平等性に向けられています。人の目は横を見ています。しかし~の目は下に向かって注がれています。貧困に苦しんでいる人々を見つめています。働きたくても働くことのできない人、社会的な差別に苦しんでいる人、助けを必要としている人に向けられています。そしてその人々に向かって助けの手を差し伸べられます。下に降るのです。わたしたちの滅びの運命を祝福へと転換するために。キリストの十字架がそれです。「キリストは、~の身分でありながら、・・・僕の身分になり」(フィリピ2:6以下)罪人に代わって、罪の支払う報酬である死を十字架の上で忍んでくださいました。その死によって、死が無力となり滅ぼされるためです。~のわたしたちへの思いは、このキリストの十字架に凝縮されています。

 お祈りいたします。

 イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたがそのひとり子をわたしたちに給う程にわたしたちを愛してくださった事を感謝します。この最後の者に与えられた主の御憐れみと恵みの故にこそ、あなたの御国に入れていただける者とされているお恵みを、改めて御言葉を通して示して頂いて感謝いたします。命の主であるイエス様がわたしたちの罪のどん底に立って、わたしたち一人一人を受けとめ、支えてくださる救い主イエス様を、砕かれた思いをもってわたしたち一人一人が魂深くにお迎えして、わたしたちの内側から溢れ出る救いの喜びに満たされますようにわたしたちを顧みてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。   アーメン

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「神の赦しの恵みに生かされて」マタイ18:21-35
2023.9.17 大宮 陸孝 牧師
 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書18:22)
 マタイ福音書18章はイエスの昇天以降に成立した信徒の共同体が「教会」としての歩みを始めた当時の教会内部の生活の教えを一括編集したもので、信徒の群れの人間関係に関する教えが集められています。先週の日課でありました15節以下に、兄弟が罪を犯した場合、いかに忠告して悔い改めに導くべきかということが示されており、相手がどうしても聞き入れない場合には、信徒の交わりからの追放という処置まで、指示されていました。それに続く本日の日課ではしかし、それにもかかわらず、自分自身に対して加えられた悪にたいしては、どこまでも赦せ、とイエスは支持されたのでした。実に驚くべき教えであります。しかもイエスご自身が、みずからこれを実行されたのです。主イエスを十字架につけ、悪罵(あくば)の限りを尽くす人々のために、イエスは「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られたとルカは証言しています(23:34)。この無条件の赦しこそは、イエスにおいて到来した~の国の福音の中核であり、そして、新しく生まれた信仰共同体としての教会を、一つに統合する要となるものも、この「赦し」であるということを、マタイは証言したのです。教会における信徒の生活訓を一括編集している18章の最後に、締めくくりとして、「赦し」の問題を配置したことに加えて、赦しについての特殊な資料による一つの譬えをおいて、教会において「赦し」と言うことが如何に重大な問題かを深くわたしたちに示したのでした。

 22節に「七回どころか七の七〇倍までも」と訳した言葉は無限の赦しという意味ですが、「七十七倍まで」と訳す説もあります。これには重要な一つの旧約の連想があります。創世記4章には、弟アベルを殺した兄カインの物語を収めていますが、そのカイン五代目の子孫として生まれたレメクは、自分の武勇を妻たちに誇示するため、
  「カインのための復讐が七倍ならば、
  レメクのための復讐は七十七倍」(4:24節)〔6頁〕
と豪語したという。復讐の執念こそは、カインの末裔たる者の本領でありました。そして全人類がこの執念のとりことなっていることを、この記事は示しています。また血で血を洗う争いが果てしなく続く地上の現実は、これをまざまざと実証しているのです。しかもレメクは七十七倍の復讐をなし得ることを、自分の武勇として誇示したのでありました。肉による力は、復讐を通して自己を顕示するのです。そして、主イエスはこれを逆転させ、赦しにおいてこそ、~の霊の力が現れる事を宣言して、~の支配とはいかなる現実かという事情を明確にここに示されたのです。

