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1952年宣教開始  賀茂川教会はプロテスタント・ルター派のキリスト教会です。

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2024年2月礼拝説教


★2024.2.25 「教会ー神の約束を目指す群れ」マルコ8:31-38
★2024.2.18 「荒野の四〇日」マルコ1:9−15
★2024.2.11 「イエスの言葉に聞き従いなさい」マルコ9:2−9
★2024.2.4 「注がれる癒やしの力」マルコ1:29−39

「教会ー神の約束を目指す群れ」マルコ8:31-38
2024.2.24 大宮 陸孝 牧師
「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8:33)
 聖書の区切りに沿って、本日の日課の少し前の27節から読みますと、イスラエルの北の端にあるフィリポ・カイサリアで、イエスと弟子たちの間で交わされた対話が記されています。ここで初めてイエスは弟子たちに、「あなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけられました。そこでペトロは、弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」という重大な告白をしました。それを受けて31節に「それからイエスは・・・弟子たちに教え始められた」とあって、ペトロの信仰告白を受けてイエスがさらにそのペトロの信仰告白の深い意味を明らかにしようとされた、それが「人の子」の受難と復活に関するイエス自身の教えであります。この後、10章52節にかけて、イエスのエルサレムへの受難の道と、弟子たちがイエスに従うとはどういうことかについて語られて行きます。

 イエスは、ペトロの言った「あなたは、メシアです」という言葉を否定することはされませんでしたが、このペトロが考えているようなメシアではないことを、直ぐに明らかにされました。31節にありますようにイエスご自身が、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」、と語り、メシアはその苦難において理解されるべきことを、イエスご自身の口から語られて行くのです。ここで重要なことは「排斥され」ということばで、これは、神の名において、役に立たないから棄てて殺すべきだと判断されるという、イエスの受難の運命です。イエスは、役に立たないどころか、有害な存在だと判断され、それ故に神の名において殺されるということです。

 イエスの死は、イスラエルでそのイスラエルの民の代表によって、救い主が拒否され殺されると言うことを意味しています。それほどに、人々の神に期待している救いと、イエスが実際にもたらして下さった救いとは、大きな隔たりがあったのです。これは昔のユダヤ人の指導者の問題としてだけではなく、わたしたち自身の問題としてよく心しなければならないことなのです。わたしたちの持っている救いについての先入観や、イエスについての期待と区別して、イエス自身が何をわたしたちに分かってほしいと期待しておられるかに、謙虚に耳をかたむけなければならないのです。イエスこそわたしの救い主と告白しているわたしたちは、本当に神の御心を知りそれに従っているのかと問われています。

 イエスはご自分のことを「人の子」と言っておられます。これは福音書に度々出て来るイエスの呼称です。基本的には、「人となられ、この地上を歩む神という意味ですが、もう一つの意味は「神が造られた真の人」という意味が含まれています。創世記3章に描かれている神の似姿としての人という意味です。つまり、イエスは神との愛の呼応関係にある真の人間という意味で、神に造られた最も人間らしい者ということをこの「人の子」という言い方で表しているのです。神から離れて人間らしさを失ってしまっているわたしたち人間の中に、真の人間として立たれるお方、それがイエスであるということです。

 そのイエスがここで語られている受難予告「必ず・・・することになっている」というのは、前から神が定められていたことであるという意味です。イエスが棄てられ殺されるのは、人間の愚かさによるのですけれども、その背後に神様のご計画があるのだと言っておられるのです。
 9章7節では、天からの神の声がイエスのことを「わたしの愛する子」と呼びますが、そのような「神の子」が、ここでご自分を「人の子」と呼んでおられる。そして、最も人間らしい人間である「人の子」をこの世の人々は棄ててしまうと、イエスは大きな悲しみをもって明らかにされつつ、しかし、そのような運命を神の御心として自ら主体的に負って行かれるイエスのメシアとしての姿が浮き彫りにされるのです。

 ペトロはその神様の人間を救おうとする真意を理解せずに、イエスの前に立ちはだかるようにして、自分の考えで行動してしまっている、そこにはどこかで、自分はどう救われたいか、どう救われるべきかということについて、多かれ少なかれ自分で決めて期待しているところがあります。ですから、何かの宗教に触れたり、誰か優れた人だと思う指導者に触れたりすると、わたしの思っている通りの話しをしてくれる人に出会ったと思い、そこで信仰を得たように錯覚をして飛び込んでいく場合があります。しかし、ここにこそ自分が求めていたものがあると喜んだのも束の間、やがて幻滅して行くことになるという事例が跡を絶ちません。

 イエスはペトロを「サタン」と言う厳しい言葉で非難をします。それは、あなたは一度自分の全存在を的外れなものとして否定されなければなりませんという意味です。しかし、その直後にわたしについて来なさいと、改めて言われます。「わたしについてくることによって、自分を一度全面的に放棄しなければならないということが分かるよ」と言われているのです。自己放棄(ゲラッセンハイト)はイエスについて行くことなしには起こらないのです。そのことを次の34節以下にイエスは語ります。