 この18章の記事は、自分に対して人が罪を犯した場合、つまり自分が被害を受けたという私的領域においての心構えを語るものであることを先ずわたしたちは確認しておかなければならないでしょう。つまり、ここでは、全き自己放棄を通して、どこまでも友を受容する愛が、求められているのだということになります。

 他方、この戒めが本当に履行(りこう)された場合には、この世界は全く無秩序になってしまわないかという疑問が生まれます。そしてこの疑問に対しては、すでにパウロが明快な答えを出しています。ロマ書12章19節「愛する人たち、自分で復讐せず、〔~の〕怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」。(292頁)。という言葉がそれです。ここは9月3日の使徒書の日課として読まれたところです。義なる~が、厳然とその審きを貫徹してくださる。だから、信徒たる者は、安んじてすべてを~の御手に委ねることができる。この義なる~の愛に支えられてこそ、信徒はこの無限に赦す心を、聖霊の賜物として頂くことができるのだという。このパウロの理解が、マタイ福音書の中でも、暗黙のうちに前提とされていると見ることができます。

 この関連で興味深いことは、マタイ福音書このイエスの教えを補強するものとして、23節以下のたとえをここにつなげていることです。

 一万タラントンという金額ですが、一タラントンは六千デナリオンですから、六千万デナリオンという巨大な額で、一デナリオンは当時の労働者一日分の給料とされていましたから、仮にこれを一万円としてみると、六千億円という巨額に達します。しかしこう換算しても、現代の経済の規模は当時の規模とは比較になりませんので、この金額の持つ重量感はとうてい想像することもできません。むしろヨセフスが伝えている当時の王の年収の方が、より身近な理解しやすい比較の対象となるでしょう。それによりますと、ヘロデ・アンティパスがその所領ガリラヤとペレヤから得た年収は二百タラントンであり、ヘロデ・フィリポが得た年収は百タラントン、アケラオの年収は六百タラントンでした。また列王記上10章14節によれば、ソロモン王のもとに年間六六六タラントンの金が入って来たといいます。あの権勢を誇った人々の一年間の税収が、数百タラントンの桁であったとすれば、一万タラントンというのは、いかに法外な金額であったかを理解できると思います。つまりこれは純然たる譬え話しであって、無限の負債を表現しているのです。現実にこれを借りることなど、とうてい不可能ですし、たとえば王の財産を管理している家来が、不正にこれをくすねた等と考えてみることも、現実的想定ではありません。要するに僕にとって、これは返済不可能な負債であった。そこで主人は彼に、妻子も財産も、すべてを売り払って返済することを命じたという展開です。

 「どうか待ってください」これは直訳すれば「わたしに対して寛大であってください」となります。それに続いて「きっと、全部お返しします」と言っているのを見ますと、彼はなんとかして負債を償おうと考えたと見えます。全く免除されることなど念頭になかったのでありましょう。しかし思いもかけず、主人はこの返済を、無条件に免除してくれたのです。~の支配とは、いかに深き憐れみの支配かという事実が、躍如としてここに示されるのです。しかし、この赦しにあずかった僕の対応は、以外なものでありました。

 28節以下「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまで牢に入れた」。

 百デナリオンという金額はおよそ百万円として大きな負債には違いないですが、全く返済出来ないほどの巨額ではありません。ですから「わたしにたいして寛大であってください」という負債者の懇願は、本当に返済しょうとする意志の表れであり、現実に返済可能でもあるということが、前提されていると見ることができます。しかるにこの債権者は、自分がいかに大きな赦免に預かったかということは忘れて、相手を獄に入れたという。仲間の負債を赦すことのできないこの負債者の中に、友の罪を赦すことのできない人間の姿がそのままに示されています。~に対する無限の負債と、人間相互の間の相対的な、返済可能な負債とが対照をなしています。しかも無限の赦しを求める神ご自身が、ここで「怒った」と記されていることも、見落としてはならない点です。無限の赦しは、その限りない憐れみの故にこそ、その赦しを拒む者に対しては「怒り」となって発現するのです。

 そしてこの譬えの終わりは、、次の言葉で結ばれています。
 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」わたしたちはここで「主の祈り」の中の次の言葉を想起させられます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6:12)。わたしたちが互いに許し合って和解が実現するようにということが、祈りの内容としてここに示されているのです。

 それだけではなく、マタイはさらにこの後に、
 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(6章14節〜15節 9頁)。
という主イエスの言葉を書き加えています。それと同じ趣旨が、18章のこの箇所で、ふたたび繰り返されているとみることができます。

 無制限の~の赦しは、人の相互の赦しと並列に相呼応していると言うことではありません。そうではなく、この神の側からの偉大な赦しの恵み、計り知れない赦しの中にあって、わたしたち一人一人がこの世で真に変えられて行くのです。この真に造りかえられて行く生活こそ信仰の生活であり、教会の生活であると言われているのです。

 ~の国の到来とは、和解の到来にほかなりません。父なる~の赦しは、わたしたちの相互の間の赦し合いの基盤であり、根拠となるのだということが、最も重要なこととして示されています。そして本来人を赦すことができないわたしたちの「古き人」の中に、聖霊による新しい生命が臨むとき、それは和解を実現させる赦しの霊として働く。このようにしてキリストを救い主として信じる教会の群れは、人を赦すことのできる新しい群れとされたということですよ、と宣言されているのです。そしてこれから迫害の渦巻く戦いの中に出で立とうとしている教会にとって、この「赦し」こそは、その 存在の根底を支える土台となってゆくのです。〈エクレシア〉初代教会の群れにわたしたちも加えられて~の無限の赦しに与り、新たに変えられてゆく群れとなって行くように、~の赦しの恵みを祈りましょう。

 お祈りします。

 主イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたがわたしたちのために救い主として主イエスを与えてくださいまして感謝します。自らの罪をまともに受けとめることができないわたしたちを憐れみ、どうか自らの深い罪を知り、この罪のどん底においてわたしたちを赦し受けとめてくださる、主の赦しの恵みの御手に一切をお委ねする者とならせてください。どうか人生の耐えがたい苦しみに喘いでおります者を、あなたの豊かな恵みをもって励まし、助けてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン。

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「イエスの愛に繋がって」マタイ18:15-20
2023.9.10 大宮 陸孝 牧師
 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18-19-20)
 マタイ福音書18章の最初のところ、本日の日課の前を読みますと、わたしたちは、主イエスが子供のような小さな者の一人の魂をどこまでも愛して追い求められる愛の神でいまし給うことを1節〜14節までの主の言葉を通して示されます。それに続く15節から本日の福音書の日課でありますが、ここからさらに、新しい問題状況へと展開しています。17節に「教会」という言葉が二度出てきていますが、これは、16章18節にありますように、イエスの復活と昇天以後に成立した信徒の共同体が「教会」としての歩みを始めた当時の事情を繁栄しているところ、つまりこの18章は、イエスの昇天以後に成立した教会内部の生活の教えを、一括編集したものと思われます。

 そこで、同じく信徒である「兄弟」が罪を犯した場合、「言って忠告しなさい」と指示されているのですが、これはどのような事情を背景としているのだろうか。このように問い返してみますと、ユダヤ教の枠の外に排除され、独自の生活圏を形成して行った初代教会の信徒の群れの生き方がそこに浮かび上がって来ます。当時のユダヤ人は、ローマの統治下に置かれていましたが、大幅な自治を許され、最高法院(サンヘドリン)を頂点とする司法制度を持っていました。また家長たる者は、一族郎党の宗教教育の責任を託されていましたから、家庭内で何か不祥事が起きたとすれば、当然その処理にも家長が当たらねばならない筈でありました。ユダヤ教の群れの中で「罪を犯す」人が出た場合の処理は、このユダヤ教の枠組みの中で行われたのです。しかしここでは、キリストの信徒である友人が「行って忠告する」ことを指示されています。つまりあらゆる問題を、教会の枠の中で処理し解決しなければならない状況が、ここに想定されているのです。