 主の十字架とは、わたしたちの罪を担われた姿ですから、わたしたちはそもそも十字架の主に担われて生きているということであり、それが神の意志によるものであるというのです。イエスの受難予告は、未来予知の問題ではありません。イエスが自分の身を守ろうと思えばその方法がなかったわけでもありませんし、これまでのような発言を止めて、もと無難な行動をしていけば死を避けることも出来たでしょう。イエスにとって死が必然となるのは、イエスが自分の保身を考えるのではなく、神の意志に忠実に従う歩みを続けようとしているからです。受難予告とは、このようなイエスの姿勢の宣言なのだということです。
 
 34節〜35節 わたしの後について来る者は、わたしのために自分の命を失う。しかし、その者は、それによってその命を救うのだと言われます。そして、その後で、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われます。あなたの命は全世界にも優っているのですよと言っています。イエスの受難の道に弟子たちを招こうとしておられる言葉です。「自分の十字架を負って」という言葉は直接には死そのものを意味しているのではありません。十字架を担うとは、それは、「自分を棄て」という言葉の言い換えだということです。問題の核心は命を何のために棄てるのかであります。イエスに従うというのは、イエスが受けた十字架、つまり、他者を生かすために自分を棄てる生き方を、自分でも担うことだと言っているのです。

 命というものを、自分の中に持っているものだと考えるならば、その命を必死に守ろうとしますが、しかし、そのような命は、自分の肉体的な死とともに終わりを迎えます。そうではなく、真実の命は、神との繋がり、他の命との繋がりの中にこそあると見る。自分の小さな命に執着するのではなく、神との、そしてまた他者との繋がりの中でこそ、真実に命が輝くということです。イエスが弟子たちに求めるのはそのような生き方なのではないか、十字架を神の意志と見て、十字架に向かって歩む、イエスはそのような、神と人にむかって開かれた命を示そうとしておられるのです。命を得るか失うかは、この世を超えた、イエスが示された命にわたしも生きるかどうかにかかっているというのです。救いに至る新しい命に生きるためには、今の自分中心の生き方を棄てて、神の意志に従っているわたし(イエス)、つまり、イエスの後に従わなければならないという、極めて実践的な指示なのです。そしてそのような生き方の先に復活という、死より真実の生への転換が出来事として起こると言われているのです。信仰によるパラダイム転換とはそういうことだとわたしは思います。

 「全世界を手に入れる」というのは、全世界を主権と所有のもとに治める意味に取れるのですが、人に伝道し世界中に福音の感化を及ぼすことという意味にも理解できます。世界伝道は輝かしい幻ではありましょうが、その陰に自分自身のたましいすら充実させることの出来ない内実的な霊の貧困をイエスは鋭く指摘しておられるのだとも解釈されます。

 わたしたちのたましい、命が、全世界以上の意義を持つ根拠はどこにあるのでしょうか。本来それに価値があるからでしょうか。そうではありません。価値がなかったものを、キリストが全世界に優る値、つまり神ご自身の命をもって贖い取り、それだけの値にしてくださったことによるのです。

 「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と言われています。一旦命を失ったものは、もうどれだけ犠牲を積み上げたとしても、失ったものを自分で取り戻すことは出来ないとの警告をしながら、しかし、自分へのこだわりを棄てて、この主イエスの贖いの業に身を委ねてゆくならば、真の命をいただくことが出来る。しかし、このイエスの命への召しを拒んで、どこまでも己れの命を自分で保とうとするならば、永遠の命はもはや戻ることはないであろう。人間の命が真に生かされるか滅びるか、その危急の時は迫っているのだと主イエスは言われます。古い命のあり方に別れを告げて、イエスが先立って行かれるすぐ後に、時を失せず、きびすを返して続かなければならない、今がその時だとイエスは言っておられます。

 38節 当面の問題は、今の時がどんなに悪いかを問題にすることではありません。この時代状況の中で、キリストの恵みの業とその御言葉を恥じないで受け入れるかどうかが問題なのです。イエスはこの邪悪な時代の真只中に来てくださいました。わたしたちがイエスの語られる神の命の言葉を聞いて、古き命から新しい命への転換を遂げるのも、この罪深い時代の真只中に於いてなのです。今、時代はかくも邪悪であります。全世界は今こそ主イエスの救いの恵みを信じなければならないのです。

 「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた・・・その者を恥じる。」これは「わたしを否む者をわたしも否む」と言われるのと同じです。ここでは審判がなされているのです。神の栄光が照りはえているもとで、わたしたちの罪の現実が暴かれる審判。天使たちの面前で行われている審判です。そこで断罪なさるのは、わたしたち人ではなく、人の子キリストです。

 主イエスは、この世の、今、目に見える罪の悲惨な状況にだけ捕らわれ、今、この世で妥当する基準にのみ支配されがちなわたしたちが、この世をこの世の側から眺めて、その矛盾を突くのではなく、この世を超えた来たるべき神の国の立場に立って、本当のことが顕わになる来たるべき神の最終的な創造の完成の日、つまり終わりの日に目を挙げ、そこであらわになる真の命を、一切を挙げて不断に追求して行く信仰の歩みをして行きなさいと、終末的な生き方への呼びかけをしているのです。そのようにして、わたしたちの主体的な信仰の応答によって、わたしたちを主ご自身との一層深い関係の中におこうとしておられるのです。一層堅固な、一層生き生きとした交わりの中に招き入れようとしておられるのです。

 本日は、主イエスの「わたしに従え」との恵みの招き、自己放棄と献身、他に仕えること、神の国への途上であるこの世の人生の歩みにあっての信仰告白と、主に従うことの目標と希望について学びました。主イエスは従うわたしたちの中で、今も、命の主として生きて働いておられる自覚を鮮明にして信仰の道を歩んでゆきたいと思います。

 お祈りをいたします。

 神様。わたしたちはあなたを救い主として信じ、あなたに従って新しく歩んでいく信仰の道を示されました。わたしたちが歩んでいる信仰の道は、神の国へと続く新しい歩みです。ですから、この世では、多くの誤解や中傷や、いろいろな人間関係の中で、亀裂が生じたり、傷を負ったりします。そのようなわたしたちに、まず主が先立ってくださいまして、多くの苦しみを受け、この世から拒絶されるという道を歩んでくださいましたが、しかし園苦難の道も、三日目に神によって新しい命に入れられ勝利に終わるという事をわたしたちに示してくださいました。

 どうか、わたしたちも主イエスと共にこの苦難の道を忍んで、確信を持って歩んで行くことができますように、わたしたちがそのような信仰の道を確信を持って歩んで行くことができるのは、ただあなたに従うことによってであると、いつも神様の約束と恵みに信頼して行くことができますように導いてください。

 主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン

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「荒野の四〇日」マルコ1:9−15
2024.2.18 大宮 陸孝 牧師
それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。(マルコによる福音書1:12)
 昨年12月から新年度の一年の福音書の日課は主にマルコ福音書を読むこととなりますが、それから今までの主日に読まれたマルコ福音書の箇所を整理しますと、12月10日に1章1節〜8節、1月7日に1章4節から11節、1月14日に1章14節から20節となっていました。本日の日課は丁度その間に橋を掛けるように9節から15節となっていて両方の重なっている間に荒れ野での40日の試みが来ていますので、本日はそこの所に重点を置いてみて行きたいと思います。

 主イエスがヨハネから洗礼を受けられる出来事は、鳩のようにくだる霊≠ニ天からの「あなたはわたしの愛する子」という声によって、「父なる神、子なるイエス、聖霊なる神」がはっきりと現実のわたしたちの歴史に介入し、人間の救いが実現する発端として、主の洗礼があるということを主張しています。この三位一体の表現はここに始まる出来事が、神の出来事として、神のすべての人格において働かれていること、それぞれ見えるような仕方で、あるいは聞こえるような仕方で、働かれていることを示しています。

 そして、12節「それから」口語訳は「それからすぐに」これはマルコの特徴のある常套句で、「すぐに」という時間的な緊迫感をあらわしています。ここでは時間的な近接以上に、この前の主の洗礼の出来事と荒れ野へと導かれることが深く結ばれていることを示しています。

 主イエスの洗礼が荒れ野への歩みに直接結びついていたことは、聖霊の働きに促されていることによって明らかにされています。ここでは洗礼においてくだったその聖霊が神の子イエスをすぐさま荒れ野へと送り出していて、この「送り出す」には強制するニュアンスがあります。聖霊は神の子であるイエスを強いて荒れ野へと追放し、主イエスは聖霊によって追放されるという、相互の緊張関係を読み取ることができます。主イエスが思い立って悪魔の挑戦に出向かれたものではありません。この緊張はゲッセマネにおいて「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)と祈られたことにつながります。父である神とひとり子イエスとの関係は常に人格的な緊張があり、それがキリストの公生涯を貫いていると見ることができます。父は子を愛する子と呼ぶゆえに荒れ野に追放し、子は父と呼ぶゆえに十字架を受容すると言う関係がこの洗礼の時点で開始されたのです。

 「荒れ野」は人間不在の地です。植物の生育すらとまって、死の時間だけが刻まれている空間です。もはやそこでは精神の修養とか鍛錬とかいう言葉も、浅はかで空虚な響きになってしまいます。そこは死の陰の谷を思わせ、命と死が隣接している場所です。聖書は荒れ野での人間の姿に特別な意味を持たせています。荒れ野はそこに何もないことによって、そこに立つ人間の姿をさらけ出させ、そのあり方を問う場です。荒れ野は飢えをもたらします。そして自分が何に飢えているかを知ることで、自分を知ることができます。飢えを知らなければ、自分を知ることがないそれが人間です。

 出エジプトのイスラエルは紅海を渡る奇跡による救いからすぐに荒れ野へと踏み込んで行きます。そこは開放と自由の場でありましたが、すぐさまつぶやきの場となって行きます。荒れ野は一方ではただ~の恵みに生きる場であり、雲と火の柱の導き、マナによる養い、水の癒やしと~の言葉が与えられますが、しかし他方では、偶像を作り出すというもっとも深い~への裏切りが明らかになったところでもあります。荒れ野とは人間が自分に生きようとすれば不毛な場となり、~に生きようとすればその恵みによって命を与えられる場となります。