 それを踏まえて、この戒めが何を目指していたかという事情に、考察の目が向けられなければなりません。直接的には、罪を犯した兄弟を滅びから救いへと奪還することが、当面の目標であったでしょうけれども、それと併せて、「~の民」なる教会の中では、御心に背いて教会を冒涜する深刻な事態を容認してはならないという公的関心も、この戒めの基に存在していたであろうと思われます。つまり、信徒は「~の民」への召しを受けた仲間として、互いに責任を負い合う間柄に結び合わされていたのですから、その友の安否に無関心ではいられなかったはずですし、教会が~の民として存立することを守る責任も、各人が負わされており、その必然的な結果として、この戒めが与えられたと見ることができます。そして罪を犯した人が、その忠告を聞いてくれたら、「あなたの兄弟を獲得したことになる」という言葉は、滅びから救いへの奪還という趣旨と併せて、信徒の交わりの中へ奪還するという含みも、併せ持っていたということであります。最初は自分一人だけで行き、相手と二人だけで語り合うことが指示されているのは、相手の名誉を守り、個人的次元で問題を処理することを目指す趣旨と見られますが、しかし相手がこれを受け入れない場合はどうかということが、続く16〜17節に記されています。そしてここには、すでにある種教会規則の法体系が成立していた状況が窺われます。

 先ず自分だけが行って忠告せよという指示は、相手の名誉を守り、個人的次元でこれを処理するための配慮ですが、これが成功しない場合には、法的手段に訴えざるをえません。一人か二人の証人を随伴するというのは、事実の確認と処罰の実施において誤りなきを期するためと推測されます。もし、この段階で、相手が悔い改めに導かれたら、なお内輪での処理が可能となります。つまり純然たる法的解決に至る前の過度的段階が、ここに示されているということになります。

 しかしこれでも聞き入れない場合には「教会に申し出よ」というのですから、「教会」が問題を解決する一つの公的機関として、既に確立している状況が前提されていることになります。その説得にも従わなければ、教会は決断を下さなければならない。ということは、その人を、神のものとなり聖別された教会の秩序を破り、教会の群れを冒涜する者として破門し、信徒の交わりから排除するという程度の決断が、取り得る最終的手段であったということです。それは同時に、その罪の処分は~ご自身に委ねるということ、また教会の中から罪を排除し、「~の民」としての聖なる存立を守るということが、その眼目であったようであります。その表現形式として「異邦人や取税人同様に見なす」というユダヤ教的語法が用いられているということです。

 マタイ福音書が成立したシリア地方の教会では、異邦人との共存という時代が続いていたのですから、自分の宗教的純血を堅持するためには、異邦世界からの異教的、あるいは多神教的な要素の浸透を断ち切るために、生活の隅々に至るまで、詳細な隔離規定が必要とされました。「異邦人同様にみなす」というのは厳密に言いますと、偶像礼拝に汚れた滅びの民と見なすということに他ならなかったのです。このような当時の歴史的背景を踏まえて、罪を悔い改めない者に対する処罰規定として、その人を教会から追放するという定めは、事実上滅びへの断罪という含みを持つ処置であったということになります。

 ペトロのキリスト告白に対して、イエスは天国の鍵を彼に与えると約束した後で、「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:19)〈32頁〉。と言われたと記されていますが、ここではその同じ約束が(ペトロ個人だけではなく)教会全体に与えられており、地上でなされる決定が天国でも通用するという趣旨で一致しています。わたしたちはこの教会の規定では、教会からの追放が規定されているだけで、罪状に応じた処罰についての言及がないことに注目すべきでしょう。これは、教会の取るべき処置を宗教的領域に限定していて、法的処罰の領域においてその権力を行使することは自己抑制的に保留されていることをこそ注目していかなければならないと思います。