 主イエスの洗礼の出来事も、荒れ野に向かわせられることで、洗礼の持つ内容が現れ出てくるのです。「愛する子」と呼ばれることが荒れ野において深められ、凝集します。荒れ野への追放は父、子、聖霊なる~の出来事としてここに描かれています。

 四〇日という数字は、苦難と試練の時を表す数字です。エリヤは~の姿を求めて四〇日の旅をし、(列王記上19:1〜8)、またイスラエルは 荒れ野で四〇年間さまよいました。苦難と試練は必ず時間を伴って来ます。その時間からは逃れることはできません。過ぎ去ってからは短く思える苦難の期間も、その中にいるときには出口の光が見えない重く鈍く容易に進まない時として人を包み込んでいます。四〇は過ぎ去った苦難の時の長さではなく、その民の歴史、またその人の生涯に苦難の時が刻まれたことを示しています。主イエスが四〇日の間荒れ野にいたことは、出口なき苦難の時を経験し御自身に刻まれたことを意味しています。この四〇日はまた、主の復活までの歩み全体にかかわる四〇日となっていくのです。

 さて荒れ野で主イエスはサタンからの誘惑を受けるのですが、この「誘惑」の意味することは、試み、むしろ、葛藤や苦悩を負うことです。欲望や罪に誘うという意味での「誘惑」とは違います。マルコによる福音書4章15節の譬えには、サタンは蒔かれた御言葉を奪い去る者として登場しています。最も重要なのは、フィリポ・カイサリアでの信仰告白に続く8章31〜33節(新約77頁)のところです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかもそのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは~のことを思わず、人間のことを思っている』」という部分です。弟子のペトロは人の子の苦しみを受ける予告をいさめます。マルコ福音書では十字架の否定こそがサタンの正体ということになります。

 サタンはもともと「敵」の意味を持っています。そして神のことを思わせないことと人間のことを思わせることの二つをもって敵となると言っているのです。キリストによる救いは人間の救いです。しかし~による人間の救いは、人間についての考察やその洞察に基づいて成されることが救いをもたらすのではないのです。十字架のできごとは、人間に向かうことでありながら神のことなのです。しかしこれは、決して自動的にまたは機械的にもたらされたことではなく、神ご自身による、怒りと憐れみ、裁きと救済のように相克する二つのものが、どのように一人の方の確かな御業として実現されるのかという深い問いと緊張をもっているということです。

 マルコに記された四〇日の試練は、洗礼に直接結び付けられることによって、父と子、更に聖霊による出来事として表されます。そこでは、神の子が試練を受けられたたことについて、父である神もそこに深く結びついておられます。父である神は、愛する子を十字架へと向かわせられ、御子はその使命を受諾し、その杯を受け入れて飲むのです。

 ローマの信徒への手紙4章18節以下には(新約279頁)「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じ、・・・20節 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を讃美しました」とアブラハムの試練について記されています。

 神から賜った約束の子であり唯一の希望の可能性であるイサクをアブラハムが犠牲として神に捧げることを求められます(創世記22章)。それは約束を信ずれば信ずるほど、そして、子を愛すれば愛するほど大きく痛みを増していく試練でありました。アブラハムはこの試練を苦悩と不安の中で受容してゆきます。そこでは、信仰と約束が問われ、父であることが問われ、父としての愛が問われます。これまでの歩みのすべてが問われています。アブラハムが沈黙しているように、マルコも沈黙を続けます。そして福音書全体を通して、父なる神もまた沈黙を保たれます。試練の深さは沈黙の深さによって知ることができます。

 こうした試練の中で明らかになるものがあるとすれば、それはサタンの姿であろうと思います。サタンの巧妙さはその本質の姿を見せないことにあります。そして~なきこととして処理してしまうことです。試練が誘惑として語られるのは、サタンが~なしに解決をもたらそうとするからです。それは、人の知恵と力とによって解決することであり、適わない時には、諦めるか絶望することであります。信仰者が「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」ることに踏みとどまろうとすることはサタンとの戦いを意味することなのです。またサタンは罪を覆い隠そうとします。自分を問う苦悩なしに、また悔い改めと、赦しを求めることなしに、そして祈ることをしないで解決を図ろうとするときサタンはその姿を隠しながらその力を発揮するのです。

 そのようにして、罪を覆うことでサタンは神の計画を覆います。十字架こそ神の意志と計画であることを隠そうとする。そのために、十字架への御言葉を奪い取っていくのです。

 この試練の場で、「けものと一緒に」「天使たちが仕えていた」とマルコは記します。信仰とは神との生きた繋がりを回復することを言います。試練の場は同時に神の守りと養いの場でもあるのです。この主イエスの父なる神との繋がりに自らを重ねることができる人たちは幸いです。信仰者とは、主の洗礼の出来事を、自分たちの信仰の歩みの始まりと重ね合わせて受けとめる人たちのことです。

 この神の愛する子である方が洗礼の後直ちに荒れ野の試練へと強いられることは、それがわたしたち信仰者の~の子であることが実現する歩みと重ねられるのです。そして、洗礼と荒れ野への導きが父なる神と聖霊の関わりで語られることは、神のすべての業において、人の救いのために力を尽くして介入されたそれが神の子イエスの出来事であると言っているのです。そして、さらに、このようにして、主イエスが洗礼を受けられたことが、洗礼を受けた信仰者の歩みの物語を形作って行くのだといっていることになります。

 「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』彼らが『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。』」(10:38〜39 82頁)という主イエスと弟子たちの対話に受洗者の歩みが重ね合わされることでありました。

 洗礼を受けた者がただ恵みに生きようとする時に経験する試練をヘブライ人への手紙四章五節は「あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われたのです」と語ります。それは神が信仰者のあらゆる試練に対して、他人事とはなさらなかった、人間の罪の支配する現実に本気で介入されたことを明らかにしているのです。ですから信仰者の歩みは「洗礼を受けた」ことから始められ、「洗礼を受けたイエス」と共にあり、「誘惑を受けた主イエス」と共にあり、そこから自分の試練をいつも解き明かしていくことになるのです。 

 ヤコブ書1章2節〜4節「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば完全で申し分なく、何一つ欠けた所のない人になります」(421頁)

 それからTコリント10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」(312頁)

 さらにこの試練を通してわたしたち自身がキリストへの愛に気づかされるすべも与えられているのですから驚きです。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」(Tペトロ1章6節〜8節)

 こうして、主イエス・キリストはその公生涯において、人々に神の国の到来を告げ、人々が神の力を受け入れて、神の国の民として生きるよう呼びかけられつつ、この後、人間を神の国の民とするために十字架の贖いの道を歩んで行かれます。
 
 お祈りします。

 父なる神さま。御子イエスをわたしたちのまことの隣人、まことの救い主としてお送りくださいましたことを感謝いたします。御子と共に歩むとき、天が裂けて、わたしたちはこの世の罪の支配から解放され、神の愛の支配のもとに召し集められます。この新しい道を歩んで行くことができますようわたしたちを恵みの御言葉を持って導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。   アーメン

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「イエスの言葉に聞き従いなさい」マルコ9:2−9
2024.2.11 大宮 陸孝 牧師
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコによる福音書9:7)
 主イエスが弟子たちとフィリポ・カイサリア地方で過ごされたときは、主イエスの御生涯の頂点にあったときでありました。本日の日課で「六日の後」とあるのは、あのフィリポ・カイサリアでペトロの信仰告白がなされてから一週間後という意味です。そこで、弟子たちは、主イエスが単なる教師や預言者ではなく、自分たちを~と和解させる~の子であることを、確信をもって告白したのでした。それを聞かれた主イエスは、六日の後、三人の直弟子だけを連れて「高い山」に上り、そこで御自分の本当の姿を示されたのです。

 主イエスが高い山にのぼって行かれた記事を読むとき、ゲッセマネの最後の夜のことを思い起こします。どちらの場合にも、主は一般の弟子たちを離れたところにとどめ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて奥へと進んで行かれます。イエスの栄光の御座と苦難の御座とがその奥にありました。このことから、キリストの苦難の座と栄光の座とが、同じ配置に位置づけられていることがわかります。

 ゲッセマネでこの弟子たちが前後不覚に眠ってしまったことが記されていますが、この山の上でも事情はそれに近かったのです。ルカ福音書9章32節には、彼らが「熟睡していた」と書いてあります。そこから、弟子たちは夢の中でイエスの栄光を見たのだろうとの解釈も行われています。しかしこれは夢ではありません。そこには畏れが支配していました。畏れは目を覚まさせるものであることは言うまでもないことです。そして、弟子たちは全く取り乱し、何を言ってよいかわからず、あらぬことを口走ったのです。それは目覚めつつ語った「ねごと」であります。そのように主の苦難と、主の栄光との前で、えり抜きの弟子たちがどんなにふさわしくないかをここに示されているのです。

 今、わたしたちは自分自身に立ち返らなければなりません。主の苦難と栄光の前で、わたしたちも全く相応しくない姿をさら曝しているのではないでしょうか。しかも今、主キリストの苦難と栄光とは、ここ礼拝において、御言葉の宣教と聖礼典とを通じて、明確に告知されているのです。わたしたちは、最も大事な時に限って寝込んでしまうような不覚をとってはならないのです。わたしたちは今、目覚めて、相応しい者になるようにと召し出されました。わたしたちは取り乱しもたじろぎをも捨てて、主なるイエスの前にひざまづきます。

 弟子たちは非常に恐れていたという言い方は、この物語を語ったペトロの口ぶりを残しているようであります。ペトロが呼びかけた先生ラビ≠ニいう原型がそのまま残っていることも、はじめに語られたときの対話の息吹をそのまま伝えているようです。何を言っているのか分からなかった、というのはペトロ自身の偽りのない述懐でありましょう。その時の混乱が生のまま出ています。わたしたちが冷静にペトロの気持ちを察しながら、状況を捉えなおすならば、ペトロは我を忘れた恍惚状態にいるのだということです。