 マタイがここで示そうとしているのは、聖霊による自由という驚くべき視点です。当時の教会の信徒が「地上でつなぎ、あるいは解く」決定をする場合に、何を基準とするかということは、何も示されていません。つまりそれは、~による聖霊の導きにすべてを委ね、それにのみ従うということであります。こうして行われる地上での決定が、天国でも支持され、承認されると言っているのです。初代の教会を導いていた御霊による自由、またその導きの不動の確かさが、ここに明瞭に言い表されているのです。そして、この確かさの根拠が次の言葉で説明されます。

 19〜20節「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(35頁)

 祈りは必ず聞かれるという約束は、すでに7章7節以下のところにありました。ですから19節のことばは、あの約束を重ねて確認する趣旨とも理解することができます。しかし「二人が心を合わせて願い求める」ということを、特に付け加えているのは、何を言おうとしているのだろうか。このように問い返すときに、続く20節がこれに答えていることに気づかされます。心を合わせて祈る二人の間に、イエスご自身が共に臨在して、その祈りを執り成していてくださるというのです。二人という数字は、人と人との間にイエスが介在される最小単位として示されているのです。わたしたちキリスト者の間の関係は、義理・人情・友情あるいは血縁・地縁の繋がりのように直接的な繋がりではありません。いつも主イエスの罪の贖い(あがない)を媒介とした関係なのです。そのことを常に忘れてはなりません。なおその上、「心を合わせる」ということにも言及されているのは、人と人との内的一致の重要性を指摘しているということなのですが、イエスの罪の購いによる救いというのは、もちろん一人一人を罪と死から恵みによって神のもとに奪還するということでありますが、それと併せて、交わりの回復をその内容としているということなのです。罪の赦しとは、~との和解のことであり、罪のために断たれていた~との交わりが回復するとき、人と人との交わりの回復も、必然的にそこにともなっている。その救いに与った信徒の生きざまとして「心を一つに合わせて祈る」ということも実現する。こうして献げられる信徒の祈りには、聖霊の執り成しが必ず伴うのだから、必ず父なる~のご嘉納にあずかり(神が快く人間の祈りを受け止めてくださる)、そして、その願いは叶えられるというのが19節の趣旨であります。

 「わたしの名によって集まる」は直訳すると「わたしの中へ」であり、「イエスの支配の下に」という意味になります。これも霊によるイエスの臨在を示す言葉です。どのような小さい集い、群れであっても、主イエスはその真ん中に臨み、「キリストのからだ」としての教会がそこに現臨するというのです。敵意と迫害に脅やかされながら、少数の信徒の群れが、主イエスの御名を呼び求めながら、教会の不動の基盤を主イエス・キリストと繋がることの内に確立して行った初代のキリスト教時代の息吹が、ここに生き生きと語られているのを実感させられます。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神さま。やがて実り豊かな秋の季節が訪れます。今朝聖日の礼拝にお招きを受け、わたしたちの霊の実りのために御言葉の養いを与えていただき感謝いたします。どうかわたしたちの教会も、誠にキリストがおられるところとなりますように、主がおられることで~の愛の支配に満ちた教会となって、この地上においてつなぐところが天上でもつながれ、地上で解くところが天上でも解かれるところとなることが許され、人間の誤った自己中心や権威主義から自由な教会となることが出来ますようにお導き下さい。

 わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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「再臨の約束」マタイ16:21-28
2023.9.3 大宮 陸孝 牧師
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」(マタイによる福音書16:24)
 本日の日課21節の「この時から、イエスは、・・・打ち明け始められた」(アポ トーテ エールクサト ホ イエスース)の冒頭の三つの文字は、マタイ福音書4章17節の「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」の部分と文字通り一致しています。このことばによって、この二箇所の所でそれぞれに、重大な時の区切りを表そうとしているのです。マタイ4章17節はイエスの宣教活動の開始を語り、16章21節では、受難の予告と十字架への道行きがここに始まります。この二つの出来事を、全く同じ言葉で書き始めることによって、マタイはこの受難の予告が、福音宣教の開始と同じ重さを持つ出来事であることを示したのです。しかもその内容は、直前の20節の沈黙命令の理由を、説明する趣旨で語られていく形になっています。救い主(メシア)と言えば、困窮の中から人々を救出する絶対的権威と権能の保持者、つまり勝利者であると人々はイメージするだろう、しかし、実はその反対に、イエスは敗北者の道を歩まなければならない。しかもこれは、偶発的にそうなるのではなく、そうなるべく定められている、つまり神の意志決定によってそうなるのだ、というのです。これを人間が十全に受け止めることによって初めて、キリストを告白するということは、どういう信仰の告白なのかという内容が、誤りなく表され、伝達されるということなのだと言われているのです。そしてこれは、人間的には全く不可能なこと、わたしたちが救い主を初めからそのように待望することなどできることではなかったのです。この事実に着目するときに、20節でイエスが厳しく沈黙を命じられた理由が判るということです。

 それで、イエスを棄て、断罪し、殺す人々として、「長老、祭司長、律法学者」という三つの名前が挙がっていることに注目して見ますと、この三種類の人々は、当時の最高法院(サンヘドリン)を構成していた人々であることから、このイエスの予告は、イスラエルの宗教的伝統を保持し、これによって民を指導・管理している代表者たちが、イエスを断罪して殺すということにほかならなかった。つまり、「神の子イエス」が「神の民」から棄てられるということを言っていることになります。どうしてかくも不可解きわまる非道なことが起こるのか。マタイは、人間の罪の深淵を、ここに見据えていたのです。イエスにおいて到来した神の支配は、この人間の罪の現実と激突しなければならなかったという事実を見極めて、だから「多くの苦しみを受けて殺されなければならない」「そうなるべく定められている」という神の意志決定の重さを受け止めることができるのだということなのです。

 そして、しかしながらこの予告は、単なる敗北宣言に終わるものではなく、「三日目に甦る」と続くのです。イエスが殺されるということも、弟子たちにとっては、とうてい理解することのできない不条理であっただろうと思われますが、死後の甦りともなるとますます理解に苦しむ謎であったに違いありません。「キリスト」救い主という秘義の全貌が、以上の言葉によって提示され、そしてなお一言「甦る」と語られる。このことばは直訳すると「甦らされる」という受動態の動詞です。イエス自ら、自分の意思と力によって復活するのではなく、これは全能なる神の御業であることがここに明示されているのです。

 22節「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」ペトロがイエスを主と仰いでいたとはいえ、イエスを脇へ連れてきていさめたというのは、親密な遠慮の無い関係であったことが窺えます。「とんでもないことです」とは意訳です。直訳すると「あなたに〈神の〉憐れみがあらんことを」という祈願文です。ペトロはここであらん限りの愛を注ぎだし、神の憐れみによって、この悲惨事からイエスが守られるようにと、願ったのです。しかし、イエスは、峻厳な否定の言葉をもってこれに応えます。

 23節「サタン引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間の事を思っている。」「サタン引き下がれ」というのは、荒れ野の試みのとき、イエスの口から最後に出た言葉です。(4・10)意外にもペトロは、自分が自覚しているかどうかは別にして、サタンの手先とされたのです。ここに、人間的には善意を込めて語ったとしても、客観的な事実としては、全く神の意志に背く結果を招くことになる恐るべき事例に直面します。イエスは、ペトロの親愛の情溢れる発言を、どうしてこのようにきびしく拒絶なさったのでしょうか。