 「わたしたちがここにいるのは・・・」というのは、ここに止まると言う意味です。このままの状態がいつまでも持続することをペトロは望んでいるのです。この世を超え出た永遠の境地を味わって、ペトロは「永遠よ、とどまれ」と叫んだということです。人々が耐えに耐えて待ち望んでいた栄光の時がついに来たのです。世の一切の苦しみと悲しみはしりぞき、すべては陰のない光に包まれています。この状態をいつまでもとどめたいとペトロは思いました。

 三つの小屋と申しますが、これは聖書の多くの箇所で、「幕屋」と訳されることばです。たとえば、黙示録21章3、4節(477頁)に「見よ~の幕屋が人の間にあって、~が人と共に住み、人は~の民となる。~は自ら人と共にいて、その~となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と記されます。~の幕屋は~の終末的臨在の場であり、そこで世界の苦悩が究極的に解決され、絶対的な慰めが来るのだと預言されています。

 三つの幕屋を立てようとの提唱は、キリストの栄光の臨在を地上的な形で固定し、世界のいっさいの問題の解決の中心点をここに設けようということです。はじめは高い山の上に三つの幕屋があるだけに過ぎません。けれども、この聖地の礼拝に来る人を通じて、感化は四方に広がり、キリストの王国の前線はどんどん伸びて行く、そしてついに全世界がメシヤの栄光のうちに包まれるであろう、そのように考えているということです。

 わたしたちもこの考えに引かれることがあります。いろいろな人生の憂いによって心が衰えたとき、わたしたちは、この地上に神の幕屋のおかれた聖なる山があれば、飛んででも行きたいという気持ちになるのです。けれども、やはりこれは間違いであります。キリストにおいて始まる神の国を、地上的に考え、地上に固定し、十字架を無視したその定着を求めてはならないのです。

 この出来事がどうして起こったのかそのそもそもの初めは、これは、ペトロの信仰告白に対する神の応答ということであります。ペテロの信仰告白に対して神が大きく頷かれたということです。ペトロの信仰告白に対して神は栄光をもって答えられたのです。それで十分なのではないでしょうか。神がこのように答えてくださったことによって、わたしたちは更に次の信仰の飛躍に移って行くのです。つまり「イエスはキリストである」という信仰から「キリストは十字架の主である」との信仰への飛躍です。

 「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした」(七節)モーセがシナイの山に昇って十戒を授けられたときのことを思い起こします。出エジプト記19章16節以下、24章15節以下を読み返してみましょう。すでにイスラエル人は昼は雲の柱、夜は火の柱によって荒野を導かれて来たのですが、雲と火は神の大いなる現臨を意味しておりました。その雲が今やシナイの山全体を包んだのです。

 神の存在は人の目には見えません。人は見てはならないのです。それですから神は何かをもって栄光を覆いたまいます。たとえば、ケルピムの翼や、雲や、火や、煙が用いられます。そのような覆いのあるところ、そこにこそ栄光があると言ってよいのです。イエスが栄光の姿をもってあらわれたもうのですが、それに続いて、父なる神が栄光をもって、但しその栄光を雲に包んで、弟子たちの前に立たれました。そして言われます。「これはわたしの愛する子である」。1章11節、主イエスのバプテスマに際して聞かれたのと全く同じ御声です。あのときにはイエス御自身が聞かれ、次にイエスに洗礼を施したヨハネが聞きました。この山の上でその御声は三人の弟子に向けられました。

 「わたしの愛する子」とはいうまでもなく、父なる神と御子とのかけがえのない関係を示します。すべて神を信じる者は、「神の子」とされますが、本来「神の子」であられるのはイエス・キリストおひとりです。これまで、罪人たちとの交わりに生き、人間の側についておられたイエスの、もう一つの面、神の側に、神の本質をもって立たれる主イエスが啓示されています。

 そして、「これに聞け」と言われます。イスラエルの民はモーセに聞いて来ました。神が火と、雲と、雲の中からの大音声とをもって、モーセが神から使命を与えられて立てられたことを証しし、また律法に聞くようにと命じられました。イスラエルの民はまた預言者たちに聞いて来ましたが、今、神は、モーセよりも、エリヤよりも、その愛する御子に聞け、と命令されます。それを、モーセとエリヤのいる前で言われるのです。律法と預言者よりも、主イエスの福音に聞け、と言われます。ローマ書の始めに、パウロは自ら宣べ伝える福音について最小限の言葉をもって説明し、これが「律法と預言者によって証しされ、約束された御子に関するものである」と申しました。そのように律法と預言者を代表して、モーセとエリヤが証人の位置についた前で、神は御子から聞けと命じておられます。

 輝かしいひとときは、瞬く間に終わりました。雲も、モーセとエリヤもなくなり、イエスの、えもいわれぬ光明も消え去りました。天国のまばゆさも、神の現臨の恍惚境も過ぎゆきました。後に残ったものは空虚な思いや、もの悲しさではなく、イエスが一緒におられたのです。しかし、主イエスはもはや真っ白な輝きの衣を纏ってはおられません。主イエスは土埃(つちぼこり)と汗にまみれておられます。主イエスの顔には憂いが刻まれております。しかし弟子たちにはその主イエス一人がいてくださるだけで十分でした。

 今朝わたしたちはこの礼拝に於いて弟子たちと共に主イエスの栄光の姿を経験しました。喜びは絶頂に達し、わたしたちは世のことも己が身をも忘れて、主との交わりの時を持ちました。その時間は終わろうとしています。わたしたちはもう一度、栄光のまばゆさと余りにもかけ離れた現実の中に戻されます。主の現臨のもとで味わった喜びは一場の夢だったのでしょうか。日曜毎にわたしたちは夢を追っているのでしょうか。そうではなく、イエスがなお共にいてくださるのです。主イエスは「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」とヨハネ福音書一四章一八節で言われる御方です。それだけですでに恵みは足りているのです。

 主と共なる信仰の歩みの中で、パウロは言います。Uコリント3章18節
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてゆきます。これは主の霊の働きによることです」。わたしたちも、厳しい現実の中で十字架への道を歩み出して行くのですが、祈りの内に主の霊を受けて、顔を輝かしながら信仰の歩みを続けて行きたいと思います。

 お祈りいたします。

 教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる神さま。

 本日の主日礼拝に、わたしたちを日常性の中から栄光の山上へとお導きくださり、主が栄光のメシヤとしての道を歩むことがあなたの御心ではなくて、苦難を通して復活の栄光にいたることこそがあなたの御心であることを明らかに示してくださったことを感謝いたします。この山の上での主イエスの栄光の姿が、主に従い歩もうとするわたしたちの希望の星となり、十字架の苦難を通って復活の栄光へと至る主の救い主としての道が、この世の罪の現実を、永遠の命の輝きに変える贖いの福音であることを、改めてお示しくださいました。どうか、わたしたちを、この福音に生かされ、歩む者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。    アーメン


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「注がれる癒やしの力」マルコ1:29−39
2024.2.4 大宮 陸孝 牧師
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコによる福音書1:31)
 キリスト教信仰について、初めて聴く人々に向かって、「主イエスはこんなことをされたのです。こんなことを言われたのです」と読み聞かせたのが、「マルコによる福音書」です。そこでのこの福音の内容を聞きながら、永遠の神が自分を温かく包んでいてくださると言うことを、多くの人が知りました。そしてこの福音書を読むとき、これは、歴史的な記録でもなく、その対象がイスラエル人に限定されているのでもなく、今生きている人たち、イスラエル人でも、ローマ人でも、世界の誰でもが、主イエスの物語を聞いて、心を永遠の神に向けるように記されているのです。しかも、神からの良いおとずれの宣言がここになされているのですから、この福音書をわたしたちが読むとき、あるいは聞くとき、永遠の神からのあなた自身への素晴らしいニュースという観点で、受けとめることが大切なのです。

 イエスが良いおとずれの宣言を始められ、四人の弟子を招いて、最初の伝道の地、カファルナウムに行かれました。そして、ユダヤ人会堂で話をされたところ、イエスの教えが新しい権威ある教えとして受けとめられたというのが、この前までに語られたところです。そこからいよいよ主イエスが具体的にどのような業をされたのかというのが、本日の日課のところです。

 安息日の礼拝のあと、一日の間に次々と起こったことが記されます。表現に生き生きとしたものが感じられますのは、この記録がシモン・ペトロの口から語られたもので、シモンが印象深くこの場面を覚えていたからに違いありません。この朝、礼拝に於いて、イエスは主であられました。しかも礼拝が終わって、礼拝の主は帰り道の主であり、家庭の主でもあられました。

 わたしたちは、とにもかくにも、日曜日の礼拝においてイエスが主であることを確認しなければなりません。主の言葉が語られるのですから。・・・ですが、イエス・キリストの主権の実感を、それ以後まで毎日持続することはなかなか困難なことのように思えます。日曜日の朝のうちはキリストの主権に触れてひきしめられ、午後にはそれから開放されてくつろいだ気分で余暇を楽しむ、ということになるのではないでしょうか。そして、日曜日が過ぎて日ごとの日常生活が再開されると、そこを支配している権威はもはやキリストではなく、日ごと夜ごとそれに追いまくられ、やっと次の日曜日の朝、キリストこそ主だったということを想い出すという生活になるのではないでしょうか。そのような生活に陥りやすいわたしたちは、今、礼拝からイエスと一緒に家に帰って行くシモンたちを見るのです。わたしたち1人1人も、そのようにして礼拝から帰って行く道行きをイエスが同行しておられるということを忘れてはなりません。

 イエスはシモンの家でも主であられました。主であられるがゆえに、イエスはこの家の中の一切に対する主権をとられます。イエスの許したまわないことは、何一つ起こりません。シモンのしゅうとめが熱病で床についていました。シモンは妻の母を引き取っていました。シモン・ペトロは終生この妻を愛したらしく、伝道旅行にも妻を伴ったことが、第一コリント9章5節に記されております。これは、すべてを捨てていない態度ではありません。夫婦が組みとなって一切をあげて主に仕えているということです。