 その問いへの答えは、イエスの十字架上の死と、その弟子たちの上に襲いかかった迫害という事実に眼を向けた時に明確に与えられます。これほどはっきりと予告されていたにもかかわらず、イエスの死という、弟子たちにとっては思いがけない事態に直面したとき、弟子たちがいかに狼狽して四散したか、この後の福音書が語っているところでありますけれども、その復活顕現の報に接して、信徒の群れが雄々しく立ち直り、福音宣教に立ち上がった後にも、彼らの前には大迫害という事態が待ち構えていました。その戦いのさなかでも、この受難予告に見られるようなメシア観とそこから必然的結果として、自分たちにも同じ苦難の道が神の御心に基づいて定められているということを受け止め、覚悟するということが欠如していました。とすれば、弟子たちはこの試練にとうてい持ちこたえることができず、教会は地上から消滅してしまうことにもなりかねない。サタンはそのことを狙っていたのだということです。しかもこのために、ペトロの人間的愛情を利用しようとしていた巧妙な手口を、主イエスは鋭く見抜いていたということです。このように、サタンと神との対決が、いかに人間的な思いを超えて、人間の罪の深みの中において進行しているかということがここに示されています。

 24節〜25節 子どもが成長するにつれて、親から分離独立する過程が始まり、反抗期がこれに続くということは周知の通りでありますけれども、これによって子どもは自分の価値観を模索し、自分自身であろうとするのですが、ここから重大な心理的な問題が発生してきます。親から独立する過程で挫折すると、親の価値観への癒着という危険が生じます。そして、一応は親離れしたものの、外部にある特定の権威者に依存・盲従して自己を喪失してしまうという危険が存在します。自分の自覚としては、高揚した献身の喜びと、自己充足の生命感に溢れているとしても、客観的事実としては、恐るべき倒錯にのめりこんでいるという深刻な事例、いわゆるカルト教団の問題が身近な問題として発生しています。

 過去の日本に於いて起こった事例としては、日本の神国思想やドイツでのナチのイデオロギーのように、天皇という一人の支配者あるいは国家主義的イデオロギーが、国民の無条件の献身を要求して、巨大な力を結集し、そのすべてが破滅に向かって突進して行ったという恐るべき事件が現実に起こりました。そして、そのことについての十分な批評も反省もないまま、それ以後も、小さい個人的な規模において、一人の指導者、一つの集団に忠誠を誓うというあり方によって、個人の主体的な判断を誤らせるという事例が後を絶ちません。それが、政治的な権力だけではなく、宗教や信仰という領域においても顕著となっています。「にせ預言者に警戒せよ」という戒めは、まさにこのような事態を見据えた発言であったでありましょう。そのような問題を見据えた上で、「自分を棄て」といわれたこのイエスの言葉の含蓄が深く理解されて行かなければならないのです。

 この「自分を棄て」は「自分を否定し」と訳すことも出来る言葉です。全存在を挙げての自己投棄です。そして「自分の十字架を負う」ということも、イエスと同じ受難の道を歩むということにほかなりません。だがしかし、このように、自分の意思も願望も、全てをイエスに捧げるということは、まさに現代的課題となっている権威主義的な生き方そのものではないのかという問いの前に立たされることになります。

 人間は、たとい自覚においては、自由な献身の中に生きているつもりだとしても、客観的事実としては、外の権威あるいは価値観の呪縛の下に、真の自由を喪失しているという痛ましい事実に気付かされるとき、人は初めて、罪とは何かという事実の深刻さ、重みを、身をもって経験することになるのです。パウロがユダヤ教からイエスの救いを信じる信仰へと改心したときに、その改心において、律法の呪縛の下に置かれていた古き自分が、キリストの恵みによって打ち砕かれ、真の自由へと解放されたとき、パウロはそこで、「自分を棄て、自分の十字架を負って、イエスの後に従う」ことが、真の自由であることを身をもって体験したのでありました。