 この義母をイエスが癒してくださいました。病気の癒やしがどういう意味を持つのかが大事なことです。これは先にあった悪霊を追い払うことと同じではありません。悪霊はキリストの支配にさからうもう一つの支配の力です。しかし、病気は悪霊の仕業でなく災いです。その災いの原因は人の罪にあるとされます。すべての病人を罪人としてみなすように教えられるのではありません。ヨブ記一つを例に引いても、そう簡単に割り切れないことが明らかです。ですが、今は一応簡単にしておきましょう。そのように押さえることによって、わたしたちはここから「罪を赦すイエスの御業」を読み取ることができます。

 イエスは病人に近寄って行かれました。悪霊がこの女性についていたならば、悪霊どもは激しく抵抗し、結局逃げて行きます。しかし、病気は逃げ去りません。つまり罪の支配は去りません。ちょうど、炭火を近づければ氷がとけ去るように、キリストの接近によって悪霊の支配は失せ去るのです。それは自動的に起こるのです。だが、罪の支配はキリストが接近しても氷解はしません。それは人格的な事柄です。そこには、イエスの接近とその輻射熱によっても融解しない何ものかがあるのです。

 イエスもそれを知っておられます。それですから、イエスはその存在をあげて近寄りたもうだけではなく、イエスは手を差し伸べ、その手を取って起こされたのです。手を差し伸べるとは、第一に和解を意味します。単に支配者としてではなく、和解をもたらす者として近づいて行かれるのです。その時に罪の支配の力が崩れました。主はいつでも手を差し伸べて病人を起こしたもうのではありませんが、でも多くの場合、主は手を差し伸べられるのです。主は病める者の外に立つことなく、病める者の内面にかかわっておいでになります。

 この一日の記録を閉じるところで、マタイはマルコと違った注釈を添えました。8:17ですが(新約14頁)、「彼はわたしたちのわずらいを負い、わたしたちの病を担った」とのイザヤの預言がこうして成就した、と語るのです。病人を癒すイエスの姿を力あるメシアの姿としては描かずにむしろ苦難の僕として描きました。つまり、罪の赦しを与える和解者の御姿です。「権威ある者」として人を力で屈服させる存在ではなく、己を低くして僕の形をとられたイエスが近づきたもうたとき、わたしたちは罪赦された者の自由のうちに生き始めるのです。

 そのようなイエスが、今もわたしたちに近づいておられるのです。今もわたしたちに手を差し伸べて、わたしたちの手を取って起こされるのです。わたしたちは罪の赦しの理解に止まっていてはなりません。主イエスの御手がわたしたちの手を取られるとき、罪を赦される~さまの存在を実感し、そしてわたしたちの内に~さまの愛と憐れみの恵みが充溢するのです。

 熱が引いて、しゅうとめはイエスの一行をもてなしました。奉仕をしたのです。病気の間、したくてもできなかったことを、癒されたからしたのです。極めて自然なことです。しかし、しばしば、病気の癒えていない人が奉仕を始めます。奉仕が大事だといって、病人を働かせることが、まれではありますがありえます。罪の赦しを確かにとらえていない人が、「奉仕」のかけ声で駆り出されるのです。奉仕する満足感は、ひとときは罪の赦しの確信がないことを紛らわせるでしょうけれども、それは一時しか持続しません。まず、罪の赦しをしっかりと受けとめることが大切です。主は御手を差し伸べ給います。わたしたちは、わたしたちの手をイエスの赦しの手に委ねましょう。わたしたちの手は力弱くとも、主イエスがしっかりとらえてくださるからです。

 夕暮れになり、日が沈みました。安息日は終わりました。安息日のうちは病人を運ぶこともひかえていた人々は一時にシモンの家の門口に集まりました。もう夜なのです。一日は終わったのです。休むときなのです。しかしキリストは休みたまいません。イエスは癒すべき人が1人でもいる間はお休みになりません。朝の光の中でも、夜の闇の中でも、イエスは癒やしの主であられます。

 お祈りいたします。

 教会の頭なる主イエスキリストの父なる神さま。

 きょうもあなたの御名をほめ讃える喜びを新たにすることがゆるされて感謝いたします。わたしたちは、体も心もぼろぼろになり、あなたの癒やしを必要としております。どうか、主の憐れみの御手をわたしたちに差し伸べてくださり、力ある御言葉を与えて、わたしたちを癒やしてください。また、どうかわたしたちの教会が、癒やしの主の御体として、癒やしの共同体としての使命を果たすことができますように、しもべとなってわたしたちの中においでになった主のお姿を仰がせてください。わたしたちの中で病んでいます方々を特にあなたが顧みて、癒やしの恵みを与えてください。本日わたしたちはこの礼拝の後で教会の年次総会を持とうとしていますが、どうか、主の体にふさわしい総会を持ち、決意をあらたにしてあなたの御栄えのために前進するよき計画が与えられますように祈ります。

 わたしたちの癒やしの主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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