 わたしたちはここで、あれかこれか、律法の呪縛の中で生きて行くか、それとも神様の聖霊の導きによって新しい命を得て、神様の愛の支配に身を委ねて生きて行くかの二者択一を迫られているのです。神の被造物に過ぎないわたしたちです。そこに立ってもう一度わたしたちの生き方を総括的に申し上げるならば、人は真の神に従うか、それとも偶像に依り頼むかという極めて逼迫した決断を迫られているのです。

 生死をかけた自己投棄をわたしたちに迫るイエスは、実は言外に、これこそ真の生命と自由に至る道だということを、約束されたのです。続く言葉が、まさにそのことを語っています。25節です。「わたしのために命を失う者は、それを得る」。ここでは、イエスを信じ続けることによって、文字通り地上の生命を失う場合を想定しています。この死を経てこそ、人は真の生命にいたるであろうというのです。それに反して、自己保全に腐心する者は、逆にその生命を失うであろう。主イエスはこの激烈な二者択一を突きつける形で、生死を分かつ分岐点がここにあることを、明示したのです。これもまた神の子だからこそなし得る決断への要請であります。

 そして26節から28節において、最後に「生命とは何か」という考察がなされるのです。「全世界を獲得しても」という言葉は、人が命の充実・充足のために量的に拡大の方向でこの問題を考えて行くという趣旨であります。しかし、量的に考えて行くとして、人はいかに富や権力を集積しても、それによって生命を買い取ることはできない。これは世界の歴史の中では自明のことであるとも言えますが、実は愚かにも人間はいつもこのことを忘れ去ってしまう盲点となっているのです。では、量的にではなく、質の問題として「生命」を考えるとすれば、何が充実の決め手となるのだろうか。それを決定的に提示しているのが、マルコ福音書の8章38節であると解釈することができます。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。「人の子」の来臨に際して、主なる神によってどのような判決を受けるか、どのような評価を受けるかということが、生死を分かつというのがそれです。マタイには直接この言葉に対応する記述は本日の日課にはありませんが、共観福音書の平行記事の中にその発言が収録されているのです。つまり、「命」の問題は終末の日の決定に委ねられていることがここに示されているということです。

 命の問題は、父なる神の御前において、いかなる判定を受けるかと言うことで決まるというのですから、この世の富や業績など、人間が積み上げた物の量的な多少は全く問題にならないというのです。しかし、死後の世界を認めず、地を超えた天にある神の存在を否定する現世主義、唯物的な観点から見ると、これは全く受け入れることが出来ない幻想として、一笑に付されてしまうかも知れません。そのような人間の現世思考の前で、主イエスは、この世のすべての命への天における評価と判定を語り、その決定権を手中にしている者として、弟子たちの前に立たれているのです。そして、後の時代に生きる者にも、主イエスは救い主として、この権能を持って再び確実に到来すると、十字架の死に赴く切迫した状況の中で、再臨の約束をして、だから真の命を目指し、待ち望んで信仰に生き続けよとわたしたちに命じられ、教会の信仰とは何を信じ告白することなのか、それを明らかにされたのです。わたしたちは新たな決意をしてこの信仰に立ち、教会に連なって行きましょう。

 お祈りをいたします。

 教会のかしらなる主イエス・キリストの父なる神様。「たとえ全世界を手に入れても」という主の御言葉に感謝いたします。この御言葉がなければ、わたしたちはいつの間にか自分の野望と、あなたへの信仰の熱心の区別もつかなくなって、ただ自己実現だけを夢見る者となってしまっているかも知れません。そのようにして、あなたの御子、わたしたちの主が、わたしたちが期待していた栄光の主ではなくて、十字架と復活の主など「どんでもない」ことだと本気で思い込むほど、あなたの救いの真理に対して鈍いものとなってしまうからです。どうか、わたしたちがただイエス・キリストをまことの十字架と復活の主と告白する教会となることができますように、わたしたちを励まし、導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン


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